第五六話 「嬉しい通達」
昭和15年8月15日。
朝を迎えたばかりの横須賀海軍工廠は課業始めの号令がかかった直後であり、本日も蝉達が連呼する万歳に負けず劣らずのけたたましい機械音を辺りに木霊させる。日が昇るまで振っていた雨も止んで8月の真っ只中にしては過ごしやすい気温であったが、横須賀の空からはどんよりとした色合いの雨雲が消えておらず、昼を過ぎる頃になるとその日は蒸し風呂の様になる事を空から読み取る人は多い。
しかし工廠の沖合いで錨を下ろす神通艦の艦上にいる明石と神通は、そんな空を煩わしく感じる事も忘れて南の洋上に向けて手を振っていた。まるで千切れんばかりに両腕を大きく左右させる明石の横で、神通はいつもの尖がった目に僅かに緩んだ口元で表情を作り、明石と比べると控えめに肩の高さで小さく右手を振る。そんな二人が顔を向ける南の洋上には、いよいよ海軍所属の艦艇として初めての任地へと旅立とうとする宗谷艦の姿があった。
『宗谷〜〜!』
大きな声で彼女の名を呼んだ明石の瞳には、颯爽と東京湾の風に靡く軍艦旗を艦尾に従えた宗谷艦と、その軍艦旗の下で手を振って明石の声に応えてくれる宗谷の姿が映る。
宗谷の手の動きには弱々しさなど微塵も無く、彼女の背後にある煙突から巻き上がるわだつみの龍と一緒になってその健康さを明石へと伝える。もちろん軍医としてその経過を見守ってきた明石も既に宗谷の身体に対しては心配などしておらず、元気に白波を掻き分けて行く宗谷の旅立ちを心から祝福していた。
『頑張って〜〜〜!!』
マストの辺りで囁くカモメ達を黙らせる程に明石は大きな声で叫び、その声はもちろん宗谷にもしっかり届いている。やがて宗谷は頭上にて振っていた右手を下ろすと、芯が通ったかのように身体を真っ直ぐに伸ばして右手の指先を額に添えてみせる。それは明石も神通も初めて目にした宗谷の敬礼であった。
『ふふふ。張り切ってるね、宗谷。』
『ふん。』
明石の笑みを伴った言葉にも神通は例に漏れずにいつもの口癖を返すのみであるが、その口元が先程よりも一層吊りあがっている事が彼女の心の内を表している。その内にふと神通は宗谷に笑みを向けたまま、おもむろに右腕の肘を指差してみせる。それはまだまだ海軍式の敬礼が身に付いていない宗谷という友人に向けた、神通なりのささやかな優しさと教えでもあった。宗谷もまた神通の仕草からすぐに彼女が言わんとしている事に気付き、肩の横に突き出していた右腕の肘を縦に傾けて再び敬礼する。すると宗谷は静かに別れの言葉を口にし、神通はまるでそれが聞えていたかのように声を放つのであった。
『行って参ります。有難う御座いました。』
『・・・じゃあな。』
神通と明石が微笑んで見守る向こう、遥かに続く大海原に宗谷艦の真新しい軍艦旗は霞んで行った。
暫くの間、二人は艦影が小さくなっていく友人の姿を眺めていたが、ふいに明石は溜め息を放つとお尻に手を当てて僅かに身を屈める。無事に患者を元気にして送り出せた彼女の身の上を考えるとちょっと疲労の色を覚えたのかとも思えるが、それは宗谷の治療に関して発生した疲労ではない。やがて神通が隣でお尻を擦る明石に気付いて短い笑い声を放つと同時に、明石は先程までの笑みが嘘のように瞳を吊り上げて神通を睨む。すると神通はすぐさま明石の様子に心当たりを覚えるが、それに対して彼女に頭を下げようという気は起きない。
『ふん。痛いか?』
『あ、当たり前じゃない・・・。あたた・・・。』
