第七一話 「晴れ舞台へ」
昭和15年10月9日。
12年ぶりとなる特別観艦式をいよいよ明後日に控えたその日、既に横浜港沖合いに特設された横約4キロメートル、縦約3キロメートルの式場に錨を下ろしている参加艦艇では、明日の予行を控えて最後の大掃除と艦隊の化粧直しが例外なく行われていた。
6列の横隊を組んで波間に浮かぶ艦艇の中には、東京高等商船学校の練習船である大成丸、中央気象台の気象観測船である凌風丸という軍艦旗を掲げていない船舶も混じっているが、栄えある帝国海軍の観艦式に呼んでもらえた誉れと責任はこの船舶においても同様。だからこの二隻の乗組員達は、周りにたくさんいる水兵さんと変わらぬくらいに忙しなく船体のあちこちを磨いている。
もちろんそれは帝国海軍艦艇にあっては言わずもがな。何を隠そう明後日の式本番では、その場にいる全ての海軍軍人を束ねる大元帥陛下が忝くもその帯刀をここにお進めあそばされるのだ。その際、例え塵の一つと言えども汚れている艦を陛下の恩眼に映してはいけない。栄えある陛下の赤子は常に美しくなければならないのだ。
いつもは威張り散らしている古参の兵や下士官もこの時ばかりは皆一様にソーフやデッキブラシを持って甲板の上を右往左往し、普段から彼等の理不尽な指示や制裁に鬱憤を募らせる水兵さん達も今日の重労働は苦にならない。これから明後日までずっと停泊である事からお仕事が無い機関科や航海科の乗組員も総出で手伝い、98隻の参加艦艇はついさっき船台から滑り落ちたばかりかと思わせる程にその艦体を磨き上げていった。
しかしそんな中、観艦式の式場となる波間に浮かぶ横隊の内で最も南側にある番外列では、他の第一列から第五列に順ずるような軍艦旗の整列は見受けられなかった。列の一番右端に海軍籍ではない二隻の船が錨を下ろすばかりで、そこにいる筈の帝国海軍艦艇の姿はひとつも見当たらないのである。
ただそれは計画通りの事であり、その場にいる乗組員も艦魂達も番外列に並ぶ艦がどこに行ったかを知っているので取り乱す様子は無い。僅かに陸地の方に目をやれば、そこに並ぶ筈の艦影がちゃんとあるのだ。
実は番外列の艦艇達には他の列の参加艦艇とは違い、ある特別な役割が与えられている。それは番外列に名を連ねる殆どの艦艇が、帝国海軍の中では重要な補助艦艇とされる特務艦という艦種に類別されている事が大きな理由である。戦闘艦艇のように窮屈な構造をしていない艦体を持つ彼女達特務艦、実は今回の観艦式においては一般市民を乗せての見学をさせてあげる拝謁艦に選ばれているのだった。
そして、明石艦はこの番外列に配置されている艦艇であった。
明石艦は式場を見渡せる山下公園近くの本牧地区にある繋留桟橋にて、同じく番外列を構成し、整列位置が割と近い潜水母艦の迅鯨艦と供にその艦影を浮かべていた。例に漏れずに乗組員総出での化粧治しで大忙しの明石艦は、艦首から艦尾に至る甲板のあちこちから賑やかな声が発せられている。
『甲板洗え、解れ!』
『『『はい!』』』
『回れー! 回れー!』
甲板下士官の号令に従い、半袖の裸足という10月とは思えぬ格好をした水兵がソーフ片手に四つん這いになって甲板を磨き、その中でも少し偉い水兵はデッキブラシで甲板をこする。膝をつけずに中腰の姿勢で甲板を拭く下っ端の水兵はすぐに疲労との戦いに陥り、涼しい顔で横浜の潮風を浴びるお偉方の横で歯を食い縛りながらの労働となる。もちろん彼等が見ていないからといって手抜きをする事は海軍独特の精神注入棒を伴った罰直の格好の口実になる為、下っ端の若い水兵達は身体から湯気を昇らせる程に汗だくになってお掃除に励む。
もっともそのお掃除は艦長を始めとする乗組み士官にもちゃんと割り振られてあり、各分隊や部署の持ち場では乗組員の全てが階級の上下に関係なく清掃活動に汗を流していた。
それは艦魂にあっても同様で、明石もまた自身の分身へのお掃除に文字通り人知れず励んでいた。
乗組員の人達が大概の部分は綺麗にしてくれるので、明石は艦内の小さめの船倉の整理整頓と拭き掃除を行う事に決める。1万トン近い明石の分身は海軍艦艇の中ではそこそこに大きな艦で、いくら艦魂といえども一人で掃除するは結構大変な物だ。こういう時は幾分窮屈ながらもすぐに掃除が終わりそうな小さい艦体を分身とする、霞や霰、雪風といった友人達の事を明石は羨ましく思う。もちろん狭いから自身の住まう部屋を倉庫や物置とせねばならず、日常から神通という恐怖の鬼教官にシゴかれている彼女達の境遇も勘定すると一概に羨む事のできる代物ではないのかも知れないが、一蓮托生である自身の乗組員と同じ分量でお掃除に励める事を明石は素直に望む。その根底には乗組員の一人であった相方との思い出があるのは言うまでも無く、明石は同じ綺麗好きな性格を持ってた相方の事をちょっと思い出しながらソーフを握った手を船倉の隔壁に押し付ける。
やっぱ、会っとけば良かったかな・・・?
