第六四話 「伝えられる物/其の一」
間宮のおつかいを勢いで引き受けてしまった明石は、横須賀の海岸の一角にて繋留される富士艦のちょうど中央に位置する甲板へと白い光を伴ってやってきた。
マフィンの入った紙袋を抱いた明石は甲板に足をつけるや、ちょっと色褪せた感じのある灰色の木甲板の感触に意識を惹かれる。革靴を履いた明石の足は木甲板と擦れる度にどこか心地良い楽器のような音を奏で、決して柔らかい物ではないにも関わらずその感触はふかふかとした感覚さえある。所々にあるひび割れや無数の小さな傷は、その木甲板と持ち主であるこの艦の年季という物を一段と良く明石に伝えた。
『ひょえぇ〜・・・。』
木甲板から読み取った自身の師匠以上であるこの艦の老齢さに、明石は思わず声を放ってしまう。そして彼女は足元の甲板から視線を上げ、視界に広がる上部構造物と煙突、マストとその視線を段々と空に向けて流していった。
何の跡なのか少し歪んでいる鉄製の壁に、長年の潮風によって塗装が僅かに剥がれかけている扉、擦り傷によって陽の光の通過を遮っている舷窓のガラス、ちょっと赤錆を散らせた鉄板同士の継ぎ目やリベットの周り。その光景は明石に、師匠と同じ年代に活躍していた筈のこの艦が、実は数十年も年代が違うのではないかといった疑問さえ抱かせる。掃除こそしっかりされてはいるものの、甲板のあちこちにはマストにて翼を休めていたであろうカモメ達の"爆撃"の跡が僅かに残っており、艦尾に翻っている軍艦旗もどこか明石の分身に掲げられるそれと比べると覇気の様な物が無い。
この艦が自分からみれば大先輩に当たる事は解ってはいるが、どうしても明石にはそのくたびれた様子が意識の中で激しく自己主張する。それもその筈。何を隠そうこの富士艦、現存する軍艦旗を掲げた戦艦という艦種の中では最古の艦艇なのであった。
『・・・・・・。』
明石は腕の中に抱いた紙袋を一度持ち直すと、その視界のあらゆる角度から訴えられてくる古めかしさに息を飲んで辺りをゆっくりと見回す。その刹那、彼女の耳には微かな歌声が響いてきた。
『朧げながらも星影に〜、見ゆる〜は確かに定遠号〜・・・。』
それは小声で奏でられる歌であったが、その歌声は古めかしい眼前の光景とはかけ離れた若々しさがある。そしてその歌は、明石の友人達が日頃からよく歌っている物であった。
すぐに明石は歌声が流れてくる富士艦の艦首に向かって歩き出す。まるで木管楽器のような音を放つ木甲板の音がはからずも伴奏と化し、次第に大きくなり始めていく明石の耳に届く歌声を彩って行く。やがて明石の瞳に写る僅かに広がった艦首甲板には、黒い水兵服姿の小柄な女性がデッキブラシで甲板を掃いている姿があった。そしてその女性を明石は知っており、すぐさま脳裏で検索した彼女の名を声に放つ。
『朝潮・・・!』
『あれえ・・・、明石さん・・・。』
その女性は明石の友人である神通の部下、二水戦8駆所属の朝潮だった。
未だ会った事の無い大先輩の分身に朝潮がいた事に明石は驚きを隠せないが、当の朝潮もまた横須賀の一角でひっそりと余生を送っているこの艦の甲板上で明石と会えた事は驚きだった。お互いに偶然の会合を得て目を丸くして顔を合わせる中、明石は朝潮のデッキブラシと足元にある海水を湛えたバケツに気付く。よく見ると朝潮は靴と靴下を脱ぎ、裾を捲くって裸足になっていた。それは明石の分身でも日頃から乗組員達によって行われる甲板掃除と同じ格好であるが、10月にもなって裸足になって冷たい海水を撒いた甲板を歩くのというは寒い事この上ない。それまで身体を動かしていた為に身体は温まっているのか、まるで寒さに対して警戒する様子の無い朝潮は近づいてくる明石に丸くした目をずっと向けていたが、すぐ傍まで明石が来た途端にふとそこを通り過ぎた潮風でちょっと寒さを感じてしまったらしい。『寒っ!!』と小さく叫んでデッキブラシを抱くようにしてうずくまると、身体の中でも一際寒さを主張する自身の素足を両手で擦り始めた。
