表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/171

第四〇話 「地獄の空から」

 帝国海軍軍人の間ではつとに有名な詩でこういう物がある。


「鬼の金剛(こんごう)、地獄の山城(やましろ)、いっそ長門(ながと)で首吊ろか。」


 言うまでも無く金剛、山城、長門とは帝国海軍における主要な戦艦の名前であり、これに伊勢(いせ)艦を加えた4隻は海軍軍人、とりわけ下士官兵の者達を腹の底から震え上がらせるだけの厳格な風紀が特徴であった。

 根本的に海軍は国民からの距離感が遠い事もあり、下士官兵に当てられる一般人からすれば、海軍というのは内務班制度に代表される陸軍よりも幾分は楽だろうという見方をされていたので、この4隻に乗組みとなってしまった不幸な下士官兵達は、大いにその間違いを身体で教え込まれる事となる。


 兵役法に従って徴兵を受けるのは帝国男子の勤めであるが、二十歳を迎えたばかりの若者が2年間も男の薗で暮らさねばならないというのは苦痛以外の何者でもない。陛下と帝国へのご奉公という意識の下、晴れの日として紋付袴で徴兵検査に赴く事が常であったとしても、その内心は若い盛りの当人達にとっては複雑な物である。

 帝国の青年達はその育ってきた過程において、身近に存在する陸軍軍人として現役を過ごした諸先輩方の話を耳にする機会が多かった。同じ皇軍である陸軍と海軍であるが、そもそもお船の数が戦力とみなされる海軍とは違い、陸軍は単純に人員の数がそのまま戦力とみなされる。故に徴兵による兵員の振り分けは陸軍の方が圧倒的に多く、ごく普通の国民一人を例に取れば、海軍経験者より陸軍経験者の方が身近には多い物である。そしてその事は、兵隊としての生活を味わった事が無い若者達に陸軍生活における色々な体験談をよく伝えており、泣く子も黙る陸軍と認知する者は決して少なくは無かった。

 歩いて歩いて歩いて、そこでやっと銃をぶっ放すという帝国陸軍の実情。それは支那事変が勃発してからは特によく伝えられ、その訓練や行軍の辛さに自殺者までがでるという事実も、決して表には出ないながらも国民の間では噂として耳にする者もそこそこにいた。特に行軍の辛さは折り紙付きで、座ると立てなくなるから立ったままで休止するのは当たり前。歩いたまま眠る兵員もいて、休止の号令に気付かず歩き続けてしまう事も日常茶飯事。見上げると首が痛くなる程の急斜面を、一発5キロもある歩兵砲の砲弾を四発も担いで登って行くのもいつもの事。そして時には山地走破中に、眠ったまま歩いて崖から転落する者も出たというから悲劇である。

 「暴支庸徴(ぼうしようちょう)」をスローガンに掲げて支那へと忠勇無双の兵を進めた日本であったが、その実は支那人による飽くなき抵抗にあって戦局を泥沼化させてしまっているのが実情である。そしてそこに払われた犠牲は日本としても決して少なくは無かったのであり、その大半は上記の様に陸軍軍人に寄る所が大であったのだ。


 そんな事から、中学校や師範学校卒業による優遇が無いごく普通の青年達には、「なんとなく陸軍よりは楽そう」との判断から海軍を志す者もそこそこにいた。もっとも徴兵検査後の配属を希望する様な事はできないし、志願で海軍に入ってしまうと陸軍なら2年で済む現役期間が5年と倍以上になってしまうから、彼等にとっては頑張って恐怖の2年を駆け抜けるか、我慢強く幾分は楽そうな5年を耐えるかは中々に難しい選択であった。

 ただ一つだけ、海軍志願兵としての嬉しい役得として、兵種への志願希望ができるという事があった。一口に海軍志願兵と言っても、その中には水兵、飛行兵、整備兵、機関兵、工作兵、軍楽兵、衛生兵、主計兵、技術兵の9兵種があり、5年の苦しい生活でも飛行兵等になる事ができれば、まだまだ飛行機等という代物が程遠い意識であった一般的な日本人であっても空を飛んで過ごす事だってできた。それに整備兵や軍楽兵等の兵種であれば、前線でのドンパチに狩り出されるような心配も無い。

 ここまで考えた青年達にとっては、「海軍の5年も悪くない」と思えてしまうのも無理は無い。そしてその考えの通りに志願した青年達は、周知の様にそれが間違いであった事を身をもって教えられてしまうのだ。


