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第五三話 「理由/其の三」

『う、うぅ・・・。進水式の時、も、会社の人も、工員の人も、みんな、喜んでくれ、た・・・。私の生まれた、船台は、資材置き場に、なってた所に、急遽作ったもの、でしたが・・・、それでも、進水の時は、満船色に、5色のテープと、紙吹雪が入った薬球・・・。ソ連の人まで立ち会って、日本とソ連の国旗も掲げて、ほ、本当に、嬉しかっ、た・・・。みんな、笑ってた・・・。』


 宗谷(そうや)が語る進水式の思い出とそこに纏わる彼女の気持ちは、同じく進水式を経て生まれた明石(あかし)神通(じんつう)にも良く理解できた。二人もまた同じように国旗と薬玉によって祝福を受け、四方に広がる大海原にその身を浮かべたのである。軍艦も民間船舶も関係無い、お船としてこの世に生まれた時の記憶は皆同じで、明石も神通も宗谷の言う『嬉しかった』という言葉を理解するのには何の隔たりも無かった。

 だがそこから続く宗谷のお船としての生涯に横槍を入れたのは、先程彼女の口から伝えられたように、明石や神通と同じ十六条旭日旗を艦尾に掲げる者達なのである。決してその責任を明石が負っている訳ではないのだが、彼女にはどうしても宗谷に対して言葉を掛ける事に気が引けてしまう。顔を宗谷に向けながらも、明石は視線を握っている宗谷のやつれた手に落とした。

 やがて宗谷は両の瞳から涙を一筋流すと、先程口にした人間への思いを語り始める。


『ソ、ソ連への引渡しが、無くなって、私達には、新しい名前、が、与えられました・・・。姉は、て、天領(てんりょう)丸で、妹は、民領(みんりょう)、丸・・・。私は、地領(ちりょう)丸・・・。な、慣れない名前を付けられて、資材不足で艤装も、進まない・・・。おまけに、竣工しても、貰い手が無い・・・。工員も、私達も、途方に暮れてました・・・。ふふ・・・。』


 海軍によって捻じ曲げられた生い立ちを語る宗谷だったが、彼女の語りの最後には初めて耳にする宗谷の笑い声が確かにあった。ふとそれに気付いた明石と神通が宗谷の顔へと落としていた視線を流すと、宗谷はほんの少しだけ口元を引きつらせている。聞き手の二人が不思議そうな視線を送る中、彼女は天井を眺めたまま僅かに明るさを滲ませた声で続けた。


『で、でも、そんな中で、私達の建造を、請け負っていた造船所の、親会社である川南(かわみなみ)工業は・・・、私達の為に、こ、神戸の汽船会社と共同出資し、て、辰南(たつみなみ)商船という会社を、わざわざ新しく、起してくれたんです・・・。2年前に、私達の生まれた造船所、を、買い取ったばかりで、お金も、無いのに・・・。』


 宗谷はまだ力が入らない声で、しかしとてもそれを嬉しそうに口にする。事実、そこから暫くの宗谷の記憶は、自身の生涯の中では一番輝いていた記憶でもあった。宗谷は明石と神通には目もくれず、まるで天井に記憶に残る映像が映っているかの様に笑みを向けている。


『私、は、6月10日にやっと、竣工できました・・・。そ、それからすぐに、試験航海が始まって、7月に入ったら、せ、船体の塗装が始まりました・・・。まるで、春の陸地のような、綺麗な緑色で船体を・・・、秋の陸地のような薄い黄色で、マストや、吸気口を塗装して、煙突には、白地に赤抜きで、横縞模様の、ファンネルマーク・・・。じ、自分で言うのも、なんなんです、けど、とっても綺麗だったんですよ、私・・・。ふ、ふふふ・・・。』


 笑みを伴う宗谷の声に明石と神通は僅かに口元を緩めた表情を返してやるものの、生まれて以来、ねずみ色の塗装しか身に纏った事がない自身の境遇からちょっとだけ宗谷を事を羨ましいと思ってしまう。栄えある帝国海軍艦艇は軍艦色と相場が決まってはいるが、やはり自分の身を綺麗に彩ってみたいというのが二人の本心でもあるのだ。

