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第五一話 「理由/其の一」

◆拝読に当たってのご注意◆

 読者皆様には日頃、大変お世話になっております。


 さて、作中では8月の横須賀において宗谷艦と明石艦が顔を合わせておりますが、宗谷艦は6月4日の改装終了後に直ちに横須賀へと出向いて未装備の機銃を搭載した後、すぐさま北方海域への測量任務に就いております。任務が終わると同時に横須賀鎮守府付属となりますがその任務が終わるのは9月でありますので、史実ではこの時期に宗谷艦は横須賀にはおりません。


 これから始まる宗谷艦がらみのお話は、なんとしても宗谷艦と拙作の主人公である明石艦を絡めた物語にしたいという小生の勝手な我が儘で御座いますので、恐れ多い極みで御座いますが読者皆様にあっては何卒ご理解とご了承の上で拝読して頂ける様、謹んでお願い申し上げます。


 2009年9月21日 明石艦物語作者/工藤傳一

 今日もいつものように陽を失った空が青紫の闇と星々の煌きを湛えた頃、月の青白い光りが揺らぐ横須賀の波間にその身を浮かべた小さな特務艦の艦首甲板から一段下がったウェルデッキには、白い光りを纏って姿を現した明石(あかし)がいた。


 その艦に訪れるのは彼女としても初めてだったが、その正体は明石にはちゃんと解っている。


『っと。ふぅ、これが宗谷(そうや)艦かぁ。』


 ちょうど艦首の舳先に近い辺りに立っていた明石は、そう呟きながら宗谷艦の艦体をまじまじと眺める。排水量は3000トンそこそこある宗谷艦だが、その全長は約77メートル、全幅は約13メートルと割かし小振りな艦体を持っている艦であり、艦中央にある艦幅一杯に広がった横長の艦橋と一本の煙突を含めた構造物を挟んで艦首と艦尾のやや広めの甲板にはブームが付属したデリックポストがにょっきと生えていた。その大きさは明石の分身と比較すると二周りは小さい。しかし明石の瞳に移る宗谷艦の甲板や隔壁は真新しい塗装と夜空の光りによってキラキラと輝いており、艦首甲板の中央にポツンと設置された高角砲にも汚れの類は一切認められない。それはこの艦がつい最近になってこの姿を手に入れたという事を明石に伝える。

 やがて明石は上着のポッケから愛宕(あたご)より拝領した命令書を取り出し、それを胸の高さで右手に持ちながら艦橋がそびえる上部構造物へと向かっていった。



『宗谷さ〜ん・・・?』


 自分の艦と同じ様に人気がない事を予想していた明石だったが、灯りすらも点いていない真っ暗な艦内通路を一人で歩くのはちょっと怖い。まして波の音すらも聞こえない中でこの艦の主を呼ぶ自身の声と甲高い靴音だけが響き渡るという感覚は、彼女が今まで一度も味わった事無い感覚であった。


『うえぇ・・・。ちゃ、ちゃんと昼間に来るんだったなぁ・・・。』


 眼前に広がる光景が放つ余りの気味の悪さに、明石はこうして夜に宗谷艦へと来る事になってしまった原因を恨む。そしてその原因とは彼女の言葉通り、明石自身に在るのであった。

 明石は昨日の夜に開催された戦隊長会議における報告の為にその前日から徹夜のお仕事をしたのだが、彼女は会議が終わった後に前日の分を取り戻すかのように爆睡してしまったのである。精神的にも体力的にも疲労していた明石は艦内に響き渡るラッパで目を覚ますも、どうせお仕事は終わったのだからと再び開きかけた瞼を閉じるという事を何度も繰り返してしまい、空腹を覚えてよだれが染みた枕から顔を上げたのはついさっきの事なのである。そしてふと椅子に掛けた上着のポッケからはみ出ている命令書と真っ暗になった部屋の様子を瞳に入れ、やっとの事で明石は与えられたお仕事を思い出したのだった。

