第七話 「誇り・後編」
『大丈夫か、明石・・・?』
最上甲板から部屋に戻った明石は、忠に唇の止血をされていた。
痛みが残る顔で明石は自分の薬箱をいつもの淡い光で出現させたが、自分で自分を治療する事など滅多に無い。ましてあの神通に思いっきり二度も顔を殴られた明石は、神通と那珂が消えた後から足取りがフラフラだった。見かねて忠が治療してやっているのである。
整った綺麗な顔立ちの明石の顔を鼻が触れそうになるくらいに近くで見るのは忠にとって初めてだが、青くなった彼女の頬とパックリと切れて鮮血を流す彼女の唇がそんな事を彼から忘れさせる。神通の奇声のような咆哮がまだ耳に残っている忠はその記憶を振り切るように、明石の唇にガーゼを押し当てた。
軍刀を抜いて飛び掛ろうとする神通に一歩も引こうとしない明石だったが、那珂が機転を利かせてその場を脱した。那珂が神通を抑え込んだまま、白い光を放って一緒に消えてくれた事に感謝せねばなるまい。
霰と霞は事の仔細を聞いて仰天し、ベッドの隅で抱き合ってすすり泣いていた。
忠は明石の唇に手を当てたまま、俯いて嗚咽する霞と霰に声を発する。
『二人とも今日はとりあえずここに泊まっていくんだ。あの状態では戻ってから何をされるか解ったもんじゃない・・・。』
『・・・。』
『ぅう・・・。ふ・・・、ふえぇぇぁあ・・・!』
忠の言葉に霰は小さく頷いたが、霞はその言葉にまたも泣き出した。彼女達にとって恐怖の代名詞であろう神通を、『殺してやる!!!』と言わせる程に怒らせてしまったのである。これから先、会おうものなら忠の言葉どおり何をされるか解った物ではない。その前途に掛かる不安に、霞はただ泣くしかなかった。部屋に響く霞の泣き声に、忠は小さくため息をつく。
まったく、エラい事になってしまった。
『ねえ、森さん・・・。』
明石は少し俯いて虚ろな目で忠の胸元を眺めながら、静かに口を開いた。忠が押し当てていたガーゼに彼女は自分の手を添える。出血は止まりつつあるが、彼女が手に持ったガーゼは元の白色が探せない程、既に真っ赤に染まっていた。
『・・・なんだ、明石?』
『・・・神通さんの目、見た?』
明石はそう言うと降ろしていた視線を忠の瞳に向けた。明石は時折傷む頬の口元を動かしながらも、極めて冷静な表情を浮かべている。
『あ、ああ・・・。その・・・、ご立腹なようだったな・・・。』
忠は必死に神通の目の感想に値する言葉を探したが見つからなかった。下手に現実味を煽る言葉を出せば、霞と霰の怯えに拍車をかけるだけだ。そう思いながら横目で二人を見ると、嗚咽して霰の胸に沈む霞と、そんな霞の頭に頬を当てて声を出さずに涙を流す霰の姿が彼の目に入った。理不尽ながらもどうにもできない状況に涙する姉妹の姿は、忠にとっては言葉にできない。
『・・・私に殴りかかった時、神通さんは今にも泣きそうな顔だった。』
『え・・・?』
明石はゆっくり首を傾げ、再び忠の胸元辺りに視線を降ろした。忠は二人から明石に視線を戻したが、サラっと流れた明石の横髪が彼女の表情を隠す。
『・・・叫んだ時もそうだった。まるで海に落ちて溺れて、必死にもがいてるみたいに見えた・・・。』
『・・・。』
正直な所、忠には明石の言う神通の様子がまったく感じられなかった。今にも獲物を飲み込まんとする蛇のように大きく口を開けて咆哮し、狂気を帯びて見開いた目をしていた神通の姿は思い出すだけでも背筋が凍る。忠はそんな感覚に耐えながらも、足元の水の入ったバケツから手ぬぐいを取り出して明石の頬に当ててやった。冷える頬に気が緩んだのか、明石は肩から力を抜いて目を閉じて言った。
『なんでだろう・・・、あ・・・。』
自らの手で持っていたガーゼが彼女の手からポトっと落ちた。血を吸って丸く固まったガーゼが床を転がる。唇に血を少しづつ滲み出しながらも、明石はその様子を呆然と眺めていた。微かな霞の泣き声が響く部屋の中、床に転がったガーゼは舷窓からフラフラと揺れて差し込んでくる朱色の光に照らされ、綺麗な赤色でぽつんと輝いていた。
