第六五話 「伝えられる物/其の二」
横須賀の海岸の一角にて繋留される富士艦。
類別の上では一応は特務艦である事からその艦尾には軍艦旗が翻っているが、航海学校の練習艦とされている今の富士艦の艦影にはかつて対馬沖で世界最強の海軍と戦った当時の面影は既に無い。撤去された主砲塔跡には木造の簡易な校舎が増築され、波間の下にて牡蠣やフジツボの集合住宅と化している艦底にはスクリューすらも見る事が出来ない。この横須賀の波間にて余生を過ごす事が決定された際、富士艦からはスクリューが撤去されたのである。もちろんそれは艦魂である富士の身体に対しても影響を与え、足の自由を奪われて車椅子生活を送っている彼女の姿の理由ともなっている。
そして軍艦旗と同じ様に彼女の分身には一応の艦長と乗組員も配属されてはいるが、その数もお仕事も富士艦が波間を駆ける事には一切の関係を持っていない。つまり名ばかりなのである。
故に明石が富士の腰掛けた車椅子を押して進んだ富士艦の中は掃除こそされてはいるが、人間達の息遣いも生活の音も何一つ感じる事が出来なかった。もっとも富士はそんな自身の分身の状況を有効活用しているらしく、彼女は明石の師匠にしてかつての戦友でもある朝日と同じ様に艦尾の長官室を自分の暮らす空間としていた。
『さあ、入って。』
富士はゆっくりとした口調で長官室のプレートが張られたドアの向こうへと明石を誘う。その奥には真っ赤な絨毯と茶色の輝きを放つ椅子やテーブルが並んでおり、スタンウォークへと繋がっている扉の窓から漏れて来る陽の光りで照らされていた。
明石にとってはそんなお部屋の光景は朝日との一時で幾分は慣れてはいたが、すぐに彼女はそこに明確な違いを認める。だがそれは室内にてノスタルジックな雰囲気を放っている家具の形が違うとか、舷窓に施されているレースのカーテンが朝日の物よりも高級そう、等といった目に訴えてくるような代物では無い。その証拠に、明石は僅かに顎を上げて鼻を鳴らし始める。
『んん?スンスン・・・。』
後ろ手に扉を閉めながら、明石は部屋に充満する甘い香りに鼻の穴を大きくする。そのなんとも格好悪い自身の姿を恥じらいもせずに延々と扉の前で続ける明石に、車椅子を手で進めて部屋の中へと進んでいた富士は可笑しくて笑みを溢した。その姿はまるで何も無い寒村から大都会へと初めてやってきた田舎娘を彷彿とさせ、富士は口に手を当てて思う存分に明石を笑う。やがて当の明石がそれに気付いて後頭部を撫でながら赤面する中、富士は部屋の最奥に位置する机の上にて室内に香りを充満させている大元を指差して声を放った。
『御香よ、明石。初めて見たの?』
『あ、えへへ・・・。はい・・・。』
苦笑を浮かべつつ明石は富士が指差す机の上を見てみる。するとそこには木製の反った板に斜めに挿されて、静かに煙を上げている黒い棒状の物があった。火気厳禁である艦内生活であるから明石はこれまで自身の分身の中でそれをを見た事は無かったが、ちょうど自分の元へと流れてきたその煙を吸い込んでみて、それが御香という代物である事をよく理解する。その香りはとても甘くしっとりとした感じで、いつぞや相方にお土産として貰った花に良く似た香りがした。そして明石の連想とした香りの正体は実は当たっており、富士はその事を明石へと教えてやる。
『ラベンダーっていうお花の香りなのよ。日本では手に入らないけど、国際港である上海にいる私の友人が、時々商船や運送艦の艦魂に頼んで送ってくれるのよ。』
