表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/171

第六六話 「伝えられる物/其の三」

 御香の残り香と紅茶の香りが混ざり合う部屋の中、富士(ふじ)の語りが静かに響く。まるで部屋に伴われている音楽のように奏でられる富士の声色は、それを聞く側である明石(あかし)の心に不思議と静けさを与えてくれた。


『かつての私の友人に、貴女と同じ様に、艦魂である私達を見る事のできる人間を乗組員に持った艦魂(ひと)がいたわ。』

『・・・・・・。』

『その友人はとっても硬い性格でね。私達のお話によく首を突っ込んでくる気さくなその人間を、とっても邪険にしてた。元来、私達と人間は声も視線も交わる事が無いでしょう? 私達は両親を持って生まれてくる事もないし、お葬式の末にお墓に葬られて死ぬ事も無い。生き方という物がそもそも違うから仕方ないわ。それに友人や私も含めて当時の私達の中には、直接声を交えたり、手を取り合える人間と関わった事のある艦魂(ひと)なんて一人もいなかった。だから友人は気味悪がったの。』


 富士はそこまで言うと空になったカップをテーブルに置き、今度は近くにあったポットに手を伸ばしてカップとの間に紅い滝を静かに作る。明石が声を放つのも忘れる程の荘厳さを放つ富士のその姿だが、ふと明石のカップを見て紅茶を注いでくれる辺りに心優しい彼女の根本が揺らいでいないことが示されていた。

 小さく頭を下げて御礼とする明石。富士は微笑みでそれに応え、ポットを元の位置に戻すと語りを再開させた。


『でもその人間は面白い性格でね。私達が持ってた独特の考え方や価値観に、人間としての率直な意見をぶつけてくる事が間々あったの。明石も知っての通り、私達は遠い欧州からやって来た身。ただでさえ帝国海軍独自の戦術や情勢、海の特性なんかも勉強しなければならなかったのに、そこに今度は生身の人間の主義主張が入ってきたのだから、もちろんその時は私達の中にそこそこの混乱を生んだわ。そして友人はその人間と、もう毎日の様に言い争いをしてたわ。ふふふ、日本刀を振り回してた時もあったわね。』


 富士の言った事を総合すると、どうやらその人間は当時の艦魂社会にかなりの騒ぎを起したらしい。決して富士が人間の事を悪く言っているつもりが無い事は明石も解っているし、仮にいつも仲間内でやってる戦隊長会議にかつての相方が首を突っ込んだらと考えると、明石にもその人間の傍迷惑振りは多少は理解する事が出来た。

 故に明石は富士の言葉に何度か頷いてみせる。同じこの世を生きる者同士とは言え、艦魂には艦魂の、人間には人間の、それぞれ独自の領域という物があるのだ。

 もっとも富士は、眼前の後輩に人間と艦魂の不可侵を訴えようと企図している訳ではない。彼女の語りはさらに続けられる。


『ただそんな二人には、お互いに遠慮しない物言いができるという共通の性格があったわ。それはいつ喧嘩になってもおかしくないという事と紙一重だったけど、偽りや勘違いの無い意思疎通にはとっても有効だった。理詰めで物事を考える艦魂(ひと)だった友人は、そんなやりとりにいつも真正面から挑んでたわ。まあ、あの子にとっては、その人間を完全論破してやろうと躍起になってた、というのが正直な所でしょうけどね。』

『へぇえ・・・。』


 声を返しながらも明石は富士が「あの子」と発言した事に、彼女が語る友人というのが彼女にとっての後輩に当たる者なのだろうと予測する。しかしそんな予測は、富士の友人である人物の名を示す手掛りとはならない。現代に残る戦艦という艦種の中では最古参である富士から見れば、明石だろうが師匠の朝日(あさひ)だろうが全て後輩になってしまう。観艦式が近い事から多くの艦艇で圧せられるという今の横須賀の中でさえ、あの艦もこの艦も全部ひっくるめて富士にとっては「あの子」になってしまうのだ。


『その人間は(もり)少尉と同じ様に、兵学校、砲術学校と進んだ砲術士官だったわ。頭も良かったから、友人とは艦艇の構造はもちろん、砲術理論、水雷理論、哲学から歯の磨き方に至るまで討論してた。いつも夜遅くまで、艦内の一室で論戦してたわ。お互いに勝ったり負けたりの毎日がずっと続いてたけど、友人はそんな中で出た結論を、意地を張らずに自分の生活に取り入れようともしていたの。あの子は私達の中でもちょっと偉い立場だったから、自分のお仕事にそれは顕著に出ていたのが解ったわ。もっともあの子は負けた事を意味するからって、その真相は私以外には自分の姉妹にも話してなかったけどね。』


 楽しそうに語る富士は肩を小さく上下させて笑う。さっきの話では超絶な喧嘩もしていたらしいその二人だが、第三者としてそれを見ていたという富士の態度とその言葉に、明石は富士が語る友人とその人間が案外仲が良かったのではないかと考えた。

 やがて明石はふとそれを富士に問うが、返って来た声は明石の考察が正しかった事を意味していた。


『その二人、結構相性が良かったんですね。』

『ふふふ。それはもう、毎日勝負してるのよ。お酒で勝負した時なんかは決着がつかなくて、次は歌の上手さで勝負。その次はダンスに楽器。最後は唱歌の歌詞を作って、私にその優劣をつけてくれなんて言って来たわ。夜も遅いのにお酒臭い息を二人して放って、私が嫌々ながらも目を通したら、今度は二人揃って目を回してその場にひっくり返ったのよ。』

