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第四三話 「背を合わせる物/其の二」

 黒板に向かって竹刀を動かす神通(じんつう)の口から語られる、ノルウェー国での戦闘概要。

 それを聞く部下達は黙ってその内容を頭に叩き込んでいくが、彼女達はノルウェーという国も知らなければ、そこにある海の特性も良く解っていない。何より異国の軍艦すら彼女達は見た事が無いのだ。その為に知識としては吸収できるものの、彼女達の脳裏にはそこにある絵という物が浮かんでこない。

 ただ、資料に記載される数字を覚え、それを元に厳密な計算をして答えを導き出すのが勉強であるのだとすれば、今の彼女達の姿は決して間違ってはいない。何より、しっかりとした要素を用いて理論を組み立てるというのは、海軍の中堅層を支える者達が登竜門として過ごした兵学校での教育方針である。


 だが教える側の神通は、その事に対してちょっと違った考え方を持っていた。彼女自身の目で見てきた支那戦線での実情と、惨たらしい姿となった(わらび)の亡骸。それは軍隊という国家の組織らしく殉職や戦死等といった独特の言葉で表され、言葉だけを見ればどこか普通ではない荘厳な雰囲気を持たせる。だが彼女がそこで見た現実の光景は、そんな荘厳さなど欠片も無い物であった。目を背けたくなるような惨状と、重く肩に圧し掛かって来る様な悲しみ。伊達に神通とて十年以上も帝国海軍の艦魂をやっている訳ではなく、例え戦争を経験していなくとも、そこにはどんな光景があるのかを彼女なりに知っているのだ。

 そして、その自身の思う所を部下達にもなんとか伝えようというのが、本日の教育日課においての神通が意図した物であった。


 黒板に書かれた内容を粗方説明し終えた神通は、少ししゃべりつかれて呼吸を整える。眉一つ動かさないで軽く喉の辺りを擦るだけの神通であったが、(あられ)はそんな上司の行動に彼女の疲労と欲している物をすぐに悟る。霰はテーブルの上に手を伸ばし、わざわざ持参してそこに置いていた水筒と湯呑を手にとる。カラカラと金属音を響かせて水筒の蓋を開け、中に入っていた水を湯呑に注ぎ込む霰。突然の霰の行動を仲間達が不思議そうに見守る中、霰は水を湛えた湯呑を両手に抱えて席を立ち、溢さない様に注意しながらゆっくりと神通の前まで歩み寄った。


『戦隊長、どうぞ。』

『ん。』


 神通は短い返事を放って霰の手から湯呑を受け取り、ゆっくりと中身の水を喉へと流す。霰の細かな気遣いに感謝しつつ、神通は空になった湯呑を手渡し、霰は小さく笑みを作ってそれを受け取る。神通は礼を口にしようとするも、それよりも早く霰は湯呑を片手にササッと自分の席へと戻っていってしまったので、神通は開きかけていた口を閉じた。ひたむきに従兵の勤めを真っ当しようとする霰の姿勢に僅かに口元を緩めつつ、神通は再び黒板に向き直ってそこへ竹刀を指す。


『まあ、この様に駆逐艦の被害が多い事が、昨今のノルウェーでの海戦に関する大きな特徴だ。もっとも英独供に駆逐艦の運用方法は違うし、私達が行う水雷戦での運動もまるっきり違う。例えばイギリス側に関しては、駆逐艦群の旗艦に私のような二等巡洋艦を配していない。向こうでは一回り大きな嚮導(きょうどう)駆逐艦という艦種を設定し、その指揮を取らせてるんだ。』


 神通がそこまで言った所で、霰の隣の席に腰掛けていた二水戦所属駆逐艦の最年長者である朝潮(あさしお)が右手を上げた。そして同時に神通へ向かって少し大きめの声を放つ。


