第三七話 「五月雨と休日」
昭和15年5月10日、しとしとと小雨が降る呉海軍工廠。
冬季艦隊訓練が終わった帝国海軍は束の間の休息に浸かっていた。
各艦の乗組員達は呉の町へと出かけて行き、旅籠や下宿先にて信号ラッパに急かされる事の無い一日を送る。食べたい時に食べ、入りたい時に風呂へと向かい、駆けつけた親戚等から貰った差し入れを口にして表情を明るくする彼等には、あいにくの雨模様も特には気にはならなかった。
普段からコキ使われる水兵達にとっては、この時期だけが存分に娑婆を楽しむ事ができる日々である。そして逆にちょっと偉い肩書きを頂いている者は、こんな時でも相変わらず艦と供に波間に揺られる日々を過ごさねばならない。さしもに艦を無人にする事はできないから居残り組というのは必ず選抜され、自由気ままに一日を過ごす部下を洋上から眺めながらのお仕事をせねばならないのだ。物資の搬送搬入は勿論の事、長期に及んだ艦隊訓練のまとめと懸案の抽出、それに伴った対策の設定。艦への修理補修に関する港湾部側との打ち合わせや、同一戦隊内での幹部による会議など、デスクワークを主とする者達にとっては休みもクソもない日常であった。
同じように生活する艦魂の世界でも偉い肩書きの者達はやはり打ち合わせや会議等に勤しんでいたが、もっとも人間のように普段の厳しい艦隊勤務をそのまま履行する訳ではない。艦内における人口密度が極端に低下した事は、彼女達が主計科の倉庫等からあれやこれやと銀バイを働くにはもってこいであり、貴重な戦利品を持ち寄った彼女達の声はお仕事をしながらの物であっても極めて明るかった。
軍港内の一角に錨を下ろしていた那珂艦の一室では、主である那珂が将棋盤を挟んで向かい合う姉達の姿をにこにこと眺めていた。
『・・・ふぅむ。』
横で仏様の様な笑顔を湛える那珂を他所に、神通は珍しく眉をしかませた困ったような表情で将棋盤をまじまじと眺めて唸り声をあげる。口を隠すかのようにして片手を添え、背を丸めて胡坐をかく神通。
そんな彼女に、向かいに腰を下ろした姉が声を掛けてきた。
『どうした、じんちゃん? もう終わり?』
『・・・むぅ。』
少し眉を動かして唸る神通を、不敵な笑みを浮かべて眺めている女性。
前髪も含めたほとんどの髪を後ろに流し、あらわになったおでこの下には神通や那珂と良く似た鋭く釣り上がった目を持っている。那珂や神通と同じように濃紺の第一種軍装に身を包んでいる彼女だが、胸元の辺りのホックを外し、横を向けて頭に乗せた軍帽など、二人と違ってかなり不真面目な感じの身なりである。そして女性ながらも口に挿した煙草をブガブガと吹かしながら声を発したこの人物こそ、神通と那珂の実の姉の川内であった。帝国海軍でも指折りの暴れん坊である神通が、師匠の金剛以外に逆らう事のできない唯一の存在が彼女である。
鬼と恐れられる神通も姉に掛かっては形無しで、幼少時からの呼び名で呼ばれた事に苛立ちを覚えながらも何も言い返せない。そして同じ様に将棋盤の上ですらも、彼女は姉に対して返す手を見極めかねていた。
『スゥー・・・、なっちゃん。ダメだ、コイツ。てんで弱いもん。』
川内は大きく煙を吐きながら、将棋盤の横に座布団を下にして座る那珂に向かって面倒臭そうに言った。その声を受けた那珂は口に手を当てて小さく笑うが、ちっとも面白くない神通はそんな那珂に鋭い眼光を放って笑みを沈ませる。不機嫌な事この上ないといった表情で妹を睨みつけた神通は彼女が声を静めると同時に、口を大きくへの字に曲げて将棋盤に向き直って考えを巡らせ始める。
