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わだつみの向こう ─明石艦物語─  作者: 工藤傳一
第一章 巡り合わせ
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第六話 「誇り・前編」

 昭和14年9月23日。

 訓練航海を終えて少し経つ明石艦は、呉海軍工廠にて本来の主任務である各種工作活動の訓練を開始した。本来の想定としては明石艦に被修理艦が横付けするのだが、今回は桟橋に接岸しての艦内工作設備を扱う工作科を主な対象とした訓練であった。

 各種部品図や青写真も陸の工廠から送られてくるらしく、実際の製造や加工を呉工廠の作業指導を受けながら明石艦で受け持つのだ。訓練航海に続いて、今回も該当の科にとってはかなり実戦的な訓練である。

 簡単な工場区画は戦艦等の大型艦にも2区画ぐらいあるが、冶金、鍛冶、木具、銅加工、溶接、電気等、明石艦の工場区画は艦内だけで17区画もある。今回は試験運用程度だが青写真室も装備している明石艦は補修部品や加工部品の複写図面を大量に保管しており、簡単な設計業務すらこなせるようになっていた。装備されている設備も精度の良いドイツ製の設備を有しており、中には工廠にすらも設置されていないという高価な物も含んだ工作機械の数は100台を超える。「各種工作活動を設計工程の段階から高精度に行える」という明石艦の能力は、一個工廠に匹敵するといっても過言ではない。







 前部煙突である工場用煙突からもくもくと煙が上がり、艦内の工作機械や起重機の稼動音が蝉の声のように響く中、忠は発令所でのんびりと小さな煙草盆を片手に煙草を吹かしていた。物資搬送等がない限り砲術科の出番は今回は無い。三々五々の休憩時間でのんびりと出来る時間帯なのであるが、何となくなく宙に浮かぶ煙草の煙が寂しく見える。あまりの暇さにいつもの書類整理をしたが、元々整理済みの所を整理したのですぐ終わってしまった。

 そして椅子に腰掛けて呆けた顔で煙草を吹かす忠の横には、同じく椅子に腰掛けて現役の先輩である朝日(あさひ)艦の報告書を読みふける明石の姿があった。報告書は工廠から派遣された作業指導官が持ってきた物で、艦長室にあった物を明石が失敬してきたの物である。

 天真爛漫な性格の明石だが意外にも勉強熱心であり、時折『う〜〜ん。』と唸り声をあげながら報告書を穴を開ける程に読んでいる。


 また、明石から見れば同じ工作艦としての先輩にあたる朝日艦は支那事変勃発の年である昭和12年に工作設備を設けて類別された工作艦であるが、実は艦魂としても現在の帝国海軍に属する艦魂達から見ると大先輩にあたる。

 元々は敷島(しきしま)型戦艦の2番艦としてイギリスで建造された朝日艦は、日露戦争にて黄海海戦、日本海海戦という大海戦に主力として参戦。第一次世界大戦時もウラジオストック方面への作戦に戦隊旗艦として参加。その後は練習特務艦等の任務を経て昭和12年に工作艦に艦種を変更。工作艦への装備改装が終わったその日に出港するという慌しさで、現在は上海を拠点に活動しているのだ。


 やがて微かに眉間にしわを寄せて報告書を読む明石に、微笑みと明るい声色を持って忠は声をかける。


『どうだ? なんとかなりそうか?』


 忠の声に明石は歪んだ笑みを返す。彼女は顔を隠すように近づけていた報告書を降ろし、続けて頭の上に乗せていた軍帽を取って机の上に置いた。


『あはは・・・。うん・・・。結構、大変そうなんだね。修理日誌の日付がほとんど毎日になってる。』


 机の上には同じ内容と思われる報告書がさらに2冊置いてある。次いで明石が手に持つ報告書の題名の下には「第一巻」の文字があり、読破の道はまだまだ長そうだという事を忠はよく理解する。


