第四五話 「背を合わせる物/其の四」
林立する水柱の間隙を縫って駆け抜けるグローリアス艦。
艦中央から巻き上げた黒煙によって、前後に位置する護衛のアカスタ艦とアーデント艦が確認し辛い中、グローリアスは決して乗組員には見る事が出来ない己の血が飛び散った艦橋天蓋にて、壁に背を預けながらもなんとか立っていた。服の上から巻いた包帯の端を握った手に力を入れるグローリアスだが、それと同時に彼女の左の脇腹には激痛が走り、強く結んだ唇からは思わず声を上げてしまう。
『ううっ・・・!!!』
再び崩れ落ちそうになる両の脚に力を込めて、グローリアスは痛みに耐える。血が滲んでベットリと肌にへばりつくズボンの左側大腿部の感触と、眼下に広がる大穴の開いた甲板の惨状に眉をしかめる彼女であったが、その胴回りに巻かれた包帯の左脇腹は白いままであり、それが意味する事をグローリアスもまたふと気付いた。先程から痛みの震源地に当てている彼女の手には、被弾と供に覚えた生暖かくドロドロとした感触が伝わっていないのだ。そこにある痛みと熱さは相変わらずであるが、そっと押さえていた手を脇腹から離してその手のひらを顔に向けるグローリアス。彼女の瞳に映ったのは、被弾時よりも遥かに少ない自身の血が付着している手であった。
その光景にグローリアスの顔からは僅かに苦しみの色が消え、続いて足元から響いてくる乗組員達の声に彼女は自身の身体の変化をようやく認識する。
『中甲板の火災は消化に成功! 併せて吸気口への煙の流入も防げました!』
『良し、艦長! 缶圧が下がっていた2缶は復旧に成功!!』
『艦長了解!』
その声を耳にしたグローリアスは、視線を向けていた左手を握って拳をつくる。両舷を包む水柱から発せられる轟音と爆風によろめきながら、彼女は右手に持っていたマイクを口元に近づけて部下に自身の状態を教えた。
『16、44・・・! グ・・・、グローリアス。缶、復旧・・・・! そ、速度を・・・、艦隊速度を戻すわよ!』
アーデントは上官の声を受けて、すぐ前方で水柱の森を駆け抜けるグローリアス艦に視線を流す。甲板中央から靡く煙が細くなり始めるのと逆行して、グローリアス艦は煙突から黒煙を一層多く昇らせ始めた。それと同時にグローリアス艦の艦尾に発生する白い水飛沫の勢いが増し、眼前の上官の分身は再び被弾前の速度で駆け始める。それに対して了解の意を示す姉の声がヘッドフォンから響き、アーデントもまた姉と同じ言葉を発する。
『アーデント、了解!!』
一方的に攻撃されている今という瞬間の危険性は何一つ変わらないが、グローリアスの苦しみながらも凛とした声はアーデントの心を落ち着かせる。彼女は飛び散った海水によって頬にくっついていた黒髪を指で流し、耳の上を通して引っ掛けた。巡洋戦艦の主砲弾を被弾しながらも弱音を吐かず、水柱が至近距離に次々と現れる海面をひた走る上官の姿。そしてそこに伴った、グローリアス艦の艦尾にて降り注ぐ海水の雨によって濡れながらもなお健在であるホワイト・エンサインが、アーデントの茶色の瞳に映る。
アーデントの身体には既に震えは無く、被弾した上官への心配も少し薄らいだ。「まだ大丈夫。」と胸の中で呟いた彼女は一度小さく深呼吸してから、自身が別に感じていた敵情の変化を確認する為に左舷へと視線を戻す。
速度の増減によるトラブルが功を奏したのか、左舷にて一瞬の炎を纏うドイツ側の砲撃は幾らか精度が欠け始めた。艦のすぐ両脇に隆起していた弾着による水柱の群れは、段々とグローリアス艦から遠い所に出現し始めていく。その事を確信したアーデントの耳には、グローリアスもまたそれを確認した事を示す声が流れてくる。
『敵一番艦の射撃修正、うっ・・・、思うようにできて、ないわ・・・。ア、アカスタ・・・!!』
『はい! 1645! アカスタ、ジグザグ航行を始めます!!』