 やがて明石は呟くようにして声をあげ、胸の中に思った事を素直に言葉へと変える。


『良いなあ・・・。綺麗だったんだろうなぁ・・・。』

『は、はい・・・。本当に、綺麗だった・・・。』


 明石の声を受けた宗谷はさらに口元を引き上げて瞳を細め、その瞳の両縁からは電灯の黄色い光を受けて輝く涙が流れ落ちる。


『会社の人達も、工員さんも、手を叩いて、私達の姿を、祝福、してくれた・・・。しかも、15日には早速、お仕事が回ってきて、会社の人達は、本当に嬉しそうだった・・・。姉と妹とは、別々になっちゃうけど、私も、嬉しかった・・・。さ、最初のお仕事は、チャーター船として、支那の、大連を定繋港にして、支那沿岸での貨物の輸送・・・。青島のビール、上海の蟹、天津の、お洒落な街並みに、世界中から集まった船達・・・。次の年の、3月までの契約、でしたけ、ど、こんなに、お船って楽しいんだなって、思えた、8ヶ月でした・・・。』


 宗谷の話した事は船舶としてのごく有り触れた生活であったが、その嬉しさは同じお船である明石や神通にもよく理解できた。海軍に籍を置く二人とてこれまでに寄港した港では当地に纏わる沢山の思い出があるし、時に涙するような事もあったがその大半は笑顔と笑い声を伴った楽しい記憶ばかりである。

 思わず明石ががそこにあった幸せを分かつように笑みを向け、神通もまたほんの少しだけ口元を緩めて唇へと運んだビール瓶を傾ける中、宗谷もまた笑みを絶やさぬまま口を開く。


『け、契約が終わった私は、香焼島(こうやぎしま)の造船所に、整備の為に、い、一度、戻りました・・・。久しぶりの、工員さん達も、会社の人も、神棚、に、お神酒まで供えて、くれて、私の帰りを、祝ってくれた・・・。すぐに、お仕事が、入っちゃったけど・・・。』

『そう・・・。ゆっくりできなかったんだ・・・。』

『で、でも、お仕事、は、嫌いじゃ、なったんです・・・。今度の、契約は、穏やかな支那の海じゃなくて、函館を定繋港にした、北方海域・・・。わ、私達が、本来、駆ける筈だった、海だったし・・・。』


 宗谷の口にした北方海域は明石も一度だけ行った事がある海で、軍医として初めての治療を行ったのもそこであった。宗谷の様にその海域へ行く事に対しての喜び等という物は、寒さによってコテンパンにされてしまった明石には湧く事は無いが、宗谷にとってはその海こそが彼女の言葉通り、本来の居場所なのであった。


『函館や小樽で、物資を積んで、向かうのは、日本の北の果て、占守(しゅむしゅ)という島・・・。蟹や鮭の、缶詰の工場があって、私はよく、乗組員さんの真似をして、一個盗んでは、食べてました・・・。ふ、ふふ・・・。』


 やがて宗谷は弱々しい笑い声を放ち終えると、途端にその表情を雲らせていく。


『でも・・・。』

『・・・?』


 重い声色に変わった宗谷に明石と神通も気付き、彼女の表情を覗き込む。宗谷は僅かに眉をしかめ、脳裏に蘇る辛い記憶に緩く下唇を噛んだ。そして同時に明石の手に包まれていた手に力を込めながら続けた。


『北の波に、も、慣れた頃の、10月・・・。私の行動を見てた、海軍が、こ、今度は、私を海軍に差し出せと、会社に圧力を、か、掛けてきた・・・。』


 彼女の幸せな波を駆ける生活を邪魔したのは、あろう事かまた海軍であった。しかし明石にはなぜ海軍がそのタイミングで、そしてなぜ宗谷に白羽の矢を立てたのかが解らない。今までかすれた声ながらも軽やかに話していた宗谷が無言になった事もあり、明石はその事を海軍に籍を置く者として気が引けながらも宗谷に尋ねてみる。


