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第五〇話 「横須賀の夜」

 僅かに蒸し暑さを帯び始め、虫の声が賑やかになり始めた夏の夜。

 横須賀海軍工廠を望める海岸地帯の一角にある海軍砲術学校の宿舎の一室には、風呂から戻って部屋の扉を閉めた(ただし)の姿があった。


『だあぁ〜、疲れたな・・・。』


 部屋に入るなり忠は誰に向けたわけでもなく声を上げる。風呂から上がったばかりで軍装の隙間から覗く彼の肌からは湯気がほのかに立ち上っているが、忠はそれでもその言葉通り、その身に溜まった疲労感を忘れる事は無い。本日も怒鳴られるわ殴られわという砲術学校の日常を過ごしたのだから無理も無い。

 忠はベッドへと歩み寄りながら頭から軍帽を取り、部屋の中ほどに至った所でその軍帽を二段ベッドの下側に向かって無造作に放り投げた。そして今度は胸元に手を伸ばしてホックやボタンを外し始める。


『ふうぅ・・・。』


 またしても疲労の色合いが濃い息を吐きながら、彼はベッドに腰掛けて上着の袖から腕を抜く。すると

二段ベッドの上からは、部屋を同じくする仲間がひょっこりと顔を覗かせて忠に声を掛けてきた。


『おう、(もり)。お疲れ。』

『お疲れさんです・・・。あれ?まだ帰ってなかったんですか、藤平(とうへい)さん?』


 彼の名は藤平孝三(とうへい こうぞう)。忠と同じく砲術学校普通科学生として励んでいる帝国海軍少尉であるが、兵学校は忠より一期前の65期だ。本当なら昨年に砲術学校の門を潜る予定だったらしいが、上官と喧嘩して入校取り止めを食らった男であった。しかしその理由は「艦隊勤務においてイジメを受けていた彼と同じ分隊の水兵の事で他所の分隊へと怒鳴り込んだ。」という物であり、その辺で古参風を吹かして威張り散らしてる先輩とは訳が違う。事実、僅か3ヶ月の砲術学校生活で忠はすっかり彼の事を慕っており、辛い事この上ない毎日を必死で忠が頑張れているのはこの爽やかに笑う藤平の存在が大きかった。

 

『夜行にでも乗れば、宇都宮ぐらいまでは行けるんじゃないんですか?』

『宇都宮からまた少し山奥に行かにゃならねえからな。面倒臭いから帰んねえ事にしたわ。』



 盆の帰郷を含んだ忠の言葉に、藤平は首の付け根辺りを荒く掻きながら声を返す。ちょうど5日間だけの連休を与えられた事によってのやりとりであったが、帰郷しないという藤平の言葉に忠は素直に頷く。いくら実家が近くても、疲れが溜まったその身体に鞭打って出かけようという気力は、忠と同じ様に彼にも無かったのだ。せっかくの休日を過ごすなら、その言葉通り布団の上でゴロゴロとして身体を休めるのが一番なのである。

 その事を即座に理解する忠は小さく笑って肯定の言葉を返し、背後に脱ぎ捨てた上着のポッケに手を突っ込んで煙草を取り出す。すると忠の顔の前には、ベッドの上に横たわる藤平の右手がおもむろにダランと垂れてきた。忠は口に挿そうとしていた一本の煙草をすぐに藤平の右手に差し出し、手渡すとすぐにまた煙草の箱に手を伸ばして中身を取り出す。忠に先駆けてその頭上からはマッチをする音が響き、しばらくすると藤平の疲労の色が滲んだ溜め息が聞こえてきた。


『ふうぅ〜・・・。悪いな、森。ちょうど"弾切れ"でよ。』

『いや、とんでもない。』


 先輩風を吹かす事も無く素直に例を口にした藤平に、忠は疲れたその心を少しだけ明るくして声を返す。やがて忠はベッドに大の字になり、ベッドの脇にある小さな棚の上にあった灰皿とは名ばかりの空き缶に手を伸ばす。枕元に置いた灰皿に煙草を軽く打ちつけて灰を落とし、再び口に挿した忠。その瞳には、間近にあるベッドの底を背景にしてゆらゆらと宙を舞う煙草の煙が映る。その内に忠の口から吐かれた煙を伴った息に乱されて煙による渦潮が再現される中、ベッドの上からは藤平が顔を覗かせること無く声を掛けてきた。


