第六七話 「男の修行」
昭和15年10月4日。
空気の持つ寒さが冷たさへと変わり始める最中の横須賀。その波間には、間近に迫った観艦式へと参加する為に全国から馳せ参じた帝国海軍の艦艇達がその威容を集わせている。カモメ達もその壮大にして賑やかな横須賀の波間を気に入ったのか、マストという豊富にある足場の上で翼を休め、野生の感が溢れる鳴き声で万歳を合唱した。
もちろんそれは横須賀の街並みとそこに住む人々にとっても例外ではない。
待ちに待った今回の観艦式は一同に会した帝国海軍の艦艇達が波間に浮かぶ姿を存分に見る事のできる特別観艦式で、横須賀に住む人々にとっては遠く沖合いにて展開される艦隊運動や戦技展示を眺めるだけの普通の大演習観艦式とはその魅力が一味違う。恐れ多くも天皇陛下の御臨席の下、帝国海軍の艦艇の威容を手に取るように間近で見る事のできる絶好の機会なのだ。
そしてその事に心浮かれるのは海軍に好意を抱いている人々にあっては当然の事で、この機会を逃すまいと全国から集まった人々によって横須賀の街並みは希に見る観光客の活気に沸く。駅の前の広場では市街移動用の馬車乗り場に長蛇の列ができ、いつもは海軍軍人で占領される土産物屋や食い物屋は観光客で大繁盛。寝床となる横須賀近隣の旅館や旅籠もこの頃には既に満室となっており、支那事変に疲弊しきった国内にあって横須賀の街はちょっとした特需景気に賑わっていた。足を伸ばせば帝都に横浜、鎌倉といった歴史豊かな大都市がたくさんある事も、それを後押しするのに十分であった。
しかしそんな横須賀であっても、工廠が存在する楠ヶ浦地区はいつもの静けさを保っていた。何もそれは、この一帯が帝国海軍の技術の粋を結集している工廠が存在しているから一般人の出入りが規制されているとか、発展した街並みに反してまだ緑が多く残る地区だからという訳ではない。何よりこの一帯に存在するとあるトンネルの付近は、当の海軍軍人すらも内心は近づきたくないと願う場所である。
そしてそのトンネルの入り口右側には、彼等が恐れおののいた物の名が表札として掲げられていた。
「海軍砲術学校」
トンネルを抜けた"軍紀風紀の風"にその身を洗う、海軍砲術学校校舎。
鬼の住処と海軍内では恐れられるその校舎の裏側に位置する錬兵場には、砲術学校の鬼達によって鍛えられる生徒達が集まっている。卒業を間近に控えた青年達の中、忠は仲間達と同じく銃剣道の胴着を身に付けて列に加わっていた。また、そんな彼らの列の前に正対する砲術学校の鬼、即ち教官もまた銃剣道の胴着を着ており、その鋭い眼光に青年達はちょっと肩をすくませる。頭上に立ち込めるどす黒い曇り空も相まって、その教官の顔はいつにも増して怖い代物なのであった。
『よおし、集まったな。前から言っておった様に、今日は銃剣道の昇段試験を受けてもらう。成績優秀な奴は考課表の方にも一筆入れてやるし卒業成績にも響くから、テメエら気合入れていけよ。解ったな?』
『『『はい!!』』』
まるで殴りこみでもするヤクザの様な口調で教官は言った。
青年達はハキハキとした威勢の良い返事で彼の言葉に答えたが、それは教官が口にした成績優秀者への得点について彼等が胸を躍らせたからではない。帝国海軍でも最も厳しいここにおいては、いかなる場合であろうともこんな返事を返さねば罰せられるのであり、忠を含めた青年達はそれをこの半年間で嫌という程に身体に叩き込まれてきたからなのだ。だから彼等は先程放った返事とは裏腹に、失態が許されないこれから始まる砲術学校の授業に胸を騒がせていた。
そんな中で当の忠は、仲間達とはちょっと違う気持ちでこれから始まる銃剣道の授業に望んでいた。いつにも増して精悍な面持ちを浮かべる彼の表情にもそれは示されており、忠の隣でそれを認めた藤平は不思議に思って小さく声を掛ける。
『おい、森。お前、随分気合入ってねえか?』
『え。そうですか?』
教官に聞えないようにと小さなヒソヒソ声で二人は声を交える。基本的には大人しくて寡黙な忠は藤平に声を返しつつ、いつもと変わらない小さな笑みを見せてやった。だが藤平は最近は見る事が少なくなっていた忠のギラギラと輝く瞳に、何やら彼が今から始まる授業に関して静かに闘志を燃やしている事を感じてならない。
やがてその藤平の感覚が当たっていた事を示すように、忠は口元を僅かに緩めて小さな声で言った。
『銃剣道には自信があるんですよ、オレ。』
『ふぅ〜ん・・・。』
あんまり会話を続けると教官に睨まれる事を予想し、藤平はそんな言葉を放って会話を止めるが、忠とは砲術学校入校以来の付き合いである彼は忠の様子を未だ内心では不思議に思っている。しかし実はその藤平の考察は当たっていて、忠は自身の銃剣道の腕前の他にも、これから挑む授業に対しての意気込みを増させる物を胸の中に抱いていた。
それは先月の事。
忠を含んだ一部の生徒達は、実艦実習と称して付近にて繋留されている練習特務艦、富士艦へと足を運んだ。仲間達と同じく久々に波間に合わせて揺れる足元の感覚に浸った彼は、そこで久しぶりに彼しか見る事のできない者達の一人と出会ったのだ。もちろんそれは富士艦の命である、富士という名の艦魂である。
彫りの深い顔立ちの車椅子に乗った老婆という富士の風体はかつての相方とは似ても似つかない人物像であったが、ゆっくりとした口調と外国人の顔を持った富士の姿に、忠は既に鬼籍に入っている自身の母方の祖母を思い出していた。幼少の頃、遊びに行けば必ず美味しい食べ物を用意して迎えてくれていた彼の祖母は実はアイヌ人であり、日本人離れした祖母の顔を忠は鮮明に覚えていた。故に忠は突然目の前に現れた富士に、今はもう見る事のできない自分の祖母の姿を重ね、初対面にも関わらず富士とは明るく楽しい会話をする事が出来たのである。
実習を上手くこなしながら仲間達に気付かれないように富士と話すのは大変であったが、久方ぶりの艦魂との会話で忠は最近忘れがちであった相方との日々を思い出していた。そしてそこから生まれた強い想いが、今の忠の面持ちへと繋がっている。
卒業も迫ってきた砲術学校の日々。海軍軍人の誰もが恐れおののくその場所での苦しい生活を良く耐えれた物だと忠は考えるが、同時にその日々をなんとしても優秀な成績で終わらねばならないと彼は心に決めていた。それは自身が偉くなりたいが為でも、海軍軍人としての自身の経歴にハクを付けたいからでもない。
意地を張って波間の上に置いて来てしまったかつての相方と、海軍軍人として、同じくこの世を生きる者として、釣り合いのとれた立派で良い男になる為。
ただひたすらなその想いだけが、忠の瞳の奥に静かに燃える闘志を生んだのであった。