『砲術士! 食事用意よろし!』
『お、おう! 今行く!』
扉の向こうで発せられたマサの言葉に忠は返事をした。
『じゃあ、ちょっとメシ食ってくるよ。』
『うん・・・。』
明石は依然として床に転がったガーゼを眺めている。忠はベッドの上の二人にも目線を配った。霞の泣き声も少しは静かになってきた。そしてそんな霞を抱きつつ、霰は忠の視線に弱々しいながらも小さく微笑んでこくりと頷いた。
『明石、ちょっとの間だけ二人を頼むな・・・。』
『うん・・・。』
ボーっとして俯く明石に心配が拭えない忠だったが、どうする事もできない。特に泣くわけでも怒るわけでもなく平静な明石を背に、忠は部屋を出て士官食堂に向かった。どうしたらいい物か、そう考えながら歩く忠の足取りは重かった。
陽が沈み、濃い青紫色に空が変わったその日の夜は満月だった。数多くの艦艇が停泊する呉海軍工廠全体を青白い光が無機質に照らす。そしてその光に照らされた4本煙突の神通艦の艦首、背中合わせに前後を向いた単装砲の横には倒れ込む那珂の姿があった。
『がっ・・・! くぅぅ・・・!』
苦しむ声を上げて那珂はお腹を抑えてうずくまる。苦痛に歪む那珂の顔、腫れ上がった左の目は潰れ、両の頬が赤く腫れている。その苦痛に耐えてうずくまる那珂の襟に彼女の物ではない手が伸びると、その手の主は那珂を起こして手近にある砲塔の側壁へと襟を締めつけたまま叩き付けた。
『だぁあらぁ!!』
聞きなれた声と重い金属音、そして背中に受ける強い衝撃に苦しみながらも那珂は目を開く。そこには実の姉、神通の荒ぶる獅子のような顔が有った。
その最中、那珂は竣工してすぐの頃、初めて会った姉の顔を思い出す。荒い言葉遣いながらも面倒見が良く、いつも自分の手を引いてくれた姉。
あんなに優しかった神通姉さん。
それが今、目の前にいるその姉は当時の面影が全く無い変わり果てた顔をしている。
こんなにも見開いた瞳を持つ人であったか?
こんなにも牙のような歯を持つ人であったか?
こんなにも獣のような吐息をする人であったか?
狂気を帯びた姉の顔に那珂の潰れた瞳から涙がこぼれ、襟を掴んだ神通の手に落ちて砕けた。
『ぐ・・・、ぎ・・・。じ、神通、姉さん・・・。』
『ふざけやがってぇ!!!』
『がはっ!!!』
腹に放たれた神通の膝により、那珂の口から胃液が吐き出される。そのまま力が抜けて崩れ落ちそうになる那珂の体だったが、神通は両の手に力を込めて再度壁に縫い付けて荒げた声を再び投げつけた。
『お前もあの場にいただろうが、それとももう忘れたか!? ああん!?』
『じ、神通、姉さん・・・。で、も、これじゃ・・・、いつまで経っても・・・。』
沈み行く勢いの声で答える那珂。腹部の奥より全身へと響き渡っていく鈍痛で、その言葉も途切れ途切れとなった代物だった。だが実の妹のそんな姿も神通の表情から凶暴さすらも滲んだ怒りの色合いを失せさせる事は無く、次の言葉を紡ぎ出そうとする那珂に身体には、またしても姉による衝撃が与えられた。
『あの時、何人死んだと思ってんだ! おらぁっ!!』
『あぐっ!!』
腹に撃たれた神通の拳に那珂の口から再度胃液が吐き出される。腹部への衝撃で止まる呼吸に那珂は咽た。
『ごほっ・・・!! げふっ・・・!!』
『やり直しなんか無ぇんだ!! こんの馬鹿が!!!』
もう何度目になるかも解らない振りかぶった神通の拳に、ただ本能に従って目を閉じる那加。だがその拳は振られてこなかった。
やがて恐る恐る目を開ける那珂は、神通の後ろから彼女の腕を掴んだ人物を見つける。月明かりに照らされる瀬戸内の波間を背に、カーテンの流れを思わせる月明かりを顔に浴びせたその人物は呟く様に静かに声を放つ。