決して口にこ出そうとは考えなかったが、脳裏に過ぎるその言葉で明石は緩く唇を噛む。すると今までも微塵も感じなかった肩の凝りがなんだか無性に気になりだし、明石は隔壁から腕を戻すと大きく息を吐いて、ソーフを持ち替えながら拳を肩の上で弾ませた。
『ふぅ〜〜ん〜〜・・・。』
艦内に静かに木霊する聞き慣れた機関音と同じテンポで肩を叩き、それに併せて明石の首の後ろで纏めた髪がブラブラと揺れる。明石はこの時に生まれて初めて肩が凝るという感覚を覚えたが、思っていたような清々しさも無ければ僅かに曇る心の空色も晴れるような事は無くてちょっとがっかりする。横須賀を離れた事で胸の中に渦巻く小さな後悔の念も後押しし、口をへの字にして首を捻る明石。
だが彼女はすぐに脱力していた首を据えると、小さく溜め息をして再び灰色の隔壁をソーフで拭き始める。既に相方がすぐ近くにいた横須賀を旅立ち、いま明石の分身が錨を下ろしているのは、数年に一度の海軍のお祭りである観艦式の会場となっている横浜の波間。今更になって会おうとしたって連絡の取り様がないし、マストに登って両目の前に添えた双眼鏡を振り回してみても砲術学校の校舎を見る事は出来ないのだ。
いよいよに迫った観艦式を前にジタバタするのは止めようと明石は心に決めるが、それはただ単に自身の今という瞬間の境遇を鑑みて相方への恋慕の念に諦めをつけただけの事ではない。観艦式に際して一同に会した事を祝った明石を含む艦魂達の宴にて、彼女はこの観艦式では海軍艦艇としての立派な姿を何としても保とうと決心するに及んだ出来事があったからだ。
疲労感という声の無い悲鳴を静かに放つ肩や腕にぐっと力を込め、身体全体を屈伸させるようにして隔壁のお掃除をしながら、明石はその時の記憶をぼんやりと脳裏のキャンバスに描き始める。
数日前の宴。
それは明石にとっては、知識の面でも絆の面でも色んな事を学べた場所。とても有意義な時間で、初めて顔を合わすその場に同席した艦魂達に挨拶をして回るのも、生来が人見知り等とは無縁の明石にとっては楽しい物だった。
以前に包帯の除去処置をしてあげた整形美人にして今回の観艦式では御召艦の大役を仰せつかった比叡は、丸坊主だった頭もそこそこに髪が伸びて機嫌も良いのか笑顔が眩しい。艦齢20年以上とは思えぬ若々しい容姿は宴の場でも注目の的で、実の姉妹である金剛や榛名は『隣に立つな!』と邪険にして彼女を追い回す。もっともその理由は、若々しい比叡に並ばれると実の姉妹である自分達の老け具合が目立つからという物で、当の比叡にしても若干の嫌味を込めて隣に立とうとしていた。明石や神通の世代の艦魂から見れば恐怖の代名詞である金剛も、比叡にとっては顔は似ていなくとも同じ金剛型戦艦という姉妹。からかうのも慣れた物で、金剛が腕を伸ばしてくる前にひらりと身を返して姉との距離を置く。決して口にこそ出せないが比叡と金剛の様子は幼い姉妹のじゃれあいその物で、既に30代も半ばを過ぎた金剛と明石とドッコイの20代になったばかりのような顔の比叡はまさにデコボココンビ。その身長差も比叡の小柄な体格で一層引き立てられており、第一種軍装を着ているのが不釣合いな程に滑稽に見えるのだった。
そしてこんな二人のやりとりで大笑いになるのは明石も含めた室内にいる全員で、宴の場にはまるで照射灯に照らされたかのような明るさが宿る。あるのは笑顔と笑い声ばかりだ。
明石はこの和やかな間隙を生かして諸先輩方の脇に歩み寄り、新たに海軍に加わった者としての挨拶をしてまわる。大変に珍しい工作艦である彼女の事を仲間達も快く受け入れてくれ、中でも先程まで長門をお説教にて血祭りに上げていた常盤は明石を見て驚きも混じった声を掛けてくれた。
『わ〜〜、久々にこの顔を見たなぁ。なははは、先代にそっくりだ。』
朝日や富士と同じ世代の常盤はそう言うと白髪混じりの赤毛の髪を揺らして明石に顔を近づけ、透き通るような青い瞳に後輩の顔を映して微笑む。
聞けば明石の先代とは日露戦役の際には同じ第二艦隊を組んだ仲で、蔚山沖や日本海海戦はもちろん、なんと第一次世界大戦の際には同じ戦隊に所属して供に青島攻略作戦にも参加したのだという。
常盤は40代の外見に相応しい落ち着きを伴った風貌を持つが、それでも先程の長門へのお説教の様にダメな事はダメだとハッキリ叱る等、分別と態度をしっかり弁えた人物。言葉遣いには多少砕けた所もあって明石にとっては話しやすい先輩であった。師匠と同じく英国生まれである事からその顔つきもまた彫りの深い西洋人の顔で、この点もまた明石にとっては師匠との付き合いから慣れていた部分だった。
ただ顔つきが自身の記憶にある物だから話しやすいというのは、明石だけではなく常盤にとっても同じだ。まして常盤の場合、記憶に残る同僚の顔はいま目の前にある新米艦魂の顔とまったく同じであった為、明石の持つ感覚よりも常盤のそれは更に鮮明で大きい物である。
故に常盤は慣れた手つきで明石の肩に手を乗せ、供に実弾の飛び交う日本海を駆けた仲間を懐かしみながら声を掛けた。
『テーブルマナーが上手く出来ない所は、あんたの先代も苦労しててねぇ。あの頃の帝国海軍は脚気防止の為に一日一食は決まって麺麭が出たんだけど、日本生まれだった先代は米が食べれないのをいつも愚痴ってたんだよ。なははは。私達、欧米生まれの艦魂にはテーブルマナーは当たり前の物だったけど、明石はいっつも覚えるのに難しい顔をしていたなぁ。』
常盤が語ったのは思い出に残る友人のお話。しかしどうも先代は明石と同じく色々と至らぬ部分を持っていたらしく、宴の開幕でテーブルマナーの無知さ加減を曝け出して笑い者になってしまった明石にはなんだか他人事の様には聞えない。優しい眼差しを伴う常盤の笑みには眼前の後輩を馬鹿にするような腹づもりは感じられないが、明石は再び思い起こす自分の失態で赤面した顔を僅かに足元へと向ける。
『いつだったかなあ。確か日露戦役が始まる前だったと思うけど、おやつ代わりに明石がハードビスケットを食べようとした事があったんだよ。でもさっきも言った通り明石はあんまり麺麭を食べたがらない艦魂だったから、きっと食べる前に叩くっていうハードビスケットの食べ方が解んなかったんだね。口に入れる寸前にビスケットからコクゾウムシが出てきて泡吹いて倒れてたっけねえ。懐かしいなあ、なははは!』
嬉しそうな常盤が何度も口にする自分の名は先代の事を示しているのは解っているが、これまた同じように先代が無知故の失敗談を持っていたという常盤の言葉に明石は恥ずかしさの余り顔の赤い色合いを更に増す。周りにてそれとなく明石と常盤の会話を耳に入れていた者達もどっと笑い出し、二代揃っての不甲斐なさを明石は大いに思い知らされてしまった。関西弁で言うところの「あほぼん」という奴だ。
もっとも常盤とて長く生きてきた身ゆえに、一方的にまだまだ若い後輩を嘲り笑うつもりは無い。少し荒い感じの言葉遣いながらも優しげな丸い目にもそれは表されており、常盤は音も無く明石の肩に手を乗せると口を開く。それは地に落ちかけた宴の場の中での明石の立場を、一気に引き上げてくれる物だった。