やがて教官の指示の声が辺りに響き始め、生徒である青年達は一人一人前に出されて教官達を相手とした勝ち抜き戦を行い始める。人相も軍人というよりはヤクザ者に近いという教官達は銃剣道の腕前だって半端な物ではなく、初めの内は威勢の良かった青年達の声も1試合が終わるとその声には覇気と入れ替わりに疲労の色が滲み出し始めた。一人も倒せなかった生徒などは仲間達が見ている前で教官から散々に罵倒され、面を取った後におもいっきりぶん殴られてとぼとぼと列に戻る。どんどん自分へと迫ってくる順番に青年達は恐怖と動揺が混じった気持ちを増していくが、そんな中にあっても忠の表情は全く持って変化は無かった。
『よお、森。お前、本当に自信があるのかよ? あの佐々木まで5人抜きした所でやられたぞ。』
どうにも忠の目面しい表情の裏が読めない藤平は、彼自身も胸に抱いている恐怖と動揺をはぐらかす意味合いも含んで隣に腰を下ろしている忠に声を掛けた。すると忠は先程と同じ様に、目の輝きをそのままにまた小さく笑って応えた。
『あはは。まあ、やるだけやってみます。』
控えめで紳士的な忠の人柄と良く合っているその言葉だが、それが彼の心の音とまったく違う代物である事を藤平が察するのに時間はかからなかった。
なぜなら忠が声を返してくれた直後に、そこには教官の声で忠を呼ぶ声が響いたからである。
『次!森、お前だ!』
『はい。』
荒げた口調の教官の指示に忠はいつもと変わらない自然な返事を発して立ち上がると、小脇に抱えていた面を被りながら仲間達の前へと歩き出した。
しかしそもそもこの忠という男は身長が高い訳でもなければ、細身のその身体つきが示すように筋骨隆々とした怪力の持ち主でもない。涼しげな声での返事も相まって、この時の忠の背中は藤平を含んだ仲間達からはとても小さなものに見えた。『大丈夫かな、アイツ・・・。』等といった言葉が青年達の間で囁かれるのも決して無理の無い事であった。
『準備はできたか?』
『はい。』
『よおし、どっからでもかかって来い!』
いよいよ教官と忠がそれぞれの顔を面で覆い、お互いの剣先を相手の胸目掛けて構える。他の教官連中や仲間達は忠の静けさに彼の昇段の可能性を否定的に見ていたが、次の瞬間、忠の面の奥から放たれた猛々しい咆哮に全員が凍りついた。
『ォォオオオオーーーーッ!!!!!』
当の忠ですらも全身の毛が逆立つような感覚を伴って放ったその叫びは、普段は大人しい彼の姿からは想像も出来ない程に力強く気合の入った物で、まるで野生の獣が縄張りを侵した敵を打ち倒した時に上げる勝利の鳴き声の様でもあった。藤平を含めた仲間達はもちろん、それは彼と対峙していた教官にあっても同じであり、その教官は面の奥で隠れた忠の顔の部分に一際ギラギラと野生の輝きを放つ瞳を認めて思わず首筋に冷や汗を流す。
兵学校では典型的なお嬢さんクラスの卒業生にして、その性格もまた男らしいといった所が少しばかり影を潜めている忠。そんな彼が見せた本気であった。
そしてその最中、忠はずっと心の中である言葉をずっと叫んでいるのだった。
絶対、絶対帰るからな。
帰ってあの頃の事、絶対に謝るからな。明石。
その日、曇天の空の下で木銃を片手にした忠は並みいる砲術学校の教官達を相手に大立ち回りを演じ、18人抜きという前代未聞の大記録を打ち立てる。中には彼におもいっきり突かれてぶっ飛ばされた拍子に脳震盪を起す教官も出る有様で、仲間達は胴着と面を身に付けて大暴れするその姿を忠だとは認識しがたい感覚に襲われる程であった。
言うまでも無く彼の銃剣道の成績は文句無しの1位とされ、併せて仲間達の中ではただ一人、銃剣道四段の免状を与えられる事になった。また授業前の教官の言葉の通り、忠のそれ以外の学科等の成績にも見直しが行われる。10番台だった忠の砲術学校における総合成績は一挙に3位と格付けされ、彼は見事にその成績を卒業成績とする事に成功するのであった。
それから数日経った、その週の土曜日の事。
観艦式参加を名目に集まった帝国海軍の艦艇に併せて兵学校同期の者が集まっていた横須賀の事情もあり、艦隊勤務において上陸を始めるその日は兵学校卒業生による同窓会があちこちで開かれる事になっていた。それは忠の66期も例外ではなく、艦隊勤務に就いている者に加えて忠の様に術科学校での日々を過ごす一部の者達で行うという同窓会の案内状が、彼の元には送られてくる。
外出の許可すらも行き先を入念に調べられるという砲術学校においては一見許可されないかもと忠は考えたが、そもそも帝国海軍というのは上司との飲み会や同期生との同窓会は準公務と認識されているから、外出の許可は意外にすんなりと下りた。つまりお酒の席であっても、帝国海軍でのそれは立派なお仕事なのである。
ただ残念な事に同窓会の幹事を務めた仲間の話によると、寝床である旅館や会場にする為の施設の提供を行う水交社は先輩方の同窓会の予約で一杯であり、田浦地区の料亭を貸し切って行うので少々会費が高くつくという事であった。年上に気を使うのは別に海軍に限った事ではないが、こういう所で忠の様な新米士官にはシワ寄せがくる。ただでさえ忠は艦隊勤務から離れている為に航海手当てに代表される手当てが少ないので、明石艦に乗組んでいた頃に比べてると結構彼のお財布の事情は寂しいのだ。
もっともだからと言って、それを理由にして同窓会を不参加とする様な選択肢は彼の脳裏に浮かんでこない。既に兵学校を卒業してから2年になるが、同じ66期の者達は彼とは3年間以上、文字通り同じ釜の飯を食い、離れていても供に頑張ろうと誓いながら「ラングサイン」を歌って別れた大切な仲間達であるからだ。
故に忠は同じく砲術学校にて励んでいる同期の仲間達と校舎の玄関で合流するや、意気揚揚とした足どりで同窓会へと向かった。
砲術学校のある楠ヶ浦から田浦までは汽車で一駅程度の距離であり、長浦港を望んだ田浦地区の海岸には、砲術学校卒業後に入校する事になる海軍水雷学校がある。故に忠とその仲間達は下見の意味も込めて、汽車の窓辺に移る景色を眺めながら明るい会話をしていた。
ぽつぽつと降り始めた雨とどす黒い雨雲によって、いつもよりも暗い感じになった横須賀の街並みと波間が忠の瞳に映る。暖房も入り始めた汽車の中は暖かく、その場に響く仲間達の声も明るかったが、忠は汽車の窓の向こうに広がっている光景を目にしてちょっとその表情を暗くしてしまう。ガラスにへばりついた雨で滲む横須賀の波間には、所狭しと港に並んだ軍艦旗を掲げた艦艇の群れが見えていた。大きな艦橋が目立つ戦艦に、スマートな流線で構成された巡洋艦、まるで羊羹の箱を思わせる航空母艦、遠目からだと小さ過ぎてもはや全部同じ艦に見えてしまう駆逐艦。観艦式の為に集まっているそれらは帝国海軍の栄光を見る者にひしひしと伝えてくれるのだろうが、忠は例外だった。
もちろん彼は、そこにある大小様々な艦艇達の命たる者達の事を考えている。
怒りんぼの神通はどうしてるのだろうか?
那珂や霰は変わりなくニコニコと笑っているのだろうか?
