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第六〇話 「函館の味/後編」

 涼しげな潮風の流れに混じった、初めて対面した将官クラスの愛宕(あたご)の突然の言葉。それはとても緩やかに、だがしっかりと宗谷(そうや)の耳に入っていた。しかし宗谷は呆けた表情を崩す事無く、力の入っていない声で愛宕に今しがた放たれた言葉を確認する。もちろんそれは宗谷に向けて放たれた愛宕の声の中に、栄えある帝国海軍における一大祭典を指す「観艦式」の言葉が含まれていたからだ。


『か、観艦式・・・?わ、私が・・・ですか?』

『うん、民間から転籍した者としては初めての事だよ。測量任務での良い成績もあって二言返事で決まったらしいよ。』


 宗谷は愛宕の微笑みと綺麗な声を受けてもまだ表情を変える事は出来ないが、交えた会話のやりとりを段々と落ち着き始めた頭で理解して行く。やがて高鳴りを始めた自身の胸に宗谷は右手を押し当てながら、友人である神通(じんつう)へとふと顔を向ける。先程までの怒りも上官である愛宕の声に和らげられ、さらに宗谷という友人の記念すべき晴れの日への参加を知った神通はすぐに口元を緩めて声を放ち、観艦式参加決定の報を受けた宗谷を心から祝福してやった。


『良かったな、宗谷。』


 それは彼女らしい短い言葉であったが、宗谷には神通の心の内がしっかりと伝わっていた。そして友人のそんな心遣いを理解すると同時に、それまで硬直していた宗谷の表情は緩み、彼女は満面の笑みを作る。

 まだまだ民間の商船だった頃の記憶に未練がある宗谷。自身の分身の艦首と艦尾に備え付けられた機銃を見るとどこかその心に小さな恐怖心を抱いてしまう彼女は、北方海域に来て現役の民間の商船を目にする度に羨ましく思っていた。函館(はこだて)室蘭(むろらん)小樽(おたる)といった港でのそれは特に顕著で、まして姉の天領丸(てんりょうまる)と妹の民領丸(みんりょうまる)もこの海域で運行されていたから尚の事だった。同じ造船所で生まれて供にソビエト行きをキャンセルされ、工員や会社の人々の想いになんとか応えてやりたいと懸命に励んだ二人。もちろん姉も妹も宗谷との再会を手を取り合って喜んでくれたが、宗谷は既に姉妹とは一度聞いただけでは判断できない自身の名にちょっとだけ悲しみを覚えてしまったのもまた事実であった。


 なんで私だけ、こんな思いをしなければならないの・・・?


 そんな言葉を宗谷はどうしても脳裏に過ぎらせてしまう。まして宗谷艦における海軍の船としての証は艦尾に翻った軍艦旗のみで、その舳先には天皇陛下の御船である事を示す菊花紋章もない。横須賀や舞鶴の鎮守府からも遠く離れた北の果ての波間で働く自分。その事に宗谷は、自分は海軍に良い様に使われているだけなのではないか、と考えた事も正直に言えば何度かある。

 しかしそんな中で舞い込んできた観艦式への参加の報は、宗谷の心の端っこでくすぶっていた海軍への不信を完全に鎮火する。一般の国民や艦魂では決してその御姿を見る事のできない天皇陛下の御隣席の下、満艦飾で彩った自身の綺麗な姿を波間に映すことが出来る観艦式。それは日本の船として生まれた宗谷にとっては、決して届かない高嶺の花のような物だった。もちろん民間の小さな運送船として過ごしていたなら、宗谷にはその機会は間違いなく訪れていない。それは彼女が海軍の船として今を生きる事になったからこそ実現できたのであり、その事は同時に海軍が自身を決して小さく扱っていないのだと宗谷に教える。


『か、観艦式・・・。私が・・・。』


 胸の中から湧き上がる喜びを抑えるようにして胸の前に置いた右手に拳を作る宗谷。神通と愛宕が笑みを浮かべて無言のままで宗谷を祝福する中、宗谷は次第に口元を引きつらせていきながら、以前に国際港である天津(テンシン)にて聞いたとある童話を思い出す。惨めな境遇から一夜にしてその人生を華麗な物に変えるというその内容は、どこか今の自分と似ていると彼女は思った。そしてこの時、友人である神通も同じ事を考えており、ふと彼女が放った半笑い気味の声で宗谷はそれを知る。刹那、宗谷はやっとその笑みを浮かべた顔を上げ、周りの者達にその無垢な笑顔を見せてやるのだった。