にこにこと笑みを浮かべてそう言った富士に明石は最初の内は笑みを返していたが、今しがた富士が放った言葉が彼女の脳裏に少しだけ引っかかる。それはラベンダーという花の名。富士と同じく英国生まれの代物であるその花は、当然の事ながら明石は目にした事は無い。そもそも花自体も彼女は間近で見た事はこれまで一度きりしかないのだ。しかしなぜか明石はそのラベンダーという言葉が先程から耳に残っており、首を捻ってその花に纏わる記憶をなんとか辿ろうとする。
『ふふふ、どうしたの?』
『う〜ん・・・。あ。』
明石の様子を不思議に思って声を掛けてきた富士。しかし明石は返事もそこそこの所でやっと頭の中で引っかかっていた事を思い出し、すぐさま上着のポケットに常に忍ばせている小さなメモ帳を取り出す。
それは明石が日常から知識を書き留めておく物で、師匠とのお勉強の際には常に使っている知識の書。そして明石はパラパラとめくって行くメモ帳の中の1ページに、目的の「ラベンダー」の文字を見つけた。だがもちろんそこに花の名が単独で記載されている訳が無い。明石の予想通り、花の名が書かれた行の下にはラベンダーが持つ独特の効能が併記されていた。
『鎮痛と沈静作用、なるほど。』
ついついメモ帳に見つけた効能を口に出した明石。実は明石は富士の部屋へと足を踏み入れた時から、そのなんとも落ち着いた感じが妙にすんなりと自身の身体に馴染んでいる事がちょっと不思議だった。
というのも、かつて師匠の朝日のお部屋にて初めて勉学に励んだ頃、一度だけ彼女はその高貴さと落ち着きを伴った見事な部屋の家具に舞い上がり、朝日が不在となった一時を良い事に跳ぶ様にしてソファに腰掛けて遊んでいた事がある。まるで宝石のような輝きを放つソファの木目が、彼女の無垢な心を無条件に躍らせてしまったのだ。しかし一流の淑女という艦魂たる者の理想像を体言する朝日がそんな教え子の姿を許す筈は無く、明石は部屋へと戻ってきた朝日によって笑顔のままなのにとても怖いというそのお説教を長々と受ける事になったのである。
そんな事から富士の部屋へと訪れた明石は、偉大な先輩にして朝日と同じ様な分身を持っているであろう富士の部屋を視界に入れて平静を保てるか、と一人で自身の事を憂いでいたのだが、部屋についても明石の心の大半を閉めているまだまだ子供と変わりない心は浮き立つような事は無かった。別に部屋の内装がイメージしていた物と違っていた訳ではないし、むしろ朝日の部屋と比べても富士の部屋の豪勢さはずっと上である。故に明石は凄さを実感しても湧き上がるような好奇心が一向に襲ってこない事を不思議に思っていたのだが、富士が教えてくれたラベンダーの香りを放つ御香と師匠より授かった知識の融合によって、彼女のその疑問には終止符が打たれる。ラベンダーの持つ鎮静作用が効いていたのだ。
その一方で富士は、なにやらポケットから取り出したメモ帳を片手に一人頷いている明石に、先程の彼女の真似をするかのように首を傾けていた。しかしすぐにその表情は笑みと変わる。富士が明石の様子を考察する際に辿った記憶の中で、明石はラベンダーの花が持つ医学的な言葉を放っており、その事が富士に明石が考えている事を悟らせる。
病気とは無縁である筈の艦魂の事は富士も長い生涯で知っているが、明石はそんな艦魂の中にあって医学の用語を用いた。そして富士はもう一人だけ、この明石と同じ様に医学の知識を持ち合わせる艦魂を知っているのだ。富士の記憶の中で一際光り輝く時代の思い出の住人にして、供に波高しの日本海で戦った戦友。彼女の予想通り、その人物はもちろん明石に医学の知識を授けた張本人であった。
『あ〜あ〜。そう。貴女、朝日に教えを請いだのね?』
『あ、は、はい!そうです!』
富士の口から自慢の師匠の名前が出てきた事に、明石は表情を明るくさせる。もちろん朝日とこの富士がかつての戦友の一人であった事は明石も知っていた。すると富士は明石に向かって笑いながら大きく頷くと、部屋の右舷側の壁にたたずむ大きな棚へと顔を向ける。明石の立っている位置からはソファや机と同じ様に木目を輝かせている棚にしか見えないが、やがて富士の手招きを受けて明石は彼女の元へと歩み寄って行った。