グローリアスとアカスタのやりとりと同時に、同じ内容の指示がヒューズ艦長からアカスタ艦の艦長へと伝達される。やがて隊列先頭を駆けるアカスタ艦は緩く舵をきって大きな蛇行運転を始め、グローリアス艦とアーデント艦がそれに続いた。針路を不規則にする事で敵の砲撃修正を混乱させようとする行動であり、それを示すようにアーデントの視界には、先程までは目前にあったグローリアス艦の至近距離で夾叉していた弾着による水柱が左右両舷へズレると供に、今度は前後にもズレ出している光景が映り始めていた。
『よし・・・!』
思わずそう呟いたアーデントは、顔の前に右手を持ち上げて拳を作る。それさえ凌げれば希望はあると上官が口にした敵の砲撃が、いよいよここに来て散漫になってきたのである。グローリアス艦は被弾によって損傷を受け、先程からヘッドフォンから聞こえてくるその分身たるグローリアスの声は苦しそうの一言であるが、状況は彼女達が願った通りに傾きつつあり、その事はアーデントの凍えるように硬直した心に幾分の余裕を与えてくれる。グローリアス艦の上空から降り注ぐ海水の雨を吸って重くなった水兵帽を一度被りなおし、アーデントは再び左舷の敵艦に向かって視線を向ける。だが彼女の瞳に敵影が映った矢先、そこには一番艦と同様に発砲炎で身を纏い始めた二番艦の姿があった。
『ひ、1646ー!! 敵二番艦の一斉発砲を確認ー!!』
敵艦を観測していた乗組員の叫びを耳にしたグローリアスは歪めた表情のまま僅かに目を見開き、すぐさま左舷の敵影に目を凝らす。離れた所へと移動した水柱の山々はグローリアス艦からの視界を妨げる事は無く、グローリアスは報告にあった敵の二番艦を容易く見つける事が出来た。会敵から既に時間も大分経ち、お互いの艦隊の距離は14600メートルにまで近づいているが、件の一番艦の低下し始めた砲撃精度と二番艦が一斉射をした事はグローリアスにとっては少しだけ脇腹の苦痛を忘れさせる。壁から背を離し、すぐ近くにあった手摺に右手を引っ掛けるようにしながら彼女は身を流すと、僅かに溜め息を放ってから声を発する。
『思った、通り、と、統制射撃・・・。い、一番艦の射撃、データ、を、つ、使ってるんだ、わ・・・。』
グローリアスは詰まる様な呼吸を楽にしようと胸元にてぶら下がっていたネクタイを前に引っ張り、自らのダメージをほんの少しだけ和らげる。僅かに張り詰めた緊張感が彼女の瞳から薄れるが、そこには被弾時よりも多い18門の主砲でこちらを睨みつける敵艦隊の姿がある。
だが彼女の予想通り、ドイツ艦隊の二番艦は先に射撃していた一番艦の射撃データを受け取って試射を伴わずに攻撃していた。統制射撃と呼ばれる艦隊射撃法であるが、グローリアスは散漫になり始めた一番艦の射撃データを用いた二番艦の射撃精度は、今の一番艦のそれと同じ様にそれほど正確ではないと予想していた。そしてその事を示す弾着の水柱がグローリアスの目の前、即ちグローリアス艦左舷艦尾寄りの数百メートル付近にそびえ立つ。
一度乱れた射撃精度を再び修正するのは中々に難しい事であり、まして彼女達の艦隊は左右への蛇行を行って遠近、及び未来位置を悟らせないように航行し始めている。これを光学的な方法で正確に捉える事は、観測する者に余程の腕前が無いとまず成功しないのだ。
巡洋艦時代に自身もその事に歯がゆい思いをした経験が、空母となった今のグローリアスの危機を大いに助けてくれる。自分達よりも優速な敵との距離が縮まっている事は残念であるが、それも考えようによっては雷装を施した護衛の駆逐艦の反撃もし易いという事であり、グローリアスは遠距離からの射撃一辺倒になっていない今の戦況を腹の底から憂いでいる訳ではなかった。心のどこかで表に出ようとする弱気な自分を押し殺すように、脇腹を押さえた左手に力を入れて顔を歪ませるグローリアスだが、その耳には彼女の希望をさらに助長する部下達の声が届く。
『アカスタ! 発煙薬品の調合はあと少し!! 煙幕展開準備はもうすぐです!!』