『あははは。』

『ふふふ。本当に迷惑な人達だったわ。』


 屈託の無い綺麗な笑顔を見せる富士につられ、明石も口元を緩めて富士によって語られるその思い出を笑う。音階の上がった二人の笑い声が、舷窓からもれてくる陽の光と紅茶の香りに包まれて部屋に響いていく。しかし笑いが治まり始めると富士は笑みをそのままに大きく溜め息を放ち、明石はなんとなくその富士の溜め息の音色に悲しみが混じっているように感じた。

 他人の心の変化に敏感な明石が富士の顔を覗き込もうとする中、富士はその顔を隠すようにカップを口元に近づけながら話し始める。


『傍から見ているだけなら、あの頃は楽しかったわ。でも、同時にその頃はロシアとの関係が日に日に悪くなってた時期でもあった。元々は私も友人もその為に生まれたんだから、私達は来るロシアとの戦いを念頭にしながら日々を過ごしていたわ。そして予想通り、日本とロシアは国交断絶、開戦になった・・・。』

『・・・日露戦役、ですね・・・?』

『そう、当時世界最強とも謳われた軍隊を持つロシアとの戦い。私達なりにも必死になって日々の務めに励んで、・・・そして戦った。旅順沖での1年にもなる戦いに明け暮れ、仲間も何人も死んだわ。その中には朝日のすぐ下の妹だった初瀬(はつせ)、私の妹の八島(やしま)も含まれている・・・。』


 言い終えて紅茶を喉に流し込む富士はその表情を少しだけ歪める。ふと気になりだした紅茶の渋みがそうさせたのであろうが、突如として渋みに敏感になった富士の味覚の原因は、先程彼女が口にした仲間の死に纏わる記憶だと明石は察する。

 明石は以前に朝日と話をした際、かつて彼女もまた仲間を失ったという事をちょっとだけ聞いた事があった。初瀬という妹が亡くなったという事もその時に教えてもらった。だがその際の犠牲には、この富士の実の妹も含まれているらしい。富士は朝日のように悲しみを充満させた表情を浮かべはしないが、その細めた緑色の瞳には36年前の記憶に伴う彼女の感情が十分に込められている。

 やがて富士は唇を撫でて渋さによって歪んでいた表情を整え、中断していた語りを続けた。


『私達と同じ様に、人間達もたくさん死んでいたわ。旅順港の入り口を望む海域はもちろん、そこと旅順を挟んだ陸地の方でもね。そんな中で友人は、悲しみの連鎖を自身の務めで忘れようとしていたわ。何事にも正面から、飽くまでも理詰めで。それを座右の銘としていた友人にしたら、自身の感情と関係の無い戦術や艦隊運動に向き合う方が楽だったのよ。あんなに相性の良かった人間とも、それからは口も訊かなくなったわ。』


 富士の語る彼女の友人の変貌に明石は表情をそのままにしながらも、海軍の船たる自身ももしかしたらそんな感じの変貌を遂げねばならないのかと思いを巡らす。優しかった者が怖い者に、仲良くしていた者同士がいがみ合う者同士にもなり兼ねないという、富士が語る戦争の実情。その根源は、あんなに元気にしていた者が一瞬にして物言わぬ骸と化してしまうという、戦という物の当然の在り方。そこに自身と親しい神通(じんつう)や朝日、そして先程その近況を耳にしたばかりの相方を当て嵌めてみた時、明石は途端にかつてない程の恐怖心を胸の中に抱く。

 もっとも富士の変わらない声が明石の心をそれ以上に騒ぎ立てないようにしてくれ、彼女はなんだか重くなるような感覚を覚え始めるお腹を擦りながら富士に笑みを向けてみせる。だが同時に明石はその内心で、自身が抱いた今の感情こそが戦争という物の実情なのだろうと理解した。


 やっぱり嫌だなあ・・・。


 思わず脳裏に響いたその言葉も、明石としては戦争という物に対しての偽りの無い素直な感想。悲しいとか憎いとか、そんな感情は欠片も湧いてこない。明石にはただ嫌な物だとしか思えなかった。

 

『嫌な物よね、戦というのは・・・。』


 溜め息混じりで放たれた富士の言葉。その内容が自身が今しがた考えていた事と全く同じであった事に明石はちょっと驚いて、足元に落としていた視線を富士に向ける。


『不思議よね。私達と人間達はそもそもの生き方が違うというのに、戦争という物に持つ感情は同じなのよ。友人もそう思ったからこそ、艦魂たる者のお仕事に逃げたんだと思う。でもそんなあの子も、いま明石が思った事を否応無く味わう事になったわ。』


 そう言うと富士はそれまで握っていたカップをテーブルに置き、代わりに皿の上で横たわるマフィンへと手を伸ばす。上品に口に合う大きさに千切ってから食べる富士の姿は、彼女が明石に語り始めた時の姿と何一つ変化は無い。富士はゆっくりと頬を動かしてマフィンを味わい、現代の帝国海軍艦魂社会の者達と同じ様に彼女もまた間宮お手製のお菓子の味に表情を綻ばせた。