霞と雪風は喧嘩しなくなっただろうか?
長門はまた仕事をサボって自分の艦から脱走しているのだろうか?
明石は、元気にやっているのだろうか?
ふと思い出してしまう彼女達の記憶によって、忠は無意識の内にかつての相方の分身を求めて視線を流していた。だが無情にも彼が視線を動かして少し経つと、窓の向こうに広がっていた景色はトンネルの闇によって幕を下ろされる。仲間達へ適当に声を返しながら、忠は僅かの間だけ続く窓の向こうのトンネルの闇をずっと眺めながら物思いにふける。
でも彼の脳裏には悩みや憂い等という暗い物は無い。もちろんその考えの中心には別れてしまって今はもう顔も声も思い出せない相方がいるが、そんな彼女と再会できるという希望を忠は最近になって抱くようになってきた。天下にその名を轟かせる砲術学校での日々を耐え抜き、優秀な成績で卒業できるという事がそれだ。まだ一年の内の半分しか終わっていないが、着実にここまできた自分の事に忠は自信を持つ。
やがて汽車がトンネルから抜けた事で彼の瞳には再び滲んだ横須賀の波間が写るが、忠はふと口元を緩めると窓に背を向けて仲間達との会話に加わっていった。
その後、駅を降りて田浦の街並みをちょっと歩いた所にある日本料亭に忠達は歩みを進める。入り口もまた豪華な料亭のロビーには既に66期の仲間達の何人かが待っており、久しぶりの同期の再会を互いに喜んだ。
『おおお、徳井! しばらくだなあ!』
『おい、お前、小林か? 随分痩せたなぁ。』
『野口〜、久しぶり〜。』
『森!元気だったか!』
料亭に勤める人の視線も忘れてお互いの息災を確認する青年達。目に映る仲間を変える度、彼等は相手の肩や背に手を触れて元気な仲間の姿を確認する。200人以上の卒業生の中では目立たなかった忠も久方ぶりに見る良き仲間達に代わる代わる声を掛けられながら、大広間へと続く廊下をはしゃいで歩いていった。
ちょうど忠達が集まった頃はまだ横須賀のあちこちにいる同期の仲間が集まりだした頃で、旬の魚の刺身や鍋料理が用意される中、彼等は大広間の廊下にあるソファに腰掛けて他の仲間の話に花を咲かせる。
『なにい!? あの野郎、マリったのか!?』
『ひひひ、そうらしいぜ。ダマヘルのくせに、よくウーを捕まえれたモンだ。』
『サセに嫁さんとのハウを建てたらしいな。今頃ビーシープレーの真っ最中じゃねえか?』
『お〜お〜、ナイスだな。今度サセで集合したら木銃持って、野郎のハウに銃剣突撃でもかけるか。』
『『『は〜はっはっはっはっは!』』』
今日は不幸にも一緒に顔を合わすことの出来ない同期の者のお話も、こんな時は何故だかひがみ全開の物言いになってしまうのは彼らの若さの裏返し。もちろん話題の人物を忠達は嫌っている訳では無く、既に2年も前の記憶に中にあるその仲間をこもごもが懐かしんでいるのだ。せっせと広間に食膳を並べる料亭の従業員さんを尻目に、彼等はそこに和やかながらも力強い笑い声を響かせる。
忠も含めて血気盛んな20代前半の年の頃の彼等の事。まだ酒も入っていないのに、早くもお互いの女事情に探りを入れ始めた。『その顔は女がいるな!?』等という因縁にも近い物言いで話す彼等だが、年の頃の青年達のこういう感覚は以外にも研ぎ澄まされている物で、おもむろに肩を組んで『言え!』と迫られた輩は大抵は本当に恋人持ちだったりする。もちろんそうなったら散々に頭を叩かれたり首を絞められた挙句、本人の気持ちを無視して恋人との馴れ初めを洗いざらい吐かされる事になるのだ。
そんな中で忠は幸運にも標的にされる事無く宴会の時間を迎え、自身が得体の知れない艦魂という女性が見えるという事を隠し通せてホッと一安心。だが同時に、いつも心にあるかつての相方の事を堂々と仲間達に言えない事がちょっと残念でもあった。
やがて100人を超える兵学校第66期の卒業生が集まって騒がしい乾杯を経た後に、まるで底なし沼のようにビールや日本酒を胃袋に流し込んだ青年達の楽しい夜が始まった。
顔を赤くした者をからかい、それに対して自分が酔っていない事を示す為に一気飲みをする者が現れ、今度はそれに対抗してビール瓶を口元に傾けて喉を大きく鳴らす輩が出始める。まだまだ少年の心を色濃く残している彼等であるから、その勢いたるや相当な物。目立ちたがり屋な奴が上座の辺りで歌を披露すると、すぐに後に続く者達が続出する。例え冷やかしが混じっていようとも、湧き上がる歓声は彼等にとっての応援歌。膳や碗を箸で叩き、時には手拍子や合いの手を入れて盛り上がる青年達の歌声が響く中、気の合う者同士はいつの間にか席を隣にしてお互いの近況を語り合う。
忠も最初の内は親しい連中の一角に腰を下ろして静かに皆の近況を語り、その内に集団で固まっていた所を歌っていた者に咎められて、仲間達と供に一曲披露する事になってしまう。
『えええ。オレ、やだよお〜。』
『ははは!良いから来いよ!』
『行け、森!砲術学校の銃剣道で一等だったんだろ!?』
『いやいや、カンケーねえから!』
『わはは!お〜し、みんなで歌おうぜ!』
恥ずかしがって渋る忠は仲間達に背中を押されて前へと進み出るが、花が咲く話にお酒も進んだ彼は満更でもなかったりする。親しかった仲間達と肩を組んでの歌だったが、忠は恥ずかしさをいつの間にか失って一際大声で歌う。彼のその歌声には、厳しかった砲術学校での暮らしで溜まった鬱憤を晴らそうという気概が満ち溢れていた。
だがそんな彼の歌声に込める想いは、そこにいる全ての者達も同じである。まだまだ士官になりたてで俸給も少なく、上官にヘコヘコと頭を下げながら辛い海軍の生活を潜り抜けてきた彼等。江田島という閉鎖された空間で同じ釜の飯を食った仲間達と過ごす、上官にも命令にも規則にも縛られない今という時間は彼等に友の変わりない無病息災の姿とそれに伴う喜びを伝えてくれる。その事に彼等は一様に感謝の念を抱き、同時に心の底から楽しんだのだった。
後年、彼等が学び舎とした海軍兵学校の在り方はしばしば問題が有ったと評価される事もあるが、そこにあった同期生の結束は、英国の王室海軍兵学校、米国の合衆国海軍兵学校にも決して劣らない大変に強固な物であった。そしてこの強い結束は、荒廃を極めた戦後の日本の焼け野原を生きる上で、彼等にとっては非常に有効な武器となっていく。
しかし悲しいかな、その事を後に実感できる者は、この場にいる者達の半分にも満たないのであった。
楽しかった二時間に及ぶ宴も『縁もたけなわ。』の一言で幕を引き、最後はクラスヘッドだった者が音頭を取っての一本締めで終わりを迎えた。さっきまで続いていた楽しく賑やかだった一時の余韻に浸り、煙草の煙を所々から昇らせて他愛ない会話を交える彼等。
まだまだお給料の少ない青年達だから、二次会等といった豪華な物は予定されいない。だがそこに響く青年達の声は、さっきまでとはちょっと違う色合いの明るさが込められている。その声は部屋のあちこちから響き、忠もその気が無くとも耳にしてしまう。
