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第七〇話 「北の海の仲間達」

 昭和15年10月6日。

 それまでの雨模様が嘘だったかのような青空が広がる朝の横須賀では、明石(あかし)艦を含む観艦式に参加する艦艇達が続々と抜錨、久方ぶりに力強い真っ黒な煙を靡かせて横須賀を出港した。行き先はもちろん、観艦式の会場となる横浜港の沖合い。不参加となっている艦艇の艦魂達に見送られ、彼女達はいよいよお披露目の舞台へと登る事になるのだ。

 ただ、狭い東京湾の事情もあり、出港といっても一隻づつがチビチビと港外に歩みを進めなければならないのが実情で、大艦隊が一斉に隊列を組んで波間を駆ける様な勇壮な光景は微塵も無い。これより天皇陛下のご尊顔を拝するという栄誉を頂ける彼女達にあっては、その旅立ちの姿はちょっとこじんまりしていて迫力が伴わない物だった。





 もっともそんな出発だからこそ出来る事もあり、錨を下ろしたままでの神通(じんつう)艦の艦尾甲板でそれを見ることが出来る。

 函館巡航の際、部下全員を陛下の御眼に映して頂く為に自ら観艦式への参加を取り下げた神通は、今まさにその栄誉を掴みに行かんとする部下達を眼前に整列させて最後の訓辞を行っていた。

 雲一つ無い見事な快晴の下、凛としていると供におっかなさが抜け切れない神通の声が辺りに響く。


『いいか、お前等。観艦式というのは式当日に頑張れば良いなんて甘ったれたモンじゃない。会場に行ったなら、そこは港や岸壁からいつも丸見えだ。つまり、式が始まるまでの一分一秒、お前達は常に国民の目に触れている状態なんだ。その上で他の艦の連中にも四六時中見られているし、当日は恐れ多くも天皇陛下のご拝謁を賜る事になる。舷窓の開け閉め、不要な電灯の消し忘れ、甲板上の手拭いや雑巾の片付け忘れ。どれか一つでもあったなら、それは私達二水戦の名に泥を塗る事になる。そしてそんなフザけた輩は二水戦にはいらん。もしこの中に今言ったような不始末を起こす馬鹿がいたら、戻ってきた時に私が魚雷をぶち込んでその馬鹿者の艦体を真っ二つに叩き割ってくれる。・・・解ったな!』


 まるでその日の天気の影響を微塵も受けていないような物言いをする神通。元来が口下手で不器用な人柄である彼女は『失態の無い様、みんな常に気をつけろよ。』と言いたいだけなのだが、どうしてもこの人の脳裏から紡ぎ出される言葉は殺伐としていて乱暴な物になってしまう。おまけにその表情も常に眉毛が吊り上がり、鋭い鋭角で構成される目尻は丸みを帯びる事が滅多に無いというのだから、それを聞いた少女達がいつもの事であったとしても、その心の内を恐怖のどん底に叩き落されてしまうのというのは無理も無い事である。もはや数ミリ程に潰されかけている肝を震わせ、身体が浮き上がりそうな不気味な感覚に襲われながら彼女達は上司に声を返した。


『『『 は、はい・・・!! 』』』


 微妙に裏返った声での返事は気合の篭る物だったが、少女達は上司の訓示にて心の奥底に決心をした訳ではない。単純に叫ぶように声を発しないと、目の前で鬼の化身のようにして仁王立ちしている神通の迫力で尻餅をつきそうになってしまうからだった。ダラダラと首筋を垂れていく冷たい汗も、今の少女達の意識を惑わせる事は無い。たった一本の指を曲げる事すらも許されないかと思える恐怖。それが神通という上司によって放たれる物なのだ。

 だから彼女達は、さっき上司が口にした「失態をした者に対する刑罰」を冗談だと捉える事ができない。もちろん神通は本気で部下を天に召すつもりは微塵も無いし、そもそもが自分達の為に神通が自ら犠牲となってくれた函館の一件は少女達も知っているのだが、もはや彼女達の中での今回の観艦式の認識は「私立神通学校」の命を掛けた現場実習となっていた。気の毒という他ない。

