第六三話 「お付き合い」
昭和15年10月3日。
ずっと緑色だった陸地もすっかり茶色や黄色の色合いが増し始めてきたこの日、横須賀の波間には観艦式への参加が決定している艦隊が続々と集結し始めていた。民間商船の航路も通っている事からただでさえ狭い東京湾の入り口には、帝国海軍選りすぐりの艦艇達が全国津々浦々から馳せ参じ、その自慢の軍艦旗を横須賀の秋風に翻す。その中には明石と親しい長門に率いられた呉の第一艦隊はもちろん、第二艦隊の仲間である五十鈴の三潜戦、南洋方面を担任している第四艦隊の面々に、明石とは同じ艦種である特務艦の者達も何人かいる。
故に明石はその日の朝から同じ特務艦とされる艦艇へと足を運び、挨拶周りの第二日目を送り始めた。
艦首甲板から白い光りを伴って意気揚々と自身の身体を包み消した明石だが、彼女の背後に位置していた明石艦の艦橋では乗組員達によるちょっと珍しいやりとりが行われていた。
羅針儀や伝声管がにょっきと床から生えた艦橋内では、艦内各科の科長連中が一同に会してなにやら話し合いをしている。そこにいるのは紛れも無く明石艦という一隻の艦の幹部連中であるが、彼等の周囲には重役同士の話し合いにしては奇妙な程に明るい声が響いている。
『いやあ、悪いなぁ。川島。』
縦に細長い顔に口髭をヒョコヒョコと動かしてそう言ったのは、明石艦の砲術長である青木大尉。野太く間延びした声を放って笑顔を輝かせる彼の右手には、今しがた貰ったばかりの菓子折りの箱が乗っている。ご丁寧に包装紙で彩られたその菓子折りは艦内の酒保にて扱われる代物ではなく、明らかに横須賀の街並みにある一端の菓子屋で調達された物であった。
そしてそれを渡したのは、青木の前で後頭部を掻きながらヘコヘコと頭を下げている主計長の川島大尉だ。同じ帝国海軍の軍人として、川島にとっては先輩に当たる青木。故に彼に対する言葉遣いは普段から敬語を用いた物であるのだが、川島の口から漏れて来る言葉はちょっと猫なで声になっている。
『いやいや、いつも世話になってますんで。へへへ。』
それはごく普通の職場における先輩後輩のやりとりと見れば決して変な光景ではない。しかし寄港地においては補給物資の銀バイをする水兵さん達と毎日の様に鬼ごっこしている主計科の事情を考えれば、横須賀での寄航中にこの川島が水兵さんの元締めの一人である青木に対して文句も言わずに腰を低くして接しているのはちょっと妙な光景である。何せ艦内で最も目に余るような態度で銀バイを働く者は、この青木が率いる砲術科に配属された森二水だからだ。何時ぞやの四日市での一件の様な強盗まがいの銀バイを行うというのだから、川島の立場を考えれば青木に対して部下の監督不行き届きを指摘しても良い筈である。
だが川島は時折こうして寄港地に着くと、自らのお給料にてお菓子やお酒を調達して他の科長のご機嫌を取る事があった。その理由は川島が率いる主計科とその他の科との、明石艦艦内での暮らしにおけるちょっとした事情があったからだ。
やがて菓子折りの中から饅頭を一個、手にとって口に運ぶ青木に対し、川島は両手を顎の下の辺りで擦り合わせながら声を放つ。
『頼んますねぇ、青木大尉。電気がなきゃメシが作れないんでぇ〜・・・。』
『ん・・・ん、むお、わがっだ。まがせどけ。』
口髭と供に頬を上下に動かしながら、青木大尉は片手を上げて川島の声に応えてみせる。そのなんともあどけない幸せそうな青木の笑みに、川島はホッと安堵の溜め息を放つ。
それは先程の川島の言葉通り、艦内おける電気を管理しているのが、青木が率いる砲術科である事に理由があった。
これは明石艦に限ったお話ではないのだが、艦という物は艦長を頂点とした一つの組織であり、その組織内での役割は大まかに科というグループで括られている。その中でも川島が所属する主計科は明石艦での生活に関わる部分が職域であり、特に食料品の調達計画から毎日の献立にまで及ぶ食に関する部分はそのお仕事の大半を占める物である。
