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わだつみの向こう ─明石艦物語─  作者: 工藤傳一
第一章 巡り合わせ
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第四話 「いつもの相方」

 昭和14年9月18日、朝。


 第18駆逐隊の(かすみ)艦と妹の(あられ)艦、そして明石(あかし)艦の3隻は、澄み渡った青空の下に呉軍港を出航した。明石艦としては初の他艦との合同訓練航海が始まったのである。向かう訓練海域は土佐湾沖合い。ピカピカの最新鋭艦3隻が単縦陣で波を掻き分けて進む姿は、栄えある連合艦隊の未来を明るくさせるのに充分だ。隊列は先頭が霞艦で中央に霰艦、最後尾が明石艦。進路は南西、最初に目指すは瀬戸内の玄関こと豊後(ぶんご)水道。






『俯角手輪良し!』

『・・・うん、よし。』


『電動機良し!』

『・・・良し。』


『旋回盤良し!』

『・・・良し。』


『砲身外観良し!』

『待て。・・・うん、良し。』


 太陽が東寄りから真南に見え始める頃の明石艦艦尾にある二番主砲。 

 7人の水兵が艦載砲としては中型サイズであるその連装砲のあちこちより声を上げる。それを聞いて返事をしながら確認する忠は、手に持ったバインダーに挟まれた一覧表の項目一つ一つに鉛筆を走らせていた。


 その様子は艦載砲の定期的な点検の姿である。

 真面目な性格で一端の士官になれた事で覇気を(みなぎ)らせている忠は兵員達の声に返事をしつつも、必ず最後は自分の目で項目に記される点検箇所を確かめる。

 実は砲の点検その物は本来は砲台長が提出するものだが、二番主砲の砲台長は昨日の晩に工廠内で不慮の事故に遭遇し、怪我を負って入院してしまった。それの伴い、急な欠員に小口(こぐち)一等水兵を砲台長代理として明石艦は訓練航海に望む事になったのだが、小口は不慣れな砲の点検を満足に遂行できる自身が無いらしく、砲術科員で構成される分隊の幹部である忠に相談を持ちかける。その結果、新米士官ながらも砲点検の経験があった忠は部下の悩みを解決する為、点検の代行をしてやっているのであった。


『左右鎖栓よし! 砲術士、二番主砲異常なし!』


 忠の前で敬礼してそう言ったのは、その小口一水。その背後では、他の6人の水兵達が一斉に駆け寄って整列する。対して一覧表の下の欄までサラサラと書き込んだ忠は、一度小さく頷いてから顔を上げた。


『・・・良し、異常認めず。ご苦労だったな。』


 柔らかな敬礼をしながら口にした忠の労いの言葉に、彼の前に横一列で並んだ7人の水兵達の表情が崩れる。


『砲術士、本当に申し訳ありません。』


 その列の中から一歩進み出て、少し頭をさげて謝る小口。だが忠は笑顔で小口の肩に手を乗せて冗談も込めた声を返し、小口の胸の中に渦巻いていた緊張を解いてやった。


『気にすんなよ。それに不備が有ったらオレが髭親父に怒られるからな。』

『『『 はははは。 』』』


 忠の言葉にどっと笑いの渦が起こる。彼の口から出た「髭親父」とは砲術長である青木大尉の愛称で、愛嬌あるその人柄により艦内の兵員達からはそう呼ばれて親まれているのだ。


『ははは。よし、いいぞ。解散、別れ。』


 やがて笑い声の余韻を楽しみながら発した忠の言葉に、水兵たちはぞろぞろと艦内に戻っていった。


 静かな波と風の音に包まれる中、一人その場に残される忠。

 少し強めの潮風に帽子を一度被り直した忠は、ふと右舷側に見える陸地の景色を見た。風と同じ方向に景色は流れていく。ザンザンと足元から聞こえてくる機関音、時折風に揺られて顔に掛かってくる煙突からの煙、そして艦尾に颯爽と(なび)く軍艦旗。


 明石艦が海原を駆けているのだ。


 その実感に忠の心は踊った。艦前後にある空に向かって(そび)え立つマストが、心なしか彼には戦国時代の騎馬武者が背に挿す旗指物にも見えてくる。

 そしてその少し向こう。定位置に降ろした状態の後部起重機の辺りに張った1本の索に、工作科の水兵がふんどしを何枚も掛けているのが見えた。新入りの水兵さんの大事なお仕事である洗濯物を干して乾かそうとする光景であるが、やがてその水兵は籠一杯に溜まっていた洗濯物を掛け終わるや、どっかとその場に腰を下ろして辺りにキョロキョロと警戒の視線を配り始めた。