一方、明石はちょっと寒さに挫けそうになっている朝潮を心配して、彼女の前にしゃがみ込んでその顔を覗きこんでみる。だが明石の心配を他所に、意外にも朝潮は白い歯を僅かに覗かせて苦笑いしていた。さすがに二水戦の一員である。寒さよりもそこから来る自身のちょっと格好悪い所を明石に見せてしまった事に、朝潮は残念そうに苦笑を浮かべているのであった。
『あ、あはは・・・。さ、寒いです〜・・・。』
そんな事を言いながら歪んだ笑みを向けてくる朝潮に、明石は胸に抱いた彼女への憂いを和らげて笑みを返す。
『ふふ、もう10月だもん。そりゃ、寒いよお。』
『す、水兵さんは辛いですう・・・。』
朝潮のそんな台詞も、明石は自身の分身で同じく水兵さん達のお仕事とされる甲板掃除にて何度か耳にした事がある。雪の降る真冬だろうが灼熱の日差しで甲板が熱を帯びる甲板だろうが、裸足で甲板を掃除するのは水兵さんの主要なお仕事の一つなのだ。艦魂とは言えその左肘に一等水兵の臂章を身に付けている朝潮の身の上を鑑みれば、ちょっと可哀想だが彼女にとっても今の様な甲板でのお掃除は大事な大事なお仕事なのである。
しかしちょっとここで明石には素朴な疑問が湧いた。それはこの朝潮が直属の上司である神通の分身ではなく、「何故に艦隊にも属していないこの艦の甲板掃除をしているのか?」という物である。水兵の身の上を考えたとしても、二水戦所属の艦魂達の中では神通に次いで偉い朝潮。その艦齢も神通を除けば、戦隊の中でも彼女は最年長者である。新入りの雪風でも、実の妹の霰や霞でも、コキ使える人員を朝潮はそこそこ持っている筈なのだ。
そんな疑問を脳裏に過ぎらせた明石はついつい首を捻り、ようやく素足に温もりを得た事で立ち上がった朝潮にその事を尋ねた。
『ねえねえ、朝潮。なんで富士さんの甲板でお掃除してるの?』
気の良い朝潮はちょっと寒い横須賀の潮風にその短い髪を揺らすと、歪みの消えた笑みを浮かべて再びデッキブラシを握った手を動かし始める。彼女は海水の入ったバケツにブラシを突っ込んで十分に湿らせ、すぐにまた甲板に向かってデッキブラシを擦りつけながら声を返してくれた。
『はい。横鎮所属の艦魂達の間では、持ち回りでこの横須賀で余生を送っている先輩方のお世話をするのが慣例なんです。私は去年の11月の艦隊編成で佐鎮から横鎮に転籍して来たんですけど、その時に那珂さんとこの先輩達から教えてもらいました。』
それは一応は士官の階級章を身に付けている明石にとって、これまで知らなかった水兵さんの階級を頂く者達の伝統。すなわち横須賀鎮守府籍を示す1〜10の部隊番号を持つ駆逐隊の者達によって受け継がれる古いしきたりで、明石の知る所ではこの朝潮が司令駆逐艦を務める二水戦の第8駆逐隊、那珂が率いる四水戦隷下の第6駆逐隊や以前に大湊にて治療を行った第1駆逐隊の面々を指す。
鎮守府によってはこのような文化を仲間達が持っているという事を明石はこの時初めて知り、狭いようでもまだまだ知らない事が多い艦魂社会の一端を垣間見て関心の吐息を漏らす。
『へぇえ・・・。鎮守府ごとにそんなのがあるなんて、全然知らなかったぁ。』
またまた目を丸くして感心している自分を曝け出す明石。元来立場や階級の有無などを気にしない性分である彼女のそれは、逆にそういう事柄にはトコトンうるさい上司を持つ朝潮を意図せずともおだてた。
二水戦において常日頃から容赦の無い指摘を受けてお尻をぶっ叩かれるのは年長者である朝潮でも例外ではなく、最近は雪風という文字通りの被害担当艦ができて幾分は少なくなってはいるものの、上官である神通のおっかなさを彼女もまた身を持って知っている。だがそんな上官と同じ下級将校の襟章を身に付けている明石がこうもまた自分の知識に興味を抱いてくれている事が、朝潮にとってはとても新鮮な喜びであった。気の良いおしゃべり好きな性格もある彼女は、得意げに小さく咳払いを放つと自身が知る他の鎮守府での慣習を明石に語り始める。
