第六八話 「繋がり/前編」
昭和15年10月5日。
観艦式を前に横須賀在泊の艦艇達では乗組員の殆どが上陸を許され、見物客で賑やかな横須賀の街へと足を運んでいた。最近はやれ訓練だと言っても甲板を走り回って用具の出し入れをするくらいが関の山である乗組員達は、身体に残る元気を横須賀での娯楽にうんとつぎ込む。いつもは銭湯に行って溜まった垢を落とすだけの者も、今回はついでに食い物屋や映画館、本屋、鎌倉への小旅行と、それぞれの気が向くままの上陸生活を送る。第二艦隊司令長官の古賀中将も、最近では艦隊旗艦の愛宕艦よりも陸上の横須賀鎮守府庁舎に出向いてお偉方同士で語り合う事が多い。階級が高かろうが低かろうが、やっぱり抑制の多い艦艇での生活よりもきままに行動できる陸上の方が彼等にとっては気が楽だった。
しかし自身の分身から人の気配が薄くなった事を、艦の命である艦魂達はちっとも残念に思うことはない。乗組員が少ないと人目を気にせずに艦内の設備を使えるし、倉庫に忍び込んで缶詰をちょっと失敬と銀バイする事も簡単だからだ。文字通り自分の身体である艦内であっても、これらを人目を忍ばずに実施するとたちまちその艦艇は幽霊船と認識されてしまう。前例こそ無いがそれを理由に廃艦処分とされたくない彼女達は、これでも結構普段の生活では人間達に影響の無いようにあれやこれやと気を使っているのだ。
そんな事から彼女達は、賑やかな街並みにて羽を伸ばす自身の乗組員達と同じ様に、のんびりと自身の分身の中で自由気ままな生活を送っていた。普段は士官室で鎮座している蓄音機をかけてみる者もいれば、乗組員が持ち込んだ雑誌に目を通して俗世の知識を吸収する者、間宮艦に代表される糧秣運送を行う特務艦の艦魂に頼んでお菓子を調達する者、人間達の中でも滅多に食べれないパイ缶(※パイナップルの缶詰)を拝借する者など、その過ごし方は雨が多くて憂鬱な最近の横須賀のお天気を忘れるのに十分なほど明るいものであった。
そしてその日の夕方。
観艦式への参加の為に呉からやって来た一戦隊の陸奥艦の長官公室において、観艦式の祝賀の宴が催される事になった。発案者はもちろん長門と陸奥で、普段のお勤めに励む部下達への労いと交流の場を設ける為である。
北は千島から南はトラックまでと、あちこちにてそれぞれのお仕事に励んでいる帝国海軍の艦魂達であるが、普段から艦隊で分けられたり個別に整備入渠をしていたりと、一堂に会する機会というのは実は少ない。既に誕生から20年以上経ている長門ですらも、まだ一度しか会った事がない仲間というのはそこそこにいるのだ。なまじ連合艦隊の旗艦として妹の陸奥と供に励んできた長門は、大演習の時以外は日本近海から離れた事が無い。支那沿岸や南洋方面にて常に頑張っている者達とは中々会えない日々を送ってきたのである。
故に長門や陸奥にとっての今回の宴は、普段から自分達から見えない所で頑張っている者達への慰労の意味も含んでいるのだった。
長門艦の長官室は一応は連合艦隊司令部であり、常駐の人間達もいる為に宴の会場は陸奥艦の長官室とされたのだが、横須賀在泊の全ての艦魂達を詰め込むにはいくら陸奥艦の長官室といえど狭すぎる。だから招待者は戦隊長級の者とされ、駆逐艦や潜水艦、中型の特務艦等の艦魂には祝賀のお菓子を間宮に頼んで作ってもらい、それを下賜する事でせめてもの労いとする様になった。
意外にもこういう所には細かい気配りが利く長門は、間宮がせっせと作ってくれた紅白の饅頭が収まった箱に一枚一枚普段の勤労を労うメモを忍ばせ、水兵の階級にあたる艦魂達の疲れた心を癒してやる。いつも朝の起床する所から長門には手を焼いている妹の陸奥も、姉のこういう細かな気配りだけは深く尊敬する。もっともこれをお仕事にはびた一文発揮してくれない姉の性格に、陸奥は苦笑いしながら溜め息を吐くのだった。