『ふん、まるでシンデレラだな。』

『ふふふ。はい。』


 宗谷が良い終えると同時に、二人はお互いに顔を合わせて声を漏らして笑う。甲板上に響くその笑い声は次第に愛宕や那珂(なか)の口からも笑い声を放たせ、やがては4人から少し離れた位置にてそれを見ていた二水戦の少女達にも同様の効果をもたらしていく。唯一その場で険しい表情を堅持しているのは、神通の足元にて200回の腕立てに必死の形相で励む雪風(ゆきかぜ)だけであった。

 



 その後、愛宕は宗谷に観艦式の説明やその際の諸注意を那珂から学ぶように指示し、宗谷は那珂に連れられてその場を後にした。初めて目にした神通の妹という那珂に宗谷は最初の内は接し方を考えていたが、姉とは大違いの朗らかで知的な那珂の人当たりに宗谷はすぐに彼女とも仲良しとなる。『困った人でしょう?』という那珂による自身の姉の人物評に宗谷は大笑いしてしまい、その短気で傍迷惑な性格を話しのタネにして二人は親睦を深めるのだった。

 

 一方、宗谷と那珂が去った後の甲板では、愛宕と神通の会話がしばらく続いていた。

 友人がいなくなってしまった事から、神通の顔は少しだけ笑みの色を失っている。もっともそれは彼女の機嫌が斜めに傾いた事を示している訳ではない。むしろ神通は愛宕に対して深々と頭を下げ、丁寧にお礼の言葉を口にしていた。


『我が儘にも関わらず、本当に有難う御座いました。艦隊旗艦。』

『なに、二水戦戦隊長のお願いだからね。長門(ながと)中将もその意を汲んでくれたんだよ、きっと。』



 二人の会話には穏やかな函館の潮風をそのまま模したかのような雰囲気が滲み出ているが、神通の部下達はそれぞれが今しがた耳にした事の顛末に驚きを隠せない。それは先程まで甲板に響いていた宗谷の観艦式参加に関しての事であった。


 というのも、観艦式は実施部隊である艦艇を参加させることから、当然その参加艦艇の選定に当たっては連合艦隊司令部の事情が反映される。現にこの愛宕が率いている第四戦隊から愛宕とその妹の摩耶(まや)が参加できないのは、整備入渠という日程を連合艦隊から指示されているからである。海軍の実施部隊である連合艦隊は、戦力である艦艇や部隊の管理運営を常日頃から行わなければならいのだ。

 そして海軍の船の命として長年励んできた神通はその事をよく知っており、なんとか連合艦隊司令部への介入を行えないかと上司の愛宕を通して連合艦隊司令部をその身に宿す長門へと問い合わせをしたのだ。もちろんその内容は、海軍の船としてようやく頑張ろうと決意してくれた友人、宗谷の観艦式への参加である。粗野で乱暴者の神通だが長門は日頃から彼女を高く評価しており、妹分である明石(あかし)の友人という事もあってなんとか神通の企図している事が実現できるように骨を折ってくれた。偶然にも司令長官である山本(やまもと)中将はその時期に呉から東京の海軍省へと出かけており、彼女はすぐさま長官室に忍び込んで観艦式関連の書類を見つけて加筆修正するという荒業を発動。幸いにもその内容に気付かれる事無く書類は無事に判が押され、宗谷の参加が正式に認可されるに至ったのである。



『宗谷は嬉しそうだったね、神通中尉。』

『はい。』


 ふいに空を見上げながら語りかけてきた愛宕に、神通は声を返すとさらに深々と頭を下げる。だがそんな神通の姿を視界にいれた愛宕は、普段から立場の上下を無視して暴言を吐く神通の隠れた優しさに触れる事が出来てどこか嬉しかった。


 口の利き方が悪いと言っては下の立場の者を蹴り、気合が足りないと言っては部下を殴り、些細な失態でも容赦なく会議で指摘しては上官と取っ組み合いをするという神通。何より愛宕も生まれて初めて他人より罵倒された際の相手はこの神通であった。年上なのに階級は下というのは艦魂である彼女達だけではなく、その乗組員たる人間の社会でも往々にしてある事だが、それに加えてこの人の苛烈な性格はその関係をさらに複雑にしてしまう。明石という友人を得た最近ではその性格からもトゲがなくなり始めているのだが、横須賀での五十鈴(いすず)との一件のように先輩との喧嘩を屁とも思っていない彼女を部下として扱う事には、実は愛宕も多大な努力をしている。巡洋艦の艦魂の仲間内でもこの神通は、『何を考えているのか解らない。』と囁かれて嫌われる問題児であったのだ。

