第三九話 「艦魂として/後編」
朝日の診断結果を受けた長門は、深い赤色の絨毯の上にポツンと敷かれた枯れ草色の莚の上で仰向けになったまま、呆然として天井を眺めていた。舷窓から差し込んでくる光りの束と、甲板から響いてくる朝日艦の乗組員達の足音がどこか虚しい。
誰しも自分の骨格が曲がっていると言われて平然とできる物ではない。まして「健康第一」という言葉にはそれなりに気を使って生きてきた長門にとっては、朝日の言葉はまさに晴天の霹靂だった。
大事な大事な自分の背骨は曲がっているらしい。
その言葉を脳裏に過ぎらせる長門は、少しの間だけ思考が停止してしまう。帝国海軍艦魂の中では最も医療に長けた朝日に言われたのだから、長門でなくとも抜け殻のような姿になってしまうのも無理はない。
だが朝日は、そんな長門に相も変わらず慈愛に満ちた綺麗な笑みを向けている。珍しくいつもの元気がなくなってしまった長門には明石も心配そうな表情を向けているが、朝日に限っては決して後輩の身体を絶望的に憂いでいる訳ではない。異常が認められた後輩の身体に対して何をすれば良いのかが、朝日の頭の中には既に明確に浮んでいるのだ。そっと呆ける長門の頬を撫でるようにして手を添え、朝日はゆっくりと口を開き始める。
『ふふふ。大丈夫よ、長門。別に竜骨が曲がっている訳ではないのよ。決して命の危機に陥っている訳でもないわ。それに艦魂も人間もなく、大抵の人達は普段の生活が原因で背骨が曲がっている物よ。』
耳元で囁くように発せられる朝日の声を受け、焦点を悟らせなかった長門の瞳には再び秩序と光りが戻り始める。狼狽を通り越して茫然自失とする先輩の姿は、横からそれを眺めていた明石にとっても痛々しかったが、長門はやっとの事で我に帰って朝日に向けて声を返す。
『ほ、ホントですか・・・?』
『ええ。大して痛くもないでしょう?案外、こういうのは多いものよ。でも曲がってるのなら直せば良いだけ。明石もよく覚えておきなさい。』
『あ。は、はい!』
すっかり空気に呑まれていた明石が動揺しながら返事をしたのを朝日は認めると、膝元で仰向けになっている長門に視線を流して続けた。
『じゃあ、向こうに身体を向けて横になりなさい。今度は身体を伸ばさないで、逆に全身から力を抜くのよ。長門。』
『は、は〜い・・・。』
朝日の言葉に従って、長門は彼女に背中を向ける。治療してやるという先輩の厚意には感謝の念が絶えないが、どうにも何をされるのかが予想できない事から長門は小さな恐怖を隠せない。治療の様子を見る為に自分を挟んで朝日とは逆側にしゃがみ込む明石に、長門はどうすれば良いのか解らないと言いたげに困った様な表情を向ける。もっともそれは明石にしても同じであり、元気付ける為にちょっと歪んだ笑みを返してやるのが明石には精一杯だった。
無言で会話する二人を他所に、朝日は長門の上になった肩とお尻の辺りに手を添える。ちょっと困惑する長門が首を捻って視線を流してくるも、朝日はその視線に変わらぬ笑みを返す。
『大丈夫よ。ほら、向こうを向いて。力を抜くのよ。』
『は、はい・・・。』
困ったように返事をしながら長門は顔の向きを戻し、再び正面にしゃがみ込んでいる明石に視線を流す。
すると朝日は長門の身体に触れていた両の手に力を込め、彼女の身体をグラグラと揺らし始める。力を抜けとの指示を履行していた長門の身体は、まるでゴムで出来ているかの様に前後に揺らされて行く。
明石はとりあえず長門の表情に苦痛の類が表れていない事を確認し、視線を上げて朝日の手の動きをまじまじと眺めてみた。よく見ると朝日は長門の肩を押す時にはお尻の辺りに添えた手から力を抜き、逆にお尻の辺りを押す際には肩に触れている手から力を抜いている。その交互に動く様が朝日のやろうとしている何かのミソである事を明石は薄々ながら感じ取り、先輩から教えを学ぶ後輩の顔つきになってその光景を目に入れていた。
そして長門の身体を揺らし始めてからしばらく経った頃になって、突如として朝日は力の入った声を上げると同時に、長門の身体に触れていた手の動きにも力を込めた。刹那、そこには何とも心地良い程に綺麗な骨の鳴る音が響く。
『はっ!』
バキリ!!!
