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第五九話 「函館の味/前編」

 昭和15年9月8日。

 第二艦隊は青森巡航を経た後、北海道の玄関である函館(はこだて)港へと向かい、そこに錨を下ろした。

 本州から離れた北海道は東北地方の北側と同じくアイヌ民族が代々住む土地であり、明治の時代に本格的な開拓が始まったと認識する国民は多いが、古くは室町時代の中期に現在の青森県津軽(つがる)地方にあった豪族がこの地へと流れてきて拠点を構えた歴史がある。そして彼等が流れ着いた北海道で拠点とした地というのが、古くは宇須岸(うすけし)とも呼ばれたこの函館という地なのである。

 太平洋にも日本海にも近く、さらに函館の眼前には函館湾と津軽海峡という国内屈指の好漁場が広がっており、独特の深い入り江は天然の良港として古くから全国に知られてきた。その為に黒船来寇を契機とする日米和親条約で函館はアメリカの捕鯨船の補給港とされ、近代日本史のかなり初期において国際港としての道を歩み始めた歴史を持つ。それから5年後の日米修好通商条約締結では晴れて函館は国際的に開かれた港とされ、海洋国家である日本では史上初の国際貿易港と認定されたのだった。それに伴って外国人居留地区が設定されると函館の街並みには西洋風の建物が姿を現し始め、函館は当時の近代的な文化が色濃く反映された地として栄えていく。

 だが本州より離れているという土地柄が時として災いの元凶となることもまた事実であり、函館が活気付き始めた頃には幕末という激動の時代の波がここに押し寄せていた。明治新政府と旧幕府軍が激烈な国内内戦を展開したこの時代、函館には榎本武揚(えのもと たけあき)率いる旧幕府抗戦派が落ち延び、幕府が国際港である函館の防衛と治安維持を目的として築城していた五稜郭(ごりょうかく)へと入城。同時に蝦夷(えぞ)共和国の樹立を宣言したのだ。もちろんこれに対して明治新政府が黙っている筈も無く、西洋の色合いを持つ函館の街並みは両軍の銃火によって燃え盛り、その炎を映す函館湾の波間では明治新政府軍艦隊と蝦夷共和国軍残存艦隊によって激烈な海戦が繰り広げられる。しかし既に自軍兵士の逃亡も始まっていた蝦夷共和国軍は次第に劣勢となり、新撰組の鬼の副長として勇名を馳せた土方歳三(ひじかた としぞう)もこの時に函館の大地へと散った。

 その後、戦火も治まった函館はそれまでの「箱館」という名称を「函館」へと改め、新政府の下に開拓団の受入港としても機能する事によってなんとか元の活気を取り戻していく。街には軍靴の跡を埋めるようにして路面電車が走り、郊外には惨劇と涙を拭い去ろうとするような競馬場という娯楽地も建てられ、函館山には防人の館であった五稜郭に代わるようにして函館要塞が建造された。


 政治、経済、外交、そして戦争。近代日本が産声を上げた時代のそれらを全て備え、同時に現代に向けて語り継ぐ地。それがこの函館市であった。






 第二艦隊は函館港の沖合いに錨を下ろし、乗組員達は北国である函館の過ごしやすい夏の気候に心を弾ませて市街へと上陸していく。北の荒波に育まれた魚介類は乗組員達の舌を楽しませるのは勿論の事であったが、大正3年に公園として解放されて今は文字通り「つわものどもの夢の跡」となっている五稜郭も彼等は散策。錦の御旗に抗った今は亡き男達の遺功に想いを馳せた。


 そしてそれは艦魂達も同じだった。




 殆どの乗組員が艦内から姿を消した第二艦隊の各艦だが、艦の命である艦魂達は艦隊旗艦である愛宕(あたご)艦の艦首甲板へと集合していた。

 水雷戦隊や航空戦隊隷下の駆逐隊の艦魂達までも集まって各戦隊の戦隊長を先頭にして整列する中、彼女達の前では第二艦隊の艦魂達を統べる愛宕が深い青色をした函館の波間に酒の入った一升瓶を傾けている。チョロチョロと間抜けな音を発しながら海面へと流れ落ちていく酒の滝だが、その光景を笑う者などこの場には一人もいない。やがて一升瓶の中の酒を全て波間に飲み込ませた愛宕は自身の足元へと瓶を置くと、遥かに続く函館湾の水平線に律した表情の顔を向ける。すると即座に彼女の後ろに控えていた高雄(たかお)が号令を掛け、続いて一斉に頭から帽子をとる部下達を背後に愛宕もまた頭から軍帽を取って静かに声を発した。