『あの子は仲間内の中でも、最も博識な艦魂だったわ。軍医になる前から、ハーブやティーの効能を趣味で勉強してたのよ。』
そんな言葉を放つ富士は銀縁の丸眼鏡に手をかざして舷窓より漏れて来る陽の光りを反射させると、ふとすぐ横にあった明石の腰に腕を回す。微かに力を込めてそっと明石を抱き寄せる富士は、先輩の次の言葉をちょっと驚いた表情で待っている明石に対して、顎を棚の方に向かって動かしてみせる。
そして富士の行動で棚を真横からではなく正面から見た明石は、棚の中段に飾られるセピア色の写真の中で、写真と同じくほんのりと黄色がかったセピア色の肌を浮かべる自身と同じくらいの年代の女性達を瞳に映した。
『あ、こ、これ・・・。』
すぐさまその写真に写る女性達の正体を察する明石に、富士はゆっくりとした口調で声を返す。
『そう、貴女の先輩達。もう36年も前になるわ。』
『うわあぁぁあ〜・・・。』
その写真に写っていたのは背後に供に写る軍艦旗が似つかわしくない西洋人の顔をした女性達ばかりであったが、朝日や富士で見慣れている明石はそんな事を気にも留めずに写真に顔を近づけて大きな瞳を右往左往させる。まさに今、明石が身に付けているのと全く同じ第一種軍装を身に付けた女性達の格好が、無言で彼女達が帝国海軍の艦魂である事を物語っていた。
どうやら集合写真であったらしく、セピア色の肌の女性達は前後2段の横列に並んでいる。その列を端から順番に焦点を流して明石だが、ふと彼女の視線はとある人物の前で止まった。どこかで見覚えのある、乗組員達が持ち込んだ雑誌で見た貴族の婦人の様なカールの掛かった長い髪と、じっと目を凝らす事で見て取れた口元のホクロ。一緒にあったしわがその顔には微塵もないが、明石はすぐさまその人物の名を思い当てた。
『こ、これ、朝日さんですか!?』
『ふふふ。すぐ解ったって事は、朝日は変わってないのね。』
『ひょええ、若い〜・・・!』
セピア色に染まっていても解る艶のある肌の朝日に、明石は驚きを隠せずに素直な感想を放ってしまう。爛々と輝く明石の瞳に写る36年前の師匠は西洋人独特の広い肩幅も手伝ってか、その華麗な姿は別人にも思える程で、明石の記憶にある第二艦隊の仲間内にだって太刀打ちできる人物は一人も見当たらないくらいだった。
もはや凄さを実感するというよりは感動すらも覚えている明石。
そんな自分を富士が優しげな緑色の瞳で視界に入れている事を意識しようともせず、彼女は今度は写真の中で師匠の隣に座る人物に気付く。同じく西洋人の顔つきをしているその顔に見覚えは無いのだが、その人物が足を揃えて座っている周りの女性達と違って大股で椅子にどっかと腰掛けているその姿にはなんだか見覚えがある。開いた両足の間で甲板に突き刺すように立てた日本刀の柄に両手を乗せ、何がそんなに気に入らないのかと思わず聞きたくなる程に不機嫌そうな表情の、鋭い釣り目を持つ女性。『はて?』と明石は首を捻ってその人物の名を探していたが、その女性が顎を引いて上目遣いで睨むような視線を向けている事に気付くや察しがついた。その女性から受け継がれる物を先日の金剛の一件から思い出してしまった明石には、そのおっかない風貌の女性がまるで友人とそっくりに見える。それはもう瓜二つという言葉その物。そして明石の考察は当たっていた。
小さくその女性を指差した明石は富士に顔を向けると、思いついたその女性の名を尋ねてみる。
『これ、もしかして敷島さんて方ですか・・・?』
