第三八話 「艦魂として/前編」
昭和15年5月19日。
太陽が今日も東の空より顔を覗かせ、空の色から赤い色を失わせて綺麗な青に変えていく頃、明石艦艦内にいつもの号令が掛かる。
『総員起こし! 釣り床納め!』
耳をつんざくような声がスピーカーより響き、布団に包まれていた明石の睡眠が覚めかけてすぐに、スピーカーからは一日の始まりを伝える起床のラッパが鳴り響く。そのラッパの音を掻き消すかのように艦内から兵員達の飛び起きる音が木霊する中、明石はゆっくりと横にしていた身体を起した。特に痒いわけでもないのに無意識に頭を掻きながら、大きなあくびを明石は放つ。
『んっ・・・、ふぁあぁ〜・・・。』
顎が外れるかの様に大きなあくびだが、それと同時に冷めて重かった瞼に力が入るようになった明石は、左右の目を片手で交互に擦りながら部屋のあちこちに視線を配った。いつもの様に波に打たれる微かな音に包まれ、まるで槍を突き刺したように舷窓から伸びる陽の光りは、明石が起きた事で舞い上がった埃やチリをキラキラと輝かせている。何か変わった所を部屋に認めなかった明石は安堵するが、本当ならそこに居て欲しかった同居人を彼女は一瞬だけ思い出してしまう。
ちょっとだけボーっとしてしまう明石だが、けたたましく廊下を掛けていく乗組員達の足音が彼女を我に帰らせた。布団から引っこ抜いた両脚を床につけ、ゆるく唇を噛んで明石は立ち上がった。ちょっとフラフラとしながらも部屋の片隅にあるクローゼットまで歩くと、明石はそれまで身を包んでいた寝巻きの帯を解いてクローゼットの奥で畳んであった第一種軍装に着替え始める。
最近、明石は思い出にすがる事を止めた。海に泣いても涙は吸い込まれ、空に向かって叫んでみてもその声は返ってこない。自分の愚かさと耐え切れない寂しさが圧し掛かって、そんな風に過ごしてきた数日で大いに苦しんだ明石だったが、友人に諭された事によって彼女は何かが吹っ切れた。
きっと彼は戻ってくる。きっと想いは同じ。思い出からくる今の辛さは、馬鹿だったこの間までの自分が払った高い授業料。
今日もその言葉を胸の奥で呟きながら明石は第一種軍装を身に纏うと、まだちょっと寝癖が残る頭に軍帽を乗せてクローゼットの扉を閉めた。いつもは首の後ろで束ねている長い髪を振り回すようにして明石はクローゼットに背を向け、椅子に掛けて干してあった手拭いを手に持つ。頭を左右に傾けて首の骨を鳴らしながら、明石は部屋の扉を開けて洗面へと向かった。
洗面所の端っこで、自分の姿を見る事のできない乗組員達に混ざるようにして明石は顔を洗う。この時間だけ蛇口から出てくる真水は艦内生活では貴重品であり、時には機関の余熱を用いて造水される事もある真水は、艦魂にしたら自らの血を使ってできた副産物のような物だ。もっとも排泄物という訳では決して無いので、明石はそんな不思議な事を考えながらも両手ですくった水を顔に擦り込ませ、僅かに残っていた眠気を完全に追い出した。
続けて明石は、酒保から失敬してきた人間も使う歯ブラシと歯磨き粉を使って口の中を泡立てていく。
最近になって師匠と供にお勉強し始めた所によると、歯という物は磨きすぎてもダメらしいとの事で、その辺の適量はどこなのだろうと考えながら、明石は口に突っ込んだ歯ブラシを上下左右に動かす。
横からは『染みる〜。』等といった乗組員達の声が響いてくるが、お勉強した所によるとそれは虫歯等といった歯に関する病気らしい。
基本的に病気とは無縁である艦魂にしてその端くれである明石は、隣で苦しむ乗組員達を鼻で笑いながら歯磨きに精を出した。
うがいと供に水で口の中から歯磨き粉を洗い流し、鏡に向かって口を開いてみる。今日も白い自分の歯は、無いと解っていながらも確認しようとした明石に虫歯がない事を伝えた。八重歯なぞ一本もない自慢の歯並びの良さを確認し、小さく微笑みながら明石は歯ブラシに指を当てて洗う。
