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第四九話 「蒲郡の休日」

 昭和15年7月20日。

 明石艦を含む第二艦隊は、三河(みかわ)湾の奥に当たる蒲郡(がまごおり)港の波間にその姿を浮かべていた。


 港を含める蒲郡町には大きな城跡等といった昔を(しの)ぶ史跡はないのだが、静かな湾の波間と沿岸近くに点在する竹島や三河大島は古くから観光地としてその名を天下に響かせてきた土地である。

 特に竹島は海岸線長が僅かに680メートルと非常に小さな島でありながらもその面積の全てをもって八尾富(やおとみ)神社として崇められており、江戸時代にこの地の付近を領有した松平公はもちろんの事、なんと徳川家康公までも参拝した事があるのだという。しかも不思議な事に島の植生が陸地と全く違うという発見から、竹島は昭和5年には神社もろとも国の天然記念物として登録された。故にこの島は古くからの人々の信仰と自然界の不思議を兼ね備えた独特の魅力を持ち、支那事変が勃発する前の頃は学者や参拝者、そしてその魅力に魅せられた文化人によって界隈は大変に賑やかだったという。その証拠に昭和7年に建築された島と陸地を繋ぐ竹島橋は、この地を崇める熱心な名古屋のとある繊維問屋の主が私財を投じて建造し、そのまま神社に寄付された物である。

 また、この竹島は実は帝国海軍にもちょっとした所縁があり、大正4年に建立された海上にそびえる大鳥居の額を作ったのはなんと東郷元帥である。この事から第二艦隊の乗組員達が散歩上陸をするに当たっては竹島への参拝は必須とされ、彼等は古き良き竹島の歴史と独特の魅力、そして東郷元帥が遺した大鳥居に思いを馳せるのだった。


 そしてさらに、この蒲郡町の東隣に位置する豊川(とよかわ)町には昨年の12月15日をもって帝国海軍5番目の工廠が誕生していた事も、第二艦隊が蒲郡へと軍艦旗を進めた理由の一つである。

 帝国海軍の艦艇の殆どが身に付けている機銃やその弾薬の製造を担当するこの工廠は、後年、世界に向けて花を咲かせる日本の自動車産業の原点ともなる豊川海軍工廠だ。594400坪という広大な敷地の中には、火薬の製造を行う工場も然る事ながらそこに働く工員達の宿舎まで完備しており、今年はその敷地をさらに広げる予定なのだという。

 ちなみに第二艦隊が停泊した蒲郡港は、この豊川海軍工廠にて製造された各種製品を海上輸送する為の積出港でもあるのだ。




 そんな事から明石(あかし)艦では、工作部に所属する工員達の何名かが豊川海軍工廠へと出張する事になった。

 豊川海軍工廠にて製造される機銃は帝国海軍の艦艇には必ずと言って良い程に装備されており、斯く言う明石艦にだって連装の機銃が二基も装備されている。だがその実は細かい部品のみで構成されるのが機銃という物であり、そもそもその殆どが露天にて装備されているから普段の整備や清掃は実は砲塔に収められている艦砲よりも大事だったりする。お手軽で扱いやすい武装と思い込んでいる人は海軍軍人にも多いが、それを発揮できるのは扱う人達による普段の弛まぬ整備の賜物である。そしてそこに伴う小修理や部品交換は、戦地派遣という形で運用される明石艦の大切なお仕事である。

 特に明石艦はこれまでの艦隊訓練で実際に機銃関連の整備補修を手がけてきた実績もあり、言わば明石艦の乗組員は修理補修も含めての「扱う側」の人間に当たる。だから「作る側」の人間である豊川海軍工廠の部署と連絡を取り合い、報告書や命令書等では絶対に知る事の出来ない現場の生の声を直接届けるのが出張する明石艦乗組員のお役目なのである。そしてもちろん、彼等がそこで同時に見る事が出来る部品の製造法や管理の仕方は、修理補修を専門的に行う明石艦の実力を大いに高める事になるのだった。

 





