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第五七話 「Shanghai classic」

 昭和15年8月29日。


 世界でも有数の国際港にしてシンガポールとならぶ東洋の秘宝、上海(シャンハイ)市。


 1842年のアヘン戦争にて条約港として開港されて以来、西洋列強の思惑と資本が湯水の如く投入されたこの地は、1865年に香港(ホンコン)に本社を構える銀行が支店を出している事もあり、極東最大の金融と貿易の都市として栄華を極めてきた地だ。イギリス資本の流れを汲む上海の金融界はすぐさまアメリカ資本を対抗馬として呼び寄せ、明治新政府の元に近代国家としての発展が著しかった日本もまた、1871年には香港と上海に敷設された海底通信ケーブルを長崎に延伸させて国際金融界の舞台に参加している。また、「東洋のパリ」の異名をとる上海市は西洋風の建物が各国租界の外にまで及び、舗装された道路を走る自動車はもちろん、夜はナイトクラブやネオンの光りが街に眠りにつく事を許さない。経済、金融、貿易、商業、社交、そのいずれの面でも東京を遥かに凌ぐ、近代的な人間の息吹が絶えない大都市であった。

 しかしそんな中、満州事変を契機として日本と支那の中華民国とは関係が日増しに悪化し、1932年には租界における軍事衝突が発生。租界地の居留民保護を名目とした日本は発端となる日本人僧侶殺害事件の前から既に海軍の部隊を派遣しており、さらには陸軍の部隊も派遣。それに伴って中華民国側も国民党軍を上海へと出動させ、両軍による激烈な市街戦が繰り広げられた。戦車すらも備えた近代的な装備を誇る日本側もクリークが多い上海の地形には前進を度々阻害され、しかも国民党軍の狙撃兵による被害は皇軍の作戦遂行能力を効果的に削いで行くのであった。もっとも一部とは言え火縄銃のような旧式装備をも担ぎ出す程だった国民党軍もまた損害は甚だしく、日本側が陸軍による上海派遣軍を編成して投入すると戦線をジリジリと後退させ、銃声と悲鳴が鳴り響いていた上海の街並みは一ヶ月ほどで元の平穏を取り戻した。しかしこの一連の出来事を租界から間近で目にしていた諸外国は自国の上海における権益の観点から日本をみつめる眼差しを冷ややかな物とし、その胸の奥には強い警戒の念を抱いて支那に対する日本の影響力の肥大化を抑えようという認識をそれぞれが持つのであった。

 そして当の日本は、諸外国の態度が意外にも軟らかい物であった事と、まだまだ建国したばかりで一枚岩として纏まっていない中国の内情から支那への侵出を更に顕著にしていき、1937年の支那事変勃発に際しては二度目となる上海での軍事衝突が発生。日本は海外権益への配慮をしつつも中国側との戦闘は優勢に展開し、その軍靴を沿岸から大陸の奥地へと進めて行った。

 戦闘その物は前回の軍事衝突と同じく熾烈を極めたが、戦線が街並みから遠ざかると上海の町はいつもの賑やかさと近代的な人間達の息吹をすぐに取り戻す。港で荷を担ぐ支那人達の横では綺麗な服を身に纏った西洋人が談笑し、街中では軍服姿のいかつい日本人の男達と入れ替わりに着物を纏った日本人女性が歩く姿もちらほらと見られるようになる。


 立ち込めていた硝煙と血の匂いは海から吹く風によって既に拭い去られ、そこに漂うのは芳しい花の香り。西洋風の建物の群れが一同に顔を向ける海上には各国の国旗を翻した船達が所狭しとその身を浮かべ、絢爛な街並みと供に色鮮やかな景色を波間に映すという昭和15年8月の上海。







 そんな上海港の一角には、高々と軍艦旗を翻した朝日(あさひ)艦が錨を下ろしていた。

 明石(あかし)艦と同じ工作艦である朝日艦からは今日もまた工作機械の唸り声が放たれており、甲板ではそれに負けじと真っ白な軍装の乗組員達が物資の搬送搬入作業に汗を流している。後部主砲塔を撤去している事から広くなっている艦尾甲板には、彼等の額から流れ落ちる汗が輝きをそのままに滲んでいく。そしてその甲板の真下に位置する朝日艦の長官室では、銀縁のメガネを掛けた朝日が机に向かって鉛筆を走らせていた。