明石が手にする歯ブラシも歯磨き粉の容器も、元々は人間が作った物であるから実体が有るのだが、艦魂とは便利な物で白い光りで包んでやれば、それらは自分達と同じように人間の目には見えないようになる。以前明石がそれを忘れて銀バイした缶詰を持ち歩いた際、ふわふわと宙を飛んでいく缶詰を目撃した乗組員達によって幽霊騒ぎが起こった事があった。その失礼な物言いに明石は頬を膨らませながらも、いわくつきの艦とされて廃艦処分となりたくなかったので、それからは艦内の生活では色々と気を使っている。自分の分身であるにも関わらず、そこに気を使わなければならないのが艦魂の不便な所でもある。
洗面所に来た時と同じ様に白い光りを指先から放って歯ブラシと歯磨き粉を消し去った明石は、部屋へとは戻らずに烹炊室のある艦尾へと向かっていった。
相方が居なくなってからという物、毎朝の朝食の確保は艦魂である明石のもっとも肝を冷やす瞬間である。
士官用の烹炊所の方が料理は幾分豪華なのだが、元来明石艦に乗組んでいる士官の数は決して多い訳ではないからそこに用意される食事の量もそんなに多くはなく、いくら頑張って銀バイしようとしても足りなくなるとすぐにバレてしまう。一度だけ明石はここから食事を拝借した事があったが、その時は付近にいた主計兵がつまみ食いしたとされて、川島主計長から酷くお説教されてしまったのである。可哀想にも平手打ちされる主計兵に自分の軽率な行動をすまなく思いながらも、餓死する訳にもいかない明石は根本的に作る量が多い兵と下士官用の烹炊所から食事を調達する事にしたのだ。
廊下の入り口から頭だけをひょこっと出して、烹炊所の中の様子を窺う明石。現実には彼女の姿は乗組員達からは見えないのでコソコソする必要もないのだが、乗組員の食事を奪うという事実からどうにも気が引けてしまう今の明石の脳裏には、その様な冷静な考えは浮かんでこない。
幸い食事を入れる運搬函は入り口すぐ脇の棚にたくさん収納されている為、明石はすぐさま手を伸ばし、触れると同時に白い光りを放って人間には見えない運搬函を用意する。有り難い事に今日の朝食はパンを主食とする洋食で、おかずは4枚のハムとキャベツとトマトのサラダ。それは皿の数も少ないし、スープを除けば少々手荒く扱っても散らばるようなお料理ではない事を示す。視線を流して各々の獲物の場所を頭に入れた明石は、意を決して烹炊所の中へと突貫。
1分もしない内に明石は烹炊所の中を駆けずり回ると、何事も無かったように烹炊所から通路に出た。美味しそうな香りを放つ西洋風のスープは確保できず、次々と野菜を切っている主計兵の横からトマトを盗もうとして危うく指を叩っ切られる所だったが、仰け反って転んだ拍子に明石は調理台の下にあった自分の二の腕程もあるハムの塊を発見。棚からぼた餅を地で行く勢いで、それを運搬函に押し込む事に明石は成功。無意識にその表情を明るくさせた。
蓋を押し退けてにょっきとパンが生えた運搬函を片手に、意気揚々と通路を歩く明石は快晴の天気を舷窓の外に認める。穏やかに空を映す波間は風が弱い事を、雲一つ無い空は雨が降る可能性が限りなく低い事を明石に伝えた。
こんな日はお外で食べようか。
そんな言葉を脳裏で呟き、手に伝わる戦利品の重みがなお嬉しい明石は、弾むような足どりで艦橋天蓋の上へと向かった。
艦橋上部にある測距儀のハッチを開けると、そこには明石が予想したとおりの見渡す限りの青空が広がっていた。時折そよそよと頬を撫でていく涼しい風と、それに乗って空を気ままに散歩するカモメ達の泣き声が響く。まだ課業始めの号令がかかっていない海軍工廠とは静かな物で、天蓋の上に腰を下ろした明石を遮る物は眩し過ぎる程に輝く太陽のみだ。
もっとも明石はそれを邪険に思うことは無く、横に置いた運搬函の蓋を開けるとさっそくパンを口に運ぶ。ちょっと固めのパンであるがその分しっとりとした歯応えがあって、食べ甲斐があるという物だ。すっかり上機嫌な彼女はまだ口の中にパンが残っているにも関わらず、本日の大戦果であるハムに手を伸ばした。箸やスプーン等といった食器の類を持ってくるのを忘れた事に気づくものの、明石は特に気にも留めずに素手で鷲掴みして運搬函から取り出す。口に合う大きさでは決して無いハムの塊であるが、なんの憂いもなしに明石はかじりついて強引に引きちぎる。
『お前なあ、もうちょっと上品に食えんのか?』
