第四二話 「背を合わせる物/其の一」
昭和15年6月16日、1318。
沖合いでの艦隊訓練の合間を縫っての休日。連日の火の出るような激しい訓練は、所属の各艦を操る屈強な男達の体力を容赦なく奪う。皆鍛え抜かれた精鋭であるが、始まったばかりの訓練でコキ使いすぎると怪我人を出す事になる。古賀長官は兵員の疲労回復等に気を遣ってくれる心優しいお人で、最初の訓練が終わってすぐに艦隊には上陸が許可された。
第二艦隊が錨泊する佐伯湾の目の前。そこには佐伯航空基地を軸に軍都として栄える佐伯町があり、料亭や旅籠、風呂屋に色町等がそれなりに軒を連ねている。故に乗組員達は疲れと鬱憤を晴らすために、意気揚々と艦を降りていった。
一方、人気が若干薄くなった艦隊各艦は、湖面に浮かんで翼を休める鳥の如く、静かにその身を佐伯の波間に映していた。世界的にも非常に内容が濃い事で知られる帝国海軍の艦隊訓練は、そこにいる兵員達だけではなく艦魂達にとってもかなりの体力を消耗させる。
もっとも連合艦隊内でも日露戦争の時代から続く誉れ高い第二艦隊の名は彼女達にとっても大事な物であり、そこに配備されている艦艇は新参だろうが駆逐艦だろうが帝国海軍の中でも最強の存在でなければならないと全員が胸に抱いるから、その厳しい訓練内容に不平を口にする事はあっても文句を口にすることは無い。長く第二水雷戦隊の旗艦を務めてきた神通が鬼となって部下を虐め鍛えるのも、ここに大きな理由があるのだ。
そしてそんな神通によって訓練を授かった部下達には、早速そのお尻に竹刀の一撃が叩き込まれている。決して神通が憎しみをもってそんな事をしている訳ではないという事は部下の艦魂達も重々承知しているのだが、力も強くて普段からヤクザの親分みたいな表情をしている彼女にぶっ叩かれるのは心底肝を冷やす。手加減という言葉を知らない神通は時には一撃どころか十撃にまで及ぶ程に竹刀を振り下ろし、彼女達の中にはお尻に青いアザができている者だっている。おまけに癇癪持ちの上司は機嫌が悪いとそれがさらに酷くなり、理由の如何を問わずに体罰に走る事は日常茶飯事だ。
しかし当の神通とて、部下達をただ虐めようとするつもりは微塵も無い。すぐに手を上げてしまうのは不器用な彼女の性格の裏返しであり、彼女はただ部下達が帝国海軍艦艇の艦魂として生きていく上でその命を無駄に散らして欲しくないだけである。自らの未熟さと不注意から部下をその手で殺してしまい、さらには恩人である人間を自殺に追い込んでしまった過去を持つ神通。そんな彼女だからこそ、生まれて間もない彼女達には自分の様な思いをなんとしてでも味あわせたくは無かった。「私立神通学校」と仲間内からも揶揄される神通の教育姿勢であるが、その厳しさは彼女のただひたすらに部下を想う気持ちの裏返しなのだ。
故に人間達が休日を満喫している今日という日も、彼女の部下に対する教育は行われている。
湾内に横一列で並んで停泊する第二艦隊の各艦。その一角にて仲間と同じく錨を下ろす最上艦の艦内に、教育の為の資料の束と丸めた世界地図を小脇に抱えた神通の姿があった。
神通は艦内の通路を歩きながら、背後からついてくるこの艦の主に顔を僅かに向けて声を発する。
『すまんな、最上中尉。無理な願いを聞いてもらって。』
『あはは。何を仰いますか、神通中尉。』