『なはは。でも、明石はよく似たね。あんたの先代も自分の足りない所を常に直そうとしてたし、おまけにまだまだ日本生まれの艦魂が少ない中でよく頑張ってたんだよ。浅間や浪速の姉さんも含んで、私ら巡洋艦の艦魂の間では一目も二目も置かれてたんだよ。あんたの先代はね。』
観艦式参加艦艇の中でも最も古参な分身を持つ常盤の声が響くや、明石は赤い色合いをみるみる内に消し始めた顔を上げる。かつて同じ名前を頂いた者と自分は随分と似ているらしいが、それ故にこの常盤という大先輩が長門や金剛がいる前で先代の事を褒めてくれるのは明石にとっては嬉しかった。
『一目も二目も・・・?』
『ああ。特に地中海派遣で艦隊旗艦を務めた時の活躍は語り草になってね。しばらくしてから出雲があんたの先代の後任で地中海に派遣されたんだけど、日本から遠く離れて海の特性も全然違うのにどうやったらあんなに駆逐隊の連中を纏めれるんだ、って、あの出雲が舌を巻いてたくらいに優秀な艦魂だった。部隊としてだけど、私の生まれ故郷である英国の国王陛下から勲章まで貰ってるんだよ。』
『『『おおお〜〜・・・。』』』
常盤の口から語られる初代明石艦の功績に、宴の場のあちこちからは一斉にどよめきが発せられる。長門や陸奥といったお偉方の殆どは当時の事を知っているらしく、常盤の言葉を噛み締めるようにして小さく何度も頷いており、静かに騒いでいるのは愛宕や那珂、そして普段から驚きの表情というのを滅多に顔に出さない神通と、まだ誕生していなかった為に当時の事を知らない艦魂達であった。
もちろん大先輩である常盤が語ったという事にもそのどよめきの理由は幾分はあるのだが、神通や愛宕達の中では常盤が放った声の中に出雲という艦魂の名があった事の方が理由としてはちょっと大きい。
日露戦役にて蔚山沖、対馬沖と縦横無尽の活躍をした第二艦隊の旗艦を務めていた事で名を馳せる出雲は、現代においては連合艦隊と供に帝国海軍の双璧を成す支那方面艦隊を率いる艦魂社会の大御所で、艦齢40年以上にも関わらずに立場としても連合艦隊旗艦の長門とは同格という人物。湧くが如き智謀と屈指の戦上手ぶりで有名にして、明石や神通の上司に当たる四戦隊の高雄が艦魂としての教えを請いだお師匠様がこの出雲であった。
蛇足ながら高雄の冗談好きで陽気な人柄はここに源流がある。
さらに神通にとってもまた、出雲という先輩は畏敬の念を人並み以上に傾けている人物である。なぜなら実はこの出雲、神通が率いる帝国海軍最強の部隊、第二水雷戦隊において、第二代戦隊長として務めた経歴を持っているのである。
まさに文武両道を地で行き、その実績もまた他の追随を許さぬ希代の天才艦魂。それが出雲なのだ。
そんな誰もに認められている出雲が評価したとくれば、誇り高い名を受け継いだ第二代明石にもハクがつくという物。佐官、将官の襟章をつけている艦魂だってそこそこに多いこの場でそれが示されたとくれば尚更で、明石は既にさっきの恥じらいも完全に忘れて表情を明るくさせる。わざわざ自分を気遣って常盤が差し出してくれたコクテールの味もいつになく美味い。すっかりいつもの笑みを取り戻した明石は無意識に胸を張り、背後や周囲から得られる尊敬の眼差しに酔いしれる。
再び発せられる大先輩の言葉もまた、明石の浮上した心を天に浮き上がらせた。
『あんたの先代は私ら巡洋艦の誇りだったなぁ。敷島さんと本気で殴り合いまでするようなトコもあって、仕えてた駆逐艦の子らからも特に信頼されてたよ。だからこそ朝日さんもあれだけ慕ってたんだろうね。』
『あ、はい! 私、朝日さんに教えを請いだんです!』
『おお。なんだ、そうなのかぁ。朝日さんと先代は仲が良かったから喜んでたろうなぁ。なはは。』
二代揃って明石と朝日が仲睦まじい間柄である事は、明石だけでなく常盤の心をも明るくさせる。常盤の思い出の中にしかいない明石の先代は十年前に標的艦として処分されているのだが、見てくれも物言いも、そして朝日との縁を持っている点でもそっくりな明石に、常盤は未だに往年の友人が存命であるかのような錯覚を起こす。それくらい眼前の若者、明石は先代とよく似ていたのだ。
そして些か老いも見てと取れるも極めて元気な身体を持つ常盤は、明石の肩を何度か叩いて笑みを合わすと手近にて給仕に励んでいた霞に向かって声を放つ。
『給仕ちゃん。ウィスキーのグラスを持ってきてちょうだい。明石はどう? コクテールは止めてワインでも飲んでみるかい?』
相当に機嫌が良いのか、常盤は容姿に滲み出る老いを微塵も感じさせぬような声色で言った。もっとも機嫌が良いのは今しがた大先輩に褒められたばかりの明石も同じで、そこそこにお酒には自信もあった彼女は常盤の声色に合わせるようにして声を放つ。
『よおし、私もウィスキー!』
『お、話せるねえ、明石。やっぱお酒はウィスキーよ!』
師匠とは違って陽気で活発な常盤とは、勢いの波長も明石とは良く合う。お互いに何気ない動作や息遣いに大声で笑い出し、やがて霞がトレイに乗せて運んできたグラスをそれぞれが手に取るや、歳の差も顔つきもまるで違う奇妙なコンビは乾杯を始める。
『『か〜んぱ〜い!』』
二人の笑い上戸な所もまたお酒の勢いをよく引き立て、明石と常盤はわーわーと子供の様に声を上げながら琥珀色のグラスを唇に添えて傾けた。その角度はすっかり二人のはしゃぐ心に火が着いている事もあって、喉を一度鳴らした程で既に鋭角となっている。
だが二人がグラスの中身を飲み干して大きく息を吐いた刹那、宴の場には少しかすれた感のある声が響き、騒がしかった二人の心は瞬時に鎮められた。
『常盤。その飲み方はやめなさいと何度も言ってるでしょう。』
ゆっくりとした口調のその声は今まで宴の場では発せられていない声色であったが、明石はすぐさまその声の主を明確に断定する。伝わりの良い弦楽器のような音色と供に荘厳さを伴ったその声を、彼女はつい先日に間近で耳にしていたからだった。
室内にいた者が一斉に直立不動の姿勢を取って視線を集める声の発信地。それは通路から部屋へと繋がるドアの前で、そこにはこの宴に出された数々の料理を作ってくれた春日を従える富士がいた。真っ白な長い髪を肩口から流し、部屋の電灯の光りを時折反射して輝く銀縁のめがねに右手をかざした富士は、ちょっとだけ細めた若草色の瞳を明石と常盤の方に向けてじっと見つめてくる。白い傷病衣を身に纏って車椅子に腰掛けている彼女のその姿は明石が先日会った際と全く同じであるのだが、再び彼女が唇から漏らした声には僅かに憤りの色合いが滲んでいる。
『貴女は今でもご奉公に励んでいる身で、ついこの間まで南洋に赴いていたのでしょう? いわば貴女にとっては戦地の筈よ。そして私達がかつて戦地にいた頃、そんなお酒の飲み方が許されていた事はないわよ。』
語りながら富士は左手を僅かに上げて背後の春日へ合図を送り、春日に押された富士の乗る車椅子は鉄の軋む音を放って常盤の下へと近寄ってくる。先程までは室内においても最年長者だった常盤も、この富士の前では彼女の言う「あの子」どまりの立場。おまけに自身への指摘の言葉を口にして車椅子の動揺にも従う事無くまじまじと視線を向けてくる富士にかかっては、さしもの常盤も表情から完全に笑みを消してしまう。