 一方その頃、第二艦隊に所属する艦魂達は、伊勢湾の中にある三河湾のさらに奥にて停泊しているという事から、極めて静かなその波に心から満足して羽を伸ばしていた。お船とは一蓮托生の身である彼女達だから、そのキールや肋材が異音を発するような太洋のうねりは実を言うとあんまり好きではない。その度に身体の節々には痛みが走るし、そも三角波に代表される大洋のうねりを舐めてかかった末に艦体を切断してしまった第四艦隊事件の記憶は彼女達にとっても新しい。故に艦魂達にとってはその分身である艦体に負荷の掛からない、波の静かな海面が最も過ごしやすい環境なのだ。第四艦隊事件で実際に被害を被った七戦隊の最上(もがみ)、五戦隊の那智(なち)羽黒(はぐろ)が、それはそれは嬉しそうに蒲郡での日々を過ごした事は想像に難くない。

 普段は人間が休んでいる時でも汗を流している艦魂達だが、蒲郡の静かな海面は彼女達を安らかな気持ちへと誘い、纏める役の愛宕(あたご)ですらもそれには逆らえなかったらしい。艦隊旗艦からの命令としてお休みが正式に発令され、彼女達は各々の思うがままにゆっくりとした蒲郡での時間を過ごすのであった。






 雲一つない快晴の天気の下に揺れの少ない身を構える、第二艦隊の各艦。

 その中の一隻である神通(じんつう)艦の後部マストの中ほどにある探照灯台では、肩に掛けたバンドで運搬函(うんぱんはこ)を吊り下げた(あられ)がステップを昇りきって汗だくで荒く息をする姿がある。自身と上司の昼食を詰め込んだ運搬櫃を運ぶのはいつもの事だが、決してそれは軽い物ではない。小柄で人間で言えば16歳くらいの外見の通り、体力が有るとは言えない霰にとってはそれを運ぶだけでも一苦労なのだが、何を間違ったか彼女の上司は艦でも一番の高さを誇る探照灯台まで持って来るように指示したのだ。


『ひぃ・・・、ひぃ・・・。』


 探照灯台の高さは海面からは10メートル以上もあり、彼女はその高さを重い運搬函をぶら下げて必死に昇って来た。しかもその昇る手段は、マストに備わっている鉄製のコの字型をしたステップのみ。

 霰も普段から自身の乗組員達の同じ姿を目にした事はあるが、生来臆病な彼女には目も眩むような高さを命綱も無しに四肢だけでよじ登る事は綱渡りをするのに等しい。探照灯台まで昇りきった所で全身から力が抜け、汗で濡れたおかっぱ頭の横髪を両頬に貼り付けたまま四つん這いになって激しい動悸をする霰の姿も、決して無理の無い事ではあった。

 そして霰に先立って既に探照灯台にその身を移していた上司は、そんな彼女の悲鳴のような声が混じった吐息をその耳に入れて顔を向けてきた。汗びっしょりになって青褪めた表情をする部下の姿に、その上司である神通は釣り上がったその瞳を左右で違う大きさにして眉をしかめる。


『お前・・・、ステップを昇って来たのか・・・?』

『ひぃ、ひぃ・・・。は、はいぃ・・・。ひぃ・・・。』


 文字通り虫の息をする霰は、力なく神通に声を返す。ただ誠実に上司の質問に対して回答した彼女だったのだが、神通はそもその返事が示す霰のとった選択肢について非常に素朴な疑問を抱く。すぐに神通はその事を声に乗せた。


『・・・なんで"転移"をせん?』

『あ、あうぅ・・・。ひぃ・・・。』

『・・・・・・。』


 神通の口にした転移とは艦魂達が日常でよく使う瞬間的な移動の事だが、どうやら霰は探照灯台の上へと移動するのに際してそれを思いつかなかったらしい。トロい性格の彼女の事は従兵という役柄で常に傍らに置いて来た事から神通は良く解っているが、さしもにここまで酷いと呆れる以外に無い。もっともそれは霰も同じな様で神通が声を返すと同時に、彼女は自己嫌悪に襲われて上げていた顔をダランと床に垂らした。

 要領の悪い自分の事が時々嫌になってしまう霰は、整い始めた吐息の中に徒労という言葉を滲ませた溜め息を混ぜる。上司の言葉に『すみません。』といつもの言葉を返そうにも、まだまだ静まらない肩を動かした呼吸をする霰は中々それを声に乗せる事が出来ない。しかし今日の上司はいつものように彼女の謝罪を怒号で制する事は無く、再びその顔を先程までと同じ様に艦尾の方向、即ち北の方角に向けた。航海科の倉庫から拝借してきた双眼鏡を両目にあてがい、何やらまじまじと陸地を舐め回すように眺める神通。