 『あぁ〜〜〜っ!!!!』と叫び声を上げて大急ぎで着替えた明石は自身の失態に焦る余りに空腹を忘れる事は出来たのだが、宗谷艦の真っ暗な艦内に足を踏み入れた辺りから途端にお腹が鳴り始めていた。だがいくらお腹を抑えてもそこにある空腹感は増すばかりで、先程から募る恐怖心もそろそろ限界にきつつある明石は「お仕事を明日に延期しようか」という考えに誘われ始める。


『うぅぅ・・・。腹減ったぁ・・・。』


 襲い来る誘惑と空腹感によってついに明石の歩みは止まってしまい、呻くような声を口から漏らしてその場にしゃがみ込んだ。その間にも彼女のお腹からは空腹を示す音が奏でられるが、明石はその音によって耳を撫でられるような感覚を覚える事は無い。今にも泣きそうな顔をしながら、明石は右手に持った真っ白な命令書を恨み半分申し訳なさ半分という視線で眺める。

 だがその刹那、明石の背後からは小さな何かが鉄とぶつかり合う衝撃音が何の前触れも無く響き、自分以外の存在がその場にいない事を知って恐怖心に駆られていた彼女は前に飛び跳ねるようにして崩れた。


『ぅわあああッ!!!!』


 咄嗟に危険からその身を遠ざけようとした彼女の身体だったが、その動きに明石の頭脳は完全について来ない。仰天の声を発しながら受身も取れずに顔から通路の床に倒れこみ、明石は強烈な痛みと恐怖についに両の目から涙を溢し始める。鼻を左手で押さえながら嗚咽の声を上げ始める明石は、ビクビクとしながら音の響いてきた背後に視線を向けていく。

 するとそこには一本の親指くらいの太さのネジがポツンと落ちていた。


『ぉ、脅かすなよ・・・、ぅんもぉ・・・。』


 無造作に通路の床に転がっているネジに、明石はひとさし指をつき立てて嗚咽が混じった声を返した。小さなネジにへっぴり腰で震える指を向けるその姿は格好悪いの一言であるが、その涙と同様に溢れ出す恐怖心を抱いてしまった今の明石には無理の無い事であった。ぶつけた鼻を擦りながら、まだ力が入り辛い足で何とか立ち上がろうとする明石。しかしその腰がやっと浮きかけた所で明石はとある事に気付き、再び視線を床に転がるネジに流した。


『・・・・・・?』


 そのネジはどこにでもある普通のネジで、明石も自身の分身の至る所で目にした事のある物だ。もちろんよく使われている箇所も知っていて、彼女はそれまでネジが在ったであろう通路の天井へと顔を向ける。天井には通路に沿って真っ直ぐに伸びる配管が数本ほど通っており、その配管の継ぎ目には予想通り同じ大きさのネジがたくさん備わっていた。恐らくはその内の一本が外れてしまったのだろうとすぐに察した明石だったが、彼女はその事に恐怖心を忘れても安堵する事は無かった。

 この時、明石の脳裏には初めてお仕事として仲間の治療に当たった大湊(おおみなと)での記憶が蘇る。

 そこで受け持った患者は沼風(ぬまかぜ)艦であり、波浪にて艦体が骨組みからひん曲がってしまったというのがその症状。その主だった原因の内の一つは、自身の乗組員の話から食料の不足を心配する余り栄養の摂取を控えて貧弱な身体になってしまったその艦の艦魂にあった。そしてその治療に当たった際、明石も改めて艦魂の身体の具合が分身である艦に影響する事を理解したのである。

 そこまで思い出した時、明石の脳裏には目の前に転がるネジに対しての非常に素朴な疑問を浮かんだ。僅かに眉をしかめながら、明石はおもむろに腕を伸ばして床に在ったそのネジを手に取る。


 改装が終わったのは先々月で、まだ出動もしていない筈。古い艦な訳でもないのに、なんで落ちた?