 分厚い書類の束の1ページにその青い瞳を向ける朝日は、書かれている内容を一読して頷くと慣れた手つきで書面の下の欄にサインを記す。英国生まれの彼女は誕生してすぐに日本へとやってきた為に、書面に記した漢字はそこらの日本人の若者が書くそれに比べると遥かに綺麗に書かれている。もっともそんな事が既に当たり前となっている朝日は自身の字の美しさなど気にも留めず、小さく肩を上下させて呼吸を整えるとすぐさま次のページをめくって再びその書面へと青い瞳を向けた。

 明石はこのように書類と格闘するようなお仕事など滅多にやらないが、上海方面根拠地隊の旗艦である朝日はその限りではない。なぜなら彼女が旗艦として束ねている根拠地隊の隷下には、世界でも屈指の大きさを持つ上海港の帝国海軍艦艇を管理する上海港務部が置かれているからである。その事から朝日は港内のどこでどの艦がどんな状態にあるかを艦魂におけるお仕事としてしっかり把握していなければならず、こうして各艦艇から上げられる報告書を毎日目に入れなければならないのだ。軍医として仲間の健康状態を管理する事は元より、一端の指揮官としてのお仕事もこなさねばならない朝日の身の上は、教え子である明石や長門(ながと)よりも更に大変である。

 しかし既にこのような毎日にも慣れている朝日は、疲労感を覚えてもそれに対する嫌悪感を胸に抱く事は無い。そしてこの時、彼女を癒すような部下達の息遣いが、朝日の居る部屋には静かに木霊していた。

 鉛筆を握った手を肩に乗せて僅かに首を回す朝日の琥珀色の髪に隠れた耳には、天井に当たる艦尾甲板の上から部下達の元気な歌声が響いてくる。それは人間達と同じ軍歌演習と呼ばれる訓練に励む物で、歌声の伴奏として彼女達が足踏みする音が伴われていた。


『ふふふ・・・。』


 天井に視線を投げて口元を緩ませる朝日はやがて手に握っていた鉛筆を机に置き、背もたれに身体を預けながらその歌声に耳を澄ます。部下の第一掃海隊の艦魂達による明るい歌声はいつもの事だが、朝日の耳に響いてくる歌は軍歌演習の際に歌う海軍の歌ではない。


『『『く〜にを出てから幾月ぞ〜!と〜もに死ぬ気でこの馬と〜!』』』


 響いてくる歌声は掃海隊の4名の隊員の物よりも更に多いが、朝日はその事に驚く事は無い。内地を遠く離れた上海にあっては規則でガチガチに縛られた日常を送る事は無く、まして上海という国際港にはたくさんの船達がいる。当然そこには海軍と供に皇軍を成す陸軍に籍を置いた船もいて、第一掃海隊の部下達は陸軍の輸送船の艦魂達と親交を深める事が間々あった。もちろんお仕事をこなさなければならない昼間に遊ぶような事は出来ないが、軍歌演習の時はこうして一緒の時間を過ごしているのである。まさにいま歌っている歌が、そんな上海における艦魂事情をよく表していた。その歌は最近になって陸軍が作った物で「愛馬進軍歌」という。内地での帝国海軍の日常では、歌うどころか聞く事すらも無い陸軍の歌。それは帝国海軍艦魂社会の一員である掃海隊の者達にとって、これ以上無いくらいに新鮮な物であった。

 そして朝日もまた、陸軍の物だからといってその事を止めさせようという気はさらさら無い。むしろ彼女はこの歌に、兵だけでなく馬に対しても感謝や愛情を示すという日本人らしい価値観の様な物を感じてならず、無意識に歌声に合わせてゆっくりと身体を揺らしているのだった。


『『『う〜まよぐっすり眠れたか〜!明日の〜戦は手強いぞ〜!』』』


 顔見知りである陸軍の輸送船の艦魂達の声も混じった歌と、彼女達の足踏み。それは朝日のいる部屋の空気を乱す事無く、まるでスタンウォークへと続くドアから室内を通り抜けていく風が奏でているようだった。




 するとそんな部屋の中には通路へと通じるドアから甲高いノックの音に続き、部屋の主である朝日とは旧知の間柄である者の声が響いてくる。帝国海軍に嫁いで41年の朝日は、その海軍生活においてずっと供に励んできた彼女の低くトーンの聞いた声を聞き間違える事は無い。すぐさまそれに応えて彼女を室内へと招き入れた。