 これは洗濯後の見張りである。

 士官の忠には心配無用なのだが、艦艇における生活の中で洗濯物を干す時は必ず泥棒用に見張りを立てるものである。人のふんどしなんか履きたくないと思うのは忠に限らずとも物が豊富にあった、今からおよそ10年程前の頃だけであり、支那事変で疲弊した経済により物が不足しがちな今の日本、まして艦艇の中という閉鎖された環境では不心得者が必ず出るのである。栄えある陛下の赤子(せきし)である帝国海軍には、当然のように泥棒はいない事になっている。故にもし盗まれたとしてもそれを盗難品として認知する者は海軍にはいない。それは立派な紛失品として類別され、なおかつ陛下よりの下賜された支給品を紛失するという事は、不敬罪と同様に帝国軍人にはあってはならない事である。つまり盗んだ方よりも盗まれた方が悪いのであり、だからこそ艦内生活では盗まれないようにと見張りをたてるのだ。



 風に靡く何枚ものふんどしの下、水兵がつまらなそうに座り込んで空を眺めている。

 勇壮に進む明石艦に鯉のぼりのように靡くふんどし。変な光景だ。


 まだ午前の課業中だが、忠はのんびりとその光景に気を休める。明石艦の砲術科において幹部である彼の立場を鑑みると、真昼間からこんな過ごし方をしているのは些か問題有りな様にも見える。だが意外にも忠の明石艦における日常に限らず、艦艇所属の砲術科と呼ばれる帝国海軍の一つの部署は大概がこんな感じであった。


 戦闘の花形的部署である砲術科だが、ドンパチが無い時は意外と暇な部署でもあったりする。何も明石艦に限った話ではない。日常的な業務と言えば配線室や電気室、弾薬庫と砲に測距儀と、それらに付随する設備の点検、清掃、整備がほとんどだ。時には片付いている書類の山を崩し、また整頓しなおすなんて事もある。忠も含めてちょっと偉い肩書きの人なら、訓練内容や運用に関する懸案の打ち合わせと事務仕事が少々あるくらい。激しい訓練で知られる帝国海軍だが、その実は彼らにとって砲塔をグルグル回すだけだった。


 だが忠を初めとして、今の帝国海軍にはこれが普通の感覚であった。欧州でのドイツによるポーランド侵攻の情報にざわめくのは一部の潮気の抜けた(おか)の上層部の連中だけで、艦隊勤務の者達は至って気にもしていないのが実情だった。

 ただそれに反して日本国内においては昭和12年から始まった支那事変に終わりが見えず、出征していく人も近頃はぐんと増えていた。奇しくもこの日、かねてから国会で審議されていた疲弊する日本国内経済に対する政策として「賃金統制令」、「価格統制令」が成立したが、そんな世間の喧騒も晴天の下の瀬戸内の潮風が忘れさせる。それは兵だけでなく、佐官や将官クラスの人達のほとんども同じであった。

 両手を左右に広げて大きく伸びをした後に主配置の発令所へと向かう忠の姿は、何かそんな帝国海軍の実情を体言している様ですらある。





 後年、軍部が政治に影響力を発揮する当時にあって、「寡黙であり過ぎた海軍」と揶揄される事になるこの海軍気質が既にこの時には手遅れな程に蔓延していたが、それが結果として彼らに襲い掛かって来るのはもうちょっと先の話であった。





 その後、しばらくして本来の仕事場である発令所の片隅にある机に座った忠は、机の一角に詰まれている提出されてきた書類の山に手をつけた。内容の大半は砲術科各部署での点検報告、整頓記録、訓練成績等である。これを一元化して砲術長に提出するのも、砲術士少尉の普段の大事なお仕事だ。体が資本と思われる軍隊生活だが、意外にも下士官以上はデスクワークの方が多い。最近は一丁前に肩が凝るという感覚を覚えるようになった忠。


 オレ、歳とったのかな。


 脳裏をかすめるそんな言葉に苦笑いしながら忠は仕事に掛かった。

 いつも賑やかな相方は昨日仲良くなった霞と供に、霞の妹で昨日は来れなかった霰に会いに行っている。仮とはいえ自らの旗竿に(ひるがえ)った軍艦旗に朝からはしゃいでいた明石。上機嫌に耳元で騒ぐ彼女に微妙に酒が残る忠は困っていたが、いなくなってみると寂しいものだ。発令所に木霊するのは艦首にて切り裂かれた波の音と、伝声管から聞こえてくる艦橋での会話の声だけである。