『ははは、がんばれよ。』

『んも〜、冷やかして〜。』


 頬を小さく膨らませて報告書に目を戻す明石。普段見る事のできない彼女の真剣な顔は忠にとっては新鮮だった。自然と忠も笑い出し、口に咥えた煙草から幾分派手に煙上げつつ口を開く。


『はっはっは。まあ、明石は工作艦としての性能は朝日艦より上じゃないか。朝日艦より色んな事ができるんだし、そんなに気張るなよ。』

『そうでもないんだな〜。』


 忠の明るい語りはからかうつもり等は微塵も無く、むしろ明石の実力を褒めて余裕を持たせてやろうする勢いの物であったが、声を受け取る当の明石は報告書から視線を動かさずに答えた。その上で意外にして意味深な彼女の言葉に、忠は身を乗り出してその真相を問い始める。


『うん? どういう事?』

『工作艦って言っても所詮はお船だもん。作れる物は大きさの面でも限りがあるし、私に有る起重機の最大懸架量(けんかりょう)は23トンだから重い物だって扱えないし。』


『ほほう・・・。』

『それにドックに入れる訳でもないから、艦底の塗装や清掃とかのお船にとっての基本的な整備だってできないんだから。』


『・・・。』

『艦載砲の内筒交換とかの基本整備も無理だし〜。やれる事なんて言ったら小さい部品の補修か、穴の開いた所に鉄板張り付けるぐらいなんだよ?』


 ページをさらさらとめくりながら、明石は至って平然とした顔でそう言った。だがそんな彼女の何気ない素振りに、忠は驚きを隠せない。いつも漂々としていて思うがままの言動が多い彼女だが、その言葉にも示されている様に自分の能力をかなり正確に把握しているからである。初めて会った時から1ヵ月と経っていないのに、忠には少し大人になったように明石が見える。

 彼の手に挟まれた煙草から灰の塊がポトリと落ちるが、忠はそれに気づかずに明石の顔をじーっと眺めていた。


『うん? な、なあに・・・?』


 すると忠の視線に明石は気づく。いつも一緒にいる彼だが、逸らさぬ視線でまじまじと見つめられるのは慣れていない。真正面から受け止めづらい照れるような感情も湧き始めた明石は、ちょっと恥ずかしそうに頬を赤くして視線を忠から逸らす。

 しかし忠が彼女に対する驚きの声を放つと明石の表情は元に戻り、その率直にして裏を返すと幾分失礼な物言いをお返しばかりにやんわり責め立て始める。


『あ・・・、いや。あ〜、結構考えてるんだね?』

『ヒドイなぁ、何にも考えてないと思ってたの?』


 アンタその割りに行動が突発的だよ。


 一方の忠は明石の反撃の言葉を受けて即座に思いついた言葉を脳裏で呟くも、明石が眉を少し吊り上げているので敢えて口にしなかった。明石は本気で怒っている訳ではないが、こういう時に笑ってごまかすのが忠にとっては関の山である。


『あはは、ごめん、ごめん。ちょっと意外だったから。』

『ふふふ、まあ、いつまでも新米じゃいられないからね。』


 そう言って報告書に目線を戻した明石の横顔を忠は再び眺めた。性格は相変わらずだが、その顔つきは段々と海軍軍人らしい顔つきになってきている。その事に自分から明石が少し遠くなったような感覚を覚え、忠は複雑な心境で微笑んだ。





 するとその時、忠と明石の二人はパッと部屋に淡く白い光が反射した事に気づく。


『うっ・・・、ひぐっ・・・。』


 二人が気づくと同時に、発令所の右舷入り口から今度は何者かのすすり泣く声が聞こえてくる。明石と忠は泣き声が聞こえてくる方にふと視線を向けるが、そこには(あられ)と見知らぬ士官用の第一種軍装を着た女性に支えられて発令所に入ってくる(かすみ)がいた。霞はうつむいたまま、両手で目から溢れ出る涙を拭きながら泣いている。


