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わだつみの向こう ─明石艦物語─  作者: 工藤傳一
第一章 巡り合わせ
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第五話 「夏の思い出」

 暖かい風がそよそよと明石(あかし)艦の発令所を通り抜ける。

 夏の暑さも最近は薄らぎ始めていたのに今日は暑い。青い海と空に囲まれる昼下がり、(ただし)は発令所でいつもの書類仕事に励んでいた。少し額に掻いた汗を右手の甲で拭く。暑さが少し篭る発令所は若干蒸し風呂の様相を呈しつつあり、室内に居るとじとじとと汗が沸いてくる程であるがそれに反して忠は機嫌が良い。

 晴れた天気に意気揚々と射撃訓練に望んだ午前の課業。その中で実施された明石艦の実弾射撃の成績は修正3度にしての命中判定だった。水平線にも近い波間で粉々に吹き飛ぶ標的ブイに、思わず砲術科全員が万歳を歓呼する。その瞬間は砲術士として射撃教練に携わった彼には忘れられない瞬間である。それは高角砲の水平射撃で成し遂げた事であり、対艦用の砲を装備する僚艦の(かすみ)艦ともう1隻の僚艦である(あられ)艦と同等の成績だった。


『よくやった! 今日はたらふく飲ませてやる! オレのおごりだ!』


 自分の部屋に日本酒を何本もしまっている堀田特務艦長の心底嬉しそうな声がまだ耳に残っている忠。その顔も充実感と安堵の念で(ほころ)ぶという物。自然と書類に記される今日の忠の文字の筆圧も高くなる程で、特務艦長から直々にお褒めの言葉を貰った青木砲術長も嬉しそうだった。伝声管から聞こえてきた青木大尉のあの嬉しそうな咆哮。負けて当然と思われていた駆逐艦にだって、明石艦の砲撃は負けていない。砲術科の快挙に他の科の兵員達も沸きあがり、明石艦の士気は大いに上がっていた。


 そしてこの時、訓練の全過程を終えた霞艦、霰艦、明石艦は呉への帰途についた所だった。






『森〜さん!』


 ニヤニヤしている忠に、発令所の右舷側入り口から声をかけてきたのは霞だった。彼女はパタパタと水兵帽で顔を扇ぎながら発令所に足を踏み入れてくる。陽に焼けたようなその麻色の顔に大粒の汗を掻いているが、持ち前の笑顔でそれをキラキラと輝かせていた。とても元気の良い笑顔をする少女である。


『やあ、霞。どうしたんだ?』

『あ、成績よかったからって天狗になってますね? ヒドイなぁ〜。』

『あっはっは、解った?』

『んもう、顔に書いてありますよぉ。悔しいなぁ。』


 霞は少し口を尖らせた笑顔で忠の机の脇まで来ると、手近な壁にもたれて座り込んだ。腰を下ろしたと襟元を開け、片手に持った水兵帽で扇いで風を送っている。『ふぅ〜。』と小さくため息をしながら汗にまみれて涼む霞には運動好きの活発な女性の典型のような雰囲気も見て取れ、忠の記憶の中では少し焼けた小麦色の肌が彼女ほど似合う女性はいない程である。人懐っこいその人柄も忠の胸に親近感を容易に湧かせ、彼は椅子に腰掛けたまま顔だけ霞に向けて声を掛ける。


『あれ、霰は?』

『呼んできましたよ。駆逐艦は狭いんで明石さんとこ行こうって。』


 忠の問いに答える霞が声を放ちながら顔を右舷入り口に向けると、時間を置かずしてそこに白く淡い光が現れた。太陽の光が眩しい今日は光ったかどうかわかりにくいながらも、淡い光が消え始めると同時に色白のおかっぱ頭といういでたちの霰がふわっと舞い降りる様にして光の中から姿を見せる。

 次いで礼儀正しい霰は忠を見るや、なんとも綺麗な笑顔で右手を額に添えながら口を開いた。


『あ、森さん、はばかりさんどす。霞姉さんに誘われて来はったんどすけど、だんないどすやろか?』

『やあ、霰。オレは大丈夫だよ。ゆっくりしてくと良い。』

『おおきに。』


 軽い敬礼を返して霰を楽にしてやる忠。

 水兵服にコテコテの京都弁、まるで市松人形の様な髪型と糸目の顔という特徴的な人柄を持つ霰。鼻から息を抜いて放つような独特の発音は少し真面目さを欠く様な印象もあるが、そんな声に反して紡ぎ出される言葉とそのいでたちにはほのかな優雅さが溢れている。


 オレが津軽弁を言うと田舎者丸出しなのに、何故彼女はこんなにも(みやび)に見えるんだ?