つい昨日まで続いていた神通による明石の身体能力強化の特訓。それは神通が普段から部下達を鍛えている日常に明石が加わっただけの事なのであるが、今までそんなに体力勝負となるような事態を経験した事が無い明石にとってはまさに地獄の日々であった。しかも友人である事から神通は遠慮という言葉など微塵も脳裏に浮かべる事はなく、むしろここぞとばかりに面白がってベッチンベッチンと明石のお尻を竹刀で叩くというのだから、明石が腫れあがったお尻を擦るのも無理の無い事である。もちろん神通がただ自分を虐めようとしているつもりが無い事は明石も解っているから、ヒリヒリと痛むお尻の責任を真正面から彼女に求めようとはしない。何より宗谷の治療が終わった今日という日に、その地獄の日々も終わりを迎えていたのだ。
『まあ、おかげでそこそこ体力はついたんだ。感謝して貰いたいくらいだがなぁ。』
『ど、どうもねっ!!あ、あいでぇ〜・・・。』
神通を睨みながら荒っぽい言葉でお礼を口にする明石だったが、彼女はすぐさまお尻に走った激痛に顔を歪めて俯き、それを見た神通はどこか勝ち誇ったような声で笑い出す。明石はその笑い声を耳に響かせながら、痛みが消えるまでひたすらに自分のお尻を撫でるのだった。
ちなみにこの数日で受けた神通の愛の鞭により、明石のスリーサイズの一番下の数字は1センチ大きくなっていたりする。
『あ、戦隊長。明石さん。』
その時、ふと明石と神通に背後から声が掛けてられてきた。その声は二人にとっても聞き慣れた声で、特に神通にとっては毎日耳にしている物。故に彼女は背を向けたまま既にその主に見当をつけており、振り返りながらも彼女の名を含めて声を返す。
『どうした、霰。』
『お、霰ぇ。』
おっかない顔つきで顔を向ける神通だが、その隣では対照的に持ち前の綺麗な笑みを浮かべて霰を迎えてくれる明石の顔がある。律儀で礼儀正しい霰はそんな明石の笑みに応えるようにして小さく会釈を返すと、すぐさま上司である神通に顔を戻して口を開いた。
『艦隊旗艦より、各戦隊長級の艦隊幹部に召集が掛かりはったどす。高雄少将の元へ出向なさっておくれやす。』
『召集か。ん、解った。』
『なんだろ?』
明石も神通も突如としての召集が掛けられた理由は思いつかなかったが、行けば解ると考えた二人はすぐさま高雄艦に身体を向けて白い光りを放ち、伝達してくれた霰の苦労を労うように手を上げてやりながらその身を高雄艦へと移した。
第二艦隊に属する艦隊幹部級の艦魂達が打ち合わせの場として集う高雄艦の長官室。
常に清潔に保たれている真っ白なテーブルクロスや椅子のカバーに表情を明るくしつつ、集まった各戦隊の戦隊長達と明石は室内にて雑談しながら艦隊旗艦の愛宕が来るのを待っている。非常食として積み込まれながらいつも大量に余剰品と化す乾パンを盛った大皿を机の中央に置き、各々がそれに手を伸ばして口に放りながら語り合うその光景は、緊急招集を受けた彼女達がそれほど緊張感を抱いていない事を示おり、そこに響く彼女達の明るく軽い感じがする声でのやりとりはそれを更に明確にする。明石とその両隣に腰を下ろした那珂や神通も口元を緩め、その空気を楽しむかの様にして時間を潰しているのであった。
そんな3人とは長机を挟んで向かい側に座る仲間内では、同じく明るい部屋の空気を楽しんでいる利根と五十鈴の姿がある。しかし楽しんでいるのは五十鈴のみで、利根は艦隊の最年長者である先輩の意地悪に涙目になって声を上げているというのが実情だ。
『か、返してください、五十鈴大尉!』
『だまらっしゃいっと。おほっ、やっぱりオトコの写真だ!』
神通よりも2歳程年上である第三潜水戦隊旗艦の五十鈴は20代も後半に差し掛かった歳の頃の顔つきで、180センチにも迫るほどの大柄な身体つきと少し垂れた目尻が特徴の艦魂である。丸いおむすびの様な頬の輪郭に沿った短髪で、綺麗に尖がった顎がその整った顔立ちを一層引き立てる美人。しかしその経歴は百戦錬磨の神通すらも凌駕するほどの実戦経験を持っており、竣工から二週間で関東大震災における救難活動に従事した事を皮切りに主に支那沿岸での行動に活躍してきた帝国海軍きってのつわものの一人である。特に華南や青島を任地とした行動はその艦生の大半を占めており、その時に造詣を深めた大陸やその沿岸の海域に関する知識は人間も顔負けする程。帝国海軍の艦魂社会においても指折りの"支那通"であった。