『どうして、宗谷だったのかな・・・。』

『ち、千島列島は、い、一年中、濃霧が多いんです・・・。島の近くでの航海は、常に、ゆっくりとした速度じゃないと、岩礁や陸地との、衝突の、き、危険があった・・・。でも、私は、ソビエトからの発注の際に、音響測深儀を、装備するように、言われてました・・・。だ、だから、視界が利かなくても、海底の形状から、岸や、岩礁が近いかどうかが、解るん、です・・・。で、でもそれが、海軍の目に留まった・・・。海軍は私を、そ、測量艦として、使う事を、決めたんです・・・。う・・・、ううっ・・・。』


 再び宗谷が泣き始める。

 海軍の横槍によって誕生直後に路頭に迷い、それでも会社の人々の尽力によって有り触れた船としての幸せを感じる事ができていた宗谷だったが、彼女の幸せな日々は僅か1年半しかなかったのだ。さらにその日々が終わる原因はまたしても海軍。明石と神通は口にこそ出さないものの、どこか自責の念にも駆られるような感覚を覚えていた。


『と、突然、横浜に行く事に、なって、ちょうど近くにいた、姉と、妹に別れを告げて、私は横浜に、向かいました・・・。そ、そしたら、黒い、海軍の制服を着た人たちが来て、私は検査を受け、そのまま、改装の為に、ドック入り・・・。乗組員の人は、全部降りて、香焼島にも、戻れなく、なった・・・。名前も、また、変えられた・・・。うう、う・・・。』


 そう言うと宗谷は明石に握られてはいない方の腕を挙げ、自身の顔の目の辺りに手を添えて嗚咽に苦しむ声を上げる。海軍という人間達の組織による都合に振り回され、それから7ヶ月もの間、ドックの中で生まれた時に与えられた姿を失っていく中でずっと叫び続けた悲しみを、宗谷は泣きながら唇の隙間から放った。


『う、うう・・・、ああっ・・・。』

『宗谷・・・。』

『も、もう、香焼島に、帰れない・・・。会社の人達の、顔が、見れない・・・。姉さんに、会えな、い・・・。妹、に、会えない・・・。せ、戦争なんて、できない・・・。う、ううっ・・・。』

『・・・・・・。』


 宗谷の言葉に明石は俯いてしまう。悲痛な彼女の言葉には全ての人間を憎悪するような所は感じられなかったが、その生涯を二度にも渡って捻じ曲げたのは海軍という名の人間達。国の護りを公言する彼等の事は、同じく海軍の者である明石には良く解っている。


 そして明石は海軍がこの宗谷をただひたすらに不幸な道へ誘おうと思って、彼女を海軍籍に編入したつもりは無い事は百も承知していた。自身と同じ特務艦と類別される艦艇の中には、工作艦、運送艦、砕氷艦、測量艦、標的艦、練習特務艦と6種類の類別があるのだが、この宗谷はその生まれた経緯から大規模な改装も必要なしに運送艦、砕氷艦、測量艦として活躍する事が出来るのであり、海軍が彼女に目をつけたのもまさにそこなのであった。人間の感覚で言えば、この宗谷は生まれながら帝国海軍特務艦艇としての非常に優秀な才能を持っていたのである。


 ただ、同じ船に宿る命である彼女の意志として、「民間の船でありたかった。」という彼女の想いを明石は否定できない。船としてのありきたりな生活と幸せを願う宗谷の何が悪いのか、明石にはそれを断定する事はできなかった。


『もう、生きたく・・・ない・・・。うああ、あ・・・。』


 全てを失ってしまった宗谷の言葉が部屋に響く。彼女の身の上を理解する明石は憤りにも似た感覚をおぼえるものの、どうしてやればいいのか解らずに俯くばかりだった。

 明石はこれまで自分も国の護りとしての役目を背負っているのだと信じ、それに対して励むのは当たり前の事だと疑った事は無いが、それは彼女が海軍によって作られたからに他ならない。


 なぜ普通のお船として生まれた宗谷が、こんな思いをせねばならないのか?


 脳裏に過ぎるその言葉に明石は回答を見つける事が出来なかったが、それと同時に自分は何の為にこうして海軍に尽くそうとしているのだろうと疑問を抱く。


 陛下の為。

 国民の為。

 日の丸の為。

 君が代の為。


 ふと上げてみたそれらは響きこそ美しい言葉であるが、明石にはその言葉を用いて眼前にて涙する宗谷が説得できるとは思えなかった。大湊(おおみなと)にて沼風(ぬまかぜ)が教えてくれた国を護るという現実とそこにある崇高さは、決して押し付けで生み出す物であってはならないと明石は考えているからである。しかしその考えに確固たる信念があるかというとそうでもない。


 何の為に、海軍の者として生きているのか?