 霰はそんな上司の不思議な姿に首を捻りながらも、彼女の大事なお仕事である午食の用意に取り掛かり始めた。運搬函の蓋を開けていつものように上司の分を先に用意しようとする霰だが、汗で濡れた彼女の手からは一番最初に用意しようと運搬櫃から取り出した盆が滑り落ちていく。思わず呻き声にも似た小さな悲鳴を上げる霰であったが、床に落ちた金属製の盆は甲高い音を辺りに響かせて彼女の声を掻き消した。


『・・・はぁ〜。』


 けたたましい盆の音に続いて響いてきたのは、神通のちょっとおっかない声色の溜め息。もちろんそれを聞き逃さなかった霰はすぐに盆へと手を伸ばして拾い上げながらも、上司の怒号を覚悟して身体をビクビクと震わせ始める。しかし当の神通はそれに対して剥き出しの怒りを湧かせる事は無く、むしろそんな霰を気遣うような言葉を静かに口にする。


『食事用意はゆっくりでいい。とりあえず水でも飲め、霰。』

『あぅ・・・? あ、は、はいぃ・・・。』


 神通は例え小さな失敗でも悪い物は悪いしダメな物はダメだとハッキリ諭す性格のお人で、そこに彼女の愛の鞭が伴う事は周知の事である。しかし彼女はたまにこうして優しい言葉を掛けてくる事があり、従兵として仕える霰はその理由である今という瞬間の上司の胸の内を普段の生活の経験からすぐに察した。今、神通は大変に機嫌が良いのだ。

 少しだけ安堵の溜め息をした霰はせっかくの上司の言葉に甘える事を決め、運搬函の中で転がっていた水筒に手を伸ばした。実は先程まで緊張と疲労の連続であった霰の喉はカラカラに渇いており、彼女は水筒の蓋を外すや否や、大きく喉を鳴らして中身を流し込む。その唇と水筒の金具の隙間からは多少の水がこぼれ落ちるが、霰はそれを気にも留めずに喉を鳴らし続けた。


『ふん。うるさいヤツだ。』


 怖い怖い上司が背を向けたまま放った声であるものの、霰の耳に聞こえてきた神通の声には僅かに明るい感じが滲み出ており、彼女はすぐにそんな上司の口元が緩んでいる事に気付く。ようやく唇から離した水筒に蓋をしながら、思い切って霰は神通に声を掛けてみる事にした。決してこの人を悪い人だとは思っていないし、そも部下の中では誰よりも神通を尊敬する霰にとって、神通が何をそんなに嬉しそうにしているのかは気になって仕方なかったのである。


『ど、どないんどすか? 戦隊長。』

『ここは古くは三河の国と呼ばれた所だぞ。古戦場を巡って往時を偲んでいるんだ。』

『は、はい?』


 まだまだ艦魂としては生まれたばかりである霰には、神通が嬉々とした声で言った事の内容がイマイチよく理解出来ない。全国の県名すらもまだ全部覚えきれていないし、戦場と言われてもごく普通のお船の命である霰にとっての戦場とは当然、海の上としか考える事が出来ないのだ。おまけに神通が双眼鏡を通して視線を投げるのは陸地の青い山々が連なる辺りであり、そも陸地にその足を着けた事すらも無い霰はそこにどんな戦いが在ったのか等知る由も無い。

 そんな事から険しい表情で首を左右に捻る霰だったが、背後でそんな行動を取る部下の事は神通もお見通しである。両目の前に添えた双眼鏡をそのままに、神通は部下に自身の言った事を教えてやる事にした。しかしそれは未熟な部下に知識を授けてやろうという訳ではなく、ただ単に彼女の趣味が高じた物なのであった。


『いいか、霰。私がいま見てる北の山々の向こうに在る設楽ヶ原(しだらがはら)。今から300年前のその地こそが、信長(のぶなが)公率いる織田・徳川連合軍と武田の騎馬隊が激突した長篠(ながしの)の大合戦の古戦場なんだ。』

『お、おだ・・・?』

『それだけじゃないぞ。西に眺める山間の向こう。矢矧(やはぎ)川を渡ったさらに先にあるのは、信長公が僅か3000の兵で25000の今川勢を蹴散らした伝説の古戦場。桶狭間(おけはざま)だ。』