『質問、よろしいですか?』

『なんだ、朝潮?』


 神通の許可を受けた朝潮はその場に立ち上がって声を放ち、神通がそれに答える。


『嚮導駆逐艦の長所と短所を教えてください。』

『うむ。長所は隷下の駆逐艦と基本的な性能がほぼ同じ事による、運用面での制約が少ない所だ。艦の大きさもほぼ同じだから、今の私達の様に二等巡洋艦で喫水も深い私に合わせて泊地を検討する事も無いし、補給する際の弾薬も隷下の駆逐艦と全く同じで済む。ついでにその運動性も似ているから、所属の駆逐隊での運動内規や操縦内規、舵角、機関の回転数、羅針儀といった設備の整合がとてもやり易い。だから緊急の出撃や隊の編成が、私達に比べれば抜群に早いんだ。』


 神通の詳しい説明に部下達は深く頷き、初めて知った欧米での艦隊運用の知識をよく理解する。

 もっとも神通とて欧米の艦隊による実戦を目にした事は無い。いま彼女が口にした言葉だって、自身が支那戦線派遣時に上海で見た英国艦隊の姿と書類として展開されてきた情報を元に独自に研究しただけである。だが指揮官の立場を頂く神通にあっては、部下の質問に対して『知らない』とか『解らない』等という返事をするつもりは微塵も無い。指揮官たる者は部下から尊敬されなくなったら終わり、その事を彼女は良く知っているのだ。従兵の霰が毎度の様に朝になって神通の部屋を片付ける際、特に散らかっているのは机である。そしてその真相は、指揮官として己を磨かんとする神通が夜遅くまで独り黙々と勉強しているからなのだ。霰を含めた部下達には決して見せない神通なりの誇りと責任を追及する姿であり、長門(ながと)をして「天才」と言わしめる所以でもある。

 

 その理解をより深いものとするため、神通は横で正座している(かすみ)に顔を向けてさらに声を放つ。


『猿。陽炎(かげろう)型二隻と朝潮型二隻で編成されている第18駆逐隊の司令駆逐艦であるお前なら、いま言った事の重要性が解るだろう。』


 その声に霞が顔を上げる。神通の言葉通り、霞とその乗組員達が司令駆逐艦として頭を使うところは隷下にある艦船の微細な違いによる運用法の差異である。霞は自身の経験に思う所が沢山あり、それを声に出した。


『はい。特に機関の回転数は一桁に至るまで整合しておかないと、同じ速力区分で走っても隊列が乱れちゃいます。他にも増減速標準とか、目標速度への到達累計時間も合わせないとダメですね。この辺を陽炎や不知火(しらぬい)と合わせるのは、私んトコの艦長や司令も苦労していました。』


 霞の答えは神通が期待していた通りの物であり、彼女はすぐそこにあった霞の肩に手を乗せて苦労を労う。神通は表情を崩さずに二度、霞の肩に手を弾ませただけであるが、霞にとっては怖い上司が自分を気遣ってくれた事が嬉しかった。霞はやっとの事で笑みを浮かべ、神通もそれを認めて彼女から顔を逸らしながら口元を緩める。そして自身の心に深く傷をつけた事件の事を、霞の言った事の前例として惜しげもなく教えてやる。


『私が馬鹿をやらかした美保ヶ関(みほがせき)事件は、皆も知っているだろう。あの事件の原因の一つは、直前まで第一艦隊一水戦に所属していた第27駆逐隊を、何の事前整合も無しに私が所属していた第二艦隊5戦隊に組み入れた事なんだ。結果は皆の知る通りだ。』


 それ以上神通は言わなかったが、部下達はその結果という物を知っている。その事の重大さを改めて認識する部下達を横目で確認し、神通は組んだ脚を組み変えると朝潮への回答の続きを話し始める。


『次に短所だが、嚮導駆逐艦はその名の通り、艦の大元は小型快速が身上の駆逐艦だ。だから指揮を取る水雷戦部隊の司令中枢は、手狭で設備的な面での余裕が余り無い環境で指揮を取らざるを得ない。一応は大型の艦橋構造や通信設備といった司令部を収容する為の構造をしてはいるが、元々の艦の大きさに余裕が無いからやはり統一的な指揮能力には不足があるようだな。後は隷下の部隊の突撃路啓開を行う為の砲熕装備も無い。それとアーマーによる装甲も薄いから、被害に対しての脆弱性も無視できない。もう一つ言うなら、司令部が独自の策敵能力を有していない事も問題だ。私達とて充分ではないが、偵察用の水上機を私が持っているだろう?この有無は作戦行動に関しては大きいと思うぞ。ま、あちらさんの水雷戦隊は単独での運用は考えられていないんだろう。つまり水雷戦部隊の司令部とは言え、常に上級の艦隊司令部からの命令と支援がないとロクに接敵もできんという事だ。』