 そんな言葉を脳裏に過ぎらせて少し理不尽である事に僅かに苦笑を浮かべつつ、忠は挨拶を終えて姉妹でのやりとりを始めた霞と霰をしばし眺めてみた。


『んもう、霞姉さんたらそないな所にちょちょこばってやすけない~。』

『暑いし疲れるんだよぉ。森さんも楽にして良いって言ってくれてるし。』


 呆れた顔をした妹の霰が、座り込んでくつろぐ姉の霞に声をかけている。こうして見てみると体格や仕草が大人っぽい霰と、まだ顔立ちにもやんちゃさが残る霞ではどっちが姉なのか良く解らない。おかしな姉妹であるそんな二人のやり取りに忠は微笑む。

 その内に妹からの苦言から上手く逃れようとしていた霞は、室内にこの艦の主である人物が見当たらない事に気付き、これ幸いと思いながら忠にその事を尋ねてみる事にした。


『そういえば、明石さんはどこですか?』

『あ〜、暇だから散歩す─。』


 霞に声を返そうとした忠だが、それを遮るように甲板を駆ける足音が響いてきた。700人以上の乗組員がいる明石艦だが、足音のタイミングが誰かさんに似ている事から忠はすぐに音の主に見当がつく。そしてその考察は当たっていた。


『はあ、はあ・・・! あ、あれ・・・、霞と霰もきてたんだ・・・? はあ、はあ・・・!』


 走ってきたからか、汗だくで大きく肩で息をする明石。大きく上体をかがめ、帽子が握られた両手を膝につけて乱れた呼吸を整えている。ただ自分の分身の中だというのに血相を変えたような明石のその姿の理由は忠も含めた室内の全員は察する事が出来ず、挨拶もそこそこに霰が早速その事を声に変え始めた。


『こんにちは、明石さん。あの・・・、どないしはったんどすか?』


 霰の問いに一瞬笑みを返すも、明石はすぐにまたうつむいて呼吸を整える。どうやら全力疾走であったらしく、一向に落ち着かない吐息に胸を押さえる明石に、その様子を不思議に思う忠は目を丸くして言った。


『どうした、明石?』


 忠の問いに未だ苦しそうにする明石であったが、乱れた息と流れる汗の中で彼女は笑顔を作って声を返す。


『艦尾・・・、はあ、はあ・・・! 艦尾で面白い事やってる・・・!』







 呼吸を落ち着かせた明石と霞、霰、そして忠の4人は発令所を出て最上甲板を艦尾に向かって見る事にしたが、甲板上を歩いている途中に艦橋を過ぎた辺りの所で甲板中央の工作室天蓋が開いている事に気づいた。

 普段近づかない工作科の持ち場は忠にとっては珍しい。軽い気持ちで忠は歩きながら上からひょいっと覗き込んでみるのだが、その際に彼は火花を散らす切断機の横に見知った顔をみつけてしまう。忠はその人物に思わず声をかけた。


『マサ!?』

『おお、あに・・・。失礼、砲術士!』

『いや、お前そんなトコで何してんだよ?』

『砲術長のおつかいですよ。工作科に頼んで(もり)を作ってもらってんです。』

『砲術長? も、銛・・・?』


 その言葉を受け、マサの横にいる工作科の下士官に目を移した忠。その下士官は長い資材用の鉄製の棒を切断機に斜めに当てて先端を尖らせていた。鉄粉が放つ独特の匂いが鼻に触れ、ギイイ!と切り裂くような鉄の摩擦音が耳を襲う。


『艦尾に行けば解りますよ。』

『ぷ〜〜〜! あははは!』


 工作機械による喧騒の中で放たれた忠の疑問を解決してやろうと企図するマサの言葉だったが、忠の後ろにいた明石はその声を聞くや口に手を当てて大笑いし始める。マサの言葉と明石の態度にさっぱり要領が得られない忠は、疑問符を浮かべる頭を左右に捻りながらもとりあえず艦尾に向かって再び歩みを進めてみる事にした。



 やがて4人は艦尾の第二主砲辺りまで来る。

 見れば艦尾端の旗竿の下に多くの乗組員が集まっており、その顔ぶれは士官、水兵とも関係ないようで、忠が覚えている限りでは艦内での所属の科もバラバラのようである。


 なんの騒ぎだろう、誰か転落でもしたのか?