 やがて神通は左から右に視線をゆっくりと流して部下達の強張った顔の列を一瞥するや、今度は流れるような動きで頭に被っていた軍帽に手を伸ばして脱帽する。するとそれを合図として少女達はコチコチとすっかり柔らかさを失った動きで頭に乗せた軍帽を脱ぎ、神通と同じく軍帽の庇を握った右手を腿の横にぴったりと添える。同時に一斉に少女達は両脚の踵をくっつけ、大きく胸を張って直立不動の体勢をとった。厳しい神通の教育でその体勢を綺麗に保つ事が出来る筈の彼女達も、怖い上司のおかげで今は奇妙に背を反らし顎を上げたような感じの不恰好な姿勢となる。

 だが神通はそれに構わずに一際響きの良い声で辺りの空気を切り裂き、「私立神通学校」の一日の始まりとして行っている唱和を始めた。


御勅諭(ごちょくゆ)、唱和!』


 上司の声に続いてすぐに少女達はお腹とお尻に力を込め、大きな声で神通に続いて同じ言葉を放つ。


『ひとぉつ! 軍人は忠節ぅを尽くすを本分とぉすべし!』

『『『 ひとつ!! 軍人は忠節を尽くすを本分とすべし!! 』』』


『ひとぉつ! 軍人は礼儀ぃを正しくぅすべし!』

『『『 ひとつ!! 軍人は礼儀を正しくすべし!! 』』』


『ひとぉつ! 軍人は武勇ぅを(たっと)ぶぅべし!』

『『『 ひとつ!! 軍人は武勇を尚ぶべし!! 』』』


『ひとぉつ! 軍人は信義ぃを重んずぅべし!』

『『『 ひとつ!! 軍人は信義を重んずべし!! 』』』


『ひとぉつ! 軍人は質素ぉを旨とぉすべし!』

『『『 ひとつ!! 軍人は質素を旨とすべし!! 』』』


 明治の頃より皇軍の精神や道徳観の拠り所とされてきた軍人勅諭を叫び、今日という一日と晴れ舞台の始まりを迎える二水戦の艦魂達。古き良き帝国軍人の在り方を今日も肝に銘じるや、神通はまるで砂浜から引いてゆく波の様に静かな動作で軍帽を被り、少女達もまたそれを見て一斉に軍帽を頭の上に乗せた。

 すると神通はそれまでの硬直した身体を解し、僅かに体重を右足にかけて腰に手を添えると、陸地に囲まれた横須賀の波間が水平線へと繋がっている方角を眺める。東京湾へと続くその海上では単縦陣で旅立っていく艦艇達の行進する光景が出来上がっており、穏やかな波風と秋晴れに包まれる軍艦旗も静かに列を作ってゆっくりと宙を舞っていた。そして団列の最後尾が自身の分身とその付近にて煙を靡かせている部下達の分身の辺りに来ている事を確認し、彼女は部下達と一時の別れをする事にする。


『横浜沖での引率は七戦隊の最上(もがみ)に頼んである。戦隊長代理は18駆の陽炎(かげろう)。』

『はい!』


 一時の間の二水戦指揮官として上司から名を呼ばれた陽炎だが、身に掛かる責任をよく心得た彼女はちょっと上ずった声で返事をする。二水戦の中でもかなり小柄な体格をもつ陽炎は外見こそ少し頼りない感じもするが、帝国海軍最新鋭である陽炎型駆逐艦の一番艦であり長女。雪風(ゆきかぜ)のような問題児を含めた妹達からの信頼は厚く、今回の観艦式において神通の分身に宿る二水戦の幹部達が戦隊旗艦と決定した事に併せ、神通は陽炎に部下達の統率を任せてみる事にした。本来なら最先任である朝潮(あさしお)を抜擢するところだが、そこそこに実力を身につけてきた陽炎を神通はこの機会に試す事にしたのだ。

 そしてもちろん神通は、観艦式という晴れ舞台にて行き当たりばったりで陽炎の試験を行う等という危険な賭けはするつもりはない。ゆるく唇を噛んで両肩にかかる重圧に耐える陽炎には、やがて上官のちょっとだけ温もりが込められた声が掛けられる。


