第四八話 「修行中」
昭和15年7月2日。
既に先月の6月22日に独仏休戦協定を結んでいたフランスでは、ペタン元帥を首相に頂く新政権が同国中部の都市ヴィシーへと移転。ここを新たなフランス国の首都と定めた。世に言うヴィシー政権の誕生である。
7月7日。
七夕を迎えたその日、休養を終えた第二艦隊は歴史豊かな和歌の浦の波間に別れを告げる。
往来の激しい紀伊水道を今度は南下し、沖合いに出たところで針路を西へと向ける。紀伊半島を左舷に眺めて進む第二艦隊だが、半島南端付近の海域は大阪と東京を結ぶ海上交通路の大動脈であり、彼等はここでもまた沢山の民間船や貨物船とすれ違う。
台風の時期はまだまだ先である事から波はそれ程でもなく、のんびりと航海する民間船のデッキでは乗船した客人達が椅子に座ったり、コーヒーを飲んだりしながらくつろいでいた。第二艦隊の乗組員達の嫉妬も混じった帽振れが送られる中、それを受け取った客船の乗客達には第二艦隊の軍艦旗はどう映ったであろうか。
7月8日。
第二艦隊は道中、紀伊半島最南端を示す潮岬沖を通過。
本州の最南端でもあるその地を過ぎたそこは、「海の東海道」の異名をとる熊野灘。沿岸に沿って流れる黒潮が運ぶ海の恵みは、この地で盛んなカツオと鯨の漁にて垣間見る事が出来る。長い銛や竿を幾重にも連ねた漁船が第二艦隊の各艦の周りを群がる姿を想像する第二艦隊の乗組員達だったが、熊野灘の端である悠々と灯台がそびえる大王崎に至るまで、彼等の視界に漁船が表れることはついに無かった。
実はこれより遡る事3年前の、昭和12年10月。
支那事変が勃発したその年、膠着する上海戦線の状況を打破すべく、帝国陸軍は杭州湾上陸作戦を企図。その作戦用の船舶を調達する為、民間の漁船を徴用したのである。陸軍の各船舶輸送司令部が音頭を取って行った徴用は、重量12トン内外、全長15メートル内外、喫水1.5メートル内外、機関出力25馬力〜35馬力の条件に当てはまる漁船を対象とした物で、くじ引きによる抽選で決められた後に船員ともども支那戦線へと狩り出すという物であった。
そして昭和13年の12月には拡大した支那戦線へ対応する為、今度は海軍が60トン〜70トン級の漁船を徴用し始めた。
相次ぐ漁船の徴用は漁業を生業とする国民から文字通り生活の糧を奪い、その結果がいま第二艦隊の乗組員達が目にする光景なのであった。もっとも彼等の殆どはその真相を知らず、『海が荒れると読んで休漁してるんだろうか。』と口にして首を捻るしかない。なぜなら漁船の徴用はすべて軍極秘に行われていたのであり、それが明らかになるのはずっとずっと後年の事になるからであった。
そして現在、残されている文書記録は静岡県焼津漁港の一件しか発見されていない。だがその内容は、全国どこの漁港でも似た様な物だったという。
・所有船舶総数 64隻
・被徴用船舶の喪失数 鋼鉄船16隻・木造船35隻 計4956トン
・戦災損失 木造船2隻 計25トン
・被徴用船舶の帰還数 鋼鉄船5隻・木造船6隻 計1252トン
64隻中、実に53隻が、再び焼津の港に戻る事は無かったのであった。
7月11日。
第二艦隊は伊勢湾の北西に当たる、三重県四日市に到着。鈴鹿川の河口に開かれた四日市港の沖合いに錨を下ろした。