神通の問いに明るい声で答えながら、最上は肩口から正面に垂らした長い髪を後ろに流す。サラサラとと流れる綺麗な髪を靡かせ、同じく真っ白な第二種軍装を着た最上は神通の真横まで小走りで進み出て笑みを見せる。20代半ば過ぎの外見を持つ神通に対して、最上はまだまだ20代を迎えたばかりぐらいの若さが良く滲み出た顔つきをしているが、その階級は二人とも同じ中尉である。艦の大きさや艦隊での役割で階級が決まってしまう艦魂社会の決まり事とは言え、既に十年以上も帝国海軍に籍を置いている神通の境遇を含めると、つい数年前に誕生したこの最上が同じ階級を頂いている事は人間の感覚からすればいささか理不尽である。だが神通はその事を口に出す事も無ければ、それを心の底から憂うような事は無い。古来より艦魂とはそう言うものであるし、そもこの最上はそんな考えを持って当たらないと扱いに困るような人物ではなかったからだ。
神通のその考えを証明するかの様に、最上は口元を吊り上げながら神通に向かって小さく頭を下げる。
『それに中尉等と呼ばなくとも、最上でよろしいです。この最上、神通中尉は真の姉上と思っております故、頼み事が有りましたらなんなりと申し付けてください。』
『ふん。』
無愛想な返事を返すのはいつもの事であるが、隠しきれなかった笑みを伴ってその口癖を放つ神通は珍しい。
だがその恐怖を伴った教育方針と短気な性格から帝国海軍艦魂社会においては敵も多い神通にとって、同じ河川を由来とする名前を持ちながらなおかつ姉の様に自分を慕ってくれるこの最上という後輩の存在は素直に嬉しかった。
背も高く、鋭く釣り上がった目を持ち、上官相手でも怒ると食って掛かるという度胸の持ち主である神通。そんな彼女であるから、付き合うのも嫌だという顔をする者だって中には居る。現にこの最上の妹達は神通を事の他恐れており、第二夜戦隊内の打ち合わせ以外では目を合わせようともしない。もちろんその際に『この馬鹿が!』と頭ごなしに叱ってしまう神通にも問題はあるから、彼女の事を嫌いになってしまうのも決して無理の無い事である。ところがこの最上は怒られたそばからビクビクと怯える妹達を背にして神通に歩み寄り、怒られた内容についての詳細を理解しようとあれやこれやと質問する事が多々あった。正直な所、あまり出来の良くない後輩なのだが、その誠実な姿勢と姉と慕ってくれる最上は神通にとっては可愛くて可愛くて仕方が無い。
ふと手を伸ばして最上の肩に手を触れようとするも、両手に抱えた教育用の資料が邪魔でできなかった事に神通はちょっと残念さを覚える。頭の一つでも撫でてやりたいぐらいだったが、無念にも神通の歩く先には既に目的のお部屋へと繋がる扉が見えていた。神通はその事に気付きながらも歩みを止めず、小さく苦笑いしながら顔を床に向ける。
まあいいさ、どうせ私には似合わん。
胸の奥でそう呟きながら、彼女は可愛い後輩に少しはにかんだ様な笑みを返して、自分のしたかった行動に諦めをつける。そしてそれに気付かない最上は通路の先に迫ってくる扉に顔を向け、扉を開けてやる為に小走りで神通の前に走っていった。ほんの僅かに左右に揺られる艦内であるが、最上は体勢を崩す事無く扉の前まで走り夜と、重い音を響かせながらその扉を開けて神通を待つ。やがて扉の前まで来たところで神通は歩みを止め、部屋の中で大人しく待っていた部下達を一瞬だけ確認してから、最上に向けて視線を流した。
『じゃあ、大部屋を借して貰うぞ。』
『はい、ごゆるりとお使いください。何かありましたら、いつでも言いに来て下さいね。』
『ああ、すまんな。』
屈託の無い最上の笑みから逃れるようにして、神通は扉を潜って部屋へと足を踏み入れる。同時にそれに気付いた霰が神通の元へと駆け寄り、彼女は上司が両手に抱える資料を受け取る。無言で神通はそれを渡していたが、彼女の背中からは扉を閉めながら放つ最上の優しい声が響いてきた。
『後でお茶をお持ちしますからね。では。』