『解らない事があれば最上や明石(あかし)、それと三戦隊の金剛(こんごう)さんに指示を仰げ。悪いようにはせん筈だ。』

『は、はい!』


 飽くまでも神通は陽炎に対して逃げ道を残してやり、自らの信頼がおける者の名を上げてどうにもならないような事態への対処方法を教えてやる。部下を鍛えるに当たっては鬼の様に厳しい事で知られる彼女が崖から突き落とすような試練を与えないのは、神通の部下に対する真心の裏返し。大事に育ててきた部下がこんな程度の試練で失敗でもして潰れて貰っては困るのである。

 神通は陽炎の返事を耳にするや表情をそのままに小さく頷き、今度は周りの者達に視線を流して陽炎が試練を乗り切れるように結束を促す。集団での指揮官という物が決して一人の能力で務まらない事を、長く水雷戦隊の旗艦として励んできた神通は肌身を通してよく知っているからだった。


『お前達も陽炎の言う事はしっかり聞くんだぞ。陽炎に恥を掻かせるんじゃない。解ったな?』

『『『 はい!! 』』』


 彼女の放った言葉に返って来たのは、陽炎という大事な仲間、姉妹を全力で支えてやろうという意気込みが篭った少女達の声。そこにはさっきまで滲んでいた恐怖心が無く、この瞬間を二水戦の全員が心を一つにして迎えている事を示していた。その立派な姿に神通は口元が緩みかけたが、すぐに自身の吊り上がろうとする口元に気付いて表情を正す。今しがた観艦式へ望む態度を律したばかりである彼女は、例え部下の為とは言えどもこのまま横須賀に残る身である自分だけが安堵していては駄目だと考えたのだ。少し俯いて咳払いをするフリをして丸くなりかけた瞳を尖らせ、やがて顔を上げた神通は部下達へ別れを告げる。


『ふん。よおし、解散。別れ。しっかりやれよ、お前達。』

『『『 はいっ!! 』』』


 胸の鼓動すらも同調させたかのような返事を発した少女達は、各駆逐隊の司令駆逐艦である艦魂の号令によってその場から白い光を伴って姿を消していく。

 風に飛ばされて甲板を転がる帽子を追い駆ける(あられ)により、部下達の出発におけるどん尻は第18駆逐隊。『馬鹿者が。』と呟くように放った神通の言葉に霰が頭を下げると、時を置かずして彼女達も(かすみ)に率いられてその場を後にして行った。


 いつもの賑やかな部下達の声も静まり、遠く聞える波の音や機関音が風と供に流れていく甲板に神通は無言で腕組みをしながら立っている。しばらくすると出航を知らせるラッパが辺りから響き、神通の瞳にはいつも自身の後ろに続いて駆けていた部下達がその艦首に白波を立て始める光景が映る。頭上を飛ぶカモメの影が一瞬だけ視界から明るさを削ろうとも、日課の為に背後を通る乗組員達の声が心地良い並音を遮ろうとも、神通は黙ってその場に立ち尽くして旅立つ部下達の後姿を眺めるのだった。







 ちょうど同じ頃、明石艦はすでに横須賀の波間を立っていて、横浜への海の道をゆっくりとひた走っていた。といっても民間のお船の航路や漁船も多い東京湾の事情もあり、艦首に低めの白波を立てる明石艦はそれほど速度を出している訳ではない。いつもとは違う第一艦隊や第四艦隊の面々もいる中での単縦陣航行でもあるから、追突の可能性も考慮して10ノット程のゆっくりとした船足で横浜に向かっているのである。

 が、心地良い潮風を甲板上に発生させるのはちょうどこのくらいの速度の航行で、乗組員や艦魂達は皆一様に甲板に出て三々五々の休憩を楽しんでいた。


 彼らと同じ様に明石もまた艦橋上にある測距儀の天蓋に出て、ぽかぽかと降り注ぐ陽の光りと柔らかな潮風に包まれる一時を味わう。相方との初めての出会いの場所ともなったここは明石が自分の分身の中でも特にお気に入りの場所で、そこに腰を下ろして艦首の方を望むとあたり一面の絶景をよく堪能する事ができる場所だ。手摺が無い為に風の強い日や雨の日こそ近寄るのも億劫になってしまう所が残念だが、天気の良い穏やかな日はこの測距儀天蓋上は明石にとって最高の癒しの場となる。