やがて冬も迫る横須賀の波間は一瞬の夕焼けに染まったかと思うと、すぐに冷たい空気漆黒の闇に包まれる。折から頭上を占領するどす黒い雨雲も相まって、まだ夕飯時だというのに横須賀の波間は深夜を思わせる程に真っ暗だった。
しかしそんな波間に浮かぶ陸奥艦からは、人間達が耳にする事の出来ない極めて明るい笑い声が絶えず響いている。その中には姉の様に慕っている長門より、戦隊長の職を抱いていないにも関わらず招待して貰えた明石の声もあった。
一応は階級により職域や身分を表す艦魂社会における社交の場。例えその場に仲が良い長門がいるとしても、いつもの様に気軽に声を交えるのは少しばかり遠慮する明石。彼女は部屋の壁際に那珂や神通と並んで、手に持ったお皿から美味しい料理を口に放り込む。いつもなら素手で掴んでポいっと投げ込む明石も、社交の場においてはそんなみっともない真似は出来ない。真っ白な手袋までした正装姿は、神通や那珂に言われずとも明石の気持ちを律した。もっとも美味しい料理を胃袋に流し込む事が最大の喜びである彼女の事、その心根は別に不機嫌な訳ではない。
しかもこのお料理は、全国津々浦々から集まってきた運送艦の艦魂達が銀バイしてきた本物の食材を、つい先日明石も会った富士と同じく横須賀にて練習特務艦として余生を過ごす春日艦の艦魂である春日と、帝国海軍艦魂社会一の料理人である間宮が調理した立派で豪華な洋食。給糧艦である間宮は先日明石が訪ねた際のお菓子だけではなく和食も洋食も作れるだけのお勉強を積んでいる艦魂で、最近は支那料理もお勉強中と普段の努力には余念が無い。そしてそんな間宮に洋食の手解きをしてあげたのが、この春日であった。
春日は春日型装甲巡洋艦の一番艦で、誕生したのは明治36年。春日自身は既に小じわの混じる顔をしているのだが、明石の師匠である朝日より若干歳は下になる。帝国海軍にあっては非常に珍しいイタリア生まれの艦艇であり、元々はアルゼンチン海軍の艦艇として建造が始まるも、その最中に日露戦役を控えていた日本海軍に転売されて渡ってきたという変わった経歴を持っている。日露戦役当時は濃霧の中で先輩である吉野艦を衝突事故で沈没させてしまうなど、華々しい活躍一辺倒とは行かなかったが、その後は世界各国の海域に派遣されてよくその任務に励んだ。
色々と苦労の多い艦歴であるがその命たる春日は陽気な人柄で、横須賀に練習特務艦として繋留されてからは趣味でもある料理を朝から晩まで楽しむ日々を過ごしている。そんな中で帝国海軍で食されるマカロニの料理に始まる洋食を彼女は間宮に教え、特にイタリア出身の彼女は主計科が用いる参考書や献立には記されていないパスタ料理を惜しげもなく間宮に教えてやった。
そしてそんな二人の力作であるにその場にある料理は、明石がこれまで見た事も無いような洋食の群れ。長机に敷かれた真っ白なテーブルクロスの大海原に、色鮮やかに料理が盛られた大皿と小皿がそれぞれに単縦陣で並び、ほのかに上がる香りはまさに石炭の煙。満艦飾を施しての艦隊航行とはこういう物かと思える程の、料理の大艦隊であった。
笑顔で頬を大きく上下させながら、明石は隣で静かに酒の入ったグラスを唇に添える那珂と神通に声を発する。
『すて〜き、んまい〜。』
『そう、明石は初めて食べたのね。ステーキ。』
『んまい〜〜。』
式場入り口近くの壁に沿って並べられた長机の上。たくさんの豪勢な料理が並べられたそこから持ってきた明石の手にあるお皿には、山の様に盛られたこんがり焼けた牛肉。人間達が希に艦隊外からの客人をもてなす際と同じ「饗応」と呼ばれる立食形式の宴に合わせ、そこに用意されていたのはサイコロステーキであるが、生来食いしん坊の明石はお皿にてんこ盛りにして食べていた。塩胡椒の効いたステーキの味はいつもの質素な海軍のお食事とは別格で、それでなくとも普段から膳に整えられた食事を食べる事など滅多に無い明石にとって、その日のサイコロステーキの味は忘れられない味だ。香ばしく肉汁たっぷりの牛肉は、噛み心地も舌触りも最高。もはやそれは「幸福」という言葉すらをも明石の脳裏に浮かばせ、明石はあまりの美味しさで無意識に涙まで流す始末だった。