『脱帽!』

『箱館湾海戦で散った先人達に対し、黙祷。』


 愛宕の張り詰めていながらも透き通った声が響き、その場に整列した艦魂達は一斉に腰を折って頭を下げる。彼女達は一様に瞼を閉じ、吐息の音すらも唇の隙間から漏らす事は無い。なぜなら彼女達は今、この函館湾の波間に散った同じ船の命達の安らかな眠りをただひたすらに願っているからだ。もちろんその先人達とは愛宕が口にしたとある海戦での犠牲者の事である。

 箱館湾海戦。

 明治2年の春の終わり頃、この函館の波間では9隻の軍艦が入り乱れての大海戦が展開された。互いに損害を出しながらも戦ったその9隻は同じ日本の船の命として、第二艦隊の艦魂達を始めとする現代の艦魂達からすると先輩方に当たる。

 栄えある陛下の御船である第二艦隊の艦魂達は、錦の御旗を戴きながら今も函館の海底に眠る新政府側の朝陽丸(ちょうようまる)の眠りを祈ってはいるが、だからといって80発もの被弾を受けながらも戦い続け、最後は函館の浅瀬を枕にその身を業火に包んで果てた蝦夷共和国側の回天丸(かいてんまる)の事も忘れてはいない。日の丸と君が代を戴く日本という国を生む為に、時代という波に翻弄されてお互いに殺し合った二人。どちらも生まれたのは日本から遥かに遠い欧州であるが、二人は供に日本の船としての誇りを胸に、日の丸と君が代を伴った大日本帝国という国を生む為にその命を捧げていった偉大な先輩達なのである。

 第二艦隊の艦魂達が分け隔て無くその分身に掲げる軍艦旗と日章旗。どちらも日が昇る光景を模した物だと言われているが、今の愛宕達にはその旗にある赤い色が血の赤のように思えてくる。


 いつも目にしているこの旗を掲げて日本という国を表そうとする時、そこにかつてどれ程の同胞の血と犠牲があったか?


 そんな言葉を脳裏に過ぎらせた彼女達は、決してその旗をふざけ半分で掲げてはいけないと決意を新たにする。より一層深々と腰を折り、僅かに眉をしかめる第二艦隊の艦魂達。軍帽を失った事であらわになった彼女達の頭を函館湾の潮風が撫で、一人一人の髪を順番に揺らしていく。呉と変わらぬ波の音が彼女達に気付かせる事は無かったが、あたかもその風の感じと温もりは、彼女達がいま身を浮かべている波間の下で眠る二人の先輩の手のようであった。






 第二艦隊は休養も兼ねてしばらくはこの函館湾にて羽を伸ばす事になり、ほど良い涼しさとおいしい魚介類が連日並ぶ艦内での食事に艦魂達も喜ぶ。そして函館に到着してからの第二艦隊では連合艦隊司令部からの命令もあり、国民の軍事知識普及の一環を目的に所属艦の開放見学会が催される事になった。

 元来函館は青函連絡船に代表される洋上交通の要の地である事から整備された港湾設備を持っており、第二艦隊の中核である巡洋艦クラスの艦艇なら充分に接岸できる岸壁も既にある。さらには津軽海峡防備を担当する津軽要塞の一部とされている函館には帝国海軍の出張所もある為、港湾側との折衝はすんなりと話が纏まった。

 残念ながら利根(とね)型及び最上(もがみ)型は帝国海軍でも最新鋭の艦艇に当たる為に開放予定の候補から除外されてしまったが、それでも改装が終わったばかりの高雄型の一等巡洋艦が開放予定艦とされると函館の人々はこぞって見学の応募に殺到する。大きな艦橋構造物と巡洋艦らしいスマートな艦影を持つ高雄艦はそこそこに民間からの人気もあるようで、高雄艦が繋留された桟橋は開放日を迎えると函館どころか北海道全域や東北3県からも集まった見学者で長蛇の列を作り、中には弁当持参で順番を待ってくれる人々も出る有様だった。