『アーデント! 機関異常燃焼の準備は後数分!! 3缶の内、2缶は既に準備完了です!!』
その声にグローリアスはただ一言『了解。』とだけ返したが、その内心は目前まで迫った安堵に声を上げて跳び付きたいという衝動を必死で抑えていた。
ただでさえ精度の欠く砲撃に対して煙幕まで展開できれば、ドイツ艦隊は最早完全に命中弾を期待できない状況に陥る。例え巡洋戦艦と言えども隻数が僅かに2隻のドイツ艦隊は、それに対しての別なオプションがとれない。相手よりも少ない戦力で逃げの一手を決め込んだ艦隊をただっ広い大海原で捕捉するのは無理であり、なにより近づいてその行動を取ったなら4連装の魚雷発射管2基を搭載する駆逐艦に反撃される恐れがある。シャルンホルスト艦にしろグナイゼナウ艦にしろ、もし片方がまかり間違ってこの北海のど真ん中で航行不能にでもなったら、ドイツ側はその救援を行う為に無傷の僚艦を使用せねばならないので追撃は中止する他無い。支援の駆逐艦や巡洋艦を連れていない戦艦は、その実は遠距離から砲弾をぶち込む以外に戦い方は無いのである。
そして空母戦力を持たないドイツ艦隊は、目の前の獲物を追って深追いする事も出来ない。ドイツ艦隊にしたらいま駆けているこの海はついこの間まで敵の空母がうろついていた危険な海域であり、陸上での急速な戦線展開は支援の為の陸上航空戦力の充実が追いついていないという状況を生んでいたのだ。
文字通り脇腹をえぐられたグローリアスは歪めた表情を落ち着かせる事が出来ないが、それでもここまで敵と自分達の戦闘条件を冷静に比較しており、彼女は結論として逃げ切れる可能性を明確に導き出していた。
あともう少し、もう少しだ。
必死にその言葉を胸の中で唱えながら、左舷にて轟音と発砲炎を幾度も放つ敵艦隊を睨みつけるグローリアス。荒い呼吸と激しい苦痛に襲われ、終いには吐き気まで催し始める彼女だが、今まさに手を伸ばせば届く距離にまで迫った生き残れる可能性を信じ、鋭く尖らせた色違いの両目を敵に向ける。そしてついに彼女の耳には、待ち望んだ部下達の声が届く。曇天の空の下、雑音混じりで響いてきたその声に、グローリアスは左舷の敵から自らの分身の前後にて波を掻き分ける部下達へと視線を流した。
『1656!! アカスタ、煙幕展開ーーー!!』
『アーデント!! 煙幕展開始めます!!』
『グローリア、ス、了解・・・!!!』
グローリアスは部下の行動に精一杯の大声を放って感謝の意を滲ませ、脇腹に当てていた左手を離した。天蓋端の手摺に両手で寄りかかる彼女の身体には前にも増した激痛が走るが、その瞳に映った部下達の姿に思わず口元を緩める。自身の分身である艦首舳先の向こうでは、その小さな艦体のどこから生まれたのかと疑ってしまう程の特大の黒色と白色をした煙の塊が吹き上げながら、彼女を隠す為に僅かに左舷へと針路を逸らして航行するアカスタ艦があった。そしてそれまで背後を駆けていたアーデント艦はアカスタ艦と同じく大きな煙を煙突と艦尾から上げながら、グローリアス艦の右舷を通って追い越して行く。姉と供に35ノットの快速を誇るアーデント艦は17ノットしか出せていないグローリアス艦を易々と抜き去り、アカスタ艦と同じ様にグローリアス艦の前方にて煙の壁を形成し始めた。空一面を覆う曇天をそのまま映したかのような煙幕の壁はまだ少し薄いものの、次第にグローリアス艦とドイツ艦隊との視界を遮り始める。左舷に霞んでいく敵艦を横目に、グローリアスは一度力なく俯いて溜め息を吐く。だがその表情には歪んでいながらも、憂いが限りなく薄くなった事に喜びを滲ませる笑みがあった。