『なんだ、あの騒ぎは?』

『いいから、いいから!』


 はしゃぐ明石に背を押されて忠は旗竿に向かい、霞と霰も顔を見合わせながらそれに続いた。

 そのまま忠が人ごみを退けて旗竿の下に出ると、青木大尉が艦尾から海を眺めてあぐらをかいて座っている。手には長い鉄の棒を持ち、その先に着いたワイヤーは遥か艦尾の向こうの海に向かっていた。

 これはもしやと上司の様子にある程度の予想をつけつつ、忠は目を丸くしてその上司に声を掛けてみる事にする。


『あ、青木砲術長? な、何してるんですか?』

『おう、森か。今集中してるんだ! 話は後にしろ!』


 普段は気の良い青木が珍しく眉間にしわを寄せて邪険にしてくる。そしてその青木の言葉に、彼の隣で胡坐を掻いている工作長の小笠原(おがさわら)大尉と主計長の川島(かわしま)中尉が腹を抱えて笑い出した。同時に周りの連中も大笑いしている。


『はっはっは、よお、砲術士。今はコイツに話しかけるな、また切られちまうからな!』

『青木大尉〜。そろそろあきらめませんかぁ? 夕食からおかずが消えちゃいますよぉ?』


 小笠原と川島のひやかしのような言葉に青木は視線をそのままに小さく舌打ちをした。口髭がピクピクしてしまう青木大尉の怒った表情は怖い顔になっていても、忠に限らずなんだか笑えてしまう。

 だがその最中、静かな笑い声が折り重なる空気を切り裂くが如く青木は叫び、手にした鉄の棒を強く振り回し始めながら立ち上がる。


『き、きた!!!!』


 見れば鉄製の竿の先が僅かにしなり、波の揺らめきのような規律正しい間隔と関係無くビクビクと動いている。竿の先から伸びていた糸がピンと張り、次第に左右に振られ始めて行った。

 それと同時に青木の周りからは、詰掛けた乗組員達のどよめきと歓声が湧き上がる。


『砲術長〜! 今度こそ頼みますよ!!』

『青木〜! 慎重にな〜!』

『おい、今、跳んだぞ! カジキマグロだ!!』

『砲術長〜! 行けええ!』


 だがそんな歓声もどこ吹く風で、青木大尉は真剣そのもの。『くそお! 逃がさねぇぞお!』等と、持ち前の野太い声で怒号をあげながら竿を引っ張っている。糸をかなり長く取ってあるのか、青木大尉はしまいには竿をかなぐり捨てて糸を引っ張り始めた。

 風に揺れる帝国海軍の象徴の軍艦旗のすぐそばに展開される、糸をグイグイと引っ張る青木大尉の勇姿。口髭の大男が子供のようにムキになって釣りをしている。それを見た忠は周りの野次馬と供に、上司への応援も忘れて腹の底から笑ってしまった。

 男達の笑い声が木霊する中、同じくその光景を目にしていた明石達3人もその場にひっくり返ってお腹を抱えている。


『お、おかしどす・・・! あっはははは!』

『あははは! カッコイイでしょ、私のトコの砲術長!?』

『へははは!!! お、お、お腹痛い〜! 死ぬ〜!』


バチン!