 手に取ったネジを目の前に近づけ、舷窓から僅かに差し込んでくる月の光りを頼りに明石はそのネジをまじまじと見つめた。間近で見るそのネジにはやはり一点の錆びも無く、ネジ山が潰れている事も無い。それは明石のこの艦に対する考察が正しい事を示している。そしてそのネジに対する考察と同時に浮かんだ疑問の真相を、明石は同じく大湊での一件の記憶から瞬間的に察した。


 沼風は弱っていたから艦内部への大きな損害があった。まさかこの艦もでは・・・?


 刹那、明石の顔からは恐怖に怯える新米艦魂の表情が消え、それに代わって戦場を得た軍医の表情が浮かび出る。すると震えを伴っていたさっきまでの彼女の四肢は嘘の様に力が篭った動きを取り戻し、立ち上がると同時に明石は声を張り上げながら艦の奥へと向かって駆け出した。


『宗谷!!宗谷〜!!どこなの、宗谷!!』




 煌々と空に輝く月が地平線に向かって傾き始め、一面を覆う夕闇がその色合いの濃さを増す頃。

 明石艦の艦首甲板には、普通の人間には決して目にする事のできない淡く白い光りが収束し始めた。段々と光が大きくなってやがてそれが球体の形を整えるかどうかになった時、その光りは粉雪の様に細かい粒子となって砕け散る。

 やがてその光りの中からは、同じ位の背格好に下士官服を身に纏った女性とその肩を抱いた明石が姿を現した。目を閉じてぐったりとした下士官服の女性の身体は微かな呼吸以外に動く事は無く、明石はその人物の名を必死に呼びかけながら自分の部屋へと彼女を運ぶ。


『はあ・・・はあ・・・!宗谷・・・!しっかり、宗谷!』


 決して人には聞こえない艦魂の声であるが、明石艦の甲板にはその艦の分身である明石の声が高らかに木霊する。しかし耳元で何度も彼女が叫んでいるにも関わらず、宗谷は意識を取り戻す気配が無い。酷く弱った吐息の音を唇の隙間から漏らすばかりで、明石の首に回した宗谷の腕には一度たりとて力が込められる事は無かった。宗谷の身体は部屋へ担ぎ込もうとする明石の行動に対して何一つ抵抗する事は無いが、元々の彼女の身の丈は明石とそれ程変わらない。その為に明石は宗谷を部屋まで引きずるようにして運ぶものの、友人達の様に力持ちな訳ではない彼女はその額や頬に大粒の汗を流している。まして患者を前にして忘れてはいるが、先程まで空腹でぶっ倒れそうだった彼女の身体にはそれ程体力が残っているわけでもなかった。


『ぐうっ・・・!はあ・・・はあ・・・!』


 既に溢れている疲労感に耐え切れず、明石は甲板の中程で膝を着いてしまう。その胸の中には軍医としての本能に駆られた使命感だけが燃えているが、如何せん明石の身体はそれについてこれなかった。激しい動悸に襲われて膝もガクガクと震え始めた明石であるが、すぐ横にある痩せ細って頬の筋が良く目立つ宗谷の顔を視界に入れると再び身体に力を込め始める。なぜなら宗谷のその顔は、どこからどう見ても病人の顔であったからだ。顔色に赤い色合いが微塵も感じられず、頬の筋が目立つ割にはその肌が奇妙な程に浮腫んでいるという宗谷の顔。明石はその症状から宗谷がどんな状態にあるか、そしてそれを処置する為に何をすれば良いのかが既に脳裏に浮かんでいる。しかしそれを実行する為の自身の体力が底を尽きかけているという事に、彼女は激しく自分の未熟さを感じて憤りを覚えるのだった。


『んぐぅっ・・・!ち、ちくしょう・・・!』


 宗谷の肩を抱いた腕を放すことは無いものの、明石の足は艦内への入り口を前にしてついに自由が利かなくなり始めた。だが明石がそれに気付いて絶望感を覚える直前になって、甲板の端からは頼もしい友人の声と駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。