 しかし愛宕はこの神通を決して嫌っている訳でもなければ、そも五十鈴の様に彼女を悪い艦魂(ひと)だとは考えている訳ではない。同じく指揮官という立場を頂く愛宕は、最近になってその実力をメキメキとつけて来た神通率いる第二水雷戦隊の評価の裏として、この神通が胸の内に秘める想いが功を奏しているのではないかと思っている。なぜならただの気性の激しい嫌われ者を指揮官として迎えた集団が高い評価を得る事など絶対に不可能であり、まず指揮官と属する部下がしっかりまとまる事すらも無理であるという事を、愛宕は同じ指揮官の立場を頂く者として肌身を通してよく知っていたからである。


 普段はおくびにも出さない神通なりの優しさや思いり。それは傍から見ている者には滅多にお目にかかれないし、当の神通もそれを口に出す事は無い。だが確かにその胸と釣り上がった目の奥には、常に強く抱いている筈だ。


 そこまで考えた愛宕は神通の顔を無意識に眺めてしまうが、神通はそれに気付くと汗を拭うふりをして口元に手を当てて表情を隠す。やがてその手をどかして足元で懸命に腕立てに励む雪風に視線を流す神通の顔からは、ついさっきまであった優しげな笑みが嘘の様に消えている。ギラリと鋭い眼光を伴って鬼教官の顔を浮かべる彼女に、愛宕は以前に那珂から聞いた神通の人物評を思い出す。


 針に糸を通すどころか、針を摘む事すらも出来ない不器用な艦魂(ひと)


 その言葉を愛宕はここに至ってよく理解するのだった。




 一方、それまでのやりとりを神通の足元という特等席で小耳に挟んでいた雪風は、一挙に四倍にまで増やされてしまった腕立ての罰直もあり、口にこそ出さないがちょっと神通に対して不信の念を抱いてしまう。

 いつもお尻を竹刀でぶっ叩かれ、今日はげんこつまで頂戴した雪風。激しい訓練に疲れているのは雪風だけではなく(かすみ)(あられ)といった仲間達も同じで、正直に言えば(たま)の差し入れくらい食わせてくれたって良いじゃないかと彼女は思っていた。おまけにいつもこんな調子でシゴかれているというのに、この神通という上司は機嫌が悪いとすぐに彼女達に過酷な訓練を課して八つ当たりまでかましてくる始末。怒鳴られて怒られて叩かれる、ついでに規定した以外の休息も与えてくれない。そんな私立神通学校の毎日を過ごしてきた雪風にとって、いくら友人とはいえども神通が宗谷の観艦式参加における斡旋を行っていた事はちょっと理不尽であり、残念でもあった。


 部下として頑張ってる自分達には何もしてくれないのか?


 やがてそんな言葉を脳裏に過ぎらせた雪風は、連続する腕立てによって既に感覚を失い始めている肘に力を込め、甲板に両腕を突っ張るとチラっと首を捻ってすぐそこにあった上司の足から視線を上へと流してみる。するとやっぱりと言うべきか当然と言うべきか、そこにはげんこつを振り下ろした時と同じ鋭い眼光を伴った上司の顔があった。それはまさに自身の乗組員達が持っていた本に描かれていた仁王様その物で、雪風はすぐさま視線を逸らして再び腕立てに励む。もっとも雪風は物事をハッキリと口にするその性格の通り、胸の中に抱いた上司への不信から汗まみれの表情の中で口をツンと尖らせていた。

 だがその時、雪風は自身のすぐ隣まで上司の物とは違う靴音が迫って来ている事にふと気付いた。といってもその靴音の主を雪風は自分の回りの状況からすぐに察する。そして雪風の考察を証明するかのように、頭上からは神通と愛宕の会話が響いてきた。


『それとね、ちょっと困った話があるんだよ。』

『は?』

『実はね、長門中将が宗谷の参加を工面してた時に、二水戦の観艦式への参加も決定してるのを見つけたらしいんだけど、どうやら連合艦隊司令部の手違いで参加艦艇の枠が11隻になってるらしいんだよ。』

『11隻・・・。』


 ちょっと澄んだ感じの薄くなった愛宕のすまなそうな声に、神通はまゆを僅かにひそめて腕組みをする。それが何かを考えている様子なのは明白で、愛宕の放った言葉に雪風を含めた神通の部下達は、上司が何に対して考えをめぐらせているのかをなんとなく悟った。