式場の中の一部の者達はそんな明石の姿を見て失笑している者もいる。だが美味しい一時をこよなく愛する明石には、自分に対する他人の視線など微塵も気にならない。そこに美味い食い物がある。それだけが明石の生き甲斐と言えば、生き甲斐なのであった。
『ん・・・、ん・・・。んめえ〜〜。』
そうこう言って忙しなくフォークを行き来させる明石に、那珂と神通は思わず笑みを溢す。だがそれは、普段から親しく付き合っている明石の幸せそうな表情に触発されての物ではない。
それはこの宴が始まった際の事。
明石は談笑が始まるやすぐさま料理が並べられている机へと突貫したのだが、お皿に料理を盛って帰る際に室内にいる全ての者達から一斉に笑われてしまう。静かに酒をグラスに注いでいた神通と那珂は突如として起こった笑いの渦に顔を見合わせて首を捻っていたが、やがて泣きながら二人の下へと走り寄ってきた明石にその答えを察する。まだまだ生まれたばかりで尻の青い新米艦魂の明石は、その場に沢山並べられている食器を適当に手にとって料理にありつこうとしたらしい。背を追いかけてくる視線と笑い声から逃れるようにして泣きついてきた明石の手には、なんと魚フォークを添えて肉料理をてんこ盛りにしたスープ皿が握られていた。これには思わず神通も笑ってしまい、仲の良い明石に対してついつい意地悪な物言いをしてしまう。
『ふははは。なんという田舎娘だ、テーブルマナーも知らんのか。はーっはははは。』
ただでさえ先輩方の笑い声にも耐え切れない明石なのに、神通はこれでもかと馬鹿にして大笑いしてしまう。決して神通が明石を本気で馬鹿にしている訳ではない事はその隣で苦笑を浮かべている那珂も良く解っていたが、意地悪全開の姉の物言いは明石の心の乾舷に見事な水柱を上げる。もちろんその刹那、明石の心は轟沈した。
『うええぇぇん・・・!』
待ちに待った料理を食べれず、先輩達に笑われ、泣きついた親友に田舎娘と蔑まれてしまった明石は、那珂の胸に頬を埋めてビービーと泣き出す。恥ずかしさ半分、悔しさ半分で涙する明石だが残念ながら神通の言葉通り、彼女はテーブルマナーのテの字も知らなかったのだ。
社交界にて用いられる礼儀作法の一つとして知られるテーブルマナーと海軍軍人は一見接点が無い様に思えるが、海軍に限らずそもそも船乗りというのは広大な波間の果てで異国の文化と交流する事は日常茶飯事である。
その際に自分の国の文化のみで相手と渡り合おうとするのは時には傲慢と受け取られる事もあるし、当地における円滑な意思疎通を阻害する事も度々ある。まして沢山の言語や文化が点在するこの世界において、相手がいつも必ず自分達への理解を示して受け入れてくれる事など有り得ない。時には相手に合わせ、例えちょっと首を捻るような物であったとしてもそれを口や態度に出さずに履行する柔軟性がないと、お船に乗る者達はやっていけない。それは人類が培ってきた叡智の一つであり、お船と海に生きる者の常識である。
帝国海軍が練習艦隊で若者達を世界中へ旅立たせるのも、今では少しばかり関係が悪くなってしまった米国や英国の公用語である英語を教えるのも、西洋の社交場にて必ず用いられるテーブルマナーを時折艦内にて士官達に練習させているのも、全て海に生活する者として身に付けなければならない大事な事であるのだ。特に海軍というのは国旗を背負った者達によって運営される組織であるのだから、行く先々での評価はそのまま国家への評価と繋がりやすい。海軍が士官の者達に対して一流の紳士としての教育に重きを置くのはその為であり、何も帝国海軍に限ったお話ではない。