『お、おい、最上。気を遣わなくても─。』
神通がそう言いかけるも、振り返った先には重い音を立てて部屋に蓋をした扉があるだけであった。
人の話を最後まで聞かんとは、なんという奴だ。
そんな風に怒りの言葉を脳裏に過ぎらせる神通だが、その影にある最上のひたすらな気遣いに彼女の腹立たしさはすぐになりを潜める。併せて神通は満面の笑みでお茶を用意して戻ってくる最上の姿を予想し、口元を緩めながら彼女は部屋の真ん中に置かれたテーブルの端に歩み寄った。
テーブルの周りには神通の部下である第8、第18、第16駆逐隊の艦魂達が立っており、神通のそばで資料をテーブルに並べている霰以外は背筋を伸ばして気をつけをしている。少し薄暗い艦内にも関わらず、彼女達が着た白い水兵服が舷窓からの光りを反射して、部屋の中を淡くほのかに明るくしている。そして上司がくるのを待っていた彼女達の表情も、今の部屋と同じ様に消して暗いわけではない。
必死になって教えを授けてくれる神通の心は彼女達も理解しているし、何より今日の「私立神通学校」の日課は武技教練などの訓練日課ではなく、座学による教育日課である事も大きな理由だった。ヘトヘトになるまで走らされて柔道や銃剣術を身体で教え込まれるのが彼女達の常なのだが、人間達と同じ月曜日の午前に宛がわれている教育日課ではとりあえずは汗を掻く事も無い。普段から竹刀で追い回されている彼女達にとっては、それだけでも幸せなのであった。
『おし、始めるか。霰、これを広げろ。』
『はい。』
神通の一言を機に教育日課が始まる。彼女の指示を受けた霰は自分の身長と同じくらいの丸められた地図をテーブルに広げ、それを仲間達も手伝う。その光景を背に神通は部屋の端に立て掛けられていた黒板を引っ張り出し、資料片手になにやら小難しい言葉をサラサラと黒板に書き込んでいく。頭に乗せた帽子を使って丸くなろうとする地図を押さえた部下達は、その上司の書き出す内容に視線と意識を集中させる。
小気味の言い音を伴ってチョークを黒板に走らせる神通は粗方書き終わった所で手を止め、頭に乗せていた軍帽を取って机に置おいた。黒板の端から端までびっしりと角ばった文字で埋めた彼女は、少し疲れた様に小さく溜め息をしてから顔を上げる。
『これから、つい先日欧州にて行われた英独の海戦について説明する。あ〜、今日は提出物はないから、みんな楽にして聞け。』
神通の思いがけない言葉に部下達は戸惑いを隠せないが、すぐにそれは安堵へと変わる。普段は座り方が悪いというだけでお尻に竹刀を叩き込む上司なのだが、この人は怖いだけで別段嘘をつくような人物ではないのだ。その事を従兵として良く知っている霰が笑みを浮かべると、彼女達も胸を撫で下ろして浅く椅子に座りなおる。緊張の糸が少し緩んだ彼女達の心情を乗せる小さな溜め息が部屋の中に幾重にも響き渡り、それが今度は神通の心をも和らげて行く。
最上と同じ様に、彼女達もまた神通にとっては可愛くて可愛くてたまらない部下なのであり、不器用な自分に毎度の様に気を引き締めて接してくれている事はとても嬉しかったのである。もっとも彼女は、そんな部下に対する自分の人当たりを変えるつもりは毛頭無い。上司とは怖いぐらいが調度良い、それが神通の理想の上司像であるのだ。
込み上げてくる感情を抑え、いつもの鋭い眼光を湛えた顔で神通は説明を始める。
『4月から始まったドイツによるノルウェーへの侵攻作戦は、皆も知っているだろう。ノルウェーは地理的に北海を挟んでドイツとは交戦状態である英国に近い。だからこれまでも何度か双方の艦隊の間で戦闘が発生しているんだが、今日はその中でもつい先日の6月8日に行われた海戦を考察しようと思う。この海戦にはまだ名前がついていないが、基本的には攻勢をかけるドイツ艦隊に対して守備を固める英国艦隊がそれを撃退しようとする、というのが簡単な両軍の構図だ。』