 眼前のそんな先輩の姿は明石にとっても微笑ましい限りの物であったが、彼女はちょっと身を乗り出して話の続きを富士へと催促する。自身と同じく戦争への恐怖心と嫌悪感を抱きながら、艦魂が見える乗組員を抱えて戦場へと実際に赴いたという富士の友人。いくつもの共通点を持ちその艦魂(ひと)がどの様に戦場を駆けて行ったのか。明石はそれをこれから自身が生きる上での参考に、是非とも聞いておきたかったのだ。


『その富士さんのお友達って、日露戦役を生き残った方なんですか・・・?』

『ええ・・・。でもそれがあの子を苦しめたわ・・・。』

『え・・・?』


 幸運にも富士や師匠の朝日の様に、その人物は日露戦役で命を散らす事は無かったらしい。実の妹を戦時中に失ったという富士にすればそれは喜ばしい事である筈だが、明石の問いに返した富士の声の音色はこれまでに無く悲しみに満ち満ちている。伏せ目がちに再びカップを手にとって口元に近づけ、富士は口の中に残るマフィンの小さな欠片を紅茶で洗い流すと、小さく溜め息を放ってから自身の友人についてのお話を続けた。


『あの子は仲間が散っていく過程でも平静を保ち、どのような形でも勝利を収め続ける事に全精力を注いでいたわ。仲間内からは物狂いと言われる事もあったし、あんなに親しかった人間が話しかけても無視し続けてた。あの頃は私達の間でもちょっと気まずい雰囲気が流れてて、些細な事での喧嘩なんかもしょっちゅうだったわ。でも、やがてそんな日々もついに終わる可能性が出てきた。遠く欧州よりやってきたロシア海軍の精鋭と、私達、帝国海軍が雌雄を決するという大海戦を展開する事態が迫ってたの。』


 富士が口にした大海戦という言葉に、明石はすぐさまその海戦の名を記憶より引っ張りだす。戦闘を主目的としない工作艦の艦魂である明石は、友人である神通や那珂(なか)に比べれば戦史という部分での知識は乏しいが、それでも富士が口にした海戦の名を間違えることは無い。なぜならそれは帝国海軍が金科玉条とする海戦の見本にして、帝国海軍が世界屈指の海軍として認知されるに及んだ晴れの舞台だったからだ。


『日本海海戦・・・。』

『そう。その日は幾分の強風と高い波がうねっていたけど、晴朗な天気はまさに絶好の撃ち合い日和だったわ。でもそれはロシア海軍も同じ。私達に先駆けて発砲炎を次々と灯らせていたあの時は、今でもハッキリと覚えてるわ。まして相手は長旅の強行軍とはいえ、世界最強とも言われた海軍の主力艦隊。艦隊運動としては時間のかかる正面転換を実施中だった私達の被弾は凄まじい物だったわ。マストは砕かれ、煙突は貫かれ、張り巡らせていた鋼索は鞭の様に甲板の上を暴れていた。私の友人はその時、僅か7分間で大小併せて16発もの直撃弾を浴びてたわ。』

『じゅ、16発・・・!』


 歴史的勝利と伝えられる日本海海戦を現代を生きる者として認識してきた明石は、その知られざる激闘の実情を初めて知って驚いた。

 自身の乗組員達が毎週月曜の午前に行っている教育日課においても、日本海海戦は帝国海軍の圧倒的勝利と公言されているし、それは明石を含めた艦魂達においても例外ではない。明石の姉貴分にあたる長門(ながと)ですら、それとは大差無い認識を持っているくらいだ。明石も師匠の朝日より少しだけ聞いた事はあったが、具体的な被弾数を伴った富士の言葉を受けて今まで持ってきたその認識を改める。明石の中にあった「一方的な帝国海軍の勝利」等という甘い幻想の真の姿は、日露双方、お互いにその艦体を切り裂きながら行った激烈な海上砲撃戦なのであった。

 これまでの日本海海戦に対する認識を明石が改める一方、富士はその記憶によって発生する腹部の不快感を覚え、戦傷衣の上から自身の腹をカップを握っていない手でゆっくりと擦る。勝利で終わった海戦に浮き立つ一方で、彼女はそこにとある悲しい現実を目にしてしまったのであった。


『あの海戦は10回に及ぶ合戦に分類されてる様に長丁場な戦いだったけど、最初の第一合戦での二戦隊の活躍もあって勝負は決まったわ。でも第一合戦自体はそれはもう激しい戦闘で、友人は目の前のロシア海軍をなんとしても倒そうと、自分の被害の確認もせずに指揮を取り続けた。まさに物狂い。喉が潰れて声が出なくなる程に、あの子はずっと号令を叫んでいたの。でも・・・、それがあの子にとっては使命を果たした結果であると同時に、最大の失敗でもあった・・・。』


 その語りの最後の部分で、富士の声はこれまでに無く曇る。富士はやがて目を閉じながらその続きを話し始め、明石はその内容に言葉を失った。

 それはもしかしたらそうなるかも知れないと、明石もふと考えた事のある最悪の事態。富士が声にして伝えた36年前の出来事は、明石が心の奥底で希に抱く事のあった憂い、まさにその物なのであった。


