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第六二話 「窓より来る風」

 10月度の戦隊長会議を終えた明石(あかし)は自分の艦へと戻り、舷窓から招かれる麗らかな秋の陽の光と潮風を浴びながらベッドに横になって、話の弾んだ会議の思い出とその余韻にほんのりと浸っていた。もちろん彼女の閉じた瞼の裏に蘇る真新しい戦隊長会議の記憶はただ楽しいばかりでなく、眼前に迫った紀元2600年記念特別観艦式に関する大事な案件もそこには含まれている。

 今回の観艦式は特別観艦式と呼ばれる物で、恒例の大演習観艦式の様に大規模な演習を伴わない観艦式なのだそうであり、今回は移動式ではなく普通の停泊式の観艦式という事であった。普段から己の力と技に磨きをかけてきた戦闘艦の艦魂達にとってはちょっと残念らしいが、そもそも海軍生活の中で戦闘を生業としていない明石にとっては特に憂いを抱くような事ではない。

 明石はやがて閉じていた瞳をゆっくりと開けると、ベッドの上で大の字になったまま上着のポッケから一枚の紙切れを取り出す。四つ折りで明石の手のひら大の大きさのその紙はちょっとくすんだ様なベージュ色をしているが、白抜きで描かれた波頭と赤抜きで描かれた鳳凰がなんとも勇壮で高貴な威厳をもかもし出している。そして鳳凰と波頭をバックに、大きな十六条旭日旗と供にそこに大きく書かれた黒抜きの文字が明石の心を跳躍させた。


「紀元二千六百年記念特別観艦式 御式次第・式場図」


 明石の手にしたそれは今回の観艦式の式次第であり、その表紙を目にした明石は待ちに待った観艦式がいよいよ迫ってきたのだなと改めて実感し、自然と緩んでしまう口元を抑えることが出来ない。やがて彼女は四つ折りの式次第の左右見開きを広げてそこに紙面一杯に描かれた鳳凰をしばし眺めると、今度は上下の折り返しをゆっくりとめくってみる。するとそこには先程までの鳳凰に変わり、颯爽と波間を駆けるとある艦艇の写真が印刷されていた。

 まだまだ帝国海軍歴の浅い明石は如何に帝国海軍艦魂社会の一員と言えども、まだ一度も会った事のない艦艇の方が断然に多い。母港の呉の中ですらもまだお話した事の無い者だっている。しかし明石はそこに印刷された写真の艦艇を、即座に記憶の名から検索する事に成功する。なぜならその艦艇の命である者は、以前に明石の治療を受けた事がある者であったからだ。明石はその艦艇の名前を脳裏に浮かべるや、ふと口を開いてそこに写る写真の感想を漏らしてしまう。


比叡(ひえい)さん、かっくいい〜。』


 それは以前、呉で朝日の修行を受けていた際に包帯の除去をした比叡艦。朝日(あさひ)と同じ明治生まれという事を初見では絶対に認める事が出来ない艦影を持つ比叡艦は、最新の設備を持って今回の観艦式においては通算3度目の御召艦を担当する事が決まった。帝国海軍では浅間(あさま)艦の4度に続いて歴代2位の成績だが、比叡艦が御召艦を努めた経歴は今年で7年目。年数だけなら先輩を上回っている。

 明石はその事に呉での比叡の思い出を蘇らせ、改めて彼女の凄さを思い知る。しかしそこに尊敬の念が沸く前に、明石は記憶の中にハッキリと残る比叡の整形美人っぷりを思い出してしまう。

 朝日の容姿を鑑みた計算では30代半ばの容姿を持っている筈の比叡なのだが、艦橋の改装を機に彼女の顔は明石とドッコイの20代になるかならないかのうら若い乙女の顔つきに大変身。陽気な彼女は澄ました顔で仲間達の元へ赴き、嫌味を込めて自身が手に入れた若さを見せびらかすのだった。