『ど、どうした? 霞?』

『も、森さん・・・。明石さん・・・。』


 うつむきながら泣く霞は泣きながら口を開いたかと思うと、入り口に近かった忠に走りよって抱きついた。


『もう・・・、もう、私どうしたらいいか解んないよぉ・・・! ぁあ・・・、うあぁぁん!』


 霞は忠の右腕に抱きつくなり大声で泣き出した。忠は自分の腕に泣きつく霞の顔に驚いた。霞の右頬は真っ赤に腫れ上がり、首元には青いアザが2箇所程できている。


『ど、どうしたんだ霞! 霞!!』


 忠は霞の肩をさすって事の次第を聞こうとするが、霞は忠の腕に顔を伏せて赤ん坊のように大声で泣く。明石も椅子から立ち上がって霞の元に駆け寄るが、霞は泣いたままで何も答えなかった。しかし忠にも明石にも、霞の顔がただの怪我ではない事がすぐ解った。そして二人が顔を見合わせると、付き添ってきた霰が震える声で口を開く。


『明石さん、森さん、おやかまっさんでかんにんどす・・・。』

『あ、霰、これどうし─。』

『・・・。』


 明石の言葉が途切れた事に気づいて、忠は顔を霰に向ける。霰は申し訳なさそうな顔をしながらも、目の縁に涙を溜めている。そして霰の頬も赤く腫れ上がっており、唇を切ったのか口元から血が一筋流れていた。


『霰! お前まで・・・、どうしたんだよ!』

『ごめんなさい、いきなり駆け込んで。とりあえず治療してあげてくれませんか、明石さん。』


 忠が言い終えると同時に、それまで黙っていた二人に付き添ってきた士官服の女性が声を上げる。

 ハスキーで低めな声に釣り目の顔で、美しく真っ直ぐな黒髪を首の付け根辺りで揃えている。見た目は20代後半くらいで、明石や霰よりも遥かに大人の女性だった。忠と同じ第一種軍装を身に纏い、その襟には中尉の襟章をつけている。だが彼女の正体は気になるが、まずはこの二人を治療する方が先決だと判断した忠は、すぐさま明石に向かって声を発した。


『明石、部屋に連れて行こう!』

『う、うん、!』







『ちょっと染みるけど我慢してね・・・。』

『はい・・・。ぅう・・・!』


 忠の部屋の中、明石は霰の前にしゃがみ込み、彼女の口にヨードチンキを染み込ませたガーゼを当てていた。霰の顔が険しい顔になり、目の縁に溜まっていた涙がホロリと頬を流れる。

 ベッドに腰掛けて激痛に耐える霰の横では、頬に大きく絆創膏を張った霞が忠の腕に顔を埋めて泣いていた。大分落ち着いてきたのか、今は発令所の時のような大声ではなく静かにむせび泣いている。


『まだ痛むか、霞?』


 忠の問いに霞は嗚咽しながらも小さく頷いた。あんなに元気な笑顔ができる霞がこんなに泣くとは想像できず、忠には霞の姿があまりにも痛ましかった。


『そうか、うん。無理しないでいいからな。』


 忠の言葉に先程と同じように小さく頷くと、霞は忠の腕を掴んだ手にぎゅっと力を入れる。



『本当にごめんなさい。』


 すると士官服の女性が頭を下げて口を開いた。ゆっくりと綺麗なお辞儀をする彼女の身振りに、忠は敵意を感じない。その事に少し安堵しつつ、彼は霞から彼女に視線を移した。


『君もやっぱり艦魂かい?』

『はい。私は帝国海軍二等巡洋艦の那珂(なか)と言います。』

『そうか、那珂艦の・・・。あ、オレは明石艦砲術士の森忠(もり ただし)少尉。』

『やはり森さんでしたか。森さんと明石さんの事は霞と霰から聞いています。可愛がってもらってるそうで・・・。』

『ああ、それより・・・。この二人、一体どうし─。』


『那珂さんて、言いましたよね?』


 忠が言い終える前に、明石はしゃがみこんで霰の治療をしつつ、那珂に背を向けたまま声を発した。そして忠はその声に驚いた。いつもの優しく無邪気な明石の声ではない、刃物のように研ぎ澄まされた怒りが込められた声だった。明石と向き合っている霰はその声の変化に気づいて目を開くと同時に、怯えた表情で僅かに後ろへ仰け反り始める。