『おい、このあとはどーすんだ・・・?』
『解ってんだろうが。どうせお前も、艦に戻るのは明日なんだろ?』
『駅前の通りを右に行った所。あの辺が多いらしいぞ。』
『よおし、ナイスなエスなんだろうな。』
妙に気合の入った静かな声だが、それを放った者に流す忠の瞳にはだらしなく鼻の下を伸ばした仲間の表情が映る。もちろんその会話と仲間達の純情な若さが色濃い表情の意味は、同じ世代である忠にもなんとなく解っていた。寝床として遊郭外へと足を伸ばし、ご苦労な事にそこでまた"射撃訓練"に挑むらしい。古くから海軍の街として栄える横須賀は、繁華街に程近いところにはその手の店が割りと多く、彼等で無くとも溜まった鬱憤と欲望を爆発させる者は数多いのだった。
だがそんな欲求と甘い一時を想像して楽しげな声を放つ仲間達とは裏腹に、忠はあまり気乗りがしなかった。周囲で囁かれる芸者置屋の物色話に、彼は困ったような表情で頬を掻き、その視線を仲間達と合わせないように部屋の天井へと投げる。
これから女遊びと洒落込もうという彼等の勢いを考えた矢先、忠はふと今も波間の上にて揺られながら頑張っている相方の事を思い出した。
どんな顔なのかも思い出せないのに、彼の脳裏には綺麗な笑顔を絶やさなかった彼女の事が思い浮かび、どんな音色の声で自分に語りかけてきたのかも思い出せないのに、彼の記憶にはいつもそこにあった明るく楽しそうな笑い後が蘇ってくる。半年以上も前に馬鹿な自分のせいで別れてしまい、後戻りできなくなってから忠は彼女への気持ちを鮮明に察していた。そしてその時に大声を上げて泣きながら相方の名を呼んだ自分の事も、忠は今になって思えばその理由を明確に悟る事が出来る。
好きだったから・・・。
どうしようも無いくらいに、彼女が好きだったから・・・。
何故それを彼女と暮らしていた時に気付けなかったのか、彼にも解らない。そんな事を真剣に考えた事も無かったし、その考えからくる素振りも微塵も見せた事は無い。いざ離れるという時になって、胸の苦しさや涙と供に初めて自覚したその気持ち。だがそんな自分への考察を理解する事は、忠にとって不思議と難しい事では無かった。むしろなんでこんな簡単な事に気付けなかったのかと、忠はかつての自分に憎しみさえ募らせていく。不意に握った右手の拳で、彼は昔の自分を殴りたくなった。
お前が馬鹿だったから。
自己嫌悪を通り越した、自分への激しい憤り。それを堪える忠の顔は急激に曇っていく。
だがそんな忠の表情に気づいた一部の仲間達は、きっと彼が普段から猛烈に苦しい海軍生活を送っているのだろうと推測して声を掛けた。
『おい、森。なんかあったのか?』
『・・・え・・・。』
半笑い気味の仲間の声で忠はそれまで脳裏に浮かんでいた相方に纏わる映像を消し、やっとの事で我に帰る。ロクな返事も返せない忠はいま仲間から掛けられた言葉を全く覚えていなかったが、そんなやりとりを耳にしていた忠と同じく砲術学校に籍を置く仲間の一人が、神妙な面持ちで俯いていた忠の事情を勝手に考察して説明しだした。
『コイツ、砲術学校の銃剣道で目立ってさ。おかげで教官に目を付けられてて大変なんだよ。なあ、森?』
自分の考えを微塵も勘定していない仲間の言葉だったが、忠はそこに怒りや憎しみを湧かせる事は無い。
同期が何やら難しい顔をしているなら、同じ同期の者で助けてやろう。
兵学校66期の仲間達が一様に持つそんな決意と心配りを、忠は同じくそれを抱く者としてよく知っているからだ。ちょっと冷やかしたりする事もあるが、仲間の困っている事態を放ってはおけないのである。
故に忠は僅かに歪んだ笑みで仲間達の声に応えると、溜め息を放ちながら立ち上がって彼等との再会を願う言葉を発する。それは仲間達が企図しているこの後の遊びの旅に、自分は同行しないという事を意味していた。
『悪いな、みんな。オレ、帰るわ。』
手にしていた軍帽の埃を手で払い、頭に被りながらそう言った忠。
自分というかつての大馬鹿野郎を思い出していた辺りから彼の身体を支配していた酔いは冷め、見知らぬお姉さん方をはべらせての飲み直しも気が進まない。何よりその先に男としての快楽を垣間見るという事が、忠には何だか思い出の中で微笑む彼女を裏切るような感じがする。そしてそんな自分を見たらきっと相方が泣くであろうと思った時、忠は再び砲術学校にある自分の寝床へと帰ろうと考えたのだ。地獄の一丁目とされるその地での生活は厳しさと激しさばかりが闊歩する日々であるが、忠の中ではそこにある辛さよりも相方の泣く姿を憂う方が嫌だった。
『え、帰るのか?』
『うん。まだ汽車はあるしね。じゃあな。』
部屋のあちこちにたむろする仲間達の群れに手を上げながら、忠は大広間の廊下へと向かって歩み寄っていく。
だがその刹那、彼の背や方を仲間達の手が触れてきた。
気付いた忠が声も無く振り返ると、そこには同期の中でも特に親しい3人の青年達が酒臭い息を放ちながら笑みを湛えていた。きっとこれから飲み直そうと誘いに来たに違いないと忠は察し、苦笑いしながら穏便にその誘いを断ろうとする。
『森〜。いこうぜえ〜。』
『せや、森。ワイ、この辺のナイスなエスハウ知ってんねや。』
ちょっとフラフラとしながらもそう声を発した二人。その言葉は忠の予想通りの代物で、酔いの冷めた忠はその心遣いに感謝しつつ、やんわりと断ろうと冷静に考えて応じる。
しかし彼は気付いていない。その場に合わせた笑みを浮かべ、受け取る側の事を考えて言葉を選ぶ彼のその姿こそ、忠がさっきまで憎しみを抱いていた、かつての自分と同じ姿であった事を。
やがて忠の良くもあり悪くもある癖によって放たれた言葉は、酒の勢いに流されて本心を剥き出しにする仲間に遮られる。
『有難うな、浜田、瀬尾、小林。でも今日はこれで─。』
『どうせ外泊許可とってんのやろぉ? ほな、行こうで!』
『どわ! お、おい、待てって、小林!』
酔いがほどよく冷めた状態で酔っ払いを相手にする事ほど難しい物は無い。まして親しい者に対しては心象を悪くせぬようにと笑って誤魔化す癖のある忠には、強引に腕を引っ張って行く仲間達の手を振り払う事が出来ない。砲術学校に同窓会への参加の許可を求める際、仲間とは違う事を不審に思われないようにと"外出"許可ではなく"外泊"許可を取った事も、残念ながら今の忠の状況を悪くしてしまう。
僅かに荒げた声を放ちつつ、忠は仲間達によって雨の降る横須賀の夕闇へと消えていった。
その後、雨に濡れながら横須賀の妖艶な雰囲気を持つ街通りを彷徨った忠達は、一見の芸者置屋へと上がっていく。赤い色を滲ませる照明を灯した階段や廊下を歩く最中にも聞える、タガが外れたような男女の笑い声や鳴り物の音。瀬尾も浜田も小林も、耳に響いてくるその笑い声や、眼前でお尻を振りながら座敷へと案内する芸者の歩く姿に、これから始まる楽しい一時を確信して気持ちを逸らせて行く。彼等とて長い禁欲生活を日常としている海軍の士官であるから、芸者置屋のあちこちより放たれる色気の混じった空気に浮かれるのは無理も無い。むしろ仲間3人の後ろを、僅かに口を尖らせて困ったように眉をしかめてとぼとぼと続いていく忠の方が少々場違いな感じであった。