「人も嫌がる海軍に、志願で入る馬鹿もいる。」


 そんな言葉を彼等が知る頃には、既に潮気と"海軍軍人らしさ"を徹底的に仕込まれた後である。


 ところがそんな彼らが海軍生活中で最も恐れるたのは、海軍独特のスパルタ的な日常でも、詩にも謳われる帝国海軍の栄えある戦艦達でもなかった。

 「軍紀風紀の風が吹く」の名文句と供にその名を轟かせ、海軍軍人の全てが恐れおののいたその場所こそ、(ただし)が新たな生活を送ろうとした場所であった。

 彼等はこんな詩を詠んで、その地への恐れを表現した物である。

 

「鬼の長門か地獄の伊勢か、それより怖い砲術学校。」






 横須賀の市街地を過ぎ、海兵団や航海学校等もある追浜地区の一角。有名なトンネルを潜った先に、晴れた大空を切り裂くようにして身を構えた営門がある。まるで蝋人形のように直立不動で静止する強面の衛兵の向こう、そこに身を構えた校舎が帝国海軍における砲術の聖地であった。


 窓が並ぶ廊下に黒板の前に揃えられた机。どこからどうみても教室であるが、そこに腰掛けるのはハナを垂らした頬の赤い少年達ではない。第一種軍装を身に纏い、少尉や中尉の階級章をつけた青年達が20人近く座り、小難しい砲術における専門用語が記された黒板の横には竹刀を肩に乗せた強面の教員が仁王立ちする。教室内に張り詰めた空気は今にも切れそうな空中線の様で、誰一人声を発する者はいない。

 そして部屋の一番後ろの席、同じ服装をした学生達の中に埋もれるようにして机にもたれる忠の姿があった。まだ朝なのにも関わらず、猛烈な睡魔に襲われて忠はあくびをしそうになるが、グッと顎に力を入れて飲み込むようにして堪える。手からこぼれ落ちそうになった鉛筆を持ち替え、教員にみつからないようにそっと頬をつねる。ヒリヒリとした痛みが少しの間だけ彼の頬に残り、重い瞼をなんとか持ち上げようとするものの、痛みがなくなるとまたしても睡魔が彼を邪魔しだす。

 軍隊の学校で居眠りしそうになる等、言語道断。だが睡魔と闘っているのは忠だけではなく、教員以外の教室にいる者全員が同じように重い瞼を必死に上げようとしていた。士官である彼等は砲術学校入校と同時に海軍砲術学校学生という肩書きを頂いており、忠も含めたこの教室にいる者達は対空砲術を専行する対空班の学生達である。各々がそれぞれの職場でその腕を磨いてきたエリートであるが、そんな彼等に対して一端の士官らしい扱いをしてくれる程、この砲術学校という所は甘くなかった。






 入校初日。通された教室で彼等はお互いの自己紹介や、同期との再開に表情を明るくさせていた。年の世代も近い事からすぐに打ち解けあう事ができたのは忠も同じで、『心機一転。これから頑張ろうぜ!』の声を上げる。ところが先任らしい初老の教官が教室に入ってくるなり、彼等はさっそく砲術学校の恐ろしさを知る事になった。


『なんだ貴様ら、さっきのふざけた顔と声は?それが軍艦で最も大事な砲術の任に就く者の顔か、ああん!!??』


 言い終えると同時に目の前の教官は右足を伸ばし、壁を突き破るかと思わせる程の勢いで教壇を蹴飛ばした。艦砲射撃の様な轟音を立てて壁際に転がる教壇と鬼の様な形相の教官を目の当たりにし、学生達は瞬きも忘れて息を飲む。そして全員が口を半開きにしてじわじわと恐怖を覚える中、彼等の後ろからはいつの間にかそこに立っていた他の教官達の怒号が響きだす。


『オメーら、砲術ナメてんだろうが!!!』

『良いと思ってんのか、オイ!!!!』

『・・・ッザけてんじゃねえぞ、ガキ供!!!』


 次々と発せられる教官達の怒号に続き、壁や机、椅子といった手近にあった物を殴ったり蹴ったりする音が響いてくる。後ろの席についていた忠も、腕を乗せていた机を思いっきり蹴飛ばされて恐怖の二文字を胸の中に溢れさせる。まるでダルマ落としの様に机はぶっ飛ばされてしまい、忠は宙に浮いたままだった手を即座に膝の上に置いてみるものの、背後から突き刺すような教官達の荒い息遣いと怒鳴り声にはちっとも心が休まる事は無い。とりあえず目を合わせるのは危険と判断し、正面の教官のみに視線を向ける忠。