『朝日〜、いるか〜い?』

『ああ、出雲(いずも)。入って。』


 朝日の声が静まる前に部屋のドアは開かれ、その向こうからは朝日と同じく白い第二種軍装を身に纏った女性が部屋へと足を進めてくる。ちょっと艶の滲みかけた黒髪を前髪も含めて全て後ろに流し、肩を超えたくらいの長さで切り揃えられたその髪には幾筋かの白いラインが見え始めている。口元や目尻には朝日と同じ様に小さなしわが刻まれ、高い鼻と彫りの深い顔立ちはこれまた朝日と同じ少し老いが滲んだ40代の西洋人の顔つき。流暢に話す日本語と身に付けている軍装だけが、彼女を帝国海軍の者であると示していた。


『お、良かった〜。じゃあ早速ティーを入れてもらって良いかな。』

『ふふふ。ええ、いいわよ。』

『なんだかんだで里帰りから帰ってきて会う機会がなかったねぇ、朝日。』


 帝国海軍の総大将である長門がさん付けで呼ぶ程の人物である朝日だが、そんな彼女にこの出雲と呼ばれた女性は敬語を使わずに紅茶を欲してみせる。艦魂も人間もなく世間一般的な社会で言えば失礼に値する彼女の言動であるが、朝日は出雲に笑みを伴って二言返事で了解の意を示すやすぐに椅子から腰を上げ、部屋の片隅でアルコールランプの炎に炙られて蓋をカタカタと揺らしながらその隙間から湯気を発するやかんへと歩み寄っていく。それはこの出雲という女性が、朝日にとってはかけがえの無い生死を供にした仲間であったからだった。


 洋風の装飾と綺麗な木目で彩られた棚からティ−カップや茶葉の詰まった缶を取り出す朝日を、テーブルを前にしたソファに腰掛けて微笑みながら見守る出雲。


 彼女は帝国海軍が明治の時代に建造した出雲級装甲巡洋艦の一番艦、出雲艦の艦魂である。朝日とは同じく明治32年に身を浮かべた仲で、彼女は朝日より半年遅く生まれた。初期の所属鎮守府は朝日が呉鎮守府だったのに対して出雲は佐世保鎮守府であったが、まだまだ艦艇数が揃っていなかった当時の帝国海軍において二人は供に日本を支えてきた無二の親友であった。当時の艦魂社会においては戦艦だの巡洋艦だのといった身分の差は無く、階級にもそれ程まで気を使わなかった事から、彼女達は出会ってすぐに同じ英国生まれの艦魂として大の仲良しとなったのである。もちろん朝日が参加した日本海海戦を含む日露戦役にもこの出雲は第二艦隊旗艦として参加しており、特に蔚山(ウルサン)沖海戦でロシア海軍のウラジオ艦隊を第二艦隊のみで撃破した際には戦艦の艦魂すらも凌ぐほどの高い指揮統率能力を発揮した優秀な指揮官である。


 しかしこのような栄光の日々がこれだけで終りではないという所が、現代の帝国海軍艦魂社会にあっても一目置かれているという出雲の凄い所であった。

 まず日露戦争が終わった直後の明治42年、この出雲は帝国海軍代表としてアメリカで行われたサンフランシスコ到達140周年記念ポートランド祭に参加。世界最強のロシア海軍を打ち破った海軍の艦として、当地から熱烈な歓迎を受けた。そしてポートランド祭には西洋列強6カ国の軍艦も参加しており、その艦の艦魂達に栄えある十六条旭日旗を堂々と披露してやったのだ。元々が英国生まれなだけに出雲は西洋列強の軍艦の艦魂達に対しても英語での応対をしてみせ、艦魂社会における帝国海軍の誇りを社交という観点からも良く伝えてみせたのである。