『やめなさいよ。』
月の光が一段と明るく照らされ、ハッキリと見え始めたその人物は明石。昼間の一件にて最悪の出会い方をした彼女の姿に驚く那珂だったが、那珂は瞬時にその際の相手が目と鼻の先いる姉だった事を思い出して目線を神通に移す。すると明石に視界に認めた神通の顔には既に獰猛な爬虫類のような表情が宿り始めており、咄嗟に那珂が声を放とうとするよりも早く、神通は咆哮して明石に襲い掛かった。
『ぐるああぁぁ!!』
神通は明石の首を鷲掴みにすると那珂の身体と入れ替える形で砲塔側壁に叩きつけ、その顔をめがけて怒りに任せた拳を振り下ろす。耳障りの悪い衝撃音が明石の顔から発せられ、神通の拳にはそれに伴うようにして細かな血の粒子がこびりついていった。
『おらあっ!!』
『あ、明石・・・! じ、神通姉さん・・・・! やめて!!』
必死に姉の行為を止めさせるべく声を放つも身体に残る激痛に那珂は立ち上がる事ができず、その場に突っ伏して届かぬ神通への声を繰り返し発していた。その眼前では明石の血の止まりかけた唇がまたパックリと開き、首に食い込んだ神通の爪によって皮は細く切り裂かれ、腫れた頬が破れてかさぶたの下から漏れ出した血が舞う。
だが当の明石は何度も顔を襲う神通の拳に耐えつつ、激痛と衝撃によって激しく揺れる視界の中でじっと神通の目を見ていた。
ああ、やっぱり。
初めて会った時から感じていた神通の心の内。なんとなくといった感覚的な物であったが、この時、明石は間近に見た神通の表情で確信を持った。同時に明石は噛んだ奥歯に力を入れ、それまで沈黙していた両腕を動かす。
『だらぁああ─!』
神通が明石に対する4度目の拳を振り下ろそうと振りかぶった瞬間、人が変わったように神通を睨み返した明石は神通の襟を掴み返し、彼女の鼻めがけて自身のおでこを突き刺す。すると何かが折れる鈍い音が響き、真正面から衝撃を食らった神通は大きく後ろに仰け反る。
『がっ・・・!!』
続けて明石は咄嗟に首から手を離した神通の顔をめがけ、さらに右手の拳を叩き込んだ。そのおかげで一層の勢いを増して後ろに仰け反って倒れる神通。彼女の鼻からはおびただしい量の血がポタポタと滴りだす。
『く・・・! こ、この、ガキがぁあ・・・!』
自分の血を目に映す事で興奮が増したのか、神通は鬼の形相に作ったしわをさらに深くしてそう言い放ちながら立ち上がろうとする。だがそこに響いた明石の言葉に、彼女の身体の動きが止まる。
『なにが、二水戦よ・・・。』
『あぁ・・・?』
『なにが、旗艦よ!』
『く、貴様・・・!』
『貴女、誇りを盾にしてただ自分から逃げてるだけじゃない!』
突如として浴びせられた明石の言葉は、神通の胸の内にて燃え盛る炎に油となって突き刺さる。ただその炎は怒りという感情のみで構成されてはおらず、明石の言葉を受けて強くなった火勢は胸に宿す神通の抗いの気持ちをうっすらと表しているのだった。
『なにぃ・・・!?』
『そんなに自分の恥をさらしたくないの!? 実の妹をこんなにまでして二水戦の旗艦をしたいの!?』
『黙れ、黙れぇえ!』
再び叫んで立ち上がった神通は明石に跳びかかり、その顔めがけて拳を打ち込む。頬に刺さる神通の拳は明石の顔から鮮血を飛び散らせるが、明石は倒れずに神通の顔に向かって自身もまた拳を打ち返す。
殴りあう二人に那珂の叫びも既に届かなかい事は明白だったが、その刹那、那珂はそこに不思議な光景を見た。明石が無言で殴るたびに神通は後ろに仰け反るのに対し、明石は殴られても一歩もその場から動かなかった。そして神通の瞳の縁に僅かに、僅かにだが光る物が溜まっていた。
あの事件以来、ずっと見た事が無かった神通の涙。
那珂はその光景に、二人を止めることをやめる。
やがて明石の拳を受けた神通が大きく仰け反り、かろうじて後ろに伸ばした脚で倒れるのを防いだ。
『あぐぁっ!!』