『ふふふふ。』


 ついつい声を漏らして脳裏に残る陽気な先輩の姿を笑う明石は、今度は紙面の表裏を反転させて裏面に目を通す。上側の方には式次第として細かな観艦式の情報が記載されてあり、下側には式場図と題されて観艦式の際の各艦艇の配置が記されている。一辺が数キロにも及ぶ線で囲まれた海域に各艦艇は6列横隊となって整列するらしく、明石は特務艦艇が属する番外列の5番目が定位置とされていた。"番外"という言葉にはちょっと抵抗を覚えるが、それでも明石の心は落ち込んでしまう事は無い。それは式場図の中に一際太い黒線で御召艦の航路が書かれているからで、それこそが明石が拝謁艦として通る事が出来る航路なのであった。明石がずいぶんとお世話になっている長門(ながと)や、艦魂社会の大親分として名を聞かされた金剛(こんごう)など、そうそうたる顔ぶれが停泊する式場を、明石は招待客を乗せて航行する事が許されている。これは戦闘艦にはできない、特務艦だけに許された特権でもあった。

 この時ばかりは明石も「特務艦で良かった。」と自身の身の上を大いに喜ぶ。いつも行動を供にしている第二艦隊では特務艦と類別されるのは自分だけであるし、今まで顔を合わせたことのある特務艦といえば患者として出会った宗谷(そうや)と師匠の朝日しかいない。役割も戦う組織たる帝国海軍の中では地味な後方支援であるから、神通(じんつう)那珂(なか)愛宕(あたご)といった仲間達の様に見物人の視線を集めるような事もこれまではほとんど無かった明石。しかし今回は違う。98隻にも及ぶ参加艦艇が並ぶ中を、明石艦を含めた特務艦達は堂々と行進する事が出来るのだ。

 そこまで考えた明石は胸の奥で踊る心を抑えきれずに、ふと上半身を起して笑みを舷窓に向ける。相変わらず開け放った舷窓が招き入れる横須賀の潮風と陽の光りは、ほんのりとした暖かさを滲ませていて明石にはどこか気持ち良かった。


 するとその時、舷窓の向こうからは遠い信号警笛が響いてきた。

 今回の観艦式の会場である横浜沖に近い事から集結地として機能する横須賀は、第二艦隊の艦艇どころか連合艦隊の隷下の艦艇のほとんどが集まっている。その為に横須賀の波間は軍艦旗を背負った艦艇が所狭しと錨を下ろしており、港内の交通は実はちょっと危険度を増している。故に信号警笛が飛び交うのは、最近の横須賀の波間では決して珍しい事ではなかった。

 しかし明石はその警笛を耳に入れると、戦隊長会議で神通より教えてもらった事を思い出す。


『一応は初めて会う艦魂(ひと)もいるんだろう?私もそうだが、同じ艦種の奴には顔を見せておいた方がいいぞ。』


 それは人間の世界でも見られる社会という物の一端。特に日本のように上下関係に謙虚さと礼儀を尽くすのが筋とされる社会体系では日常茶飯事である、挨拶回りという物だ。元来、他人との出会いに臆病になる事がない明石は、友人の言葉を思い出すやすぐさま式次第に視線を投げて挨拶回りの相手を探し出す。楽しみな事この上ない観艦式の事で落ち着きを失っている明石の心は、そこにズラっと書かれた98隻にも及ぶ艦艇の名前を瞳に入れても静けさを取り戻す事は無い。


『いよ〜し、片っ端からいっちゃえ!』


 そんな言葉を放った明石はベッドから飛び跳ねると、小走りで部屋を飛び出していった。






 一方その頃、明石の友人である神通もまた、挨拶回りとしてと横須賀在泊のとある艦へと足を運んでいた。

 ぶっきらぼうな物言いで、気に入らない相手には例え先輩だろうがなんだろうが絶対に敬意を払おうとしないという神通が、挨拶をする為に他人の所へわざわざ赴くというのは非常に珍しい。だがこのとある艦の艦魂に対して挨拶をするのは、神通にとってはさも当然の事であった。

 随分と使い込まれた感のある艦内通路を甲高い足音を立てて歩く神通。通路の一角の壁は経年劣化からかへこんでいる所もあれば、何の痕跡なのか黒いシミが出来ている所もある。そしてそんな通路の壁にポツンと張られていた紙切れに気付いた神通は、歩みを止めて紙面の内容を読んでみた。達筆にして豪快な筆跡で書かれたその内容は、帝国海軍の中でも最も厳しいといいうこの艦の風紀を神通へと良く伝える。