『んっん・・・。呉はちょっと解らないんですけど、仲間内から聞いた話だと、舞鎮では海兵団練習艦になってる吾妻さんを教官に迎えて、帝国海戦史のお勉強会をやってるそうですよ。あと私が前に籍を置いていた佐世保では、三戦隊の金剛さんとその師匠の敷島さんによる体力強化訓練ですね。あれは辛かったな〜・・・。それに比べれば横須賀は平和ですよぉ。』
『へぇええ〜。』
今まで知らなかった仲間達の事に明石は目を輝かせて朝潮の声に頷く。特に佐世保にて繰り広げられたという体力強化の訓練は、つい先日にその教官の一人である金剛と会っていた事から明石には容易に想像できた。もう一人の教官である敷島とは会った事は無いが、明石にはその顔が何となく想像できる。なぜならその敷島という先輩は、明石の師匠にして母の様に慕っているという朝日の実の姉であるからだ。おまけに先日に身を持って知った金剛とその教え子である神通のお人柄を勘定すれば、金剛の師匠であったという敷島の性格もまた明石にはなんとなく想像できる。
きっと「あの親にしてこの娘あり」に違いない。
そんな言葉が至って意識せずとも明石の脳裏を過ぎる。脈々と受け継がれる艦魂としての、良くもあり困り物でもある人物像の系譜なのだった。
しばらくはそんな事を考えながらも、新たな仲間達の日常を知って嬉しがる明石。そしてそんな明石の様子に朝潮の口が閉じる事もなく、二人は次第にその場での立ち話に花を咲かせ始めていく。どちらも気の良い社交的な性格であるから、二人はすっかりお互いの初期の目的を忘れて鎮守府別の日常談義を話し込んでいった。
そして二人はお互いの話し声に、その場へと近づいてくる鉄が軋む連続音に気付かなかった。
『こら。栄えある帝国海軍の者が、怠けていてはいけないわ。』
突如として二人の傍から放たれた、まるで弦楽器を思わせるほ程に優雅な雰囲気を持ちながらも、しゃがれた感のあるとてもゆっくりとした穏やかな流れの声。それは明石には師匠である朝日のそれと同じ様に威厳をひしひしと伝え、朝潮には大先輩からのお叱りを受けてしまう可能性を強く抱かせる。
『あ、ふ、富士さん・・・。すいませぇん・・・。』
振り返りながら朝潮は声を放った人物に詫びの言葉を放って深く頭を下げる。咄嗟に背後にデッキブラシを握ったままの手を回し、ちょっと俯き加減で朝潮はその人物の顔色を窺う。つられて振り返った明石もそこにいた人物の姿を瞳に映した。
明石の視界のに入るのは、友人である神通をも凌ぐ程の身長と肩幅を持つこの艦の主の顔。だがその眼鏡越しの眼差しを、明石は見上げるようにして認める事は無い。口元や目の縁、頬に刻まれたしわと、地の色の一切を失った白く長い髪を伴った西洋人の女性の顔つきを持つそのお人は、なんと車椅子に腰を下ろしているのだ。朝潮がこの人物を呼ぶ際に放った言葉と、先程から目にしているこの艦のちょっと色褪せた感じを持つ雰囲気が、明石の瞳に写る老いた女性の姿と見事に合っている。故に明石はすぐさま彼女を、この富士艦の艦魂である富士だと認識した。
明石のような黒い第一種軍装ではなく白い着物の形態を模した傷病衣を身に着け、その上から淡いクリーム色のストールを巻いている富士。しかしその姿を飾り付けている色は富士の服装には微塵も無く、彼女が覇気という言葉がどこにも無い病人と大差が無い脆弱な身体となっている事は明白だった。冷たさが増した10月の秋風に揺られる富士の肩から垂れたストールを、彼女が乗った車椅子を押してきたであろう水兵服の少女が咄嗟に手を伸ばして直す。
その少女は明石とは知人にして、富士の眼前で俯いている朝潮の実の妹に当たる者だった。
『富士さん、失礼します。』
『ありがとう、荒潮。』
自身で直そうとゆっくりと手を動かしていた富士は、風に揺られてしわができたストールを撫でる荒潮にお礼を口にする。肩口にて丁寧にストールを直してくれる荒潮の手を富士はゆっくりとした手つき撫で、細やかな荒潮の心配りに感謝の意を示した。
そして富士の手の動きとシンクロしているかのようなゆっくりとした口調は、彼女の心の内が激しい起伏を持ってはいない事を明石に十分に悟らせる。その顔つきはずっと富士の方が老いてはいるが、どことなく師匠の朝日にも似ている感じだった。