『そうだ、森。すぐそこまで出歩く元気があるなら、明日は浜に艦隊を見に行ってみないか?』

『ん?艦隊・・・ですか?』

『おお。夏季艦隊訓練の時期だろ。小林(こばやし)から聞いたんだが、第二艦隊が来てるらしいんだわ。』

『第二・・・艦隊、ですか・・・。』


 忠の返す声が少し重くなる。もちろんその理由は横須賀に来ているという第二艦隊の名を耳にしたからであり、忠は虚ろな視線を宙に浮かぶ煙の渦に向ける。その記憶には第二艦隊付属として配属されている自身が乗組んでいた艦と、その艦の命たる存在の事が蘇った。

 だが不思議な事に、僅か3ヶ月前まで一緒に過ごしてきた沢山の思い出はいくらでも忠の脳裏には浮かんでくるのに、そこには常に思い出の中心にいた人物の顔が全く浮かんでこなかった。どんな目をしていて、どんな声をしていたか。どんなクセを持っていて、どんな考え方をしていたか。そのどれ一つとして、忠の記憶には相方の姿が蘇ってこない。そしてそれを思い出そうとすればする程に、忠の胸の中には強い想いが込み上げてくる。


 会いたいなぁ・・・。


 そんな言葉を脳裏に過ぎらせた忠は藤平の提案に了解の意を伝えようと決心し、仰向けになっていたその身を起して顔を頭上のベッドに向けて上げる。だが彼が顔を上げた刹那、口元に刺していた煙草の先端からは灰の塊が零れ落ちた。


『あ。』


 太腿の辺りに落ちた灰の塊は衝撃で四散し、布団の上に粉塵となって散る。すぐさまそれを手の甲を使って床へと払いのける忠であったが、ふと手を動すその最中にかつての職場で同じく灰を床に落としてこっ酷く相方に怒られた出来事を思い出した。もちろん先程までと同じ様にそこにいた相方の姿は明確に蘇ってこないのだが、未だにこうして不注意から同じ過ちを繰り返している自分の事を彼は妙に意識する。そしてそんな変わらぬままの自分が顔を見せた際、とあるやりとりがそこで起きるのではないかと予測した。


 砲術学校はもう終わったのか?

 いや、まだだ。

 では、何しに来た?


 その次に返す言葉は忠には思いつかなかった。しかし自身がそこでどんな行動を取るかというのは、既に彼の表情が苦笑いになっている事から察するに難しいことは無い。会いに行ったところで、また昔の様に所詮は笑って誤魔化すのが関の山なのである。

 その事は一時の願いに駆られた忠に、何一つ変わっていない自分の身の程という物を思い知らせた。


 ダメだ・・・。


 放った溜め息にそんな思いを滲ませた忠は枕元にあった灰皿を手繰り寄せてその底に煙草を押し付けると、起していた上半身を再び仰向けの状態に戻す。同時に右手に持っていた灰皿も棚の上に戻し、彼は少しだけ寂しそうな声で藤平への返事をした。


『・・・遠慮しときますわ。すいません・・・。』


 退屈な連休を少しでも楽しくさせてやろうと考えて声を発した藤平であったが、それに対して返ってきた予想外の忠の言葉を受け、ベッドの上から顔だけ覗かせて忠に声をかけてくる。そしてその藤平の放った言葉の中の一言こそ、忠が考えを巡らした挙句に相方にそう思われるのではないかと恐れた事であった。忠はその言葉に自身の未熟さを改めて思い知り、そんな自分が先程の提案に乗って行動したなら藤平の言葉の通りになるだろうと考える。そしてそれを自身に対して言い聞かせるようにして、忠は藤平に声を返すのだった。


『なんだ、お前?明石(あかし)艦では嫌われてたのか?』

『・・・はい。こんな馬鹿ですから・・・。』

『ふぅ〜ん、そっか・・・。』


 残念そうな声を発して顔を引っ込めた藤平がその身を横たえている二段ベッドの上側の底面を、忠は焦点の合っていない視線で黙って眺めていた。やがて彼は額に左手の手首の辺りを添え、隠すように覆ったその手の下にある両目の瞼を閉じる。真っ暗な視界の中で記憶に残る鉄道唱歌を心の中で歌いながら、彼は深い眠りへと落ちて行った。