神通はそこまで語った所で声を静め、ふと顔を上げて部下達が囲んだテーブルの一角に視線を流す。彼女が予想した通り、そこには上司の声に耳を傾けずにお互いを睨みつける霞と雪風の姿があった。どうやら早速の質問をしようと、二人はほぼ同時に手を上げてしまったらしい。その光景を黙って眺める神通の姿に仲間達が冷や汗を浮かべる中、二水戦名物の猿と犬の喧嘩が始まった。
『どうせ下らねえ質問するんだろうが!? すっこんでろ!!』
『アンタこそ、解りきった質問して戦隊長の点数を稼ぐつもりでしょうが!! 雪風!!』
『なにを、猿め!!!』
頭に血が昇った雪風が波打ったクセ毛を流して、隣の席に腰掛ける憎き天敵に跳びかかる。その天敵たる霞は雪風から伸びた手で頬を鷲掴みにされ、すぐに彼女の麻色の肌には爪で引っかかれた赤い傷が浮かび出る。だが二水戦の中で最も強い艦魂である彼女も、さすがにそれで参ってはくれない。すぐに霞は雪風の頭に手を伸ばし、自分とは違って長く伸ばした彼女の自慢の髪を掴んで思いっきり引っ張る。そしてどちらからという事も無く、お互いの顔面に向かってビンタや拳を叩き込み始めた。『死ね!』等と10代後半の女の子という外見に似つかわしくない言葉を双方が発し、すっかり部屋の空気を無視して天敵を懲らしめようとする二人。
とばっちりを受ける事を恐れて冷や汗を掻きながら見て見ぬ振りをするその仲間達だが、視線を二人から戻すとそこには完全にご立腹の怖い上司の顔がある為、彼女達は視線のやり場に困って部屋のあちこちにキョロキョロと顔を向ける。
そして神通は怒りを表情に纏わせながらも、毎度の様にこうして大喧嘩に明け暮れる二人に呆れて大きく溜め息をつく。『なんで隣に座らせるんだ。』と根本的な二人の取り扱いを誤った部下達に苦言を呈しながら、彼女は腰を上げてテーブルの陰に隠れる二人の下へと大股で歩み寄っていく。神通のそばで席に着いていた霰もまたオロオロとしながらその様子を見守るしかなく、床で転がりながら取っ組み合っている姉と友人の愚かさを心の底から恥じる。その刹那、神通のいつもの怒号と重く鈍い衝撃音が彼女の耳に届いてきた。
『馬鹿者が!!!!』
怒号と供に神通のげんこつが二度振り下ろされ、けたたましく響いていた物音が静まると同時に、霞と雪風は猫の親子の様に神通によって首根っこを掴まれて黒板の前まで連行されてきた。お互いに大きなタンコブを頭のてっぺんに作り、いつもの様に上司の怖さを身を持って知った二人は瞳の端に涙を浮かべている。だが神通としても彼女達の事を思っての教育をしようとしていたのであり、それを邪魔されたのだから二人が泣こうが喚こうが彼女は簡単には許してくれない。黒板の前で掴まれていた首を解放された霞と雪風だったが、神通は相変わらず額に血管を浮き立たせ、鬼の様な表情で二人睨みつける。それが意味する事を普段の生活から十二分に知っているのに、天敵を相手にするとそれをすっかり忘れてしまう二人は歯を小刻みに噛み鳴らして肩を同じテンポで震わせる。だが残念ながら、もう遅い。
神通は怯える二人の内、まずは雪風にそのギラリと光る眼光を向ける。それに気付いて雪風がビクンと身体を大きく震わせるが、構わず神通は右手に淡く白い光りを纏わせて竹刀を出現させながら言った。
『犬!! ケツ出せえ!!!』
『ひっ・・・、は、はい!!』