『はあ〜・・・。』


 やれやれ、今ほど仕事がはかどる瞬間は無いと言うのに気が乗らないとは困ったもんだ。


 自然に出たため息に忠は一度鉛筆を書類の上に置いた。座ったまま帽子をとって肩を2、3度鳴らした忠は、胸の中で自分を励ます声を放ちながら再び鉛筆を走らせ始める。


 しっかりしろよ、オレ。





 その頃、明石は隊列の先頭の艦、霞艦の艦首旗竿の下にいた。彼女は旗竿につかまって迫ってくる豊後水道の最狭部、豊予(ほうよ)海峡を眺めている。

 潮流が早く海峡幅が14キロしかないこの狭水道は、文字通り連合艦隊艦艇の登竜門である。幅14キロと言ってもここは海軍艦艇以外の民間船や連絡船、漁船等が頻繁に出入りしているので、衝突回避の事も考えると実際はもっと狭い事になる。だがここを艦隊を組んで楽々と通過出来る程の操艦技術がなければ、連合艦隊の一員とは認められない。

 世界最強を自負する帝国海軍、その自信も解ると言う物だ。


『き、緊張するなぁ。』


 明石の後ろで霞がオロオロしながら口を開いた。嫌な寒気を感じているのか、暖を取るように手を擦り合わせている霞は見るからに落ち着きが無い。するとそんな霞の肩に妹の手が触れる。


『霞姉さんは大丈夫やて。真ん中のウチが一番よう行きひんよ?』


 微笑みながらそう言ったのは、柔らかくゆっくりとした京都訛りの言葉を話す少女。霞の妹の霰である。霞よりちょっとだけ背は高く、小さい顔に少し垂れた役者のような切れ長の目、そしておかっぱ頭という彼女のいでたちは市松人形のようだ。朝潮(あさしお)型駆逐艦十姉妹の末の妹として京都の舞鶴(まいづる)工廠にて生まれた彼女だが、姉の霞より2日早く進水しているからか背格好や仕草は霞よりも大人っぽい。


『あたた・・・。神通(じんつう)さんはやっぱり怖い人やなぁ・・・。』


 霰はおでこの大きな絆創膏を抑えて苦笑いをしている。聞くところによると昨夜、この姉妹の上司に当たる神通に精神注入棒で思いっきりぶっ叩かれたらしい。


『大丈夫? 霰?』

『明石さんのおかげでだいぶ楽になったどす。』


 霰の言葉に明石は振り返って微笑みながら、二人の下に歩み寄る。また、初対面と言えどもおでこにタンコブをつくって出迎えた霰に仰天し、その場で絆創膏での処置を霰に施したのは明石だった。


『私が11月に編入されたら、神通さんと掛け合ってあげるよ。一応は少尉だし。』

『ありがと、明石さん。でもヒドイよねぇ、神通さんは。決定はしてるけど私達まだ正式に二水戦に所属してないんだよ? それなのに平気で殴るなんて!』


 明石の言葉に感謝しつつも、霞は額を抑える霰の背に手を当てながら険しい顔をしている。


『ウチがトロくて、言われた事をようできひんだけや。怖いお人やけど、神通さんを悪い人のように言うたらあかんで。明石さん、ウチ等は大丈夫どす。おおきに。』


 霰は痛む額を抑えながらも霞をなだめている。だが一応は少尉の襟章を着けている明石の提案をはっきりと遠慮する霰には、どこか一本芯が通った強さのような物がある事を明石は感じた。


『うん。そっか。』


 そんな霰の心の内を思い、明石はそれ以上何も言わなかった。霰の健気な心遣いを踏みにじりたくないからだ。結果を出せないながらも、彼女もまた必死に帝国海軍駆逐艦という運命と戦っているのである。明石が孤独と戦ったように。




『あ!!』


 そんな中、突然、霞が艦首の先っぽへと走り出し、旗竿につかまって大海原の左右に視線を振って何やら呟き始める。


『ヨーソロー・・・、ヨーソロー・・・。』


 小声で呟きながらも霞は艦首の周りをキョロキョロと見回し、明石と霰は何事かと霞の後ろまで近づいて行く。だが二人が声をかける前に、霞は拳を握って喜びの感情も混じった声を上げた。