だがそれが主計科という集団のみで完結できるお仕事であるか、と言えばそうではない。そもそも戦闘を生業としている海軍の艦船では生活に関する部分が必要最小限に削られている物で、それは艦艇の乗組員の構成であっても例外ではない。故に主計科とは艦の規模に比して少ない人数でしか設定されず、食料品の積み込みや艦内倉庫への搬入をやる場合は人手が多い航海科や砲術科、機関科に応援を頼んでのお仕事をせねばならないのだ。また主計科の最も大事な仕事場である烹炊所を例にとっても、そこにある電熱調理器具の稼動に必要な電気は砲術科に頼んで配電盤にて分電して貰わなければならないし、お水ですらも担当である機関科に頼んで真水タンクや造水機を操作して供給して貰わねばならない。
そしてもしここで主計科が艦内において嫌われ者として認知されていたならば、彼等は普段のお仕事に励む上で「水が出ない。調理器具が動かない」等といった"不慮の事故"に遭遇するハメになってしまうのである。もちろん主計科とてそれは可能で、気に入らない奴に麦だけのご飯や具の入っていない味噌汁を配膳する川島の普段のお仕事振りはその最たる例だ。
栄えある陛下の赤子である海軍の実情としては子供じみていて陰湿な気もするが、これを正す為に『そんな事は止めろよ。』などと意見する者なぞ、そこには誰一人としていない。もちろんその理由は「栄えある陛下の赤子である帝国海軍に、まるで陰湿ないじめっ子のような大馬鹿者はいない。」という建前が存在しているからだ。つまり銀バイと同じ様に、「水や電気を止めた方ではなく、止められた方が悪い。」という論法である。
それは国を護るという崇高な使命を持つ海軍にあっては、なんとも虎の威を借りた様なとんでもないお話ではある。しかし少なくとも帝国海軍という大組織の末端では、この理論を基にして組織内における均衡を明治の頃よりずっと保ってきた。明石艦の艦橋にて展開される青木と川島のやりとりはまさにその一端で、海軍軍人の間ではこれを「付け届け」と呼んでいる。
それは現代の社会の中にも往々にして存在している立派な文化で、世界的にも一風変わった帝国海軍の、しかしなんとも日本人らしい習慣であった。
そしてこの付け届け、実は艦魂達においても似たような物が実践されていたりする。
横須賀の波間に浮かぶ艦艇の群れの中、明石は挨拶の為にとある艦艇を訪れていた。
その艦はまるで友人の宗谷の分身をそのまま大きくしたような、帝国海軍では珍しい商船タイプの艦影を持つ。艦の大きさは幅もトン数も明石艦とほぼ同じくらいで、艦の真ん中にポツンと高めの煙突が生えており、兵装に関しては艦首と艦尾に備え付けられた大きな台座に小さな高角砲が乗っかっているだけだ。周りに浮かぶ艦艇達と同じく十六条旭日旗を艦尾に翻している事で、かろうじてこの艦が帝国海軍に籍を置くお船であることが解る。
なんとも海軍のお船としては貧相な艦影であるこの艦。しかし艦首の甲板にある砲塔台座の辺りでは小豆やパン焼きにて発せられる香ばしく美味しそうな匂いと供に、横須賀の波間のあちこちから集まってきた艦魂達があげる明るい声が充満しており、その艦影の寂しさをしみじみと感じる者は空を舞いながらそれを見下ろしているカモメくらいであった。
挨拶回りの為にそこにやってきた明石は早速その艦の主に挨拶しようと隣まで歩み寄るが、彼女は足元に山の様に積んだ底の浅い木製の箱に向かって忙しなく手を動かしている。そして彼女と小さな机を挟んだ向かい側には、横須賀在泊の艦魂達がそれはそれは明るい表情で列を作っていた。
『そっか、明石っていうの。これからは同じ特務艦として、よろしくね。』
