表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/171

第四七話 「舵をきった日」

 昭和15年6月18日。

 第二艦隊全艦は錨を上げ、佐伯の町と湾に別れを告げた。梅雨時にも関わらず第二艦隊が軍艦旗を進める海原に雨が降る事は無く、遥かに続く蒼天の下を彼等は颯爽と駆ける。目指すは土佐湾沖合いであり、航行中には艦隊航行序列の編成訓練が行われた。右だ左だと愛宕(あたご)艦からの号令が飛ぶ中、所属の各艦は大海原の中を縦横無尽に動きまわる。

 いつも仮装戦艦や仮装空母の役割である明石(あかし)艦はこの時ばかりは付属特務艦としての立ち回りで済み、のんびりと進む明石艦の前を護衛の駆逐艦が忙しなく隊列を入れ替えながら航行していた。艦隊行動において駆逐艦は重要な艦の護衛から、隊列外郭や前方での哨戒、果ては損傷艦への横付けに溺者の救助とやる事が多く、例え二水戦や四水戦といった水雷戦部隊所属の駆逐艦でもそれは変わらない。




『おお〜、絶景〜!』


 艦首旗竿の根元にて両目の上に片手をかざしながら、明石は辺りに広がる第二艦隊の勇姿に声を上げる。細長い航行序列の真ん中に当たる位置でゆっくりと走る分身の上からは付近の海面に散った仲間達の姿が良く見えており、明石艦の艦尾のすぐ後ろには二航戦所属の蒼龍(そうりゅう)艦と飛龍(ひりゅう)艦が付き従っていた。さらにその後ろには仮装戦艦役の四戦隊が追従しており、自分の軍艦旗に続く大型戦闘艦の姿は明石の表情を明るくさせる。頭の中で軍艦行進曲を奏でながらどこまでも続く青い海に列を成す第二艦隊の姿を一望する彼女だったが、耳に装着していた無線電話のヘッドフォンからは友人の声が響いてきた。明石はその声に眉をしかめるような事は無いが、訓練中に響いてきた友人の怒号はやはりというべきか当然というべきか、それを耳にした彼女の部下達を今にも泣きそうな声にさせてしまう。


『16駆、何やってる!?艦隊中央から離れ過ぎだ!!もっと寄らんか、馬鹿者が!!』


 艦隊先頭を駆ける神通(じんつう)艦であるが、その変り身たる神通は第二艦隊所属艦の全てを導くという今の栄光に浸る事無く、後ろへ視界を向けて部下達の行動へ常に目に光らせているらしい。明石は神通が言い終えると同時に、右舷の向こうにて白波を立てる3隻の駆逐艦達に顔を向けた。


 艦首に大きく「16」と書いた彼女達こそが、今しがた神通が怒号を放った相手、第16駆逐隊の面々だ。同じ様な内容である無電を神通艦に座上する二水戦司令部から受け取ったのか、第16駆逐隊は先頭の雪風(ゆきかぜ)艦が転舵を始め、黒潮(くろしお)艦と初風(はつかぜ)艦がそれに続いていく。

 しかし二水戦で最も若い駆逐隊であり、同時に最も若い艦で構成されているのが第16駆逐隊であるから、二水戦司令官である五藤(ごとう)少将はそれ程怒っている訳ではない。竣工と同時に就役が常の駆逐艦であるから、完熟運転はこのような航行中の訓練で補うしかないのである。

 しかし自身の分身の中に宿る五藤少将に反し、この人が注意だけで終わるはずも無い。この日の夜、第二艦隊は土佐湾沖合いにて停泊するがその最中、神通艦の艦尾では雪風、黒潮、初風の3人が神通によって容赦なく叱責された挙句、思いっきり尻をぶっ叩かれる事になってしまった。






 6月26日。

 第二艦隊は訓練海域であった土佐湾を離れ、針路を西に取った。

 室戸岬を左舷に眺めながら通過した後で、今度はすぐに針路を北に変更。休養の為、和歌山県の和歌の浦湾へと向かうのだ。


 紀伊水道へ向かって真っ直ぐ北上する第二艦隊だが、この水道を抜けた先には淡路(あわじ)島によって隔てられた大阪湾と播磨灘(はりまなだ)が広がっており、それに伴って民間の船の通行が多い事から航行中の隊列編成訓練はさすがに行われなかった。特に和歌山と徳島の間を結ぶ交通船の航路は紀伊水道を真横に一刀両断するかのような航路であり、単縦陣にて紀伊水道越えを図る第二艦隊の各艦は両舷への見張りを強化する。