『わああああああああ!!!!!』
その余りにも華麗でハッキリと聞こえてきた骨の音に、当の骨を身体に宿している長門は悲鳴にも似た叫び声を上げ、甲板に打ち上げられて飛び跳ねる魚を思わせるかの様にして飛び起きた。さしもの連合艦隊旗艦である長門も余程ビックリしたらしく、ピョンッと飛び起きると同時に正面にいた明石に抱きつく。目を見開き、小さく肩を上下させて荒い呼吸をする長門。明石も初めて目にする長門の姿であったが、あれだけ盛大な音を響かせたにしては、長門の表情には苦痛の色がちっとも現れていない。寝たり起きたりでアチコチに刎ねた自慢の黒髪を直す事も忘れて必死に呼吸を整える長門だったが、その行為を行った朝日はさもそうなると予想していたかの様に笑い出した。
『あはは、みんなこうなるのよね。可笑しいわ。あははは。』
『あ、あ、朝日さん! 殺す気ですか!?』
どうやら今までに朝日がこの処置を施した人物は全て、この長門と全く同じ行動を取ったらしい。だがそれも無理はないだろうと明石は思う。それ程までに、部屋に響いた骨の音は大きくてハッキリと聞き取れたのである。むしろそれを身体の中から聞いたであろう長門の感想は、如何ばかりであろうか。そしてその感想を示した言葉が、つい今しがた長門が途切れそうな息で朝日に向けて発した声である事を明石は悟る。明石の予想通り、長門は死ぬかと思ったのであった。
しかし、それでも朝日は長門の感想など意にも返さないと言わんばかりに、心底愉快そうに笑っていた。師匠のその笑みが出るという事は、長門の身体には危機が迫っている訳ではない事を明石はなんとなく予想するも、当の長門がブルブルと震えて涙目になっている事で心配が消えない。手に伝わってくる長門の震えを掻き消す様に、明石は長門の肩を両手で擦ってやる。興奮収まらぬ長門とそれを介抱する明石であるが、やっと笑いが治まりかけた朝日が声を掛ける。
『別に死にはしないわよ。ほら、背中は痛くないでしょう?』
長門はその声を受けて、恐る恐る背中に自分の手を添えて撫でてみる。まだ少し耳に残る骨の音に恐怖を覚えつつも、小さく捻ってみた自分の背には痛みは全く無かった。
『た・・・、確かに・・・。』
『さあ、もう一度横になりなさい。今度は逆の体勢よ。』
『は、はい〜・・・。』
身体に異常が認められない事と先輩の屈託の無い笑顔に急かされ、長門は明石の身体に回していた腕を解いた。決して後輩に危害を加えようとしている訳ではない朝日の事は明石にも解っているが、先程の光景と長門の姿が瞼の裏に焼きついている明石の頭からは、心配の二文字が完全には消えない。頭と足の位置を逆にして朝日に背を向ける長門の身体をそっと撫でつつも、明石は朝日の表情に視線を向ける。それに気付いた朝日はなんとも涼しげな笑みを返し、右手の人差し指を目の縁に添えた。「良く見ておけ」というメッセージである事に明石はすぐに気付き、再び朝日の顔から手元の辺りに視線を流した。
その一方で、また同じ目に会わなければならない長門は、筵の上に横たわりながら今にも泣きそうな顔をしていた。腰まであろうかという長門の長い髪が、横たわった事で乱れて彼女の顔や首の辺りに無造作に垂れてくる。少し力が入らない指先でそれを肩の後ろに流して行く長門であったが、朝日はそれを手伝うようにして長門の頬に手の甲を添える。頬に伝わるその温もりに落ち着きを少しずつ取り戻していく長門。そしてそれを認めた朝日は、先程と同じように長門の肩とお尻の辺りに手を添えて口を開いた。
『これでおしまいよ、長門。しっかりしなさい。』
『は〜い・・・。』
『じゃ、いくわね。あ、力抜いてね。』
『は〜い・・・。』
長門の力が抜けた返事が響き終わると同時に、朝日は長門の身体をぐらぐらと少し荒っぽく揺らし始める。明石の予想通り、その動きはまたしても先程と同じで、肩を押すのとお尻を押すタイミングは交互であった。しばらくの間はこの様に患者の身体を揺らすらしいが、それは時間を気にしての物ではなく、骨格の捻れを読み取る事が目的であるのだと明石は悟る。それなりに軍医としての知識を身につけつつある明石は長門の事を気に留めながらも、その朝日の手の動きに軍医の卵としての視線を向けた。
そしてしばらくすると、二度目の綺麗な骨の音が長門の身体の奥から響いてきた。
『はぁっ!』
バキン!!!