 その疑問を自分に投げた時、明石もまた明確な答えを出せなかったのだ。




 しばらくは部屋の中には宗谷の咽び泣く声だけが木霊し、明石はそんな彼女にどう接して良いか解らずに困惑する。だがその中で静かに酒を飲みながら二人のやりとりに耳を傾けていた神通は、それまで腰掛けていたベッドからおもむろに腰を上げると、ビール瓶を床に置いて宗谷に顔を向けた。


『宗谷。』

『う、うううぅ・・・。』


 神通の問いかけに宗谷は右手を目に当てて無くばかりであったが、神通は構わず語りかける。その声は神通らしいいつもの張り詰めた糸の様な緊張感のある声であったが、明石はそこに親しい者で無ければ解らない神通の優しさが込められていると感じて顔を上げる。そして神通は下から顔を覗きこんでくる明石に僅かな笑みを見せると、その肩にそっと手を置きながら宗谷に声を放った。明石はその友人の表情に、明石もまた宗谷と同じ様に軍艦旗を背負う事への疑問を抱いているのだと、神通がしっかり悟ってくれている事を感じ取る。


『お前、姉と妹がいると言ってたな・・・。』

『ううぅ・・・。』

『世話になった人間も、いると言ってたな・・・。』

『う・・・、は、はぃ・・・。』


 泣き声とも返事とも区別のつかない声で答える宗谷に神通は小さく頷くと、小さく溜め息を放ってから話し始めた。


『そいつらも、お前がいなくなってきっと辛い思いをしてるだろうな。だがな、宗谷。そんな辛い思いをしながら生きている今という瞬間すらも、護る奴がいなければ成り立たないんだよ・・・。解るか・・・?』


 宗谷がその言葉に涙を止める事は無かったが、神通の語りかけは彼女の心を確かに揺さぶった。不規則な息遣いをしながらも宗谷は右手を僅かに顔から離し、その隙間から涙で滲む視線を神通へと向ける。神通は腕を組むと僅かに腰を折って宗谷に顔を近づけ、再びゆっくりとした口調で声を上げる。


『お前が生まれた造船所とそこにいた人達。支那の海での思い出。北方海域での仕事。それは辛い事もあったろうが、同じくらい楽しかったんじゃないのか?』


 宗谷は黙って頷く。


『ん。だがそんな思いをして暮らしてるのは、何もお前だけじゃない。お前の姉、妹、世話になった人々。そいつらなりの思い出や生活ってのは、お前が泣いてる時も、笑ってる時も、同じ物がそこにちゃんとあった筈だ。そして今でもな・・・。』

『い、いま、でも・・・?』


 宗谷が声を返したその刹那、神通はゆっくりと宗谷の横まで進み出ると腰を深々と折り、宗谷の枕元にあたるベッドの端に両手をついて頭を下げた。その様子に明石と宗谷が驚きの表情を湛える中、神通の一際力の篭った声が二人の耳には響いてくる。


『頼む。それを護る為に、どうか海軍に力を借してくれないか。』

『じ、神通・・・。』


 友人の頭を下げる姿に、明石は呆けた声で彼女の名を口にする以外に一切の行動を取れなかった。

 普段から無愛想で言葉遣いも気性も荒く、その上に仕事に対しても自身の立場に対してもプライドが高い神通。その彼女がこともあろうか、新顔で自分よりも階級の低い下士官の身分である宗谷に頭を下げているのである。


『もちろん、お前が海軍に編入された事を不本意に思っているのは解ってる。その為に失った物が多いのも、私は解ってるつもりだ。でも海軍に編入されたからこそ、できる事もあるんだ。宗谷。』

『ま、護ると、いう事、ですか・・・?』


 宗谷がそう呟くと神通はようやく頭を挙げ、少し歪めた笑みを浮かべて左手を明石の頭にポンと乗せた。やがて明石の頭をグラグラとゆっくり左右に揺らしながら、神通は静かに声を返す。