 次いでその数年後に発生した第一次世界大戦時には、かつての敵であったロシア海軍の戦艦レトウィザン艦改め肥前(ひぜん)艦とコンビを組んで遣米支隊を編成。その軍艦旗を太平洋の果てまでどころか、当時まだ完成したばかりのパナマ運河を通過して大西洋にまで進めたのだ。この当時はアメリカ国内で排日運動が激化しており、艦魂社会においても現地にて協同するアメリカやオーストラリアの艦隊とはイザコザが何度か起こった事もあったが、アメリカ生まれの肥前と完璧な英語を駆使した出雲の二人はそんな中でも見事に一介の海軍艦艇として任務を遂行し、少なくとも艦魂達の間では日本海軍を見る目を変えてみせたのだった。そして遣米支隊の解散後には特務艦隊の旗艦として、今度はインド洋と地中海にも派遣。衰えぬ指揮官としての才を存分に発揮し、帝国海軍の勇姿をヨーロッパ全土へと示した。

 既にこの時で出雲の艦齢は15年を上回っており、戦時で無いならば軍港の片隅でのんびりと錨を下ろしているのが普通である。ところがこの人の国際色豊かで花のある生涯はまだ終わらない。

 地球の反対側でのお勤めが終わるや、大正8年には横須賀沖で行われた第11回観艦式で大正天皇の御召艦を担当。その経歴を飾る花をまた一つ増やし、2年後には兵学校の生徒達を乗せて世界中を旅する練習艦隊の旗艦としてご奉公に励んだのだ。世界を一周する練習航海においても彼女はその才を発揮し、外国での行動に関しての豊かな経験を生かして世界各国からの船が集まったブラジル独立100周年記念式典に参加。その途中で艦隊旗艦の立場を実の妹の磐手(いわて)へと譲りながらも、10年近くにも渡る練習艦としての任務を良く全うした。

 この頃になると日本はワシントン海軍軍縮条約による決定から主力艦の整理が始まり、朝日もこの時に武装を撤去されて特務艦艇とされ、出雲と供にアメリカ西海岸の波間を駆けた肥前もまた標的艦とされて処分された。この時既に出雲の艦齢は25年近くに及んでおり、当然のように彼女もまたなんらかの処置が施されるか標的艦として処分されると覚悟した。新鋭戦艦の土佐(とさ)艦すらも標的艦とされていたのだから、決して無理の無い話しである。

 しかしこの人は違った。もはや悪運とすらも言えそうな程の彼女の生涯はまだまだ終わらない。

 しばらくの間は海防艦という艦魂の老兵としてのお役目に就いていた彼女は昭和7年の第一次上海事変勃発に際し、なんと支那方面を担当する第三艦隊の旗艦に抜擢されたのだ。既にその身を水に浮かべて30年だった出雲艦だが、艦隊旗艦設備として作戦室を新たに設置すると直ちに華北方面に出動。当地における警備の任務を行いながら、2年後にはなんと当時では戦艦ですらも未装備であった航空機搭載設備を増設。その後はしばらく内地での任務を遂行しながらも、昭和12年の支那事変勃発に際してはまたまた第三艦隊旗艦として上海を拠点として行動した。その後、出雲が属する第三艦隊は所属部隊がネズミ算式に増えた事から支那方面艦隊へと改称。その立場も軍令部指揮下とされ、なんと連合艦隊と同格となったのだ。その戦力も一時は本家である連合艦隊を上回る程で、そこにいた部下達を今も指揮し続けているのがこの出雲なのである。


 こんな経歴を見るだけでもそこらの人間の海軍軍人よりも遥かに凄いというのに、この人はさらにこれに加えて武勇伝も数多い。中でも圧巻なのは上海に進出したばかりの昭和12年8月の出来事。

 この月の14日、上海上空には中国空軍の爆撃機が10数機も飛来して来たのだが、これを認めた出雲艦と神通(じんつう)の姉の川内(せんだい)艦からは九五式水偵が発艦。上空での迎撃戦に参加し、進入高度や飛行航路、効果的な対空弾幕という条件に支えられながらも、なんと2機の撃墜を記録したのである。そしてこの二日後の16日には上海港内に中国軍の魚雷艇が出現し、停泊していた出雲艦へと雷撃をしかけて来た。誰もがその時、栄えある出雲艦の生涯もさすがに終わりだと思った。しかし帝国海軍の艦魂の中でも超がつく程の天才である彼女は、その悪運の良さも手伝ってか発射された2本の魚雷を回避。それどころか日本海海戦以来30年以上も経っているにも関わらず、彼女の分身に供えられた備砲が火を吹くやなんと魚雷艇を返り討ちにしてしまい、未だ衰えぬ戦闘艦艇としてのその実力を港内にいた仲間達の目にしっかりと焼き付けさせたのだった。