「艦内各部、真水ノ無断使用ヲ働イタ者ハ、断固死刑トスル事ヲ得。」


 上は元帥から下は四等水兵まで、海軍の者はすべて栄えある天皇陛下の赤子というのが建前の帝国海軍において、こうもまた明確に死の制裁を謳う艦内規則は珍しい。もっとも神通にとってそれは以前から知っているこの艦の最大の特徴であったので、紙上の文面を見てもさして表情の色を変えることは無い。ただそこに笑みを浮かべる事も彼女は無かった。


『・・・・・・。』


 真一文字に結んだ唇と鋭さを失わない瞳のまま、神通はただ無言で艦内の通路を再び歩き出す。彼女の姿はいつも通りと言えばいつも通りであるのだが、夏でもないのに首筋に僅かな汗を輝かせている。それは今から挨拶に向かう相手が、神通にとっては色んな意味で特別にして、唯一恐れるお方であるからというのが真相であった。

 やがて通路の闇中に浮かび始めた扉を瞳に入れ、神通の胸の鼓動はそのテンポを早くする。その扉の向こうにいるであろう相手は彼女にとっては長い付き合いなのであるが、それだけに彼女は胸騒ぎを一段と増す。その内に扉の前まで来て扉と正対した神通は、肩から下の服装を直してそこにあったしわを消し始めた。もちろんそれが存在していたならどうなってしまうかを彼女は嫌と言う程に身体で知っており、袖や帽子の被り具合まで直す有様だった。


『・・・ふぅ・・・。』


 服装の隅から隅まで修正した神通は、安堵と供に弱冠の恐怖心も混じった溜め息を静かに吐くと、いよいよ覚悟を決めて扉の向こうに居るであろう人物へと声を上げようとする。だが彼女の口から息が吐き出される前に、突如として彼女の後ろからは予想だにしない人物の声が発せられた。


『・・・なにやってんの、神通?』

『わっ!あ、あ、明石・・・!』


 すっかり扉の向こうへと意識を集中していた神通は思わず声をあげ、声がした背後に驚きの表情を向けた。そこにいたのは友人である明石であり、彼女はちょっと青ざめている感じの神通の顔をキョトンとした顔で覗きこんでいた。

 しかし神通はいきなり無警戒であった背後から響いてきた彼女の声ばかりではなく、そもそもこの艦に友人である明石がいるという今の事態その物にも驚いていた。なぜなら帝国海軍の艦魂社会において、この艦を好き好んで訪れる者が滅多にいないことを知っているからである。

 すぐさま神通はその事を明石に問いただすが、傍から見ても完全に取り乱している神通の言動に明石は首を捻りながら声を返す。友人としてこれまで付き合ってきた中で、いつも冷静な神通がこうも慌てふためいている理由が明石にはトンとよく解らなかった。


『おま、お前、なんでここにいるんだ・・・!?』

『挨拶回り・・・。神通がやれって言ったんじゃん・・・。』

『お前・・・、ここがどこか解ってるのか・・・!?』

『どこって・・・。』


 眉をしかめた明石は神通の問いを受けて、手にしていた観艦式の式次第を顔の前に持ってきて視線を流す。

 まだ参加艦艇が全部揃っていない横須賀の海だが、明石は甲板から一望した海原で最も目立った艦影を目にしてまずはそこに行ってみようと決めた。港の交通船や曳船の艦魂にその艦の名を尋ねた彼女はその艦が自身と同じ観艦式への参加艦艇である事を知って挨拶の為にやってきたのだが、艦の名前を教えるや突如として怯えて逃げ出した曳船の艦魂と、向かった先にいた友人である神通の稀有な言動に、明石は自分が来る艦を間違えたのかと思って式場図に書かれた艦名を確認する。


『ここって、観艦式参加予定の金剛艦だよね・・・?ほらここ、第三列の一番目・・・。』


 式次第を近づけて指差してみる明石だが、神通はそんな明石に呆れて額に手を当てて溜め息を吐く。実は彼女が明石に教えた挨拶回りとは、明石とは同じ特務艦同士でのお話であった。人間で言えば職場を同じくする者達なのだから、顔を覚えておいて貰ってこれからのお仕事をし易くしろという意味合いである。ところがどっこい、怖いもの知らずの明石はそんな神通の心遣いを取り違え、どうやら参加が決まっている艦艇の全てに挨拶をする気らしい。目を閉じて絶句している神通の横で、明石は大きな目をパチクリとさせて神通の声を待っていた。