『ぐあ・・・、ふ、富士先輩・・・。』
『ぐあ、じゃないわよ。まったく、もう。』
呆れた物言いをする富士と、彼女が腰掛ける車椅子を押して近寄ってくる春日。富士と同様に春日もまた常盤とは年代的に近く、供に波高しの日本海にて敵弾を潜り抜けた戦友である事は周知の事。こうして顔を合わせるのは数年ぶりであったりもするが、そんな貴重な出会いにあっても至らぬ所を容赦なく指摘してくる先輩が、常盤にとっての富士という艦魂。決して頭ごなしに怒鳴りつける様子は持たないが、富士の声が持つ怒りの色合いと恐怖は30数年以上前とは少しも違ってはいなかった。
『明石。』
『あ、は、はい。』
『古来よりこの日本という国で戦う事を生業とした武士と呼ばれる人達は、戦の前にお酒を含む事を習慣としていたわ。もちろん今でもね。でも、このあいだ話した日本海海戦の時もそうだったけど、実際に戦場に立つ際、彼等は口の中に指を突っ込み、舌の奥を強く押してお酒を吐いてから戦った物よ。何故かは解るわね?』
『うぅ・・・、は、はいぃ・・・。』
常盤に続いてすっかり酔いが冷めた明石は、富士の問いかけを受けて無尽蔵にお酒を飲まんとする勢いであったさっきまでの自分の姿を恥じる。
訓練始めや新年を迎えた際など、帝国海軍では必ずお酒が振舞われる物でそれは実際の戦場においても例外ではない。ある種の神事にも通ずる物としてお酒を捕らえている日本独特の文化もあり、実際に春日や常盤、富士が激烈な戦闘を体験した日本海海戦時には合戦用意の号令と供に一杯のお酒が乗組員達に振舞われ、それを持ち場にある艦砲等の設備にも注いで願掛けをした程であった。
だがそれは決して「酔って恐怖を忘れた状態で命のやりとりをしろ。」という意味合いではなく、ただ単に明るい前途を期待してげんを担いでいるだけに過ぎない。まして酔いという物は正常な判断、行動を遮る事は往々にしてある物であるから、戦場に赴く事を生業とする者達は戦の直前に酒を吐き出す事を常識としていたのである。それは富士が戦場へと赴いた明治の末期は元より、古くは室町時代にまでも遡る日本人の叡智の一つで、彼女は自身を含めた帝国海軍の艦魂にとってもそれは他人事ではないと考えている。
そして身体に酔いを残させないそもそもの策として、富士は常日頃からお酒を気の向くままに飲まない様にするべきだと考えており、常盤と明石に掛けた言葉はここから来た物であった。
『私は別にお酒を飲むなとも言ってないし、酔って楽しむ事を悪い事だと思っている訳でもないの。私だって友人と思う存分お酒を楽しんだ事はあるわ。でも私達が戦場に赴く時というのは、この国の舵取りにも関わる重要な時。そこでは無駄な勢いとか算の無い勇猛さは全くの無用、冷静にして理論的裏打ちがなされた判断と行動のみが必要とされるのよ。』
戦の根本的原則を語る富士だが、真珠色の生地で出来た着物を模した傷病衣に車椅子という特徴的なその姿で軍装を身に纏った後輩達に教えを授ける光景はちょっと変な感じもある。真っ白な長い御髪に幾重にも刻まれたしわを伴う彼女の顔からは既に若さという言葉の欠片も見つけることが出来ず、金剛や神通のような荒々しい性格を持っていない事もあって、この時に初めて富士を目にした者にとってはその言葉には些か説得力を感じれないのが正直な所である。
しかし明石や常盤を含めたその場を同じくする大部分の者達は皆、この富士という艦魂とその分身の経歴を程度の差こそあれどおのおのが必ず耳にしており、彼女が放った言葉に一切の疑いを抱かずにしっかりと肝に銘じていた。
36年前に栄えある連合艦隊第一戦隊に属していた彼女の分身は戦艦としては最も大事な主砲に旧式な構造を持っていたにも関わらず、金剛が師匠と仰ぐ敷島を筆頭とした当時最新鋭の敷島型戦艦に劣らない実績を挙げたという殊勲の艦。正面転換や一斉回頭という複雑な艦隊運用の面でも一時として隊列より落伍した事など無く、その上で黄海海戦や日本海海戦では射撃性能が違う三笠艦、朝日艦、敷島艦とも見事に協同しての攻撃を行ってみせている。そしてそんな現実には、艦の命たる富士のそもそもの優秀さもかなり大きく寄与していた。
故に彼女は病弱な感も伴う落ち着いた老婆というその風貌とは似ても似つかない、戦闘艦の艦魂としては帝国海軍でも屈指の戦士として後輩達には名を覚えられており、鬼と渾名を頂く程に気性の激しい金剛や敷島、未だに連合艦隊旗艦と同格の立場を頂いて励んでいる出雲、艦魂としても軍医としても常に明石に道を教えてくれる朝日などが一様に平伏する程の大人物なのである。
『明日、いや1秒後に出撃がかかるかもしれない。それに供えているのが、今の常盤と明石よ。貴女達は常にそんな戦場と紙一重で日常を送っているの。だからいつでも余裕という物を持っていなければならない。例えそれがお酒でもよ。』
『『は〜い・・・。』』
そんな富士が口にする戒めには、さしもの常盤と明石も素直に返事を返す他無い。特に先日初めて会ったばかりの明石と違い、常盤はまだ富士が現役バリバリの帝国海軍一等戦艦として励んでいた頃からの付き合いである。当然、大先輩のおっかなさはよく知っており、これ以上のお叱りを受けたくない常盤はペコペコと頭を下げて自身の失態を詫びた。
ただ、富士は久々に会った古い付き合いの常盤を決して嫌っている訳では無い。無作為に酒を喉へと流し込むのを戒めたのは、富士が戦闘艦の艦魂として生きてきた長い年月の中で身に付けた叡智の余韻。その矛先は富士にとっては新参の明石だろうが、かつて自分がまだ菊の御紋をつけていた頃の仲間だろうが関係ない。
悪い物は悪いし、良い物は良い。
そんな当たり前の事を一貫して自身の価値観とするのが、富士という年老いた艦魂の持つ性格のなのである。
だから彼女は常盤と明石が自身の言葉に反省の念を抱いている様子を緑色の瞳に映すと、すぐにそれまで滲ませていた怒りを声色から消し去る。
『昔から貴女はお酒を飲みすぎなのよ、常盤。まあ、変わってないそんな所が見れて、私としても嬉しいけどね。ふふふ。でももう少し自重という言葉を意識なさい。』
『うひ・・・。富士先輩も変わってないですねぇ・・・。』
頬を掻きながら苦笑いする常盤の前で、富士は後輩の元気さをよく理解して頷きながら笑った。もはや二本の脚で自在に甲板の上を歩く事も出来ぬ姿を富士が持っていようとも、常盤にとっては彼女という艦魂が持つおっかなさは些かも衰えていない様に思え、ちょっと富士の顔色を窺う事に意識を傾けながらそれに応える。明石や長門といった遥かに年代が下の者達が緊張した面持ちで視線を集中させる中、常盤は富士の車椅子を押してきた春日にも挨拶し、3人はこうして無事に合う事が出来た今日という日を祝った。
『みんな、私達の事は気にしなくて良いから、思うように楽しんでちょうだい。』