『お、おい、明石!どうした!?』

『じ、神通(じんつう)・・・!』


 普段から怖い顔をしている神通が、この時ばかりは明石には救世主に見えた。自分よりも遥かに背が高くて力持ちである神通がそこに居合わせた事に明石は安堵するものの、今はそれどころではないと考えを改めて声を発した。


『わ、私の部屋に宗谷を運んで・・・!は、速く・・・!』

『コイツの事か!?解った!明石、足を持て!』


 60キロ以上はあろうかという体重を持つ木村大佐ですらも軽々と投げ飛ばす神通に掛かれば、明石とほとんど変わらない体格の宗谷の身体を運ぶのは造作も無い。宗谷の肩の付け根から腕を回した神通は明石が足を支えるのを確認すると、小走りで明石艦の艦内へと入って行った。






 部屋に着くと明石はすぐに宗谷を自分のベッドに寝かせ、真っ白な第二種軍装のボタンやホックを全て外して彼女の診療を始めた。明石の首筋や頬からはまだ汗が引いていないが、彼女はそれを拭う事もせずに目の前の患者に向かって腕を伸ばす。その背後では腕を組んで神妙な面持ちでそれを見守る神通の姿があった。彼女は軍医としての明石の行動を邪魔をせぬ様、極めて静かな口調で声を放つ。


『コイツが宗谷か、明石?』

『・・・うん。』

『どんな具合なんだ?』


 明石は神通が良い終えるのと同時に、服の隙間から宗谷の身体へと伸ばしていた腕を引っこ抜いた。そして手に残った感覚を確かめつつ、ゲッソリとした宗谷の顔に視線を流す。ボサボサと埃っぽい感じの前髪を指で掻き揚げ、そこに隠されていた瞼や頬を確認した明石は、宗谷の身体における診断結果にたいして明確な答えを得る。それは宗谷艦艦内の船倉にて倒れている彼女を発見した際に瞬間的に想像した内容と全く同じであった。


『栄養失調だよ・・・。腰の辺りなんか、骨と皮だけしか無い・・・。』

『・・・そうか・・・。』


 顔を向けずに放った明石の声に神通は応えながらも、その視線をベッドの端にある宗谷の手に流す。細長い綺麗な指が備わった手がそこには転がっていたが、服の袖の部分から僅かに覗いた手首から上の部分は明石の言葉通りであった。そして袖口から少し肩の方に昇ったところにある肘の部分には、夏服用に緑の刺繍で施された臂章がある。臂章自体は神通も部下達の服装で毎日見ているのだが、宗谷の臂章は兵科を示す錨のマークが主計科を示す筆のマークになっており、その周りにある囲いと桜の装飾は、宗谷が人間で言う所の主計科所属の一等兵曹である事を示していた。艦魂社会で言えば明石と同じ特務艦の艦魂達が身に付ける物である。

 明石のお仕事とその相手が特務艦である事を昨夜の内に耳にしていた神通は、視界に入ったその服装からこの人物が宗谷艦の艦魂である事を改めて理解するのだった。


『これじゃ経口摂食はちょっと無理だね・・・。』

『うん?けいこう・・・、なんだって・・・?』


 いきなり専門用語を口にする明石に神通は首を捻りながらそれを問おうとするが、明石は神通の声などまるで無視して横に置いていた彼女の大きな薬箱を開ける。やがて片手を突っ込んで箱の中でガサガサと音を立て、中から何やら濃い色をした小さな瓶を取り出した。得体の知れない妖しげな瓶が何本も箱から取り出され、神通はその瓶の正体を探ろうと明石のすぐ傍まで足を進めて目を凝らす。だが明石はすぐに彼女のその行動を遮るようにして声を上げる。


『神通。なんでも良いから食べ物、持ってきて。』


 またしてもいきなりな明石の言葉で神通はすっかり状況が飲み込め無くなってしまうが、明石は続けざまに神通に向かって声を発する。しかしその表情には、暫くぶりに見る軍医少尉としての迫力があった。