忙しそうな事から明石は名を名乗っただけでちょっと声を掛けるのを躊躇っていたが、額に汗を輝かせる眼前の女性は笑みを浮かべてそう言いながら、足元の木箱より何かを取って机の前にいた列の先頭の者へと差し出す。甘い物を匂いで嗅ぎつけるという変わった特技を持つ明石の予想通り、美味しそうな匂いが立ち込める中で机の上に出された物は羊羹とモナカであった。
『これからもよろしくお願いします。ささ、どぞ。』
浅く何度も頭を下げながら彼女はそう言うと、両手を広げて机に置いたお菓子を受け取るように促す。その相手はなんと明石もよく知る第二艦隊における上司の高雄で、彼女は明石に一瞬視線を送って片手を挙げて挨拶するとすぐに机の上の羊羹やモナカに手を伸ばした。既にその魅力に捕まっているのか、高雄は僅かに覗かせた舌で唇を嘗める。陽気な彼女は手に取ったお菓子の感触にさらに機嫌を良くし、えくぼを作って微笑むと眼前の女性に礼を口にした。
『あいよ。いつも悪いね、マミャーさん。』
『とんでもない。ホント、これからもよろしくお願いします。』
大事そうに抱えたお菓子を撫でながら、高雄は踵を返して去っていく。艦隊旗艦をも勤める高雄は少将の階級を頂いている為、それに対して大尉の襟章をつけた明石の眼前の女性が再度お辞儀するという光景は辺ではない。だが朗らかな人当たりを持つとは言え、高雄が彼女をあだ名のさん付けで呼んだ事は明石には意外だった。
あれでお仕事の時間と私的な時間をキッチリと区別する高雄の性格を、明石は第二艦隊の構成員として良く知っている。その公私の区別は現艦隊旗艦の愛宕よりもしっかりしていて、怒る時に怒れる高雄の人物像は彼女より年上である神通ですらも一目置いている程なのだ。しかしその神通ですらも高雄はさん付けで呼ぶ事は普段から無く、おまけにこの女性は明石と同じ特務艦の艦魂。その階級だって将校相当官で、人間と同じ階級を用いている艦魂社会では厳密には高雄の様な将校とは分類されない立場である。そんな中での高雄の態度に明石はその驚きをつい声にして放ち、眼前にいるこの艦の主の凄さに感心した。
『間宮さん、すっごいぃ。高雄さんにさん付けで呼ばれてるんですねぇ。』
間宮と呼ばれた女性は明石の声を受けると、ちょっと疲れた様な感じの溜め息を放って腰に両手を当てる。決して太っているという訳ではないが、軽くぽっちゃりした体型である間宮のその姿は、先程の高雄を初めとした戦闘艦の艦魂にも劣らない力強さがあった。
『あはは。まあ高雄さんとは艦隊旗艦になる前からの付き合いだからね。海軍に編入された頃から知ってるのよ。あ、それとマミャーでいいよ、明石。』
丸い目を細めて笑いながらそう言ってくれた間宮に、明石は帝国海軍の数ある特務艦の中でも艦魂社会所か人間達の世界においても最も有名な艦である彼女の境遇を改めて理解する。それはこの人が明石と同じく、ある特務の為に専用の艦艇として建造された経緯も少しだけ関係していた。
明石が考えを巡らす間にもすぐにまた手を忙しなく動かして列に並んだ仲間達にお菓子を差し出す彼女は、帝国海軍の中でも工作艦の明石以上に特徴的な任務を帯びる給糧艦の間宮艦の艦魂である。
大正12年にその身を浮かべた間宮は20代半ばの外見が示す通り、その分身は明石のような最新鋭の艦艇という訳ではないのだが、今日まで続く17年の海軍生活において一度たりとも連合艦隊から外された事が無いという大変に働き者のお船であった。それは彼女の分身が持つ独自の性能に因る所が大きい。
というのも、ただ単に食料品を届けるだけのお仕事であれば、民間に沢山ある船舶を用いればそれは決して難しい事ではない。まして海軍には物資を運ぶ為のお船として運送艦という艦種が間宮艦誕生の以前から既に設定されており、食料の輸送という観点だけでわざわざ新しい艦種を設定する理由など無い筈である。だがここにこそ、間宮艦の独自の性能が物を言う余地があったのだ。