『ぁぅ・・・。』


 明るく弾むような声でそう言った神通は、遥か西の陸地を指差して口元が緩んだその横顔を覗かせる。鬼の戦隊長として畏怖される神通の楽しそうな表情はその風貌からは想像も出来ぬほどに無垢な笑顔で、まるで夕陽の空に包まれてトンボを追いかける少年の様。普段から傍に控える霰ですらも、滅多にお目にかかれない姿である。

 しかしその稀有な光景に霰はありがたみを覚えるような事は無く、力の入らない呻き声を上げて首を垂れる。彼女は上司の趣味が高じた今の心模様は完全に読み取っているのだが、それ故に今から自身に降りかかるなんとも困った状況を容易に想像できたのである。首筋に先程までのそれとは違う意味での冷や汗を浮かべる中、霰の耳には神通のそれはそれは楽しそうな声が響き始めた。


『長篠の大合戦の兵力を考えれば、信長公率いる織田・徳川連合軍は東海道を兵力移動に使った事は間違いない。つまりいま私達が浮かぶこの蒲郡の眺めを、きっと信長公もその目で見た筈なんだ。これから始まる鉄砲を使った戦術を秘めて馬上から眺めた蒲郡の海は、信長公の御眼にはどう映ったのだろうか・・・。う〜ん・・・。想いが募るという物だな、霰。』

『はいぃ〜・・・。』


 それは霰の予想通りの言葉であり、神通は彼女に背を向けたまま次から次へと信長公の足跡を偲ぶ言葉を並べていく。

 怖い上司である神通の唯一の趣味が、尊崇する信長公を中心とした戦国時代の研究なのだった。もっともそれはこの人の個人的な趣向から来る物であって、そも戦国時代という言葉すらもイマイチ良く解っていない霰には頭痛が起きる程に難解な物である。しかし上司のそれを諌める度胸も無ければ、そも上司の楽しみを奪うのは申し訳ないと考えてしまう心優しい霰には、ただひたすらに耳を傾ける以外に選択肢は無い。従兵として仕える事から神通には特に可愛がられる霰なのだが、彼女にとって不幸だったのは仕えた上司が帝国海軍艦魂の中でも随一の「オタ女」であるという事であった。気の毒という他無い。

 こうして霰は日が暮れるまで、何時終わるとも知れない神通の信長公一代記に付き合わされた。







 愉快な上司と哀れな従兵がそれぞれの想いを抱いて古き日ノ本の歴史に理解を深めているその頃、停泊する艦隊の端っこにて錨を下ろした明石艦では、仲間達の様に休日を過ごせない人物が一人いた。


 明石艦艦内の一室にあるベッドには、艦の分身である明石がその身を横たえている。それを目にした者は彼女がのんびりお昼寝と洒落込んでいると思うかもしれないが、今日の明石にとってはそれはとんでもないお話である。

 おもむろに喉の渇きを覚えた明石はベッドのすぐ横に置かれた椅子の上にある水筒にその手を伸ばすが、その動きは酷く緩慢で腕を伸ばすだけという簡単な動作ながらもその腕には小刻みな震えが発生している。


『ぐ・・・い・・・、痛い〜・・・。』

『あ、明石さん、私がやりますから!』


 部屋の隅っこにあった椅子からそう言って明石の元に駆け寄ってきたのは、二水戦8駆所属の朝潮だった。

 二水戦では戦隊長の神通を除くと最年長者である朝潮(あさしお)は明石よりも一つか二つ年上の外見をもつ小柄な体格の艦魂であり、明石と仲の良い(かすみ)や霰の実の姉に当たる。朝潮型駆逐艦10姉妹の長女である朝潮は、その細かな気配りと二水戦の誰もが認める実力を持って戦隊長の神通から全幅の信頼を置かれている艦魂である。

 そんな事から朝潮は上司である神通より筋肉痛で一挙一動に不自由する明石の介護を依頼され、こうして一日中、明石の傍でお世話をしているのだ。椅子の上にあった碗と水筒に手を伸ばし、丁寧な動作で水を注ぐ朝潮に明石は感謝の念が絶えないのだが、全身から発せられる激痛はそれを表情に表そうとする事を邪魔する。首を捻る事すらも、今の明石にとっては辛いのだ。


『ぐあっ・・・!!ううぅ・・・、いでぇ・・・。』


 横になったまま水を飲む訳にもいかないので明石は上半身を起すが、僅かづつ身体に力を入れる度に彼女の身体には電撃が走る。心配の言葉を発して労わってくれる朝潮の声はその耳に届いてくるものの、なんと言っているのかは明石には聞き取る事が出来ない。強く歯を噛んで治まる事の無い痛みに耐える以外に、彼女には出来る行動は無かった。