『散り散りになっていくロシアの艦隊を横目に、戦闘も一段落した友人は我に帰って、初めて自分の分身の損害に気付いたわ。傷だらけの分身と同様に、あの子自身も身体中に無数の傷を作っていた。でもそれだけじゃない。さっき言った16発の直撃弾に始まる被害は、友人の乗組員にも及んでいたのよ。顔が半分しかない遺体、臓物を腹から漏らしながらうごめいている負傷者、千切れた自分の腕を持って甲板を歩く水兵。そしてそんな中であの子は・・・、かつては自分とよく論争してたあの人間を見つけてしまった・・・。』

『そ・・・、そんな・・・。』

『その人間は胸から下を吹き飛ばされ、爆風で隔壁に縫い付けられていたわ。どうみても即死よ。ちょうどその時に私はあの子の元へと赴いていて、その人間の亡骸を前にして泣き叫んでた友人を目にしたわ。・・・潰れた喉で空に向かって上げたあの子の叫び声は、まるで怪物の鳴き声の様だったのを今でも覚えてるわ・・・。』


 言い終えた富士の瞳がゆっくりと開かれてその奥で光る緑色の瞳を除かせると同時に、少し垂れた彼女の目尻からは一筋の雫が頬を伝って流れ落ちていった。そして呼吸も乱す事無くただ頬を静かに濡らす先輩の姿とその語りに、自身と同じく艦魂が見える乗組員を持ったという富士の友人の悲しさが、明石にはまるでそのまま富士の記憶の中から流れ込んでくるかのように明確に感じることが出来た。

 だがそれ故に、明石は富士に対して返す言葉を失う。もうずっと明石は会ってはいないが、かつて一緒に過ごした相方との思い出は、常に明るい声と笑顔を伴った微笑ましい代物。自分の馬鹿な性格が原因で別れてしまったが、明石は相方を恨んだ事などこれまで一度も無い。それぐらい明石には、艦魂が見える人間であった相方が大事な人なのである。ところがそんな大事な人が自身が歩む海軍艦艇の道の途上で倒れるという可能性、否、そんな現実が実際に起こったという過去を耳にして、明石は否応無くそれが自分だったらと考える。

 すると途端に彼女は、父のように慕っていた人物を失ってしまったという自分の友人、神通の事が無性に気になりだしてきた。決して可哀想だという認識を前よりも増して、神通に深く同情する気持ちが明石に湧いてきた訳ではない。ただ友人がどんな事を考え、どんな思いを持ってその後を生きてきたのだろうと、明石には気になって仕方ないのだった。

 ところがそんな明石を他所に、富士の友人についての記憶はまだ途切れてはいない。脳裏に巡る想いを整理していた段階の明石だったが、富士は構わずその続きを話し始める。それは明石と同じく艦魂が見える人間を乗組員として持ってしまった者の、悲しげな末路であった。


『・・・あの子は後悔したわ。戦勝の観艦式の話も、海軍記念日としての認定の噂も、私の慰めの言葉も、あの子の涙を止める事は出来なかったわ・・・。そしてあの子は悲しみの淵に捕らわれ・・・、自ら命を絶とうとした・・・。』

『ええっ・・・!!』


 富士の言葉に明石は思わず驚きの声を上げてしまうが、富士は湿った頬を手の甲で軽く拭いた後、そんな明石にちょっと元気の無い小さな笑みを向けてみせた。


『大丈夫、友人は奇跡的に死にはしなかったわ。ただ、乗組員が大勢乗艦したままで火薬庫に放火したから、あの子の自決に巻き込まれた犠牲者は相当の数に上った。その時はさすがの私も友人に手を上げたわよ。あの子の悲しくて辛い気持ちを抑えつける様な真似だったけど、帝国海軍の船の命たる者としては決して許される事では無かったから。』


 気の良い老婆の外見を持つ富士が手を上げたという言葉が明石には信じられなかったが、自分以上に安堵の感を湛えた富士の表情を瞳に入れ、明石は彼女の言葉通り、富士の友人が結果として死ななかった事を悟る。明石としても大事な人を失った富士の友人の気持ちは痛い程に良く解るが、自分で自分の命を絶とうというのは軍医の彼女には絶対に容認できない。相方への想いは明石だって大事だが、師匠の朝日から教えられた命に対する明石の倫理観はそれと同じくらい大事な物だった。故に決して言葉に出す事は無いが、富士の友人が自身の乗組員も巻き添えにして自決しようとした事は悪い事だと、明石は心の中でハッキリと断言する。

 もっともその事を声を大にして言えないのは、富士やその友人であったという人物が自分にとって先輩に当たる者である事に起因する気後れからではない。「もし自分が相方を目の前で失ったら?」と考えた時、明石には自分が平静を保てるだけの自信が持てなかったのだ。

 

『大事な人が死んだからという理由を私と友人以外は誰も知らなかったから、仲間内では人間達の認識と同じ様に"不幸な事故"という事になったわ。それからはあの子も幾分は普通な暮らしをしてたけど、私は仲間内に対して常にあの子の周りに誰かが付いている様にお願いしたのよ。もちろん監視の意味でね・・・。』