 そうこうしている内に、正面で学生達を睨みつける教官が口を開いた。


『よく聞け、貴様ら。この砲術学校の学生になったからには、普段の生活たりとも容赦はせん。兵舎から出たら必ず駆け足、例え二人でもその馬鹿面を並べて移動するなら片方が必ず号令をかけろ。一度でもこれを破る奴がいたら連帯責任だ。二度と海軍に戻って来れねえ様にしてやるからな。解ったか!?』


 勿論、その言葉に忠達は返事を返したのだが、上ずった甲高い声での返事であった事を覚えている者は誰一人としていない。暖かさも増してきた5月だというのに彼等は背中に悪寒を覚え、足に力が入らないにも関わらず、不気味な程に身体が軽いという感覚に襲われていた。彼等は今日初めて会ったばかりにも関わらず、既にこの時には一様に同じ言葉を脳裏に走らせていた。


「これはエライ所に来てしまった・・・。」






 砲術学校学生の一日は朝の「釣床納め」から大変だ。目が覚めて1分もしない内に『遅えんだよ!!』と怒鳴り散らしてはバンバンと壁や椅子を蹴飛ばす教官に急かされ、起きたばかりだというのに早くも学生達は額や首筋に冷や汗を滲ませる。必死になってそれを終わらせると今度は駆け足で兵舎の運動場に集合し、海軍体操の幕開けだ。体操と言っても腕の伸びや体の捻り具合等、とりわけ姿勢に関する事で怒号を受けるのは相変わらずで、汗びっしょりとなって学生達は身体を動かす。時にはこれに吟遊朗読のおまけがつき、腹の底から声を出して平家物語等を朗読する事もある。

 忠はこの時、何故に体操の号令をかける人物が帝国海軍では限定されているのかを納得。彼が思い知った通り、帝国海軍における体操の号令は砲術学校卒業生が当てられていたのだった。そんな事から『声が小さい!!』と怒鳴られる事は、砲術学校においてもっとも身近にある地雷の様な物で、これを受けた者は容赦なく竹刀や精神注入棒でぶん殴られる。故に彼等は毎朝、喉の奥が痛くなろうが、口の中に虫が飛んでこようが、大きく口を開けて腹から声を出す。




 こんな調子で朝を迎え、疲労感が襲ってくる頃には学科のお勉強が始まるというのだから忠の睡魔との格闘も無理の無い事である。だがそれでも彼は眠る訳には行かない。勿論教官にドカーンとやられるのも怖いのだが、それ以上に忠が恐れるのはこの砲術学校の教育法その物である。口の中で舌を噛み、その痛みで眠気と戦いながら、彼は必死に教官の言葉と黒板に書かれた内容を頭に叩き込もうとする。普通ならノートに記してそれを元に復習するのが一般的なお勉強であるが、残念ながら砲術学校は"普通"ではない。


 まず教科書自体が帝国海軍における機密文書を表す赤い表紙でできており、明石艦乗組みの時に忠が扱っていた射表と同じ様に、普段は金庫に入れられて厳重に保管されているのだ。そして彼等がそれを記す事ができるノートも同じく赤い表紙で包まれており、授業の始まる直前に渡され、終わったら終わったですぐに取り上げられて、また金庫の中へと戻されてしまうのである。二宮金治郎の様に歩きながらでも勉強する事ができないばかりか、授業以外では大事な知識が記されている教科書やノートを触れる事すらできないのである。

 砲術学校の教育期間は半年程であるが、高等数学や砲術の専門用語で構成される内容を頭に詰め込むのには半年は短すぎる。それは学生達は元より教官達の方でもしっかり理解している様で、ご丁寧にも彼等が与えてくれる教育は次の段階へ進むのが異常に早い。『解らないので、もう一度教えてください。』等という言葉は口にしてはならない言葉であり、その授業を受けたという事がそのまま内容を習得したという事にされてしまうのだ。

 