 一方、艦の命である高雄は見学者の中に母親に抱かれた赤ん坊を見つけ、その可愛さに舞い上がって赤ん坊の頬を触れようと手を伸ばしてみたのだが残念ながら泣かれてしまった。どうやら世にも珍しい艦魂が見える人間だったらしく、真っ白な第二種軍装を身に付けた得体の知れないお姉さんに驚いてしまったらしい。いきなり号泣しだした赤ん坊を母親があやし、その光景を乗組員の水兵達が笑顔で見守る中、高雄は触れるのを諦めて赤ん坊が泣かないように物陰からこっそりと、しかしそれはそれは残念そうな表情を浮かべて眺めているのであった。






 同じ頃、高雄以外の各艦はいつもの様に港の沖合いで錨を下ろし、人間の気配が希薄になった艦では艦魂達がそれぞれの時間を送っていた。


 しかしそんな中でもこの人とその部下達はのんびり休日を送る事は無い。

 ちょっと雲が多い晴れ空の下、神通(じんつう)艦の広々とした艦尾甲板には彼女達の声が響く。


『だらぁ!』

『うわっ!!』

『一本! それまでぇ!』

 

 柔道着を身に付けた少女達が円陣を組む中、中心に置かれたマットの上では雪風(ゆきかぜ)が先輩である荒潮(あらしお)を豪快に投げ飛ばしていた。審判である朝潮(あさしお)の右手と判定の声が響き、雪風と荒潮はそれぞれの胴着を直しながら立ち上がるとお互いに礼をする。回りの少女達からはどよめきに続いて歓声と落胆の声が同時に上がり、その中を雪風は胸を張って歩いた。

 すると雪風の耳には周囲の声に比べると一際鋭い上司の声が届く。


『犬。』

『はあっ、はあっ・・・。は、はい!』


 次の試合を執り行おうとする朝潮の声を背後に、返事をした雪風は円陣から少し離れた所で試合を眺めている神通の下へと小走りで向かう。同じく柔道着で身を包む神通はいつものように鋭い眼光で視線を流しており、竹刀を抱えながら腕組みをして砲塔に寄りかかっているその姿はまさに鬼教官その物。雪風は神通の前で気をつけをし、頬を流れる汗を拭おうともせずにただじっと上司のお声を待つ。


奥襟(おくえり)を狙いすぎだ。荒潮がもう少し背が高かったら、お前は負けてたぞ。』

『う、は・・・はい。』


 雪風は決してこの神通という上司を嫌いな訳ではないのだが、やっぱりこの人の声と表情から放たれるおっかなさは尋常ではない。鋭く釣り上がった目で神通は雪風の背後にて行われている試合を瞳に映しているのだが、そのぶっきらぼうにしてハッキリと指摘をする声は雪風の胸の中にみるみる内に恐怖心を湧かせていく。もし至らぬ所があったり不備があったならいま神通が肩に乗せている竹刀でおもいっきりお尻をぶっ叩かれてしまうという日常を、雪風は良く知っているからだ。そしてこうやって励んでいる際に呼び出されたら最後、ただでは帰して貰えないであろう事も雪風は既に脳裏に過ぎらせている。

 顔を下に向けながらもチラチラと神通の表情を窺う雪風だったが、そんな彼女にはやっぱり上司の厳しいお声が返って来た。


『相手を選んで勝つような輩は二水戦にはいらん。だから今の勝負での勝ちは認めん。』

『は、はいっ・・・。』


 厳しい上司である神通はそう言うと雪風に僅かに視線を流し、自身の顎を足元の床に向かってゆっくりと動かす。その意味を知っている雪風はせっかくの勝利を喜ぶ事も無く、すぐに神通にお辞儀をするとその足元にうつ伏せになってペナルティの腕立て伏せを始めた。