『・・・・・・。』


 色々と考える事が多くて富士の語りにも声を返す暇が無い明石。呆けた表情でテーブルの上に視線を落とし、そこで静かに揺れている紅茶の波間を瞳に映しながら、明石は自分の事について必死に考えていた。

 富士が教えてくれた戦場の真の姿と、そこにあるであろう当然の犠牲。それは艦魂や人間等といった区別無く、どちらにも平等に襲い掛かってくる現実の結果。だが明石は自分が死ぬ事以上に、相方が死ぬ事に対してその思いを深く巡らす。

 師匠の朝日以外には自分しかいない工作艦という艦種。先日の石巻での激務に代表されるように、明石のお仕事は普通の戦闘艦艇である仲間達に比べても楽な物ではない。むしろ支那での戦火が全く及んでいない内地であったからこそあの程度で済んだが、いざ戦地へと派遣された際の自身の役割を考えれば、石巻での日々は毎日の物となってしまう事は想像に難くない。

 しかしそんな日々で相方に気をかけてやれる余裕あるかどうか、明石は疑問に思う。以前に明石は朝日より『人間と艦魂が同時に傷ついた場合どうするか?』と聞かれた際、『どちらも助ける。』と明確に答えた事がある。もちろんその言葉を発した際の精神を間違いだとは今でも思っていないが、先程富士より教えてもらった海戦の実情に、明石は自身の決意やその時の答えが現実を考慮していない甘い物だったのではないかと思えてくる。伝え聞いた富士の友人という人物が己の傷も顧みずに海戦に奮闘していたのは、船の命たる艦魂の在り方としては決して間違いではないが、それが大事な物を失う事への鈍感さを生んでしまうという点が明石には他人事には思えなかった。

 だがそんな結末に対して「こうしていれば良かった。」という明確な対策は、明石の脳裏に浮かんでくる事は無い。そもそもが富士の友人という人物がとった行動は、艦魂としての己が任務を全うする為の物。ましてロシア海軍の主力を相手にしたという中にあって、この富士やその友人、明石の師匠の朝日といった艦魂達とその分身はロシア海軍と戦う為にこの世に生まれたのだから、戦いの際に自身の務めを投げ出す事などあってはならない。明石にしたらそれは、傷ついている仲間を放り出す事と同義なのである。

 故に彼女は迷った。脳裏に過ぎる以前に朝日が放った「仲間と人間のどちらを助ける?」という言葉が、明石の中では今はとても重い言葉に思える。


『・・・。』


 ただ無言で明石は自分と向き合う。まだまだ未熟な自分をここ最近は痛感する事も多い彼女は、それ故に自身が以前に朝日に示した意気込みの実現性を憂う。かつての先輩が自分と同じ事を憂い、そして大事な者を犠牲にしてしまったという前例も、明石の迷いに一層の拍車を掛けた。

 一方、富士は自分の語りに声を返さずに俯いて難しい顔をしている明石に気付くも、彼女の意識を自分へと向けようなどとは微塵も思わない。必死に自分の疑問と戦う明石を邪魔せぬようにと、富士は静かに紅茶を口へと流し込む。その味はそれまで妙に際立っていた渋みが消え、ほんのりと甘いいつもの味が戻っている。

 それは富士が明石に伝えようとしていた事が、既に明石には十分に伝わっていると察する事ができたからだ。実は富士は、今も頭上に位置する甲板にてお掃除に励んでいる朝潮を含めた後輩達より、艦魂が見える人間と仲良く暮らしていたという明石の事を聞いた時から、この明石にいつか会って往年の仲間達にも秘密にしていた自分の友人の事を伝えようと決めていた。そしてその結果として明石がこうして答えに迷う状態に陥る事も、富士にとっては以前から願っていた事でもあった。


『よいしょ・・・。』


 するとそれまで静かにしていた富士は小さく気張った声を放つと同時に、ソファに沿うように身体を流してソファの隣に控えさせていた車椅子へと手を伸ばす。足の自由が利かない富士はその全身から滲み出る高貴さとは反する様に、ソファの上を手で這って移動しようとした。

 そして何気ない富士の声を聞いて我に帰った明石は、ソファの上で腹這いになる富士を目にしてすぐに彼女が車椅子へと身を移そうとしている事を察し、脳裏で未解決となっている憂いをそのままにしてすぐさまソファから腰を上げ、富士の元へと近寄って彼女が車椅子へと腰掛けるのを手伝った。


『あ、富士さん!す、すいません!』


 先輩の行動に早く気付いてやれなかった申し訳なさから咄嗟に明石は詫びの言葉を放つが、当の富士は満面の笑みを浮かべて後輩の気遣いに答えてやる。それどころか謝罪の言葉を発する明石を慰めてやるかのように、富士は車椅子へと腰を下ろしながらちょっと笑みを歪めて自嘲してみせた。


『歳を取るのは嫌ね・・・。身体が言う事を聞かなくなる一方だわ・・・。』


 そんな言葉を放って自分を笑う富士だが、それを耳にした明石はふと手を添えていた富士の腕の細さを妙に意識してしまう。常に座っている富士だがその身長は明石よりも高く、西洋人独特の広い肩幅は日本人の身体つきを持つ明石とは比べるべくも無い。仮に隣に座ってみれば二人の身体の大きさは一目瞭然である程に、富士は大柄な身体を持つ艦魂である。だがそれに反し、今しがた明石の手に残った富士の身体の感覚は「細くて軽い」という物。