そしてその性格はとてもひょうきんで、階級が低い駆逐艦や敷設艦、特務艦の艦魂達からの信望も厚い。いつもムスっとしていて無愛想な後輩の神通とは仲が悪いが、明石や那珂とも気軽にお話をしてくれる気さくな艦魂である。もっともその困った所に、今の様に後輩の色恋沙汰を面白がって冷やかすという癖があった。
『ほっほ〜。良いオトコ〜。』
『返してくださいっ!!』
『な〜にが返せだ、色気づきやがって〜。』
意地悪な五十鈴は利根が伸ばしてくる腕をかいくぐりながら、写真を手にした腕を頭上に伸ばして皆に見せびらかす様にしてニヤニヤとしている。小柄な利根では五十鈴が椅子に腰掛けているにもかかわらず、その頭上にまるで旗竿の軍艦旗のように翻した写真を奪還する事が出来ない。虚しく宙を舞う利根の手を意にも返さず、五十鈴はわざとらしく大きな声で写真に写る士官服の男の事を尋ね始める。
『利根ちゃん、こらだあれ?』
『お願いです!か、返してください!!』
『あははは!教えてくれなきゃ返してあげない!』
今にも泣き出しそうな顔で必死に懇願する利根だが、五十鈴はそんな後輩の顔を見るのが面白くて面白くて仕方ない。もっともこの五十鈴はただの意地悪な女性ではなく、仲間内でも特にこの利根を可愛がっているからこのように接しているのである。次第にベソを掻き始めた利根の事はちょっと可哀想に思いながらも、それを知っている第二艦隊の面々は『返してやりなよ。』と小さく呟くものの身体を張って止めるような事は無い。明石もまた世代も階級も近い利根の事を気の毒に思いながら、同時にかつてはこうして五十鈴に相方との仲を冷やかされた事を思い出して可笑しさを覚えてしまうのだった。
だがその時、意外な人物が五十鈴の背後に立った事に部屋にいた全員が笑い声を押し殺す。突如として背後に感じた気配に五十鈴も気付いて振り返ろうとするが、その人物は五十鈴が顔を向けて来る前に彼女の手から写真を引き抜いた。
『ふん・・・。』
『・・・・・・。』
『じ、神通中尉〜・・・。』
いつの間にか隣の席から立ち上がって机の向こうまで移動していた友人に明石が驚きの表情を浮かべる中、神通は無言で眉を細める五十鈴に持ち前の鋭い釣り目で睨み返すと、一度手にある写真に視線を落としてからそれを利根の手に渡してやった。
すっかり両目の縁からボロボロと涙を溢している利根は、お礼も口に出来ずにそそくさと写真をポッケにしまいこむ。普段から口の利き方に関しては厳しい神通の前でのそれは、いつもならげんこつを伴ったお叱りの恰好の口実とされる。しかし、神通はその事で利根を咎める事は無かった。軽く利根の肩に手を乗せると、二人の横で鋭い眼光を放っている五十鈴を無視するかのようにして自らの席へと向かおうとする。
『・・・たく。つまんない奴って嫌だわなぁ。』
背後から響いてきた好きになれない先輩の声を受け、神通は歩みを止める。もはやこういう姉の様子に慣れている那珂が気付かれないように椅子から腰を上げて姉の傍へと近づいていく最中、神通は何の遠慮もなく五十鈴に鋭い眼光を投げつけて口を開く。
『文句があるならかかってこい、ババア。』
他人に対しては口の利き方を説く神通は自身のそれを直そうとしない。五十鈴の意地悪の度が多少酷い事も問題だが、神通の歯に衣着せぬ物言いも問題である。既に那珂によって袖を掴まれている神通が握り拳を作って構える前で、五十鈴は背後に近づきつつある隣の席に座っていた五戦隊の那智を従えて椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がる。当然彼女の顔には眉を吊り上げた鬼の形相があった。