それまで静かだった室内と視線を一様に向けてくる後輩達に気付いた富士は、室内にいる者達の顔をゆっくりと一瞥しながらそう言った。一応は皆その言葉に従って仲の良い仲間内と声を交え始めてみるも、やはり帝国海軍艦魂社会の長老である富士の存在は大きく、騒ぎ立てるような声は出さずに常盤や春日、富士に対してチラチラと視線を送る。
一方、明石は富士に挨拶こそしたものの、久々に同じ年代の仲間と顔を合わせた先輩方の邪魔をしてはいけないと考え、部屋の隅っこにてまた静かにお酒を飲み始めている神通や那珂のいる方に戻ろうとする。だがさっき常盤も言っていた様に明石は富士達と同じ時代に戦った先代によく似た容姿を持っていた為、富士達は明石さえ良ければ一緒に話に混じって欲しいと願い出てきた。
自身の師匠である朝日以上に威厳と気品を備える富士の願いを断る事など明石にはできない。もっとも富士を始めとした先輩方がとても自分を可愛がってくれている事は明石も理解しており、特に普段から顔を見る機会が得られない練習特務艦である富士や春日との一時はとっても貴重な時間であると考えた明石は喜んで富士達の会話に参加する。
『う〜ん、ほんとにそっくり。なんだか私らだけが老けたみたいだ。』
『おいおい春日、私はまだ老けたとは思ってないよ。これでも昔と同じ20ノットからの速度が出せるんだからね。』
『ふふふ。常盤は日本に来た時から船足と同じように足も速かったのよ、明石。いつだったか、朝日が持ってた敷島のティーカップを壊しちゃって、この子は敷島に散々に追い駆けられてたんだけど、結局はなんとか逃げ切ったのよね。懐かしいわねぇ。』
『あはは。』
『なはは。あの時はヤバかったですよぉ。何されるか解った物じゃなかったからなぁ。ゴメンて言っても聞く耳持たずだしぃ。』
お互いの近況も話さずに富士達が笑み伴って声に変えるのは、今から30数年以上昔の思い出。話の輪に混じる明石はその思い出を共有していないが、それは楽しそうに笑い合う3人の先輩達と一緒に明石も笑う。可笑しかった記憶が強く印象に残るのは誰しも同じで、常盤や春日が次々に話す昔話を、富士は明石に注釈を与えてやりながら楽しんだ。
特に常盤はもう既にそこそこのお酒を飲んでいる為か、尊敬する先輩と苦楽を供にした仲間との会話にご満悦となり、たまたま近くにいた給仕の者に対してお酒と食べ物を見繕ってくるように頼む。明石はそんな常盤にまたもや富士の静かなお叱りが飛ぶかと心配するが、同じ時代の同じ波間を供に駆けた仲間との久方ぶりの触れ合いを楽しく過ごしたいという誘惑には、今だけは富士もさすがに勝てなかったらしい。『給仕ちゃ〜〜ん。』と声を放って、手旗信号の真似でもするかのように大手を振って給仕を呼ぶ常盤を目にしても、彼女は笑みを崩さず戒めの言葉も漏らさなかった。
しかし常盤の下へと給仕の者がやって来て注文を受ける際、突如として富士は口を開き、先に常盤が申し付けていた注文の内容を修正する。
『給仕ちゃん。ジガーを2つ。富士先輩と春日はワインが好きだよね。白ワインのグラスも2つだ。あと適当に料理も4人分持ってきてよ。』
『いいえ、5人分よ。お酒も白ワインのグラスをもう一つお願いね。』
富士の言葉を受けて注文を了解した給仕が早速用意の為に戻っていく中、思いもしなかった富士の声に彼女以外の3人は顔を見合わせる。多くの仲間達がいる宴の場であっても、いま語り合いの輪を構成しているのは4人。なまじ30数年前の昔話をしていたというのだから、例え近くに誰かがいたとしてもその輪に勘定するのは少し無理がある。参加させてもらっている明石だって、富士の注釈が無いと先輩方のお話についていけないのだ。
すると富士は首を捻る3人を横目に見ながら小さく笑い、車椅子から少し身を乗り出すようにして宴の場を見回す。そしてゆっくりとした視線の流れを止めるや、彼女はその視界の中心に捉えた可愛い愛弟子の名を呼んだ。
『陸奥。』
『あ、はい。富士様。』
同じ戦隊を組む山城や伊勢と談笑していた陸奥は、富士の声を受けると嬉しそうに張り上げた声で返事をして小走りで富士の下まで近寄ってくる。常盤のように同じ英国生まれでもなければ、お船としてこの世に誕生した年代すらにも共通点が無い陸奥と富士だが、歩み寄るなり深々と腰を折ってお辞儀する陸奥の姿には、彼女が富士を心の底から深く尊敬している事が示されていた。
『富士様、ご無沙汰しております。先輩方との積もるお話の邪魔にならないようにと思ったのですが、挨拶が遅れました事をお詫び致します。』
姉とは大違いで礼儀正しく丁寧な言葉遣いの陸奥は、強い巻き癖の前髪を一度手で直してから更に深く頭を下げる。宴の場に居る全ての者達にも一目瞭然な謝罪の姿勢だ。
だが富士は頭を下げた事ですぐそこにあった陸奥の顔に手を伸ばし、その頬を優しく撫でてやりながら優しげな言葉を掛けて頭を上げさせる。度が過ぎた礼儀正しさを持つ陸奥の性格もあるのだが、富士は彼女の言葉に反して謝罪を求めるつもりなど微塵も無かった。
『陸奥。元気なようね。最近は一戦隊の艦隊訓練の成績も良いらしいじゃない。』
『有難う御座います。富士様。』
富士の厳かにして気品ある声色と、「様」という敬称を用いて富士を呼ぶ陸奥の言動もあり、二人の様子は玉座にて腰掛ける女王陛下を前にして平伏す忠実な臣の様。陸奥は富士の暖かい手の感触と言葉を受けても中々頭を上げず、どれほどまでにこの富士を彼女が尊敬しているのかを明石によく理解させた。
それもその筈。実は二人の関係は部屋の一角にてその光景を眺めている姉の長門とその師匠にして今は上海にいる朝日の事情と全く同じで、陸奥にとっての富士は教えを請いだ師匠にして自身の身体に誇り高い英国の血を残してくれた偉大な母。すなわち横須賀海軍工廠にて陸奥の分身が進水する際、艦の命である陸奥を取り上げてくれたのは当時横須賀に在泊していたこの富士であった。
故に陸奥は富士を一辺のよどみも抱かずに崇拝し、例え軍艦旗を翻す仲間達の全てを敵に回そうとも師匠に従おうと強く心に決めている。胸の中に秘めたその決心から滲み出しているのが、今のような富士に対する陸奥の態度なのである。
そしてそれに対して富士もまた、麗しく礼節を重んじる陸奥を大変に可愛がり、東洋人の顔つきながらも古き良き英国淑女の姿を垣間見せる彼女を自身の誇りとさえ思っている。まさにそれは、富士の祖国の言葉で王女を示す「Her Royal Highness」その物であった。
やがて富士は愛娘である陸奥との語らいを少しの間続けると、僅かに瞳が持つ緑の色合いから鮮やかさを消して陸奥に声を掛ける。刹那、常盤や春日、そして明石は富士の声の音色に、それまでの明るさとは真逆の感情が込められている事を察した。
『陸奥。あの人は連れて来れたのかしら・・・?』
『・・・はい。』
陸奥は富士と同じ様に表情から笑みを消すと、胸の内ポケットに手を突っ込んで何やら真っ白な和紙で出来ている包みを取り出す。余程大事な物らしく、ポケットから取り出すや軽く手の甲で擦って目に付く埃を払い落とし、手の平に収まりそうな大きさであるにも関わらず揃えた両手の上に置いて富士の前にゆっくりと差し出した。