戦国時代の頃より天然の良港という地勢を発揮して栄えてきた四日市は、徳川幕府発足時には幕府直轄の領地として指定を受ける程に商業が盛んであった土地だが、古い神社仏閣が市内に多数ある事から和歌の浦と似たように観光業も古くから大変に盛んである。古来からの日本の大動脈である東海道が通り、なおかつ良港である事から海の道も整っている四日市は昔から宿場町として賑わっているのだが、何と言ってもその最大の要因は付近に身を構える伊勢神宮の存在に尽きる。
伊勢神宮は恐れ多くも大君の祖、天照大神が奉祀される神社であり、日章旗を頂く者にその名を知らぬ者はいない。その中には天岩戸で有名な三種の神器の一つ、八咫鏡が奉安されている。伊勢神宮は日本神話の語り部であると同時に、天皇陛下の大御稜威を今に伝える大変に重要な場所なのだ。言わずもがな、皇紀2600年の今年は全国からの観光客でごった返しており、その勢いはまさに「仰げや同胞、一億人」である。
歴史と神国日本の尊厳が同居するこの地にはその恵みと言わんばかりに多くの特産品があり、上陸した第二艦隊の乗組員達はすっかり財布の紐が緩くなってしまった。特に暑くなり始めた時期での寄港だった事もあり、彼等の殆どはご当地特産の団扇を求めて四日市や鈴鹿の市街を散策した。
艦隊幹部に当たるお偉方もその例外ではなく、神通の相方である木村大佐は急須や土鍋で有名な萬古焼の湯呑を手に入れ、そのトレードマークであるカイゼル髭の先を高々とはね上げる。もっともイギリス仕込みのユニークさを大事とする帝国海軍軍人を地で行く彼は、何の冗談か相方へのお土産として夫婦茶碗を調達。
明石や那珂が見守る中、箱を空けた瞬間に貰い手の神通が木村大佐に向かって竹刀を振り上げたのは言うまでも無い。
そして寄港地にての補給においても、帝国海軍の日常にはそれに乗じた日々が送られる物である。
寄港して数日経った頃の明石艦。
静かに伊勢湾の波に揺られる艦首甲板では、青空から差す陽の光りを浴びながら立っている明石と那珂の姿がある。しかし明石とは仲良しの那珂が隣にいるにも関わらず、明石は軽く不機嫌そうに頬を膨らませて視線を正面に投げていた。そのしかめた眉のしたにある僅かに細めた瞳には、頭に本を乗せてスタスタと歩くもう一人の友人、神通の姿が映る。だがそれこそが明石の表情を曇らせた原因であった。
『・・・ふん。簡単だな。』
『ぐっ・・・!』
本を頭に乗せたまま、不敵に笑った神通はその顔を明石に向けて言い放つ。明石は友人のその声を受けてさらに頬を大きく膨らませ、唇の隙間から小さな呻き声をもらした。二人の表情は全く対照的であるが、那珂はその差を楽しんでいるかのようにニコニコと笑みを浮かべる。やがて頭から乗せていた本を手に取った神通は、明石の前まで歩み寄ってその本で明石のおでこを軽く叩きながら口を開く。
『言っただろう、気品が大事だと。これすらも出来んという事はまだまだ子供なんだ、お前は。』
『なにおぉ〜〜・・・!!』
珍しく眉を吊り上げて怒りをあらわにする明石だが、神通はその顔に笑みを崩さない。なぜなら自分の言った事が正しかったという事を、明石は今身を持って思い知っているのだと明確に解っているからだ。怒りに任せて何事かを言わんとした明石を抑える様に、神通は口元を緩めて機嫌の良い時に出る憎まれ口を叩く。
『ふはは。怒る前に励むんだな。ほれ。』
そう神通に言われながら、視界を覆うようにして顔の前に本を掲げられる明石。本の横に映る神通のそれはそれは憎たらしい事極まりない笑みに、彼女は悔しさと衝撃が混じった複雑な思いを抱いてしまう。
コイツ、もしかして良い女なのか!?