『なにい!!このガキ、もう一度言ってみろ!!』
『おう、何遍でも言ってやる。かかってこい、ババア。』
火に油という言葉を知っていながらも、持ち前の度胸の良さから大尉の襟章を身に付けている五十鈴に対してすら暴言を吐く神通。すぐさま彼女の肩口から手を滑り込ませて行動の自由を奪う那珂だが、今の神通はそんな妹の気心などただの一瞬も脳裏に過ぎらせる事は無い。そしてそれは那智によって羽交い絞めにされながらも飛び掛かろうとする五十鈴もまた同様である。
普段から自分を敬う事も無く、艦内の通路ですれ違っても挨拶もしない。小馬鹿にしたような態度で睨みつけるような視線を持つ神通という後輩が、五十鈴は昔から大嫌いなのであった。
『おい!何してる!』
険悪な空気と二人の荒くなり始める息遣いが支配していた室内に、ようやく会議の場へと姿を現した愛宕を従える高雄の声が響く。神通や五十鈴から見れば年下である愛宕と高雄だが、第二艦隊の旗艦を竣工時から約束されている二人の声と視線には司令官としての威厳が満ち満ちており、神通と五十鈴はお互いに舌打ちをしながら自らの席へと戻っていく。同じ5500トン型とされる艦の艦魂同士であるにも関わらず仲が悪い。それがこの第二艦隊の神通と五十鈴の長く続く関係であり、決して仲良しこよしではない帝国海軍艦魂社会における実情の一端であった。
やがて席を立っていた者達がそれぞれの椅子の前に戻るや、長机の端っこにて踵を揃えた摩耶の声が響き、緊急の戦隊長会議が始まりを告げる。
『艦隊旗艦に敬礼。』
緊急の会議であるにも関わらず愛宕の表情に険しさが無い事に、明石を含めた艦魂達は議題とされる事案がそれほど深刻ではない事をすぐに察していた。そして愛宕は挨拶もそこそこにすぐさまその議題を口にし、耳にしていた者達は一様に驚きの声を上げる。どうやらそれは同じ高雄型の巡洋艦として常に落ち着いた雰囲気を纏っている摩耶にとっても例外ではなかったらしく、首の後ろから左肩を通して胸の前へと流した自身の長い髪を撫でながら愛宕が放った言葉を聞き返す。
『紀元2600年記念、特別観艦式・・・?』
『うん。日時は10月11日。場所は7年前の大演習観艦式と同じ、横浜沖だそうだ。』
愛宕が口にしたそれは帝国海軍において3年おきに実施される、所属艦艇と乗組員による一大祭典「観艦式」であった。
人里離れた山奥の演習場や刈入れの終わった田圃で実施する陸軍の演習と同じく、帝国海軍の演習は一般の貨客船の運航に支障が出ないように沿岸を離れた遥か沖合いで行われる。当然それを目にする事が出来る一般人というのは殆どいないのだが、海軍では演習が終わると集結と出発の地である港湾に戻って観艦式を行うのが恒例であった。特に帝国海軍の観艦式は「移動式観艦式」という世界的にも珍しい形態の観艦式で、海上で隊列を組みながら速度差がまるっきり違う航空隊とも連動して行うという事から大変に高い錬度が求められる物なのである。また、思い通りの航跡を描く事が出来る操艦技術は勿論、戦隊や駆逐隊単位での纏まった運動に重要な現場指揮官達の指揮統率能力、独立した艦隊同士の日程から使用する港湾と付近の民間船舶の航行にまで及ぶ組織と組織の間における調整能力、航空隊との連携を図る為の通信技術など、求められるのはただの船の集団としての精強さではなく、海軍という一つの組織としての極めて高い次元で確立された総合力。それは決して5年や10年で身に付けられる物では無く、日清戦争以来培ってきた伝統と実力を代々受け継ぐ帝国海軍だからこそ実現できる物なのだ。