 一切の雑念と瞼にぶら下がっているかの様な眠気を振り払いながら、忠は眼前の黒板へと意識を集中させた。






 基礎的な座学は勿論として、砲術学校では銃砲に至る物はほぼ全て、その使い方は徹底的に教えこまれる。高角砲や艦砲について学ぶのは当たり前だが、それ以前に拳銃や小銃、軽機関銃についての教育も行われるのだ。実際に発砲して的に当てるのは眠気が吹き飛んで有り難いが、これらの教育はシメとして分解清掃を行わなければならない。再び襲ってくる眠気と疲労感に耐えながらやる分解清掃は集中力を維持するのが大変で、粗方綺麗になったと思って作業を終えると、すぐさま教官から見落としていた汚れを指摘されてしまう。そうなったら散々に怒鳴られながらやり直しに励み、その後には連帯責任として班員全員での腕立て等の懲罰を受けることになる。







 そしてこの砲術学校における代名詞とも言える授業が、銃剣術の武技教練である。

 海兵66期では四天王として君臨し、その銃剣術の腕前には自信があった忠。祖父から直伝された蹴り等を使った立ち回りはできなくとも、彼は銃剣一本あれば兵学校の教官相手でも一本を取るだけの実力がある。不思議な物で、自分の得意な物が授業になると目が冴えるという人はよくいる。無論、彼もその中の一人であったが、"普通"ではない砲術学校がまたしても彼に対してその牙を向けてくる。


 忠は得意としている防御からの反撃を狙い、相手の剣先を逸らせてからがら空きの胸に突きを繰り出す。もっとも相手の教官だって銃剣術に関しては達人の域に達しているから、いつぞやの(かすみ)の様に思いっきり突く事はできず、逆に反撃を警戒しながら彼はチョンと小さく突きを繰り出した。決して突きを食らった教官はもんどりうって倒れるような事は無いが、銃剣術の世界ではこれでれっきとした一本判定である。ところが、「砲術学校の銃剣術」は違った。

 面の奥で得意げな表情を浮かべていた忠だったが、すぐさま周りの教官達から罵声が飛んで来た。


『なんだその突きは!!??』

『馬鹿野郎!!それでも男か!!』

『この卑怯者が!』


 本物の銃剣であれば既に心臓をえぐられているし、そも実戦で培った銃剣術を祖父から仕込まれてきた忠はその声に戸惑いを隠せない。本当なら蹴りや目潰しだって有効であるくらいだ。ところがそんな忠の銃剣術論は間違いであり、砲術学校の銃剣術では相手を串刺しにせんとばかりに力を込めて剣先を刺す様が「突き」なのだという。


 そんなぞんざいな・・・。


 そんな言葉を脳裏に過ぎらせる忠だったが、次の瞬間彼の頭には教官の鉄拳が飛んでくる。面の上からでも痛い。そして鉄拳を放った教官は鬼の様な表情をしていて怖い。軽く頭を掻いて自分に向けて発せられる威圧感に怖気づく忠だったが、教官の怒号により再び構える事となった。


『さっさと構えろガキが!砲術学校の銃剣術を教えてやる!!』

『は、はい・・・!!』


 勿論この後に繰り広げられたのは、自らの突きを認められずに一方的に教官から繰り出される突きによってぶっ飛ばされる忠、という光景であった。






 砲術学校の一日は長く辛い。

 今日も一日、怒鳴られるわ殴られるわの時間を嫌というほど体験し、兵舎に戻ってきた学生達には精気を帯びた瞳をする者は誰一人としていない。

 巡検立会いを終えて部屋に戻った忠は、部屋を同じくする仲間への挨拶もそこそこに、上着を脱いでベルトを緩める。砲術学校に入ってからという物、今では服を着ているだけで身体を締め付けられているような感覚を覚えてしまう。以前の勤務先では部屋に戻ったからと言ってこんなだらしない格好をする事は無かったが、やっと一日が終わったという喜びと安心感からくるその行動を忠は止める事ができない。二段ベッドの上の方で同じく疲労を顔に浮かばせてボンヤリとする仲間と同じく、忠は靴を脱ぎ捨ててベッドの上に大の字になる。するとスピーカーからは、貴重な憩いの時間を知らせる号令が掛かった。


『巡検終わり。煙草盆出せ。』


 帝国海軍では陸上勤務だろうが艦隊勤務だろうが号令は一緒であり、地獄の様な砲術学校であっても酒保まで完備してある。廊下を甲板と呼び、甲板掃除の号令が掛かると学生や練習生総出での掃除が始まるが、その掛け声や掃除の仕方まで艦上の物と同じである。