 明石はその時、師匠の朝日では容姿以外に感じる事の出来なかった老いという物を、この富士には明確に感じ取る。かつては帝国海軍のシンボルとして波間を駆けた大戦艦と、その分身である富士。それを鑑みると何時にも増して老いという物が寂しい物でもあるという事を、明石は一際意識するのだった。


『大丈夫、ですか・・・?』


 傷病衣を身に付ける富士の格好もまた、明石の富士に対する気遣いを増す。なんと声を掛ければ良いか解らない明石が悩んだ末に放ったのはそんな言葉であったが、富士は軽く手を上げて明石に何事も無かった事を示すと、そのまま上げていた手の人差指を部屋の艦尾側に位置している扉へと向けて声を放つ。


『スタンウォークに出てちょうだい。』


 ただ一言そう言う富士。明石は寒い中で彼女が外へ出ようとする理由がわからなかったが、絶えず自分に向けられる富士の微笑みに背中を押されるようにして富士の乗った車椅子を押し始める。キコキコと小気味の良い金属の軋む音を放ってゆっくりと前に進む車椅子の上にて、ふと富士は背後にいる明石に僅かに顔を向けて話しかけた。


『明石。自分のしなければならない事に務めた私の友人は、間違っていたと思う?』

『・・・え・・・。』

『それとも、それは艦魂として当然の事で、正しい事であったと思う?』

『う〜ん・・・。』


 足を止めないながらも、明石は富士の質問に対して表情を曇らせてどもったような声を返す。先程もそれを考えていた彼女だが、一向に答えが出なかったのだからその返答は当然だった。

 工作艦の命として、軍医の役目を負う艦魂の一人として、明石はこれから自分の役目を懸命に励んで行きたいと願っているし、自分の使命として励んでいかねばならない事だとも認識している。だが記憶の奥で輝いている相方との日常をその犠牲としなければならないかもと考えた時、明石はそれを明確に嫌だと判断した。故に彼女はかつて、朝日に対して『どっちも助ける。』と明確に答えを告げている。

 しかしそれは自分の一方的な願いであり、現実を知らないままでの勝手な理想論だという事を、明石は富士の友人についての話によって思い知った様にも感じていた。艦魂が見える人間と供に過ごしていたという自身との共通点があったから、それは尚更だった。でもその反面、富士の友人が泣いたという事実を明石は別段変だとは思わなかった。それを自身に当て嵌めてみた場合、明石もまた自分は泣くだろうと容易に想像できたからである。


 艦魂としてお仕事に励む事は正しいのか、それとも間違っているのか。

 相方と生きる事を大事にする事は正しいのか、それとも間違っているのか。


 その疑問に対する答えがどちらなのか、明石はかつて無い程の迷いに捕らわれる。だからこそ、富士の質問に対し、明石には明確に答えを出す事が出来ない。歪んだ表情で富士から視線を逸らすのが、明石としては関の山である。


 ただ富士はそんな明石の姿を咎める事も無ければ、変に思う事も無い。なぜなら富士の記憶に残る友人もまた、今の明石の様にして迷いながら生きていた事を知っているからだった。

 やがて扉を開けた先に広がる横須賀の波間と少し冷たい風に髪を揺らし、富士と明石はスタンウォークへと足を進める。いつどこであっても絶える事の無い波の音が響き、じわじわと身体を温めてくれる水平線に傾きかけた朱色の陽の光で包まれる、富士艦のスタンウォーク。ふと富士はそこにあった手摺に右手を置き、大きくゆっくりと息を吸い込んでから言った。


『明石、それで良いのよ。』

『え・・・?』

『貴女は迷った。答えが出せなかった。でもそれで良い。私達は、艦魂と呼ばれる私達は、この世の(ことわり)に通じた超越者なんかではないの。生きる上では解らない事の方が圧倒的に多いし、間違いを犯す事も圧倒的に多い。人間達と同じ様にね。私達と人間は、命の入れ物が船か肉体かという事以外では、何も変わりなんかないのよ。そしてあの子には不幸にも、それを悟るだけの、迷いながら答えを探す事のできるだけの時間が無かった。もたれ掛れる物なのか、信じて良い物なのかも解らぬまま、唯一明確だった自分の船の命としての役目へと走り、・・・そして失ってしまったわ。・・・だから泣いた。ゆっくり考えられる時間を得たのは、全てが後の祭りとなった頃だった。・・・可哀想に・・・。』


 そう語る富士はふと手摺に乗せていた右手を、顔を向けている方向へと伸ばす。まるでそこにある空気を撫でるかのようにして指を小さく動かす富士だが、その視線はすぐそこにある空間に焦点を合わせていない。車椅子を押し終えて富士の隣へと立っていた明石はその事に気付き、富士が視線を投げている波間の向こうへと瞳を移す。


『貴女の話は何度か聞いていたけど、森少尉と貴女が訳あって離れる事になったと聞いた時、私は貴女にあの子の事を話そうと決めたの。でなければ、36年前のあの子の想いや願い、そしてあの子と親しかった人間のそれらと犠牲は、全部無駄になってしまう。そうなったら、今もこうして生きている私は、きっとあの子が起きたら怒られちゃうわ。ふふふ。敷島(しきしま)に似ていたから、怒ると怖い子だったのよ。ふふふ・・・。』