辺りに立ち込める風や波の音を遮る様にクチャクチャと音を立てて頬を動かしていた明石だったが、背後から響いてきた凛とした声に彼女は口を動かしながら振り返る。そこには呆れた様な表情で笑う神通が立っていた。今日も自分を気にして朝から顔を見せてくれた神通に、明石は口にパンを差し込みながら声を返す。
『むお、神通。』
『ふん、まったく・・・。』
軽く肩を上下させて溜め息をつくと、神通は明石の横まで歩み寄って腰を下ろす。神通は今の明石の行儀の悪さに心底呆れてはいるが、決して彼女を嫌いな奴だと思ってはいない。
ここ最近では、相方との別れから立ち直りつつある明石。聞き飽きた程に耳に響いていた彼女の嗚咽に苦しむ声も、見飽きた程に目に映っていた涙で塗れた彼女の顔も、ここ数日の間はなりを潜めている。元来大人しい性格ではない明石が何となく歯切れの悪い返事をする事は、彼女の友人である神通には辛い事この上なかった。それでもこの頃は持ち前の明るさを取り戻し、今に至ってはちょっと非常識な食べ方をする明石の姿は神通の口元を自然に緩ませてしまう。
恐らく受け取ると予想はしながらも、神通は片手にしていたおにぎりを明石に差し出して声を放った。
『随分と手に入れたようだな。これはいらんか?』
『ん、いる〜!』
神通に声を返した明石はすぐさま神通の手に手を伸ばし、そこにあったおにぎりを分捕ると、ペロリと口に放り込む。噛んだか噛んでいないのか、口を膨らませて2、3回ほど頬を上下させると、明石は何事も無かったかのように喉を鳴らしておにぎりを飲み込んだ。
一瞬にして心遣いを消化してしまう明石に神通は笑いを隠せず、便乗して笑う明石と一緒に声を上げた。
『ふっふっふ。』
『ふふふふ、何よ?なんで笑うのよ?』
『まだまだガキだと思ってな。』
『うえぇ?なんでぇ?』
明石は僅かに眉をしかめて、神通に睨みを含んだ瞳を向ける。ぶっきらぼうな物言いながらも心優しい友人の事は理解している明石だが、神通の放った言葉にちょっとだけ鼻にかかった部分があったのは事実だった。
一方、神通はそんな明石の表情すらも可笑しく、いつもは日本刀の様な鋭さを持つ瞳を丸くして明石の顔を見つめる。20代半ばの外見を持つ神通は人間の世界ではまだまだ若いが、艦魂としては既に十年以上も励んできたベテランであり、言わば万年中尉。昨年に就役したばかりのやっとこ少尉である明石は、彼女から見ればまだまだ尻の青い新米艦魂なのである。
まだその事が良く理解できていない明石がちょっと口を尖らせる中、神通は艦魂としての大事な事を教えてやる事にした。
『お前には艦魂としての大事な物が欠けてる。私達はそこらにいる人間の女とは違うんだ。』
あくまで神通に悪気が無い事は解っている明石だが、その遠まわしな言い方と少し侮蔑の混じった神通の視線に苛立ちを隠せない。その鬱憤を込めたかの様に明石は力強く口に含んだパンを噛み、飲み込むと同時に神通に声を返す。
『なにそれ?勿体つけずに言ってよぉ。』
『ふん。』
明石の言葉を受けた神通は鼻で一度笑った後、片手をゆっくりと正面に向かって伸ばした。まるで目の前を通り抜けていく風の帯を撫でるかのように指先を流し、その内にふと神通は明石に顔を向けて答える。
『・・・気品だよ。』
『きひん〜?』
明石はその言葉の意味が良く解らず、パンをかじりながら首を捻る。元来、医学以外に聡明ではない明石であるし、艦魂としても新米である事からその必要性もいまいちピンと来ない。それにそれを口にした友人は普段からげんこつを振り回す典型的なドカタであり、お世辞にも品があるとは言えないからだ。明石は無意識に疑惑の視線を神通の足から頭へと流してしまい、それに気付いた神通は明らかにムッとした表情を向ける。彼女はスッと立ち上がると、その場で腕組みをして眼前に広がる海を眺めた。
『ふん。これが解らんのなら、お前はまだまだだ。そんな事では森が戻ってきたら泣くぞ?』
決して明石をいじめようとする気は無い神通の事は明石も知っており、容赦なく自分の未熟さを指摘されながらも、明石は腹を立てることは無かった。それどころか、どこか勝ち誇った表情を浮かべて海を眺める神通に明石はニヤリと口元を引きつらせて、先程から脳裏を過ぎる疑問を率直に神通に投げる。
『ふ〜〜ん。部下に八つ当たりするのが気品なんだ?』
『ば、馬鹿者が!』
ゴン!!