 刹那、切り裂くような金属音が響いたかと思うと青木はもんどりうって後ろに倒れた。どよめきを放ちつつも倒れた青木に駆け寄る兵員もいる中、野次馬の誰かが言った一言に熱中覚めやらない青木大尉は今度は烈火の如く怒り出す。


『あ、また切れた!』

岡崎(おかざき)! お前、今、俺の足踏んだだろ! お前のせいだ!!』


 そう叫んで逃げる岡崎二水を追い駆けだす青木大尉。士官に睨まれる水兵さんとはなんとも分の悪い光景ではあったが、彼等二人を除いた全員はそんな事も忘れて再び抱腹して笑い出す。なんとも可哀想に、岡崎二水は第二主砲を過ぎた辺りで青木大尉に捕まり、大きな身体つきを生かした腕力を胸座に集められて襟を締め上げられている。

 気を利かせた小笠原大尉に宥められてすぐに水兵を解放し、再びさっきまで格闘していた場所へと戻ってきた青木大尉だがその機嫌はそうやらまだ直っていないようだ。胡坐を掻いて旗竿の下に陣取りつつ、彼は床をガン!と一発小突く。


『はっはっは! 青木、どうするよ?』


 その様子で笑いが止まらない小笠原の言葉に、一度大きく眉間にしわを寄せた青木は懐から財布を取り出した。次いで財布に突っ込んで引き抜いた彼の手には、なんと二十円札が握られている。突如として出てきたその紙幣に忠が声を失う中、青木は小笠原の胡坐の中にお札を投げつけて叫ぶ。


『くっそぉ! ほらよ!』

『懲りねぇなあ、はっはっは!』

『鶏肉はもう最後ですからね〜?』


 青木大尉はどうやら釣り針とエサを自費で買って釣りをしているらしい。ちなみに少尉である忠の年俸は850円であるから、その額と割合を比べてみると考えると物凄い金の掛かった道楽である。だが忠は驚きながらも、すっかり金銭感覚が麻痺している上司にまたも笑いを隠せない。

 やがて青木大尉の放り投げた二十円札を懐にしまうと、小笠原大尉は小さな工具箱から大きめの釣り針を差し出した。糸を巻き上げる青木大尉が眼もくれずにそれを奪い取る。相当本気になっているらしい。


『いくら余りの資材で作ったモンだからって、これ以上はやれんからな! はっはっは!』

『わかってら! 川島、エサよこせ!』

『はいはい、どうぞ。』


 川島中尉はすっかり呆れているのかと思いきや目が笑っている。そんな川島中尉が力なく差し出した鶏肉を勢い良く奪い取る青木大尉。彼は巻き上げた糸に手際よく針を括り付け、今日の夕飯になるはずであった鶏肉の塊を釣り針に通す。すると周りの野次馬から声があがった。


『おおおお! まだやるらしいぞ!?』

『さすが砲術長〜! いいぞ〜!』

『あ〜はっははは! やめとけって青木〜!』

『うるせえ! どぉおらぁ!!』


 野次馬の歓声に全く耳をかさない青木大尉は、針が仕込まれた鶏肉を遥か艦尾の向こうに広がる波間の中へと投げ入れた。今は熱中してちょっと乱暴な言葉遣いの青木大尉だが、彼の普段の気の良さを知っている忠は小さく笑いながら人ごみの外に出る。


『お、森少尉!砲術長は釣れましたか?』


 人ごみを抜けた先で忠はちょうど工作科より戻ってきたマサと行き会った。マサの右手には2メートルはあろうかという銛が握られており、ご丁寧にも銛にはしっかり返しの形状まで与えられている。さすがは帝国海軍の最新鋭工作艦である明石艦、こんな工作はあっという間である。


『ははは、いや、まだだよ。』

『ですよね〜。やれやれ。』


 小さくため息をしながら、マサは人ごみの中に分け入っていった。

 一方、弟と別れた忠は、人だかりの少し後ろに位置する第二主砲の波除けを背に座り込んで笑っていた明石達の所まで歩て行き、歓声と笑い声が渦巻く光景を遠めに見る形で明石の隣へと腰を下ろす。


『や、やや子みたいどすな、あの大尉さん! あっはははは!』


 どうやら一連の青木大尉の一大釣り劇場は、霰の笑いのツボに的中したらしい。物腰の柔らかい落ち着いた少女であるにも関わらず、今は青木大尉を指差して酷く顔を歪めながら抱腹している。ただ笑うと霞に良く似ている霰を忠は無言で認め、雰囲気や物腰が似ていなくともやはり実の姉妹なのだなと彼女達の持つ姉妹像に感心した。