 するとその時、二人の正面からは重苦しい金属音が突如として鳴り響き、二人はハッとしてそこにあった扉に顔を向ける。そして神通にとっては久々に、明石にとっては早速にして極めて単純明快にその性格が読み取る事のできるという、金剛艦の命である者の出迎えを受ける事になった。


『お前等ゴチャゴチャうるさいんじゃ、こんのたわけが。』




 刹那、横須賀の波間に浮かぶ金剛艦の中からは、除夜の鐘を彷彿とさせる重い衝撃音が二回なり響き、それに続いて明石と神通の短い悲鳴が発せられた。その音は人間達には聞える事は無かったが金剛艦の周りを忙しなく動いていた交通船や曳船の艦魂達にはハッキリと聞えており、彼女達は音が発せられたのが金剛艦だと解るや一目散に自身の分身の中へと姿を消す。そして彼女達の乗組員は、突然にしてエンジンの調子が良くなり始めた船の様子に驚くのだった。もちろん彼女達は皆一様にして、この金剛艦の半径30メートルの範囲から逃げようと必死に願っていたのである。




 一方、頭から発せられる激痛に尋ねたお人が神通のお師匠様である事を十二分に納得した明石は、同じく頭に大きなたんこぶを作っている神通を隣にして室内へと招かれていた。神通のげんこつを曲がりなりにも何度か受けてた事のある明石だが、この度初めて食らう事になったげんこつのダメージはこれまでの友人のそれとは比較にならないほど強力な物。僅かに表情を歪めている神通とは対照的に、涙目の明石は緩く歯を噛んで激痛の震源地である頭のてっぺんを撫でていた。そしてもちろん部屋の中央で立ち尽くす二人が顔を向ける先には、この部屋の主にして艦の命でもある金剛がどっかと椅子に腰を下ろしていた。


『最近の若いモンはやかましくてあかんわ。挨拶もせんと、いつまでも部屋の前で馬鹿面晒してギャーギャー騒ぎおってからに。』


 ドスの効いた関西訛りの声が明石と神通の威勢を完全に奪う。

 しかし何とも日本らしい言葉遣いを放つ金剛だが、その顔は明石の師匠である朝日と同じ様に英国生まれの艦魂らしい彫りが深くて高い鼻をもつ西洋人の顔立ち。神通よりも更に一回り身長も肩幅も広い身体つきで、軍帽から垂れた艶のある金色の髪は滝の様に真っ直ぐに重力に誘われている。顔を動かす度に遅れてサラサラと流れるその髪は、彼女が身に付けている真っ白な第二種軍装と舷窓から漏れて来る陽の光によって屏風のような輝きを放ち、その美しさは30代半ばの彼女の顔立ちを若くするには十分な程。その姿は帝国海軍の艦魂の中でも最も淑女らしい女性像を持つ明石の師よりもさらに美しさを極めた物であるが、そんな全身を光り輝せる金剛の顔には、明石の横で冷や汗を流す神通以上に鋭く尖った目が長いまつ毛を伴って別な輝きを放っていた。もちろんその輝きは明石と神通をこれ以上無い位に震え上がらせる。


吉法師(きっぽうじ)。ワレ、それでよお一端の指揮官ヅラできるもんやな。』

『は・・・。も、申し訳ありません・・・。』

『師匠であるワシのツラに泥塗るんやないで。もしそのつもりでおるんなら、今すぐワレの弾薬庫に火つけてこの横須賀の漁礁にしたるさかいな。』

『は、はい・・・。』


 電動機のような低くゆっくりとした口調の金剛の語りに、神通は僅かに肩を上げて頭を下げる。薄っすらと半笑いの声色で声を放つ金剛にはそれほど怒っている様子はなさそうだが、それに反して声を受け取った側はそれに安堵するような事は無い。いつもは尊大な態度を取っている神通がこれ程までに怯えきっている姿を明石は始めて目にしたが、それもお相手がこの人であるのなら別段変な事であるとは思わなかった。