 もっとも視界の良好な晴天という天候の下での航行であった為、見張りの任につく乗組員達は往来する客船や貨物船に手を振ったりする等の余裕もあった。そして大阪、神戸と世界的にも屈指の港湾都市を持つ大阪湾方面からは、二航戦の蒼龍艦や飛龍艦にも引けを取らない大型の船舶が頻繁に紀伊水道を南下して行き、世界に誇る日本の海運事情を各艦の乗組員達によく理解させた。

 一方、第二艦隊所属の艦魂達は真横をすれ違っていくそんな船舶に手を振ってやるものの、その内心では色とりどりの服で身を包む民間船の艦魂達がちょっと羨ましかった。自分達が持っている服は栄えある帝国海軍の軍装であるが、在りのままに言ってしまえば白と黒の2色でしか選べない地味な色合いの服である。赤や黄色などの鮮やかな色合いは一度もその身に纏った事は無く、口には出さないながらも民間船の艦魂達が身に付けた着物や洋服は第二艦隊の艦魂達の瞳にはどこか恨めしく映るのだった。






 6月28日。

 第二艦隊は紀伊水道の東側に位置する和歌の浦湾に到着。紀伊半島の西岸をえぐった形となる和歌の浦湾は湾口である西側以外は全て陸地に囲まれており、そこに広がるのはこれまた波の静かな海である。第二艦隊は、湾の北側に位置する新和歌の浦の沖合いにその錨を下ろした。


 和歌の浦は万葉集にもその名が出てくる程の歴史のある土地で、奈良の時代から続くその地のあちこちには名所旧跡が数多い。皇紀2600年の今年はその中でも神巧(じんぐう)皇后や聖武(しょうむ)天皇の所縁がある玉津島神社が全国から観光客を呼び寄せており、さらには付近にある紀州東照宮や天満宮等の神社仏閣も含めて、この地は奈良の時代から続く古き良き日ノ本の歴史を垣間見る事ができる重要な土地だ。

 この新和歌の浦は和歌山市に含まれいるのだが、和歌山市は徳川御三家の一つである紀州徳川家が代々その身を宿した和歌山城の城下町として栄えた土地であり、その事はこの地が時代を選ばずに常に日本史の中で輝き続けている事を物語っている。そして湾を出て少し北に行った所には雑賀(さいか)崎があり、ここはかの織田信長公をも震撼させた鈴木孫一率いる戦国最強の傭兵集団「雑賀衆」の本拠地でもあった場所だ。伝えた西洋人達が逆に腰を抜かす程だったという、彼等の卓越した鉄砲戦術は余りにも有名である。

 また、この歴史のある土地は古くから神社仏閣を巡る巡礼の旅の聖地で、明治41年には既に和歌山電気軌道による路面電車が和歌山市から和歌の浦まで通っており、その4年後の大正2年には第二艦隊が停泊する和歌の浦港を有するこの新和歌の浦まで沿線が拡大された。元々、この和歌の浦港は紀伊水道を渡って四国の徳島まで行く事が出来る交通船の出発港であった為、路面電車の開通はこの地における商業と経済の活性化に多大な貢献をしており、発達した観光客目当ての商業は第二艦隊乗組員を癒すのにはうってつけであった。

 ちなみに昨年に連合艦隊司令長官として赴任した山本中将が連合艦隊旗艦の長門(ながと)艦に初めて将旗を掲げたのは、この新和歌の浦の波間で行なわれた出来事である。



 和歌の浦港の往来を邪魔せぬように沖合いに投錨した第二艦隊の各艦だが、今から長距離のカッター漕ぎをせねばならないという状況が生まれているのにも関わらず乗組員達の表情は明るい。そしてそれは明石艦とても例外ではなかった。



 見晴らしの良い艦橋天蓋にて腰を下ろした明石は暖かさが暑さへと変わり始めた和歌の浦湾の風を浴びながら、艦側から次々に港へ向かって船足を進めていく内火艇や運貨艇を眺めていた。和歌山県には海軍関係の施設が無い事から、明石艦のような生まれて間もない艦にとっては初めての寄港地である新和歌の浦はその乗組員達にとっても同様に初めて訪れる地であり、運貨艇や内火艇からは彼等の明るい声がそれはそれは賑やかに響いてくる。いつもは寄港地に投錨してすぐに明石艦には艦隊所属の各艦からの要修理品が寄せられてくるが、艦隊訓練が始まったばかりとあってさすがに今日は一件も修理依頼が無かった。普段からこういう地味なところで汗を流す自らの乗組員達が憂い無く遊びにいける事は、文字通り艦の命である明石にとっても喜ばしい事である。だが明石の表情は乗組員達と同じ様に冴える事は無く、ちょっと口を尖らせてその光景を瞳に映していた。