そしてそんな栄えある帝国海軍の観艦式は拝謁艦の役割を担う艦艇に民間人を乗せて臨席させ、なんと天皇陛下までもご出席なされて行う盛大な海軍のお祭り。例えその姿が人間達の目に留まることが無くとも、参加する艦艇の艦魂達にとっては首を長くして待っていた"晴れの日"なのであった。
故にどよめきと、先程までの険悪な空気が嘘であったかの様な明るさが室内に充満するのも無理の無い事であった。
まだ一度も観艦式に参加したことも無ければそれを見た事すらも無い明石は、すぐさま隣にいる神通の袖を引っ張ってその詳細を知ろうとする。ひそひそと声を放つ割に興味を持つとついつい身体に力が入ってしまう明石は神通の身体が揺れてしまう程に袖を引っ張るが、神通はそれに対して眉を吊り上げる様な様子は見せずに小さな声で答えてやる。
『神通、神通。』
『ん、なんだ?』
『前の観艦式って何時だったの?出た事あるの?』
『前の観艦式か?前のは4年前の今頃に大阪湾でやったな。もちろん私も出たぞ。前のは例年に比べると随分と規模が小さな観艦式だったが、まあそれでも参加艦艇は100隻もいたからな。中々に気持ちが良かったぞ。』
『おお〜〜。』
目を爛々と輝かせて音を鳴らさないように手を叩きながら喜ぶ明石。湧き上がる好奇心の果てに目に浮かんだ勇壮な光景は、満艦飾を施した自身の分身の色鮮やかな姿。神通によると昼は満艦飾で彩った後、夜になると今度は電飾を施して夜空にも負けぬ姿で桟橋に停泊できるのだという。普段からねずみ色の軍艦色のみしか身に纏っていない帝国海軍艦艇の端くれである明石にとって、その光景は待ちに待った自身の綺麗な姿を存分にお披露目できる事を示していた。
しかし明るい部下達に笑みを溢しながらも、ふと愛宕はその声にどこか寂しさを混ぜて口を開く。即座にその変化を感じ取った摩耶と高雄だが、その理由を知っている事から特に動揺する事無く声を返した。
『四戦隊からは高雄が先導艦として参加する。』
『私は時期的にちょうど整備入渠、残念です。でも愛宕姉さんも不参加なんて・・・。』
『愛宕だって私と同じ様に改装は終わってるのにね。』
『まあ、仕方が無いよ。人間達が決める事だ。』
二人のやりとりに長机の両脇に並んだ者達はそれまで発していた明るい声を押し殺し、明石もまたその表情から一瞬にして笑みを消している。
実は愛宕の言葉が示している通り、海軍最大の催し物である観艦式には海軍艦艇の全てが参加できる訳ではない。各艦隊、戦隊から選りすぐりの艦艇が人間達の基準によって選出されるのであり、そこには艦の命たる彼女達が意見できる場など無いのである。大抵は最新鋭の艦艇は優先して参加資格を得る事が出来るのだが、普段のお勤めの成績から古参の艦艇にも参加資格が与えられる場合がある。
明石も首を捻ってその事を考えていた中、長机の上座に程近い位置の席に腰掛けている那智が手を上げて愛宕に問いかける。ちょっとかすれた感じの声で那智が放った言葉とそれに返される愛宕の答えは、明石が首を捻っている事に対する例を示してくれるのだった。
『艦隊旗艦、既に決定済みの参加部隊や艦艇はあるのですか?』
『ああ。第二艦隊からは八戦隊と七戦隊の参加が決定してるよ。』
愛宕の声が響くや、長机の端っこにてちょこんと座っている利根が妹の筑摩と手を取り合って喜びの声を上げる。明石と同じ世代の二人は帝国海軍の中でも新顔で、仲間内での扱いはまだまだ小さい。八戦隊の戦隊長という肩書きを拝しながらも、先程の様に先輩による意地悪の餌食とされるのは日常茶飯事である。だがそんな中でも人伝に耳にしてきた観艦式への参加決定は、二人の身体の奥底から無常の喜びを沸きあがらせるのには十分。何よりこれまで彼女達は最新型巡洋艦という事で一般公開もまだされた事が無く、正式に海軍より国民へとお披露目されるのはこの度の観艦式が初めてなのだ。そしてそれは最上型二等巡洋艦で編成される七戦隊の面子にとっても同じ事であり、最上とその妹達はそれぞれの肩や腕に手を触れ合って小さな声で喜びを分かち合っていた。