 その横では明石も口元に手を当てて笑みを浮かべており、いつも見慣れた自身の分身に乗組む者の意外な一面を知って喜びの声を上げる。


『ふふふ、青木砲術長も可愛い所あるなあ。』

『はは、困った人だ。こりゃ夕飯は雑炊かもな。』

『へははははは! でも面白いですねぇ! いいなあ、明石さん所は!』


 十台後半の外見を持つ霞が若々しい声で高笑いする中、忠はふと空を見上げた。大きく真っ白な雲がふわふわと流れている。西の空に傾き始めた太陽だがまだサンサンと眩しい光を放ち、海の波がそれを反射させる。なんとのどかなんだろう。晴れた日の昼下がりの海のど真ん中、人間ではないが女の子3人に囲まれて笑っていれるこんな一時も悪くないと忠は思いながら、少し笑いつかれた事もあってか小さく欠伸をする。


『きたあああ!!!』


 その時、青木大尉の2度目の咆哮に続いて艦尾の人混みにはどよめきが起こる。もっとも忠やその隣で笑う明石達は、あの調子では残念ながら結果は同じだろうと思って別段青木の様子を強く意識する事など無い。遠めにも再び竿を投げ捨てて糸を引っ張る青木大尉の姿は、さっきまで見ていた姿と何も変わっていなかった。


『おい、なんだ!?』


 ところがそんな中、青木の周りに居る野次馬が次第に騒ぎ出した。よく見ると青木大尉がしかめっ面で糸を引っ張っているのを忠は認めるが、何故だか竿の先から延びた糸は中々戻ってこない。ここにきてようやく忠と明石達も青木の様子がおかしい事に気付き、各々がその表情から笑みを薄くして行く。


『なんだろ?ちょっと見てきます!』


 そんな中、好奇心旺盛な霞が立ち上がって野次馬のところまで走り寄って行き、明石と忠は顔を見合わせながらもひたすら頑張る青木の顔を見て再び笑みも混じった声を交わす。


(くじら)でもかかったのかな?』

『あははは! 見て、青木大尉の顔!!』

『く、く、苦しどすぅ! ぐ、ぐ、軍艦旗の下で・・・! あっははは!!!』


 忠の疑問を他所に、明石と霰は再び始まった青木大尉の勇姿劇に大笑いしている。だが依然として野次馬からはざわめく声しか聞こえてこない。こんな状況ならさっきのように笑いの渦になっても良いような物であり、現に遠目から見ているだけの明石と霰は例に漏れず大爆笑している。だがこの時、青木大尉を中心とする明石艦乗組員達の輪では、その眼前にとんでもない代物の姿を捉えていた。


『お、おいあれ見ろ!!!』


 何やら野次馬の一人の血相を変えた声が忠や明石の耳に届くのと同時に、乗組員の輪の中からは霞が転びそうになりながら走って出てくる。霞は顔に先程まであった笑顔を浮かべてはおらずく、なにか恐ろしいものでも見たような青褪めた表情を浮かべていた。次いで彼女が叫んだ言葉に、忠と明石は仰天して驚きの音色も混じった声を返す。


『も、も、森さん! (ふか)ですよ、鱶〜〜!』


『な、何だって!?』

『うそお!?』


『ふ、ふ、鱶が釣れてきはった・・・! あっはははは!』

『霰、笑ってる場合じゃないって!!』


 種類によっては人間をも食べる事もある鱶の名に忠は危険を感じ、霰と霞のそんな幾分場違いな感じもする会話を尻目に上司である青木の元に駆け寄った。

 青木大尉は顔を真っ赤にして肩に巻いた糸を少しづつ手繰り寄せている。目を海に移せば、航跡で白く泡立つ艦尾の波間ににょっきと生えた黒いヒレが右往左往していた。それも結構デカイ。