やがて通された部屋にて傍らに2人の芸者を擦り寄らせながら、忠達は日本酒や焼酎のグラスを片手に場を気にしない話しに花を咲かせ始める。
忠以外の3人は僅かに冷めた酔いに再び熱を帯びる為、出された酒や食い物をホイホイと口へと運び、次第に顔の色に赤い色合いを増していく。久々に間近で耳にする若い女性の声もまた、彼等の酒へと伸ばす手に勢いを授け、普段は寡黙なその口を柔らかくしてしまう。
若い盛りの3人が酒の勢いに任せて口にする話は、鍛えた身体と男が持つ度胸自慢の優越感に包まれた武勇伝、それに女の話。酒を注ぎながら歓声のような声を上げる芸者に気を良くし、その内に仲間の誰かの話が終わると、今度は自分の方が優れているかのように声を張り上げる、という循環を3人は繰り返していた。
その話を座敷の隅っこで耳に入れている忠は、チビチビと口に運ぶ酒にも酔いを増させる事は無い。そも一次会で帰ろうとしていた彼は強引な仲間達の誘いでここへ来てしまったのであり、ふと見た部屋に備え付けられている時計から既に砲術学校へ戻る為の最後の汽車が発車してしまった事を察すると、仲間達の様に酒と芸者の合いの手に踊らされて声を張り上げる様な気分にはなれなかった。もっとも、仲間達の話の間隙を埋める為に芸者が奏でてみせる三味線の音に、忠はちょっと故郷の津軽三味線を思い出したりもしており、今の自分の状況を不本意ではあると解っていながらも決して不機嫌な訳ではなかった。
『せやからな、もうこれまでや言うて、その女とは別れたんや。悪い女やなかったんやけどなぁ。』
その時、これまで耳に入れていても頭には入っていなかった仲間達と芸者の声に、忠はふと意識を傾ける。どうやら自分達がその生涯で付き合った女性の話題で盛り上がっているらしく、なけなしの女性歴をひけらかして自身が良い男であるという様な感じに声を発していた。だが自分と同じく彼等だって兵学校にて10代後半を過ごした者達である事から、その話にはお酒によって積み上げられたそこそこのホラが含まれている忠は考える。
その事を口に出してその場をシラけさせてしまうのを望まなかった彼は何も言わなかったが、別れ話ですらも自分の優越感を得る為のネタにするような真似を忠は極端に嫌った。もちろんそんな忠の胸の中にある物は、好きだった女に背を向けて泣いた昔の自分の記憶だった。
『へぇ〜。おにいさん、ヒドイねえ。』
『男はなりふり構ってらんねえんだよ。』
溜め息混じりで焼酎を流し込む忠の耳には、いつ終わるとも知れない仲間達の明るい声が流れてくる。その話題にはちっとも魅力を感じないのだが、忠はそんな彼等のやりとりに否応無く相方の事を思い出していた。
得体の知れない艦魂などという存在で生きていた相方を、顔や声が思い出せなくとも忘れる事は無い。それぐらい忠には特別な者であり、特別な女性であった。だがそれを眼前の仲間達の様に、声を大にして言葉にする事は彼にはできない。この中で彼女達の姿を見る事のできる者はおそらく自分だけであり、もしそれを暴露したなら変人扱いされるのが目に見えているからだ。
そして忠はこの時、そんな相方との思い出や気持ちをを秘めながら今の様に仲間達の自慢話を耳に入れる事に、無性に腹が立ってくる。その矛先がかつての馬鹿だった自分なのか、ヒドイと芸者に煽てられて笑っている仲間なのか、忠自身にも解らない。ただ着実に胸の中を侵食していく文字通りの行き場の無い怒りを忠は抱き、無意識に口先を尖らせてしまう。
『おい。森。どしたあ?』
そんな中、芸者との話で盛り上がっていた仲間の一人である浜田は、座敷の隅で無言のまま険しい表情をしている忠に気付き、声をかけてきた。男性である自身の身体には無い女性独特の流線が余程恋しいのか、浜田は笑い声を上げる芸者の肩に手を回している。後は布団さえ有ればそのまま一戦交えるような勢いを覗かせつつ、彼はニヤニヤとしながら忠の顔を覗きこむように眺めていた。
静かに積もる腹立たしさを忠は器用に隠し、その場を崩さぬように小さく苦笑いしながら声を返す。
『腹でも痛いのか?』
『うんにゃ・・・。なんでもねえよ・・・』
忠は乾杯でもするかの様に、グラスを握った手を僅かに上げて浜田に応えた。だが窓の外にて降りしきる雨と同じく、彼の胸の中にはその間にも鬱憤にも似た憤りがしとしとと溜まり始めていた。それは忠の意識に反して彼の身体から放たれる雰囲気に影響を与えており、浜田を含めた仲間達には先程から話の輪に入ってこない忠が一人泣いている様に見える。ちょっとだけ歪んだ笑みを浮かべてグラスを傾ける忠だったが、初対面である事からそんな彼の雰囲気に気付かなかった芸者の一人が、酒の瓶を手に彼の元へと擦り寄って行った。
『どんぞ。おにいさんの話もきかせてよ。』
『いやあ・・・。オレの話なんかつまんないよ・・・。』
グラスに酒を次いで貰いながらも、忠はそう言ってゆっくりと首を左右に振る。その間、彼はずっと視線を眼前にある芸者の顔には流さず、やがてグラスが酒で充たされるとすぐさま顔を正面に向けてちびちびと飲み始めた。
しかし先程からずっとこうして一人で酒を飲んでいる忠を芸者は気遣い、なんとか楽しい時間を作ってやろうと彼の腕に手を伸ばして言った。
『聞いてみなきゃわかんないよ、おにいさん。』
壁に寄りかかる様にして腰を下ろす忠の腕に、芸者はゆっくりと手を触れて顔を近づける。猫撫で声にも近い声を上げる芸者の雰囲気はとても妖艶で、先程まで彼女を傍らに置いて武勇伝を自慢していた小林の顔を少し曇らせた。間近に迫る芸者の顔と息遣いは酒の勢いも手伝ってか仲間達の心を躍らせるだけの魅力が十分に溢れた代物で、この後に気が合えば布団の中までお供する事も有り得るという芸者置場の事情も考えれば、正常にして若い盛りの男性である彼等にとっては中々に抗えない甘い誘惑である。
だが忠は耳元で聞える芸者の声に再び小さな苦笑を浮かべると、そっと芸者の手を握って自身の身体から離した。
『オレはいいんだ。それよりアイツ等の相手してやってくれないか。』
顎で仲間達の方向を指しながら放った忠の声は、大人しくて優しい男性像を持つ彼を良く示した物で、その姿は仲間達にしたら兵学校の頃より見てきた友人のいつもの姿。ちっとも変わっていない忠という男の人柄である。
だがそんな中で手酌酒でグラスを口に運んでいた瀬尾は、忠のその言動にとある考察を巡らす。
男なら誰しも勇み足で来るという色町にあって、こうもまた忠はいつもの平静を保っている。その原因は、女性との触れ合いに飢えることが常である海軍生活において、彼が真心を傾ける異性が居るからなのではないか?