『ええ、そうよ。ご覧の通り無愛想で粗暴な所もあったけど、私達の中ではあの子が一番の戦上手だったわ。日露戦役の半分くらいは、私と一緒に一戦隊の二小隊を組んでたのよ。』
見事に当たっていた。やはり「あの親にしてこの娘あり」だったという艦魂社会の伝統を明石は確信する。良く見ると西洋人の顔つきを持つ敷島の顔は直接の教え子である金剛よりも、明石には何だか友人である神通の方に似ているような気がしてきた。微笑ましくもあり、同時に困った事でもある。もっともその事は明石にこれ以上無い可笑しさを与えるのであった。
『にしししっ!そっくりい!』
かつての戦役においては華々しい活躍をした大先輩。だが友人との共通点が奇妙な程に多い敷島の姿に、明石はなんだか先輩への親近感が沸いて噴出してしまう。彼女の心の中での湧き上がる親しみやすさは、師匠と仰いでいる朝日よりも上だった。
『そのまま、もうちょっと待っててね。ティーを用意するわ。』
すっかり一枚の写真にいくつもの発見をして有頂天の明石に、机の上に置かれていたティーセット一式に手を伸ばした富士が声を掛ける。明石はようやくここにくる間に富士の口から出た相方の名の真相を聞けると気持ちを切り替え、新参である自分の為に先輩の手を煩わせる手持ち無沙汰な感覚もあり富士に手伝いを申し込んだが、ティーの入れ方に拘りたいという富士の声でその申し出をやんわりと断られた。悪いなあを思いつつも明石はティーを用意する富士を背にして、再び写真に目を写してみる。
抽出が始まったのか、コポコポと子気味の良い音が部屋に静かに響くと同時に、明石の花を薄っすらと室内に漂い始めた茶葉の香りがくすぐった。
正直に言えば相方の話しを早く聞きたい明石だったが、大先輩である富士の心遣いを無駄にする事は明石なりの道義に反する。故にはやる気持ちを抑えつつ、彼女は写真の向こうに並ぶ先輩達に目をやった。
『ん?』
と、その時、明石はふと朝日の後ろに立った一人の女性に視線を止めた。周りの者達と同じ様に西洋人の顔つきと広い肩幅、高い身長を持つその女性は敷島ほどではないにせよ、どこか冷たい視線を放って写真に写っている。その眼差しはその人が怖くて厳しい性格を持っているというよりも、何か写真越しに視線を交えた者を蔑んでいるような感覚すらある。色の感覚的にその顔の両脇を流れる艶の美しい金髪も、明石にはなんだか人形の髪の様に見えるのだ。
そして明石はその人物にも僅かにだが見覚えがあった。だが記憶をいくら辿ってもその女性の名は頭に浮かんでこない。最初は朝日の姉妹に当たる者なのかと思ったが、並んだ者達の中には敷島を含めた顔立ちの良く似た先輩を既に彼女は見つけており、彼女達に比べると明石が気になった女性は顔立ちが全然似ていない。それにその顔には朝日よりもさらに大人びた感じの面持ちがある。あの朝日と正反対の性格であろう敷島ですら顔立ちは似ているのだから、どうしても明石にはその女性に対して何故に見覚えがあるのかが解らなかった。
『・・・。』
首を捻ってなんとか記憶の山の発掘に挑んむ明石は、もっとよく見てみようと棚に置かれている写真に手を伸ばそうとする。しかし彼女のその手は、咄嗟にかけてきた富士の声によって動きを封じられた。
『あ、明石、ごめんね。それは古い写真だから、あんまり触って欲しくないの。』
『あ、す、すいません・・・。』
背後から響いてきた先輩の声は決して怒鳴るような代物ではなかったが、まるで弦楽器のような音である富士の声に備わる気品は明石の身体を硬直させる。富士の声はしゃがれているゆったりとした口調であるのに、耳から入るとなんだかとても高級で威厳があるような声。どこぞの国の女王様のような雰囲気さえある。そのせいか明石の瞳に映されていた写真は、それまでの古ぼけた写真から宮廷画家が書いた王室一家の家族写真にも見え、明石はふと自分みたいな未熟者が触れてはいけない様な代物に思えてくるのだった。