『ふごおっ!! お、おぅお・・・、おおぉっ・・・!』
決して痛くは無いようだが、その感想は推して測る物がある。長門は飛び跳ねるような事こそなかったが、骨が鳴ると同時に身体を硬直させて大きく目を見開いていた。無意識に伸ばしたであろう左手は宙に浮かんだまま、小刻みに震えて彼女の驚きを表現する。
朝日は先程と同じようにその後輩の姿を笑いながら、長門の肩と腰を引き寄せて仰向けの体勢に寝かせた。背中に走った衝撃から来る驚きを隠せない長門であるが、朝日は強張った長門の頬を両手で抱えるように手を添え、まるでキスをするかの様に自らの顔を近づける。
『はい、これでおしまい。長門、私の声が聞こえるわね?』
『は、はは・・・、は・・・い。』
視界一杯に広がった朝日の笑みと囁くような声。その顔の両脇から垂れた琥珀色の髪が放つ独特の香りが、動転しつつあった長門の心を撫でる様に落ち着かせていく。硬直していた身体には普段のしなやかさが戻り、苦しかった呼吸が楽になっていく長門。
長門のそれは小さな変化であったが、軍医としての経験が深い朝日はそこから患者の沈静化を悟るのにそれ以上の変化を必要としなかった。朝日は長門の両腕に手を触れると、長門の動きを助けるようにして腕を頭の上の方に伸ばさせる。
『さあ、最初と同じように、万歳をするみたいに腕を伸ばしなさい。』
『は〜い・・・。』
どうやら仰向けで寝て、頭の上に手を伸ばす事で背骨の捻れが確認できるらしい事を明石は悟る。長門には申し訳ないが、貴重な臨床実験を垣間見る事ができた明石は、朝日の行動一つ一つに篭った意味を理解して大きく頷く。そして同時に、連合艦隊旗艦だろうが何だろうが朝日にかかってはモルモットとして扱われる事をよく理解し、それとなく明石は師匠の前ではお行儀良くしようと心に誓った。
明石がそんな事を考えている内に、長門は朝日の助けを借りながら、伸ばした先で合掌した両手を顔の前まで下げていた。先程はそこにあった光景から自らの身体の異常を思い知らされた長門だったが、朝日とて長門をただイジめていた訳ではない。それを証明するかのような光景が長門の視界にはあり、彼女はその驚きから先程まで味わっていた恐怖をすっかり忘れて声を上げる。
『う、うっそおお〜〜〜!!』
『おおお〜!』
『ふふふ、言ったでしょう?曲がってるなら直せばいいだけよ。』
長門の両手の指先は定規につき合わせたかの様に、ピッタリと揃っていた。恐らくはこういう結果になるだろうと予想はしていた明石も、さすがにそれを証明する光景を目に入れると新鮮な驚きが込み上げてくる。長門はもう一度だけ頭の上に手を伸ばし、拍手を打つかの様にして両手を合掌させると顔の前まで下ろしてみる。やはりそこにあったのは、しっかりと両手の指先が揃って合掌された手だった。その光景に長門はやっと持ち前の笑みを取り戻し、便乗して微笑む明石と一緒になって声を上げる。
『すんげ〜え〜!!』
『ホントに治った!』
すっかり明るくなった二人を他所に、朝日は立ち上がってソファに向かって歩み寄っていく。久しぶりに力を入れた事で疲労を感じたのか、自らの肩に手を乗せて軽く揉みながら、朝日はソファに音も立てずに腰を下ろした。歓声にも近い声で騒ぐ明石と長門は朝日の後に続き、対面する形で向かいのソファに座る。背骨の捻れを解消できてご満悦な長門が大声で笑う中、明石はその見事な治療法に興味を持って朝日に尋ねた。
『朝日さん、今のは外科医学になるんですか?』
『ふふふ、違うわ。手技療法の一つで、整胎術って言うのよ。米国のカイロプラクティックと似たような物ね。』