 今日は朝から元気に輝くお天道様の恩恵もあって、鉄の塊である測距儀は良い感じに熱を保って何か床に暖房が敷かれているようでもあり、明石は10月だというのに外気に触れるその場所にいても苦痛を一切覚えなかった。明石はずっと膝を抱くようにして座っていたが簡易暖房と化している測距儀天蓋の恩恵を最大限に発揮しようと考え、ふと膝を抱く腕を解くと身体を横に伸ばしてそのまま艦首を正面に捉えて横に寝転がってみる。するとどうだ、天蓋につけた明石の身体の右側全体はほのかに天蓋の持つ熱で暖められ始め、明石は自身の頭を捻りようを脳裏の中で自画自賛してニッコリと笑った。


『へへ〜ん、あったけ〜。』


 今日の天気が持つ温もりに包まれる明石。艦首を向いた彼女の目には、明石艦のすぐ前を航行する長門(ながと)艦の力強い勇姿が映る。艦尾旗竿に翻る大軍艦旗も勇ましい長門艦はまさに世界最強を自負する帝国海軍の総大将に相応しく、後楼の頂上で潮風と踊る中将旗もまたその艦影を一際荘厳に飾る。

 だが明石はそんな長門艦を眺めても感動する事は無く、むしろその姿にこれ以上無いくらいの可笑しさを覚えて声を上げて笑ってしまう。もちろんそれは同じ艦魂の先輩として慕いつつ、いつも自分の事を可愛がってくれる姉である長門艦の命たる者の記憶を蘇らせてしまったからだ。

 昨夜、二人で給仕の休憩室にて久々の語り合いをした後に、明石と長門は再び宴の場へと戻った。しかし長門がいない間、彼女の実の妹である陸奥(むつ)は宴の場に同席していた常盤(ときわ)艦の艦魂に姉のお仕事振りに関する相談を持ちかけていたらしく、長門は宴会場に戻るなり常盤に拉致されて酒の勢いも混じったお説教をこっ酷く浴びせられてしまう。

 南洋方面を担当する第四艦隊の隷下部隊である第十八戦隊に所属する常盤艦は、長門や明石の師匠と同じく明治の時代に英国で生まれ、かの日露戦役をも戦い抜いたという大先輩。日本型組織特有の先任序列が根付いている艦魂社会にあってはその発言力は強く、長門は今にも泣きそうな表情で常盤のお説教を頂戴してしまった。

 今年の春に2年にも及んだ近代化改装を受けたからか、常盤は帝国海軍に嫁いで42年に及ぶにも関わらず大変に元気な艦魂で、朝日(あさひ)富士(ふじ)のような存命の日露戦役当時の戦友達の中でも唯一今回の観艦式にも招待されている事から、さすがの長門もこれ以上のお説教を食らいたくない為に今日は陸奥に従ってお仕事に励んでいる。絶好の日向ぼっこ日和であっても今日は明石の傍には長門がいないという事の真相だ。


『にししし。』


 颯爽と眼前を駆ける長門艦を明石は悪戯っぽく笑う。山の様に詰まれた書類の中で舷窓から僅かに覗く快晴の空に思いを募らせる長門の姿を想像すると、どうしても明石は唇から漏れる笑い声を堪える事が出来ない。こよなく愛する「メンドイ」の一言を連発するお仕事振りだって難なく想像できる。明石は脳裏にありありと浮かぶ長門の姿を大いに笑い、同時に今日もまた身体に溜まったであろう彼女の疲労を癒しに行ってあげようと決めるのだった。





『ああー! いたあ!』


 そよそよとその場を流れていく風と供に身体を包む温もり、そしてぶっ飛んだ性格のお姉さんの境遇を楽しんでいた明石だが、そこには突如として元気の良い声が響き渡る。しかもその声には明石も聞き覚えがあり、すぐに彼女は上半身を起して辺りを見回す。もっとも艦橋上にポツンとある測距儀の天蓋に明石はいるのだから、右に左にと流してみる明石の視界には一面に広がる東京湾の静かな海原以外が映る事は無い。