 富士は楽しそうに笑って言った。明石は富士と同じく横須賀の波間の一角に瞳を向けたまま、富士が言った彼女の友人の事を尋ねてみる。

 そしてこの時、二人の瞳には横須賀の海岸の一角にて周りを土で埋められた一隻の船が写っていた。


『起きたら・・・?』

『ふふふ。"Sleeping Beauty"って知ってる?』

『え・・・。す、すりーぴん、びゆう・・・?』


 英語の発音がまるでできていない明石の声に、富士は自身が英国生まれである事から流暢に英語を話せる身であるのを忘れてついつい笑ってしまう。富士の口にした言葉を全く理解できなかった明石が困ったような表情で見つめてくる中、まだまだ生まれたばかりの新米である明石の身の上を富士はよく理解しながらも、その下手糞にして酷い発音に笑いが止まらない。この分では発音を教えた所でその意味も理解出来ないだろうと彼女は考え、胸に手を当てて笑いを抑えながら自身が放った言葉とそこに込めた意味を教えてやる。


『童話の題名よ。この国では「眠り姫」という題名で通っているわね。生まれてすぐに"針が刺さって死ぬ"という呪いの魔法をかけられたお姫様がいて、その後に他の魔法使いが"針が刺さっても100年間眠るだけ"という呪いに修正するんだけど、結局はお姫様は大きくなってから、糸を作る為の道具に備わっていた針で手を刺して眠ってしまうのよ。その内にお姫様が住んでたお城にも呪いが蔓延して、お城は茨の大きな柵で閉じられてしまったの。お姫様を助ける為に幾人もの戦士が茨の柵に挑んでいったけど、誰も突破できる人はいなかった。でも100年後、ある国の王子様がやって来て、見事に茨の柵を突破。城の中で眠っているお姫様に王子様がキスをすると、お姫様は目を覚まし、その後二人は結ばれて仲良く暮らしたというお話。』

『・・・・・・。』


 初めて耳にした物語に耳を澄ましていた明石は、富士がその物語のお姫様を眼前にて陸地に上げられている一隻の船に例えているのだとすぐに察した。そして遠目からでも解る2本の高いマストに代表される古めかしいその艦影が、自身の師匠の朝日と良く似ている事に明石は気付く。刹那、明石はこれまで富士から聞いてきた彼女の友人というのは、眼前にあるあの船の命だという事を確信した。


『も、もしかして、富士さんのお友達って・・・。』


 そう富士に話しかける明石の表情は驚きの色で満ちている。なぜなら眼前にあるその船の名は、まだまだ新米の艦魂である明石ですらも知っているからだ。それは36年前のロシアとの戦争において、この富士や明石の師匠である朝日を含む十六条旭日旗を翻した全ての帝国海軍艦艇が続いた艦。波高しの日本海で帝国海軍の、否、大日本帝国の生き残る海の道を隊列の先頭として明確に示してみせた希代の戦士。


『・・・あの子が記念艦となる時、人間達に反して私達は別れの挨拶をせねばならなかった。陸地に艦底を着ける事は、私達にとっては死ぬ事に等しいからよ。・・・ふふ。でもあの子は、ずっと眠る事が出来る時間が得られたと笑ってたわ。考えながら待つつもりだったのよ、きっと。いつかあの人間と会える事をね・・・。』


 明石は富士の言葉を聞きながら、彼女がずっと見つめているかつての友人の分身へと再び視線を流す。帝国海軍の艦魂社会のみならず、日本国民一億の誰もが知っている有名なその艦の命は、今の自分と似たような境遇の中で生きたらしい。答えが見つけられぬまま自身の役目と理想の間で葛藤した者の末路は、悲しみと戦う毎日の果てに永い年月をただひたすら眠り続ける姿。明石はそれを横須賀の海岸の一角にて記念艦として現存する、富士の友人たる者が宿った艦体に認めた。

 やがて少し冷たい秋風が朱色の光りの届ける暖かさを通りがけに盗んでいく中、揺れる髪を片手で抑える富士は友人と同じ境遇を持つ後輩に伝えようとした事の総括を告げる。


『明石。辛いかもしれないけど、森少尉と離れた貴女には、あの子が持つ事ができなかった時間がある。その時間を不幸と考えず、貴女には答えを見つけて欲しいの。優しかったあの子は、自分のように後悔する日々を送った末に、声にも出せずにただ夢見るだけだった幸せを眠りながら待つような事は、後輩にはさせたくないと願っている筈よ。私はそう信じてるわ。』

『・・・はい・・・。』

『迷う事のできる時間があるのなら、ゆっくり道を探すべきよ。私達が舳先で切り裂く海原には、そもそも道なんてものは無いわ。あの子の様にならない様に、貴女は貴女の道を自分で切り開いていくしかないの。』


 富士の言葉に返事もするのを忘れて、明石はふと朱色に染まった横須賀の空に顔を上げた。やや急ぎ足で陽の傾く方角とは反対に流れていく雲の遥か向こう、明石はそこから自分の事を見守ってくれている誰かの視線を感じたのだった。それはこの富士と同じ時を駆けた自分の先代の物だったのか、それとも眼前にて永い眠りに付く偉大にして悲劇を味わった先輩の物だったのか。だがその正体について明石は考えを巡らせる事は無く、代わりに自身がどうすればその視線に応える事ができるかという事を考えた。