『や、やった!ドンピシャ!』


 一人で拳を握って喜ぶ霞であるが、それを背後より見ていた明石と霰にもその意味がすぐに解った。霞が目をやる艦首の前方の直線上には、民間の船舶や漁船はいない。視界に入る船舶は全て、進行方向がその線から外れている。はるかに水平線まで続く海の道を、隊列の先頭を駆る霞艦は見事に探し当てたのだ。

 続いて喜ぶ霞を横に、今度は霰は艦首右舷から後ろを見る。

 彼女の分身である霰艦は前後の僚艦との距離を保つ事が求められる為にとても繊細な機関の操作が要求されるのだが、当の霰は笑顔のまま自分の分身をじっと眺めている。


『ウチの乗組員さんはみんな頑張り屋さんどす。きっとようやってくれはるわ。』


 霰の隣に立ち明石もそれを眺めた。彼女の言う通り、艦尾方向に見える霰艦はそのシルエットの大きさを変える事無く海峡を通過している。そして自分の分身である明石艦も霰艦の後ろに両舷がはみ出て見えている。艦幅20メートルと一等巡洋艦並に横幅のある明石艦なら当然でもあるが、それでもきっと自分の分身も無事に通過できる。

 そう信じて明石もまた微笑み、やがてその願い通りに明石艦は豊予海峡を突破してみせるのだった。





 それからしばらく経った頃、明石艦の発令所には二人の兄弟の会話が木霊していた。


『はあぁ・・・。』

『兄貴、しょうがねえよ。瀬戸内と太平洋じゃ気候が違えんだから。』


 発令所の窓から忠とマサは外を見ている。時間は1740、窓の外は朱色の夕暮れではなく銀色の雲が立ち込める雨模様だった。午後の訓練として実弾射撃を控えていた明石艦だったが、昼過ぎから振り出した雨により延期となってしまったのである。忠としては晴れの瀬戸内で点検をやったばかりだと言うのに、まさか太平洋側で雨になり中止とは残念でならない。航海科や機関科は雨天と夜間での操艦訓練だと張り切っているが、対して砲術科は完全にお払い箱になってしまった。明石艦の目玉、工作科ですら航海中の動揺下での懸案抽出と出張っているのに、せっかく青木大尉と詰めた訓練計画も明日に延期となってしまった事は忠には無念でならない。


『森、もういいぞ。今日はあがりだ。』

『はい。あがります』


 艦橋から繋がる伝声管から当の青木大尉の声が流れる。どこか寂しげに聞こえる上司の声に忠も頭を掻いてうつむいた。


『砲術士、お疲れ様です。これより配置につきます。後は自分がやりますのでお休みになってください。』


 当直士官の藤木(ふじき)特務少尉が発令所に入ってきた。彼は階級こそ忠より下だが、年齢は忠よりも遥かに年上で経験も豊富な人材である。忠と入れ替わりで砲術士代理から測的班指揮官になった人であり、明石艦の竣工後の初めての主砲試射で彼は測距を担当し、たった2回の修正で命中判定を得たつわものだ。


『・・・あ、ご苦労さま。聞いたとおり訓練は中止です。他は特に無し。なんかあれば起こして下さい。』

『了解です。元気だしてください。明日また頑張りましょうや。』

『はい・・・。じゃ、頼んます。』


 引継ぎを終えて軽く敬礼を交わした後、忠は食堂に向かった。




 航海科と工作科は訓練を続行している。その為か、該当の士官がいない士官食堂は閑散としていた。『給仕、水!』といつもは怒号のような声が飛び交う夕飯時の士官食堂なのに、今は数人の士官が黙々と食事についているに過ぎない。給仕についている水兵は水差しを抱えながらも仕事が無くて暇そうだ。


『お疲れ様です。』

『おう。』


 既に食事を取っている向かいの席の青木大尉に軽く挨拶をしながら忠は席に着いた。今日の夕食として並ぶ旬のサンマが放つ香ばしい香りにも、忠の顔をはどこか浮かない。やがて箸をつけながらも骨の多さに少し苛立つ忠。


『どうした? 今日は元気がないな?』


 青木大尉は忠のそんな表情にすこし驚いている。相変わらず米粒がついた口髭を上下させ、口に夕飯を含みながら発する青木大尉の声はいつも以上に低い。


『はは・・・。そうですか?』

『弟と喧嘩でもしたか?』

『いえ、してませんよ。』

『そうか。いつもの調子じゃなさそうだが。』

『あはは・・・。』


 そう言いながらも、青木大尉は皿やお椀を既に空にしている。次いでゆっくりコップの水を飲み干すと、彼は食器類を持って立ち上がりながら口を開いた。


『ま、明日までには調子を取り戻してくれよ。じゃあな。』


 青木大尉の言葉に、なにか気が乗らないでいる自分に忠は気づいた。訓練が延期になったからだけではない。どうしたと言うのだろうかと自問自答しつつ、忠は食事を終えて去っていく上司の背中にお辞儀をする。そしてふと手元に落とした視線はほとんど量が減っていない忠の分の食事を捉えるのだが、その瞬間に忠の薄れかかっていた食欲は完全に立ち消えてしまった。