こんな状態の上司に逆らうのは危険と判断し、元よりそんな勇気の無い雪風は神通に背を向けて脚を肩幅と同じ間隔で開き、両手を肩より上に上げて前屈みの姿勢を取る。先輩に当たる霞を相手に喧嘩する程の鼻っ柱の強さを持つ雪風も、この神通にかかっては赤子も同然である。「犬猿の仲」という言葉から付けられてしまったあだ名で呼ばれ、その呼び名が嫌いであったにしても彼女は何も言い返さず神通の言葉に従うのみだ。
裁きの一撃を受ける姿勢になった雪風を確認し、神通は大きく肩の上に竹刀を振りかぶる。そして刑の執行が始まった。神通の咆哮と同時に竹刀は振られ、その先にあった雪風の小さなお尻からは竹刀独特の甲高い音が発せられる。雪風は『ギャッ!!』と虫の悲鳴のような声を上げ、受身も取れずに顔から床に倒れ込んだ。未だに頭に残ったげんこつの痛みと、お尻から発せられる真新しい痛みに襲われ、雪風はうつ伏せで倒れたまま頭とお尻に片方ずつ手を当てて泣き始める。
そこにあるのは憎き天敵の牙を折られた姿であるのに、霞はその光景に安堵する事は無かった。あれ程までに自分に対して挑んでくる彼女の末路としては、今の雪風の姿は余りにも惨い姿であったからだ。そして何より、今から自分もその横で同じ様な姿をせねばならない事に、彼女の心の中は恐怖という感情が所狭しと駆け抜けているのだった。仲間内の中ではただ一人だけ日に焼けた様な浅黒い肌をもつ霞であるが、いまの彼女の顔からは血の気が退いている事が初対面の人でも解る。瞬きも忘れ、口を半開きにして雪風の変わり果てた姿を視界に入れていた霞。だが無常にも、彼女の耳には上司の声が響いてきた。
『猿!! ケツ出せえ!!!』
『は・・・、はいぃ!!!』
大嫌いな雪風から付けられたあだ名で呼ばれた事は霞としても心外であったが、今はそれに対して反論してはいけないと彼女は判断。雪風と同じ様にビクビクとしながら裁きの姿勢をとって、竹刀を構える上司にむかってお尻を突き出す。
すぐ上の姉である霞の危機に霰はハラハラとしながら、自身の少し伸びたおかっぱ頭の両脇に手を当てて事の次第を見守っていた。噴火する火山のように怒号を吐いて竹刀を振り下ろす神通だが、霰はその先に姉のお尻と悲鳴があっても上司の心を疑う事は無い。どんなにも怒っても昔の様に顔を蹴り上げるような事はしないし、なにより先程から彼女が二人をあだ名で呼ぶのは、単に神通がそんな今という瞬間を楽しんでいるからという事を従兵である霰は知っているのだ。
神通はとある戦国大名に憧れているのだが、その部下には「猿」、そして「犬」と呼ばれた部下がいたのだ。戦国において猿の呼び名を持つ者と言えば、関白にまで登り詰めた豊臣秀吉公。対して犬とは、槍一本で加賀百万石の祖となる大名まで出世した前田利家公の事であり、彼の幼名である「前田犬千代」から来たものである。そしてそんな二人を従えた主君。革命児の代名詞的存在として崇められる織田信長公その人こそ、神通が憧れと尊敬を持つ人間であった。
故に彼女は霞と雪風を馬鹿にする為にあだ名で呼んでいるのではなく、犬猿の仲である二人の関係に乗っかって自身を信長公と重ねようとしているのである。まだまだ経験不足な部下達に誰も見ていない所で悩む事も多い神通が、最近になって生活の中に編み出した唯一の娯楽のような物なのだ。ちなみに幸か不幸か、癇癪持ちという点では彼女は憧れの人物と良く似ている。
もっとも、だからと言って笑みを浮かべて尻をぶっ叩く様な真似を彼女はしない。片足を僅かに踏み鳴らして力いっぱい振る神通の竹刀が霞のお尻に叩き込まれると同時に、甲高い衝撃音と短い悲鳴を発して霞は床で悶え苦しむ雪風の上に折り重なるようにして倒れる。すぐさま部屋には二人の苦痛に歪んだ泣き声が木霊し始める。