 昭和15年8月1日、第二艦隊は横須賀海軍工廠に到着した。

 台風が多くなり始める時期であると同時に、この国では最も暑い日々が続く時期での寄港は第二艦隊の艦艇にとってはありがたいが、それは乗組員達にとっても同様である。つい先週まで彼等は蒲郡で安息の日々を過ごしていたが、横須賀に到着すると同時に第二艦隊はまたしても休養を取る。もちろんその理由はお盆の時期であるからだ。横須賀から近い関東一円出身者の大半は帰郷の為に続々と艦を降りていくが、もっとも関東出身者でなくとも窮屈な艦内での生活は乗組員達の足を陸地へと誘う物であり、所属の艦艇からは人気がぱったりと消え失せるのだった。


 だがその中でも明石艦では、本当の意味で艦を降りる人物がいた。

 第二代明石艦特務艦長を努めた宮里秀徳(みやざと しゅうとく)大佐である。既に7月15日付けで艦長の任を解かれていたのだが、次の職場である艦政本部への出仕の猶予期間中に海軍省のある東京に近い横須賀へと巡航する事が決まっていた為、彼はここまで明石艦と行動を供にして来たのであった。

 常に部下に対しても丁寧な言葉遣いで接しながらも、戦闘訓練の際には薩摩隼人(さつまはやと)の片鱗を窺わせる事で乗組員達からも信頼されていた宮里大佐。乗組員全員の帽触れにて見送られながらラッタルを降りていく彼の背中を、明石もまた決して彼には伝わらない事を承知しつつ、手を振って見送った。


 そしてこの時からちょうど一年後、宮里大佐は艦政本部での実績と工作艦である明石艦にて培った修理補修作業の監督経験を買われ、人類史上世界最大の戦艦においてその初代艦長を努める事になるのであった。





 同日正午過ぎ。

 明石は定例の戦隊長会議に出席する為、四戦隊の高雄(たかお)艦の長官公室にその身を移していた。帝国海軍の歴史と伝統、未来、教育、そしてその戦力たる艦艇の誕生を一手に担う横須賀海軍工廠に来れた事は第二艦所属の艦魂達の心を明るくさせるのには充分であり、明石と近しい間柄である那珂(なか)(かすみ)はこの付近が故郷であるからなおの事であった。もっともその場には霞はおらず、四水戦の戦隊長を務める那珂にしてもはしゃいで室内を騒がしくするような事は無い。いつもの様に長机の一角に陣取った神通(じんつう)と那珂、明石の3人は明るい表情を浮かべながらも、黙って会議が始まるのを待っていた。

 やがて静かだった室内には扉を開ける音が響き、それに続いて長机の上座に近い所で立ち上がった摩耶(まや)の声が木霊する。


『艦隊旗艦に敬礼。』


 そして8月度の戦隊長会議が始まった。

 その最初の内容は欧州戦線にて展開された「航空戦」という聞き慣れない戦闘形態の物であり、近代における戦闘の多様化という物を彼女達は垣間見る。特に二航戦の飛龍(ひりゅう)蒼龍(そうりゅう)にとっては飛行機という兵器を駆使するその任務特性もある事から、非常に熱心にその戦闘の詳細に耳を傾けていた。ちなみに彼女達が議題としているこの航空戦とは英独によって展開された物で、ドイツ空軍が打ち負かしたフランス北部の海岸からドーバー海峡を挟んでイギリス本国への爆撃を企図し、それをイギリス空軍が死力を尽くして迎撃するという内容であった。世に名高い「バトル・オブ・ブリテン」である。


 帝国海軍の艦魂である彼女達は戦闘を生業とする自身の事もあり、こうして異国での海戦や海に関連する作戦を研究、考察する事は日常茶飯事である。その身に纏った銃砲が火を噴く時は国家の存亡が掛かった時であり、そこに発生するであろう敵国との戦いは絶対に負ける事は許されないのだ。もちろん艦魂である彼女達は誰一人として自身の分身たる艦を操る事は出来ないが、そこに必要とされる沢山の情報を頭に入れて置く事は決して無駄ではないと考えている。命を奪うか奪われるかという現実が繰り広げられる戦場に赴く事が自身の最大の使命とされる彼女達は、せめてそこで自身がとる行動の一つ一つに意味を見出したいのだ。