『あ、青木大尉! 危ないです! 鱶ですよ!?』

『わかってるわ! ぐっ、・・・この野郎!』

『つ、釣る気ですか・・・?』

『当たり前だ! 鱶は美味いんだぞ!』

『・・・。』


 青木大尉の言葉に一瞬、忠と明石達、そして野次馬達の全員が言葉を失った。だが誰とも無く発した息を噴出す音に、そこにいた全員が声を発する。


『『『 わーっはははは!! 』』』


 爆笑。つい今しがたまで上司の命の危機を憂いで居た忠も、逆に鱶を食ってやろうというその意気込みは予想だにせず、一人頑張る青木の目を忘れて他の乗組員達と同様にその場にうずくまるような格好で笑う。そこから少し離れた第二主砲の辺りでは霰が四つん這いになって顔を下に向け、デッキを片手で叩きながら抱腹してピクピクと震えている。彼女にとっては縁起でもない言い方だが、文字通りの轟沈のようだ。


『うあっはっは! よおし、青木!手伝うぞ!』

『砲術長を援護しろ! かかれぇ〜!』

『だ〜ははは、おし、森二水! その銛を持って来い!』


 孤軍奮闘する青木大尉の勇姿に野次馬達も動き出した。彼らは青木大尉の前後に立って笑いがまだ治まらないながらも一緒になってワイヤーを引っ張り始める。普段から訓練している軍人達の動きは素早く的確で、しかもその役割分担における各自の取り組みもまた無駄が一切無い。青木大尉と一緒に糸を引く者、銛を構える者、どこからか内火艇用のロープを持ち出す者、双眼鏡を取り出してにょっきと海面に生えた背ビレの動きを測定し始める者など、打ち合わせなど何もしていないのにテキパキと自分の役割を決めて動いている。

 そんな中、糸を引っ張る連中が少しづつ下がり始めた。同時に測定に携わる水兵が叫ぶ。


『目標、距離30メートル! 艦尾右舷、210度!』

『おい、お前ら! 右だ!』

『測的ー!! 目標はー!?』

『目標、艦尾右舷そのまま! ヨーソロー!!』

『砲術長の苦労を無駄にするな! そおれ!』

『『『 ・・・そおれ! ・・・そおれ! 』』』


 海の男達の声が響く。いや、なんという連携だ。可笑しくて笑いが止まらない忠だったが、彼の後ろにはもっと重症な人がいた。


『さ、さ、最新鋭の工作艦が漁船になりはった! あ〜はっはははは!!!』


 清楚可憐だった霰の面影はもう無い。そこにいるのは涙を流しながら抱腹絶倒する酷い顔をした少女だった。あまりの可笑しさに明石に対してちょっと失礼な発言をしてしまっている霰だが、明石も霞もそれを気にせず一緒になって大笑いしている。その内に明石も眼前で繰り広げられる「男達の戦い」に胸が躍り、なんとか自分もお手伝いをしようと決心して霞に声をかける。


『あははは! よおし、私の艦のスゴさを見せてやる! 霞二水、我に続け〜!』

『へはは! ま、待って明石さん〜!』


 笑いながらそう言うと、二人は苦しむ霰をその場に放置して後部の揚艇用起重機に向かって走っていった。


『・・・砲術士! おい、森!』


 時を同じくして忠は自分の名を呼ぶ声に気付いて甲板上の一角へと振り向くと、その方向にある艦尾右では銛を持ったマサと川島中尉が手招きしていた。やる気なさげに青木に協力していた川島中尉もこの状況を目にしてようやく燃え上がる気持ちを胸に灯したらしい。すぐさま駆け寄って行く忠には彼の覇気が篭った声がかけられる。


『主計長! なにか!?』

『お前ら兄弟で銛をぶち込め! 一人じゃこれは投げれねえからよ!』


 マサが手に持った銛は資材用の鉄材をそのまま尖らせただけの物で非常に重いらしく、マサは持っているだけでやっとだった。忠も片手で持ったが、その手に持った瞬間腕を沈めるかのように重さが圧し掛かってくる。

 ただ川島もこの銛の重さについてはよく承知しており、若干の不安を抱える忠とマサに上手く銛の重さを生かした扱い方を教えてやる。


『大丈夫だ、投擲するわけじゃない! 舷側の真下にきたら真っ逆様に落としてやれ!』


 川島中尉はそう言いながら、今度は銛の刃先とは逆の端に内火艇用のロープを結び付け始める。失敗してもこれならまた引き上げて再挑戦できるのであり、それを察した忠は川島という先輩の落ち着いた考察と行動に深く感心する。艦内の士官でも忠とは割りと歳が近い川島であるが、さすがに主計長という幹部の役職を頂いているだけある。なんとも頼れる兄貴像で、忠は高ぶる気持ちを少し和らげる。