『昨年に民間に売却されたので少し時間が掛かりまして、交通船や漁船の艦魂にも声を掛けてやっと行方を捜せました。呉軍港のすぐ近くの吉浦海岸にある桟橋にて解体されたとの事でした。もう少し大きい物を拾って差し上げたかったのですが・・・。』
『いいえ、陸奥。大小はいいのよ。今も生きてる私達に残されている事が大事なの・・・。』
陸奥から手渡された小さな紙包みを手に取った富士は、声を返しながらゆっくりと包みを開けて行く。幾重にも折り畳まれた紙包みだが命令書の封筒よりもまだ小さい物であり、富士がそれを開けて中身を皆の前に曝け出すのに時間は掛からなかった。
『・・・・・・。』
再び宴の場にいる者達が声を失って視線を注ぐ中、富士の手の平で開かれた紙包みの上には、赤錆も浮いた一本のボルトネジが照明の灯りを受けて鈍く輝いていた。見るからに古めかしく、艦の構造材に用いるのには小さ過ぎるそのボルトを、艦の命である彼女達はすぐさま配管といった小さな物に使われる物であると察する。しかしそれはただの古びたボルトではなく、富士にとってはかけがえの無い戦友の成れの果てであった。
『・・・いちゅくしゅま。ふ、ふふ・・・。』
悲哀の色も混じった瞳を細くして呟く富士。
彼女が放つ言葉が何を指しているのか明石には解からなかったが、常盤と春日は富士の放った言葉の意味が解かったらしく、富士の隣に寄り添って彼女の手の平にて輝く古びたボルトを見つめる。すると常盤はその表情を瞬時に驚きとは入れ替わりに悲しみの色に染め、僅かに震え出した声で富士にそのボルトの持ち主であった者の名を問う。
『富士先輩・・・。ま、まさか厳島さんは・・・?』
『・・・ええ。厳島さん、解体されたのよ・・・。』
富士の返答を受けた常盤は無言のままで俯き、ふと右手を前髪で隠れた目の辺りに押し付けて乱れ始めた呼吸を整えようとする。二人のやりとりを黙って聞いていた春日もまた、静かに目を閉じて言い掛けた言葉を飲み込だ。それに反して富士は極めて優しそうな笑みを手の平のボルトに向けているが、その細めて湿り気を帯び始めた瞳にはやはり悲しみの色が抜けていない。
そんな3人の様子をすぐ近くでこれまで目にしてきた明石は、富士が手にするボルトが誰の物なのかを陸奥に問おうとするが、どうやらそんな明石の心の内を陸奥は視線が合っただけで悟ったらしい。ほんの僅かな溜め息を放つと、陸奥は静かに声を響かせてボルトの持ち主の名を宴の場にいる全員に示す。
『清国との戦の頃より帝国海軍の船として励んでこられた大先輩。三景艦の一翼を担われた松島型防護巡洋艦の二番艦、厳島さん。昨年の11月末から呉の吉浦地区にある桟橋にて解体作業に入り、今年7月、・・・無事に解体なされました。』
『うう・・・、ううぅっ・・・!』
ただ静かに陸奥が語ったかつての仲間の最後を耳にし、常盤は両膝を折り、富士の車椅子の肘掛けにすがる様にして泣き出した。そのすぐ背後では春日もまた、閉じた瞼の隙間から涙を静かに流している。この二人と富士を含めた三人にとって、陸奥が語った厳島という艦魂は帝国海軍の船としての先輩でもあり、同じ波高しの日本海を駆けた大切な仲間であった。これまでも当時の戦友の何人かが役目を終えていくのは3人とも目にしてきたが、仲間がまた一人、この世から消えてしまったという現実を受け止めるのは老練な彼女達でも決して容易な事ではない。お説教を長門に浴びせてお叱りを与えた常盤も今はさっきまでの陽気さが嘘かと思える程に嗚咽の声をあげ、富士が乗った車椅子の肘掛けに埋めている額を上げようとはしない。春日も頬をつたう涙を拭おうとはせず、僅かに顎を上げて鼻をすするばかりであった。
やがて誰と言う事も無く、陸奥が持ってきたボルトの正体を知った宴の場にいる者達が一斉に無言で右手を額に添える中、富士は肘掛けにて泣きじゃくる常盤の肩に手を乗せて呟くように言った。
『・・・フランス語の訛りが酷くて、話をするのは大変だったわね。自分の名前も厳島って発音できたのは、貴女が日本に来てしばらく経った頃の事だったわね。常盤・・・。』
『う、ううっ・・・!』
富士の思い出話を耳にした常盤が一際嗚咽に苦しむ声を大きくしてそれに応える。すると富士はすぐ近くにあった常盤の頭を幾度と無く撫でてやり、悲しみと戦う後輩の苦痛を和らげてやった。一向に泣き声の音階を下げない常盤の頭に手を乗せた富士は少しの間だけ沈黙すると、僅かに顔を春日の方に向けて再び声を上げる。
『凱旋観艦式の時だったかしら。ふふふ、魚料理に出すワインは白ワインに決まってる、って随分怒られてたわね。春日・・・。』
『はい・・・。あの時も料理を作ったのは私でして、フランス生まれの、い、厳島さんには、ワインの選び方をしこたま・・・、お、教えられ、ました・・・。』
春日の声が返ってくると富士は深く頷き、やがて彼女の頬を電灯に照らされて輝く一筋の流れが伝っていく。思い出の中に蘇るとても小柄だった厳島という名の艦魂を彼女は懐かしみ、同時にそんな厳島が今はもう手に平に収まる程度の大きさのボルト一本にまでなってしまった事に強い寂寥感を覚えた。
しかし富士は厳島がこの世を去らなければならなかった事に対して、不条理や疑念を覚えた訳ではない。現代においては旧式とされる自分達よりも、まだ古かった厳島艦。ただそれだけの事が船の解体の理由としては十分であると、富士は同じく一つの船の命として考えているからだ。
春日が富士に対して声を返した後、しばらくの沈黙の時間を持ってから富士はおもむろに自身の胸へ左手を添え、右手の手の平に乗るボルトをじっと見つめて言った。
『・・・これで良いのよ。八島や初瀬の様に、志半ばで沈んだ訳ではない。傷だらけになってもなんとか生き残り、大正、昭和と、時代の流れを彼女はその目で見る事が出来た。そして・・・、新しい時代に波間を駆るのは新しい時代に誕生した者の役目だと、聡明だった厳島さんはきっと理解していた筈よ。本当はもう少しだけお話したかったけど、船として厳島さんが生きる時代も、役目も、もう終わったのよ。・・・ふふふ。きっと今頃はインド洋辺りにいて、ワインでも飲みながらのんびりと故郷のトゥーロンを目指してるのよ。私達は厳島さんの航海の安全を祈ってあげなくてはいけないわ。』
『ぅううっ・・・!』
言い終えた富士は右手に持っていたボルトを左手に持ち替え、先輩との別れを惜しむ常盤の頭を再び撫でてやる。本当なら富士とて厳島との別れは不本意であるのが正直な所であるが、同じく異国からこの日本という国の海軍艦艇として渡ってきた彼女は、やっとお勤めが終わって故郷へと帰る事ができる厳島の旅立ちを邪魔してはいけないと考え、敢えて自身を律する。日清戦争時は栄えある帝国海軍の主力として戦場に立った厳島という先輩に、未熟な後輩で成り立つ帝国海軍艦魂社会という後顧の憂いを残してはいけないと思った。
偉大な先輩だったからこそ、心配を抱かせないでやろう。
そんな気持ちを胸に秘める富士は、常盤や春日とは別にすぐ近くに立っていた明石に視線を送り、手にしたボルトを差し出して口を開く。