『なるたけ味は薄い物。あと果物とお魚は必須。』

『・・・ん。解った。』


 今はとにかく軍医としての表情を浮かべる明石にこの場を任せる事を決めた神通は、返事をするや明石が向かうベッドに背を向けて早歩きで部屋を出て行った。

 遠くなっていく靴音と扉が閉まる思い金属音を背後から受けながら、明石は薬箱の中から小さな針と管を取り出してそれを繋ぎ合わせる。針とは逆側に当たる管の末端にはさらに薬箱から取り出したゴム製の手のひら大の袋を取り付け、明石は袋の中へと瓶に入った液体を注ぎ込んでいく。やがて液体で満たされた袋を持って彼女は立ち上がると、背後にあった部屋に供え付けられている椅子をベッドの脇まで引っ張ってきて、その背もたれの一番上の部分に袋のホックを引っ掛けた。


『よし・・・と。』


 明石は溜め息交じりでそう呟くと治まりかけてきた汗を拭い、手近にある宗谷の左腕を服の隙間から引っ張り出す。ヒョロヒョロとした宗谷の腕は一度も服に引っかかる事無く明石の前に姿を現し、それが如何に異常であるかに明石は眉をしかめつつ自身の手を動かしていく。指の感覚を使って宗谷の肘の辺りに目標を探し当てた明石は、ゆっくりとした動きで管の繋がった針をそこに刺した。その針が思うように刺さっていることを確認し、明石は針と管を紙テープにて宗谷の腕に巻きつける。


『・・・う、ぅ・・・。』


 それは微かに部屋の中で響いた声であったが、明石は驚いてその視線を宗谷の顔に向けた。なぜならその声は、明石の口から漏れた声ではなかったからだ。僅かに見開いた明石の瞳には、頬の辺りの筋肉を小刻みに小さく動かす宗谷の顔が映る。


『宗谷・・・!宗谷!』

『・・・ぅぅ・・・。』


 顔を近づけて明石は宗谷の名を呼ぶ。埃が付着した潤いを感じられない前髪の下で、宗谷は明石の呼びかけにしばらくの間は眉や唇を小さく動かすばかりであったが、その唇の隙間から微かに漏れてくる宗谷の呻き声は彼女が意識を取り戻しつつある事を明石へと伝えた。明石は宗谷の表情の変化に気を配りつつ、先程彼女の腕に刺した針に視線を流して異常が無いか確認する。

 輸液処置を開始したばかりでの容態の変化。それは明石に処置における失敗、又は副作用の懸念を抱かせていたが、宗谷の腕の状態を見る限り異常は認められない。針の上に再びガーゼを覆わせた明石は、小さく安堵の息を放ちながら宗谷の顔へと視線を戻した。すると宗谷は眉や閉じた瞼を今までよりも激しく動かし始めていた。


『宗谷・・・。』

『・・・ぅうっ・・・。』


 少しだけ力が篭ったような感じの呻き声を上げた宗谷は、明石の呼びかけから少し間を空けてゆっくりと瞼を開いた。明石はすかさず宗谷の顔に迫るようにして自身の顔を近づけ、薄っすらと覗き始めた彼女の瞳に意識を集中させる。その瞳の動きは酷く緩慢で一定の大きさを維持する事は無いが、彼女の身体状況を栄養失調と判断していた明石はその事を予測済みであった。片手を宗谷の顔の前に出して部屋の照明に対する影を造りながら、明石はようやく意識を取り戻した宗谷に声を掛ける。


『大丈夫?』


 明石の声を受けた宗谷はゆっくりとその視線を左右に流し、やがてすぐ傍で自分を覗き込んでくる彼女の顔に気付いた。次いで、さっきまで暗闇の中で響いていた声の主が彼女である事を察し、宗谷は自分が居る場所が全く知らない所であるとまだ朦朧とする思考の中で理解する。