『二人の傷、明らかに誰かに殴られた痕ですよ? この二人と那珂さん・・・。』


 ゆっくり立ち上がりながら静かにつぶやく明石。


神通(じんつう)さんじゃないんですか!? 貴方の姉の神通さんの仕業じゃないんですか!?』


 明石は振り向くと同時に那珂の襟に手を伸ばして締め上げた。女性にしては長身の明石に締め上げられた那珂の体が浮きかかる。那珂は苦しそうにしながらも答えた。


『ぐぅ・・・。ご、ご存知でしたか・・・。』

『や、やめるんだ! 明石!!』


 興奮する明石を忠が抑えて那珂から遠ざける。だが明石は忠に抑えられながらも那珂に向かおうとする。その表情には忠にすら別人と思わせる程の怒りが込められていた。


『あなた、中尉かなんか知らないけど、なんでそんな涼しい顔でここにいるの!? あなたの姉妹がやったんでしょ!? それを、土下座の一つもせずに!!』

『明石!! 落ち着け!!』

『あ、明石さん!! 那珂中尉は違うんどす!!』

『明石さん、待って!』


 怒りが収まらない明石に、涙を浮かべていた霞と霰も慌てて止めに入った。普段は綺麗な笑顔と無邪気な物言いの明石が、今は鬼のような形相をしている事に忠は驚きを隠せない。彼女のそれは友人を傷つけられた事に対する憤りなのだろうが、霞と霰をここまで連れて来てくれた那珂を責めるのはお門違いである。言えば納得するのかも知れないものの、ここまで見境がつかなくなる程の怒りとその豹変ぶりに忠はただ驚くばかりだった。



『・・・!』


 すると突然、明石の体から力が抜け、その表情からは怒りの色がサーッと引いていく。忠は視線を明石の顔から、明石の目線の先に移した。

 するとそこには正座して深々と腰を折り、額を床に擦りつける様にして土下座する那珂の姿があった。


『この通りです・・・。どうか、お話を聞いてくれませんか?』

『・・・。』


 那珂は決して頭を上げようとしなかった。この部屋の中でも最も階級が上である彼女が、水兵である霞と霰が見る前でも恥も体面も無く土下座している。明石はその光景を眉間にしわをよせながらも呆然と見ていた。

 しばらくの間、部屋の中を静寂が支配した。





 忠と明石、そして那珂は明石艦の艦首旗竿にの辺りに来ていた。霞と霰は休ませたいし、何より彼女達の前で一連の事態の真相を言うのも酷だという那珂の言葉に、忠は暴力を振るうような感じを見受けられない。

 そんな中、忠は思うところがあって明石の背中を軽く叩いた。


『明石・・・。』


 忠の表情から彼が何を言おうとしたか明石は解った。それは明石も考えていた事だった。明石は少しの間、目を閉じてうつむくと、手を後ろに組んで艦首から海を眺める那珂に近づいて先程の自分の非礼を詫びた。


『すみませんでした・・・。中尉・・・。』


 そう言って頭を下げる明石に忠は優しく微笑む。彼女の事は相方の彼はよく知ってる。さっきはちょっと興奮してしまっただけで、本当は笑顔が似合う優しくて朗らかで、偶にぶっ飛んだ行動を起こてしまうとっても良い奴なのだ、と。