同様に銀縁の丸眼鏡の奥にある富士の大きな緑色の瞳も、先程の言葉とは裏腹に怒りの色を滲ませてはいない。しかし朝潮は僅かに富士の顔を見ると、再びその視線を足元に落とす。なぜなら富士の顔には老いと供に神々しいまでの艦魂としての威厳を持っており、朝潮は逃げるようにして目を背けたのだった。
やがて富士の唇から漏れてその場に響く声に、朝潮はなんとも気まずそうな歪んだ表情を浮かべて耳を傾ける。
『朝潮。貴女の先代は、今の貴女の様に立派な分身を持っていなかったけど、いつもどうすれば物事を上手にこなせるかを考える優秀な艦魂だったわ。私と同じ英国生まれとしての誇りを胸に、あの子は従兵として私に仕えながら、型落ちの外国生まれの艦とされながらも、日本の海を護る者として普段から勉強に励んでいたわ。そしてあの子は日露戦役、その後は初代"二水戦"の一員として、立派に自身の責務を果たしたわよ。』
『あ、う・・・。は、はい・・・。』
現代の帝国海軍の艦魂達が一様に偉大な先輩と崇める富士の言葉。それは決して頭ごなしに叱り付ける様な代物ではないが、自身へと繋がる系譜を上手く絡めたその語りは朝潮の心を優しく、だがしっかりと明確な輪郭を示して直していく。まして人間達の間でも語られる事の無い、帝国海軍にかつて所属していた一隻のとある駆逐艦の話は朝潮にしても初耳であり、しかもそれは彼女がいま所属している二水戦の先輩にして自分の先代の事。教えてくれた富士以上に、朝潮が色んな思いを胸の中に抱くのも決して無理の無い事である。
実はこの富士、朝潮は初めとした過去を知らない現代の艦魂社会の若者達に、自身へと繋がる系譜を伝える事を今の自身の使命だと心に決めているのだった。
『貴女はただの駆逐艦の艦魂ではないわ。栄えある「朝潮」の名を受け継いだ者。それは戦艦の艦魂どころか、人間達にも成しえない素晴らしい事よ。だから貴女は特別なの。』
『は、はい・・・!』
富士の語りを受け、朝潮の心からは暗い色が引いていく。数多い駆逐艦にして艦魂社会では水兵という下っ端の立場とされる朝潮だが、そんな自分を人間にも負けない程に特別だと言ってくれた富士の言葉は彼女にとってはとても嬉しかった。
すると富士は笑み浮かべておもむろに右手を伸ばし、その動作に気付いた荒潮は富士が腰掛けた車椅子を少しだけ前に押し出して朝潮に近づける。自身が普段から望まねばならない心構えの根本を悟り始めていた朝潮の頬には、心地良い温もりを伴った富士の右手が触れ、裸足での甲板掃除で身に染みた10月の寒さを忘れさせてくれる。
『自分には常に厳しく、でも常に自分を大事にするのよ、朝潮。かつて貴女の先代が、生きる上でそうしていた様にね。』
『は、はい!』
『うん。頑張るのよ。』
持ち前の元気の良い返事をやっとの事で放つ朝潮。不思議と彼女の中では、会った事も無く顔も知らない自身と同じ名を持った人が、空から優しく見守ってくれているような感覚を覚えていた。
頑張らねば。先代が今に遺す栄光の為にも。
そんな言葉を放って気持ちを新たにした朝潮。そしてそんな彼女を祝福してやるかのように微笑んだ富士は、朝潮に触れていた右手を戻すと自身の首の周りに巻いていたストールを解き、正面にて明るさを取り戻した表情を浮かべる朝潮の首にストールを巻きつけてやった。
『寒い中の甲板掃除、有難う。特別な身体、大事にしなさい。』
なんとも心優しい富士の言葉は、それまでずっと休んでいた朝潮の手を無意識に就労させる。彼女は元気の良い返事を再び富士に返すとデタラメな巻き方でストールを身に付け、両手で強く握ったデッキブラシを再び甲板に走らせた。
一方、富士と友人である朝潮のやりとりをそれまで黙ってみていた明石は、決意を新たにして甲板掃除に励む朝潮の姿に、最初にそれを目にした時よりも力強さのような物が宿っているのを感じてならなかった。木甲板を薙ぐ朝潮の手にするデッキブラシの音も、心なしか明石には心地良さすらも伴ったように聞える。それは紛れも無くこの富士が朝潮の気の持ち方を変えたからに他ならず、明石は同じ様なやり方で自分に艦魂としての、軍医としての道標を与えてくれた師匠である朝日の事をふと思い出した。