『こ、ここは・・・、どこ・・・?』


 まだ擦れたような声でたどたどしく言葉を放つ宗谷であったが、明石はようやく彼女が受け答えができる様になった事に心から安堵して胸を撫で下ろした。本日初めて口元を緩めた明石はおもむろに宗谷の顔へ手を伸ばし、その左目の辺りに垂れるパサパサとした感じの髪を掻き揚げてやりながら声を返す。


『私は明石。貴方と同じ艦魂で、ここは私の艦の中。』

『あ・・・か、し?』

『船倉で倒れてたのを見つけたから、ここまで運んできたの。私は軍医だから、もう大丈夫だよ。』


 明石は明るいながらも刺激を与えないように静かな口調でそう語りかけながら、自分の左腕の中央に付けられた赤十字の腕章を宗谷の顔に近づけた。それをまだ輪郭の線がハッキリとしない視界で認めた宗谷は、ふと瞼を閉じて大きく深呼吸をする。

 元気とは言えないまでも落ち着きという雰囲気を放ち始めた宗谷に明石は優しく笑みを浮かべると、床に散らばっていた瓶や医療器具に手を伸ばして片付け始めた。子気味の良い音を放って薬箱へと吸い込まれていくそれらだが、あらかた片付けた所で明石は薬箱の蓋の裏に畳まれた状態で張ってある白い戦傷衣を手に取る。そして薬箱の蓋を閉めると同時に、彼女はベッドにて瞳を閉じたままでいる宗谷の身体の上へと畳まれた戦傷衣を置き、再び宗谷の顔に笑みを向けて状況の説明を続けた。


『栄養失調みたいだから輸液処置をしたんだけど、会話ができるんならなんとかご飯は食べれそうだね。友達に何か食べ物を持ってくるように頼んであるから、元気になる為にも頑張って食べてね。宗谷。』

『う・・・、うぅ・・・。』


 明石の語り掛けに黙ったままの宗谷だったが、その声が終わると同時に彼女の閉じられた瞼の隙間からは涙がこぼれ始めた。溢れた涙は埃で汚れた宗谷の頬を伝って行き、彼女の頬には涙が通った航跡が幾重にも浮かび上がっていく。そして同時にあげる宗谷の泣き声にはなんとか意識を取り戻すせた事を喜んでいる感じなど無く、ただ今という状況を悲しんでいるような感じを明石は覚えた。そっと宗谷に顔を近づけると同時に自身の手で宗谷の腕に触れながら、明石は宗谷が涙する理由を静かな声で問おうとする。だがそれは宗谷の唇から漏れた言葉によって遮られた。


『そ、宗谷・・・。どうし─。』

『うっ、う・・・。もう、頑張りたく、ない・・・。元気に、なりたくない・・・。こ、このまま、死にたい・・・。ううぅ・・・。』


 涙を溢れさせて、呻き声にも似た声でそう言った宗谷。

 明石はその宗谷の言葉に艦魂として生を受けて以来、初めての衝撃を覚えて驚きを隠せなかった。今まで知り合ってきた友人や仲間、先輩に師匠。その全ての者達がそれぞれの考えや思いを持って生きている事は人間も艦魂も限らず同じであったが、いま目の前にいる宗谷は彼女の知り合ってきた命の中では初めて死を欲する者なのであった。どう生きるべきかという事を教えてくれた朝日(あさひ)の言葉を常に脳裏に掲げて生きてきた明石にとって、『死にたい。』と口にする宗谷の言葉は予想外であり、明石はなんと声を掛けて良いのかも解らなくなってしまった。


『ううぅ・・・、うう・・・。』

『・・・・・・。』


 侘しい部屋の電灯による肌色の灯りで照らされる中、明石は僅かに口を開けたままの表情で止め処なく涙を流す宗谷の顔を眺め続けていた。

 

 後年、戦後間もない時期にあって地に落ちていた日本民族一億の夢と希望と誇りを唯一身に背負い、諸外国の艦に比べての性能差やその老齢を物ともせずに南極海の荒波へと勇敢に立ち向かっていく宗谷。

 このとある8月の夜こそが、明石とそんな宗谷の初めての出会いであった。

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