 同じ駆逐艦たる部下達がその言葉に耳を傾けていた中、それまで黙って聞いていた雪風が黒板に向かって視線を流す。そしてそこにあった英独のこれまでの戦闘による結果を目にし、神通が語った嚮導駆逐艦なる物の短所を良く理解した。その内に雪風(ゆきかぜ)はそれまでの正座からあぐらに脚を崩し、腕組みをしながら大きな釣り目をしかませて声を発する。


『なるほど。確かにナルヴィク沖の第一合戦では、嚮導駆逐艦がやられた側のその後の戦闘は酷い物っスね。』


 しっかりと黒板に書かれた内容と同調した雪風の言葉に、神通は大きく頷いて声を返す。


『うむ、犬の言う通りだ。このナルヴィク沖での一次海戦では、イギリス側の先制によって司令部を乗せた艦を失ったドイツ側は一方的に被害を受けたが、逆にその後はドイツ側の増援による反撃でイギリス側の嚮導駆逐艦がやられた。双方供に指揮中枢を失って混乱してしまったらしいな。特にイギリス側では衝突事故まで起こっている。つくづく指示をとばす立場という物の大事さを、この海戦で私も思い知らされた。』


 雪風はその言葉に大きく頷く。二水戦の長である神通には大事な事だが、同時にそれは第16駆逐隊の司令駆逐艦を勤める雪風にとっても重要な事なのだ。自身が不甲斐なく撃破されたなら、そこに従った姉妹や仲間達を殺す事になる。頂いているその立場を今更ながら理解して気を引き締める雪風。そして同じ立場の霞と朝潮も、神通と雪風の会話に決意を新たにする。

 また、霰を始めとした司令駆逐艦でない者達も、そこに響いたやりとりにそれぞれの思いを巡らせた。隊列に関しては「指揮官先頭」を金科玉条とする帝国海軍だが、当然それは指揮官が敵の猛攻に晒される危険性と背中合わせである。これまでその可能性とその後に連なる結果に対してはあまり考えてこなかった彼女達も、今はその危険性を肌身を通して良く理解し、各々が頂く指揮官をなんとかして護ろうと心に決める。


 しかし神通が今日教えようとしている事とは、この異国の駆逐艦事情でもなければ指揮官の大切さでもなかった。新たな知識と決意を胸に秘める部下達を横に、神通は机の端に積み立てていた資料の束に手を伸ばしながら口を開く。


『おし、みんな嚮導駆逐艦の事はもう解ったな? 今度は先日行われた海戦での戦闘記録だ。』


 神通は机の資料の束をごっそりと掴むと、自らの膝の上に置いてその中から必要な物を見繕い始める。あらかじめ目星をつけていたので、神通はそれほど迷いながら資料を選別する事は無かった。

 ガサガサと隣で音を立てる上司を眺めていた雪風だったが、ふと彼女の座る位置から神通を挟んで向こう側にある黒板に目をやる。そこには今日最初に上司が口にした6月8日に行われたという海戦の結果が書いてあった。そしてその簡単な内容を頭に入れた雪風には、上司がその海戦を自分達に説明しようとする事が疑問となっていく。黒板に書かれた内容は、それ程までに圧倒的な戦果なのであった。雪風は上司の邪魔にならぬよう、僅かに下から顔を覗きこむ様にして小さく声を上げる。


『戦隊長、ちょっと良いスか?』

『ん〜? なんだ?』

『黒板に6月8日の海戦の結果が書かれてるッスけど、こんな海戦、考察する必要も無いんじゃないスか?』


 雪風と神通に挟まれる形で座っていた霞は、その雪風の言葉に肝を冷やす。神通が無意味に教育をする筈が無い事を良く知っている彼女は、恐れ知らずに神通の意図を疑うような雪風の物言いで、当の神通が怒ってしまうと思ったからだ。