『・・・50回だ。』

『は、はいぃ・・・!』


 ついさっきまで自分よりも体格の大きい荒潮と柔道の試合をしていた雪風。腕立て伏せの体勢になっただけでも彼女の頬からは大粒の汗が滴り落ち、口から漏れる荒い呼吸はまったく静まっていない。腕を床に突き立てただけにも関わらず、雪風の両肘は早くもガクガクと震え出す。しかしそんな部下の様子を視界に入れても神通は眉一つ動かさず、むしろ腕立て伏せの体勢になったまま中々始めない事に苛立ちを覚える。すぐさま神通はその視線に鋭く鈍い光を走らせ、雪風を睨んだまま声を発した。


『犬。100回にしてもらいたいか?』

『うぐぅ・・・!い、いえ・・・!』


 凍りつくような声に雪風は慌て、上司に否定の声を放った勢い腕立て伏せを始めた。すぐに雪風の両腕は張り始めて肘に力が入らなくなり始めるが、途中で止めたらもっと怒られるのを知っている雪風は歯を食いしばって両腕を動かす。それを認めた神通はいつもの短い口癖を放つと雪風から眼前の部下達の試合へと視線を戻すが、その間際に放った言葉に雪風は思わず泣きそうになってしまう。


『ふん。よおし、70回にまけてやる。』

『う・・・! はいぃい・・・!』


 なんとも理不尽な上司の指示であるが、雪風はその胸に抗うという意志を抱く事は無い。なぜならこの神通という上司は常日頃から『私が思う通りの戦をする。反抗は許さん。』と口にしており、これにちょっとでも触れる事があろう物なら故意だろうが過失だろうがすぐさま竹刀の餌食とされてしまうからだ。もちろんそれは教育の一環ではあるのだが、背も高くて力も強いこの人の竹刀によってぶっ叩かれた際の激痛は半端な物ではなく、鼻っ柱の強い雪風ですらもそれを事の他恐れている。初めて食らった日はこの雪風も余りの痛さに朝まで眠れなかったくらいだった。

 そんな事から必死の形相で雪風は腕立て伏せに励み、仲間達も横目でそれを見て柔道の武技教練により一層の意気込みをもって打ち込む。過ごしやすい函館の潮風に涼しい顔をしているのは神通くらいで、彼女達がいる甲板には気温や湿度等とは関係ない重苦しい空気と緊張感が常に張り詰めている。

 こんな光景が帝国海軍の艦魂社会でも恐れられる私立神通学校の日常であり、神通が「鬼の戦隊長」との異名をとって恐れられる所以であった。





 するとその時、二水戦の面々が汗を輝かせる艦尾甲板には柔らかな感じの声が響いた。


『あ、神通さん。ここでしたか。』


 背を預けている砲塔の更に背後から響いてきたその声に神通は鋭い眼光を保ったまま視線を流すが、そこにいた友人の姿を認めるやすぐにその角ばった釣り目には丸みが帯びられていく。


『おお、宗谷(そうや)か。函館に来てたのか。』

『はい。横須賀ではお世話になりました。』


 神通の瞳には、鼻の頭の辺りにあるそばかすと毛先が丸くなった長い黒髪が特徴的な友人、宗谷の姿が映った。真っ白な下士官用の第二種軍装に身を包んだ宗谷は、横須賀で見た時よりもどこか軍装姿が似合うようになったと神通には思える。栄養失調で担ぎ込まれる事で出会った宗谷も元気なったもので、白い肌に桜色の唇が小さく浮かんでいる宗谷の表情に神通は安堵の感を覚えて笑みを溢してしまう。なにやら背中に背負った大きな木箱が、宗谷の健康さをさらに神通へと伝えた。

 神通の隣まで歩み寄ってきた宗谷は背筋を伸ばし、わざとらしさが少し薄くなった敬礼をしてみせる。もっとも神通はその敬礼の仕方に関してあれやこれやと言うつもりは無く、すぐに右手を額に添えて宗谷を開放してやる。雪風やその仲間達が教練を続けつつ笑顔を浮かべた上司と宗谷のやりとりを不思議そうに見守る中、神通は宗谷の肩に手を乗せて言った。