『明石。』
『は、はい!』
『そこにある机の上に、このボルトを置いてちょうだい。それからさっき注文した5人目の白ワインと料理を、ボルトの前に並べてあげて。』
『はい。解かりました。』
先輩達が一様に涙を飲んで別れの苦痛と戦う様を見ていた明石。
富士の言葉に二言返事で了解の意を示し、その手から今は無き偉大な先輩の亡骸を両手で授かった。そのまま明石は部屋の片隅にてポツンと佇んでいた小さな机へと向かい、まずボルトを机の中心にそっと置いてから、机の前縁の部分に後ろをついてきた給仕が持つ料理や白ワインの入ったグラスを並べる。思いがけない幸運として給仕が用意してきたのはお魚の料理で、明石は春日のようにフランス生まれだったという先輩からワインの選び方でお叱りを受ける事はないと察して安堵した。
『富士さん、終わりました。』
『ああ、有難う。さあ、常盤。』
『うう、ううう・・・。』
明石が振り向いて指示を全うした事を伝えると、そこでは車椅子の方向を机へと向けた富士が泣き崩れる常盤の肩を触れて起そうとしている光景があった。厳島という先輩には余程にお世話になったのか、常盤は春日に抱かれるようにして立ち上がるものの、春日が手を離そうものならすぐに崩れ落ちそうな状態。富士はそんな常盤を励ましてなんとか立たせようとしており、彼女が今から亡き戦友の為に何事かをしようと企図しているのが明石にも解かった。ただその企図している詳細は明石どころか、富士の教えを授かってきた陸奥にも解かっていないらしく、常盤を立たせようとする春日や富士の手伝いもせずにちょっと首を捻って富士の魂胆に思考を巡らす。
だがその時、宴の場にいた者の中から意外な人物が声をあげるや常盤の隣へと歩み寄り、180センチを超えるその大きな身体に見合う腕力を駆使して春日と一緒に常盤を立たせながら口を開いた。
『富士さん、ワシも参加させてもらいますわ。厳島さんにはガキん頃に世話になりましたんやけど、ワシの先代もよお世話になったと聞いとりますさかい。』
『有難う、金剛。あの人もきっと喜ぶわ。』
抱き寄せるようにして常盤を抱え上げる金剛に、富士は綺麗な笑みを見せて金剛の申し出に大きく頷く。富士と同じ英国生まれの金剛にとって、富士が企図している事はなんとなく想像できた。それはこの富士という艦魂が軍艦旗や菊の御紋を背負いつつも、常に大事にしてきた英国との所縁に関わる所が大きい。
やがて常盤を金剛に任せた春日が給仕が用意した4人分のグラスを手にして戻ってくると、それぞれがグラスを手にして肩の高さにグラスを持った右手をあげる。止め処なく涙を頬に流す常盤はグラスを握った手もブルブルと震えていたが、後輩である金剛が耳元で呟く言葉に唇を噛み締めながら頷いた。
『常盤の姉さん。今はこん歌を歌えるモンも殆どおらんようになってしもたけど、富士さんや常盤の姉さん達が大事にしてきたこん歌、フランス生まれの厳島さんも好きやったゆうて敷島の親方から聞いてますさかい、頑張って歌うてやろうやないですか。厳島さん、きっと喜んでくれるさかい。』
『う・・・、うう・・・。』
大きな身体と愛弟子の神通以上に峻烈な気性を持つ金剛。関西訛りの荒い言葉遣いと強面の風貌もあって弟子を含んだ艦魂達からは恐れられるが、彼女は決して神通の様に仲間内から嫌われている訳ではない。教育にはげんこつを伴うのが当たり前とする姿勢は弟子と変わらないが、その実は他人を思いやり、励ましの言葉を器用に扱う事の出来る繊細な人物である。伊達に長く戦艦の艦魂をやって来た訳ではなく、この辺りがまだまだ未熟な教え子とは一味違う。むしろこんな金剛の一面に仲間を殺めてしまった苦しみを助けられたからこそ、荒くれ者の神通はこの人に教えを請いだのだった。
その内に金剛は常盤がグラスを握った手を肩の高さで正面に伸ばしたのを確認すると、富士の方に視線を投げて準備が整った事を無言で知らせる。富士は金剛の気遣いと協力にグラスを僅かにかざしてお礼とし、ゆっくりと顔を正面にあるボルトが置かれた机へと向ける。
すると富士は車椅子の背もたれから背中を離し、大きく胸を張って息を吸い込むとそれを歌声として桜色の唇から漏らし始め、金剛と常盤、春日もそれに続いて歌声を奏で始めた。
Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and auld lang syne ?
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
(旧友は忘れていくものなのだろうか、古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。友よ、古き昔のために、親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。)
And surely ye'll be your pint-stoup !
And surely I'll be mine !
And we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
(我らは互いに杯を手にし、いままさに、古き昔のため、親愛のこの一杯を飲まんとしている。友よ、古き昔のために、親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。)
We twa hae run about the braes,
and pou'd the gowans fine ;
But we've wander'd mony a weary fit,
sin' auld lang syne.
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
(我ら二人は丘を駈け、可憐な雛菊を折ったものだ。だが古き昔より時は去り、我らはよろめくばかりの距離を隔て彷徨っていた。友よ、古き昔のために、親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。)
We twa hae paidl'd in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar'd
sin' auld lang syne.
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
(我ら二人は日がら瀬に遊んだものだ。だが古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。友よ、古き昔のために、親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。)
And there's a hand my trusty fiere !
And gies a hand o' thine !