 吉法師という聞き慣れない名前で神通を呼び、直立する彼女を前にしてまるでいつもの神通の様にふてぶてしく脚を組んで椅子に座る金剛。

 先程の彼女の言葉通り、実は神通にとってのお師匠様はこの人なのであった。しばらくそこに響いた久方ぶりの師弟の会話を耳にするに、どうやら神通が美保ヶ関事件で大怪我を負った際に現場から最寄の舞鶴軍港まで彼女を牽引したのがこの金剛であるらしく、仲間をその手で殺めた事で発狂寸前だった神通は牽引される最中に自分を気遣ってくれたこの金剛を艦魂としての唯一絶対の師として崇め、以来ずっと帝国海軍の者としての教えを請いで来たのだという。

 もっとも鬼の戦隊長として恐れられる神通の師匠というだけあって、この人の教育方針は帝国海軍艦魂社会ではもはや刑罰に値するとも言われる程の厳しさで昔から非常に有名だった。

 日本に回航された際は横須賀鎮守府籍であったにもかかわらず乗組員の言葉から関西弁を日本語として学んでしまったという変わった経歴が示す通り、金剛は神通の様に夜遅くまで勉強する様な努力家ではなく、常に現場で生の知識を吸収してその実力を伸ばす叩き上げタイプ。箸の持ち方から大砲の射撃理論に至るまで、その全てを自身の分身の中で学んできた現場主義の艦魂なのだ。そして明石の師匠である朝日の姉で、これまた有名な土方型の性格であった敷島(しきしま)の薫陶を受けて育った金剛は泣く子も黙る鬼教官として名を馳せ、明石もこれまでの生活で何度かその名を耳にした事はある。その教育姿勢は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」を地で行く典型的なスパルタ教育で、全員女性という艦魂社会にあっても褌とサラシのみで鍛錬に励んでいたという伝説を持つ「敷島"男子"中等学校」、注意だろうが助言だろうが第三者の介入を一切認めない「私立神通学校」と並び、その別名を「海軍砲術学校金剛艦分校」と囁かれて恐れられる筋金入りであった。

 ましてこの金剛の分身である金剛艦は現代の帝国海軍の主戦力とされる戦闘艦艇の中にあっては最も古参な艦艇であり、日本人同様に明確な上下関係を持つ帝国海軍の艦魂社会にあってはこの人に意見を申せる者などほとんどいない。艦隊旗艦としての運用が考慮されていない為にその階級章は少将どまりとされているが、それを差し引いても神通以上に苛烈でおっかない性格のこの金剛は、現代の艦魂社会における長老にして大親分の様な存在であった。


 そんな金剛を前にしてはさしもの神通もまだまだハナを垂らした子供同然。金剛はもはや宗教かとも思える程に織田信長を崇拝する神通の趣味はもちろん、下着の色の好みまで知っているという有様で、織田信長の幼名である「吉法師」の名を神通に与えた張本人でもある。故に会話の中で金剛が神通に向けて放つ声には遠慮という物が微塵も無く、神通は伏せ目がちにしながらちょっと困ったような感じで表情を曇らせていた。


『最近の艦隊訓練の成績は上等やそうやな、吉法師。あっちこっちから聞いとるで。ワシの下でヒイヒイ言っとったあのガキが、立派になったモンやな。』

『は、はい・・・。』


 大先輩にして畏敬する師匠の声に神通はなんとも歯切れの悪い声で小さな返事で応えると、チラっと視線を横にいた友人の顔に向けてみる。

 そもそもがただの鬼教官ではなく、それはそれは厳しい「海軍砲術学校金剛艦分校」を歴代最優秀の成績で卒業した教え子がわざわざ自分を訪ねてきてくれた事を素直に喜ぶ金剛の声は、相変わらずおっかなさを秘めていながらも常に半笑い気味であり、そこに滲んでいるほのかな明るさは明石の心を自然と緊張の硬直から開放していた。

 故にそこにあったのは口に手を当てて赤裸々に語られる神通の過去に噴出しそうになっている明石の姿で、神通は金剛にヘコヘコと小さく頭を下げながらも明石に対して憎しみを募らせていく。だが短気な彼女は心の中に溜まったものを師匠の前だからといって我慢する事などできない。やがて神通は金剛の語りかけが止んだのを認めると、すぐさま明石に向かって声を放ちながら彼女の足を小さく蹴飛ばした。