そこまで考えた瀬尾は、すぐさまその事を忠に問いただす。普段から他人の色恋沙汰などに関心を持つ事は少ない瀬尾なのだが、辛い兵学校生活にて同じ釜の飯飯を食ってきた忠の事だからこそ彼には気になって仕方なかった。
『森、お前もしかしてハートインチでもいるのか!?』
『ぶ。いやいや・・・。』
それは忠にとっては図星とも言えたが、咄嗟に「その真相を悟られてはいけない。」と判断した彼は、小さな驚きの声を上げてすぐに瀬尾の言葉を否定しようとする。しかし忠が声を返す最中、瀬尾の言葉を耳にした小林と浜田は忠の否定を真に受けずに仰天の声を上げた。いつも大人しくて何事にあっても前面に立とうとしない忠の人柄をよく知る二人からすれば、恋愛にもそんな当たり方をするであろう事が想像に難くない忠が、心に決めた女性を持っているという事は予想外だった。だが部屋に入って以来、自分達とは距離をおいて部屋の隅っこで黙って酒を飲んでいる忠の様子を不審に思っていた二人は、あながち瀬尾の言った事が的外れではないと考えてしまうのだった。
『なんだよ、お前、女いるのか!?』
『ははは・・・。ちげーよ・・・。』
腕に芸者を巻きつかせながら上げた浜田の声に、忠は小さく驚きの声を放った際に胸元に飛び散ってしまった酒の雫を振り払いつつ、偽りの苦笑を浮かべた表情でさらに否定する。
しかし彼等に否定の言葉を返す度に、首を左右に振る度に、忠は小さな苛立ちを募らせていた。妙に脳裏を過ぎっていく相方との思い出も、それを仲間達の様に酒の勢いに任せて吐こうとしなかった自分も、部屋にいる者全員から浴びる視線も、一張羅である軍装を酒で汚してしまった事も、目に入る事や何気ない自身の動作の全てが、何故か忠の胸の中を憤りの感情で埋めていく。それは苦笑を絶やさなかった忠の表情にもついに現れ始め、彼は無意識に口を尖らせて眉をしかめた。
一方、忠の表情の変化を認めた小林は、浜田や瀬尾とはちょっと違った真相を考察していた。見るからに不機嫌な顔をしている忠だが決して自分以外の者に責を求めているような様子は無く、再びグラスを口元に近づけて表情を整えようとしている。元来が優男である彼のそれは、今ここにはいないどこかの誰かに対する憤りだと小林は酔った頭で考えた。そして恋愛経験豊富な彼は、きっと忠が自分と同じ様に過去に交際していた異性がおり、今はもう思い出の中にしかいないその相手を思い出しているのだろうという考察に辿り着く。
それは大人しい忠の人柄を鑑みるととても意外な事であると同時に、忠の少年のような純情さを明確に示す代物で、女性とはそこそこ縁のある小林はそこに可笑しさを覚えてしまう。ケラケラと笑いながら小林は焼酎の瓶を片手に忠の隣まで寄って行くと、憤りをなんとか鎮めようとしている忠のグラスに酒を注いでやりながら語りかける。
『さよかぁ、森。別れたんがおるんやな。』
『いやあ・・・、そんなんじゃ─。』
突如として声を掛けてきた小林に、忠は弱々しい笑顔を作って応じる。グラスの握った手を僅かに上げ、忠は酒を注いでくれた小林への礼としながら声を放っていたのだが、それを遮るようにして響いた小林の言葉を受けるや、その表情からは全ての感情が波の様にして一斉に引いていった。
『そんなん気にしとったらあかんて。ちゃっちゃと次を見つけたらええねん。別れてやったぐらいに考えな、男なんてやってられへんやろ。別れたんはお前やのうて、ウーの方に落ち度があったと思わなな。』
『なんだって・・・?』
『お前はええ男や。せやから悪い女とは合わへんねん。別れたんは女のせいやで。そやろ?』
小林の口にする事は、忠にとってはかつての相方との思い出の中でももっとも大きく辛い物を見事に言い当てた物だったが、それがこれ以上ないくらい良く当たっていたからこそ忠の思考の全ては一斉に停止した。頭の中が空っぽの真っ白になり、すぐそこで友人の過去を見事に見透かせてみせた事に優越感を得てニヤニヤしている小林の顔が、忠の僅かに湿り出した瞳に映る。それに伴って静寂を保つ忠の脳裏には、いま小林が放った言葉が何度も響いた。
それはほんの数秒の間だけ続いていたが、空っぽになった忠の胸の中には、窓の外に認める雨とは比較にならぬほどの勢いで怒りが注ぎ込まれていく。
悪い女? 明石が悪いから、オレは今こうしているのか?
真っ白な思考回路の中でそう呟いた刹那、忠の胸に流れ込んでいた怒りはついに平静を保つ為の一線を越えた。同じ兵学校で頑張ってきた小林という友人の顔が、途端に忠には憎悪の対象として見えてくる。
さっきまで自分の別れ話を自身の経歴に付いたハクとして語っていた彼に、同じ目線で思い出の中にいる相方を見られた事。
ただそれだけの事が、忠には絶対に許せなかった。
『男を磨かなあかんで、森〜。ははは。』
笑いながらそう言った小林が忠の肩を軽く叩く。彼にしたら心を引きずる友人に対する励ましであったが、今の忠にはそんな小林の心遣いなぞどうでも良かった。むしろそこに伴われる小林の笑い声は忠にしたら、何か相方と出会えた奇跡を持つ自分が笑われているように聞こえ、その怒りをさらに増幅させていく。
そんなに艦魂が見えるオレが可笑しいか・・・?
そんなに別れた女の数を誇る奴が良い男か・・・?
そんなにアイツが悪い女に見えるか・・・?