『私もな、宗谷。昔、大事な人間と仲間を失った事がある・・・。それもこの手でこの世から消してしまって、今はもういない・・・。』

『・・・え・・・。』

『ふん・・・。その時は仲間の連中も白い目を向けてきてな。生きてるのがこれ以上ないくらい辛いと感じた時だったよ。だから、お前の気持ちは解らんでもないんだ・・・。』

『・・・・・・。』

『でもな。いま私の周りには、姉貴と、妹と、戦隊長なんて呼びながら後を追って来てくれる奴らと、この明石がいる。揃いも揃って馬鹿ばっかりでちっとも気が楽になる日が無いが、今は、生きてるのが楽しい・・・。そしてそんな何気ない日々こそが、私の護りたい物なんだ。宗谷。』


 かつての自身の過去を交えた神通の話は、一片の疑問も宗谷には抱かせることは無かった。規律を取り戻しつつある吐息の中で、宗谷は自身が大事に思ってきた者達の今を思い浮かべていく。それは神通が言うように笑顔ばかりではなく、悲しみに泣いたりしながらその日を暮らす者達の姿。そんなごく普通の日々すらも護る者がいなければ成り立たないという神通の言葉を受けた宗谷は、その愛おしさを改めて理解する。しかしその場を一緒にしたかったという彼女の願いは中々消える筈も無く、その身に掛かってきた不条理を宗谷は震える声で口にした。


『うう、う・・・。なん、で、私、だけが・・・。』


 宗谷の口にした事には神通もさすがに声を返す事が出来ず、苦笑いを返してやるのが精一杯だった。辛い思いの果てにやっと手に入れた船としての喜びを棒に振らねばならない宗谷の身の上は、良く言えば縁があったからであり、悪く言えば運が悪かったからである。それを宗谷に伝えたとしても、絶望の果てにこんな身体になってしまった彼女が簡単にその事で納得するとは神通には思えなかったのだ。

 掛ける言葉を見失った神通は首の辺りを掻きながら黙って宗谷に視線を投げる事しか出来なかったが、ふとその時、それまでベッドの端でしゃがみ込んで宗谷の手を握っていた明石が立ち上がった。握っていた宗谷の手を離し、一度宗谷の姿を瞳に入れた明石は再びちょっと俯いてから声を放つ。その声には、先程まで宗谷と同じ様に脳裏に浮かべていた疑問に友人である神通の言葉によって答えを見つけた事を示す、明石の暗さが消え失せた凛々しさがあった。


『気付けた宗谷だから、じゃないかな・・・。』


 明石はそう言うと宗谷が視線を向けてくるのにも関わらず、彼女に背を向けて料理が並べられている彩り鮮やかな机へと向かって歩き出した。宗谷の問いに答えられなかった神通はそれまで黙っていた明石がいとも簡単に声を返した事に驚き、宗谷と同じ様に机へと向かっていく明石の背中に顔を向ける。

 すると明石は背を向けてままで机に手を伸ばしながら、静かに声を響かせ始めた。


『私もね。宗谷や神通ほどじゃないんだけど、大事にしてた日々を失ったんだ。私が悪いんだけどね・・・。』


 その時、神通は明石が口にした言葉が、彼女の相方の事を示しているのだと察する。自分と同じ様に明石もまた、失ってからそこにあった日々や想いの大事さに気付いたからだ。

 そしてそれは宗谷もまた同じ事であった。船としての楽しみ、喜び、辛さを知り、不幸にもそれを失った事で宗谷もまたその大事さに気付いているのだ。


『今でも後悔はしてるんだけどね。でもね、おかげで私が護らなきゃいけない物が、よく解ったような気もするんだ。』


 言い終えた明石は踵を返すと、再び宗谷の横たわるベッドに向かって歩み寄って行く。その右手には、真夏の太陽のような色をした蜜柑が一つ握られていた。宗谷と神通の視線を集めながら明石はベッドの端に座り込むと、おもむろに蜜柑に両手を添えて蜜柑の皮を剥ぎつつ口を開く。