『何が可笑しい・・・!』


 神通の蹴りに明石はちょっとだけバランスを崩してよろけるものの、脛の辺りに走り痛みにその表情へと苦悶の色を浮かべる事は無かった。

 第二艦隊の仲間内では那珂と並んで大人の人柄で通っている神通なのだが、これまで明石の耳に響いていた金剛のお話はどれもこれもそんな神通の人物像を根本から打ち壊す物ばかり。なまじお仕事も出来て頭も良い神通の事を友人として良く知っている明石は、それまで耳にした事も無い神通の若い頃のお話に込み上げてくる笑いを抑えるので必死だった。そしてそれはちょっとだけ明石の中の神通に対する距離感のような物を縮めてくれ、同時に手に取る事ができるかのように身近に感じられるようになった神通が明石にはなんだかとても可愛い艦魂に思えてならない。その感じは師匠譲りの釣り上がった鋭い目とおっかない性格を持つ神通にはとても不釣合いで、明石は目の前にいる大先輩の身体から絶えず発せられる恐怖も忘れ、湧き上がる可笑しさを堪える事が出来なかった。


『ぷ〜ぷぷぷ・・・!』


 もっとも口に手を当てて笑う明石の姿は、神通にとっては面白くない。もちろん本気でやったつもりはないが、それでも革靴のつま先で蹴ったというのに明石は蹴られた脚を痛そうにする素振りを微塵も見せずに笑っている。正面にて薄ら笑いの表情を浮かべている金剛にチラチラと視線を流しながらも、神通は口を大きく尖らせて舌打ちを伴って明石に鋭い眼光を向けた。

 だが金剛はこの時ふと、珍しく神通が仲間によって大笑いされているという眼前の光景を認めると同時に、こうもまた綺麗な笑みで笑っている事を神通が不機嫌そうにしながらも許している事に気付く。教え子の無愛想で短気な性格を師匠として良く理解している金剛は、これまでの神通との会話ではずっとカヤの外であった明石に顔を向けて話しかけた。


『ほんで?こん若いんは誰や?赤線入った襟章なんて、エラい珍しいモンぶら下げとるやないか。』


 ようやく自分に向けられた金剛の声に明石は笑みを僅かに消し、腕を組んだまま腰を折って顔を迫らせてくる金剛に気をつけをする。


『はい。私は帝国海軍工作艦の─。』


 部屋の前でげんこつを頂戴した時より金剛から発せられていたおっかない雰囲気もだいぶ和らいだ明石。持ち前のハキハキとした物言いで金剛の声に応える彼女だったが、金剛は明石が言い終える前にふと椅子から立ち上がると明石の前に歩み寄り、ゆっくりと顔を近づけてくる。

 お互いの鼻が触れそうになる程まで迫ってきた金剛の顔。そこには友人である神通よりもさらに角度を鋭角にした切れ長の目があり、明石の心は薄らいでいた恐怖心を再び湧き上がらせた。まして日本人と同じ顔の作りをしている日本生まれの艦魂である明石にとって、西洋人の作りをしている金剛の顔のおっかなさはちょっと桁違いの代物だ。故に明石はその迫力に押されるようにして僅かに背を逸らし、その口調も段々と規律を失い始めていく。


『・・・・・・。』

『こ、工作艦の、あ、あか、明石ですぅ・・・。』


 やっと自分の名を名乗った明石にも、金剛はその表情を変えない。ただ金剛は彼女の声を完全に無視してそんな態度を取っていた訳ではなく、耳に入れた彼女の言葉を頭の中で認識するや、すぐにその表情を微笑へと変えて明石の肩に手を置きながら声を返してきた。


『なんや、お前が明石か。』

『う、は、はい〜・・・。』 

『比叡から聞いとるで、吉法師をいてこましてもうたそうやな。』


 口元を緩めた金剛はそう言うと、明石の隣で聞き耳を立てていた神通へと顔を向ける。彼女の耳に入っていた話は明石と初めて出会った際の強烈な事件の事で、その顛末に関して理由はどうあれ負けてしまった事を思い出す神通。決して仕返しをしてやろうとも思っていないし、むしろ彼女の中では今ではもう良き思い出となりつつる事であったが、教えを授けてくれた金剛の言葉に神通はどうにも素直になれずにそっぽを向く。人前で負けを認めるだけの勇気が無いのだ。

 一方、神通がこの世でただ一人恐れている金剛の語りを受けた明石は、眼前の金剛が比叡の名を口に出した事で、自分の事が艦魂社会でも有名人である彼女の耳にも入っているという事が確認できて嬉しかった。