実はこの間宮艦、どこからどう見ても民間の貨物船と同じ様な見てくれを持っているにも関わらず、その艦体の中には貨物を搭載する為の船倉とされる中空の大きな区画を殆ど持っていない。基準排水量15820トンと明石艦にも負けず劣らずのその艦体の大きさは一等巡洋艦にも匹敵する程の大型艦で、このサイズの運送艦であればかなりの量の食料品を運ぶ事ができる。世界各国の大型輸送船を見ればそれは明らかな事だ。しかしこの間宮艦はそんじょそこらの運送艦ではなく、その大きな艦体の中には加工食品の生産工場が所狭しと並んでいるのである。それは明石艦の中に多種多様な工作室が設置されているのと全く同じで、間宮艦の中には羊羹、モナカ、饅頭、アイスクリームといったお菓子の製造室に始まり、お吸い物の具として必須である豆腐やこんにゃくの製造設備、魚や野菜やお肉を新鮮なまま送り届ける為の冷凍庫などの設備がぎっしりと詰まっているのだ。もちろんそれを動かしているのは軍属である民間の職人さんで、これまた明石艦の乗組員事情とよく似ている。
そしてその加工食料品の生産能力は大変に優秀で、間宮艦一隻で日本人の食生活のいっさいがっさいを調達する事が可能だった。しかもその味に関してもこの間宮艦に抜かりはなく、中でも間宮艦内で生産される羊羹は東京の赤坂に本店を置く名門の和菓子屋「虎屋」の羊羹よりもまだ上手いと好評を得ており、「間宮羊羹」という名で下士官兵も含めた全ての海軍軍人から愛される程の代物である。
また、艦隊への随伴を念頭に置かれたこの間宮艦には普通の海軍艦艇に比しても飛び抜けて優秀な通信設備と負傷兵への治療を行う医療設備が建艦当初から設置されており、敵地に進出した際にはまだ陸上設備が復旧していない僻地であっても基地としての能力を負う事が出来る万能補助艦艇である。さらには艦首と艦尾の甲板上には水上機を搭載する設備も供えられており、艦隊で使用する水上機が故障した際の予備機として提供する役割も持っている程だった。もちろん平時においてもこの能力は存分に発揮され、間宮艦は本業である糧秣輸送が無い時は曳航標的と持ち前の通信能力を用いての艦隊訓練の支援、まだまだ戦火が止んでいない支那の沿岸に進出しての負傷兵への対処、南洋方面からの無電の中継に水上機の輸送など、地味で目立たないながらも常に海軍に対してのご奉公に励んできた経歴を持つ。定期的な整備の時以外は常にスクリューを回転させていると言っても過言ではなく、その海軍への貢献の程は改装などで桟橋にのんびりと錨を下ろしている戦艦や巡洋艦とは比べるべくも無い。故に彼女の名は人間や艦魂を問わず、帝国海軍の中では金剛艦以上に有名であった。
そして艦魂達は朗らかで一言半句の文句も言わず、常に笑みを伴って糧秣を運んできてくれる間宮の人望を慕い、彼女自身が気に入って勧めている事もあって「マミャー」という敬称を用いて彼女を呼んでいる。彼女は今の様に艦魂達の為にお菓子を用意してくれる事でもその人気と株を上げており、人間達にバレないように原材料の段階で銀バイしてこっそりと調理器具用いて作る間宮手作りのお菓子は、帝国海軍に属する全ての艦魂達がこぞって欲しがる物の内の一つだった。
そんな間宮は頬に滲んだ汗を手の甲で拭きながらも、眼前の机と足元にある食品が入った箱の間を行き来させる手の動きを休めようとしない。客人である明石が横に居る事からするとちょっと失礼に値する間宮の行動だが、別に間宮は礼節を知らない訳でも明石を嫌っている訳でもなかった。もはや何度目になるか解らないお菓子配りをする最中、一瞬だけ間宮は明石に笑みを向けるとしっかり接してやる事の出来ない自分の非礼を詫びる。
『悪いね、明石。あとで明石にもあげるから、もうちょっとだけ待っててね。』
『あ、はい。なんか、すいません・・・。』
『ごめんねぇ。』
忙しい時に訪れてしまった明石もちょっと悪いなと思って声を返すが、間宮はその笑みを少しも歪める事無く応じてくれた。そしてそんな彼女を明石はとても羨ましく思う。