千島(ちしま)樺太(からふと)に行ってると思ってた。奇遇だな。』

『はい。測量のお仕事は大体終わって、今は幌筵(ほろむしろ)向けの運送任務に就いてます。』


 ニコニコと笑みを浮かべる宗谷はそう言うと、それまで背中に背負っていた木箱を甲板に下ろし始める。そこそこに重いのか声を伴って木箱を下ろす宗谷だが、神通も先程から160センチ半ば程の身長を持つ宗谷の身体に比しても大きいその木箱が気になっていた。やがて甲板にしゃがみ込んで木箱の封を開け始める宗谷に、神通は身を屈めて顔を近づけるとさっそくその事を尋ねる。


『なんだそれは?』


 長い海軍生活ですらもあまり見た事の無い木箱に神通は正体を探りかねて眉をしかめているが、宗谷は至って笑顔で神通に向けて声を返した。


『これは海軍が北海道の業者から買った食料品です。幌筵に届ける予定だったんですけど、伝票の誤記でちょっと余ったらしいんです。』


 そこまで言った宗谷は木箱を開けると、そこにはおが屑がびっしりと敷き詰められており、甲板と同じ色をした木箱の中には所々に鈍い銀色が放たれている。すぐさまそれを缶詰だと認識する神通だったが、やはりその缶詰のラベルはこれまでの彼女の海軍生活では見た事が無い物だった。そして宗谷は物珍しそうに瞳を小さくしている神通の表情に、これ以上ないくらいの無上の喜びを覚える。なぜならそれは北海道でしか手に入らない名産品であったからだ。


『ローストビーフの缶詰です。北海道では美味しくて質の良い牛がたくさん飼育されてて、運送費がかからないので本州よりも安く手に入るんですよ。差し入れに持ってきました。』


 それを目にした神通は『おお。』と声を上げるとすぐさま宗谷の手にあった缶詰に自身の腕を伸ばし、さっきまで部下達に見せていた無愛想な表情が嘘だったかのように目を輝かせて缶詰に無邪気な笑みを向ける。


 ローストビーフの缶詰は明治の頃から既に海軍でも食料品として出回っているのだが、その姿は食器の上以外では中々お目にかかれない代物である。味付きで缶を開けるとすぐ食べれる事から水兵さんの銀バイの格好の餌食である事も理由ではあるが、まだまだ生産がそれほどに盛んではない上に産地からの運賃も勘定するとお値段が少々高くなってしまい、西日本である呉鎮守府や佐世保鎮守府籍の艦艇ではあまり調達されないという実態があるのだ。

 イギリス海軍を模範とした帝国海軍では伝統的に日曜日の昼食としてローストビーフを食すというイギリスの食文化も取り入れており、艦隊司令部クラスが在艦している際の日曜の昼食ではこのローストビーフが食べられている。しかしお値段が少々張る事から兵や下士官ではまず口にする事ができない物で、神通ですらも15年以上の海軍生活において食べた事は数える程しかない。大和煮の牛缶と違って生に近いローストビーフはあっさりとした食べ心地が特徴で、食感もボロボロと堅い物ではなくしっとりとした柔らかな物。ましてそも洋食という物がまだ一般的に普及していない日本において、ローストビーフは一般的な日本人の舌を持つ水兵さん達の憧れの的であった。

 もちろん神通の部下である艦魂達は、食べたいなあと願いつつも一度も食べた事が無い。故に彼女達は一斉に身体の動きを止めて上司の方向に視線を流し、無意識に口の中へと湧いてくる唾液を飲み込んでいた。


 そんな中、神通と宗谷の足元で腕立て伏せをしていた雪風もまた例に漏れずに腕を止めてその輝く瞳を宗谷が持ってきた木箱に投げる。宗谷の胴回りよりもまだ大きい木箱の大きさを鑑みるに、その中にはローストビーフの缶詰が山ほど入っているのは明白。そしてヘトヘトに疲れている彼女の身体と心は、瞬時に胸の奥に湧き上がってきた衝動に抵抗する事が出来なかった。