 だが神通は雪風の言葉を受けても平然とした物で、眉一つ動かさずにせっせと書類の選別を続ける。確かに霞の思ったとおり、雪風の率直な物言いは少しばかり相手の気持ちを無視する風な所があるのだが、そこに悪気を込めていない雪風という部下を神通は良く知っていたのだ。日本人気質を受け継ぐ帝国海軍の艦魂社会にあって雪風の様に物事をハッキリと言うタイプは珍しいが、彼女はただ声を発する際に他人に対して遠慮しないだけなのである。

 さらには雪風でなくともそんな疑問が部下から上がると言う事を、神通はこの教育を始める前から既に予想していた。故に彼女は手を休めずに、至って普通に声を返す。


『そうか?』

『だって、最新式の巡洋戦艦2隻に襲われたんスよ? 空母1隻と旧式の駆逐艦2隻じゃ、勝負にもならないじゃないスか。戦闘詳報よりも、それ以前に敵に近づかれないような哨戒方法の方が重要だと思うんスけど。』


 歯に衣着せぬ物言いの雪風に、仲間達は神通がご立腹になってしまうのではないかと冷や汗を滲ませる。もっとも雪風の言った事は決して間違いではなく、仲間の内の何人かも同じこと考えていた。


 負けるべくして負けた戦の過程に、自分達が学べる所などあるのだろうか?


 そんな言葉を脳裏で呟く部下達だったが、神通は意にも返さずに選抜した資料をまとめている。むしろ彼女にはそんな考えに至る部下達に、眩いばかりの若さを感じて思わず口元を緩めてしまう。それを不思議そうに眺める部下達の視線が集まる中、「まだまだだな。」と胸の奥で呟いた神通は、選別した資料の束をすぐ隣に座り込む霞と雪風に向かって差し出した。

 突然の上司の行動と差し出された資料の束に驚く二人だが、神通はその二人の顔を楽しむように小さく笑みを浮かべながら言った。


『猿、それと犬。二人で黒板にこの戦闘詳報を書け。』


 さっき投げた疑問に対して神通は答えをくれなかったが、それを催促するまではさすがの雪風もしない。上司の命令とあれば遂行しない訳にはいかないからだ。もっとも雪風はそれを天敵と一緒になってやる事には大いに不満があり、霞もまた同じである。ほぼ同時に返事を放って立ち上がった二人は、ギロリとお互いの顔を睨みつけながら神通の手から資料を受け取って黒板へと進んでいく。

 霰は二人のその様子から、絶対にどっちが黒板に書き込む役でどっちが資料を読み上げる役かという事で言い争い、再び蹴る殴るの大喧嘩が始まってしまうのではないかと予想して胸をざわつかせるが、同じくそれを予想する上司がその二人の考えをピシャリと抑える。


『猿、資料を読み上げろ。犬、お前がそれを書け。さっさとやれ。』


 その声に二人が振り返ると、そこには今しがたまで笑っていた神通が再び肩に竹刀を弾ませて怖い顔をしている姿があった。頭とお尻に食らった激痛が記憶に新しい二人は、口を尖らせながらもお互いの役割に沿って手を動かし始める。霞が資料の束の最初のページをめくって内容を確認し、雪風が黒板を一度綺麗にする為に書かれた内容を消し始め、それを合図として本日の神通の意図する所の教育が始まった。

 













 陽が西に傾きかけた事を遮るどんよりとした曇り空に包まれた、少し黒い色をした海。時折現れる波頭もまた綺麗な白ではなく濁った灰色で、そこに広がる海は簡単な色のみで塗られたモノトーン絵画のようであった。まるで大型艦の機関音を思わせるかのように低く重苦しい音を放って駆け抜けていく風と、それに乗ってその場を過ぎっていく灰色の雲の群れ。命の息吹が何一つ見つけられない海が辺り一面、水平線まで続いていく。

 だがそんな海の一角に、黒煙を巻き上げながら西に向かって進んでいく3隻の艦影が在った。


 その中でも一際大きな艦影を持つ艦には艦首の遥か手前で途切れた全通飛行甲板があり、そこには10機の複葉機と8機の単発単葉機機が並んでいた。ワイヤーでその場に固定された航空機達が列を作って翼を休める景色が、広い甲板の果てまで並んでいる。その向こうにある飛行甲板の果てには断崖の絶壁を思わせるかのように遥か下に見下ろせる艦尾と海面があり、この空母の乾舷の高さを見る者に良く伝える。