そんな明石の背後にて富士は机のあちこちに手を伸ばして用意したティーセットをトレイに乗せ、明石が運んできてくれた紙袋の中からマフィンを取り出してお皿に盛り付ける。真っ白な下地に上薬で花の模様があしらわれたカップや皿は富士の手に触れられる度にカチャカチャと子気味良い音を放ち、小さな妖精達の会話のようにそれまで静かだった室内を賑やかにする。その音に耳を撫でられたのは、写真の向こうの女性が放つ霞んだ見覚えで首を捻っていた明石も例外ではない。どうやら朝日と同じ様にこの富士も紅茶を愛する習慣を持っているようで、明石は振り向いた先に笑顔で琥珀色の小さな滝をカップへと注いでいる富士の姿を瞳に入れる。
しかしその時に視界に入った富士の斜め横から見た顔に、明石は何かを感じ取った。
深いしわと銀縁の眼鏡に崩されながらも、かつては美しさを極めていたであろう事を見る者に良く伝える富士の輪郭。緩やかに小鼻の辺りからそびえる高い鼻。僅かに垂れるしわを伴った縁色の目。
それらは優しげな富士の顔立ちを構成しているパーツの一つ一つであるが、明石はそれをついさっき背後にある写真の向こうに見つけていた事に気付く。
『ええ・・・!』
ついつい声を漏らして写真に顔を戻した明石の瞳に、それまでよりも更にハッキリとした見覚えを放っている人形の髪を持った女性が写った。流麗な輪郭と鼻のライン。蔑むような冷たい眼差しを放つ、僅かに垂れたその目の縁。その顔のパーツが背後にいる大先輩と共通している事が、明石の思考をちょっとした混乱状態に陥れた。
『こ、これ・・・、も、もしかし、し・・・。』
『うん?』
震えも混じる明石の声に富士は澄ました顔で笑みを向けるが、明石が目を丸くしながら指差している写真の女性を見ると、少し歪んだような笑みを浮かべて声を放つ。なぜならその人物は36年前の写真に写る仲間達以上に、その生涯を通じて富士が最も良く知っている人物であったからだ。
『あらあ、良く解ったわね。それは私よ。』
『わ、わたしって・・・。』
快くかつての自分を教えてやった富士に他意は全く無い。むしろ今はもう足の不自由も利かぬ程に衰えてしまった自分を、明石がずっと昔の写真の中で見つけてくれた事が富士には嬉しかった。だが明石はそんな富士の態度にすらも、その表情に現れる驚きの度を増してしまう。共通点があると言えども、眼前にいる富士と写真の中でセピア色の肌を持つかつての富士とは、その身体の節々から発せられている雰囲気が全然違うからだ。蔑むような視線なぞ、今の富士の緑色の瞳には微塵も宿っていないのだから無理も無い。
『な、なんて言うか、その・・・。富士さん、こ、怖い顔してませんか・・・?』
まだちょっと静けさを取り戻していない心で呟くように声を放つ明石だが、富士は頬に手を添えて小さく笑うのみ。返って来た言葉も、明石にとってはなんだか知らないフリをしてはぐらかされた様な感じさえする。
『さあて・・・。何か面白くない事でもあったかしら・・・。』
瞳を細めて笑う富士はそれ以上は何も言わず、明石はかつての富士が今とはちょっと違ったお人柄を持っていたらしいという事だけを理解する。写真越しでさえも伝わってくる36年前の彼女の迫力を明石は瞳に入れる度にヒシヒシと感じてしまうが、その真相を聞こうとする明石の好奇心は続けざまに背後から響いて来る富士の声によって抑制された。
『明石、これをそこのテーブルに運んでちょうだい。私は手が塞がると移動ができないから。』
『あ、はい。』