 艦隊勤務ではこの号令と供に缶詰の空き缶を再利用した灰皿を出し、煙草を吹かしながら色んな談義に花を咲かせる物である。忠も先月までは、なんだか可笑しな連中と一緒になってお菓子を頬張り、酒やラムネをかっくらっては笑い話をした物である。だが疲れきって綿のような感覚になった四肢を持つ今の彼には、仲間と供に酒を飲んで話をする気にはなれなかった。静かに過ごさせてくれと脳裏で唱える忠であるが、二段ベッドの上で横になる当の仲間も同じような思いであった。

 運悪く教官に気に入られた学生はこの時間ぐらいになると、遊郭街での"射撃訓練"にお供させられてしまうらしいが、忠にはこれ以上の元気は絞っても出る気がしなかった。


『はぁぁ〜・・・。』


 忠は深い溜め息を一度放つと身体を起こし、ベッドの脇にあった小さな棚の引き出しを開けた。そこから引き抜いた彼の手には銀色に光る空き缶が握られており、彼は棚の上に置いてあった煙草をもう片方の手で手繰り寄せながら、力の入らない脚を踏ん張って立ち上がる。ベッドの横には見慣れてきた舷窓とは比較にならない程に大きな窓があり、彼はそこにフラフラとした足どりで近寄ると窓に手を伸ばして僅かに開けた。暖かさを帯びた夜風が頬を撫でる中、彼は窓枠に空き缶を置いて口に挿した煙草に火をつける。

 だが疲労困憊の忠には僅かの間でも立っている事が辛い。何か腰掛ける物は無いかと部屋の中に視線を配ってみるも、殺風景な部屋には椅子どころかそれに成り代わる物すらなかった。煙草の煙と供に小さく溜め息を放ち、探す事を諦めた忠は窓をさらに開けて窓枠に肘を置く。窓から外に身を乗り出すように寄りかかり、まるで自分を腹を抱えて笑っているかの様に煌々と輝く星達を眺めながら、忠は束の間の一服としけこんだ。


『スー・・・。』


 口から吐かれた煙が立ち昇って行き、彼の見上げた視線の先にある憎らしい星々を霞ませていく。だがそれはほんの一瞬で、煙が四散するとすぐにまたキラキラと夜空に騒ぐ光りを彼の瞳に映し出す。そして、その憎らしい程に綺麗な光りは、忠の脳裏に同じような笑みをする相方の事を思い出させてしまう。


 どうしてるかな、アイツ?


 兵学校から始まった彼の海軍人生であるが、つい先月まで続いていた明石(あかし)艦での思い出は彼の中では大きい物だった。つまらない意地を張ったばかりに手放したその思い出は、忠の心の中に相も変わらず自己嫌悪を募らせていく。だが不思議な事に、そこにいた相方の顔を思い出すと彼の心には違った想いが込み上げてくる。


 殴られて怒られて。こんな格好悪い今の自分を見たら、アイツ何て言うかな?


 再び煙草を一吹かしし、忠は口から白い煙をゆっくりと昇らせて行く。脳裏を過ぎった素朴な疑問は、自分の馬鹿さ加減を思い知らせる記憶の中核を成す人物の事であるのだが、彼はそんな事を忘れてひたすらにその答えに関して考えを巡らす。

 根が素直なその人物の人柄を考慮すると、彼が自身で思った様に『格好悪い』と率直に言ってくる可能性が高い。まして明石艦では最も仲良く過ごしてきただけに、その人物は何の躊躇も無くそう言ってくるだろう。

 ここまで考えた所で、彼はその姿を該当の人物には見せないようにする事を決めた。男性である彼の本能として、格好悪い自分を見せる事はなんとしても防ぐという結論に至ったのだ。そして辛いこの地獄の様な日々をなんとしてでも乗り切る事が、その防衛策の骨子である事を彼は悟った。

 唇に迫りかけた煙草を灰皿とは名ばかりの空き缶に押し付け、忠はスッと空を見上げて決意を新たにする。


 頑張らねば。


 胸の中でそう一言呟いて、彼は窓を閉めた。窓の両脇にあったカーテンに手を伸ばし、勢い良く窓を覆わせる。そこには彼の背中の影だけが映っていたが、同時にその背中の主は再度胸の中で声をあげる。


 好きな女に格好悪い所を見せるなど、論外だ。



 



 こうして彼は再び、口を開けて待つ地獄の日々へと戻っていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