早速、明石は朝日の言葉をノートに記していく。いくら軍医の知識と技術を習得していると言っても、医療用の道具や薬剤を用意する事は艦魂としてはとても大変な事であり、明石が今朝の様に大量の食べ物を胃袋に流し込むのは、その用意にかなりの体力を消費しているからである。有限である医薬品の貴重さは文字通り自らの命と同義であるのだが、それを一切使わずに素手で治療を施せる朝日の技術は、明石にとってはとても魅力のある物であった。鉛筆を走らせるのもそこそこに、明石は向かいに座った朝日に膝を詰めるかの様に身体を近づけてさらに質問した。並々ならぬ興味を抱いた時に明石の顔に浮かぶ子犬のように輝く目を認め、朝日は嬉しそうに微笑んでそれに答える。
『う〜〜ん、何かの薬剤とかとの併用はあるんですか?』
『いいえ。私が用いる整胎術の大元は、日本古来から伝わる柔術や柔道といった武道の中にある自己治癒療法にあるのよ。だから他の医薬品なんかとの併用はないわ。』
『じゅ、柔道、ですか・・・? 朝日さんが?』
突然出てきた自分の乗組員達も行っている柔道の言葉に、明石は首を傾げてしまう。日本独自の武道の中に治療に関する技術があるとは神通から教えてもらった事がある明石だが、話だけで実物を見た事がなかったので彼女は困惑した。ましてそれを施した朝日は清楚で物静かな大人の女性像を持っており、危なっかしい柔道を嗜んでいたとは明石には想像できない。高い鼻に彫りの深い顔、赤みがかった茶髪という完璧な西洋人の外見を持つ事も、明石の中では朝日と柔道の接点を結ぶ事を遮るのだった。
首を左右に捻ってその謎を考え込んでいた明石だったが、突如、彼女の隣にいた長門が明石の頭に手を乗せてきた。
『そっか、言ってなかったっけ。朝日さんはね、帝国海軍の中じゃ右に出る者が無い程の柔道の達人だったのよぉ?』
『うえぇえ!?』
『ふふふふ。敷島姉さんも三笠も、私には勝てなかったのよ。もちろん長門もね。』
初めて知った朝日の経歴に仰天する明石。彼女がこれまで見てきた朝日は絵に描いたような貴婦人であるが、その昔は並ぶ者の無い柔道の実力者だったのだという。争い事とは無縁である様な風貌と人柄を持ち、時には戦艦の艦魂である事をも忘れさせる程の朝日であるが、それをイマイチ信じる事ができない明石の耳には二人の会話が響いてきた。
『確か、13勝だったかしら?』
『えへへ、よく覚えてますね。あ、でも1回だけ引き分けた事が─。』
『長門〜、その事は言わない約束よぉ。』
『げっ・・・! し、失礼しました・・・。』
どうやら連合艦隊旗艦の長門ですらも、13度戦って一度も朝日には勝てなかったらしい。
細身の明石と違って長門は肩幅も広く、筋肉質とまではいかないが中々に体格の良い人物である。以前、那珂から聞いた所によると、金剛型と扶桑型、伊勢型という戦艦の艦魂達が束になっても敵わないくらい、長門は喧嘩が強いらしい。大らかな性格以外では頭も良く、整った綺麗な顔立ち、スラッと長い脚と供に女性らしいの一言に尽きる見事な身体のラインを持ちながら、ついでに喧嘩も強い。やればできる子とは本人の弁だが、明石はその言葉を笑いながらも疑った事は無い。それぐらい凄い艦魂が、この長門なのである。
ところがそんな長門は、明石の師匠である朝日に対しては手も足も出なかったのだという。「上には上がいる」という言葉があるが、今の明石にとってはその言葉は朝日を表すのに的確とは思えない。彼女の脳裏に浮かんだ朝日を表す言葉はただ一言、「別次元」であった。感動を通り越し、ただひたすらに引きつった笑みで朝日を眺める明石。いつもの様に咲き乱れる花のような笑みを浮かべる朝日の顔が、明石の胸の中に一際強い尊敬の念を湧かせていった。
ちなみに後から口を噤んだ引き分けの真相を長門に聞いた所、朝日が体格の良い長門と取っ組み合った拍子に腰痛を起してしまった、との事であった。明石はその可笑しさに笑っていたが、その内に記憶に残っている朝日の綺麗な笑みと朗らかな人柄がなんだか無性に怖くなった。故に彼女もまた、その話題を封印する事に決めた。考えれば考えるほど、朝日は怖いお人であった。