『ろ、ローストビーフ!!』


 怖い上司に指示された罰直などどこ吹く風。雪風はそう叫ぶなり立ち上がると木箱の横でしゃがんでいる宗谷の隣まで駆け寄り、木箱の中でおが屑に埋もれる銀色の缶詰を手に取る。ラベルにデカデカと旭日を背景に描かれた牛の絵は、雪風の唇からよだれをもらすには充分だった。ほど良い缶詰の重さと冷たさも彼女の疲れきった心を更に癒し、雪風は汗でほっぺにへばり付いたその波打ったクセ毛を直そうともせずに大きな釣り目を輝かせる。

 宗谷はそんな雪風のめまぐるしい行動と表情の変化に最初の内はビックリしていたが、それが自身のちょっとした心遣いに対する極めて率直な反応であった事を知って再びニッコリと笑った。余り物の処分とはいえこれだけ大きな木箱を担いできた宗谷だってそれなりに苦労はしているし、そもお世話になった神通という友人に対する宗谷の感謝の気持ちはこんな缶詰の山で表せるほど薄い物ではない。しかしこうして自身の気持ちに笑顔で応えてもらえる事は誰しも嬉しい物である。何より「物を運んだ先に笑顔がある」という事に、民間の商船の出身である宗谷は無意識に喜びを感じてしまうのだった。

 もっともそんな宗谷の心は別として、缶詰に感激の涙も混じった笑みを向ける雪風の行動が容認される事は無い。なぜなら彼女のいる場所は上司に当たるこの人の分身の甲板上で、過ごしている時間はほんの少しも勝手が許されない私立神通学校の授業時間中であったからだ。

 仲間達が思わず目にした上司の動作に顔を両手で覆う中、ただ一人それに気付いていない雪風の頭上からは神通のお叱りとげんこつが襲い掛かる。


『こんの馬鹿がああ!!!!』


 無防備な頭を思いっきりぶっ叩かれた雪風。


『ギャッ!!!』


 手に持っていた缶詰を放す事は無かったものの、雪風は激痛が走った頭を両手で抑えてうずくまった。神通のげんこつはいつもの事ながらもそのダメージは半端な物ではなく、目を開ける事すらもままならない雪風は頭の天辺を両手で抑えながら歯を強く噛んで痛みに耐える。顔に比しても大きい雪風の大きな釣り目の縁からは、感激の余りに溜まっていた涙が苦痛に耐える涙と意味を変えて零れていく。やがて頭を抑えていた雪風の手から缶詰が引っこ抜かれると同時に、入れ替わりに缶詰を片手にした神通の声が轟いた。


『誰が腕立てをやめろと言った、犬!?』

『す、すぃやせぇん・・・。』


 稀有にして貴重な食べ物を目にしてすっかり上司の事を忘れていた雪風は、神通のお叱りに涙になって頭を下げる。それを横から見ている宗谷はちょっと困ったように苦笑いしつつ、神通に雪風の事を許してやるように頼んでみる。だが完全にご立腹の神通は友人の言葉にもその首を縦に振ることは無い。まして私立神通学校の授業時間という物には、雪風を始めとする二水戦の少女達以上に神通は自身の色々な思いを詰め込んでいる。荒い口調で宗谷に返した神通の言葉は、それを聞く者に有無を言わせずにその事を納得させるのだった。


『じ、神通さん・・・。そ、そんなに怒らないでくだ─。』

『黙れぇ!二水戦の事には口を出すな、宗谷!!』

『う・・・。』


 剥き出しの怒りをすぐに表情に出してしまう神通の悪い癖を宗谷も知ってはいるのだが、やはりこの人の怒鳴り声を伴ったご立腹の表情の怖さはそんじょそこらの物とは桁違い。友人として慕う心は変わらぬものの、宗谷は眉を吊り上げた神通の表情に言い掛けた言葉を喉に詰まらせてしまう。そして宗谷を黙らせた神通はすぐさまその視線を宗谷から正面でうずくまっている雪風へと流した。頭の痛みが薄くなり始めてやっと視界を得る事が出来た雪風も、向けられてきた上司の怖い顔に身体をビクンと震わせる。