カチャンッ


 端を皿の上に放り投げ、忠は夕飯を少し残して席を立つ。疲れただけだろう、そう思いつつも同時に年寄り臭い事を思った自分にあきれながら忠は部屋に戻った。

 なにか気分転換になるような事があれば良いが、航行中の艦にそんな物があろう筈もない。忠は時折グラリと揺れる艦の動きに合わせて肩を壁にぶつけながらも、部屋への道を歩く。


 こんな日はさっさと寝るか。


 そう思って開け慣れた部屋の扉を忠は開いた。





『遅〜〜〜い!』

『・・・。』


 そうだコイツが居たんだったな。


 いつも一緒にいる相方の明石を忠はすっかり忘れていた。明石は扉を開けてすぐ左側にある机の椅子に腰掛けて、頬を焼いた餅のようにぷっくりと膨らませている。


『森さん、お疲れ様です!』


 昨日知り合った霞もベッドに腰掛けている。部屋の電灯に負けない明るい笑顔は彼女の得意技だ。その横に水兵服を着たおかっぱ頭の見慣れない少女が座っているが、この面子から忠もすぐに彼女の正体を察してみせ、やがてその少女が放つ自己紹介の声で自分の予想が正しかった事を知る。


『お初どす。ウチは霰艦の艦魂の霰と言います。よろしゅうお願いします。』


 ふわっと立ち上がって敬礼する霰は霞の妹の筈だが、姉よりも落ち着いた感じの線の細い少女だった。これまた可愛い水兵さんである事に、忠の表情が綻ぶ。


『あ〜、やっぱり霰艦の艦魂か。オレは─。』

『待て〜!!』


 突然の海軍式号令、声を発したのは明石だ。曇った表情のまま忠の身体をジロジロと見回す彼女。


『・・・お菓子は?』

『あ・・・!』


 いつもの事ながらすっかり忘れてた忠。思わず出た声を聞き逃さなかった明石はニヤリと笑い立ち上がった。


『酒保開けの号令に接し、森忠少尉は直ちに出撃!』

『ごめん、忘れてた。でも行く前に一応、霰に挨拶させ─。』

『本日、天気雨天なれども酒保に影響なし!』

『あ、いや、挨拶を─。』


『霞二水! 抜錨!』

『あっははは! 了解!』


 霞がお腹を抑えて笑いながらも、さっき閉めたばかりの扉を開ける。忠は冷や汗を掻きながらも自分の両肩に触れた明石の手に気づく。振り返った忠の顔を明石がいつもの笑みで覗き込んだ。細身ながらも長身の明石は結構力が強い事を思い出す忠だったが、それに気づいた忠が何かしようという選択肢はどれも既に時を逸していた。


『いってらっしゃい、森さん!』

 

 霞がそう言い終わる前に忠は明石に押されて走り出した。後ろから聞こえるのは遠くなる霞の笑い声と、耳元で聞こえる明石のいつもの訳の解らない発言のみ。


『いざ、鎌倉〜〜!』

『お、おい、危ねぇって! どわぁ!!』





 こちらに向かって通路を全力疾走してくる忠に、酒保から帰る途中のの青木大尉は気づいた。艦の動揺でバランスを崩したのかと青木大尉は思ったが、それにしては奇妙な光景である。


『おう、森。どうし・・・。』

『あ、砲術長! どうも・・・。うわぁ!!』


 発艦する空母艦載機のように走り去っていく忠に、目を丸くして呆然とする青木。


『・・・変な奴だな。』


 そう言って口髭を指先で撫でながら、驚いた表情で忠が走り去った方向をしばらく眺めていた青木大尉だったが、すれ違う一瞬だけ見えた部下の表情を思い出して微笑んだ。


『はっはっは。ま、いつもの元気がでたみたいだな。探し物でも見つかったのか?』


 いつもどおりの部下の姿に、明日の訓練が上手くいく事を確信した青木は再び歩き出した。





 その夜も忠の部屋からは、賑やかな艦魂達の声が響いた。

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