『あれえ?』


 声の主を発見できなかった事で明石は後頭部を書きながら僅かに首を捻るが、彼女の耳には再び同じ声が流れてくる。それは明石がいる測距儀から真下の当たる、艦橋脇の甲板の上から響いた物だった。


『明石さんだ!』

『あ、いたいた! 明石さ〜ん!』


 やっとの事で声の出所を察した明石は測距儀の上で四つん這いになり、それ程広くも無い天蓋の上から落ちない様にして真下を覗いてみる。

 そこにいたのは明石にとってなんとも懐かしい顔の4人の女性達。濃紺の水兵さんの格好をした小柄な体格を一様に持つ彼女達の中にワーワーと声を上げて手を振る者が2人いるが、そのよく似た顔つきを目にしても明石は二人の招待を明確に悟る。まるで万歳でもするかのように高く上げた両手を左右させる女性は、水兵帽からはみ出た短い髪がピョンと外側に向かってハネ上がっており、一見すると男の子のような印象を放つ。その飾らない素朴で元気な人柄で明石に帝国海軍の艦艇としての自覚を教えてくれた彼女は、野風(のかぜ)という駆逐艦の艦魂。その隣で短い後ろ髪と額でハの字になった長い前髪が印象的な女性は、野風の妹に当たる波風(なみかぜ)だった。


『あ!』


 その顔ぶれを瞳に映すのは明石にとって一年振り。

 明石の分身がやっと就役して軍艦旗を翻し、艦艇としての初めてのお仕事に励んだ際の患者達である。小柄な体格に反して大湊(おおみなと)要港部にて単独での北方海域警備を20年以上も担当し、なおかつ数ある帝国海軍駆逐隊の中でも栄えあるトップトナンバーを頂く部隊。即ち大湊要港部付属、第1駆逐隊の艦魂達だった。

 久方ぶりにして全く企図していなかった出会いに明石は驚いてしまい、短く声を発した後に続ける言葉をついつい失ってしまう。脳裏ではその場にいる4人の内の3人は明確に名前を断定しているのだが、中々それを声に変えて発することが出来なかった。すると波風と野風の間から輪郭に沿った短くて丸いおむすびのような髪型をした女性が、一歩進み出て小さく方の高さで右手を振りながら明石に声をかけてきた。それは帝国海軍の艦艇とは何の為にあるのかを、自分の軍艦旗を掲げたばかりだった頃の明石に諭してくれた、沼風(ぬまかぜ)という名の艦魂だった。


『明石さん、ご無沙汰です。お元気そうで何よりです。』

『ぬ、沼風・・・。』


 実の姉妹である波風や野風とはうって変わって落ち着いた口調の沼風の声は、久しぶりの対面で混乱に陥る明石の思考を柔らかい物に変化させる。

 その格好の通り、沼風は駆逐艦の艦魂らしく二等兵曹という水兵さんの臂章を身に付け、軍医とはいえ一応は少尉の襟章をつけている明石とはその階級がかなり離れている。その経歴だって実は30代目前の容姿を持つ長門とは同世代の人物で、昨年にやっと就役したばかりである明石とは比べるのもおこがましいくらいなのだが、童顔である事から明石の心の中ではこの沼風は距離の近い感じがあった。

 だが長い海軍生活とその間に浴びた潮気を滲ませる沼風の雰囲気は、想定外の再会に浮き足立つ明石の心を静めてくれる。心優しい先輩である沼風の不思議な力だ。

 するとその脇でふと野風が艦尾の方へと顔を向け、そこへ何かを発見したのか再び手を振って声を上げる。野風のそれは彼女の周辺にいる仲間達とは違う者の名を呼ぶ声であったが、なんと不意に放たれたその名前もまた明石には覚えのある名前であった。