そしてそれは艦魂達においても同様で、その場にいる明石以外の艦魂達は一応はテーブルマナーを身に付けている者達ばかり。神通や那珂とて例外ではない。まだまだ駆け出しの艦魂である自身の身の程を、明石はこの時まざまざと思い知らされる。慰めようと咄嗟に声を掛けてくれた長門の言葉も、その事を明石によく理解させた。
『泣かない、泣かない。これから覚えれば良いのよ。割と簡単だし、すぐに一流の士官らしくなれるって、明石。』
未だに笑い声が静まらない中での長門の声と方に乗せてくれた手に、明石は泣きながら頷いて応える。長門が放った「一流」という言葉は、明石の脳裏で常に目標として掲げられる師匠の言葉を思い出させる。
「艦魂たる者は、一流の淑女でなければならない。」
その一流っぷりは例え食事であっても適用されるのだ。それを何一つ知らない自分はまだまだ未熟者なのだと、明石は鼻水と涙で湿った顔で肝に銘じる。
人間には決して知られる事の無い、艦魂独自の厳しい世界だった。
やがてようやく涙を飲み込んだ明石は周りに沢山いる先輩方の助けも貰い、なんとか多様なお皿やスプーン、フォークの名前と用途を知識として取り込む事に成功する。もちろん心優しい長門と那珂は彼女の肩を抱いて、一つ一つの食器を手に取らせて懇切丁寧に教えてくれた。たかがカップですらもコーヒー用と紅茶用で別れているという食器の種類は覚えるのに一苦労であったが、明石は必死にその場で教えられるテーブルマナーの知識を拾い上げていく。早く美味しそうな料理を食べたいのはもちろんだが、まだまだ先輩達の足元にも及ばない自分の身の程をなんとしても周りの者に追いつかせたかった。
自分の至らぬ点をどうすれば克服できるかを察する明石は生来の頑張り屋な性格も手伝って、未だに自分への嘲笑の余韻が残る室内で懸命に長門と那珂の声に耳を傾ける。僅かに顎を引いて唇を噛み締めるその表情は、師匠である朝日とのお勉強の際にも発揮した明石の励む姿。
テーブルナプキンの使い方に始まり、フォークとナイフの使い方と選び方、手前からすくって音を立てずに溜飲するというスープの食し方と、明石は持ち前の根性で那珂や長門の手ほどきを受けていく。一応はお偉方のトップである長門はその途中で先輩方に御呼ばれされてしまったが、心優しい那珂と笑いが治まった神通という友人によって明石の教育は続けられる。神通とて明石を馬鹿にするつもりなど微塵も無い。何の触媒も介さずに胸の中に浮かぶ言葉を発する先程の神通の姿も、彼女が明石を心の底から友人と慕っているからに他ならず、10年以上の付き合いである金剛にも見せる事が無い姿なのだ。
『馬鹿者。ムニエルは皮と骨を取ってから食うもんだ。』
『ええ〜、鮭は皮だって美味しいのにぃ・・・。』
『グダグダ言うな。それすらも世界で通用するとは限らんという事だ。』
『ぅんもお〜〜・・・。』
いつの間にかそこに展開されているのは「私立神通学校」の課外授業。それも竹刀と怒号が響く普段の授業とは違い、今日は礼儀作法のお勉強と来た物だ。率先して明石に厳しい教え方で知識を与える神通の横顔に、那珂は可笑しさ覚えて笑ってしまう。駆逐艦の艦魂達からはとにかく一番に恐れられている「私立神通学校」も、今やテーブルマナーを教える女学院になっているのだから無理もない。
『魚は食べ終わったら、左から頭、背骨、尻尾と並べるんだ。位置は皿の上半分。』
『なによぉ、食べ終わり方なんてあるのぉ?』
『それを怠るという事は食い散らかしてるのと同義なんだぞ、馬鹿者が。』