 彼女達二水戦は旗艦の神通艦を筆頭に、隷下には第8駆逐隊、第16駆逐隊、第18駆逐隊の3個駆逐隊がある。8駆と18駆は供に4隻編成で、16駆はまだ編成途中の3隻編成。これに旗艦の神通艦を足すと二水戦の全艦艇は12隻となり、参加枠の11隻と比較すると単純に1隻余る事になる。つまりこのままでは、二水戦の中から晴れの日を味わう事ができない可哀想な者が一人だけ誕生してしまうのだ。

 そんな中で雪風は今の自分の状況を鑑みて、外されるのは自分かもしれないと憂いでしまう。それもその筈。11人の部下達の中でもこの雪風は、普段から上司である神通による鉄拳制裁でダントツの被弾率を誇るからである。


『まあ、珍しい事じゃないけどね。五十鈴大尉の三潜戦(第三潜水戦隊)も枠が足りないし、最上(もがみ)中尉の七戦隊でも枠が足りないんだ。七戦隊はまだ決まってないけど、三潜戦では旗艦の五十鈴大尉と各潜水隊から選抜した艦艇を参加させるそうだ。』

『ふむ、そうですかぁ・・・。』


 腕組みをしたまま、ふと神通はその視線を頭上の青空へと向ける。

 その姿は傍から見ても彼女が愛宕の言葉を受けて何かを考えている事を示しており、仲間達と同様にそれを認めた雪風は胸の中に抱いた憂いの波をより一層高くする。雪風にしても3年に一度の観艦式は綺麗に彩った自身の姿を、恐れ多くも天皇陛下に御閲覧して頂く絶好の機会。海軍の者としてねずみ色一色で塗装されたその身を飾れる事は、身も心も一応は人間と同じ少女である雪風には晴れ姿である事に違いは無いのだ。だがそんな機会が文字通り風前の灯火となってしまっている事を、雪風は空を見上げたまま沈黙する上司の姿に明確に悟る。

 そしてやっと二百回目の腕の伸縮が終わった事もあり、雪風は溜まった疲労に抗えず突っ張った両腕を折り曲げてその場にうつ伏せで倒れこんだ。


『ぐへぇ・・・。』


 今にも泣きそうな声も混じった声を放ちながら荒い息をする雪風。その脳裏には上司への恨み等はなく、せっかくの機会を失うのではないかという憂いと恐れだけが渦巻いている。まして同じく枠が足りない三潜戦では旗艦と選抜された部下が参加するらしいとの愛宕の声は、曖昧な輪郭を持つ雪風の憂いをさらに顕著に形作っていくのだった。

 やがて函館の潮風が神通の前髪を上空で流れる雲と同じ方向に揺らすや、神通は上げていた顔をゆっくり元の位置へと戻す。相も変わらず三角定規を彷彿とさせる彼女の両目は、愛宕ですらも神通の考えている事を読み取らせようとはしない。しかし神通の心の中では、先程より考えていた事に既に明確の答えを打ち出している。それは愛宕の神通に対する理解を正しかったと証明すると供に、規律を取り戻せぬ呼吸で甲板に突っ伏す雪風の憂いを根本から取り除く。もっともそれはこの人を良く知る明石や那珂、霰などから言わせるとさも当然の事でもあった。


『それ以上に枠が減る事は無いですよね、艦隊旗艦?』

『ああ、残念ながら増える事もないけどね。』

『なら私が参加しない事にします。その代わり、部下は全員参加させます。』


 言い終えた神通はプイっと洋上にそっぽを向くが、その言葉と神通の様子を認めた愛宕は小さく頷きながら微笑んだ。小さな声で『やった、やった。』と手を取り合って喜んでいる部下達を背後に、神通は眼前に広がった遥かに続く水平線からその視線を逸らそうとはしない。だが愛宕はそんな神通の凛々しい横顔に、先程脳裏をかすめた那珂の言葉をよく理解する。

 面と向かって部下達を褒めてやるような事は無い神通。

 それは友人である宗谷よりも、ずっとずっと自分の部下達を可愛がっており、溢れるほどの愛情を注ぎ込んでいるからだ。そしてそんな大事な者達だからこそ、不器用な彼女は自身の思う所を率直に表してやらない。


 頑張って来い。

 良かったな。


 そんな言葉すらもかけない神通であるが、その胸の中では心の底から部下達への祝福の声を叫んでいるのである。ただそれをいつも顔を合わせている部下達に面と向かって言うだけの、いつもの自分らしくない姿を見せるだけの勇気が無いのだ。常にぶっきらぼうで喧嘩騒ぎを起す神通の、繊細にして弱い部分なのである。