『私の命令無しに勝手にメシを食えるとでも思ったか、犬!!』

『ぐひっ・・・。すぃあせぇん・・・。』

『腕立て200回だ!! さっさと始めろ!!』

『うぅ・・・。はいぃ・・・。』


 二水戦の艦魂達の中でも指折りの強い鼻っ柱を持つ雪風も、神通にかかっては手も足も出ない。流れ出る涙と鼻水を袖で拭きながら、雪風は神通の足元で再び罰直の腕立てへと挑み始める。柔道の武技教練の試合で勝ったにも関わらず難癖の様な指摘をされ、与えられた最初の腕立ての回数は50回だったのに僅か10分程の間に些細な失態で一挙に4倍へと増やされてしまう。泣く子も黙る私立神通学校の桁外れの厳しさだ。

 懸命に腕立てに励む雪風の正面では、脈動する血管を額に走らせ日本刀の様な瞳をギラギラと光らせる神通が腕組みをして仁王立ちしている。その横で悪い事をしたなと申し訳なさそうな笑みをを浮かべている宗谷と供に見守られる中、雪風は自分の行動を深く後悔しながらガクガクと揺れる肘に力を込めて動かすのであった。





『お、さすが二水戦だ。今日も訓練日課か。』


 晴れ空である事を忘れさせる程に重苦しい空気に包まれていた甲板に、函館の過ごしやすい潮風を模したような澄んだ声が響く。その声が響いたのは神通と宗谷がいる砲塔付近よりもさらに後ろの甲板で、雪風以外の少女達はそこに顔を向けるやすぐに気をつけして一斉にお辞儀をする。次いで宗谷もまたそこにいた人物の階級章を瞳に入れると、すぐに立ち上がって直立不動の敬礼をした。


『精が出るね、神通中尉。』

『これは、艦隊旗艦。』


 神通はそこにいた人物に声を返すと、部下や宗谷と同じく腰を折り曲げて無帽の敬礼をした。

 そこにいたのは那珂(なか)を従えた第二艦隊の長、愛宕(あたご)であった。涼しげな潮風が乗り移ったかのような澄んだ声と清々しい笑みを輝かせ、まだ怒りのオーラが治まりきっていない神通に歩み寄る愛宕。自分よりも遥かに上の階級である事はもちろんだが、愛宕の持つ独特な清涼感のある物腰は神通の怒りを急速に冷やしていった。

 故にそれまで角ばっていた神通の瞳が次第に曲線を帯び始め、愛宕はそれを確認すると涼しげな笑みを崩さぬまま大きく頷く。宗谷もまた足元で腕立てに汗を流す雪風をちょっと可哀想に思いつつも、ようやく刺々しさが消えた口調で声を発する神通に安堵して胸を撫で下ろした。那珂に至っては神通と姉妹を組んで十数年であるから、そんな姉の変化と足元で必死に腕立てをする雪風の事情をすぐに察する。そこに込めた想いは決して間違いではないのであるが、部下達にとってはどうしても恐怖の代名詞的な存在となってしまう姉の性格をその場に微かに残っている雰囲気から那珂はいとも簡単に感じ取り、宗谷と同じ事を思ってちょっと笑みを歪ませた。

 もっとも愛宕も那珂も神通の教育に関して口を挟むつもりは微塵もない。少々理不尽で強引な所もある彼女の教育が間違いではない事を、二人ともこれまでの海軍生活で目の当たりにしてきたからである。事実、艦隊訓練や戦技訓練においてこの神通と率いられた部下達は、戦艦すらも随伴した艦隊を何度もコテンパンに叩きのめした事があるのだ。


『今日はどうしたんですか?』


 やがて神通の問い掛けが僅かの間だけそこにあった沈黙を切り裂き、愛宕は一呼吸置いてからそれに対して声を返す。


『うん、例の観艦式の事だ。あ〜、君は宗谷だよね?』


 唐突に愛宕の声を受けた宗谷は驚きながら返事をするが、神通の怒りをも鎮める愛宕の爽やかな笑みは宗谷の胸の中にある緊張をすぐに和らげて行く。ただ愛宕は宗谷の心の内を開放する為に笑みを向けた訳ではない。

 すると愛宕はすぐさま宗谷に笑みを向けたもう一つの理由を自身の口から放つ。それは宗谷にとっては予想だにしなかった、帝国海軍からのなんとも嬉しい通達であった。


『10月の観艦式、宗谷も選ばれたそうだよ。おめでとう。』

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