 金剛の実の妹である比叡は、明石も以前に呉の波間で顔を合わせた事がある。記憶に残る日本生まれで完全な日本人の顔つきを持つ比叡は姉の金剛と全然似ていないのだが、そも明石が知る比叡の顔は改装による包帯を除去した後の物だ。この金剛のすぐ下の妹に当たる比叡は艦齢から計算するに金剛と同じ30代半ばの女性の顔でなければならないが、艦橋構造物の抜本的な改装によってその顔つきは明石と同じ20歳くらいの若々しい事この上ない代物。その事からどうにも金剛と比叡を姉妹として脳裏の中で線で結ぶ事が出来なかった明石だが、先程の金剛の言葉を受けてやっとその線は実体を帯びる。

 そして気さくで階級に物を言わせるような物言いをしない比叡の人柄を思い出した明石は、その姉である金剛もまた同様に根は良い人なのではないかと考える。しかし第二艦隊きっての問題児である神通の師匠というだけあって、金剛はそんな明石のささやかな考察を見事に打ち砕く行動に出た。


『は、はい。でも神通は・・・ううえぇっ!』


 声を返そうと明石が口を開いた矢先、金剛はおもむろに明石の顔を挟むようにして両手を伸ばすと、明石の両頬を親指と人差し指で摘んで上下左右に動かし始めた。


『それにしても、どんなごっつい奴かと思ったら、まだ生まれたばかりの"やぁこ"やないか。』

『う〜〜〜い〜〜〜〜・・・。』


 そんな事を言いながら金剛は明石の頬を三次元の動きで引っ張りまわす。奇妙な呻き声を放ってちょっと痛む頬の動きに絶える明石だが金剛は彼女の頬の感触が気に入ったらしく、面白がって明石の頬をグイグイと引っ張った。神通よりも更に一回り大きい体格を持つ金剛の力は半端なものでは無く、明石はヒリヒリと鈍痛を帯び始めた頬に涙目になり始める。

 やがて金剛は歯を見せて笑い出すと、今度はちょっとだけ腰を折ってそれまで明石の頬を摘んでいた右手を離した。相変わらず金剛の左手は哀れな明石の頬の感触を楽しんでいるが、彼女は右手をそのまま下に降ろしていくと明石の起伏の乏しい胸の辺りをバンバンと音を立てて叩き出す。


『は〜、こら酷いモンやな。ワシがバルジを着ける前の乾舷かて、こないにペタペタやなかったでぇ。』

『うぃで・・・!うえ・・・!あだ・・!』


 金剛の動作を見る限りそれは決して力が込められた動きではなかったが、叩かれる側の明石は胸に受ける強い衝撃に唸り声での悲鳴を上げる。段々と呼吸が苦しくなり始めた明石は、意を決して抵抗しようとそれまで体の真横に這わせていた両腕を上げる。しかし腕を上げた刹那、金剛はやっと左手から力を抜いて明石の頬を鈍痛から開放するが、すぐに左の腕を明石の背中に回すと小脇に抱えるようにして持ち上げる。女性にしては大きい160センチ後半を持つ明石だが、神通以上に力持ちの金剛にかかっては赤子の手を捻るも同然。金剛はバランスを微塵も崩す事無く軽々と明石を抱えると、視線を落とした先にある明石のお尻に向かって再び右手をベッチンベッチンと打ちつけ始める。もちろんその衝撃は受ける側の明石にとっては強烈で、明石は地に付いていない足をバタバタとさせながら悲鳴を上げ出した。


『なんやこの尻はぁ。ぜんぜん身体ぁ鍛えてへん尻やぞ、これぇ。』

『だ・・・!い、いだぃ〜〜・・・!』

『吉法師、こん若いんはワレのツレなんやろ?ちびっと鍛えてやった方がエエんとちゃうんか。』

『は、同感です。』


 明石のお尻をぶっ叩きながら放った金剛の言葉に、神通はさっき笑われた事に対するお返しも含めて即座に肯定の声を返した。

 ドスが聞いた低い物ながらも半笑い気味の金剛の声。お尻を叩かれながらもそれを耳にいれる明石は決してこの金剛が機嫌を悪くして折檻に走っている訳ではない事を察するが、連続してお尻を襲う強い衝撃に心を休める事ができない。足と手を空中でバタつかせるのが関の山だった。