明石の拳に神通は立ったままだったが殴り返そうと脚を前に出したと所で、突然膝からガクンと崩れた。痛みに歪む神通の顔のあちこちから血がとめどなく落ちていく。肩を大きく上下させて息をする神通を、明石は同じ様に肩で息をしながらも決して衰えぬ闘争心を瞳に浮かばせて睨みつける。
ふいに明石は、片膝をついて苦痛に耐える神通から真横に視線を流した。那珂が倒れる砲塔側面の端に、神通が昼間に持っていた軍刀が立掛けられている。すると明石は何を思ったかおもむろにその軍刀に近寄って鞘から中身を抜く。美しい刀身が満月の光に照らされてギラギラと光った。
『あ、明石・・・!!』
『はあ、はあ、き、貴様・・・!!』
いよいよ凶器まで持ち出すかと瞬時に脳裏に過ぎらせた那珂と神通の声を無視して軍刀を眺める明石だったが、彼女は身体の向きを神通の方へと向けはせず、そのまま砲塔側壁に向かって軍刀を手にした腕を上段に振りかぶった。神通がその光景に咄嗟に叫ぶ。
『や、やめろ! やめろぉおお!!』
『はあ、はあ、・・・こんな物!!』
刹那、叫びながら明石が思いっきり砲塔側壁へと振り下ろした軍刀は、鉄の塊である側壁に切りつけた瞬間、気味が悪いくらい綺麗な音を発して真っ二つに折れた。長い余韻を放ちながらその場に転がる軍刀の片割れが月明かりに輝き、僅かな沈黙がその場に立ち込める。
『はあ、はあ、はあ・・・。』
床に転がった刀身の片割れを眺める明石だったが、神通に目線を移して驚いた。
『ああ、ぅあ・・・、ぁ、うぅあぁあ!!』
叫んで飛び掛った神通は驚く顔の明石に拳を振り下ろしたが、既にその腕には力が込められていない。そして飛び掛ってきた神通の顔からは、大粒の涙が流れている。神通は明石の前で両膝から崩れながらも、明石の胸に力の抜けた拳を何度も振り下ろして泣き叫んだ。
明石はそんな神通の顔をじっと眺める。今の今まで獣のように凶暴だった神通はまるでそれが別人であると主張するかの様に、今は子供の様にぼろぼろと涙を流し、大声を上げて泣いているのだった。
『畜生、畜生・・・!!』
憎いのか悲しいのか、その色合いに判別がつかない声色で響く神通の声。否、それは明石の耳にも那珂の耳にも、ずっとずっと昔から発してきた神通なりの悲鳴のように聞こえる。
『畜生、あぁぁ・・・、お、お前にわかるか!? 目の前で部下を殺した私の心が!?』
『・・・。』
『私のスクリューに巻き込まれてバラバラになった乗組員の姿が!?』
見栄も体面も無く絶叫する神通は、次第に明石の前で膝から崩れ落ちていく。その真相を明石はまだ知らないが、きっと辛い経験を得た故にこうなったのだろうと察する。
『責任を感じて自殺した私の艦長の事がお前にわかるかぁ!? う、うぅ、・・・畜生!!』
『・・・。』
『畜生、畜生・・・。私が、私がもっとしっかりしておけば・・・。あ、あぁあ・・・。』
神通はまるで明石の脚にすがりつく様な姿勢にまで崩れ落ち、やがて四つん這いになって嗚咽に苦しむ声を発した。初めて自分の事を話して号泣する神通の背に、表情を変えぬままで明石はそっと手を触れる。
『言ってくれなきゃ、わかんないよ・・・。』
『あ、あ、ああぁ・・・、ぅ、うあぁあ!』
神通は咆哮して大声で泣いた。月夜に響く神通のその咆哮は、海に呑み込まれて行く悲しき龍の断末魔の様に、明石には聞こえた。
『よし、と。これで大丈夫だよ。』
優しく月明かりに照らされる神通艦艦首では明石に治療される那珂と、その那珂に治療を施す絆創膏だらけの顔の明石、そして二人から少し離れたところに同じく絆創膏だらけの顔をした神通が座り込んでいた。神通は両膝を抱えながら、折られた軍刀を横において俯いている。
『クソ、真っ二つにしやがって・・・。』
その内に神通の静かに発せられた言葉に、那珂への治療を続ける明石は苦笑いで応える。
『ごめ〜ん、大事な物だったんだね。』