『いでッ・・・!』
それから暫く経った頃。
朝食を食べ終えた明石は、今日も師匠からの教育を受けるべく朝日艦の甲板に白い光りを纏って姿を現した。甲板に足が着くと同時に、彼女は頭にできたおおきなタンコブが発するズキズキとした痛みに襲われてその場にしゃがみこむ。タンコブを撫でながら涙目で痛みに耐える今の明石は、ちょっとだけ友人の事を憎らしく思う。いつもの事とは言え、冗談に対して返ってくる神通の答えは軽いと言えどもこれ程までに痛いげんこつ。
一体これのどこに気品があると言うのだ。
小さく『グスン。』と声を発して涙を飲み込みながら、明石は朝日艦の甲板を歩き出す。
だがその歩みはすぐに止まった。明石が顔を上げたそこには、課業始めの号令を受けたであろう朝日艦乗組員達の姿があるのだが、そこに広がっている光景は明石がかつて見た事が無い物だった。
乗組員達は白い煙管服に身を包んで、何か黒いレンガのような物を横付けしている桟橋から搬入している。ダビッドに吊るした網で次々と甲板にすくい上げる黒い物体は、同じく黒い粉塵を辺りに立ち込めさせており、煙管服の乗組員達はマスクまで着用している。明石も自身の艦で煙管服姿の乗組員達は見た事があるが、朝日艦の乗組員達の煙管服はその粉塵で地の色の白が解らなくなる程に真っ黒になっている。ただでさえ朝日艦自身も真っ白な塗装を施しているのに、艦の構造物は濛々と立ち込める黒い粉塵で汚れており、まるで太陽の色をそのまま反射した様な色合いであった甲板も今は真っ黒だ。
『ごっへ・・・、ごほ・・・! んもう〜・・・。なによ、これぇ!?』
包み込んでくる粉塵に咳き込みながら明石はそう言うと、その場から逃げるようにして朝日艦の艦内に駆け込み、艦尾にある師匠の部屋へと走り出した。
『お、ぉはよぅござぃます・・・ゴホ、ゴホッ・・・。』
『あら、明石。おはよう。』
今日も朝の紅茶を楽しみながらソファに腰掛けていた朝日は、粉塵まみれで咳き込む教え子に挨拶を返した。あまりの居心地の悪さに艦内を突っ走ってきた明石は肩で息をしながら、服や軍帽からほのかに舞い上がる黒い粉塵に咳がとまらない。鼻の中にまだ残る粉塵に苦しむ明石だが、朝日はその教え子の姿を目にすると、口元のホクロとしわを隠すように手を当てて笑い出した。
『ふふふふ。そう、載炭作業を初めて見たのね?』
どうやら朝日はその光景が意味する事を知っているらしく、いつもは開け放っているスタンウォークへと続く扉が閉まっている事に明石はそれを悟る。甲板での地獄絵図など露知らぬといった様にニコニコと微笑む朝日。そして明石は、そんな朝日が口にした言葉から先程見た黒いレンガ状の物体の正体に察しがついた。
『あ、あれが石炭って言うんですか・・・?』
『ふふ、そうよ。』
やっとこ咳が治まりかけてきた明石は、そんな自分を可笑しそうに笑う朝日に軽く会釈をして向かいのソファに腰を下ろした。朝から神通のげんこつを貰い、その次は石炭の粉塵に襲われるという自分の不運さを明石は少し恨めしく思う。横に置いた自前の薬箱からガーゼを取り出し、顔についた石炭の粉塵を拭い取る明石。だがふと彼女は、そこに石炭を搭載する光景があった事に対する率直な疑問を抱いた。石炭は燃料の一部である事を一応は知っている明石は、薄々その答えを予想しながらも、微笑みながら紅茶を飲む朝日に向かって声を発する。
『朝日さん・・・。』
『ん? なに、明石?』
『出航・・・、するんですか?』
朝日の顔色を窺うかのような明石の声だが、朝日は笑みを向けると口に添えていたカップをテーブルの上に置く。カップの中に湛えられた紅茶と同じような色の髪に手をやると、カールの掛かった髪を直す様にしてゆっくりと撫でながら言った。
『ええ。5月29日をもって、また上海方面での行動になるわ。これでも一応、上海方面根拠地隊の旗艦なのよ。』
朝日は少しだけ動揺する明石に、ただ静かに笑みを見せる。