お尻と頭を抑えてすすり泣く二人だが、仲間達の何人かはその見慣れた光景にクスクスと声を漏らして笑っていた。そして神通もそれ以上二人を痛めつけるつもりは無く、椅子に腰掛けて竹刀を肩に乗せてトントンと弾ませ始める。まだ少し怒りが纏われた瞳を床で悶える二人に向けながら、神通は静かに声を発する。
『立て。』
全く引かないお尻と頭の痛みに苦しみながらも、すっかり牙を折られた二人はベソを掻きながら立ち上がる。仲間や姉妹が見ている前で懲罰を受けて泣いてしまった霞と雪風。二人とも所属する駆逐隊の司令駆逐艦を務めているのだが、今はそんな二人の面目など丸潰れだ。その犯人である神通の処置は厳しいの一言であるが、彼女は今回部下達に授ける実戦の教育が如何に大事かを知っていた為にその行動を起したのだ。さらにそれと似た逸話を持つ戦国時代の武将の事も神通は知っており、その事もまた彼女の二人に対する断固たる処置を後押しした。
ボロボロと流れる涙を袖で拭う二人に、神通は静かにその事を諭す。
『戦の話はちゃんと聞かんか、馬鹿者が。かつて豊臣秀吉公の軍師だった竹中半兵衛は、戦の話をする際には我慢する小便を漏らしてでも聞けと息子に教えたくらいなんだぞ。それだけ戦の、特に実戦の話というのは、それを生業にする者にとっては大事な事なんだ。』
激痛と嗚咽に苦しむ二人とその仲間達は、神通の早速の教えを黙って肝に銘じる。実際に銃弾飛び交う支那戦線にて時を過ごし、不本意にも仲間の死という物をその目に焼き付けた過去を持つ神通。そんな彼女の言葉だったからこそ、霞と雪風を含めた部下達にはその教えが如何に大事な事かを思い知る。戦と切っても切れない関係の帝国海軍艦魂である自分達は、どんなに小さな事でも戦に関わる物事には浮ついた気持ちで居てはいけない。それは志半ばで散るどころか、下手をすれば大事な仲間や姉妹を殺す事にもなるのである。霞も雪風も泣きながら、腹の底にその事を深く頂戴する。
『二水戦に属する者は、私の命令無く敵を殺す事は許さん。そして私の命令無く、殺される事も許さん。誰一人欠ける事無く勝つ事が私の戦だ。例えどんな事でも、それに反抗する事は許さん。私と供に戦い、私と供に死ねる者になれ。いいな?』
ぶっきらぼうで口下手な神通の言葉は殺伐としているが、その本心はそこにいる誰もが理解していた。
お前達が死ぬ時は私も死んでやる。だから勝手に死ぬ様な、未熟な輩にはなるな。
ただひたすらに部下の将来を気遣う神通のそんな想い。誰よりも部下には厳しい上司にして、誰よりも部下には情をかけている上司が、この神通なのである。
治まりかけてきた涙を拭きながら、神通の言葉に雪風と霞が返事をする。軍隊では聞き取りづらい返事など持っての他で二人が放った声はまさにそれだったが、神通はそれを咎めるつもりは無い。根が素直で頭も良いこの二人が、自分の言いたかった事を十二分に理解した事を知っているからだ。肩に乗せていた竹刀を自らの座る椅子の横に数回突き立て、神通は無言で二人に座るように促す。決して神通は笑みを見せてはくれないが、自分のそばに座らせるという彼女の行為が、二人に向けられた上司の心遣いをそっと伝えてくれる。感謝の言葉も返せずにそこへ腰を下ろし、鼻水と涙を袖で拭う雪風と霞。その二人の仕草に神通は一瞬表情を解しかけるも、すぐさま唇に力を入れて至って平然とした面持ちを固持する。
それに気付いた霰が優しく見守る中、神通は竹刀を物指し代わりにして黒板のあちこちを指しながら、再び声を放ち始めて中断していた教育を再開した。