 それでもやっとの事で上半身を起し、明石は震える手で朝潮の手から碗を受け取って自身の唇に添える。ところが水を飲む際に喉を動かす事にまで痛みが伴うというのだから、明石は喉の潤してもその表情を明るくする事は無かった。明石は碗の中に残る水を一気に口の中へと流し込むと、すぐさまその碗を朝潮に返してその身を再び横にする。


『あ、ありが、・・・と。ぐえ・・・。』


 なんとか明石は精一杯のお礼の言葉を放つものの、言い終えて胸の支えが取れたと同時に再び身体を襲う激痛との戦いに身を投じる。それは師匠の朝日からの教えを何とか身に付けようと奮闘した結果であり、明石は今の自分の状況から如何にその教えを全うする事が大変であるかをよく理解した。


 「一流の淑女」たる艦魂は、その歩き方もまた一流でなければならない。


 明石はその言葉を痛みに耐えながら胸の中で小さく叫び、同時にまだまだそれが出来ない自分の未熟さを思い知る。実に厳しい世界であった。




 するとその時、部屋の扉からは通路を歩いていく乗組員達の話し声が漏れてきた。 


『え、次の行き先、知ってるのか?』

『おお、電信部のヤツが言ってたぞ。横須賀だってさ。』


 部屋に響くのは僅かな音量の声であったが、朝潮も明石もその言葉をハッキリと聞き取っていた。そしてそのやりとりの中にあった横須賀という地名に、朝潮は数ヶ月前の自身の記憶を思い出して少し動揺してしまう。その表情を読み取られないようにと口元に咄嗟に手を添える朝潮だが、ついつい彼女は読み取らせまいと定めた相手である明石に向けて視線を流してしまう。

 遡る事3ヶ月前、いまその場を共にする明石の下から大事な彼女の相方を砲術学校のある横須賀まで乗せていったのは、この朝潮だったからだ。


『・・・・・・。』


 朝潮の黒い瞳には、虚ろな目で天井を眺める明石の姿が映る。時折頬の辺りを歪めならがら瞬きもそこそこに天井へ向かって焦点の合っていない視線を投げる明石に、朝潮はその心の内を思うとなんと声を掛けて言いか解らず、明石とは対照的に俯いて自らの足元に向かけて視線を流す。

 しばらくの間、部屋の中を沈黙という言葉が支配していたが、ふと明石は苦痛に耐える呻き声を上げながら仰向けにしていたその身体を壁に向かうようにして横にした。朝潮がそれに気付いて顔を上げると、そこには170センチ近いという女性にしては長身である筈の明石の、なんとも小さな背中があった。

 いたたまれなくなった朝潮は焦りながらもその脳裏に考えを巡らし、そんな明石の抱いているであろう思いを叶えれる方法を模索する。幸いにも朝潮には横須賀という所には土地勘がある為、確定的でないながらも薄っすらとその方法が頭に浮かび、彼女はそれを声に乗せてみた。


『あ、あの、明石さん。えと、砲術学校って追浜の海岸地帯に近いんです・・・。なので、あ〜、曳船の子達に頼めば、なんとか・・・。その、れ、連絡とか、つくかも・・・です・・・。』


 オドオドしながら発した朝潮の声だったが、まるでそれが聞こえていないかのように明石は黙ったままだった。なんとか考え出した方法であったものの、朝潮は変化の無い明石の背中に再びどうしていいか解らずに俯いてしまう。

 しかしその声を耳にしていた明石は、決して朝潮が声を発する際に抱いてくれた気持ちに何も感じていない訳ではない。必死さが滲み出た彼女の声は自分を元気付けようとしてくれたからだと理解しているし、霞や霰の様に普段からよく話をする友人と比べるとちょっと関係が薄い朝潮が、こうして自分に対して心配の念を抱いて頭を捻ってくれる事はとても嬉しかった。失礼を承知しながらも明石が何も言わないのは、ただ単にかつての相方がいる横須賀へと向かう事に色々と彼女なりに考えを巡らしていたからなのである。