『ふん・・・。』
明石の言葉に神通は静かにそう返すと、膝に顔を埋めるようにして丸くなった。明るい月の光と瀬戸内の風によって作られた波音が、彼女達のいる甲板を包んでいく。
その後にしばしの沈黙を置き、神通は目を閉じて口を開き始めた。放たれる声によって月明かりの波間に紡ぎだされて行く物は、狂気に染まった人柄を持つ彼女の理由。神通という艦魂の全においてきっかけとなった、彼女の過去の物語であった。
『・・・あれは昭和2年の8月24日だった。私と那珂は連合艦隊の主要艦艇と供に、島根県の美保湾沖合いでの訓練に参加していた・・・。』
ふと自分の過去を語り出す神通の声。それに気付いた明石が顔を向ける中、神通は視線を波間に向けたまま続けた。
『あの頃、ワシントン軍縮条約もまだ記憶に新しかった帝国海軍は〝訓練に制限無し〟の掛け声に必死になっててな。前の年からの度重なる猛訓練で、当時の帝国海軍の艦魂達は随分疲れていた。当然私もな。』
『・・・。』
『そんな中での美保湾での訓練は、月明かりの無い曇り空の中での大規模夜間演習だった。攻撃軍第5戦隊、第2小隊として参加していた私と那珂、それに配下の駆逐艦達は、防御軍出動から30分経った2200に出動した。出動から5分程で、攻撃前進が下命されたよ。』
神通は自分の過去を流れるような勢いで語るものの、その顔はさっきから一度たりとて明石の方へと向けられてくる事は無い。ただ神通の丸くなった背に浮かび上がる独特の雰囲気は明石への拒否を示すものではなく、明石自身もそれを何となく感じ取って積極的に神通へと語りかけてみる事にした。
『神通さんが旗艦だったの・・・?』
『・・・小隊のな。あの頃の私や那珂は、竣工から2年程しか経ってない新鋭艦だった。疲れてるのは皆同じ。だから私達は新顔だてら、防御軍の戦艦部隊をやっつけてやろうって躍起になってた。出動から1時間程で北にいる敵と接触した私達は、防御軍所属の二等巡である龍田さんから照射砲撃された。如何せん形勢が不利だった私達の部隊は北東から北北東に変針したが、すぐに伊勢さんや日向さんから二度目の照射砲撃を受けた。』
その場には波の音と神通の声だけが響く。凛とした声を持つ神通の語りは指揮官としての才を耳にする者に良く伝え、二水戦旗艦への誇りが強いという那珂の言葉を明石に良く理解させる。しかしその声は、やがて段々と震えが混じる様になっていった。
『・・・私達の部隊は速力を生かして後ろに回りこむ為に、針路を北北東から南東に変針した。後続の部隊にも知らせるために私は舷灯をつけて急旋回したんだが、後ろに那珂がいた事を確認していたから舷灯の点灯は2分程で終えた。防御軍に行動を教えるような物だったからな・・・。』
ふと言い終える間際の神通の語尾が少し含みを抱いている事に明石は気付き、妹の那珂もまた姉の感情が変化し始めた事を敏感に感じ取る。むしろ姉が感情を歪めた真相を那珂は当事者の一人として知っている手前、彼女は記憶の向こうに眼前の姉と同じ光景を微かに写しており、やがて神通が放つ言葉によってその光景の持つ輪郭は次第に明確な物へと変化して行くのだった。
『神通姉さん・・・。』
『それがケチのつけ始めだった・・・。さらに後ろの転針が終わっていなかった第27駆逐隊は、私からの探照灯信号で防御軍の存在とその方位以外、他の部隊の行動なんか何一つ知らされて無くてな。とりあえずは敵の位置方位に向かって急行しようとして、北東に向かって全速航行を始めたんだ。』
『北東って・・・。』
『ああ・・・、大転針した私の正面に27駆は向かってしまったんだよ・・・。』
僅かに呼吸を整える神通だが、彼女がそれと同時に服の袖を握った手に一層の力を込めた事を明石は見逃さなかった。それは震えだしてしまう手を、なんとか抑えようとする神通なりの抵抗。しかし無常にも彼女の企図は成功しておらず、その唇から漏れてくるのは震えの振れ幅がさらに増した声である。