 鼻歌交じりでソファにて組んだ足を動かす出雲は、朝日に比べれば歳の割に落ち着きが無い感じがある。白髪も混じっているブルネットの髪としわが消えない出雲の顔には40代という年齢に相応しい老いという物が滲み出ているが、それに反して明るく砕けた若々しい性格をもつのがこの出雲という艦魂であった。朝日と同じく西洋人独特の肩幅の広い身体つきを持つ彼女だが、朝日がテーブルへと差し出したカップに目を輝かせて手を伸ばす出雲の仕草には子供っぽさすらもある。朝日は自分の分のカップを持ちながら彼女とはテーブルを挟んで向かい側に位置するソファへと腰を下ろすが、その傍から出雲は友人の様に余韻を楽しむかのような飲み方をせずにグビグビと紅茶を喉に流し込んだ。


『ん〜、んまい。』

『少しは味わいを楽しみなさいよ。これでも味と香気を調えるのに苦労してるのよ?』


 出雲の行動に対して注意を促す朝日だが、その口元が一層緩んでいる事から彼女が不機嫌では無い事は明白だった。同じ英国生まれの船の命として日本の海で出会った頃と今の出雲には容姿以外の変化点がまるで無く、その事は無上の可笑しさを朝日の心へと与えるからだ。そして朝日に対して返って来た出雲の言葉は、相変わらずである出雲の様子を朝日に更によく伝えてくれる。


『かぁてぇ事言うなよ、朝日〜。ホントんまいわ、ん〜。』


 元来より真面目な性格の朝日にとっては、緩さ全開の言葉遣いと性格の持ち主である出雲との会話は正直ちょっと疲れを生んでしまう。だが決して朝日は出雲が嫌いなわけではない。日本海海戦を始めとする数々の任務において、この出雲がどれほどに優れた能力を持つ艦魂なのかを彼女はその碧眼に何度も映してきたからである。

 戦場での的確な指示は勿論の事、今は滅多に身体を動かさなくなったのは朝日も同じであるが、若い頃の出雲は運動神経がとても良く、その上でしっかりとした道徳観も持っていておまけに朝日をはるかに凌ぐ博識さも持つ。

 カップを上から鷲掴みにして口に近づけつつお尻の辺りをガリガリと掻いている今の出雲の姿からは想像できないが、彼女は国際色豊かな経歴が示すように語学においては人間も顔負けなほどに秀でているのだ。もっともそれは出雲の経歴もさることながら、彼女達を含む当時の帝国海軍の艦艇の事情にも因る所が大きい。

 英国出身である彼女は英語はもちろん完璧に話す事が出来るのであるが、他の異国生まれの艦艇達と同様に日本生まれの艦艇達から日本語を学び、さらにはフランス出身の同期である吾妻(あずま)艦の艦魂からフランス語を、ドイツ生まれで朝日と同じく明治32年生まれの同期である八雲(やくも)艦の艦魂からドイツ語を、日清戦争が終わってから帝国海軍へと編入された先輩である鎮遠(ちんえん)艦の艦魂から支那語を、イタリア生まれの後輩である日進(にっしん)艦の艦魂からイタリア語を、そして激闘を繰り広げつつも後には供にアメリカへと出張した肥前(ひぜん)艦の艦魂からロシア語を、といった具合に実に7ヶ国にも及ぶ言葉を身に付け、しかもそれを分け隔てなく流暢に操る事が出来るのである。もちろんそこには大変に熱心に勉強へと打ち込んだ出雲の不断の努力があり、ただの歳の割に弾けた女性なのではない。

 この才能は国際港として世界中の船が集まる上海にあっても有効で、出雲は世界中から集まる船の艦魂達と直接声を交える事ができる。故に上海における艦魂の社交界では、この出雲を知らぬ者はいない。そして冗談好きでひょうきんな彼女はすぐにどんな国の艦魂とも仲良しになってしまい、まさに上海における艦魂達の生き字引的な存在であった。これは朝日ですらも成し得ない事である。