そんなこんなの厳しい教育もあって明石はなんとかテーブルマナーを習得し、今はこうして那珂と神通を隣に置いてサイコロステーキをがっついている。しっかり肉用の皿とフォークで食を進める明石には泣き顔も既にどこ吹く風で、遠慮なくたらふく肉を食べる。そもそもが大食いである明石の食指は休む気配が微塵もなく、那珂の心配と神通の嫌味を受けてもそれは止まらなかった。
『あんまりお肉を食べ過ぎると太るわよ、明石。』
『ほっとけ、ほっとけ。デブになったら二水戦でしこたまシゴいてやる。』
『太らないも〜ん。んまい〜〜。』
短い口癖を放って溜め息を放つ神通と供に、那珂は慈愛芯溢れる笑みで明石を見守る。もちろん彼女が放った先程の言葉も、そこに込められている明石の体型に関する心配は対して濃い物ではない。
既に神通や那珂とは知り合って一年ほどになる明石は、いつも3人前はあろうかという料理をペロリとたいらげる。しかし彼女はそのスラリと痩せ型の体型を、これまでほんの少しも崩した事が無いのだ。人間の世界にも往々にしている、「痩せの大食い」という奴である。その上でその場に神通や那珂以外にも友人の顔がある事が、明石の心を高揚させて食欲をさらに増させる。
『戦隊長、何かお飲み物はいかがどすか?』
壁に寄りかかってグラスを空にした神通に横から、霰が小さなお辞儀をしながら声を掛けてくる。その背後では霞や雪風、朝潮といった神通率いる二水戦の艦魂達が、料理の載った台車やトレイを持って忙しなく室内を動き回っている。もちろん彼女達は今回の宴にて給仕のお仕事を任されているのであり、それは彼女達全員の分身にて乗組んでいる士官が食事をする際に水兵さんが給仕をするのと全く一緒である。
軍装がまるで違うお偉方の邪魔にならぬように次々と料理やお酒を長机に運ぶというのは大変だが、この様な場で給仕に就く事は彼女達にとってもそこそこの役得がある。それはもちろん、普段から用いている銀バイという手段をもってしても食べれない豪勢な料理を、休憩用に用意された別の部屋でだが彼女達も存分に味わう事が出来るのだ。明石と同じく彼女達だってステーキに始まる豪勢な洋食を食べた事なぞ、これまで一度たりとて無い。焼立てのお肉など高嶺の花も同然なのだ。
さらに、そもそもが優秀な水兵さんであるからこそこうして給仕と任命されて働いている彼女達は、その場を共にする直属の上官である神通を始めとするお偉いさん達に顔を覚えてもらう絶好の機会にもなる。
これまた人間達と同じ様に、清潔感を出す為に季節に関係なく給仕の際は真っ白な夏服、第二種軍装を身に付けてのお仕事であるが、寒さも空腹も忘れて霰達は忙しなく働いていた。
そんな中、早速その場にいるお偉いさんの一人に目を付けられた者が出現した。それは賑やかな声が木霊する中で響いた、ドスの効いた関西弁によって神通や明石に示される。
『吉法師〜。こんガキはワレん所の若いのやろ?』
特徴的な呼び名で神通に向かって声を上げたのは、彼女の師匠である金剛。
黒髪が目立つ中で今日も美しい滝の流れの様な輝きを放つ金髪を揺らし、彼女は部屋の真ん中の辺りでちょっと身を屈めながら神通に向かって顔を向けていた。鋭い菱形の瞳は金剛独自のおっかない雰囲気を色褪せさせる事は無いが、その表情には不機嫌な心の音色を微塵も潜ませていない事を示す笑みが浮かべられている。そして僅かに腰を折って身を屈めた金剛の小脇には、真っ白な水兵の服を身に付けた少女が一人抱えられていた。それはついこの間、明石が挨拶しに行った際に食らってしまった"金剛式"の歓迎の姿で、少女はこれまた明石と同じく完全に身体を宙に抱え上げられて足をバタバタと振っていた。
『これは、親方。』
そう言って神通は寄りかかっていた壁から背を離し、那珂や明石を残して金剛の下へと歩み寄っていく。明石と那珂はその場で遠目に金剛と神通のやりとりを目に映していたが、金剛の小脇に抱えられた水兵の顔に見覚えがあった事でその状況を察する。