 そして目も眩むほどの程の高さから見下ろす艦尾の旗竿には、白地に赤抜きの十字と供にユニオンジャックが描かれた旗が翻る。それはまさしく、数ある軍艦旗の中でも最も歴史と伝統の深い軍艦旗。すなわちイギリス海軍の軍艦旗、「ホワイト・エンサイン」であった。


 遥か西の水平線に向かって荒波を掻き分ける3隻は、ドイツ軍の攻勢によりノルウェーから撤退する作戦、「アルファベット作戦」に参加している栄えあるイギリス海軍の艦艇である。満載排水量26518トン、全長240メートルと戦艦並の大きな艦影を持つのは、航空母艦のグローリアス艦。そしてその前後を挟んで航行するのは、全長104.5メートル、満載排水量2012トンの駆逐艦、アカスタ艦とアーデント艦である。


 その3隻の内、高い波を艦首から飛行甲板根元まで連なるスロープで切り裂きながら進むグローリアス艦の甲板の隅っこに、3隻の分身たる艦魂達は座り込んで話をしていた。甲板に繋止した航空機の翼の下に潜り込み、開け放たれた缶詰やガラス瓶を囲む3人の女性。

 その中でも一人だけ黒い生地に金色に輝く八つのボタンという軍装に身を包む女性。上着の胸元から除く純白のシャツと襟、そしてそれを一刀両断するかのように襟から垂れていく黒いネクタイ。白と黒のツートンカラーの軍帽を被るその姿は、イギリス海軍の士官用軍装である。

 そしてその士官用軍装に身を包む女性は、軍装のボタンの様に金色に輝くブロンドの髪を後頭部で丸めており、ヘアーピンでそれを留めている。右の瞳は淡い緑色、左の瞳は淡い青色というオッドアイの持ち主であり、西洋人独特の彫りの深く高い鼻を持つその顔立ちからは既に若さが若干消え始めていて、人間で言えば30代前半といった所だ。軍帽から垂れる細かい前髪を風に揺らしながら笑う彼女は、この艦の艦魂、グローリアスである。横に向けて崩した脚で座るグローリアスは、目の前で同じ様にその場に座って笑みを浮かべる部下達に向かって声を発する。


『やっと本国に帰れるわね。アカスタもアーデントも、スカパフローについたら思いっきり休むのよ。』


 グローリアスの声が向けられた先には、黒いジャケットとズボンに青いジョンベラ(※水兵服独特の襟)を身に纏い、白い水兵軍帽を頭に乗せた女性が二人いた。その内の片方、軍帽からはみ出た逆巻きの赤く短いクセ毛と、頬に張った小さな絆創膏が特徴の女性が声を返す。

 

『う〜ん、だといいですが。例のダンケルクでの作戦で、本国艦隊は手一杯ですからねえ。すぐに御呼ばれされそうな気がしますよぉ。』


 缶詰の中身を乗せたスプーンを口に運び、もぐもぐと口を動かしながらだらしなくそう言ったのはグローリアス艦の前を進む護衛の駆逐艦、アカスタ艦の艦魂である。アカスタはその姉妹で構成されるA級駆逐艦の長女であり、隣に座るアーデントは彼女から数えて六番目の妹である。供に1929年生まれのアカスタとアーデントは20代前半の若々しい容姿を持ちながら、グローリアスとは違って西洋人らしからぬ小柄な体格の持ち主だ。アカスタはしゃべりながら口の中に含んでいた物を飲み込むが、ふいに口に指を突っ込んで歯に挟まっていた魚の小骨を抜く。


『んもう、アジは骨が多いなぁ。』


 女性らしさを微塵も気にしないアカスタの行動にグローリアスがクスクスと笑う中、アーデントは姉のみっともなさを嘆く。姉と同じ丸く大きめな目を細くし、顔の横へと風によって靡く肩の高さまで伸びた黒髪を片手で押さえながら、アーデントは口を尖らせて言った。