それからしばらく経ち、一通り朝日の説明を受けた明石がノートに書き綴った内容を整理していると、ふと朝日はある事に気付いて明石の身体の上から下へと視線を流す。細身の彼女に対して、隣に座る身体が大きい長門の方がよく目立つ為に今まで気付かなかったが、意識を集中させて明石の身体を眺めた朝日は長門と少し似た違和感の様な物を彼女の身体に認めた。
テーブルに置いたノートに身を被せる様にして、消しゴムを押し当てたり鉛筆を走らせたりしている明石。師匠の行動にも気付かずにせっせと新たな知識を吸収しようと必死な彼女であったが、頭の上から響いてきた朝日の声に動きを止める。
『明石。』
『はい?』
『ちょっとその場に立ってみて。』
『え・・・、あ、はい。』
いきなりの師匠の言葉に何が何だか解らないまま、明石は手にしていた鉛筆をノートの上に置いてその場に立ってみせた。特にどこかに力を入れるわけでもなく、ただ普通に立った姿を見せる明石は、朝日が何かを含んだ様な視線で身体を這わせていく事にちょっと眉をしかめる。
そしてそれまで黙って教え子の身体のあちこちに視線を配っていた朝日は、やっとの事でそこに抱いた違和感の正体を知り、小さく俯き深い溜め息を放ってから声を上げる。
『ああ、そうなのね・・・。そうよね。今まで明石とは、この部屋でしか会った事が無いものね・・・。』
まるで独り言である朝日の言葉の意味は、明石にはトンとよく解らない。どこか自分の身体に変な所があったのかと明石は視線を向けてみるが、特にいつもと変わった所は無い。しいて言えば、非常に女性らしさが際立った胸のラインを持つ長門とは違って、何の障害も無く自分のつま先が見えてしまう事が鼻にかかるくらいだ。ちょっとした自己嫌悪に駆られながらも、落ち度らしい落ち度を認められなかった事に明石は眉をしかめて視線を朝日に戻す。
すると朝日はちょっと困ったような表情で口を開いた。
『貴方の背骨にも変なクセがついちゃってるわ。きっと歩き方が悪いのね。』
『えええ!』
『あ、でも長門みたいに捻れてるのとはちょっと違うのよ。ただ、ちょっと悪いクセがついてるの。』
長門とは少し違うのだと言われるものの、明石は朝日の言葉を受けて衝撃を隠せない。明石も長門と同じように健康には気を使って過ごしてきたつもりだし、そも軍医の階級を頂く者が不健康であるというのは明石としても論外であると思っていた。だが彼女の師匠が言うには、そんな自分の身体にはクセという名の異常があるらしい。明石が驚くのも無理は無かった。
そして声も出せずに口を開けたまま立ち尽くしている明石の横からは、それを助長する長門の声が響いてくる。
『あ〜〜〜、言われてみれば確かに・・・。なんか・・・猫背だよね、明石は。』
朝日の言葉をそれとなく耳に入れていた長門は明石の身体を真横から見ていたが、その事が明石の身体の異常を、軍医としては素人である長門ですらも見て取れる程によく伝える。『ぇぇぇ・・・。』と小さく呻き声を上げながら長門に言葉を返す明石。
だが朝日は、その理由が明石の生い立ちにある事をすぐに察した。そして同時にその考察は、明石の師匠としての朝日にある種の罪悪感をもたらす。故に朝日はすまなそうに両手を顔の前で合わせながら、その事を明石に教えてやる事にした。
『ごめんなさいね、明石。私の不注意だわ。』
『は・・・はい?』
『私達艦魂は生まれてすぐに艦魂らしい「立ち振る舞い」という物を覚える物なのよ。普通は姉妹がお互いの姿勢や歩き方なんかを注意しあったり、師匠たるべき人から教えられて身に付けていくんだけど、明石には姉妹がいなかったのよね。』