 やがて出雲は笑みを絶やさぬ友人に応えるかのように笑うと、すぐにその低い声で朝日の近況を尋ねてきた。


『どうだった、呉? 知ってる範囲で良いんだけど、みんな元気だった?』


 帝国海軍の艦艇は大小含めて数百隻にも登るが、朝日は出雲が口にした「みんな」という言葉が挿す者達をすぐに察する。もちろんそれは、時に笑いながら、喧嘩しながらも、同じ軍艦旗を砲弾が飛び交う空に高々と掲げた日露戦争時の仲間達の事である。朝日は両手で持ったカップを手の中でゆっくりと回しながら、笑みを変えぬ事は無いながらもちょっとだけ瞳を細めて口を開く。二人の昔を懐かしむ会話には、当然の様に大輪の花が咲いた。


『磐手も八雲も元気よ。二人ともまだ兵学校の練習艦として頑張ってるわ。浅間(あさま)は5年前の座礁で竜骨を痛めてからは、ずっと呉で繋留されてるわ。まあ元気そうだったけどね。』

『へ〜。磐手達、まだ練習艦やってたのかぁ。』


『ふふふ。常盤(ときわ)なんかもっと元気よ。3年も掛かった近代化改装が春頃に終わってからは特にね。その証拠に、今は南洋のトラックまで出向いて任務に就いてるんだから。』

『はっはっは。そういや10年前に映画に出演した時も張り切ってたね。金剛(こんごう)達がドン引きしてたなぁ。』


『ふふふ。後は聞いた話だと、舞鶴の吾妻や、横須賀の春日(かすが)対馬(つしま)、それから富士(ふじ)先輩も元気だそうよ。』

『そうか・・・。はは・・・。みんな、元気か・・・。』


 この数年の間は一度も本国に帰っていない出雲は、朝日の言葉に苦楽を供にした仲間と妹の健在を確認してちょっとだけ明るさが消えた声でそう言った。いつも元気に任務へと当たる出雲を40余年間ずっと見てきた朝日だが、昔は絶対に人前で見せる事はなかった出雲の寂しそうな表情がすぐに解った事から、彼女の身体の中から滲む老いの欠片を明確に感じ取った。舌の上を流れていく紅茶の苦さが際立つ出雲は、僅かに顔を歪めて遠い瞳をテーブルの上に投げている。


 歳をとったなぁ・・・。


 瞳に写った友人の姿を目に入れて感傷に浸ると同時に朝日は自身の姉妹の事を思い出しており、やがてそんな自分に気付いて眼前の友人と同じく老いという物を実感する。すると朝日もまた突如として紅茶の苦さが妙に気になりだし、彼女は珍しくテーブルの中央に置いていた砂糖の瓶に手を伸ばしてカップの縁で僅かに傾けた。

 朝日の手の中でカップと瓶が触れる音が放たれ、部屋の中にあった寂しげな沈黙をかろうじて払われる中、出雲は脚を組みなおすとどこかわざとらしく表情を明るくさせて朝日に話しかける。もちろん出雲のそれは昔話が生む寂しさを嫌い、最近になって生まれたであろう自分達の後輩のことを尋ねたというのが真相であった。


『どうだい朝日、新参の奴らは? この数年でかなり増えたんだろ?』


 低いながらも弾むような声で話題を振ってくれる出雲。朝日の中では出会った頃とちっとも変わらぬ友人のクセであったが、今の朝日はその声に深く感謝して笑みを浮かべる。その40余年に及ぶ生涯の中、常に精一杯の心配りを仲間達に与え続けてきた出雲の健在ぶりを改めて理解できたからである。それは常に先頭に立って帝国海軍にご奉公してきた出雲の強さであり、朝日を含めた同年代の艦魂達の誇りでもあった。

 肩に掛かる栗毛を後ろへと流しつつ、朝日は寂しさが完全に消えた笑みで出雲の問いに答える。


『ええ。ずいぶんと増えたわよ。特に駆逐艦と敷設艦の子達がね。』

『ほぉ。最近は補助艦艇の類が多いんだな。』

『そうね、私達が戦場を駆けてた頃は・・・。あ─。』


 突如として朝日はそれまで軽快に放っていた声を打ち切った。出雲はその事に目を丸くして友人の顔を覗き込むが、朝日はその表情を曇らせてはいなかった。すぐにまた口元をしわを伴って引きつらせると、ちょっとだけ腰を折って出雲に顔を近づけながら声を発する。