『私はその時、どうやって防御軍を仕留めるかしか考えていなかった。ちょうど艦長である水城さんとも、意見が合ったからな・・・。』
『意見が合った・・・?』
その言葉に思わず明石は声を上げ、それまで続いていた神通の語りを遮る。だが明石のそれは無理も無く、艦魂と人間が意見を合わせるという神通の言葉が明石には簡単に理解できなかった。なぜなら艦に宿る命である艦魂がその実は自分の意思では舵一つ切る事ができない存在である事を知っているからで、実際に操る人間達に対して基本的に自分の思う所を伝える事もできない。艦魂とは人間の瞳には映らず、その声も耳に拾われる事はない存在なのであり、忠の様に艦魂と触れ合える人間とはかなり特異な存在なのである。
そんな事から「意見が合った」という神通の言葉に明石は首を捻っていたのだが、当の神通は顎の辺りを膝に埋めたまま口を開き、明石のその疑問に対しての明快な答えを打ち付けた。
『・・・お前の所のあの若造と同じだ。艦魂が見える人だったんだ・・・。』
『えっ・・・!』
『まだ生まれて間もなかった私に、水城さんはとても優しくしてくれた。冗談好きの良く笑うオッサンだったよ。いつも〝オレの事は父さんと呼べ!〟なんて言ってたな・・・。今思えば、私はその事で調子に乗ってたんだな。艦魂としての覚悟も経験も持たないくせに・・・。』
初めて耳にした事実であると同時に、この神通が自身と同じ境遇の中にいた事に明石は驚きを隠せない。その上でかつての自身の未熟さを蔑む神通に明石はなんと声をかけて良いか解らず、空返事にも近いような声を返すのが関の山だった。
『そう、だったんだ・・・。』
『ふん・・・。旋回中になって、私は右舷から高速で接近する27駆に気づいた。無灯火だったアイツ等に気づいた時には、既に距離が400メートルくらいしかなかった。私は慌てて両舷の舷灯を点灯して、取り舵で回避したんだ。』
神通の語りの合間にある吐息がほのかに荒くなり始め、静かな瀬戸内の潮風に乱れを与え始める。声の音色にもその吐息は影響を与えており、黙って耳を澄ます明石の後ろでは、那珂が何事かを姉の声色で思い出したのか静かに咽び泣き始めた。
『・・・無我夢中だった。でもそこで警戒すべきさらに後続の艦を、私は全く見ていなかった。回避したのは先頭の菱で、その後ろに追随していた蕨に気づいた時には、・・・もう遅かった。後進も転舵も間に合わず、私は蕨の左舷中央艦尾寄りに突っ込み・・・、蕨はそこから真っ二つになって沈んだ・・・。』
『う、うぅ、う・・・。』
『那珂さん・・・。』
神通が言い終えると同時に、少し離れた所で座り込んでいた那珂は両手で頭を抱えながら俯き、悲しげな声で涙を流し始めた。妹の鳴き声に神通も瞼を伏せ、震えが増すのと同時に規律を失い始める声で続ける。
『その時、蕨の艦体から上がった炎を確認した那珂は取り舵を切って後進をかけたが、その後ろから現れた葦に真横から衝突したんだ。葦も艦尾を切断されたが、幸い沈みはしなかった・・・。』
そう言い終えるや神通はゆっくり自分の右手を眺めた。口に手を押さえてむせび泣く那珂を気にしつつも、明石は神通に顔を向ける。神通は視線を右手に向けたまま、やがて目を細めてゆっくりと口を開く。
『・・・衝突して燃える蕨艦の艦橋に、私は蕨を見つけた・・・。皮一枚で繋がっただけの脇腹から出た、水溜りのようになった血と、肉と、臓物の中に倒れて・・・、瞬きもせずに乾いた瞳で私を見てた・・・。』
『・・・。』
『訓練は即刻中止。60隻以上がひしめいていたあの海域は大混乱だったよ。救助作業も視界が利かなくてな、蕨乗組員の犠牲者の内の何人かは、救助作業中に私の艦のスクリューに巻き込まれて死んだんだ・・・。』