『若い内しかできひん事やさかいな。そおらっ。』

『わあぁあ〜っ・・・!』


 金剛はまるで力の入っていない掛け声を放つと、小脇に抱えていた明石をそのまま背後に放り投げた。その動きはゆっくりとした物で掛け声の度とも相違は無いが、明石はまるで最大仰角に射撃した大砲の弾の様に放物線を描いて宙へ舞い上がり、先程まで金剛が腰を下ろしていた椅子を飛び越して更にその向こうにあったベッドの上までその身を運ぶ。


『ぶべえっ!』


 頬を引っ張られ、胸を叩かれ、お尻を弾かれ。文字通り踏んだり蹴ったりの思いをした明石は、ベッドの上に敷かれた布団によって落ちた衝撃をそのままダメージとする事は無かったが、身体のあちこちに残る鈍痛と宙を舞った事によって布団の上で目を回していた。破天荒にして手厳しい師匠の歓迎に神通は部屋に入って以来、初めての笑みを浮かべて布団の上の明石を眺める。その横では金剛が腰に手を当て、教え子と同じ様にその鋭く角ばった目に僅かに丸みを帯びさせながら笑いの色が滲んだ声を上げた。


『同じ帝国海軍、人間も艦魂もあらへん。こん商売は身体が資本やさかいな。なんぼワシらが女やからちゅうても、お上品にやっとったら埒があかんで。覚えときいや、明石。』

『うぃい・・・、は、はいぃい・・・。』


 神通と金剛に笑われる中、明石はもはや抵抗する気も完全に削がれ、布団の上で目を回しながら声を返す。

 帝国海軍艦魂社会における親分の恐ろしさを、彼女はこの日身を持って知った。






 なんとも酷い事になってしまった明石の挨拶回りの一日目はこうして終わり、明石は改めて色んな性格のお人がいる艦魂社会の奥深さを実感する。もっともその日の夜に明石を尋ねてきた神通によると金剛は大変に明石を気に入ってくれたらしく、『悩み事や困り事があったら遠慮のう相談に来いや。』との伝言にヘトヘトに疲れた心をちょっとだけ撫でる事が出来た。神通以上に怖いがあれ程に豪快で度量の良い金剛の言葉を明石は素直に嬉しく受け止めるが、やがてそんな金剛がかつて自分の師匠である朝日に対しては泣いて詫びを入れたという伝説を思い出し、改めて師匠の偉大さを実感する。


 やっぱり朝日さんは凄いなあ。


 そんな言葉を脳裏に流して師匠の偉大さを再認識する明石だったが、ふとその時に部屋の扉の向こうから響いてきた乗組員達の言葉でちょっとその表情に寂しさを滲ませてしまう。


『あ〜、あの浜の連中って砲術学校の奴らだったのか。』

『ああ、測的班の連中じゃねえかな。そいうや機銃の森の兄貴はどうしてんのかなぁ。』


『・・・・・・。』


 無意識の内に視線を床へと落とす明石は、今しがた響いてきた乗組員の声と同じ言葉を胸の中で呟く。かつては今、彼女がいる部屋で供に暮らしていた相方。強烈に脳裏に残る彼との別れの記憶は、明石にとっては自分の馬鹿さ加減の象徴。ふとその光景をもう一度見れない物かと部屋のあちこちへと投げてみた視界は、奇妙な程に部屋の広さを明石の心に伝えてくる。

 そして明石は布団の枕元に置いていた観艦式の式次第へと視線を投げ、とめどなく胸の中に湧きあがって来る感情をなんとか抑えようとした。彼女の瞳に写るのは98隻に及ぶ参加艦艇の位置を示した式場図で、明石はすぐさま明日もまた挨拶回りに励もうと決意を固める。彼女の中では本日の金剛の様な破天荒な先輩に弄ばれるよりも、相方との記憶を手繰り寄せる事で生まれる寂寥感の方が辛かった。


 ベッドにて横たわって式場図を眺める明石の頭上では、閉め忘れられた舷窓が横須賀の夜風を招き入れている。

 すっかり秋の心地を纏い始めた10月の潮風は、明石には何となく冷たく感じるのだった。

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