『宗谷がお世話になった人間や、お姉さんと妹さん。そこにある何気ない日常。その大事さに気付いた宗谷じゃなきゃ、それって護れないと思うんだ。もちろん宗谷が言う様に私達海軍は戦争だってしなきゃいけないんだけど、護る物の大事さに気付いてない人だったらきっとそこで投げ出しちゃうよ。』

『ううぅ・・・ううっ・・・。』

『お姉さんでも、妹さんでも、お世話になった人間達でもできないと思う。それに気付いた宗谷だけが、護る事が出来ると思うよ。』


 蜜柑の皮を丁寧に剥ぎながらそう言った明石は、宗谷に顔を向けて視線を合わせる。すると宗谷は力の入らない右腕を支えにして、横たえていた上半身を起そうとし始めた。その姿を見ていた神通が寄り添って宗谷の背中に手を添えてやり、宗谷は苦しそうな表情を浮かべながらもなんとか上半身を起すと、すぐに明石に顔を向けて言った。


『お、お国の為、では、ないんです、か・・・?』


 今の日本にといて最も盛んに使われる言葉を問う宗谷。

 確かに明石と神通が口にした海軍の者たる理由は、国家の為というよりは自身の思う所の為と言った方が正しい。お国の為という文句が流行り言葉のように飛び交う今の日本の実情を曲がりなりにも見てきた宗谷にとっては、疑問を抱くのも無理の無い事であった。ましてそれを最も声高に叫ぶ皇軍という組織の者である二人が面と向かって「国の為だ。」といわなかった事は、宗谷には予想外の事であった。

 やがてそんな宗谷がすがる様な視線を向ける中、明石は皮を剥いた蜜柑を一切れ千切って宗谷に差し出しながら声を返す。


『う〜〜ん、違うって訳じゃないんだけどね・・・。有り体に言っちゃえば、私の護りたい物は、日章旗が翻って君が代が木霊する、日本と呼ばれる国の土の上にあるから。かな。』

『・・・・・・。』

『それは宗谷も同じなんじゃないかな・・・?』

『ぅう、うっ・・・。』


 明石の声に宗谷は再び涙を流し始める。その姿は彼女の心がまだ救われていない事を示しており、明石と神通も救う事が出来たとは思っていない。神通もまだまだ美保ヶ関(みほがせき)での惨劇を夢に見る事はあるし、明石もまた相方との別れを思い出すと今でも後悔の念が胸に湧いてくる。大事な物は失った事によってその大事さがよく解るのと引き換えに、今度はその事に見切りをつけるのが難しくなってしまう物である。

 だが二人は、ふと宗谷が嗚咽に苦しみながらも震える手を明石へと差し出してきた事に、彼女が頑張って心を決めてくれた事を悟った。一度神通と笑みを合わせた後、明石は手にしていた蜜柑の一切れを宗谷が伸ばしてきた手のひらにそっと置く。すると宗谷は手にした蜜柑の一切れをゆっくりと口へと運んで行き、やがて唇の隙間から流し込んだ。口の中に広がる甘さと酸っぱさに、彼女の瞳からは一層の涙がこぼれ落ちる。


『ううぅぅ・・・。』

『宗谷。海軍の人たちは・・・。ううん、少なくとも私と神通は、護ろうとする気持ちと理由は宗谷と同じだよ。だから、一緒に頑張ろうね。』

『まあ、最近は威勢だけは良い輩もいるからな。もし民間から移籍してきたお前にフザけた事を言う奴がいたら、いつでも私の所に来い、宗谷。そいつ等を片っ端からぶん殴ってやる。』


 明石と神通の応援を込めた優しい声に、宗谷はボロボロと涙を流して返事とも泣き声とも区別のつかない声を放ちながら頷いた。脳裏にありありと蘇ってくる楽しかった貨物船時代の思い出を中々手放す事が出来ない宗谷であったが、彼女は同時にその艦尾旗竿に日章旗ではなく軍艦旗を翻す事を心に決める。彼女は再び差し出された明石の手から蜜柑を受け取り、ただ泣きながらそれを頬張った。




 青く輝く月が、そんな3人の姿を舷窓から覗き込んでいる。太古の昔から常に夜を照らし続けてきた月はその夜も煌々と輝きながら、帝国海軍のとある特務艦の誕生を見守っていたのだった。

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