 するとその時、忠がいる甲板の一角にはいよいよ決戦の時が迫ってきた事を知らせる水兵達の声が響いてきた。


『お〜い! きたぞお!』

『で、デカイ・・・!』


 その声を受けた忠とマサ、川島中尉は手すりから身を乗り出して舷側の下を覗き込む。

 そこにある艦尾右舷の水面では、歪な形の頭をした巨大な鱶が水しぶきを立てて暴れていた。白い腹と真っ黒な背を交互に甲板上の乗組員達に見せながら暴れる獲物は、体長およそ2メートルはあろうかという大物だった。

 その内にたまたま眼下で暴れる鱶の種類を知っていた川島が口を開く。


『ありゃ、シュモクザメだな。よおし、お前ら頼んだぞ!』

『は、はい! 森二水! いくぞ!』

『りょ、了解!』


 忠はマサと供に艦舷から半身を出し、銛を縦に構えて狙いを定めた。


『頼むぞ〜森〜!』


 そんな声が湧き上がり、思わず生唾を飲み込む忠。鱶は疲れ始めたのか動きが次第に遅くなり始めた。


 これならいける。


『せ〜のぉ!! そおら!!』


 忠の合図に合わせてマサも銛を上に持ち上げ、眼下の鱶を目掛けて真一文字に投げつけた。銛は二人の手を滑り落ちるや重力と自重によって速度を上げ、鱶の黒い背中へへと急降下。ズブリと鈍い音を放ち、鱶の背のど真ん中に突き刺さった。

 しかしながら刺さった瞬間に再び暴れだす鱶。最後の悪あがきか、糸を引く男達も引っ張り返され始めた。例え軍艦旗を翻している艦艇であっても躊躇せずに必死に暴れた鱶だったが、銛の一撃が効いたのか段々と身体をくねらせる頻度と量が減っていき、やがて動かなくなった。


『お、気が利く奴が居るな!! これで引き上げるぞ! ロープ持って来い!!』


 そうしてちょうど鱶が動きをやめた頃、電動機特有の低い機械音が艦尾甲板に木霊するのと同時に川島中尉が顔をあげて言った。忠も見上げると後部にある舟艇用起重機が右旋回して右舷側へと傾き始めていく。次いで起重機の根元にてはしゃぐ明石と霞を瞳に映し、川島の言う気の利く奴が彼女達だった事を知って忠は微笑む。


『ばんざ〜〜い!』


 誰かが口にしたその言葉に、獲物を捕らえる目をしていた男達が再び笑顔になった。眼下で力尽きた巨大な鱶にワイヤーが幾重にも巻きつけられ、起重機によって甲板上から見下ろす事無く目に映す事ができる頃になって彼等は皆一様に万歳を絶叫し、その喜びを爆発させる。


「「「ばんざ〜い! ばんざ〜い!」」」


 嵐のような歓喜の声と拍手に囲まれた青木大尉は、両手の拳を天に突き上げて咆哮した。


『うおおおおおおぉぉ!!!!』


 青木大尉の顔はとても嬉しそうな、少年のような笑顔だった。赤みを帯び始めていた空の光が男達の笑顔を輝かせた。





 その日の夜の就寝時間を少し過ぎた頃、忠は部屋の机で事務仕事の続きをしていた。少し酒が回っている為か、字を見るのが辛い。

 少々の倦怠感と疲労を紛らわせるべく鉛筆を書類の上に放り投げ、忠は背を反って眠気を帯び始めてきた目を擦る。そして彼はふと机から部屋中央の床に目を移す。

 床に敷かれた明石の布団には明石と霞、霰が寄り添って眠っている。いい夢でも見てるのか、3人とも微笑むような寝顔だ。酒を飲んで歌いまくった後のこの3人、特に明石をここまで連れてくるのは一苦労だった。だがそんな苦労も、この寝顔と、ついさっきまで続いていた今日という日の思い出が忠の脳裏から忘れさせた。