 だが悲しいかな、時局においては戦闘に関連する物事のみに対して関心を示すというその姿勢こそ、彼女達艦魂の限界でもあった。






 というのも日本国内においてはこの時期、欧州での戦況よりも遥かに重要な政治的な動きがあったのだ。しかしそれは艦魂達が知ったところでどうなる話ではなかった。


 まず先月12日には欧州戦線不干渉を絶対公約と掲げていた米内(よない)内閣が陸軍大臣の畑俊六(はた しゅんろく)大将の辞任を受け、内閣総辞職へと追い込まれていた。これは米内内閣の行う外交、及び国防政策に好感を持っていなかった陸軍部が畑大将に辞任を指示してその後任を指名しなかった事が引き金で、その根底には「軍部大臣、及び次官たる者は内閣の人選ではなく、天皇陛下の統帥権下にある現役の軍人でなければならない」という当時の日本の政治制度があった。歴史に名を残す「軍部大臣現役武官制」である。

 米内内閣は陸軍部からの同意が得られなかった事によって内閣人事に欠員を生じ、その後任を陸軍部に頼もうにも天皇陛下直々の指揮監督権下にある彼等に対しては物を言う事もできず、瓦解へと追い込まれていったのであった。

 やがてその7日後の7月22日には、昨年の1月15日まで内閣総理大臣を拝命していた近衛文麿(このえ ふみまろ)が新たに内閣を組閣した。第二次近衛内閣と呼ばれるこの内閣では海軍大臣はそのまま吉田(よしだ)中将が留任したが、後年においても有名になる東条英機(とうじょう ひでき)松岡洋右(まつおか ようすけ)が政治の舞台に出てきたのはこの頃である。もちろん東条は陸軍大臣、松岡は外務大臣を拝命したのである。

 また、4日後の7月26日に行われた大本営政府連絡会議においては、6月から密かに陸海軍の事務当局が摺り合わせてきた「基本国策要領」が発表され、即日閣議決定された。それは以前の第一次近衛内閣の頃より叫ばれてきた「東亜新秩序」の構想から繋がる物であり、松岡外相は関連する談話に際してこの国策要領の目指す物を「大東亜共栄圏」と呼んだ。

 そしてこの大本営政府連絡会議において、日本という国が走るレールの行き着く先は決定した。基本国策要領が示す状況の打開とは暗に支那事変の早期解決を指しているのであり、その具体案として欧州戦線にて瓦解したフランス、オランダ両国の領土、即ち軍事的空白が生じている仏印と蘭印への武力行使も考慮するという国防政策が決定されたのである。いわゆる「南進策」である。


 この時、大日本帝国という国の終着駅は決定した。そしてその終着駅を降りた所にある光景を実際に彼等が目にするのは、この時からちょうど5年後の事である。

 しかしそれを知る者は人間でもごく少数のみであり、明石を含めた艦魂達においてそれを知る物は誰一人としていなかった。







『では、閉会で宜しいですか?』

『それでよろし。みんな、ご苦労だった。』

『敬礼。』


 戦隊長会議が無事に終了したのは、既に舷窓の外に星空が広がった夜の事であった。

 軽い敬礼を返した愛宕によって解放され、室内にいる所属の艦魂全員の少し疲労が滲んだ溜め息が静かに木霊する中、明石は大きく息を吐きながら崩れるようにして椅子に腰を下ろした。


『ふぅういぃ・・・。緊張したぁ・・・。』

『・・・ふん。』


 力なく椅子に腰掛けて胸を撫で下ろす明石の横では、それを目にした神通が口元を緩めている。やがて神通とは明石を挟んで反対側の席に着いていた那珂が明石の肩にそっと手を乗せて、先程明石が口にした言葉の真相を労った。


『ご苦労様、明石。初めての報告だったけど、良くできてたよ。』


 姉の神通とは違い低くトーンの聞いたハスキーな声の持ち主である那珂だが、これまた姉とは大違いの優しくて物腰の柔らかいお姉さんである彼女の言葉は明石の疲れきった心を撫でていく。明石は那珂に僅かに歪んだ笑みを向け、その心遣いに感謝して声を返した。