 頭をさげたまま那珂の許しを待つ明石に、忠は自分の中の彼女への理解が間違いではなかった事を確信して安堵した。

 そして同時に、忠は帝国海軍軍人の常識である紳士らしさを明石に通させた。


 「そこらで遊んでる姉さん達ではない、君は帝国海軍の艦魂なんだろ?」


 艦首に向かう途中に発した忠の言葉に、明石は素直に納得したのだった。



『いいえ、お怒りはごもっともですよね。』


 那珂は振り返って明石の肩に手を乗せた。明石が恐る恐る顔をあげると、那珂は優しく笑みを見せてくれる。


『中尉・・・。』

『ふふ。那珂でいいのよ、明石。それに敬語も必要ないわ、私もあんまり使い慣れてないから。』

『ありがとう、那珂さん・・・。』


 風に揺られて那珂の軍帽からはみ出た部分の髪が靡く。釣り目で軍人らしさが滲み出ている顔の那珂だが、笑うとまるで自分の母のように包み込んでくるような優しさを感じる。それは明石も同じく感じたのではなかろうか。那珂は海に視線を流すと、少し寂しそうな顔をして話し始めた。


『明石が言ったとおり、あの子達の傷は神通姉さんの仕業よ。先だっての訓練航海で、砲撃訓練の成績が貴女と同等だったのが癪に触ったのね。』


『どうして私と同等ではいけないんですか?』


『第18駆逐隊であるあの子達は、神通姉さんが旗艦を務める第二水雷戦隊に配属が決まってるわ。そして神通姉さんは、二水戦旗艦という事にとても誇りを持ってるの・・・。』


 潮風にのってゆっくりと流れてくる那珂の声を耳にし、忠も声を上げて会話に参加する。艦魂社会の内々的なお話であるのかもしれないが、そこに語られた様子は人間達の日常と何一つ変わらないもの。故に忠もこれまでの培ってきた経験と知識を基に、お互いが挑む懸案の解決策を模索し始めた。


『花の二水戦、かい・・・?』

『そうよ、森さん。二水戦は帝国海軍がワシントン海軍軍縮条約を受ける以前から編み出していた水雷戦術において、その中核を成す事になっている最も精強な水雷戦隊。その戦力たるあの子達が、戦闘を主目的としない特務艦である貴女と同等の成績では困ると言う事よ。』

『・・・。』


 那珂のハッキリとした物言いに、明石は僅かに口を尖らせる。だが那珂にあっては明石を怒らせようとした訳でもなく、そこに明石がついつい抱いてしまった感情もよく解っていた。


『ごめんなさいね、失礼なのは充分承知してる。でも現実的にあの子達は常に最前線で戦う事が求められる立場。そこらの駆逐艦が束になっても敵わない位でないと務まらないのよ・・・。そういう意味では神通姉さんの理解は正しいわ・・・。』


『でも那珂さん、二人のあの傷を見たでしょ?あれは教育的な指導を超えてるよ。』


『その通りよ、明石。あの子達だけじゃない、第8駆逐隊の子達も同じような目にあってる。いつも私が止めるんだけど、その都度、神通姉さんの行動には驚かされるわ。失敗や成績不良で一度でも怒ると、まるで二度と立てなくするかの様に部下を痛めつけるの・・・。』

『こう言っては悪いが、人間でいう犯罪者心理なんじゃないのか・・・?』


 忠の言葉は那珂にとっては実の姉妹を侮蔑するような言葉だが、その事に関して彼女は怒るような事はせず、むしろ彼に向かって笑みを浮かべて声を返す。


『ふふ。ちょっと違うわ、森さん。神通姉さんは部下を死なせたくないだけなの。妹の私には解る。他人の何倍も部下を失う事に臆病になっているのよ。それが神通姉さんを凶暴な性格にしてしまったのね。足腰立たないくらいに叩きのめしてしまえば、二水戦にはいられなくなるから・・・。』

『どうして、そんな事をするんですか・・・?』

『・・・。』


 無言のまま那珂は空を見上げた。晴れの空を雲が流れていく光景が、僅かに細くした那珂の瞳に映る。


『自分を、そして部下を心から信頼できないからよ・・・。』

『信頼できない・・・?自分も・・・?』


 明石の言葉に那珂はゆっくり頷くと、目を閉じて口を開いた。


『昔、殺してしまったのよ。部下と乗組員と自分の艦長をね・・・。自分の不注意で・・・。』


 那珂が言い終わると同時に、強めの突風がふいた。大きい風の音と風が海面を叩く音が木霊する。そしてその風で舞い上がった那珂の髪、その向こうには涙を流す那珂の悲しげな顔があった。