そしてすぐに彼女は、艦橋天蓋から艦橋へと通じるラッタルへと足を引きずりながら歩き出す。見晴らしの良い天蓋は指揮を取る上では絶好の場所であるが、離れたと言えども倍加した敵の着弾で発せられる猛烈な音は、それまでグローリアスの足元から聞こえていた乗組員の声を遮り始めていたのだ。まして立つ事すらも辛いその身では、敵を長時間に渡って直視する事もまた苦しい。その為にグローリアスは乗組員達の声がすぐそこで聞き取れる艦橋内の片隅へと移動し、自らの乗組員達の報告を元に指揮を取ろうとしたのである。幸いにも恐れを忘れ始めたアーデントは目にする細かな敵情の変化をヘッドフォンの奥から声に乗せてくれており、グローリアスがその目で敵を確認する必要を薄くしてくれている。故に彼女は重い身体を引きずりながらも、その胸の中には絶望感など無かった。
ふいに走る脇腹からの激痛に思わず右手を患部に流し、それによってその手に握られていた無線電話機のマイクが滑り落ちて行き、右肩の上を通って繋がっていたケーブルが張る事によってグローリアスの腰の辺りで宙吊りになった。辺り一面から空気を伝わって流れてくる爆風に揺られ、まるで振り子の様に左右に揺れるマイク。被弾時にこびり付いた自身の血をラッパ状になったマイクの根元辺りにグローリアスは認めるが、その血は降り注ぐ海水によって洗い流されてマイクの先から薄く静かに滴っていた。そして口元からマイクが離れた事を理解した瞬間、彼女は安堵の息を吐きながら静かに呟いた。
『よ・・・し・・・。』
グローリアスは僅かに隙間を作った唇を再び真一文字に結び、マイクをそのままにラッタルへと足を進める。その先からはアカスタやアーデントと同じ様に、恐怖に打ち勝って覇気の篭った声を放つ彼女の乗組員達がいた。そして艦橋の一番奥では、白い軍帽を逆に被って羅針儀の前にて声を荒げるヒューズ艦長の背中がある。グローリアス艦の艦長として赴任して僅か10ヶ月の彼はそれ以前には潜水艦部隊を率いていた経歴があり、ノルウェーでの戦闘では慣れない航空母艦と航空機事情によって他の艦体や陸上の部隊からの評判は良くなかった。敵艦隊の察知が遅れたのも、見張り員を駆逐艦よりも背の高いグローリアス艦が配置していなかった事が原因であり、その大元は彼の命令一つである。だがグローリアスの色違いの両眼に映る今の彼の背中は、自分には勿体ない程に卓越した水上戦闘を行える優秀な指揮官の背中であった。グローリアスはゆっくりとラッタルを降りながら、決して彼が耳にする事は無いと解っている自身の声を放とうとする。胸一杯に詰まった感謝の気持ちを伝えようと。
しかし神は、そんなグローリアスと彼女の部下達、そしてそこに居たユニオンジャックを掲げる全ての人間から視線を逸らした。
その時、グローリアスの耳には最早何度目かも数えていない程に聞き慣れた高圧蒸気の漏洩音に似た音が届いてきた。既にその音が繰り返される中で20分近くも過ごしてきた彼女と乗組員達は最初の内は気にも留めなかったが、先程から繰り返される同じ音とはそれが違う事に気付く。音量が一際大きくなってからやがて段々と小さくなり、その最中に艦とは的外れな所に水柱の山脈がそびえ立つ事がしばらくの間は繰り返されていた光景。だが今その場に響く聞き慣れた音は、次第に大きくなるばかりで一向に小さくならない。そしてグローリアスとその乗組員達はただ一度だけその音を耳にしており、それに纏わった真新しく強烈な記憶を瞬時にこもごもの脳裏に過ぎらせる。
刹那、全員が脳裏に浮かべた絵が、その場に強烈な音と爆風を放って広がった。
『1657! アーデント、水雷戦準備良し!』
艦尾左舷寄りに黒煙の壁を作って走る姉の姿を視界に入れながら、自身の分身の艦橋天蓋上で大きな声で叫ぶアーデント。頬に滴る汗を拭い、艦隊の先頭を走る彼女は、自身が発する黒煙の壁と姉のそれが上手く上官を隠す様に小刻みに針路を変え、さらに敵艦の警戒とやる事が多い。どうやら敵はグローリアス艦のみに照準を絞っているらしく、前列を航行するアーデント艦とアカスタ艦の至近はまったく着弾の水柱は出現しない。さらに先程からグローリアス艦を囲むように発生していた水柱の山は、その付近から大きく離れた位置へと流れている。アーデントはそんな背後の情景に強張っていた表情を緩め、小さく溜め息をつく。もちろん安心はしておらず、ドイツ艦隊は砲撃精度を得るためかまだまだ距離を縮めようとしており、彼女はその姿を視界の端から外していない。