将棋盤の上では、防銀戦法を採る川内の陣営に大きく攻め入ろうとする神通の陣営、という光景が広がっており、帝国海軍水雷戦部隊の一番槍を務める実に神通らしい指し手で行われた将棋であった。
もっともそれは川内も同じ事で、彼女が今まで所属してきた第一艦隊隷下の第一水雷戦隊は、戦艦によって編成された第一戦隊等を護衛する事が主な役割である。那珂や神通もそれぞれ一年程はこの一水戦旗艦を務めているが、川内はそれを総計5年間にも渡ってにこなして来た艦魂であった。故に防御戦闘とは彼女の十八番であり、「突撃強襲」という言葉が大好きな神通とは物の考え方自体が正反対なのである。そして川内型二等巡洋艦3姉妹の長女である彼女には、基本的には内地で訓練漬けの日々を過ごしてきた妹達とは違って、数年間にも及んだ支那戦線派遣で得た豊富な実戦経験と誉れ高い戦果もある。
その戦果の中でも、特に帝国海軍が独自に見出した水上機の運用法。
すなわち水上機に防空戦闘能力を付与する試みは、この川内艦と支那方面艦隊旗艦の出雲艦から発進した艦載水上機が敵性爆撃機を迎撃した事が大きなきっかけとなっているのだ。水上機に比べれば航空機としての制約が少ない陸上機を複葉のゲタ履き機が撃墜したという事実は、帝国海軍内はおろか国内の航空機産業にまで及ぶ大きな波紋を起こし、この年の9月になって海軍は十五試水上戦闘機という水上戦闘機開発計画を推進するにまでに至るのだった。
後年、世界に類を見ない高性能を誇る水上機達を帝国海軍は次々に大空に向けて羽ばたかせる事になるが、その源流の一つはこの川内にあるのだ。そして、彼女が起した波紋から生まれた十五試水上戦闘機は後に強風という名で誕生し、やがてそれは紫電二一型という大輪の華として大空に翼を広げるまでに昇華して行くのであった。
姉の偉大さは良く理解しているし尊敬もしているのだが、生来鼻っ柱の強い性格の神通はそれでも負けるという事が嫌であった。相変わらず口をへの字に曲げながらも、神通は意を決して歩を川内の陣営に向かって突っ込ませる。川内の陣営の一直線になった歩の前に自陣の歩を置き、辺りが自陣の勢力圏内である事を確認して神通は駒から指を離した。
今考えうる手の中では、これが最も得策だ。
そんな言葉を脳裏で呟いた神通は、表情から曇りを消した。丸めていた背筋を伸ばして胸の前で腕を組むと、神通はキッと力を入れた眼差しで対面する姉に向かって顔を向ける。
『そら、姉貴の番だ。』
『ふぅ〜ん。さっすが、じんちゃん。』
自信満々に指した神通の手は、彼女が意図した通りに川内を唸らせるだけの実に良い攻め手だった。だが一筋縄では負けてはくれない妹が川内には嬉しく、将棋のほんの一手ながらも明確に妹の成長を伝えるその光景に口元を緩ませる。
やがて表情を明るくさせた川内は、それではと言わんばかりに自分の手を打つ。しかしそれはまたしても、自陣の防御体制の要である櫓の辺りでの一手だった。勿論、神通はそれを見逃さず、先程の歩の周りに自陣の駒を集中させて敵陣への突破口を確固たる物とする。この辺りは神通にしたらさしずめ戦隊の襲撃運動と似たような物であり、先ほどまでの様に次の一手を深く考えて指す事は無かった。
お互いの小気味良い駒の差し音が部屋の中に響いて行き、それを横からにこにこと微笑んで眺める那珂は久々の姉妹だんらんの時間が得られた事を実感して心の底からそれを喜ぶ。末の妹である彼女には、久しぶりに妹達の顔を見る事が出来た川内の事も、久しぶりに夢中になって実力を競い合える姉を迎えた神通の事も良く解っていた。のんびりとした今の光景を目にする事ができた那珂は、それを楽しむかのようにして三つの湯飲みにお茶を用意し始める。主計科の倉庫から拝借してきた羊羹をお皿に盛り付け、そっと二人の姉の脇に差し出す那珂。