『アカスタ、少しは遠慮してよね。すいません、グローリアスさん。』

『ふふふ。いいよ、いいよ。アーデントも楽にして。』


 姉のだらしなさを恥じるアーデントに、グローリアスは優しく笑みを向ける。アカスタは至って気にもせずに再びスプーンをアジの缶詰へと伸ばすが、生真面目なアーデントは姉の腕に手を触れて僅かに眉をしかませた表情を向ける。決して妹の事を嫌いな訳ではないのだが、アカスタはアーデントのそんな真面目さに付き合うのが時々面倒であったりする。何も言われていない内からふて腐れる様な表情を浮かべるアカスタに、アーデントは力の篭った声を放つ。


『アカスタ、いつも言ってるでしょ? 私達、艦魂が気をつけないといけない─。』

『わ、解ってるってぇ・・・。いつものあの言葉でしょ? え〜と・・・。』

『誠実。』

『そう、誠実! あとは・・・。き、希望! 希望でしょ!? それと・・・。』

『それと・・・?』

『う〜〜んと・・・。あ、そうだ、慈愛だよ、慈愛! そら、ちゃんと覚えてるでしょ?』


 自分よりも若い姉妹のやりとりを、グローリアスは笑みを浮かべたまま見守っていた。アカスタは長女であるにもかかわらず、今の二人の姿を目にする限りでは、どう見てもアーデントの方が姉といった感じだ。苦言ばかりの妹に心底困っているアカスタは、適当に返事をしながら缶詰の中身を再びスプーンですくって口に運ぼうとするも、その途中で汁を甲板に一滴垂らしてしまい、再びアーデントのお説教を受ける羽目となった。

 ちなみにこのアカスタ。大日本帝国海軍の艦魂の中では随一の麗人である朝日とは、同郷の出身であるというのだから驚きである。






 その時、アカスタとアーデントはふと、グローリアスが自分達とは焦点を合わせていない視線でこちらを眺めている事に気付いた。笑みも消えてただボーっと眺めてくる上官に、二人は顔を見合わせて首を傾げる。するとグローリアスは、囁くような小さな声で口を開いた。


『何かしら、あれ・・・。』


 グローリアスの言葉を耳にした二人は、彼女が視線を向ける左舷の果てに顔を向ける。そこにはどんよりとした曇り空に包まれる水平線しかなく、アーデントはグローリアスの見ている物が何か解らなかった。だがアカスタは微かに何かを見つけたらしく、口にスプーンを挿したまま立ち上がる。だが甲板上で繋止される飛行機の翼の下にいた事を忘れていたアカスタは、立ち上がろうと腰を上げた瞬間、思いっきり頭を金属製の翼にぶつけた。


『あいてっ!!』

『アカスタ、大丈夫!?』

『なんとも無いよ、お〜、いて・・・。』


 咄嗟に心配の声を掛けてきたアーデントに歪んだ笑みで返事をしながら、アカスタは翼の下から這い出して立ち上がり、手を横にして両目の上に添える。姉の痛そうな姿とグローリアスの言葉に状況が飲み込めずアーデントは姉と上官に交互に視線を送っていたが、そこにあった静寂をアカスタの静かな問いかけが切り裂いていく。


『グローリアスさん・・・。』

『アカスタ、どう?何か解る?』

『煙・・・が見えるんですけど、アーク・ロイヤル大佐達が護衛している兵員輸送の船団って、とっくの昔に出航してますよね・・・?』

『ええ、私達が殿軍よ・・・。』


 だがグローリアスの言葉とアカスタが煙を認める方角が南であった事に、その場にいる3人は同時にある一つの、そして最悪の可能性を脳裏に過ぎらせる。その可能性が示す絶望的な状況に声を失う3人であったが、無情にもその可能性が現実である事を示す人間達の声が3人がいる甲板に響いてきた。


『艦隊左舷、240度ー!!敵艦隊ー!!!』


 その現実は人間である乗組員達にも彼女達が絶句する程の絶望感を同様にもたらしたのか、響いてきた乗組員の声は悲鳴にも似た叫び声だった。すぐさま兵員達が戦闘配置に就く為に、グローリアス艦の甲板を右に左に駆け出す。そしてそんな中で絶句したまま水平線の向こうを眺めていたアカスタとアーデントに、グローリアスが翼の下から這い出して立ち上がりながら明るさを掻き消した冷たい声をかける。