惨いという言葉以外が見つからない神通の語る過去。ありありと瞼の裏に蘇るその光景が堪えた那珂は腰を折り曲げ、甲板に突っ伏すような姿勢で涙を流す。同じ船の命として明石もまたその悲惨さをひしひしと感じる最中、神通は意図せず握った拳を小刻みに震わせつつも、自身に纏わる真実を伝える声を絶やす事はなかった。
『そんな事が・・・。』
『さすがに私も、その光景には気が狂いそうになったよ・・・。でも水城さんが、必死になって励ましてくれた。救助作業の指揮と、他の艦との連絡でそれどころじゃないのにな・・・。』
神通は少し顔を上げるが、絆創膏を張ったその頬には涙が流れている。ぎゅっと唇と膝を抱えた手に力を入れて彼女は続けた。
『私は艦首が大破して航行不能。演習に参加してた戦艦の金剛さんに曳航されて最寄の舞鶴軍港に戻り、そこで修理を受ける事になった。だがしばらく経って9月に入ったすぐの頃、水城さんは〝事故現場における責任者〟とかぬかされて、海軍省の馬鹿供から軍法会議で責任を追及された。事故直後の査問委員会は、責任は問わないと言ってたクセにな・・・。』
何度も出てくる神通と供に過ごした一人の人間の名。しかしその名に付属して放たれる神通の言葉を聞く限り、どうやら彼女と同じく彼もまた辛い道を歩む事になってしまったらしい。そしてその事を意識した途端、明石は殴り合っている最中に神通が放った言葉を思い出す。その要点を声に出して確認しようとした明石には、神通の悲しみの色合いのみで染められた悲痛な声が返ってくる。
『も、もしかして、さっき言ってた自殺した艦長って・・・。』
『水城さんは本当に優しい人だった・・・。艦魂の私にも乗組員にも家族のように愛情を注いでくれた。きっとあういう人が、人間が呼ぶ〝父さん〟なんだろうな・・・。でもそんなあの人だからこそ、事故の責任を、つ、強く感じすぎ、た・・・。う、うぅ、う・・・。』
神通は嗚咽しながらも、顔を上げたまま唇を噛み締めて堪えていた。艦魂が見える人間と関わったという神通の気持ちが、同じく忠という人間と過ごしている明石には痛いほどに解る。
『そして、は、判決がでる前日の12月26日・・・。水城さんは、うぅ、自宅で首を切って、じ、自決、したんだ・・・。』
『う、神通、姉さん、うぅ・・・。』
『・・・。』
ぽろぽろと頬を伝う神通の涙に、当時を知る那珂も、そして彼女の気持ちを身にしみて感じる明石も、ただ静かに涙した。
神通は涙を拭おうともせず、ただ唇を噛んで押し殺そうとする。その行動こそが、神通の今までの心の内をあらわしているように明石には見えた。込み上げる涙を必死に押し殺し、眼前の月に光に湿った瞳を輝かせながら神通はさらに言った。
『・・・修理が終って時間もしばらく経った頃、私は二水戦旗艦になった。花の二水戦旗艦は嬉しかったけど、私の失態から出た皆の犠牲を踏み台にしたような思いだった・・・。』
『・・・。』
『だから、私は決めた・・・。水城さんや、蕨や、死んだ乗組員の犠牲を無駄にしないと・・・。同じ過ちを絶対に繰り返さないと・・・。どんな手を使っても・・・。』
膝を抱く腕に神通は顔を埋める。その横で明石は頬を流れる涙を拭うと、ゆっくり立ち上がって空に輝く満月を見上げた。美しく輝く青白い月の光が、今だけは少し憎たらしく彼女の瞳に映る。そしてその光りに包まれて丸くなっている神通の背中に、彼女がただの暴力的で我がままな輩では無い事を悟り明石は口元を緩めた。
『私ね、あなたの思った事は正しい事だと思うんだ・・・。そんな思い、誰だってしたくないし、繰り返されてもいけない・・・。』
『・・・。』
『でもそれって伝えるべき事であって、押し付ける事じゃないと思う・・・。』
明石の言葉に神通は無言で俯いた顔を少しあげた。月の光を反射する水面の光が神通の心を洗っていく。
『伝えるべき事・・・。』
『うん・・・。あなたはとても辛い経験をしたけど、そこから生まれた教訓も持ってる。それはあなたの意地や悲しみに左右されるのは、いけないと思うんだ・・・。』