『つまんね・・・。』


 ふとその唇から漏れてきた明石の声に、彼女を挟んで腰を下ろしていた神通と那珂(なか)は僅かに視線を向ける。艦から足を離せないという艦魂の不便な所を嘆く明石はいつもの事ではあるが、神通も那珂も彼女がそれだけの理由で声を上げた訳ではない事はすぐ解った。

 いつも彼女の変り身の様にして上陸しては必ずお土産を買ってきてくれた相方は、既に明石艦から去っている。即ち明石にはもう、美味しい名産品を買ってきたり、面白い上陸先での土産話を聞かせてくれる人間が誰一人としていないのだ。

 元来、人間と艦魂は触れ合う事のできない存在であるから、神通と那珂にとってはそれは艦魂たる者における当たり前の事であったが、就役前から半年に及んだ人間との生活は明石の中では余りにも大きい記憶であり、神通と那珂の二人もそれを否定するつもりは微塵もない。彼女達にしても普段から自身の分身の中で生活を共にする乗組員の一人と手を取り合って一喜一憂できる事は有意義であったし、艦魂と人間という存在の仕方の違いは在れど、そんな彼等の内の一人と触れ合いながら過ごせた事はなにより楽しかった。

 神通が気付かれないように横目で除いた明石の横顔には、最近は笑みを絶やさない様になった彼女の明らかに寂しげな表情がある。それは楽しかった相方との生活が恋しくてたまらない明石の素直な気持ちを、極めて率直に表した物だった。だが神通と那珂にあっては、その事を口に出して明石を慰めようという気は無い。明石が欲するそんな生活はいずれ必ず戻ってくると予想しているし、残念ではありながらもこうやって別れを経験してお互いの大切さを認識した明石の姿は、十年以上も生きてきた神通や那珂ですらも体験できなかった素晴らしい経験だと考えているからだ。

 ほんの少しだけ口元を緩めた神通は、ふと視線を正面の和歌の浦港へと映す。和歌の浦港は呉や神戸ほどの大きな港湾ではないが、港の背後に広がる歴史を感じさせる建物群と色とりどりの看板は賑わい豊かなこの地の様相を目にする者に良く伝える。そしてそこに向かってカッターや内火艇がカルガモの親子の様に列を成して走る光景を瞳に映し、神通は僅かにかすれるような小さな声で言った。


『ここには美味い食い物や酒でもあるのかな。ウチの乗組員の連中もエラくはしゃいでいたが・・・。』

『さあ・・・。』


 力ない返事で首を捻る明石だが、その横では那珂が常に湛える彼女らしい優しげな笑みで二人のやりとりに耳を傾けていた。頭の後ろで組んだ両手を枕にしてだらしなく寝そべる姉に反し、落ち着いた柔らかな物腰が特徴の那珂は両の脚を横に流して野辺の花のように腰を下ろしている。しかしその脳裏には自身の分身たる那珂艦の艦内にて耳にした乗組員達の会話が浮かんでおり、そこに彼女は姉の口にした疑問に対する答えを得ていた。


『和歌山市で歌手の公演を見学するんですって。かさぎしづこ、だったかしら・・・。』

『ああ〜、笠置シヅ子か。ウチの士官の連中も、よくガンルームで蓄音機をかけとったなぁ。』


 自分を挟んで右に左に飛ばされる神通と那珂の会話に、明石は耳にした歌手という言葉に反応して顔を上げた。もちろん歌の歌い手さんであるという事は解っているのだが、実は彼女は歌手が歌っているレコードを聴いたことも無ければ、それがどんな人達なのかも良く解っていない。とりあえず自身の乗組員達が話していたやりとりからすると、歌手は歌が上手いのはもちろんだがとても美人で、常に華やかな服装に身を包んでいるのだと言う。かつては相方と一緒になって歌を歌った事は何度もある明石だが、そも人間の世界でそれを生業にするという歌手の実態を考えた途端、彼女の胸の奥からは好奇心という感情が溢れ始めた。