そんな言葉を脳裏に過ぎらせる瞬間、明石はそれが友人にはあって自分には無いという事をさらに思い知らされて、無性に腹が立ってくる。
些細な事で怒るわ、八つ当たりをするわ、いっつも不機嫌そうな表情をしているわ、無愛想だわ。普段の神通はお世辞にも褒められる様な人柄ではなく、友人として慕いながらも明石はその事を良く理解しているつもりだった。大の男である忠や木村大佐を怒号とげんこつで黙らせる事も日常茶飯事であったから、女性らしさという点では神通よりも自身の方が優れていると思っていたのだ。
ところがどっこい、明石が師匠の朝日から教わった「一流の淑女」という艦魂たる者の気品と姿を、そんな神通は見事に体現できるのである。猫背である事からその初歩である歩き方で悪戦苦闘する明石は、それをいとも簡単にこなしてしまった神通とその人柄を考えた時、どうしても自身と比べてしまう。決して神通の事が嫌いな訳ではないのだが、大の仲良しであるというお互いの立場が、明石の胸の中に激しい悔しさを募らせるのだった。
『むん!!』
明石は顔の前にあった本を鷲掴みにすると、大股で肩をいからせながら全部主砲の辺りまで歩いていく。その背中に向けて那珂が優しい声色で『頑張って。』と声を掛けるが、今の明石にはその言葉が耳に入っていない。すっかりムキになっている彼女のそんな姿に神通や那珂が笑い声を響かせる中、振り返った明石は頭の上に本を乗せて神通を睨みつける。だがすぐにその視線を正面に戻し、本を掴んでいた手を離して足を前に踏み出し始めた。しかし先程までそこにあった神通の流れるような歩く姿は既に無く、そこにあるのはよろよろとした足どりで腕を左右に広げて歩く明石の姿で、それを見た神通は思わず笑い声を上げる。
『ふははは。阿波踊りをする艦魂がこの世にいるんだな。長生きはするモンだ。はーはっはは。』
実に爽やかに笑い声を上げる神通だが、その言葉を耳に入れた明石はたまった物ではない。額に脈動する血管を浮き上がらせて、ギラリと神通に鋭い視線を投げつける明石。だが集中力が乱れた彼女の身体はその頭の上にあった本のバランスを失わせ、それに気付いてハッとする明石の視線に包まれながら本は甲板へと落ちていった。
『んもぉおお〜!!』
ちっとも上手く行かない猫背矯正とそれをこれでもかと馬鹿にして大笑いする神通に、ついに明石は溜め込んでいた悔しさを爆発させて何度も地団駄を踏む。
しかしその原因としての大きな物は後者の方であり、彼女は甲板を思いっきり踏みつけてから神通を睨んだ。珍しく口を大きく開けて笑う神通には、さしもの明石も今だけは友人という関係を忘れてしまう。その隣で普段と同じ様に慈愛に満ちた笑みを湛えている那珂に負けるのであれば、明石はここまで憤慨する事は無い。いつも優しく笑ってその部下や仲間内からも評判の良い彼女は明石の師匠と同じく典型的なお嬢さん型の人柄であり、逆立ちしても自分はそうはなれないと明石は半ば諦めにも似た思いを持っているからである。だがそれに反する土方型の典型である神通に女性らしさという点で劣るというのは、明石にとっては絶対に譲れない物であった。
殺気すらも漂わせて明石に睨みつけられながらも、ここぞとばかりに意地悪な笑い声を放つ神通。もっとも那珂は、意地悪をする姉の姿を決して悪い事だとは思っていない。実の姉妹として常に傍らにいた那珂は、十年以上に及ぶ生涯でこれほど爽快に笑う姉を滅多に見た事が無かった。もちろんその理由は馬鹿を目の前にしているからでも、嫌いな輩の失態を嘲笑っているからでもない。その相手が初めて自分を真正面から殴り飛ばし、嫌われやすい自分の性格を知りながらも常に遠慮も怖がりもせずに無邪気に慕ってくる明石だからこそなのである。
その心底楽しそうな姉の笑顔を見れた事に喜びを感じながらも、那珂は茹でダコのように怒り心頭な顔をする明石もまた姉と同じくらい好きだ。心優しい彼女はその笑みを隠すようにして口元に手を当てながら明石の傍までゆっくり歩いて、彼女の足元に落ちて潮風に撫でられる本を拾う。姉とは顔つきが良く似ているが、まるで別人のような表情で優しく肩に乗せてくれた那珂の手とその語りかけに、明石は膨らませた頬をそのままに怒りを鎮め始める。