『はっはっは。はぁ〜、この目や、この目。こんガキ、ワシん所で修行し始めた頃のワレにソックリやないか。』
『せ、戦隊長〜〜・・・!』
『犬・・・。』
金剛に抱えられたのは神通率いる二水戦の大問題児、雪風であった。どうやらお酒をお偉方に届けている際、その大きな釣り目を特徴とする顔を認めた金剛によって捕獲されてしまったらしい。
そして金剛の言葉通り、雪風の顔は今から10年以上前の神通の顔と大変に似ているのであった。当の雪風と明石は初めて耳にした事であったが、それを確認する前に金剛はふとに振り上げた平手を、抱きかかえた事で目の前に位置している雪風のお尻に連続して叩き込み始める。するとベッチンベッチンと乾いた音が室内に響き始め、金剛はその音を大変に気に入って嬉しそうな声を上げた。
『おお。若いくせに中々ええ尻しとるやないか。よお身体、鍛えてる証拠や。吉法師の普段の教えの賜物やな。』
『は、有難う御座います。』
大きな身体を持つ金剛は力も強いらしく、雪風を左腕一本で抱えて右手で尻を叩きながらも顔色を微塵も変えずに声を上げた。尻を叩かれる事で放たれる景気の良い音で室内の者達が視線を釘付けにする中、金剛は楽しそうに笑いながら教え子である神通の普段の勤労を讃える。
帝国海軍の艦魂の中でもっともおっかない性格を持っている金剛だが、神通にしてみればこの世で唯一人だけ教えを請いだ人物。加えて明治生まれながらも未だに戦艦籍を頂くこの金剛は、戦闘艦の艦魂としては大変に優秀な者であるのは周知の事で、そんな偉大な師匠に皆が見ている前で褒められた事は神通にとっては大変に名誉な事であった。冷静な顔色を変える事は無いが、その胸の内では神通の鼻は自身の分身のマストの様に高く伸びている。唇から漏らした師匠への返事も、那珂や明石には神通なりの嬉しそうな心の色を滲ませているのがすぐに解った。
もっとも雪風にしたら修羅場以外の何物でもない。肩幅も身長も上司の神通を遥かに凌ぐ金剛はその力も神通以上で、お尻に走る鈍痛は生半可な物ではなかった。
『ぎゃっ・・・! いてっ、いたい〜〜・・・!!』
『はっはっは! ホンマにええ尻しとるで。こらええ兵隊になるさかい大事にしいや、吉法師。』
『はっ。』
『あああ〜〜っ・・・!』
全くもって雪風という少女の気持ちなど無視して会話する神通と金剛。二人のその傍迷惑な所も師弟として共有しているらしい。
ただ決して金剛が虐めようとしている訳ではない事は皆が知っている為、部屋の中にいる者達はその光景を面白がって眺めていた。何より今から10年前、こうして金剛に散々に尻を叩かれて可愛がられたのは、今はこうして一人前の指揮官となっている神通も同じであり、長門を始めとしたお偉方の殆どはその時の光景を実際に見てきたのである。
やがて散々にお尻を叩かれた雪風の身体から金剛は腕を引き抜くが、すっかりお尻の感覚が無くなる程に鈍痛を覚えている雪風は受身も取れずにその場にうつ伏せで倒れてしまう。否、倒れたというより、金剛の脇の辺りから落とされたという表現が正しい。
『ぐっへえぇ・・・!』
『はっはっは。男は顔や、女は尻や。ワレ、犬やら言うたな。吉法師はワシが教えたモンの中でも一等優秀な奴や。親や思うて、しっかり言う事きかなアカンでぇ。』
腰に手を当てて高笑いをする金剛の足元、雪風は腫れあがったお尻を擦って呻き声のような返事を返す。その場を共にする霞や霰などはその光景に鬼や蛇とあだ名される金剛という艦魂の恐ろしさを垣間見て震え上がっているが、つい先日同じ様に歓迎された明石は今にも泣き出しそうな雪風の顔を目にしても微笑を絶やす事は無かった。それは明石の隣で静かに口元にグラスを傾けている那珂も承知しているらしく、二人を笑みを交えて静かに笑い声を上げる。まるで他人を見下しているかの如く、それはそれは厳しい教育を後輩に課す事で恐れられる金剛であるが、彼女は大変にこの雪風という若者を気に入ったのだった。