艦齢既に41年に及ぶ朝日艦は、いくら工作艦といえどもかなりの老兵である。最新式のディーゼル機関を装備した明石艦と違って、その動力源が石炭である事は先刻明石も目にしたばかり。事実、工作艦への改装によって機関を減らされている朝日艦は、その老朽化も手伝って洋上で出せる最高速度は僅か7ノット程でしかない。しかし、それでも朝日は一言半句の文句も言わずに、帝国海軍から与えられた任務に励むのだという。
その立派な師匠の姿は、しばらくのお別れを惜しむ心を明石から完全に忘れさせ、逆にその分の空白を埋めるかの様に深い尊敬の念を湧かせる。そして明石は残り短い教育期間を憂い、更なる気合を入れて集中して取り組む事を決める。すぐさま表情を正すと、座ったまま深々と腰を折って朝日に言った。
『解りました。残り僅かの時間ですが、これからもよろしくお願いします。朝日さん。』
『ふふふ。解ったわ。』
帝国海軍艦魂の重鎮である朝日は、そんな明石の心など手に取る様に解っていた。別れへの残念さを口にせず、逆に凛としたなんとも心地の良い声で今後の事を頼み込んでくる明石に、朝日はこれまでの教育の成果と確かな教え子の成長を確認する事ができた。今やるべき事は何かを自分で考え、自分で決めた明石。朝日は心の底から嬉しそうに微笑み、大きく何度も頷きながら残り僅かな紅茶を口に運ぶ。唇に添えて大きくカップを傾けると、いつもの様に余韻を楽しむかの様な小さな息を吐く。そして朝日のその行動が、二人にとっての課業始めの合図であった。ほぼ白紙のページが無くなりかけているノートを用意した明石に向かって、朝日は静かに声を発した。
『じゃあ、始めようかしら。』
『はい!』
今日も順調に進む明石の軍医として教育。西洋人の外見を持つ朝日らしく手を大きめに動かして説明をすると、明石が大きく頷いて手にした鉛筆をノートに走らせる。これまで何度となく繰り返されてきた光景であるが、すっかり二人の教育にも熱が篭り始めた頃になって、それを遮るように部屋のドアをノックする音が響いた。年季の入った木製のドアが叩かれて木管楽器のようなノック音が2度放たれると、続いて二人の良く知る人物の声がドアの向こうから響き出す。
『軍医中将。長門で〜す。』
気の抜けた声で長門はそう言うと、部屋の主である朝日の返事も聞かずにドアを開けて部屋の中に入ってきた。ちょっと失礼ながらも、長門はあくまで可愛い後輩である為に、朝日はそれを咎めるような事はしない。むしろ特に用も無いのにこうして自分を訪ねて来る事が、朝日にはとても嬉しい事だった。
『いらっしゃい。よく来たわね、長門。』
『長門さん、おはようございます!』
朝日と明石の挨拶に長門は笑みを浮かべつつ、今日も定位置である明石が座るソファまで歩み寄ると、明石の頭を悪戯をするかの様に荒っぽく撫でながら横に腰を下ろした。
『真面目にやってんのぉ、明石〜?』
『ちゃんとやってますよぉ〜、ほらぁ。』
最近は朝日に対しての遠慮も薄らいだのか、いつもの様に羽織るように上着を着た長門は明石の頭をクシャクシャと撫でながらそう言うと、明石は長門の手に抵抗しながらもそれを喜ぶかの様に笑みを浮かべて、手元にあったノートを持ち上げて隣に座った長門に向ける。ぎっしりと字で埋まったノートは明石が真面目に勉強している事を長門に伝えるが、彼女はの事を既に知っていたので特に驚くような事は無い。長門にとっても、明石は気兼ねなく冗談を交えて会話する事ができる可愛い後輩なのである。
二人のじゃれあうその姿に朝日はにこにこと笑って視線を向けていたが、ふと彼女は長門がソファに腰を下ろした姿が気になり始めた。お気楽なお姉さんを地で行く長門は、明石とは逆側にある肘掛けに身体を大きく流して座っているが、それは長門にしたらいつもの姿である。実際に朝日の前でなくとも、長門は常にこのようにちょっとだらしない様な格好で椅子に座っている。しかし朝日には、その姿がいつもの事であるからこそ気になったのである。