その光景を認めるアーデントの乗組員達の声が、彼女の足元から響いてくる。駆逐艦長の指示に従って水兵達が甲板を走り回り、アーデントはその様子を黙って見守る。艦中央と艦尾よりにある2基の4連装魚雷発射管の周りに集まった彼等は、一撃必殺の魚雷を取り扱う水雷科の者達。
隙あらばその横腹にぶち込んでやる。
水兵達と同じ思いを抱いて普段は丸い瞳をサーベルの様に尖らせるアーデントだったが、彼女はふとその視線を上げる。自分の分身の艦尾の向こうで白波を掻き分けるグローリアス艦がそこにはあったが、突如としてその付近に水柱が一つ、また一つと出現し始める。上官の分身はその衝撃にフラフラと揺れているがそこからは爆炎や鉄材が舞い上がる様子は無く、アーデントは特に表情を変える事も無かった。だが次の瞬間、何かが爆発する大きな音がアーデントが顔を向けるグローリアス艦から襲ってきた。何が起きたのか解らず僅かに見開いた瞳を向け続ける彼女だったが、爆発音が止む前に彼女の耳に着けたヘッドフォンからはその分身たる上官の悲鳴が響いてきた。
『あああああぁぁあ・・・!!!!!!!』
『グ、グローリアスさん!? どうし・・・─!』
返す言葉を言い切る前に、アーデントの唇は動きを止める。敵前であるにも関わらず呆然としてグローリアス艦に視線を向けた彼女の瞳には、その大きな煙突とセットになった事で自分達よりも遥かに大きく見えていた筈のグローリアス艦の艦橋が映る。そして見慣れたその上官の艦橋は煙突の手前ほどで食い千切られた様にえぐられており、灰色のペイントをしていた筈のそこには真っ赤な炎が一面に広がっていた。
さっきまでそこにあった筈の乗組員達の声は嘘だったかのように静まり、天蓋すらも吹き飛ばされて吹き曝しとなった艦橋。持ち主を失った手や足が散乱し、壁には艦の付近にそびえ立つ幾重もの水柱をそのまま写した様な血の山が描かれている。折り重なった肉の塊とその隙間から漏れる炎、そしてその下地は辺り一面に水溜りとなった血と床。この世の物とは思えぬ呻き声が小さく発せられては消えていく中、その艦橋の端では大河となって足元を流れる血をすするようにして突っ伏し、顔を押さえて慟哭するグローリアスの姿があった。
『ぁああぁあ・・・!! あああ・・・!!!!』
両手で押さえた彼女の顔の左側半分は、滴る血で雪の様に白い肌である事を隠す。頬骨の辺りから大きく裂けた傷とそこから生まれる強烈な苦痛に、グローリアスはただ叫ぶしか出来ない。やがて左側半分の顔を抑えた彼女の両手の指の隙間から、とめどなく流れる血と供に白いゼリー状の物質が細切れとなって落ちていく。落ちた先にある赤い川に飲まれてもそれは水面に浮かび、ゆっくりとその上を流れ始める。そしてその白い物体の一部には淡い緑色とは対を成していた筈の、淡く蒼い彼女の左の瞳の欠片があった。
だが痛みに耐えて閉じた右の瞳はそれを認める事はなく、グローリアスはただ顔を抑えて悲鳴を上げるだけだった。彼女の横に無造作に転がる頭部に装着していたヘッドフォンとマイクは、その悲鳴に包まれながら粉雪のように細かく白い光りを放ち始め、徐々にその輪郭を曖昧にしていく。
艦魂の能力として出現させたそれが、持ち主の意志に関係なく消える。それはグローリアスの体力が最早、それを維持する事すらも出来なくなっているという事を示していた。
艦の付近に発生する水柱から与えられた激しい動揺と、それに併せて揺れる血の湖面。その上で、グローリアスはただもがき、悲痛な叫びを上げる事しかできなかった。
『グローリアス艦が!!!!』