『・・・。』
『あなたはそんな経験をしたからこそ特別だと思う・・・。それならあなたは全てを捨てて、精一杯、二水戦旗艦という職を真っ当するべきなんじゃないかな・・・?』
明石の言葉を聞きながら神通は月を見上げた。眩しい程に空に輝く月に、神通は目を背けるようにして横にあった軍刀に手を伸ばす。霞む瞳で見つめるその軍刀に、神通は古い記憶を脳裏に浮かばせる。そしてそこに纏わる思い出が神通の頭を一通り駆け巡ると同時に、ふと顔を上げた神通は軍刀を月夜の海に投げた。空中で回りながら鞘から抜けた半身の軍刀はキラキラと光り、やがて静かな水音を立てて青白く輝く水面に呑み込まれていった。
『じ、神通姉さん・・・。その軍刀、水城さんの・・・!』
咄嗟に発した那珂の声に、明石は神通を見た。神通は顔を上げて、軍刀が沈んだ水面を小さく笑みを浮かべて眺めていた。
『ふん・・・。もう、いらん・・・。いらんさ・・・。』
神通はそう言うと、那珂と同じ方向にいた明石に顔を向ける。すると那珂の目には、優しかった昔の姉の笑顔が映った。神通姉さんが帰ってきた、その想いに那珂は声を出さずに、再び涙を流す。
『ふん。変な奴だな、お前は・・・。』
『ふふふ。そうかなぁ。』
神通の笑みに明石も応えた。神通にはもう狂気を纏った感じも、剥き出しの敵意も無い。優しく微笑む神通の笑みは青白い月の輝きに照らされ、絆創膏だらけにも関わらずとても綺麗な笑顔だった。
『なんで、お前はあんなに強いんだ・・・?』
神通は再び海に視線を戻して声を発する。小さく笑いながらも、それは少し羨みの色が混じった声だった。明石は神通の問いに、小さくため息をしてから答えた。
『二水戦旗艦のあなたと、似たような物をもってるからかな・・・。』
『え・・・?』
振り返る神通に、明石は少し首を傾げて微笑むと声を返す。
『私は帝国海軍工作艦明石だから・・・。そして軍医さんのつもりだから・・・。』
『・・・私はそれを〝盾〟にしていたから、負けたのか・・・。』
『・・・私も思いっきり殴ったからなぁ。』
月夜に静かに響いた明石の再度の応答の言葉は、それまでの重苦しい会話の雰囲気を瞬時に明るくさせる。するとそれは声を放つ二人の心へと即座に波及し、時を置かずして神通と明石は笑い合った。
『ふははは、お前と喧嘩しては命がいくつ有っても足りんな。』
『ふふふ、私も死ぬかと思ったよ。』
笑いながら明石は、座り込む神通に近づき手を差し出した。甲に青くアザができた明石の手、神通は同じく傷だらけになった自分の手を出して立ち上がった。明石は立ち上がった神通にニッコリ笑って口を開く。
『二人は、明日帰すよ。』
『ああ。安心してくれ。昔はもう全部捨てた。ありがとな、明石。』
交わった二人の傷だらけに手には優しくて、それでいて力強い信頼の念が込められていた。那珂は月の明かりに包まれる二人のその姿を脳裏に焼き付け、二人の間に新たに生まれた感情を心の底から祝福して微笑む。やがて那珂が悟ったその感情を示すように、明石の言葉に対して神通が答える。
『神通さん、これからも─。』
『神通でかまわん。敬語もいらん。・・・お前とは旨い酒が飲めそうだ。』
神通もまた満面の笑みで言った。彼女はは交わった手を離すと、座り込んで微笑んでいた妹に歩み寄ってしゃがみこんだ。
『那珂、ごめんな。本当にごめんな・・・。』
『神通姉さん・・・。』
那珂の頬に手を触れて謝る神通に、那珂は抱きついた。二人は明石より見た目も実年齢も10歳以上も年上だが、明石には不思議と幼い姉妹が再会を喜んで抱き合っている様に見える。神通も那珂も、優しい笑みを浮かべながら涙を流して抱き合っていた。
3人を月が静かに照らす。遥か昔からさし続けた青白く優しい光りは、その夜もただ黙って辺りを包んでいた。