 戦の後のメシは格別だった。

 男達の科や階級を超えた連携で見事に成った戦果に、今日は特務艦長も飛び入り参加しての夕飯兼大宴会となったのだ。主計科総出での鱶解体と調理によって作られた鱶料理の山が、士官食堂と兵下士官達の食膳を沸かせる。連合艦隊司令長官の昼食にも負けないその量と味に男達は舌を唸らせ、一際喉に染みる深い味わいの酒をぐんぐんと進める。

 こんなドンチャン騒ぎの中ではふわふわと浮いては消える料理や、一人で口しゃべる忠に気づく者等いない。その事を念頭に入れ、忠は明石達3人を同行して夕食に向かった。


『うまあい! 鱶ってこんなにお酒と合うの!?』


 赤い顔で上機嫌にはしゃぐ明石。時折、料理を持ってきては忠の腕を引っ張って勧めてくる。その上で一切れでも食べないと明石は機嫌を斜めに折り曲げ始め、腕を強引に引っ張る力をさらに一層増すのだった。今日は好きなだけ飲めと言った自分に、少し後悔しながらも微笑む忠。


『霰、鱶の天ぷらは食べた? 結構いけるよ〜。』

『あ、ホンマやな。鱶はお揚げさんでもおいしいなぁ。』


 初めて食べる鱶に舌鼓を打つ霞と、笑い死ぬ一歩手前で回復した霰。霰はすっかり清楚で物腰の柔らかいいつもの彼女に戻っているが、忠の脳裏からは昼間の彼女の姿が忘れられない。思い出しては隠れるようにして笑いだす忠だったが、目が合った瞬間に突如として笑われた霰は当然の様に怒り出す。


『くっ〜、ぷははは・・・!』

『な、なんでウチの顔見て笑いはるんどすか、森さん!?』


『へははは! 今日のアンタの顔、傑作だった〜!』

『あっはははは! 霰はおもしろかったね〜! 今度釣りする時有ったらまた呼ぶからね!』


 明らかに小馬鹿にした明石と霞の言葉に霰はショックを受けたようで声を上げて泣き出し、泣き止ませる為という理由を付けられて今度は忠があれやこれや芸をするという羽目になった。『ここは森さんが〜・・・。』という明石の言葉に乗った自分が馬鹿だったと彼が気づいた頃にはもう遅く、明石にあれやこれやとからかわれて霞と霰に大笑いされる忠という、いつもの光景になっていた。





 思い出すと少し憎たらしくなってくるが、当の3人はすやすやと微笑んで眠っている。


 ま、いいか。


 毎度毎度、そう思って妥協する自分の弱点に呆れる忠だが、治す気も毛頭なかった。

 普段、忠以外の人間と関わる事のできないこの3人にとって、今日は忘れられない思い出になるだろう。文字通り、みんなで協力して笑い合った今日という日。もし支那事変に続いてさらに戦火が激しくなれば、このように笑い合っていれる日など来ないだろう。彼女達に架せられた運命は戦う事なのだ。

 そう考えた時、忠はふと彼女達が仮にその運命の中で隣り合わせとなっている散る事態に際したらと思った。


 こんなに良い奴らが死ぬ?


 一人一人の寝顔を眺めていた忠の表情から笑みは消えていた。


 オレは失いたくない。オレは絶対そんなの嫌だからな。


 目を細めた表情のまま忠は顔を机に戻し、後ろから耳に入ってくる静かな寝息を振り切るように再び鉛筆を走らせ始める。

 一人決意を決めて励む忠の横顔を、月の光だけが優しく舷窓から覗き込んでいた。







 同時刻、呉海軍工廠。

 そんな月をある艦上から腕組みをして見上げる女性が一人いた。士官用の第一種軍装に中尉の襟章をつけ、後ろで小さく結った髪とキッと釣り上がった鋭い目が特徴の彼女は、月夜に照らされる艦艇群に視線を流す。微かな風の音と波音が静かに支配する中、切り裂くように放たれた彼女の声が呉海軍工廠の波間に響き渡っていく。


『ふん、18駆か・・・。たかが特務艦如きに遅れをとる様だったら、タダではおかん。』


 静かに憤りの混じった言葉を放つや、彼女は艦の中に消えていく。

 その足音が消えると、彼女がそれまで立っていた甲板とその向こうに広がる夜の海面は再び、微かな風の音と波の音、そして月の光に支配され始めて行った。

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