それは帝国の存亡を賭けた戦争を経験した者が持つ独特の教育姿勢で、富士は早速それを眼前にて励む朝潮から明石へと向ける。
『貴方が、明石ね・・・。』
その場を流れる風の音を思わせるような富士の声が明石の意識を誘い、二人はその視線を交えた。ストールを失っても師匠の朝日以上に艦魂としての気品を身に纏った富士の姿は、老いという物が時には立派な人物の魅力となるという事を明石に無言で教える。目を合わせたまま富士に言葉を返せずに立ち尽くす明石の姿は、見惚れると言うよりも、気圧されて視線を動かせないと言った方が正しいくらいであった。
そんな中、富士は屈託の無い、しかしどこか不敵な感じも漂わせる笑みで小さく笑うと、背後にいる荒潮に顔を向けて口を開く。
『荒潮。お姉さんと一緒に、お掃除をお願いできるかしら?』
『はい。解りました。』
二言返事で富士のお願いに頷いた荒潮はすぐさま富士の背後から実の姉である朝潮の下へと駆け寄って行き、白い光りを伴ってデッキブラシを出現させると朝潮の隣で甲板掃除を手伝い始める。それを笑顔のまま見届けた富士は未だに口を僅かに開いて呆けたままの明石に向き直り、まるで幼児の様に彼女の袖を掴んで身体を揺さぶりながら再び声を掛けた。
『ここはちょっと冷えるわ。部屋でお話をしましょう。』
『あ、は、はい・・・。』
富士のゆったりとした声とそこにある勢いに飲まれる明石。
すぐさま車椅子に向かって手を伸ばそうとするが、明石はこの時になってようやく両腕の中にマフィンを入れた紙袋を抱いていた事に気付く。それはもちろんこの富士へと渡す為の代物であり、明石がこの偉大な先輩の下にやってきたそもそもの理由でもある。先程までの朝潮と同じように自分も目的を忘れていた事に、明石はその胸の中に小さく自己嫌悪を抱くが、同時に富士を早く部屋の中へと運んでやらねばという使命感のような物も明石の中には湧いてくる。故に明石は富士の背後に立ったまま紙袋をどうすべきかと頭を捻ってしまうが、富士はそんな明石に振り返って笑みを見せるとゆっくりと両手を伸ばして言った。
『それは私が持つわ。』
『あ、す、すいません・・・!』
『いいのよ。私が頼んだ物だから。』
傷病衣を身に纏う富士の姿は、軍医として艦魂社会で励む明石にとってはどうしても患者の様に見えてしまう。師匠以上に老いが目立つその外見もまた、富士の健康に対しての憂いを大いに誇張した。そしてそんな富士に物持ちをさせてしまう事に、明石はちょっと自分の事を申し訳なく思う。
寒い秋風が通り抜けていくその甲板の寒さは、まだ若い自分よりも富士の方が身に堪える筈。
そんな事を考えながら明石は車椅子の背後にて突き出したステーを握り、自身の足を前へと運んで車椅子の車輪を回転させ始める。
明石に押される事によってようやく進み始めた車椅子がキコキコと鉄の軋む音を放ち、甲板の微細な起伏によって小刻みに揺れる中、明石は僅かに腰を折って富士の顔を覗きこむ様にしながら謝罪の言葉を放った。
『すいません・・・、富士さん・・・。お菓子を運ぶだけだったのに、遅くなってしまって・・・。』
すると富士は肩を小刻みに動かして、静かな笑い声を放ち始めた。それはとても穏やかにして軽快な声で、明石が憂う事に対して富士が全くその胸の中に怒りの色を滲ませていない事を示す。
『ふふふふ。きっとそう言うと思ったわ、明石。』
富士はそう言いながら指をゆっくりと立てて、彼女の分身の中へと続く道を明石に教える。
車椅子を背後から押す明石は富士の表情を瞳に映すことは出来ないが、しゃがれていながらも高貴にして優雅さを一時も失わない富士の声の流れは明石の口元を自然と緩くさせる。初対面にも関わらず、自身の名前を慣れた口調で呼んでくれる事も明石には嬉しかった。
もっとも明石は富士の態度の裏として、この富士がその長い生涯でかつて同じ名前を呼んでいた事があるからであろうと予測する。明石の師匠である朝日と同じ時期に帝国海軍の中核として戦場に赴いたというその経歴は、明石も詳しくは無くとも人伝に耳にした事がある。そしてそこには先程の朝潮と同じ様に、明石の先代もいた筈なのだ。