ついこの間に石巻で体験した工作艦として、軍医としての明石の仕事。それはこの間宮と同じ様に他人から感謝される代物であるが、その分だけの苦労をせねばならないという実情を、明石は石巻での三潜戦に対する修理補修で骨身に染みて知っている。決して自身の身の上を疎ましく思う様な事は無いが、ご飯も食べれずお風呂にも入れず、ただひたすらに汗を流さねばならない石巻での日々は明石にしたら軍医さんとしての当然のお仕事。その激務の程を考えると、さしもの明石もその心をちょっと後ずさりさせてしまうというのが正直な所である。
だが同じ特務艦として汗でその笑みをさらに輝かせる間宮の顔には、お仕事へ励むという行為に彼女が確かな喜びを噛み締めている事が示されていた。間宮は足元の箱へと手を伸ばしてお菓子を握る度に、ちょっとぽっちゃりしたその顔に汗で輝いた笑みを湛える。それは彼女が三度のメシよりもお仕事が好きであるという事を良く表しており、明石はそんな彼女のお仕事に対しての向き合い方を微笑ましく思う反面、同時に自分もそうならねばと深い感銘を受けていた。
『あら、明石。』
ふとそこに響いた声に明石は気付くと、声がした宗谷が立つ机の向こうへと視線を投げる。低く僅かにかすれたようなハスキーなその声に明石はすぐさま声の主である者の名を脳裏に浮かべており、流した視線の先にその人物を認めて声を返す。
『あ、那珂ぁ。』
肩の上で切り揃えられた黒髪を潮風に揺らしてそこにいたのは、明石と同じ第二艦隊の仲間にして友人の那珂。寒くなり始めた時期にあわせて濃紺の第一種軍装で身を包んだ那珂は、方の高さに右手を上げて小さく振ってみせる。落ち着きのある大人の女性像とそれ見合った聡明さを持つ彼女は尋ねた間宮艦の明石を目に映した事で、すぐさま明石が挨拶回りを目的としてここにいる事を察する。
『挨拶回りね。マミャーとは仲良くしておいた方がいいわよ。』
そんな声を放って明石に笑みを見せる那珂。その手元にあたる机の上に高雄の時と同じ様に『これからもよろしく。』という声を伴って羊羹やロールケーキを差し出した間宮は、特務艦の後輩として挨拶に訪れてくれた明石に一瞬だけ笑みを向けてお礼とすると、すぐさま正面にいる那珂に向き直って声を上げる。その口調は至って軽いものであるが、間宮と那珂は同じような歳頃であるその顔つきが示す通り、実は同じ年代に生まれた同期のような関係なのだ。そしてそれは那珂の姉であり、明石とは大の仲良しである者にあっては特に顕著なのであった。
『明石とは随分と親しいの、那珂?』
『ふふふ、呼び捨てでビックリした?』
『一応は明石も第二艦隊所属なんでしょ?よく神通に矯正されなかったねぇ。』
『ふふふふ。明石は、神通姉さんとは私よりも仲が良いのよ。』
『へぇええ〜。まあ、止める役が増えてよかったねぇ、那珂。神通のあの性格は変わってないでしょ。あははは。』
突如として間宮の口から神通の名が出てきた事に、明石は少しだけ驚いた。すぐに手を上げる短気な所はあるものの、とても友達思いで優しい神通の性格を明石も友人である事から解ってはいるが、先輩だろうが上官だろうが睨みつけて罵声を浴びせる事を屁とも思っていない神通が仲間内の間ではかなりの嫌われ者である事も知っている。もちろんそれは苛烈で立場をわきまえない彼女の言動にも問題はあるのだが、そんな神通を笑い声を伴って語れる間宮の言動が明石には意外だった。まして間宮が神通と同じ戦闘艦艇ではなく特務艦である事も、明石の脳裏にちょっと引っかかる物を生んでしまう。
少しの間だけ那珂と間宮の明るい声でのやりとりを耳に入れた後、明石は思い切ってその疑問を間宮に問う事にした。
『あの、ま、間宮さ─。』
『あはは、マミャーで良いって。なに、明石?』
気さくな間宮の返事と笑みは明石の中の間宮との距離を縮めてくれる。故に明石もまた笑みを浮かべて、問いの続きを声に変えた。