『ありがと、那珂ぁ。や〜っと、終わったぁ・・・。』

『ふふふ。やっと寝れるね。』


 那珂の言葉を受けて、明石は椅子に浅く座りなおすと両手を天井に向けて伸ばした。その身に溜まった疲労と倦怠感が、明石の表情を一気にしかませる。

 実は那珂の言った通り、明石は昨日から寝ていないのだ。もちろんその理由は先程まで続いていた戦隊長会議での明石による報告である。軍医少尉として第二艦隊に属する明石は、その分身が寄港地に着く度に他の艦艇からの要修理品を引き受けているのと同様に、仲間達の健康管理や怪我の対応に追われている。幸いにして骨折等といった大きな怪我は今のところ発生していないが、捻挫や筋を痛めたという軽い怪我はそこそこに多い。ただ艦魂としては絆創膏で済む怪我も、その艦体にしたら機銃やマスト、ポンプ、各種配管とその継ぎ目、時には機関の部品にも至る物であり、決して怪我の程度ほどに軽く考えて良い物ではない。修理に使う部品や資材だって大事な大事な国家の財産であり、そもそも日常から「どういう異常処理をしているか?」というのは人間の一般社会においても大変に重要視される物なのである。

 そんな事から明石は横須賀に着く前に、艦隊旗艦の愛宕よりこれまでの治療履歴とそれに伴う修理補修記録を統括して報告するようにと指示を受けたのであった。膨大な量の治療記録と工作部で保管してある記録簿を片っ端から読み漁り、その内容を引用して報告書形態に纏めるというのは根気と時間の掛かる物である。まして初めての報告書作りという物はどのような文書形態にすべきかですらも頭を捻るから、殊に時間が掛かる事については尚更である。明石も必死になって頑張ってみたがやはりそれでも時間は足りず、窮余の策として彼女は自身の睡眠時間を削ってお仕事に励んだのであった。


『くあぁ・・・。ねみぃ〜・・・。』


 和やかな雰囲気である室内とは言え、諸先輩方が居る前で明石は大きく口を開いてあくびをする。もっとも気合だけでお仕事を頑張ってきた彼女であるから、やっとの事で解放された事に気が緩むその姿は無理も無い事であるし、神通や那珂も含めてそんな明石を咎めようとする輩はいない。かつては自分達も同じ様な思いを味わってきたからである。それは帝国海軍だろうが普通の会社だろうが、艦魂だろうが人間だろうが、組織内において新人が必ず最初に潜らねばならない登竜門なのであった。


 するとその時、目を閉じていた明石は頬に極度に冷たい物体が張り付く感覚を覚える。


『うおっ・・・!?』

『良い報告だったよ、明石。でも、かなりのお疲れみたいだね。』


 咄嗟に目を開けて顔を向けた先でそう言ったのは、なんと艦隊旗艦の愛宕であった。その身体から明石の頬まで伸びた手には、キンキンに冷えたビール瓶が握られている。期待の新人の苦労を労おうとする愛宕の心遣いであったが、明石はそのビール瓶を受け取る事も忘れて即座に立ち上がった。


『す、すいません・・・!』

『いいよ、いいよ。座ったままで。とりあえず、これ。』

『は、はい・・・。い、頂きます・・・。』


 第二艦隊旗艦として少将の立場を頂く愛宕を前にして慌てる明石だったが、愛宕は僅かに唇の隙間から白い歯を覗かせて微笑み、そんな明石の肩に瓶を持っていない方の手を触れて再び席へと座らせた。差し出されたビール瓶を明石は頭を下げながら両手で受け取り、胸の前で大事そうに抱きかかえる。すると服の上からはなんとも嫌な感じの冷たい感触が伝わり始めるが、明石はちょっと表情を歪めながらも受け取ったその場で横にある机の上に置くのは失礼だと考えてそのまま持ち続けた。

 その内に彼女の目の前では、笑みを浮かべた愛宕が口を開く。


『徹夜だったのかな?』

『は、はい・・・。』

『そっか。良い内容だったよ。でも指摘と修正の項目を並べる時には、反対に現状の良い項目も一緒に並べてくれると読み手としても有り難いかな。』

『はい・・・!き、気をつけます・・・。』


 愛宕の笑みを伴った指摘に、明石は首を引っ込めるようにして返事をする。明石はいつも10歳以上も年上である神通や那珂と敬語も交えず話しているのが、それはこの二人を実の姉のように慕っているからである。何よりその階級だって近い。だが愛宕は正真正銘の連合艦隊における艦魂の幹部であり、その階級は少将である。厳密には戦隊長という役柄を拝していない明石は普段からこの愛宕と話す機会はあまり無く、初めてお仕事以外で声を交えたのもつい先週の蒲郡での事であったのだ。