だが愉快な事この上ない神通は、すぐに明石の怒りが沸点を突破するような言葉を放った。
『頑張って、明石。今度は私が背中を支えててあげるから、もう一度やってみようよ。』
『・・・・・・うん─。』
『ふははは。ついでに「どじょうすくい」も教えてやれ、那珂。はーははは。』
すっかり上機嫌な姉の言葉に苦笑いを返す那珂だったが、彼女はその時、すぐ近くにあった明石の頭からカチンという音が聞こえてきた事を認めた。その表情を視界に入れようと顔を正面に向けた刹那、明石は姉の部下にあたる雪風と霞が日常からよく放つ台詞を口にして、その矛先である神通に跳びかからんとした。
『なにお、この野郎!!!!』
そう叫んだ明石は両の手に拳を握ってその場を跳びだすが、普段から同じ様に暴れる姉を抑えるのが役目である那珂はそれを認めるや、慣れた身のこなしで明石の背後から腕を回してすぐにその行動を抑制する。帝国海軍の艦魂達の中でも姉と供に屈指の柔道の腕前を持ち、まして姉よりも一回り小さい身体つきの明石を抑える事は、那珂には造作も無い事だ。完全に勢いを止められた明石は、まるでその場にいる3人が初めて対面した際の場面を再現するかのように、両腕をブンブンと振って大声で叫ぶ。
『離せえ、那珂あああ!ちきしょーーー!!!』
『あ、明石〜。お、落ち着くのよ〜。』
その後も那珂によって羽交い絞めにされながらも、明石は目の前で指を指して大笑いする神通に向かって手や足を振り回すものの、その全てが虚しく神通の身体の直前で空を切る。完全に「一流の淑女」という言葉を脳裏から消し去って声を荒げる明石であったが、彼女はふとその場に響いてきた男性の声に気付く。同様に那珂と神通もそれに気付き、3人は声が響いてくる艦尾の方向へと顔を向けた。
『わーーーっ!!!』
視線を向けると、そこには何か赤い物を小脇に抱えた水兵服を身に付けた男が、猛烈な勢いで彼女達のいる艦首甲板に向かって近づいてくる光景があった。必死の形相で最上甲板を突っ走るその人物であるが、その顔に3人は心当たりがあった。そして彼女達がふと記憶に蘇らせた事を、その水兵の後ろから響いてくる別の人物の声が確信へと変える。
『わーーーーっ!!!』
『待てーーー!!森ーーーー!!』
日に焼けた肌が真っ白な水兵服によってあらわになる中、どんどん近づいてくるその人物の正体を3人は理解する。明石艦どころか第二艦隊きっての大問題児、森正志二水。明石のかつての相方である忠の、実の弟である。相方と同じ様に艦魂を瞳に映すことはできないながらもその従兵として過ごしていた事から、明石にとっては割りと近しい感じを覚える彼なのだが、その奇妙な光景と小脇に抱えた品物に3人は目を丸くする。
『マ、マサ君・・・?』
『イ、イセエビ・・・?』
那珂の呟きによって明石はマサが抱えるそれがこの四日市特産のイセエビである事を認めるが、それは益々その光景を謎に包ませる。しかしマサの後ろから完全にご立腹の表情で追い駆けてくる人物を認め、明石はまたもや呟くように声を上げる。
『あ、あれ・・・、主計長の川島さんじゃ・・・。』
『このクソガキャーー!!待てーーー!!』
『わーーーっ!!』
静かに波間に浮かぶ明石艦の甲板に響く彼等の大声と、それに伴った鬼ごっこ。呆けてそれを目にする3人であるが、マサも川島主計長も彼女達の姿を見る事はできない。上官に追い駆けられながらもマサは明石達のすぐそこにある前部主砲を一周して、これまで走ってきた右舷の甲板から今度は左舷の甲板にコースを変え、艦尾へと一目散に駆けていく。その後ろを仕事着である割烹前掛けを身に付けた川島主計長が、怒鳴りながら追い駆けていった。
『そりゃ艦長用のエビだぞー!!返せコラァーーー!!』
『わーーーっ!!!!』
川島主計長は27歳と明石艦幹部連中の中では最も若い幹部であり、運動神経だって良い。しかし逃げるマサはそれよりもまだ若い21歳で、おまけに帝国海軍水兵として既に4年も勤めて来た経歴があり、その海軍歴は兄の忠とそれほど変わらない。まして普段からコキ使われる水兵であるから、力も強いし声もデカイし足も速い。そのまま離陸できるかと思わせるような速さで、川島主計長にみるみる内に差をつけながら艦尾へ向かって突っ走っていった。