And we'll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
(いまここに、我が親友の手がある。いまここに、我らは手をとる。いま我らは、良き友情の杯を飲み干すのだ。古き昔のために。友よ、古き昔のために、親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。)
富士の美しい英国訛りの英語に率いられ、常盤を始めとした後輩達がそれに続く。旅順沖で機械水雷にかかった時、濃霧の中で不慮の事故を起した時、敵弾に艦体を貫かれた時、大時化の荒波で座礁した時、標的艦として水漬く屍となる事を最後の役目とした時と、仲間を失うその都度、英国生まれの者達が多かった事から歌われてきた富士の祖国の民謡「Auld Lang Syne」。帝国海軍でも兵学校において独自の日本語の歌詞を設けて歌われる事で有名なその歌を歌い終えると、富士達はそれまでずっと肩の高さにて前に伸ばしていた腕を折り曲げて握られていたグラスを傾けながら口に運ぶ。他の3人もそれに従ってグラスの酒を飲み始めるが、常盤は富士や春日とは違い、一気にグラスの中身を全部飲んでしまう。しかしそんな常盤の飲み方を富士は視界に入れても咎めはしなかった。本来なら常盤の様な飲み方こそが、この歌を歌った際の飲み方に相応しいからである。
もっとも常盤は中々気持ちに踏ん切りがつけられない様で、グラスを春日に預けると金剛の腕に顔を埋めて再び泣き出した。その姿から義理人情を誰よりも重んじる常盤が昔とちっとも変わっていない事を富士は確認し、同時に往年の仲間がまた一人減った事と今も変わらずに生きている者もちゃんといる事を理解して小さく笑う。30数年前と同じ様に、大事にしてきた英国流の別れを今もできたという事もまた嬉しかった。
そして別れを惜しんでいたにも関わらず何故だかとても晴れやかな胸の内を持つ富士は、自身の勝手な願いである事を重々承知しつつ、現代を生きる若い世代の者達にかつての先輩への対応をして欲しいとお願いする。
『比叡。』
『はっ。』
富士が呼んだのは金剛の妹にして、帝国海軍一の若作り艦魂である比叡。面識はそこそこあるにしても、二人は陸奥の様に特別に親しい間柄でもなければ、金剛の様に同じ異国をルーツに持つという共通性もないのだが、その経歴を方々から耳にしてきた比叡も例に漏れずに富士の事は深く尊敬している。富士にとっても現役時代から帝国海軍の先輩として、戦艦の艦魂の先輩として面倒を見てきた可愛い後輩が比叡だ。
だが富士が比叡を呼んだのは後輩としての可愛さを愛でる為だけではなく、この比叡が今回の観艦式にてある重要な役目を仰せつかっている船だったからでもある。
小走りで近づいてきて軍帽を取り、深々と頭を下げて尊敬の念を示す比叡に、富士は満面の笑みを浮かべてやりながら自身の願いを話した。
『今回も貴女が御召艦だそうね。立派だわ。』
『はい。有難う御座います。』
『それでお願いがあるのだけれど、厳島に貴女達の晴れ姿を見せてあげて欲しいの。貴女のポッケにでも忍ばせてもらえれば良いのだけれど・・・。』
既に一線を退き、推進器も撤去されてもはや波間を駆ける事も出来ない富士は、現代の帝国海軍艦魂社会に口入を出来るほどの立場はない。常盤の様に遠い南洋にて励んでいる実績もないし、艦魂としても既に足に自由が利かなくて満足に歩く事だって出来ない。一様に尊敬されてはいても、実情としてはいつも決まった岸壁にて海を眺めている老婆以外の何者でもない。故に富士は現役の帝国海軍艦艇である比叡にどういう言い方で伝えようかと言葉を選びながら声を発したが、比叡は富士の言わんとしている事を即座に読み取り、ぱっと明るい笑みを向けると彼女らしい極めて調子の良い言葉でそれを快諾した。
『お任せください。陸奥さんから分捕ってでもそうしようかと思っておりました。ポッケとは言わず、見晴らしの良い私の檣楼頂上にある測距儀の上にて安置させて頂き、満艦飾で飾った皆の晴れ姿を天皇陛下と供に存分にご閲覧して頂こうと思います。』
『ふふふ。有難う。でも風で飛ばされて落としちゃうと、かんかんになった厳島さんにいつかあの大きな主砲でお痛されるわよ。気をつけなさい。』
富士が返した言葉には英国人独特の冗談が混じっており、常盤の嗚咽が静かに響く宴の場に何人かの笑い声が木霊し始める。するとその場に立ち込めていたある種の荘厳で緊張感のある空気が一斉に晴れ上がり、宴の場はまた元の明るさを取り戻した。金剛や春日に混じって仲間の何人かが常盤の傍に寄り添って慰めの言葉を掛け、先程の富士達の真似をするかの様にボルトが置かれた机に向かって乾杯する者達も出始める中、比叡の決意を求める声が響く事により明石を含めた全員が今回の観艦式に望む気持ちをしっかりと抱いた。
『みんな、今回の観艦式は厳島さんに私達の晴れ姿を見せる大事な機会だ! もし失態でもしたら陛下のご立腹よりも、厳島さんの32サンチ砲の心配をしなきゃだめだ! あんなの食らったら一撃で廃艦だぞお! 大掃除も含めて、手抜かりのない様にしっかりやろう!』
こうして今回の観艦式は艦魂達にとっては特別な催し物となった。式本番に限らず、予行や停泊の状態といった式に関する一連の行動にて失敗する事は、栄えある帝国海軍をこれまで支えてきた先人達の苦労や想い、犠牲といった物の全てに泥を掛ける事になる。先人達は決して薄汚れたみすぼらしい艦体を常とはしていなかったし、そんな生き方をした者は誰一人としていない。軍艦旗を旗竿に掲げ、艦首に菊の御紋を輝かせて波間を掛ける艦艇は、いつの時代も何事においても美しく立派でなければならない。
そんな事を数日前の宴の場で感じたからこそ、明石は多少の疲れを意にも介さずに隔壁を擦るソーフを握った手の動きを止める事はなかった。もちろんその想いの発端は厳島という大先輩の事もあるのだが、明石の中では同じ時に耳にした自分の先代の事もそこそこに大きい物だった。明石自身は先代とは会った事もなければ、声を交えた事だってただの一度もない。師匠より話してもらうまで、「明石」という名の艦艇は帝国海軍において自分一人だとすら思っていたくらいだ。
ただそんな先代と時を同じくして生きた富士や常盤という先輩方の見せた、かつての仲間を想って涙を流した姿に、明石はなんだか自分が先代を知らないのを良い事にその気持ちを持たないのは悪い事の様に感じていた。
もし3代目の明石艦がいつか誕生して彼女が先代に当たる自分を想う時、『会った事ないからな。』と言われて終わりとされてしまったら?
そう脳裏で呟くと、ソーフを握った明石の手には何時にも増して力が篭る。明石は別に自分の事を凄い奴だ等とは微塵も思っていないし、現に宴の開幕ではテーブルマナーに対する無知という自身の未熟者っぷりを嫌という程に思い知らされている。ただ以前の師匠や宴の場で常盤が語ってくれた初代明石艦の命に対しては、明石は口にこそ出さないが只者ではなかったと考えていた。そして顔も声も性格もそっくりで、同じ様に至らぬ所を見つけるや必死に励んでいたという常盤の話を総合するに、先代は常に物事に対して一生懸命に取り組み、怠けもせずにひたすらに頑張った末に常盤や朝日が口にした人物評に繋がっているのではないかと明石は思う。
そうなると明石だって疲れた等とは言っていられない。自分がサボる事によって、周りの者達からくる視線が自分どころか先代にまで及ぶ事になるからだ。
だからこそ明石はこの日、日が暮れるまで自分の分身のお掃除をとにかく頑張って続行した。一等巡洋艦程もある明石艦をいくら艦魂と言えども一人でお掃除するのは大変であったが、明石は持ち前の一点集中型の頑張り屋な性格に火をつけて励む。
先人達の歩みを無駄にしてはいけない。
自分達へと繋がる何か。それが何なのかを言葉にするのは難しかったが、湧き上がるその気持ちを大切にしなければと心を新たにする明石であった。