『んあ、宗谷(そうや)さ〜〜ん! 明石さんいましたよぉ〜!』

『あ、明石さん。お久しぶりです。』


 野風に続いて声を掛けてきたのは、縦に連なった金ボタンも眩しい濃紺の第一種軍装に、丸くなろうとする毛先を持つ眺めの髪の持ち主。その鼻の辺りに薄っすらと確認できるそばかすも明石には見覚えがある。そしてそんな彼女をかつて患者として受け持った事もまた、奇しくも沼風達とは同じであった。

 ようやく身体の意図しない硬直も解けた明石は、測距儀から身を乗り出すようにして彼女の名を呼ぶ。もちろんその顔には、久しぶりの再会を喜ぶ満面の笑みがあった。


『ああ、宗谷〜!』






 すっかり元気になっている沼風と宗谷の姿を瞳に入れ、なおかつ一年振りの再会を果たした野風や波風の来訪に心浮かれる明石は、すぐに彼女達を艦内にある自身の部屋へと案内した。大湊での初めてのお仕事をした際には会う機会を得られなかった1駆の最年少者、神風(かみかぜ)を沼風達に紹介してもらい、宗谷がお土産に持ってきてくれた北海道名産の鮭の干物や粉末コーヒーをおやつ代わりにしてお互いの息災ぶりに明るい声を上げる。

 宗谷と沼風達の1駆は同じ北方海域を仕事場とする艦としてその友情を培ってきたらしく、幌筵(ほろむしろ)に分派されて励む1駆の小隊に食料や物資を届けている艦が宗谷艦との事で、彼女達の仲は傍から見てもすこぶる良い。明石が宗谷の勤労を讃える言葉を放つや、あぐらをかいて床に座っていた野風が帽子からはみ出ている跳ね上がった髪を揺らしながら声を発してその事を教えてくれる。


『へぇえ〜。宗谷は大活躍なんだね。』

『凄いんですよ、宗谷さんは。こないだも足元が見えないような霧の中で、宗谷さんは占守(しゅむしゅ)って島まで行って急病人を乗せて帰ってきたんですよ。慣れた私達だってあの辺の濃霧の海はご免被りたいのに、その後も宗谷さんはちゃんと無事に網走(あばしり)まで送ったんですもん。』


 そばかすが散った鼻の辺りを指先で掻く宗谷を横に、野風はまるで自分の事の様にして友人の快挙を自慢する。大きく胸を張ってしゃべる野風はその表情もまた今日のお日様の様に眩しくて熱が篭っており、宗谷が自身から見ればずっと年下であっても心の底から慕っているという事を明石にも伝えた。


『おお〜。宗谷、すごいじゃん。』

『あはは・・・。私なんてまだまだですよ・・・。』


 話の部隊であまり持ち上げられる事が慣れていないのか、宗谷はちょっと困ったように歪んだ表情で笑っている。野風が話してくれた快挙は宗谷艦が独自に持つ音響探深儀を生かした行動であり、いわばお船の命たる者である宗谷の才能が遺憾無く発揮された逸話。胸を張って自慢しても良いような物なのだが、宗谷はそんな姿を野風へと譲って恥じらいも混じった照れ笑いを続けるばかり。明石とは同じくらいの歳であるのに、良く分別を守った大人しい人柄の持ち主である宗谷らしい姿だった。

 だから彼女は決して明石との再会について落胆している訳ではない。そもそもが宗谷の分身は海軍の船として建造されてはいないのだから、神通や金剛のような気性の荒い性格を持つ船の命との交流は海軍籍となるまで皆無であり、自身が運ぶ荷物を待っている人々の笑顔を期待して穏やかな海原を駆ける事を生業としていた彼女は、そんな運送船のお仕事に見合う静かで心優しい艦魂なのだ。明石と初めて会った際は自ら死を選ぼうとする心の苦しみで食事も取らず、骨の形が見て解るほどに痩せこけていた宗谷も、今はふっくらとした白い餅肌を頬に覗かせて微笑み、血の気が失せていた唇は紅でもつけているかのように鮮やかな桜色を保っている。

 その姿には元気の一言がよく滲んでおり、彼女を診療した軍医として明石は嬉しさを隠せない。口に挿し込んでいた鮭の乾物を勢い良く引き千切り、噛む事によって旨みを滲み出すその食べ応えに満足しながら明石は言った。