『た、立ち振る舞い、ですか・・・?』
『本当にごめんなさいね。いつもここで座っての教育ばっかりだったから、今まですっかり忘れてたわ。』
平謝りする朝日の姿から、明石は長門の様に恐怖を伴った処置をされる可能性が無い事を予想し、ほんの少しだけ安堵して胸を撫でる。しかしこれまでの生活で初めて出てきた「立ち振る舞い」という言葉に、明石はその意味を理解する事ができなかった。こめかみに人差し指を添えて頭を捻る明石だったが、朝日はそんな彼女に論より証拠とばかりに実物を見せてあげる事にした。朝日は長門に向かって、手を上下させて合図を送りながら続ける。
『私達は人の形をしているけれども立派な船の命。そこに乗組んでいる人間達には見えなくとも、私達は命としての威厳と気品を持っていなければならないわ。しっかりとした心構えに博識さ、立ち方や歩き方に至るまでね。人間の言葉を借りれば、私達は一流の淑女でなければならないのよ。明石。』
朝日はそこまで言うと、明石から彼女の隣に座っていた長門に視線を流す。
『長門、艦魂らしい歩き方を見せてあげなさい。』
『は〜〜い!』
元気の良い返事をした長門は立ち上がると、背後の奥にある部屋の扉の辺りまで歩いていった。
長門の後姿を目で追いながらも、「猫背」と断定されてしまった明石はちょっと落ち込んでしまう。ましてそれは艦魂であれば誰でも当たり前に身に付けている物、という朝日の言葉も、当の朝日にはそのつもりは無くとも明石にとっては辛い言葉であった。
他の艦魂には姉妹がいるのに自分にはいない、他の艦魂が当然の様に身に付けている事を自分だけは持ち合わせていない。
天涯孤独の身である明石には、そういう他人との違いを思い知らされる事が何にも増して悲しい事であった。
しかし朝日とて、明石をしょんぼりとさせる為にそんな事を言ったつもりは微塵も無い。曲がってるなら直せばいいし、知らないなら教えてやれば良い。持っていないのなら与えてやれば良い。そんな思いを胸に秘めている朝日は、そっと明石の隣まで歩み寄って腰を下ろす。抱き寄せるかのようにして明石の肩に手を触れ、明石に優しさの篭った笑みをすぐ近くで見せると同時に彼女は言った。
『明石、今から長門が歩く様をよく見ておくのよ。』
『あ、はい・・・。』
不思議と師匠の笑顔と彼女の手から伝わってくる温もりは、いつも明石のへこたれそうになった心を撫でるかの様にして静めてくれる。なぜだか師匠がすぐそばに居る時、明石はとても居心地の良い感覚を覚えるのだった。包み込むように愛情を注ぎ、色々な事を教えてくれる朝日は、明石の心に「母」という言葉を何となく浮かばせる。そして明石もまた、そんな朝日の放つ雰囲気に身を浸す様にして口元を緩めた。
『さあ、長門。歩いてみせなさい。』
笑みを取り戻した明石に朝日は安堵すると、扉の前で待っていた長門に向かって声を発した。明石が無意識に放っていた暗い雰囲気が消え失せ、師匠と二人で笑みをたたえている事に長門も同じ表情を浮かべると、大きく返事をして真紅の絨毯の上に足を踏み出す。
腰に右手を添えてお尻を左右に大きく振り、長い黒髪を左手で掻き揚げながら歩く長門。前に差し出した脚はピンと伸びて、第一種軍装の上からでも解る程の独特の流線を明石の目に焼き付ける。そして明石の目の前まで歩いてきた長門は身を翻すと、羽織るように着ていた上着の裾がふわっと舞い上がり、肩から腰に至るまでの長門のメリハリのついた身体つきがあらわになる。その女性らしさを爆発させた長門の姿に明石は目を大きく輝かせ、当の長門もまた自分の美しさを誇るようにして澄ました笑みを浮かべる。
『か、かっこいい〜〜〜・・・。』
『ふふ〜〜ん、女はこれくらいじゃないとねん。』