 するとその内に神通の足の裾を、力無い手で掴んできた雪風が声を上げる。鼻水と汗と胸いっぱいの感謝の涙でずぶ濡れの雪風は、牛の鳴き声のような声で上司を呼んだ。もちろん彼女の心の中には、自分を見捨てる事無く観艦式への手配を決めた神通への感謝の気持ちが溢れている。


『え、えぐ・・・。せ、戦隊長ぉ・・・。』


 神通はズボンの裾を引っ張られた事でやっとその視線を足元へと向け、そこにあった雪風のそれはもう酷い顔に思わず口元を緩めてしまう。神通は雪風のその顔に彼女が何を考えていたかを、そして同時にそれを見事に払拭できた事を察し、その表情に笑みを浮かべたのだった。


 まったく、見くびられた物だ。


 そんな言葉を脳裏で放つ神通だが、彼女の機嫌はそれによって斜めに傾く事はない。続けて足元から放たれる雪風の言葉が、自分が部下の考えを完全に読み取れていた事を明確に示したいたからだ。それに対して神通はすぐさまいつもの厳しい言葉を返したが、その表情から笑みが消えない事に愛宕と部下達もまたその心を晴れやかにする。


『・・・馬鹿者が。恐れ多くも天皇陛下のご拝謁を賜るという時に、そんなツラで臨むつもりか、犬。』

『は、はいぃ〜・・・。』

『お前らも観艦式の参加がきまったからといって、はしゃぐようなら大間違いだ。帝国海軍のあっちこっちから選りすぐりの艦艇達が集まるんだぞ。こんな場所で失態をかまして、私達二水戦の名に泥を塗る事は絶対に許さん。だから明日からは各自の艦の清掃状況も点検する。ちょっとでも汚れておったら承知せんから、覚悟しておけ。』


 それは私立神通学校における、鬼教官のいつもの声。だが愛宕の耳に届いたその声には心なしか神通の嬉々とした心の音色が混じっているようであり、それに対して返された部下達の返事もまた明るく元気な物であった。やがて神通は足元で頬を濡らす雪風を立たせると、愛宕に一度小さな会釈をした後に他の部下達が集まるマットの付近へと戻っていく。罰直の腕立て伏せでヘトヘトに疲れておぼつかない足取りで歩く雪風と、そんな部下の肩を抱いて歩く神通の後姿が愛宕の澄んだ瞳に写る。

 その光景に愛宕は、この神通という艦魂が帝国海軍の中では誰よりも厳しいと同時に、誰よりも部下を思う指揮官である事をよく理解し、自分の方が上官の立場でありながらも同じ指揮官として深く彼女を尊敬するのだった。




 その日の夜、神通は相方である木村大佐に頼んで大量のお菓子を用意し、部下全員を呼び寄せて観艦式への壮行会を催してやった。若い女の子と一緒になって酒が飲めるとあって木村大佐は二言返事で了承し、宴会好きで陽気な彼を混じえた宴は大いに盛り上がる。もっともお酒が進んで行き過ぎた彼は宴会に同席していた宗谷にちょっかいを出し、同じく酒を飲んで手を振り上げやすくなっていた神通の逆鱗に触れてしまう。


『このクソジジイがぁあ!!!』


 そんな咆哮が響いた後、竹刀を振り回す神通によって、木村大佐は宴の終了を待たずに強制退場処分となる。鼻息の荒い姉を抑える那珂はいつもの事とは言え一苦労であったが、そんな中にあっても霞や霰、雪風といった部下達は上司に対しての不満を沸かせない。昼間の一件で彼女達は皆、この神通という上司がどれ程までに自分達を大事にしてくれているかを改めて理解したからだ。

 そしてたくさんのお菓子や飲み物に混じってそこにあるローストビーフに、雪風は昼間の上司が垣間見せてくれた自分達に対する想いを深く頂戴する。その生涯で初めて食べたちょっと塩味の効いたローストビーフの味は、やっと頬が乾いた雪風の頬を再び濡らそうとする。大嫌いな霞にそれを気付かれぬようにと部屋の隅っこで食べたローストビーフは、ちょっとしょっぱいが何故だかとても美味しくて、缶詰と口の間を交互する雪風の手が止まる事は無い。

 彼女の舌に広がったそれはほんのりと温かくて身体全体に染み渡るような味で、まるで昼間に少しだけ見せてくれた神通の笑みと心遣いの様であった。

 

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