『ん・・・、ん・・・。元気になって良かったね、宗谷。こんなに美味しいもの食べれてるんだから、そりゃ元気か。ん・・・、んん・・・。うめえ。』


 ご満悦の明石は友人らと語り合う為に部屋の主にも関わらず敢えて椅子ではなく床に腰を下ろしているが、足元に山と積まれた鮭や鯵の干物、蒸焼牛肉や味付き鱒の缶詰も、満面の笑みの根本であったりする。もちろん全て自身と同じ特務艦である宗谷が調達してきてくれた品々で、明石は当分の酒の肴を工面する苦労が発生しない事を喜んでいるのだった。


 この後も5人揃って花咲くおしゃべりにのめり込み、美味しい一時とかつての患者が見せる元気な姿で明石の笑みは尽きる事が無い。沼風達は前回に会った際に明石と一緒にいた相方の事を宗谷から少し聞いているらしく、飽くまで明石の心から明るさを失わせないように『元気をだして。』と心配の声を掛けてくれる。相方の話題を出されるとさしもの明石も乾物を噛むテンポをちょっと遅くして明るかった声が静まりかけてしまうが、すぐにわざわざ自分を気遣って声を掛けてくれた沼風達の心遣いを察して消えかける笑みを表情に戻し礼を口にする。それからはお互いに明石の相方の話題をそれ以上触れようとせず、離れている間にそれぞれが得た思い出話の応酬を始める。

 意外な事に沼風達の1駆の面々は竣工からの年月の殆どを北方海域でのお仕事に費やしている事もあり、支那沿岸を含む海外へと軍艦旗を進めた経験が無いのだという。だから宗谷と知り合った際、彼女達は国外でのお仕事の経験がある宗谷に色々と日本の外の海の話を聞いたらしいのだが、宗谷が国外にて活動していたのは民間の商船の頃の事であり、自分達と同じ軍艦旗を背負った者達がどんな風に外国で活躍しているのか知る事が出来ないでいた。しかしそれに反して明石は春頃に艦隊訓練で台湾や廈門(アモイ)を訪れており、廈門では上司に当たる愛宕(あたご)高雄(たかお)の妹である鳥海(ちょうかい)率いる第二遣支艦隊の歓迎を受けた経験があった為、彼女は沼風達が長年知りたがっていた海外に派遣されている艦艇の事を教えてやった。

 これには1駆の面々も大いに喜び、自分達がいつも挑んでいる北の海とは一味違った南の海でのお話に目を輝かせる。なまじ彼女達は20年以上も大湊要港部に腰を据え、流氷混じりの海原での漁船の救助や吹雪の中での遭難船舶の捜索、領海侵犯対処などを僅か一個駆逐隊の単独で遂行して来たというのだから、まだ一度も見た事が無い日の丸と違う国旗が翻る海に並々ならぬ思いを馳せるだった。

 

 ちなみにそんな1駆の境遇は当然の様に辛く大変な物であるが、それ故に彼女達は栄えあるこの度の特別大観艦式に参加できている。即ち彼女達のその普段の勤労と苦労を汲んだのは、艦魂として帝国海軍を率いている立場の長門だけではなく、連合艦隊司令部も含めた海軍上層部の人間達も同じであったのだ。沼風達は誰一人としてその事を鼻にかけるような言動を見せないが、貧乏な島国の海軍の船として鑑の如き働きを地味ながらも長く続けてきた彼女達は、帝国海軍においてはまさに万人に認められた殊勲の部隊なのであった。





 横須賀から横浜沖へと続く帝国海軍艦艇の大名行列は足取りも遅く、明石艦が僅かな旅路にも関わらず横浜の泊地へと到着した日が暮れてからとなる。しかし艦の分身である明石にとっては久々に会った友人達との会話でそれもあっという間の出来事であり、夜は夜で宗谷から貰った缶詰や干物を肴にしてのお酒を伴った語り合いを行う。次の日からは観艦式を前にしての最後の大掃除の日々が始まる為、明石達はいつになくお酒を進めてその友情を深い物とするのだった。

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