すっかり先輩の美しさにはしゃぐ明石であったが、長門は言い終えてすぐに、その明石のすぐ隣に座った偉大な先輩が向けてくる視線に気付いて笑みを凍りつかせる。実に朝日らしい綺麗な笑みがそこにはあったが、それは彼女を師匠と長年崇めてきた長門には恐ろしい事この上ない代物であった。そしてすぐに口元を引きつらせたまま固まる長門に向けて、朝日はなんとも優しげな音色での声を放つ。
『誰がそんな歩き方を教えたの、長門?』
『でへへへ・・・。す、すいますぇ〜〜ん・・・。』
突然の長門の変化に戸惑う明石は、頭を掻いて苦笑いする長門と至って普通に微笑んでいる朝日に交互に視線を送る。すぐそこにある朝日の顔は先程からちっとも変わらない物であるが、長門は明らかに自分の至らぬ所を恥じている様に明石には見えた。どうやら朝日が意図していた歩き方ではなかったらしい。そんな言葉を明石が脳裏に過ぎらせると同時に、それを確信させる言葉を朝日は言った。
『明石、あういう歩き方は身体を壊すわ。真似しないでね。』
『は、はい。』
『長門。やり直し、基い。』
『はいはい〜・・・。』
長門は大きな身体を縮こまらせて、そそくさと扉の前まで戻って行った。先程までの美しさはどこへやら。ビクビクとしながら両手を前にして背を丸めて歩いていく長門の姿に、すっかり悲しみを心の内から消した明石は正直な感想を口にする。
『うわっ、かっこわる。』
『う、うるさいなぁ〜・・・。今度はちゃんとやるから見てなさ─。』
『最初からちゃんとやるのよ、長門。ふふふ。』
『そ、そ〜ですよね〜・・・! あ、あははは・・・!』
物凄くわざとらしく笑った後に、長門は一呼吸置くと僅かに表情に力を込めて顔を上げた。不思議な事にその瞬間、スイッチが入ったかの様に長門の雰囲気は変わる。ピンと張り詰めた糸の様に緊張感があり、光りを放つような荘厳な空気を身に纏った長門。
明石がその変化に気付くと同時に、長門は再び足を踏み出し始めた。まるでマストの様に天に向かって伸びた背筋と、静かながらも重みのある靴音を響かせて歩み寄ってくる長門は、明石の目には別人のように映る。偉大、厳か、悠然などといった小難しい言葉が脳裏に過ぎり始め、先程よりも遥かに綺麗な長門の歩く様に、明石は呼吸も忘れる程に静かに見入った。すぐそばまで歩み寄ってきた長門の顔には、お気楽なお姉さんの色がどこにもない。無言で視線を向ける明石であるが、長門はフッと小さく笑みを向けると、すぐに朝日に視線を流して呟くように言った。
『朝日さん、本を。』
その言葉を受けた朝日は、無言で長門にテーブルの上にあった本を手渡す。すると長門はそれを頭の上に乗せ、すぐそこで呆然として視線を送ってくる明石の頬に手を触れた。
最早神々しいまでの感覚すら覚える長門の姿に、明石は吐息以外の一切の行動を取る事ができない。何気なく触れてきた長門の手も、その手を伝った先にある長門の表情も、どこかずっと続く水平線とそこにうねる波の様な感じを明石に与える。そして彼女は悟る。これが帝国海軍連合艦隊旗艦、長門艦艦魂の真の姿なのである、と。
長門は何も言わないまま明石の頬から手を離し、背を向けると同時に元の扉の前まで歩いていった。特にゆっくり歩いているわけでもないのに、長門の頭に乗った本は落ちる気配すらない。それをずっと目で追っていた明石に、横から朝日が囁くように声をかけてきた。
『あれが船の命である艦魂の歩く姿なのよ、明石。私達はその分身を人間に造られながらも、一般的にはその姿を信じられていない存在だけど、決してその事が私達の存在価値を下げる訳ではないの。必死にこの世を生きるという命としての在り方は、人間と私達は同じなのよ。だから人間には負けないくらいに気高く、誇りを持ち、品のある生き方をしなければならない。艦魂として、私達がこの世にあり続ける為にもね。』