富士が差し出すトレイの上には先程の御香の残り香も混じった香りを放つ2つのカップと、お皿に装飾の様に並べられたマフィンや乾パン、陽の光を受けて鮮やかに光るジャムの詰まった小さな瓶が並んでおり、元来が食いしん坊である明石は富士の過去にちょっと後ろ髪を引かれつつもトレイへと手を伸ばした。ちょっとだけ重いトレイは激しく動かすとカップの紅茶が溢れてしまいそうで、明石はトレイの両脇を握って持ち上げるや、ゆっくりとした足どりで部屋の中央にて向かい合うソファに挟まれたテーブルに歩み寄って行った。
足の自由が利かない富士がソファへと腰を下ろすのを明石は手伝い終え、彼女とはテーブルを挟んだ向かいのソファに明石は座る。白いテーブルクロスを敷かれたテーブルの上には待ちに待った甘い香りも香ばしいマフィンが備えられており、明石は口の中に沸く唾液を押し消すように富士が淹れてくれた紅茶を口にした。朝日が淹れてくれた物と違い、重みのある紅色が滲み出た湖面を明石はゆっくりと口の中へ導いていく。
『おぉ。おいしいぃ。』
『ふふふ。朝日はカンヤム・カンニャムっていうティーが好きだから、きっと明石もご馳走になった事があるわよね? 私のはニルギリというティーで香りも味も大分違うんだけど、口に合って良かったわ。』
富士の茶葉談義に頷きつつ、明石は鼻を小さく鳴らして湖面より舞い上がる芳醇な香りを楽しむ。記憶に残る朝日の紅茶はどこか甘い果物を彷彿とさせる香りだったが、富士が淹れてくれた紅茶の鼻腔の中でゆっくりと広がる様な香りもまた格別だった。やがて富士の真似をする様にして手を伸ばしてみたいつもは素っ気無い味の乾パンも、ジャムをつけると紅茶の味わいを一層引き立てるお菓子へと早代わりし、口の中に散る乾パンの粉を紅茶で洗い流すという事に楽しみまで覚えてしまう明石。美味しい物を胃袋に入れる事が人生最大の喜びである彼女は、先程の富士の過去への疑問も脳裏から消し去り、満面の笑みでティータイムを楽しむ。
一方、富士は最初の内は微笑みながら明石の姿を瞳に入れていたが、何度目かになる紅茶の香り鑑賞をした際に呟くようにある事を明石に質問する。
『明石。』
『んむぅ。はい、なんですか?』
『朝日から、あの子の姉妹の話を聞いたことはある?』
突然の富士の質問に明石は朝日との思い出を辿ってみるが、すぐにその答えを得て富士に首を振る。師弟として過ごした日々の中、その存在以外では明石は朝日の姉妹に当たる者達の話を一切聞いた事が無いのだった。
『いいえ・・・。無いです・・・。』
『ん、そうなの・・・。』
富士の心根が全く変わっていない事を示す、優しさの篭ったゆっくりとした流れの声が明石に返って来る。しかしその声はわずかにだが歯切れの悪いよどみのような物があり、富士が何かを含んでそう言ったのは明確だった。もっともそんな事に気付いて色々と内心で考えを巡らす明石を他所に、富士は眼前の後輩に内緒事をつくろうとしたつもりは無い。彼女はただ、これから話す明石にとっての大事な人に関する話題を、どうやって切り出そうかと整理しているのである。唇に触れる僅か手前で宙に掲げたカップに口元を隠し、真紅の湖面から立ち上る香りを楽しみつつ、やがて富士は考えをまとめて明石へと語りかけ始めた。
『・・・知ってるかもしれないけど、私は今は横須賀に繋留されて、この近くにある航海学校の分校舎として使われてるの。』
『は、はあ・・・。』
突如として始まった先輩の身の上話に呆けた返事を返す明石だが、続いて富士の口から出てきた言葉に身体を瞬時に硬直させる。
『この近くは航海学校の他にも色んな軍学校があるわ。すぐ近くには水雷学校、一年前に久里浜に移っちゃった通信学校、東京にまで足を伸ばせば経理学校もある。そしてそれらの生徒達はたまに実艦実習として、私の所にやってくるの。つい先月には砲術学校の生徒もきたわ。』