『おい!! 艦橋が燃えてるぞ!!!!』
足元から響いてくる乗組員達の声を耳に入れながら、アーデントは拳を握ってただその光景を眺める。燃え盛る炎に包まれたグローリアス艦の艦橋は鉄製である事を疑わせるほどにズタズタに引き裂かれ、そこから下の構造物には真っ赤な滝が流れ落ちているのがアーデントの目にも映る。
『グローリアス、さん・・・。』
震える声でその分身たる上官の名を呼んでみるも、ヘッドフォンから返って来るのは同じ様に上官の名を呼ぶ姉の声だけだった。その艦首に立てた白波はまだ衰えていないものの、グローリアス艦が完全に戦闘不能の状態に陥った事はアーデントを含めたその光景を目にする者達全てにはっきりと伝わる。彼女達にとっては良い知らせである乗組員の声が足元から響いてきても、アーデントは歯を食いしばって俯くままであった。
『1658! 敵一番艦及び二番艦、発砲を中止した模様!!』
護衛の役目を果たせなかったアーデントは、瞳の端で光る物を必死に零れ落とさないようにしていた。催促など一切せずに自分達の煙幕を待っていてくれた上官の事が、彼女の胸に溢れるほどの悔いを湧かせていく。
もっと早く煙幕を展開できていれば、被弾しなかったはず・・・。
そんな言葉を胸の内で唱える度に、アーデントは誰かに責められている感覚を覚える。力の入った彼女の両の拳が震え、強く噛んだ歯の隙間から漏れてくる激しい後悔の滲んだ声。敵からの砲撃が止んだ事で波と風と自身の機関の音が響く中、アーデントは歪んだ表情のまま目を閉じて首を垂れる。水兵帽からしな垂れた前髪の向こう、アーデントの高い鼻の線が続くそこからは光る雫が一滴落ちた。
『旗旒・・・信号・・・?』
『・・・?』
突如として聞こえてきたアカスタの声を受け、アーデントは顔を上げる。そこには被弾による損傷で黒煙を昇らせるグローリアス艦の変わらぬ姿があるが、破壊された艦橋の真後ろにてかろうじて残ったマストには高々と翻った色とりどりの小さな旗が翻っていた。さらに飛行甲板より一段下がった艦首の上甲板には、旗竿に向かって走る水兵の姿がある。アーデントはその様子を声を失って眺めるていたが、やがて水兵が何枚かの旗を鋼索に付け替えてマストへと再び掲揚する光景を見て、彼女はまだ上官が命を落としていない事を悟る。
『グローリアス艦より信号! 艦橋被弾、大破に伴い艦長戦死なるも、主計長指揮の操艦にて対応との事です!』
消えかけていた闘志の色を瞳に滲ませ始めるアーデントの耳に、乗組員による報告が響いてきた。同時に彼女は、自分を含めた艦魂として存在する者達の在り方を思い出す。進水と供に水面にその身を浮かべる時に生まれ、浮力を失った時に命の灯火を消すという艦魂の一生。それはアーデントに、眼前の艦の分身であるグローリアスが重傷を負いながらもまだ命の炎を灯らせ続けている事を教える。
『ア、アカスタ・・・!!』
『グローリアスさんは生きてるんだ!! アーデント、まだ終わってないよ!!!』
姉の言葉でアーデントは自身が抱いた可能性を確認し、彼女は頬に伝っていた物を荒く袖で拭う。力の篭った返事をすぐさまマイクに返し、アーデントは艦隊の先頭をかける者としての責務を続けて全うする事を心に決めた。彼女の左右に流した視界には、黒煙の壁を作り続けて疾走する姉と、燃え盛る艦橋を艦上に抱きながらも傾く事無く続いてくるグローリアス艦の姿が映る。被弾前とは全く味方の状況は変わっていない事を理解したアーデントは僅かにざわついていた心を鎮めるが、すぐさまそこにアカスタの報告が入ってくる。
『クッソー!!敵艦隊、なお接近!!!!』
艦隊最左翼の位置を走るアカスタの声を受けて、アーデントは左舷に顔を向ける。するとそこには荒波を掻き分けて進み、先程よりも少しだけ大きく見える敵艦の姿がある。瞬間的な炎こそ纏ってはいないが、その主砲は相変わらず全門がこちらを睨みつけていた。