胸の中でそう強く叫んだ所で、忠の理性は失われた。
彼はグラスを部屋の壁へと投げつけると、これまで自分以外の者に抱いていた想いを初めて声に変えて、いつの間にか右手に作っていた拳を小林の顔に叩き込んだ。
『うるせえ!! お前に何が解んだよ!!!』
腹の底からの叫びを上げながら放った忠の鉄拳を受け、小林は仰け反るようにして倒れる。だがすっかり酔った状態で続けざまに襲ってくる忠の二発目の拳を受けた小林は、襟を掴んでくる忠の腕を左手で掴むと彼の顔に拳を返した。
『なんや、ワレ!! 人が下手に出てやっとんのに、ナメてんやないど!!!』
小林の拳に忠の唇が切れて赤い流れが滴る。しかしそんな自分の顔も、兵学校の同期である小林の腫れ始めた顔も、忠にはどうでも良かった。浜田と瀬尾が止めに入る中、忠は小林に馬乗りになって左右の拳を打ち下ろす。
彼の釣り上がった眉に伴われた瞳に映るのは、相方を、彼女と出会えた自分を笑う、憎き敵。その敵を滅せなければならないと、忠の本能が言葉を伴わずに命じていた。理由なんかいらなかった。
『何してんだよ、森!!』
『何が男を磨くだ!! この野郎!!!』
『森を抑えてろ、浜田!! 小林、落ち着け!!』
『ゴンタ顔でビビってんか、オラ!! 上等や、かかってこんかい!!!』
浜田と瀬尾に後ろから抑えられる、忠と小林。芸者達が悲鳴を上げて廊下へと逃げて騒ぐ中、怒りの色で染めた表情と瞳で忠は小林を睨みつけて叫ぶ。
それは他人を気遣い、その場の雰囲気を乱さぬ為に笑って誤魔化す事が常である忠が見せた、己の胸の中にある想いに忠実に従った姿であった。
『見下して笑ってんじゃねえよ!!! お前にオレの何が解るってんだ!!!』
その後、忠は瀬尾に後ろから抑えられたまま、芸者置屋の外へと連れ出された。浜田に抑えられながら暴れる小林を背にして部屋を出るのは忠には不本意であったが、やがて置屋の廊下を歩いている内に忠の身体は静けさを取り戻していく。未だに胸の中にははらわたが煮えくり返る想いで充満していたが、背後から忠の心を撫でるように響いてくる瀬尾の語り掛けで、彼はその手に拳を作って振り回す事はなかった。
『わ、悪いな、森・・・。小林の言った事に怒ったんだろ? あいつに代わって謝るからさ。』
激しい剣幕で暴れる忠を初めて目にした瀬尾は、なんとか忠の怒りを鎮めようと懸命だった。本当ならいきなり殴りかかった忠に非が有るのにも関わらず、敢えて瀬尾は謝罪の言葉を口にしてみせる。自分を上回るお嬢さん型の性格である瀬尾という仲間の事は、兵学校で供に頑張ってきた事から忠も良く解っており、小林の罵声が聞えなくなった事で平静を取り戻しつつある忠は、彼にまで迷惑をかけない為にも大人しくこのまま退散する事にした。ただ怒りの水位がまだまだ下がらない為に、置屋を出て雨の降る軒下まで来てその身を自由にされても、忠はまだ怒りを表情に滲ませており、瀬尾に対して礼を口にする事もなかった。
その後ろで瀬尾は忠から手を離すと彼が暴れようとしない事を確認して安堵し、底抜けの優しさを持ち味とするその性格がよく示された言葉を残して置屋の中へと戻って行った。
『小林には言っておくから、許してやってくれよ。』
『・・・・・・。』
『ハートインチ、大事にしてやれよ・・・。じゃな・・・。』
顔も向けずにいた忠の背後から、瀬尾の言葉に続いて戸が閉められる音が鳴った。だがそこに深夜という時間帯に似つかわしい静寂は無く、置屋の軒下に立ち尽くす忠の耳には、降りしきる雨の音と、辺りにあるあちこちの芸者置屋から響く男女の笑い声が静かに響いてくる。それはまるで先程の小林の笑い声と同じ様に、「相方を含んだ艦魂が見える」という境遇を持つ自分を笑っているように感じた。
再び苛立ちが募り始める忠は雨の中を歩き出すが、軍装が濡れる事を微塵も憂う事はない。絶える事無く木霊する耳障りな笑い声から、彼はとにかく一歩でも離れたかった。もっとも遠くなっていくその笑い声によって、忠の胸の中に湧き上がる怒りが治まってはくれる事はない。彼にとっては嫌だと思った物、怒りを募らせる物であるのに、木霊する笑い声はとても愉快で楽しそうな代物。そしてそんな笑い声に背を向けているという今の自分が、忠にはなんだか憎らしくて仕方なかった。
みんな、あんなに楽しそうなのに、なんでオレだけこうして怒りを我慢せねばならないんだ・・・。
強く唇を噛み締めながらその言葉を脳裏で呟くと同時に、忠の身体には雨の冷たさが一層滲みた。もう既に靴下までも濡れ出しており、10月の夜の寒さは忠の身体のあちこちから攻め入ってくる。そしてその寒さにまですらも我慢をしなければならない事も、忠にはなんだか腹が立って仕方がない。
もはや怒りの色しか帯びていない顔で歩く忠。だがその時、彼は俯いて足元を視界に入れて歩いていた事から、正面から向かってくる着物を着た4人の荒っぽい外見の男達に気付かなかった。
ドン
『・・・ってーな、おい。』
『あん? 海軍さんじゃねえかよ。』
『ロクに道も歩けねえ海軍さんかよ。笑わせらあ。』
『それでよく海に出れんな? 船に乗る資格ねえよ、テメエ。』
番傘を差して鋭い眼光を忠に向ける男達は、こんな時間に色町の近辺をウロついている事からやくざ者である事は明白だった。凍えるような冷たさの夜にずぶ濡れで歩く海軍士官を目にした彼等は、小林との殴り合いで僅かに傷を負っている忠の顔にさらに因縁をつける。だが忠はそんな彼等の言葉を既に聞いていない。彼等が口にした最後の言葉で、既に限界線まで満たされていた忠の怒りはとっくに溢れ出ていたのだ。
船に乗る資格が自分には無い。
その言葉は忠の耳から脳裏へと運ばれる際、彼の身体を支配する酔いの流れに揉まれて『船の命たる者と会う資格が、お前には無い。』と変換されていた。そして船の命たる者という言葉の意味を考えた際、忠はその者がかつての相方を指しているように思ってしまう。
そこまで考えた忠の右手に拳が握られるが、先程の小林の時と同じ様にそこには理由は無い。忠の瞳に映るのは、自分や相方を笑う憎き敵。僅かに身体に残る酒の勢いも手伝い、忠は躊躇無く一番近い位置にいた男に拳を突き刺した。
『おらあああ!!!』
『ぐはっ!!』
『コイツ・・・!!』
『テメエ・・・、良い度胸じゃねえかよ・・・。』
殴られた男が尻餅をつき、喧嘩慣れした他の男達が瞬時に身構える中、忠は怯える事も忘れて叫び、男達に殴りかかって行った。
『何が資格がねえだ!! 馬鹿野郎!!』
その日の横須賀は朝からずっと雨が降り、ただでさえ肌寒い空気をさらに冷たい物とする。夜になると特にそれは顕著で、忠はそんな今日という日の横須賀の寒さを、人通りも少ない街角の一角に倒れながら感じていた。
青く腫れた右目の瞼が視界を圧迫し、流れ出る鼻血でただでさえ疲労と苦痛に歪む呼吸を遮られながら、忠は路地の塀に寄りかかって倒れている。ぼんやりと眺める漆黒の曇天からは変わる事なく雨がしとしとと滴り、あちこちに激痛の震源地を持つ忠の身体を容赦なく打っていた。小さな水滴であるから決して痛みを伴う訳ではないが、肌着まで濡れている忠に雨は凍えるような冷たさを与える。
『ぐぅ・・・、う・・・。』
激痛に自由を幾分束縛された身体に鞭打ち、忠は壁に腕をかけてなんとか立ち上がる。ガクガクと今にも折れ曲がりそうになる膝に力を込め、ようやく二本の足のみで立った所で、彼は口の中に苦痛と供に溜まる何かを地面に吐いた。
それは腫れあがった頬の内側が切れている事を示す、唾液と砂が混じった赤い粘液。道端に吐き捨てても暫くの間は形を保っていたそれは、雨に打たれて騒ぎ立てる地面の飛沫に抗いきれず、やがてその赤い色を薄くしながら地面に溶けていった。
『はあ・・・、はあ・・・。ぐ、ちくしょう・・・。』
そう呟いた忠はまだ足取りがおぼつかない状態で道端に落ちていた軍帽を拾うと、ヨロヨロとしながら帰る道を歩み始める。散々に痛めつけられてしばらく雨に打たれたからか、忠の身体や脳裏からは酔いという物が完全に失せている。入れ替わりに強烈な苦痛が身体のあちこちに残っているが、ようやく酒の勢いが消えた忠の思考は、その苦痛の原因を自分以外には伏せておかねばならないと判断した。
4人の喧嘩慣れした男に、まだまだ新米の士官である忠が敵う筈も無かった。雨の降りしきる中、良い様に顔を殴られ、腹を蹴られ、路地の一角にぶっ飛ばされて唾を吐きかけられた忠。そのままさっきまで倒れていたのだ。
栄えある帝国海軍軍人に対しての暴行はもちろん重罪であり、彼が訴えさえすれば先程の男達は間違いなく裁かれる。だがそれを解っていても、忠は自分の変形した顔に始まる怪我の真相を秘密にしようと決める。
答えは簡単だ。栄えある陛下の赤子が負けたという事実は、忠で無くとも海軍軍人の全てが隠蔽するであろう事だからだ。あわよくば4人の男達が刑務所送りになったとて、忠はもちろんその上司や同期生は皆、一様に陛下の御稜威に傷をつけた者として馬鹿にされる海軍生活を送る事になる。だから結局は喧嘩沙汰というのは負けても我慢するしかないのだ。
冷たい雨が勢いを増す中、忠はフラフラとした足取りで砲術学校への道を歩く。雨を吸って重くなった軍帽によって首を垂れ、足元に視線を落としながら、彼はなぜこんな思いを自分がせねばならないのかと考えた。
どうしてこんな苦痛を我慢しなければならないのか・・・?