 正直な所、自分が後悔の無いようにこの先を生きる事ができるか、明石には自信がない。その中心である相方の事にしても、優秀な者は次々に大型の戦闘艦や偉い肩書きを持たされて出世していくという帝国海軍の士官事情を、例え艦魂であっても明石は海軍の者として気付き始めている。考えると胸が苦しくなるが、もしかしたら二度と彼に会う事は無いのかもしれない。むしろ再会した果てにあの先輩のような経験をするのであれば、もう会わない方が遥かに幸せとも思える。

 もっとも明石はそこまで考えても尚、かつての相方といつか再会する事を望んだ。でなければ、絶対に自分は後悔すると確信したからだ。

 するとそんな明石の確信を、今度はかつての先輩が味わったという艦魂としての自分の役目と、そこに生まれた葛藤が揺さぶってくる。あれ程に有名にして自分とは比べ物にならないくらいに優秀だった先輩ですらも、望んだ訳でもないのに味わう事になってしまったという、富士の口から語られた36年前の悲劇。その先輩と良く似た境遇を持つ明石にとって、それは言わば前例である。そしてその前例に対して、『自分はそうはならない。』と明石は断言できなかった。


 断言なんて出来ない。自分もそうなるかもしれない。先輩に比べて、私はまだまだ未熟だから・・・。


 第二艦隊の仲間達に比べて海軍の者としての知識も劣り、友人である神通や那珂程の体力も無く、軍医としても師匠の朝日には到底その実力が及ばないという自分を、明石はこの時強く意識した。しかし明石はそれと同時に、これまで意識すらもしてこなかった自身の励む事に対する姿勢にふと気付く。

 石巻での日々で味わった苦労でどこか自分も一端の艦魂になれたのかと、声には出さずとも内心では実感していた明石。それはいつの間にか彼女に安堵の感をもたらし、自分の能力を向上させる貪欲さを明石から失わせていた。そも石巻での連続する徹夜の日々を過ごしていた際、明石はそれが自分のお仕事だと言い聞かせるようにして仲間の治療に当たっていた事を思い出す。そこにはもっと自分を鍛えようとか、軍医としての経験を積もう等という意識は無い。それ以前の神通の体力強化訓練を受けた時だって同じだった。


 体力が無いと、お仕事ができないから。


 その一言で彼女はそれを、自分がこなさねばならない物だと決めつけていた。もちろんその際に彼女としても汗は流したし、苦労だってした。しかし今の明石には、当時の自分のそんな姿勢がなんだかとっても楽をしていた様に思えてくる。


 役目だから。仕事だから。


 そう言って励むついこの間までの自分の姿が、この時、明石の中では富士が伝えてくれた彼女の友人と重なってくる。それが悪い事なのか、良い事なのかは解らない。ただ明石はそんな姿勢で生きた先に待っている物が、先輩と同じ航路を歩んだ先に在る物が、伝えられた悲劇なのではないだろうかと考えるのだった。


 やがて空の朱色に紫が混じりだし、スタンウォークにて沈黙を交わす二人の間に吹く風が冷たさを増し始める中、無言で相方と別れてからのこれまでの自分を見つめなおす明石に富士は小さく頷いて声を掛ける。


『私の問いの答えは出た?』


 すると明石はゆっくりと首を左右に振る。


『・・・いいえ。・・・でも・・・。』

『でも?』

『ちょっとだけ、私は自分をサボってたのかなって、思えました・・・。』


 明石の声に富士は満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。

 マフィンを運ぶついでに挨拶にやってきた明石という後輩に富士はこれまで長話をずっと続けてきたが、それは彼女を話し相手としたいからでもなければ、眼前にて陸地にその身を移した彼女の友人の身の上に同情して欲しいからでもない。ただ一言、生まれたばかりのこの若者に『だらだらと生きるな。』と伝えたかったのだ。

 ラッタルの一段一段を踏みしめる如く、夜空の星を数えるが如く、日常に対して常に意味を持って生きる事の大事さと厳しさ。それは甲板にて朝潮に向けて彼女が言った言葉と同じであり、富士はその言葉を今度は明石に向けて放つ。


『それで良いのよ、明石。常に自分には厳しく、でも常に自分を大事に、そして常に見失わない様にね。』

『はい・・・。』


 明石は少しだけしかめた眉で眼前にて暮れていく先輩の艦影を眺め、力の込められていると同時に極めて静かな口調で返事をした。そしてそれは富士が伝えんとした事を、この明石がしっかりと受け取っていた事を意味していた。

 艦魂も人間も、優れているも劣っているも無く、自分をサボった者がどうなるか。

 二人が目に映す、陸地にて記念艦とされている船の艦影が、それを良く示していたのだった。


 やがて自分を見つめなおせた明石を隣に、富士は今もそこで眠り続ける友人に語りかける。西洋人らしいユーモアと若干の寂しさも混じったその声は、二人の間に流れ込む秋風によって運ばれ、青紫一色に染まった横須賀の波間へと吸い込まれていった。


『たまには寝言ぐらいは言いなさいよ・・・。三笠(みかさ)・・・。』

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