 しかし愛宕は決して明石のそのビクビクとする姿を楽しんでいる訳ではないし、そも彼女は明石の報告内容の指摘をする為に話しかけた訳ではなかった。

 やがて愛宕は上着のポッケから何やら縦長の紙包みを取り出して、明石の前に差し出した。またしても愛宕の手より差し出された物を視界に入れた明石はビール瓶を抱いて右往左往するが、見かねた那珂がそっと手を伸ばして明石の手からビール瓶を引っこ抜く。明石はようやく自由になった両手を紙包みに伸ばし、再び頭を下げながら紙の両端に手を触れた。その刹那、愛宕の声が明石の耳に届く。


『これは長門(ながと)中将からの命令書。なんでも2月に編入されて6月に改装が終わった特務艦が、いま横須賀に居るらしいんだ。で、いよいよ任地である北方海域へ出発するそうなんだけど、その事前の健康診断をするようにだって。』

『あ、は、はい・・・。』


 愛宕の手から紙包みを受け取りながら、明石はちょっと呆けた様な表情で声を返した。

 特務艦と呼ばれるのは彼女も同じ事であるのだが、実の所、明石が今まで知り合った特務艦の艦魂というのは師匠の朝日以外に一人もいないのである。友人である神通や那珂の分身は軍艦であるし、霞や(あられ)といった駆逐艦は軍艦ではないが特務艦でもない。そして2月に編入が終わったという愛宕の言葉を鑑みると、その世代も自分とは余り変わらないのではないかと明石は考える。疲れたところに新たなお仕事が舞い込んできた今という瞬間だが、そんな事を忘れた明石は新たな出会いを予感してその表情を明るくさせた。なにより自分と同じ特務艦にして、朝日と違い歳も近そうである。愛宕が首を捻る中、命令書を眺めたままでその口元を引きつらせるという明石の表情も決して無理の無い事であった。

 やがて愛宕は不思議そうな表情をしながらも声を発し、用件を済ませた事から明石に別れの言葉を放つ。


『疲れてると思うから明日以降で良いけど、頼んだよ。明石。』

『はい。有難う御座います。』


 覇気が出始めた表情でそう言った明石が深々と頭を下げ、愛宕はそれを背にして妹達が集まる机の一角へと戻って行った。


 すると明石は即座に紙包みに手を伸ばし、その中身を取り出し始める。早くその特務艦の名前が知りたかったのだ。一連の愛宕と明石のやりとりを横からそれとなく耳に入れていた神通と那珂も、明石が手元でガサガサと音を立て始めた事に気付いて顔を寄せてくる。


『特務艦か。愛宕少将は6月に改装が終わったとか言ってたが、なんか知ってるか、那珂?』

『ううん、私も知らないなぁ。ねえ、明石。名前は?』


 神通と那珂の声を受けた明石は、ちょうど包みの中から命令書を引っこ抜いた所だった。二つ折りにされていた書面を開くや、明石はそこに意外な発見をしてしまう。


『字、上手かったんだ。長門さん・・・。』

『ふふ。下手だと思ってたの?』


 那珂は明石の声を受けてクスクスと笑っているが、明石にとってはそれは予想だにしない発見であった。普段から公務をサボり、上着は袖を通すだけというなんともテキトーな格好でぶらつく長門は明石もよく知っており、その人柄からはお世辞にも綺麗な字が書けるとは想像できなかったのである。どうせまた妹に言われて不貞腐れながらペンを走らせたのだろうと明石は思っていたのだが、命令書の上に綴られたのはまるでタイプライターで打ち込んだかのようにバランスが取れた美しい字の群れであった。

 その光景に改めて「やればできる子・長門さん」という言葉を理解する明石。だがそんな彼女の肩を突付きながら、神通は命令書の端を揺らして声を上げる。


『おい、特務艦の名前は?』

『あっと、そうだった。え〜〜っと・・・。』


 神通の問いに明石はそう言いながら、書面の上で縦に並ぶ文字の列に目を這わせていく。やがて命令書の中程まで視線を流した所で、括弧で閉じられた漢字二文字を見つけた。そのアイヌ語独特の珍しい発音を基にした読み方に明石はなんと読むのかと首を捻るが、明石と頬をくっつける様にして書面を覗き込んだ那珂はすぐにその読み方を察して声へと変える。


宗谷(そうや)・・・かぁ。』

 

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