『ジャズとかいったかな、笠置シヅ子の曲は・・・。米国生まれの音楽らしいが、私は割りと好きだったぞ。そう言えばお前の声と良く似てるな、那珂。』

『笠置シヅ子と?ふふふふ、そうなの?』


 姉妹の明るい会話がその場を優しく包んでいくが、尽きぬ興味を抱いてしまった明石はそんな空気なぞへとも思わない様になってしまう。突如として神通に顔を向けた明石は、すぐさま神通の腕を掴んで声を荒げる。


『神通、蓄音機あるの!?』

『な、なんだ、おい・・・。』


 グラグラと身体を揺すられてビックリする神通だが、猫どころか龍すらも殺せる好奇心の持ち主である明石にかかっては抵抗する事もままならない。だが先程まで浮かべていた寂しげに伏せられていた彼女の瞳は大きく見開かれて輝いており、明石がもやもやと胸に抱いていた物を一時とは言え忘れた事を神通は感じ取った。そして明石の背後から顔覗かせている妹が放つ声も、神通の明石に対する行動に拍車をかける。


『神通姉さん、私も聞いてみたいわ。』

『ざず〜!かさぎすづこ〜!蓄音機〜!!』

『だ〜〜、解った解った・・・。今は艦内に乗組員は殆どいないから、蓄音機を使っても大丈夫だろう。』


 面倒臭そうに言いながら神通は立ち上がるが、その表情は決して不機嫌そうではない。晴天に向かって顔を上げ、何度か首を左右に捻る彼女の顔には、友人や妹の希望を叶えれるという喜びが生む清清しい笑みがあった。自分に従って腰を上げた二人にその表情を隠すように背を向けると、神通は右手を方の高さに上げて人差し指を前後させながら口を開く。


『そら、ついてこい。』



 こうして3人は神通艦へと向かい、人気の無い一室で蓄音機から響く笠置シヅ子の美声に耳を撫でられる時間を楽しんだ。






 そしてちょうどその頃、東京では日本の進路を決定付ける重大な動きが密かに画策されていた。


 霞ヶ関の赤い壁に青い屋根を頂く海軍省庁舎。

 明治27年からその身を構える優雅な風格を持った庁舎の正面玄関からは、敬礼をする衛兵を背後にしてスタスタと庁舎から出て行く一人の男の姿があった。雪のような純白の第二種軍装に金のボタンを輝かせ、その襟元には大佐の襟章を身に付けている。栄えある帝国海軍の佐官であるその男にはマストを彷彿とさせる真っ直ぐに伸びた背筋が伴っており、その歩く姿はまさに「忠勇なる陛下の赤子」という言葉をそのまま映像にしたかの様な姿であった。

 しかし男の表情は務めて不機嫌そうであり、尖らせた口を1ミリとて引っ込めずに歩いていた。彼は脳裏にその原因である先程までの記憶を蘇らせ、荒く首の後ろガリガリと掻く。






『欧州の情勢をご存知でしょう!!何故に海軍はこの好機を捉えようとしないのですか!?』

 

 僅か数分前までその大佐の男は、優雅な造りの部屋の真ん中にある机で腰を下ろす初老の人物に向かって声を荒げていた。真紅の絨毯を敷き、部屋の横には様々な書類と美しい小物が収納された棚が列を組んでいる。その上には歴代のこの部屋の主達の肖像写真が並べられ、その人物が座る大きくて広い机の後ろには同じくらいの大きさの窓があり、そこから差し込む陽の光りはその人物が襟につける星二つの襟章を輝かせていた。

 その襟章が示す彼の階級は中将。佐官の身分である者が、荒げた声を放って良い相手では決してない。だが中将の人物の机に歩み寄った大佐の男は両の手を机の端に刺す様ににて突っ張り、必死の形相で叫ぶように言い放つ。彼の立場という物を無視した態度は軍隊においても世間一般の会社においても許される物ではないが、その心意気を中将の人物は複雑な心境を持ちながらも認めている。先程の彼の言葉通り、そこに響くやりとりは帝国海軍と日本の将来を案ずる物なのであった。


『アメリカは当に経済制裁を課してきたんですよ!?その理由は帝国が支那戦線で足踏みをしているからです!!』

『そんな事は君よりも長く海軍に勤めてきた私が、一番良く知っとるよ。』


 中将の人物は眼前の大佐の叫びを物ともせず、手元にあった書類に視線を下ろしてサインを綴る。背後から差し込んでくるサンサンとした日差しが良く似合う穏やかなその表情だが、大佐の男はそののんびりとした態度にさらに声を荒げる。しかしそれでも中将の人物は態度を少しも変えない。実はこの様に部下達が迫ってくるのは、最近では日常茶飯事だったからだ。