『出雲。明石を覚えてる?』

『あかし・・・?』


 朝日の問い掛けを受けた出雲は頬を掻きながら天井に視線を流して記憶を漁り、朝日がなにか含んだ笑い声をあげると同時に、出雲は彼女が口にした名を持つかつての仲間を思い出した。


『あ〜あ〜、二特(※第二特務艦隊)の明石か。ほら、須磨(すま)の妹の。』

『ふふふ、そう。その明石よ。』


 ようやく名を思い出した出雲だが、彼女は名前だけでなくその顔もハッキリと記憶の奥から蘇らせる事が出来た。なぜなら第一次大戦時の海外派遣時代、出雲が艦隊旗艦を交代するべく地中海へと向かった先で合流した第二特務艦隊の先代の艦隊旗艦が明石だったのである。だが出雲の持つ明石という名の艦魂の記憶は、決して先任の艦隊旗艦という物だけではない。


 というのも、実は彼女達の世代の帝国海軍艦艇の中において、出雲の知る明石は数少ない日本生まれの艦艇であった。まだまだ国産の軍艦が作れなかった当時の日本において、艦魂社会もまたその殆どが朝日や出雲のような外国生まれの者達によって率いられており、日本生まれの艦魂達はどちらかというと彼女達に近代海軍の何たるかを学ぶ教え子のような扱いであった。ところが出雲と朝日が知る明石という艦魂は明るく天真爛漫な性格とは裏腹に強い信念を持ち、時には外国生まれで立場も上の朝日や出雲に対して堂々と意見をする所があったのだ。朝日の実の姉にして帝国海軍の艦魂の中でも有名な土方(どかた)型の性格であった敷島(しきしま)とは衝突する事が日常茶飯事で、時には殴り合いににまで発展した事だってある。

 故に色んな意味で出雲は明石の名を覚えていたのだった。


 しかし朝日がその名を出した事に含んでいる根本は、出雲が知る明石の事とはちょっとだけ違う。もちろんそれはかつて供に戦った仲間としてではなく、現在教え子として彼女の弟子となっている者の事である。それが解らない出雲はふと何故に朝日が明石の名を出したのかと不思議そうに聞いてくるが、朝日はそのなんとも奇妙なこの世の縁という物に可笑しさを覚えて笑いながら答えた。


『あれ? でも明石は10年前に、標的艦任務に就いたんじゃなかったかい?』

『ふふふ。それがね、新しく生まれた私と同じ工作艦の子、明石って名前を付けられたんだけど、もう本当〜にソックリなのよ。昔の明石と。』

『へ〜〜。金剛や比叡(ひえい)は似てなかったけど、明石は似てるのかぁ。こらまた変な話だねぇ。ははは。』


 朝日の笑い声に触発されたかのようにして出雲も笑い出し、同時に二人は昔話で盛り上がる事の無い今という瞬間を心の底から喜ぶ。

 日本から遠く離れた地でのご奉公において、二人は目覚しい発展を遂げていく日本を目にする事が出来ないことから、口には出さないながらも何か時代に取り残されていく感をこもごもの胸の中に常に抱いてるのだ。もちろんすっかり古くなった自身の分身では、大砲で撃ち合うどころか艦隊行動すらも満足にできない事は良く解っている。だがそれでも上海の波に揺られている日常の最中、ふと軍艦旗と将旗を高々と掲げて国民の万歳に応えていた頃の記憶を思い出す事が多々あった。近代になって生まれた艦魂達と話してもちょっと話題が合わないというのはしょっちゅうだし、桟橋や泊地に停泊していても子供達がこぞって見に来る事などここ数年は皆無に等しい。

 だがそんな中でかつての仲間と同じ名前を持つ最新鋭の艦艇の事を語れる事は、二人を心を少しの間だけ現在(いま)という時の流れに浮かべてくれる。


 開け放たれたスタンウォークへと通じるドアからゆっくりと流れ込んでくる上海の潮風に髪を揺らし、柔らかに漏れて来る陽の光にお互いの青い瞳を輝かせて再び会話に花を咲かせる朝日と出雲。

 そしてそんな二人の姿と声からは、それまで滲み出ていた老いという物がちょっとだけ消えていた。


『しゃべり方までそっくりなのよ。ふふふ。』

『ははは。そうなのか、一度会ってみたいなぁ。上海にこないかねぇ。』



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