朝日の言葉に明石は黙って耳を傾けていた。
これまで明石は、人間と艦魂という存在の違いをあまり考えないように過ごしてきた。唯一の工作専門艦として生を受けた明石は、生まれてしばらくの間は帝国海軍の中でも浮いた存在であり、その境遇から起きる苦しみを分かち合う姉妹も彼女にはいない。そんな中で運良く知り合った人間の相方だけが、明石の寂しさを和らげてくれる存在であった。だが一緒に過ごす中で、その存在の仕方が違う事を彼女は感じる時が多々有り、その度に明石は艦魂と人間の違いという物を少し疎ましく思っていた。人間らしいとか艦魂らしいという考え方は、明石にしたら相方と自分の間に明確な線を引くような感じがしてならず、自分が艦魂である事をなるたけ意識しないようにして彼女は過ごして来た。
だが瞼の裏に焼きついた長門の姿と今しがた受け取った師匠の言葉に、明石は考えを改める。
自分と相方は存在の仕方は違うが、この世に生きる命という点では違いなど元より無い。それなら人間は人間らしく、艦魂は艦魂らしく生きれば良い。それはお互いを違う存在として捉えるような物の見方をする事ではなく、お互いが精を尽くして供に生きようとする事。どちらかが身の程を忘れて相手に媚びるような態度をとるのは、供に生きる者同士として礼を失するのではないのか。空を飛ぶ鳥、海中を泳ぐ魚、いつも同じ場所にて風と踊る草花や木々。それらは人間達と供に生きる過程で、人間に迷惑をかけないようにとか、人間の生活に完全に同化した在り方とかで存在などしてはいない。利用できる所は徹底的に利用しつつも各々が多用な姿形を維持して生きている。狡猾とも言えるかも知れないそんな在り方は、自身の身の程をよく知った上で尚なんとか生きる場を供にしようとする試行錯誤の光景その物だった。
そこまで考えた明石は、この時、自分がそんな命としての当たり前の試行錯誤を怠けていたのかとふと感じると同時に、そっと顔を上げて扉の前で楽な体勢に戻って立っていた長門に視線を向ける。ついさっき長門が見せた姿は、朝日の声を聞いて感じ始めていた艦魂としての「気品」が溢れていた。たかが歩き方一つであるかもしれないが、いまの明石にとってはそれこそが今朝方友人から言われた事だったのではないかと思えてならない。そして何より、同じでありたかったという想いはあるものの、そんな「気品」を纏った自分の姿を相方が見たらどんな顔をするだろう、という想いが明石には強く込み上げてきた。
しばしの間、3人が居る部屋は沈黙によって支配されていたが、その沈黙を破ったのは明石のキッと力の入った声だった。長門と朝日の笑みに包まれながら、強い決心をした明石の声が辺りに響き渡る。
『朝日さん。歩き方を習えば、猫背は治りますか?』
『ええ。普段の歩き方を変えれば、根本から治す事になるからね。』
『教えてください! お願いします!』
残り僅かとなった朝日による明石の教育だが、この日から残りの日数を使って明石の猫背矯正が開始された。連日の歩き方の矯正に明石は四苦八苦し、毎日の様に襲ってくる全身の筋肉痛に苦しみながらも、彼女は決してその教育を投げ出そうとはしなかった。
今まで蔑ろにしてきた、艦魂としての大事な事をちゃんと身に付けよう。今も同じ空の下のどこかで、人間として必死に頑張っているであろう相方に対して、艦魂として未熟なままの自分では不公平で嫌だ。
そんな言葉を必死に胸の中で唱えて励む明石だった。
◆要注意事項◆
作中にて朝日が行った整体は、作者が以前に整体師の友人からして頂いた処置を参考にして書いた物ですが、素人がやると大変危険な事になります。
良い子の読者皆様にあっては、絶対に真似をしないよう深くお願い申し上げます。