伊勢湾の潮風が通り過ぎる甲板の上、その余りにも豪快な光景に明石達3人はは声を放つのも忘れ、各々の髪を潮風に揺らす。
それは帝国海軍生活における銀バイの一コマであるが、世間一般的な視点から見るともはや強盗に近い。だが帝国海軍というのは世界的にも一風変わった軍隊で、現物と証拠を押さえぬ限り、犯人を組織内で告発する事は出来ないという実情がある。なぜなら栄えある陛下の赤子である帝国海軍には、泥棒や殺人犯といった不届き者はいない事になっているからだ。つまり盗んだ者より、盗まれた者が悪いのである。
故に艦隊勤務において、物資の積み込みが行われる寄港地では主計科と水兵の鬼ごっこは日常茶飯事。そこにはちょっと失敬と缶詰等の小物をポッケに忍ばせる可愛い輩もいれば、先程の彼の様に実力を持って大物を調達するとんでもない輩もいる。見事に行方を眩ますことが出来たなら、晴れてその品物は補給品から紛失品へと類別変更されるという、なんともご立派なシステムなのである。
そして伊達にマサは長いこと明石艦にて水兵をやってきた訳ではない。艦内の事なら厠の位置はもちろん、乗組員達が如何わしい品々を隠している秘密の場所までなんでも知っており、それから数分後には見事に川島主計長の視界から消え失せてみせるのであった。
『ほ〜う。あれが森の弟とやらか。』
『た、逞しいと言うか、何と言うか・・・。あ、あはは・・・。』
『・・・・・・。』
忠を知る神通と那珂は記憶に残る彼とは大違いの弟の姿を目にし、その顔以外は全く似ていない人となりに驚く。もっともこの姉妹とて似たような物であるが、当の二人は澄ました顔でその可笑しさを笑った。
その内に神通はふと、先程から明石が一言も発せずに彼等が去っていった艦尾に視線を投げている事に気付く。ついさっきまで烈火の如く怒っていた彼女であるが、その表情からは既に怒りの色が完全に引いていた。やがて彼女の顔にあるどこか寂しげに細くした瞳に、神通は明石が先程の水兵の兄に当たる人物の記憶を辿っているのだと悟る。荒げた呼吸もいまや口からは漏らさず、伊勢湾の風によって明石の一本に纏めた後ろ髪がフラフラと揺れる。神通は明石のその姿に小さく口元を緩め、彼女の肩に自身の手を柔らかく乗せた。
『明石。お前だけじゃないぞ。』
『うん・・・?』
突然の神通の言葉と手の温もりに、明石は微かな声を返しながら神通に視線を流す。だが彼女の友人としては最も親しい神通は、そんな明石の心の内を完全に読み取っていた。
『私は砲術学校に行った事は無いが、その辛さは乗組員達の話から少しは知ってる。物凄く厳しいところなんだそうだ、あの若造が行った所はな。』
『・・・・・・。』
『それでも森は、ただひたすらに頑張ってると思うぞ。それはお前が一番良く解るだろう?』
神通の言葉に明石は無言のまま視線を足元に流すが、彼女は友人が何を言わんとしているかは理解していた。全くもって上手く行ってくれない事への腹立たしさを残しつつも、明石はちょっと口を尖らせて那珂の手に握られていた本へと手を伸ばす。そしてそのやりとりを耳にしていた那珂は、明石が本を手に取ると同時にそれを掴んでいた自身の手を離し、ゆっくりと彼女の身体に回していた腕を解く。明石はしばらく握った本に視線を落としていたが、ほんの少しだけその瞳に力を込めてその本を頭の上に乗せた。
神通と那珂は明石のその姿に笑みを送り、彼女の身体の両脇に寄り添ってお互いの手をその背中や肩に添える。
『そら。教えてやる。もう少し胸を張れ。視線は遠く、でも顎が上がらんようにな。』
『明石、お尻を高く上げる事を意識するのよ。歩くのはゆっくりでいいからね。』
『・・・うん。』
友人達の力を借り、明石は再び猫背矯正に励み始めた。日没まで続けられた3人の試行錯誤は、翌日には猛烈な筋肉痛となって明石に襲い掛かるものの、彼女は次の日もその次の日も痛みの残る身体に鞭打って励み、神通と那珂はそれを親身になって助けてやった。
やがて休養を終えた第二艦隊は伊勢湾北西の四日市から、伊勢湾東部に位置する三河湾の奥にある蒲郡へと巡航。その泊地を変更するが、その頃には明石の背筋はちょっとだけ真っ直ぐになっていた。