顎に手を当てて首を捻りながらその事を考えた朝日は、それが意味する事を持ち前の経験から推察し、同時に長門に向かって声を発する。
『長門、ちょっとこっちに来なさい。』
『はい?』
ふいに名を呼ばれた長門が小さく驚きの表情を向ける中、朝日は彼女の返事を待たずにソファから立ち上がる。頭に乗せた軍帽をソファの上に置きながら、朝日はソファの後ろまで歩いていくと、おもむろに手を床に向けて白く淡い光りを放った。その光りが粉雪の様に飛沫となって消え始めると、そこには床一面にしかれた莚がある。初めて見たその光景に明石も首を捻って視線を向けるが、朝日は何事も無かったかのようにして長門に手招きをする。
『さあ、こっちへ。横になりなさい。』
『な、なんですかぁ・・・?』
偉大な先輩である朝日に呼ばれた長門はソファから立ち上がると、恐る恐る朝日の元へと歩み寄って行く。朝日は至って普段通りに微笑みを浮かべている物の、怒るととっても怖いお人である事を良く知っている長門は何をされるのかと気が気ではない。とりあえず抵抗するのは危険だと判断し、朝日に言われるがまま長門は筵の上に横になった。
『身体を真っ直ぐに伸ばして。ほら、膝も。あ、明石もよく見ておくのよ。』
『は、は〜い!』
先輩二人が繰り広げる摩訶不思議な光景を呆けて眺めていた明石は、朝日の声を受けて手にしていた鉛筆をテーブルの上に置き、小走りで朝日の隣へと近づいていく。筵の上では仰向けに寝た長門が僅かに強張ったような顔で、落ち着きなく定まらない視線をあちこちに向けている。そんな中でも唯一人だけ微笑を失わない朝日は、明石が自らのすぐ隣まで来たことを確認すると、長門に向けて声を発した。
『長門、両腕を頭の上に向けて伸ばしなさい。そう、万歳をするみたいにね。』
『え? あ、はいはい・・・。』
言われるがまま、長門は両手を頭の上に目一杯伸ばしてみる。
何やってんだアタシは?
そんな言葉を脳裏に浮かばせて自問自答する長門であったが、朝日はお構い無しに続けた。
『いいわ。次に両手の手のひらを合わせなさい。』
『こう・・・ですか?』
『ええ、いいわ。じゃ、そのまま合わせた手のひらを離さずに、顔の前まで下ろしてみなさい。』
長門は朝日の言葉に従って腕を動かすが、動き終えたその姿は艦内神社に手を合わせて拝んでいるかの様な体勢だった。ぶっ飛んだお姉さんである長門を良く知っている明石は、その奇妙な体勢を彼女がとっている事に可笑しさを覚えて小さく笑う。
『ぷ〜〜くくく・・・!』
『笑んないでよぉ、明石。アタシだって恥ずかしいんだから・・・。』
『ふふふふ。明石、ここからが大事なのよ。可笑しくてもしっかり見ておきなさい。』
『あ、はい。』
明石にそう声を放った朝日は、長門の顔の横まで進んでしゃがみ込むと静かに声を掛ける。
『長門、指先を見てみなさい。』
『は、はい・・・。ありゃ?』
ふと放った長門の声と驚きを隠せないその表情。明石も笑みを消してその光景をよく見てみる。そこには長門の合掌した左右の手があるのだが、その指先は左手と右手では合っていない。どちらかといえば左手の指先の方が一段高くなっていて、当の長門も自分としては両手をピッタリと合わせていたつもりだったので驚いた。
そして朝日はその長門の合掌が意味する事が、先程ソファに腰掛けていた長門の姿から感じ取った事と完全に合致していると確信した。床で寝そべる長門に顔を向け、顔の両脇から垂れようとする琥珀色の髪を抑えながら、ゆっくりと朝日は口を開いた。
『朝日さん、どういう事ですか。これ?』
『ふふふ。長門、貴方の背骨、曲がってるのよ。』
『・・・・・・。』
過ごしやすい気温とすがすがしい青空の下、相も変わらず黒い粉塵をもくもくと巻き上げる載炭作業中の朝日艦。だがその時、そこで励む乗組員達には決して聞こえない連合艦隊旗艦の悲鳴が、その黒い粉塵の壁を吹き飛ばすかのように響いた。