『戦闘配置。二人とも死力を尽くして奮闘するように。』


 グローリアスの静かながらも決意が込められた声を受けて、二人の身体は今という状況が生んだ衝撃を受けた事によって発生していた硬直から解放される。同時に、これまで言えなかった分をぶちまける様にしてアカスタが叫び、アーデントもそれに続いた。


『くっそ!!なんでこんな所にクラウツが・・・!!!』

『そんな・・・。この辺にいたドイツの駆逐艦群は、既に全滅したって聞いてたのに・・・。』


 それぞれに心に湧いた言葉を正直に放ってみるものの、どちらの声も恐怖を隠しきれない震えた声であった。拳を握って水平線の向こうを睨みつける二人だが、その背後から上官の怒号が響いてくる。


『さっさと持ち場につきなさい!!!』


 怒りが篭った上官の言葉を受け、アカスタとアーデントがビクンと身体を震わせて振り返る。そこには先程までの優しい笑みが嘘かと思える、釣り上がった眉と瞳を湛えたグローリアスの顔であった。地中海からインド洋、そして4月にこの北海へと転戦してきた彼女には、豊富な実戦の経験から来る戦を知り尽くした軍人の顔が浮かび上がっている。その表情とグローリアスの身体全体から放たれる殺気にも近いオーラに、二人は尻餅をつきそうになるのを堪えるのが精一杯だった。どんなに意識しても膝に力が入らず、不気味なほどに身体が軽い。風に吹かれてしな垂れそうになるその身に力を込めながら、気をつけをしたアカスタは声を上げる。


『はい!艦に戻ります!!』


 姉の豪放な性格を良く知っているアーデントも、今は彼女がその性格ゆえに叫んでいる訳ではない事を感じ取る。叫んでいなければ、今という現実から放たれてくる恐怖に耐え切れないのだ。震える手を額に添えるアカスタとアーデントに、グローリアスはゆっくりとした動作で答礼する。


『戻ったら無線電話を装備。指示あるまでそのままでいなさい、いいわね・・・?』

『『はい!!!』』


 返事を認めてグローリアスが手を下げると同時に、二人は淡く白い光りを放ってその身を包み、前後を航行する自身の艦へと戻っていった。マストでの警戒をせず、甲板に陸上機を繋止している事から偵察機による哨戒行動が出来なかった事に、グローリアスは自分への今の状況に関する責任を求めて表情を険しくさせる。だがすぐに、それは今は必要ないことだと彼女は判断し、逆に今必要だと判断した行動を取る事を決める。飛行甲板の左舷の端に向かって走り、淡い光りを右手に放つグローリアス。甲板の端まで来るや、彼女は右手に出現させた双眼鏡を両の目の前に添える。そしてそこに見えた微かな艦影を記憶に残るドイツの艦型から予測したグローリアスは、その艦がこの海で一番会いたくない者であった事を悟ってしまった。唇を強く噛みながら、険しい顔つきで彼女が呟く。


『なんて事なの・・・!!アーデントが言った通り、この辺の駆逐艦群は全て撃滅したから、増援がくる可能性は低くは無いと思っていたけど・・・。よりによって奴等なんて・・・!!!!』


 双眼鏡を通してグローリアスが無念と怒りの視線を向ける方向。そこに身を構えていたのは「北海のジャック・ザ・リッパー」、「ノルウェー沖の死刑執行人」と仲間内では何度も噂になり、文字通り英国海軍艦魂達を恐怖のどん底に叩き落した死神。モノトーンの海に高々と掲げたハーケンクロイツの旗を靡かせ、今まさに獲物に向かって噛み付こうと真一文字に突撃してくるその艦こそ、全長235.4メートル、満載排水量38100トンの巨艦。28.3センチの3連装砲塔3基を備え、つい昨年に就役したばかりのドイツ海軍の最新鋭巡洋戦艦、シャルンホルスト艦であった。

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