『はい。神通とは親しいんですか。』
『あ〜、神通とは幼馴染なんだ。私と神通はちょうど同じ時期に神戸川崎造船所で建造されてたの。だから神通とは、お互いまだハナを垂らしてた頃からの仲だよ。』
昨日の金剛に続き、またも神通の過去を知る者に出会えた事に明石は口元を大きく吊り上げる。まして『ハナを垂らしていた。』という間宮の言葉で想像してみた神通の姿は明石にとっては可笑しいの一言で、金剛による赤裸々な暴露劇の記憶も新しい彼女は神通の不釣合いな可愛さに込み上がる笑い声を抑えるので必死となる。
『あれ?そういや神通は並んでないみたいね、那珂。』
『神通姉さんは武技教練の訓練をするって言ってたわ。だから神通姉さんの分は私が運ぶわ、マミャー。』
両手で口を抑える明石の耳にそんな二人のやりとりが流れ込んでくるが、その内容が明石の心に湧いてくる笑いの水位を低くしてくれる事は無い。尖がった目で常に不機嫌そうな表情を浮かべている神通が、かつてはハナを垂らしていた事もあった。その言葉と供に脳裏に浮かんでくる友人の想像図は、明石の笑いを今にも防波堤を突破せんとする程に活気づけてしまう。なまじ普段からよく顔を合わせているだけに、彼女は友人の姿をありありと瞼の裏に描く事が出来るのだった。
『ぷ〜くくくっ・・・!』
その一方、間宮は先程耳にした那珂の言葉で、自身が請け負っていたとあるお仕事を思い出した。そのお仕事とはある大先輩から請け負った物で既にその用意も終えているのだが、彼女の瞳に写る那珂の背後の行列を鑑みるにその先輩の下に運ぶ事がしばらくはできないのは明白だ。故に間宮はふと笑顔を消すと袖を捲くった両腕を組み、僅かに首を捻ってそのお仕事を如何にして完遂するか考えを巡らす。一応は人間と同じ食べ物を摂取しないと体力を回復する事が出来ない仲間達に食べ物を与え、それに乗じて同じ帝国海軍を成す仲間達にお菓子を配って戦地での安全保障をお願いするのは間宮にとっても大事な事ではある。だが彼女が脳裏にてその事と天秤にかけた先輩とは現代の帝国海軍においても生き字引と目されている人物で、間宮の心の天秤は中々その釣り合ったバランスを崩す事が出来なかった。
しかしここで間宮は、先程から背後にて不自然な吐息を漏らして方を上下させている明石に気付く。わざわざ自分への挨拶の為に尋ねてきてくれた、清々しい感じの性格を持つ後輩を瞳に入れた間宮。そんな先輩の視線にも気付かずに明石は相変わらず噴出す寸前の様相を呈していたが、しばらくそれを眺めていた間宮は自身が請け負っていたお仕事の最後を彼女に頼む事を思いつく。まだまだ新米の特務艦として売込み中である明石の境遇も、間宮にとってはそのお仕事を頼む口実の一つであった。
やがて手を叩いて声を上げた間宮に明石は笑いを堪えながら顔を向けるが、先輩の口から出てきたある人物の名に明石の笑いの水位は一気に下がる。なぜならそれは現代を生きる艦魂達所か、彼女の師匠の朝日ですらも先輩と頂いている者の名であったからだ。
『明石、富士さんにはもう挨拶した?』
『え・・・?』
『紅茶と一緒に食べれるお菓子を頼まれてたんだけど、ちょっと今は手が離せそうに無いんだ。挨拶がてら、富士さんにこのマフィンを届けてくれないかな。』
突然の事に思考回路が停滞する明石の手に、間宮はお菓子を詰め込んだ紙袋を乗せる。師匠以上に長く海軍にご奉公してきた大先輩の名に、明石は規律を失った視線を自分の両手に乗せられた紙袋と間宮の間で交互させる。しかし間宮は彼女が声を返す前に、ふとその視線を明石から舷側の向こうに広がる波間の一角に向けた。
間宮が顎を小さく動かして指し示す横須賀の海原。彼女の姿につられて視線を流した明石の瞳には、勝力岬の辺りでその身を波間に浮かべて、明石の師匠と同じく古き英国の伝統を具現化したような艦影を持つ富士艦の姿が写るのであった。