『あとは恐らく二航戦も参加になると思う。』
そう言った愛宕は摩耶の隣に腰掛けている飛龍に顔を向ける。
『飛龍、初めてのお披露目だよ。体調を崩さないように。』
明石や利根と同じ年代であるにも関わらず口数の少ない性格の飛龍は、伏せ目がちにして愛宕の言葉に小さく会釈を返す。その静けさは部屋の中でも少し浮いた感じさえ漂わせており、愛宕はほんの僅かに笑みを歪ませながら頷いてやる。
だがその時、愛宕は自身の放った言葉によって、もう一人の観艦式参加決定者がこの場にいる事を思い出した。ハッとしながらもその事を伝える事によってその人物がどんな表情を浮かべるかを容易に想像できた愛宕はすぐさま笑みから歪みを直し、飛龍から右へと視線を流していく。何人かの仲間達の顔を通り過ぎたそこに彼女を見つけ、ちょうど視線が合った事から愛宕は明るい声でその事を伝えてやる。
『明石。君も参加決定。』
突然の嬉しい知らせを耳にした明石は、椅子を後ろに倒しながら立ち上がる。その顔に大きく瞳を輝かせる明石の表情は予想通りで、愛宕はまるで明石とその喜びを分かち合うかのようにして自身もまた広い歯を覗かせる。
『拝謁艦にも選ばれてるから、なるべく艦体は綺麗にしておくと良いよ。』
『はいえつかん・・・?』
笑みを維持しながらも愛宕の口にした言葉がよく解らない明石はそう呟くと、すぐに隣にて椅子に座っている神通の袖に手を伸ばしてその事を尋ね始める。愛宕と同じく、友人として明石のお披露目を心から祝福しようとする神通は、明石の問いかけにすぐに察しをつけてその解答を与えてやる。
『神通、神通・・・。』
『拝謁艦ってのは、観艦式を見学する民間の人達を乗せて参加する艦艇の事だ。大体は特務艦艇がその役に当てられてるから、私も今までにやった事は無い。でも御召艦による御親閲が終わった後には同じ経路を辿って、乗艦した民間の見学者に参列艦隊を閲覧させてやるとても重要な役だぞ。』
『おおお!』
帝国海軍艦艇として生を受けた明石にとっては満艦飾を施せるだけでも嬉しいのに、なんと今度の観艦式においては全国から帝国海軍の勇士をその目に焼き付けようと集う国民をその身に宿せるのだという。自身も含めて普段から黒か白の服装を身に付けている者しか間近で見た事が無い明石は、これまで遠めにしか見て来れなかった国民を初めて目にする事が出来ると知って有頂天となる。無駄を一切排除した窮屈な戦闘艦ではなく、いつもは脇役である特務艦でしか出来ない役割。それはこれまで演習でもお仕事でも常に黒子役として第二艦隊で励んできた明石にとっては、多くの人々の目に映る事が出来る一生に一度の機会。まさに晴れ舞台なのである。
既に彼女の心は自身の分身のマストのてっぺんよりも高い位置にあり、隣でちょっと嫌味に拝謁艦としての助言をしてくれる友人の声にも怒る事無く、その気持ちを新たにする。
『乗るのは海軍の事を何も知らない民間の人達だ。艦が汚いと帝国海軍の名に泥を塗る事になる。今の内から掃除はしっかりとやっておけよ?』
『あったり前!いよお〜し、頑張るぞ〜〜!』
第二艦隊は3日後に館山沖へと一旦泊地を変更した後に、横浜沖へと移動。そこで休養と補給を済ませた後、8月25日には同地を抜錨。東京湾の波と風に帽を振り、函館方面巡航となった。
冬だった事はあるものの、以前に明石はこの北の海を訪れた際に寒さという強敵にコテンパンに叩きのめされていたが、栄えある帝国海軍の観艦式に心踊る明石はその記憶を笑い飛ばし、雑巾とモップを片手に自分の分身をせっせと磨きながら一層お仕事に励むのであった。