『だったらなぜ支那への支援を断つ一連の提案を却下なさるんですか!?それにこのままドイツが破竹の大進撃を行えば、降伏したフランスやオランダが宗主権を持つ仏印や蘭印に奴らが現れるかも知れませんよ!?南洋にあるわが国の領土の領有権を主張するかも知れませんよ!?』

『君ねえ。だからと言って先にぶん取ったら、アメリカが黙ってる筈無いだろう?戦争になってしまったらどうする?帝国の石油や鉄鋼といった資源の備蓄、年間数百万台に及ぶアメリカにおける自動車の生産実績、そして基本的な国力の差。こんな相手に一年ぐらいは戦えるかどうかが関の山という状態で戦争するのは、暴虎馮河(ぼうこひょうが)の愚じゃないか?』


 のらりくらりとする中将の人物の物言いに、大佐の男はそれまでも同じ事を何度も訴えてきたこの場にはいないもう一人の中将の記憶を思い出す。

 「女子学習院院長」のあだ名で呼ばれたその人物は、海軍次官の住山徳太郎(すみやま とくたろう)中将。本来は大佐の男の様な組織の下の者からの意見は海軍次官の住山中将を通してから、いま彼が対峙する人物に行き渡るようになっている。しかしその渾名の通り、教育畑を歩んできた住山中将にはハッキリと決断をするような物言いが無く、大佐の男が何を口にしても暖簾(のれん)に腕押しで埒があかなかった。だから大佐の男は、こうして眼前の人物に直接意見を陳情しにきたのである。

 そして彼が必死の形相で帝国海軍の将来を訴えるその人物こそ、帝国海軍の意見を国政に反映させる立場を頂きたる者。海軍大臣である吉田善吾(よしだ ぜんご)中将、その人なのであった。


『大臣!!仏印を手に出来れば、支那に対する欧米の援助の殆どを遮断する事ができます!!それに地理的にも資源の豊富な蘭印への足掛かり、橋頭堡(きょうとうほ)にもなり得ます!!そして蘭印を制圧できれば、帝国の資源は充分ではありませんか!?さらに提案には陸軍も同調しています!!』

『君ねえ。船と大砲と火薬があれば戦争が出来ると思っとりゃせんか?』

『な・・・!!』


 大佐の男が口を噤んだところで、それまで手元の書類に視線を落としていた吉田中将が顔を上げた。現在の連合艦隊司令長官である山本(やまもと)中将と同期で、日露戦争にも従軍した経験を持つ彼は、戦争という物を肌身を通して良く知っており、先程からの大佐の男の言葉に足らぬ点がある事を認めていたのだ。切れ長の目をさらに細くして、吉田中将は眼前の部下に対して静かに語りかけた。


『今の我が国には兵器の損害を補うだけの生産能力はあるかね?決戦海域とされる南洋方面のサイパンやパラオ、トラックに修理用のドックや工作部署があるかね?何も無い更地を一晩で平地に整える土木機械があるかね?蘭印や仏印、シンガポールの西方に関する海図だって、満足に用意していないんじゃないのかね?』

『・・・・・・。』

『全体の知識が無い者が、勝手な事を言ってはならんよ。海軍は陸軍に引っ張られず、帝国海軍軍備の再検討を含めた日本の将来を研究するべきだ。』







 脳裏に残る吉田中将の言葉と反論できなかった自分の不甲斐なさに、大佐の男は舌打ちをしながら歩く。大股で足を進める彼の背中には、落胆と憤りが同居している。


 そんな彼の背中を、吉田中将は執務室の窓からこっそり眺めていた。理想は違えども、大佐の男が口にした言葉は帝国を憂う気持ちから来る物であると理解する彼は、それをことごとく退けなければならない海軍大臣という自身の立場をちょっと不憫に思ってしまう。すると彼はゆっくりと自身のヘソの辺りに手を当てて、溜め息を発しながら呻く様な声で呟いた。


『ふうぅ・・・。腹が重いな・・・。』





 しかしこの時既に、吉田中将が憂いでいた事は現実になっていた。

 この日、陸軍と海軍の一部の勢力は密かに打ち合わせを設けており、その結果として生まれたのは大佐の男が口にした提案その物であった。そしてその策を現実の政策として実行すべく、陸軍と海軍の一部勢力は、欧州戦線不干渉を掲げる現在の内閣、即ち米内(よない)内閣の打倒を画策したのであった。


 時に昭和15年6月28日。梅雨の日差しが空気を蒸し返し、暖かさが暑さに変わり始めた日の事だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