 やがて明石は小さく溜め息を放った後、自分なりにそこに出した結論と朝潮へのお礼を口にする。


『ありがとね、朝潮。でも、いいよ・・・。今はたぶん、会わない方が良いと思うから・・・。』

『は、はあ・・・。ですか・・・。』


 僅かにどこか明るさを滲ませた明石の言葉に朝潮は声を返すが、ちょっとその内容には釈然としないものがあった。

 明石が第二艦隊へと編入された際に二水戦へと編入された朝潮は、妹達程に親しく接してはこなかったものの、明石とその相方の仲の良い暮らし振りを遠巻きながらも見てきた経験がある。艦魂の姿を見る事のできる人間という稀有な存在は朝潮にしても珍しかったし、自分達と同じ艦魂の一人である明石がそんな人間といつも一緒に笑い合っていた日々は、口には出さなかったながらも内心ではとても羨ましかったというのが正直な所である。同様にそんな二人が訳有って別れてしまうという現実は彼女にしても残念であったし、何よりその際に耳にした明石の相方の嗚咽に苦しむ声は、朝潮に今という状況を打開するべきだと思わせてしまうのだった。


 二人の抱いたお互いへの気持ちは同じ物であり、もっとよくお互いに話をしていればこんな事にはならなかった筈だ。


 そんな言葉を脳裏に浮かべた彼女はお節介である事を重々承知しつつも、今まで明石に対しては口にしなかった事を伝えようと決める。朝潮はなんとしても、二人には元の様に笑い合う姿に戻って欲しかった。そしてそれは二人を知る朝潮と同じ艦魂達の、切な願いでもあった。


『あの・・・。こ、これは、戦隊長からは言うなと、言われていたのですが・・・。』

『うん・・・?』

『その、森さんなんですけど・・・。泣いてたんです、大声で。・・・舷窓から明石さんを見ながら・・・。』

『・・・・・・。』

 

 朝潮の声に、明石はまたしても無言で背中を向けるのみだった。その姿に朝潮は差し出がましい自身の物言いを恥じてすまなそうに頭を掻くが、やがて彼女の耳には眼前にて背を向けたままである明石の、妙に静かな笑い声を伴った言葉が響いてきた。


『ふふふ・・・。神通が言うなって・・・?』

『は、はあ・・・。その、男は泣く所を見せたがらない生き物だからって・・・。森さんの体面を護ってやれって・・・。』

『ふふ・・・。そっか・・・。』


 まるで部屋の空気に溶け込むように静かな明石の声だが、朝潮はその声に僅かに悲しみの色が滲んでいる事を認める。その事に朝潮は再びお節介を焼こうと口を開きかける。だがすぐにその行動を制する様に、部屋には明石の声が木霊する。


『やっぱり・・・。会わない方が良いんだな・・・。』


 舷窓から室内へと挿し込む陽の光りが、悲しげに歪めた明石の笑みを照らす。朝潮の言いたい事も自分の願いも彼女は解ってはいたが、その朝潮から教えられた別れた後の相方の様子と友人である神通の言葉に、彼女は自分がまだ相方の事をしっかりと理解してやれない子供なのだと思い知った。それはとても悔しい事でもあったが、不思議と明石はそんな自分に腹を立てることは無い。むしろ彼女は、どうすれば自分は変われるだろうと考えを巡らす。静まり返る部屋の中、しばらくしてふと明石が抱いたのは、まだまだ自身の身体には身についていない師匠の教えであった。


 まだまだなんだな。


 そう小さく胸の中で呟くと同時に、明石は身体のあちこちに走る痛みに自身の身の程を悟る。だが彼女はそれで落ち込むような事は無い。なぜなら自身が抱く願いに近づく為に必要な事を、明石はこの時、不思議と明確に理解したからだ。




 第二艦隊の蒲郡での休日はその後もしばらくは続いたが、明石は筋肉痛が和らぐと同時に再び猫背の矯正に励んだ。ただひたすらにその事に取り組む明石の真面目な姿勢は艦隊中に伝え広がり、明石に教えてくれる者達の中には友人の神通と那珂(なか)に併せて、なんと艦隊旗艦の愛宕も加わってくれた。戦艦の艦魂にすらも劣らない麗しさを誇る愛宕の協力は明石の猫背矯正に大いに貢献し、明石の背筋は呉を発った頃とは比べ物にならない程に綺麗に伸びていた。


 そして7月26日。

 蒲郡の波間から抜錨して横須賀への旅路に移る明石艦艦尾の甲板には、神通と那珂に見守られて頭に乗せた本を落とさずに歩く明石の姿があるのであった。

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