そこまで考えた明石は、まだまだ知らない事が多い自身の先代の事をこの富士に聞いてみようと決める。人柄と簡単な性格については以前に朝日より教えてもらった事はあるが、実は自身の先代がどんなお仕事をしてどんな風に生きてたのかを、明石は詳しく教えてもらった事は無い。これまでにあった数少ない師匠とのお時間は、軍医としてのお勉強に必死に励む事であっという間に流れてしまったのだ。時に休憩の時に雑談をする事もあったが、四方山なお話を花咲かせるだけの余裕は残念ながらそこには無かった。
しかし観艦式への参加の為に横須賀を訪れた今は違う。式の予行ですらもまだ一週間以上先であるし、参加艦艇だってまだまだ全部集まっていない。そんな中でのんびりと横須賀の波間に身を浮かべる明石にとって、最近の日々は長いお休みを戴いている様な物なのだ。ましてもし観艦式が企画されていなければ、今頃は艦隊訓練と称して忙しい日々をどこぞの作業地で過ごしている事は明白。軍医として励む事に気後れなぞ無いが、たまには休みも欲しいというのが明石の正直な所であった。
そんな事から明石はこの際、富士に自身の知らない事を存分に教えてもらおうと考えたのだ。
『貴女とは是非一度、一緒にティーを飲みたいと思っていたのよ。』
『はい、喜んで。』
『ふふふ。』
富士の言葉に、美味しい紅茶をご馳走になれる事を察する明石。同じイギリスの生まれである朝日がいつも飲ませてくれた紅茶の記憶を鮮明に持っている事もあり、彼女は浮き立つような足どりで富士の腰掛ける車椅子を押していく。侘しい艦内通路のベージュ色の電灯も、明石の小躍りを始めた心を休める事は無い。おまけに間宮お手製のマフィンを抱える富士の姿に、食いしん坊の明石はこれから始まる美味しい一時が待ち遠しくて仕方なかった。
やがて明石は軽くなった心に急かされて今だ目的の部屋まで着いていないにも関わらず、さっそく富士に自身の先代の事を聞いてみる。
『富士さん。私の先代ってどんな人だったんですか?』
甲板の上で会った時から富士が終始自分に好感を抱いてくれているような態度で接してくれている事もあり、明石はきっとこの優しい先輩と自身の先代は仲が良かったのだと考えた。彼女が慣れた感じで自分の事を呼んでくれる事からも、明石はその考えに疑いを抱く事は無い。
だがそんな明石の問いに返ってきた富士の声は、明石にとってはちょっと意外な物であった。
『ふふふ、先代の事が知りたいのね?少ししかお話した事は無いけど、聡明で明るい艦魂だったわよ。でも、貴女の先代の事を教える前に、私は貴女の事でもっとお話したいわ。明石。』
『わ、私の事、ですかぁ?』
明石はちょっと目を丸くして富士に声を返す。
まだまだ新米である自身の事は良く解っている明石は、それ故に帝国海軍の長老である富士が先代ではなく自身の事に興味を示している事が不思議でならない。第二艦隊に配備されたとは言え、その所属した期間はまだ一年そこそこだし、本来のお仕事である仲間の治療だって実は数える程しかした事は無い。神通と殴り合いの喧嘩をした事で一時は有名になった事もあるが、そんなお話にこの富士が興味を示すようにも思えない。
思わず首を捻って富士の言葉の裏を考え込む明石だが、富士は背後に立つそんな明石の表情に笑みを見せると何の前触れも無く、ある言葉をゆっくりと言い放つ。そして明石は富士の放った声に、その思考回路を停止させてしまう。
『森、忠少尉。知っているわね、明石?』
『え・・・。な、なんで富士さんが・・・!』
『ふふふ・・・。』
片時も忘れた事の無いかつての相方の名。
それが突如として自身の耳に響いた事と、それを口にしたのが帝国海軍艦魂社会の重鎮である富士であった事に、明石は驚きを隠せない。思わず歩みを止めて富士の顔を驚きの表情で見つめる明石だが、富士はそんな明石の変化を楽しんでいるかのように微笑むだけであった。