『あ〜あ、雪風は今度から金剛さんに可愛がられる日々ね。』
『金剛さん、力が強いからなぁ。あはは。』
相も変わらずステーキを口に運ぶ明石と静かにお酒を楽しむ那珂はそう言って、眼前にて騒ぐ3人の釣り目の女子を笑う。不思議な物で、明石の瞳には3人が何か血の繋がった一系の一族の様に映る。子供を生む事は無い艦魂事情なのであるが、なんだか明石には金剛がお祖母さんで神通がお母さん、雪風は生まれたばかりの末娘の様に見える。なまじ鋭い釣り目という顔の一部の特徴も、そのまま3人それぞれの顔に反映されているのだから無理も無い。口にこそ出せないが、その鉄砲玉のような性格も良く似ている様に明石には思えた。
しかしそんな金剛一族に対する考察を巡らせた刹那、ふと明石は自分にはそんな事を感じる事の出来る人が一人もいない事に気付く。姉妹艦が自身にはいない事はもうずっと前から解っていたし、言ってもどうしようもない事だとこれまで生きてきた中で十分に悟っている。だが信頼や友情をさらに超えた親類的な繋がりを眼前の3人の姿で意識すると、そんな繋がりが自分には無い事が明石にはちょっとだけ辛かった。隣で立って笑っている那珂も、金剛と笑みを交えている神通も、その足元で目を回して倒れている雪風も、長机の周りで空になったお皿を台車に運んでいる霞や霰も、明石にとっては大事な友人で彼女達の心を疑うつもりも微塵もないが、悪く言うと仲良し止まり。自身に命の輪を繋いでくれたお母さんと呼べるような間柄ではなかった。
『いいなあ・・・。』
『ん? 明石、どうしたの?』
『あ、ごめん。なんでもないよ、那珂。』
ついつい漏らしてしまった、金剛達の姿に対する素直な感想。
明るく賑やかな先輩達の声が響く宴の最中にいらぬ心配を那珂にかけても悪いと思い、明石は彼女に小さな笑みを向けてそれ以上の言葉を覆う。それに母のような存在が欲しいというのは、別段明石が工作艦の艦魂として過ごす中で必要な物と言う訳ではない。先に同じ身として生き、叡智を蓄えてきた存在というのであれば、明石にはこれ以上無いくらいに大きな存在がある。今は上海にて励んでいる師匠の朝日だ。
でも明石はそれが自身の一方的な願望である事を知りながら、敢えて朝日が師匠ではなく自身の母だったらと考える。尽きる事がない知識に心構え、全身が染まる程に浴びせてくれる愛情。それらをいつも明石に向けてくれた朝日が、この時、明石には無性に恋しくなった。
朝日さん、いつ帰ってくるのかな・・・?
そんな言葉も脳裏に過ぎり始めた明石は、朝日を含む帝国海軍における全ての艦艇の動向を知っている親しいお人がこの場にいることを思い出して視線を流す。だが明石の瞳はすぐに動きを止めた。なぜならお目当ての人物はそれまでいたお偉方の集団から腰を低くして忍び足で抜け出し、なんと明石の方へと歩み寄ってきたからだった。後ろを何度も振り返るその人物は明石を視線が合うや、歩みをそのままに何故か口元に右手を添えて小さな声で声を発してくる。
『明石、明石〜・・・。』
『長門さん・・・?』
どうにもよく解らない長門の行動に明石は首を捻って声を返すが、ふと上げた明石の声に長門は慌てふためき、相変わらず後ろを警戒しながら右手の人差指を口の前に立てる。
『し〜〜・・・! 隣の部屋行こ、早く早く・・・。』
『な、長門さ─。』
『し〜〜〜・・・! バレちゃう・・・!』
明石のすぐ近くまで来た長門はすぐさま明石の袖を掴み、グイグイと引っ張って長官室の出口へと向かう。何やらさっきまでいたお偉方に見つかりたくない理由があるらしい事を明石は察し、長門と供に那珂に一言放って挨拶とすると長門に従い部屋を後にした。