『砲術がっこ・・・。』
富士が口にしたそれは海軍砲術学校。帝国海軍随一の修羅場と恐れられる教育機関にして、明石にとってはかつての相方が自分の元を去って向かった地でもある。何故だか小さな胸騒ぎが渦巻く明石はそれを抑えるようにして胸に手を当てながら、『砲術学校の生徒が来た。』という富士の言葉に、その生徒の中にきっと忠の姿があったに違いないと察する。部屋に向かう際に彼女の口から思いがけず彼の名が出た事も、そんな明石の考察をより鮮明にしていった。
無意識に足元に目を落としていた明石が視線を上げると、富士は明石の表情を笑うようにして口元を緩める。解りやすい反応をする後輩を目にし、富士は色々と感慨にふけりながら彼女が待ちわびる相方のお話を始めた。
『ふふふ。森少尉と貴女の事は以前から、もう耳が痛くなるくらいに朝潮達から聞かされてたのよ。』
半笑いで楽しそうに言葉を放つ富士だが、明石は自身に関しての噂話をしていたという朝潮の事を知らされてちょっと口を尖らせる。別に怒りという感情は湧いては来ないのだが、自分の事を知らない所で噂していた朝潮がなんだか面白くなかった。富士の部屋を訪れる前の甲板にて、既にそのおしゃべりな朝潮の性格も明石は理解している。
後で牛ころし(※海軍用語・デコピンの事)でも食らわしてやる・・・。
富士に対する笑みをそのままに、そう朝潮へのお仕置きの刑を決める明石。
もっともそれに反して富士は、明石の噂話を本人の前で暴露して笑ってやろうというつもりでは無い。富士はただ単に、小耳に挟んでいた艦魂が見えるという人間に実際に会えた事がとても新鮮であり、そこで目にした忠という人間の人物評を、かつての彼の相方である明石に伝えてやろうとしただけなのだ。
それを示すように音階の上がった富士の声は、明石のまだ落ち着きが定着していない心を撫でて行く。
『艦魂が見える人って珍しいじゃない? だから砲術学校の生徒達が来た時に、どのような方なのかと思って見に行ったのよ。それはもう本当に、美男な人だったわねぇ。』
口と鼻に残る紅茶の余韻を楽しむように、富士は目を閉じて小さく頷きながら言う。その口から出てきた言葉は、明石にとっては師匠以上の大先輩である彼女から見たかつての相方の姿とその印象。だが元気そうで安心した等というありきたりな感情は明石の胸の中には沸いてこない。正直に言えば思い出を辿っても、明石の脳裏には相方の顔が明確に浮かんでこないのだ。
ただ何故だか不思議と、富士の言葉に明石は湧き上がる笑みを抑える事が出来なかった。もうずっと会っていないその人なのに、明石の心にはなんだか自分が褒められたような感覚がじわじわと滲んでくる。それも伴っているのは喜びではなく、照れくさい感じを帯びた嬉しさ。どうにもその感情が何なのか当の明石には解らなかったが、湧き出るようなその感情は明石の顔をはにかんだ笑みへと変えていく。
『そ、そうなんですか・・・?えへへ・・・。』
『ええ。若いだけじゃない、良い目を持った方だったわ。その上で銃剣術の腕前も、あの砲術学校の中で随一の代物なんですってねぇ。』
富士の大きく手を動かして話す独特の語りが響く中、明石は後頭部を掻いてちょっと崩れたような感もある笑みを浮かべる。だが自身の表情に反し、明石は内心、そんな自分がとっても不思議だった。
たまに相方の思い出を辿るその都度、明石は自分の馬鹿さ加減に肩を落とす日々を送ってきたからだ。素直に自分の言葉で気持ちを伝える事が出来ず、言わば自分から手放した大事な相方。それを脳裏に浮かべる際、明石はとにかく過去の自分が情けない事極まりない者だと思える事が今でもある。申し訳なさでも、怒りでも、寂しさでもない。言葉に尽くせぬ程の駄目な自分が、明石にはただ悔しくて仕方なかった。