『那珂。お前、こんな所にいたのか。』


 突然聞こえてきたその声は背筋がゾッと凍る程に冷たく、張り詰めた糸のように繊細で、甲高い声だった。

 声がしたのは3人の後ろにある第一主砲の横、その方向に振り向くと士官服に軍刀を持った女性が立っていた。明石よりもほんの少し背が高く、女性にしては体格がいい。釣り上がった日本刀のような目、短い髪を小さく首の後ろに結った髪型。そして顔立ちが那珂とよく似ている。歳も同じくらいで、襟章は中尉だ。薄々、彼女の正体を感じた忠と明石だったが、那珂の発した言葉はそれを確信に変える。


『神通姉さん・・・。』


 神通はゆっくり那珂に向かって歩きながら言った。


『大方、あの馬鹿供がここに逃げ込んだんだろう?』

『・・・。』

『ふん。』


 神通はそう言って俯く那珂に呆れ、視線を明石へと移した。軍帽からはみ出た神通の長い前髪が風に揺られて流れ、その奥にある神通の目はまるで凶暴な狼のようであった。今にも飛び掛って来そうなその雰囲気は人間でも滅多にいない。その風貌から忠は直感的に危険だと感じた。忠の首筋に冷や汗がダラダラと滲み出る。

 だが神通は忠ではなく、明石の方に向かって歩み寄って声をかけた。


『貴様が明石か?』

『・・・。』

『立場をわきまえろ、将校相当官。貴様、皇軍をナメてるのか?』

『・・・。』


 明石は決して怯えている訳でもなく、決して笑う訳でもなく、ただ黙って神通の目を見つめていた。何も言わず無表情で見つめてくる明石に顔をしかめる神通。突き刺すような眼光を放ちながら、彼女は続ける。


『ふん、所詮は特務艦の艦魂か。まあ、いい。霞と霰を連れて行く。』


 そう言って明石の横を通り過ぎようとした神通だったが、その身体に明石は腕を絡ませた。突然の彼女の行動を受けて上目遣いで明石を睨みつける神通に、明石は無表情のまま声を返す。


『今の貴方には、あの二人は渡せません。』


 明石がそう言った刹那、鈍い音を立てて明石の顔に神通の肘が突き刺さった。神通の肘の一撃によって仰け反る明石の顔に、神通は肘を放った腕とは逆の腕で今度は拳を打ち込む。明石の頭から帽子が落ち、顔から鮮血が飛んだ。


『神通姉さん!!!』

『明石!!!』


 その光景に咄嗟にその場を飛び出す忠と那珂。だが神通を含めた3人は、目を見開いて身体の動きが止まった。明石は倒れずに両脚で堪えると、右手を大きく振りかぶって神通の顔面に拳を刺し返したのである。


 顔から鈍い衝撃音を放った神通は、後ろに2、3歩仰け反るとどっと尻餅をついた。呆然として床を見つめ、違和感を覚えた顔に手を触れる。そこに曲がった鼻から滴る自分の血を認め、神通の表情はみるみる変わっていく。そして咆哮した。


『貴様ぁぁああ! 殺してやる!! 殺してやる!!』


 檻から放たれた野獣のように飛び掛ろうとする神通を、那珂が必死の形相で後ろから抑える。明石は駆け寄る忠に目もくれずに、右手で口から滴る血を拭いながら神通を睨みつけていた。


『はなせぇえ、那珂ぁあ!! うぅらぁぁぁああ!!』





 見開いた目で大きく口を開けて龍の如き咆哮をする神通と、黙ってそれを睨みつける明石。これが生涯の友となる明石、神通、那珂、忠の初めての出会いだった。

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