さらに距離を詰められてなおかつこちらよりも優速な敵艦隊は、アカスタとアーデントが形成する黒煙の壁の影響が無い所に占位するであろう。その事を予測して唇を噛むアーデントだったが、同じくその敵情を認めた彼女の駆逐艦長は一際覇気の篭った命令を発し、アーデントに対して今取るべき解決策を教える。
彼女は艦橋天蓋上の手摺まで歩み寄り、その上に両手を置いた。先程の駆逐艦長の言葉で僅かに恐怖の二文字を心の隅に発生させるも、上官の事を思いながら深く大きな深呼吸をする事で不思議とそれは打ち消される。
『アカスタ、そのまま煙幕展開を続けて・・・。』
突如聞こえてきた妹の声に、アカスタは驚いて艦首右舷寄りで航行するアーデント艦に目を向ける。その言葉の内容が何かを含んでいた事がすぐに想像できたし、なにより妹のその声には場違いな程の落ち着きが篭っていた。アカスタがそれを問おうと声を返す。
『何をする気、アーデント!?』
『これ以上接近されると手の打ち様が無くなっちゃう。だから阻止行動に出る。』
『敵は巡洋戦艦よ!? なに言ってん─!!』
『もうそれしか方法が無いのよ!!!』
『ぐっ・・・!!!』
アカスタは言葉を詰まらせる。アーデントの言う通りで、今という事態への対策をアカスタは閃く事が出来ない。実質的な指揮を取ってきたグローリアス艦の艦長は戦死、頼みのグローリアスも先程から何度名前を呼んでも声が返ってこない。そんな中でアカスタが行き着く敵艦隊の接近に対する解決策は、戦闘可能な者が阻止行動に出る以外に方法はなかった。だがその相手は片方だけでも満載排水量38000トンと、自分よりも20倍はあろうかという程に大きい巨艦である。おまけにそのバケモノが2隻も口を開けて待ち構えている所へ満載排水量僅か2000トンという身体で突っ込むというのだから、アカスタの心配も無理の無い事であった。
軍人らしくとか英国淑女らしく等と、いつも理想を追い求めてそれを自分にも押し付けてくる妹のアーデント。時にはそれを疎ましく思った事さえもあるアカスタだが、この時ほど妹の身を案じた事は無かった。アーデントが口にした事が計算上では唯一の方策であったとしても、アカスタはなおも必死に思い止まるよう声を発しようとする。だが彼女の言葉を待たず、眼前の妹の分身は煙幕の展開を終えると同時に急激に速度を上げ、大きく取舵をきって旋回を始める。
『グローリアスさんをお願い! ・・・1701!! アーデント、阻止行動に出る!!』
『アーデント・・・!』
アカスタ艦の目の前を横切って、ドイツ艦隊へと突撃していくアーデント艦。その中でアカスタは妹の横顔を視界に入れて『戻れ。』と言おうとするが、それに続いて視界を横切っていくアーデント艦のホワイト・エンサインを目にする。彼女達が誇りとして頂くその軍艦旗が翻る光景は、アカスタに自分が何者であるかを無言で伝える。
栄えある王室海軍の一員であるなら、ただ誠実に難事へ当たれ。
先輩から教えられたその言葉を脳裏に浮かべ、アカスタは強く唇を噛んで口を噤んだ。その口元の両横に伝っていく一筋の光りを輝かせながら、彼女は小さく呟く。
『アーデント・・・、頼む・・・!』
彼女達の頭上には煙幕がそのまま雲へと変わった様な曇天の空が広がっているが、敵を望む南西の空の彼方は雲が無く、赤く陽に焼かれ始めた空が顔を覗かせている。
そしてアカスタの湿った瞳には、夕日に染められて敵艦隊の鼻っ面に飛び込んでいくアーデント艦の軍艦旗が映る。涙で霞むその光景はアカスタにとっては、正直見たくは無い光景である。だが彼女は視線を逸らさなかった。それこそが死地に赴いていく妹への誠だと、彼女は胸の奥で言い聞かせる。
時間は1701。夜が間近に迫った事を告げる夕陽に包まれる中、旧式の駆逐艦であるアーデント艦とその乗組員達は悲壮な決意を持って、最新鋭の巡洋戦艦2隻に対して立ち向かって行った。