でも何故だか富士の口から伝えられる相方の近況を耳にしても、明石の胸の中にはいつもの悔しさと悲しみが微塵も湧いてこない。かといって、とりあえず元気そうだと相方の近況を安堵している訳でもない。しかし富士が相方の人物評を良い物だった言ってくれる事、ただそれだけが、明石の心にくすぐったいような嬉しさを募らせて行く。
『私も人間とお話しするのは久しぶりだったわ。ついつい口が軽くなっちゃって、砲術学校の教員になって、この年寄りの話し相手になって欲しいって頼んだんだけど・・・。』
ニヤニヤが止まらない明石であったが富士の思いがけない言葉に動揺を隠せず、それまでヒクヒクと吊り上がっていた頬の動きを止める。富士の言葉通りに相方が砲術学校に残ってしまったなら、それはつまりもう明石艦には戻ってこないという事態になるのだ。それは明石が考えないようにしていた、最も憂慮している事。しかし富士はすぐさま自身の願いが適わなかった事を声に変え、明石の瞬間的な憂いは解決される。そして富士のその声は、再び明石の機嫌を謎の高揚状態へと変えるのだった。
『・・・自分には、戻る艦が在る。って、きっぱりとお断りされたわ。ふふふ。まあその断り方も凛々しくて、今でも口惜しく思ってるのよ。』
『えへ・・・、えへへ・・・。』
またしても崩れた笑みを浮かべる明石。どうにも良く解らないその表情を隠すように、彼女は手にしていたカップを口に添える。流れ込んでくる極上の香りと味わいに浸る明石だが、残念ながら彼女の試みは成功しない。カップを口から放すや、明石の口元は胸の奥から湧き出る治まらない感情によって再び吊り上げられて行くのだった。
ところがその最中、明石はついさっき富士が口にした言葉に気付いてその表情を硬直させる。ついつい口が軽くなって忠に砲術学校に残ってくれと頼んだという富士だが、その口が軽くなったという理由というのは、明石もその生涯で未だ二人しか見た事が無い自分達の事を瞳に映せる人間達と、この富士が以前にも声を交えた経験が有るという事を意味していた。
当の富士は澄ました表情で深みのある紅色の湖面に視線を落としている。立ち上る湯気と香りにその高い鼻を近づける富士の姿は、英国生まれの者が大事にしている至福の瞬間。明石はそれを師匠の朝日との一時から良く理解していたが、脳裏に浮かんだ疑問を構わず富士に投げてみた。あの朝日ですらも艦魂が見える人間とは関わりをもった事が無いというのに、同じ時の流れに揺られていた富士がその経験を持っているという事が明石には気になったのである。
『ふ、富士さん、艦魂が見える人間と前にも有った事が・・・?』
『・・・・・・ええ。』
明石の声の余韻が静まって暫くした後、富士は小さく返事を放った。
そして声を唇から漏らしたその瞬間、富士の緑色の瞳はどこか遠い物を見つめているような雰囲気を放ち始める。細めた富士の瞳はカップに向けられている為にほのかな紅色を反射していたが、段々とそこにちょっと褪せた黄色が滲んでいくのを明石は認める。そしてその色が先程まで見ていた写真と同じ色合いである事に気付いた明石は、かつて富士が声を交えたという人間が今から36年前の時代を生きていたという事を察した。
やがて富士は微かにセピア色を帯びた瞳を明石へと向け、これまで秘密にしてきたとあるお話を語り始める。
『明石。今から話す事を良く聞いておくのよ。』
そう言った富士の表情には、それまで明石が目にしていた優しい老婆とはうって変わった荘厳さが纏われていく。恐怖こそ湧かないものの、語り始める富士の表情は明石も写真で見た36年前の彼女に良く似ていた。