どうして仲間達と同じ様に酒を飲み、笑い合う事ができなかったのだろうか・・・?
そもそもどうして横須賀の一角で、自分は生きてるのだろうか・・・?
尽きる事の無い自分への問いかけが、忠の脳裏を過ぎっていく。自分だけがこんな境遇を過ごすという現実。それは決してこれまで生きる上では高望みなどしてこなかった忠にとって、なんだかとても理不尽に思えた。
『ちくしょう・・・、ちくしょう・・・。』
思考を支配していく己への理不尽に、忠は思わずその言葉を吐く。同時に彼の胸の中にはそんな理不尽に対する憎しみが再び積もり、忠は自分の何が悪かったのかをぼんやり考え始める。すると真っ先に上がってきたのは、相方を始めとした者達を見る事が出来るという、彼にのみ与えられた稀有な能力だった。
艦魂が見えるからだ・・・。きっとそうだ・・・。
頭の中で響かせるその言葉には行き場の無い恨みが込められ、やがてそれは艦魂という存在に対しての憤りへと変わっていく。彼女達が見えなければ、いなければ自分はこうして辛い生き方をする必要などない筈。そもそも万人には見えないというその存在の仕方もまた、忠にはとっても理不尽に思えるのだった。
だがその艦魂という言葉を脳裏で語る都度、彼の記憶から検索される艦魂はかつての相方だった。顔も声も仕草も思い出せない思い出の中の彼女には、かつてそこで一緒に生きたという滲んだ感覚があるだけ。恨むのなら容易い筈だった。
『ち・・・ちくしょう・・・。』
しかし忠は恨む事は出来なかった。
一緒にいて居心地が良かったから、声を交えていて楽しかったから、触れた手が温かかったから、そしてそんな彼女がとても愛しかったから、忠は恨みなどという頭上の雨雲のような色合いの感情を抱けなかった。すると今更ながらに、自分が彼女に対して抱いていた気持ちを忠は理解する。ずっと前から解ってたその気持ち、でも声に変えるだけの勇気が無かったその気持ち。
オレは明石が好きだったから・・・。
それを凍えるような冷たい身体の中で呟いた刹那、忠の胸に積もった怒りは量をそのままに別な気持ちへと切り替わる。
いつも格好良い所を見せようとした事、理想などという言葉にすがって相方に背を向けた事、別れるまで自分の気持ちを微塵も疑わなかった事、存在の仕方が違うという現実に億劫になった事、挙句の果てには仲間と同じ様に彼女を悪い者だと考えようとした事。その全てが忠は悔しかった。
砲術学校の優等生になっても、銃剣道の腕を認められても、未だにそんな事で悩む自分は、明石と会う資格があるのだろうか・・・?
少し前に男から浴びたその言葉が、忠の身体に染み渡る。
その答えは否だった。
未だに彼女へ抱く気持ちに知らないフリをしている自分に、そこに生まれる都合の悪い事を他人のせいにしようとする自分に忠は気付く。それはあんなに憎らしく思った昔の自分の姿と、何一つ変わっていない物だった。鬼と呼ばれる砲術学校で半年も頑張って良い成績も納めたというのに、自分は人間として、男として何も変わっていない。やっとの事で自分の未熟さを察する忠だが、彼はその事に喜びを覚える事は無かった。
『う・・・、うぅ・・・。うっ・・・。』
上空から落ちて忠の顔を這って行く大粒の雨に紛れているが、彼の口から声が漏れるのと同時にその頬には光る雫が流れ落ちていく。
身体の末端より襲い掛かってくる寒さと苦痛。大馬鹿野郎と蔑んだ昔の自分が今でも心のどこかにいる事。その果てにこうして雨の中をボロボロになって歩く事。
そんな惨めな自分の全てが悔しくて、悔しくて悔しくて、忠は泣いた。
血の混じった鼻水を流し、雨の中を歩きながら泣いた。それしか出来なかった。
深夜の雨の中、田浦の街並みの路地を、忠はひたすらに泣きながら歩く。降りしきる雨と横須賀の寒い風にただ自身の未熟さを痛感する彼の背中は、やがて雨音に包まれる横須賀の闇の中へと消えていった。
自分で察した通り、まだまだ忠は修行不足な男であり、相方と釣り合うには程遠い身の程なのであった。
この当時、忠を含めた海軍という組織の中で、実施部隊を率いる者に山本五十六という人物がいた。後年になって彼は懸命に励む若者達へ向けてこんな言葉を放つのであるが、忠はその何一つとして実践できていない未熟な男なのであった。
苦しいこともあるだろう。
言い度いこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。
腹の立つこともあるだろう。
泣き度いこともあるだろう。
これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。
山本五十六
海軍略語補足
マリる ⇒ 結婚する
ダマヘル ⇒ むっつりスケベ
ウー ⇒ 女性
サセ ⇒ 佐世保
ハウ ⇒ 家
ビーシー ⇒ 無料、タダ
プレー ⇒ 行為を行う、遊ぶ
エス ⇒ 芸者さん
エスハウ ⇒ 芸者置屋
ハートインチ ⇒ 心に決めた女性
◆本話拝読に当たって◆
忠が小林と喧嘩する辺りから、長渕剛の名曲「とんぼ」をかけて拝読して頂けると雰囲気がさらに増すかと思います。
男は頑張らねばいかんですね・・・。
死にたいくらいに憧れた 海軍のバカヤローが!!!(つД`)