『ほ〜れ。』
『あ・・・!』
だがそんな那珂の動きを止めるかのように、彼女の正面からは神通の小さな悲鳴が聞こえてきた。対照的な態度を取っている二人の姉に挟まれた将棋盤の上。そこには傘にかかって攻め寄せようとする神通側の飛車と角が、川内側の打った桂馬によって完璧に動きを封じられている光景があった。飛車角取りだ。
『むう・・・。』
すっかり読み違えていた川内の狙いを結果として知ってしまった神通。自分への苛立ちなのか、上手くいかない事への腹立たしさなのか。再び彼女は口を大きくへの字に曲げ、胡坐の上に頬杖をついて将棋盤を睨んでいる。猫の仕草を思わせる程に荒っぽい動作で首の辺りを片手で掻く神通の姿は、彼女が不機嫌な事この上ない事を那珂と川内に良く伝えた。
『スゥー・・・。もうちょっと相手の出方に気をつけなさいよ。自分の意思を相手に強要するんだったら、相手の事が手に取るように解るぐらいじゃないとね。じ〜んちゃん。んひひひひ!』
煙草の煙を盛大に撒き散らしながら、川内は妹の不機嫌な様子を笑った。彼女にしたら相変わらずの鉄砲玉っぷりを見せつける神通のその姿は可笑しくてたまらず、幼い頃からちっとも変わらない妹のその表情が川内は大好きであった。
もっとも神通にしたらとんでもないお話であり、何より彼女は川内が自分を呼ぶ際に使うその呼び名が大嫌いであった。隣でそれを平気な顔をして笑う那珂も、今の神通には腹立たしさを募らせていく一因でもある。残りも少なくなってきた川内の陣営から分捕った駒を落ち着き無く手のひらの中で動かし、段々と頬を膨らませていく神通は胸の奥から込み上げてくる怒りを吐き捨てるかのようにしていつもの短い口癖を放った。
『・・・ふん。』
『ひひひ。勝ったら"じんちゃん"て呼ぶの止めてあげるよ、じ〜んちゃん!』
『ちぃっ・・・。』
決して意地の悪い人柄ではない姉の言葉であるが、それは今の神通にとっては悔しさを増幅させる物でしかない。なぜならこの神通の名称を賭けた将棋盤の上での戦いはこれまで通算32回も行われており、その戦績の内容は未だに彼女の名称が変わっていない事から察するに難しい事は無い。
那珂と川内が微笑んで見守る中、一人不機嫌な神通は再び唸り声を上げながら将棋盤を睨んで考えを巡らす時間を展開し始めた。
無論この日、神通に対する川内の呼び名が変わる事は無く、翌日になっても癇癪が治まらない彼女は部下の艦魂達に「八つ当たり」という名の厳しい教育を授けてやった。なんとも迷惑なお人である。
どんよりとした雲から放たれる小雨は、呉に在泊する全ての艦艇達を包む。
柱島泊地もそれは例外ではなく、少しだけ生活の息吹が消えかけた第一戦隊の4隻は寄り添うようにして錨を下ろしていた。一際大きなマストや艦橋、主砲塔を持つ彼女達も、今はどこか寒さに震えて身を擦り合わせるようにして耐える子猫達の様。
そしてその中の1隻である陸奥艦の司令部用大部屋に、明石と親しい間柄の長門はいた。
広い部屋には雪の様な純白のテーブルクロスを掛けた長机が置かれ、その端にはニスによって美しさを放つ木目を持つ椅子がいくつも並んでいる。部屋の壁に置かれた様々な大きさの棚や小物は銀縁の金具を伴った高級品ばかりで、舷窓にはお洒落な柄のカーテンも取り付けられている程だ。
そんな部屋の艦首側に当たる長机の一番端。そこには4人の艦魂が集まり、各々が長ったらしい文章が綴られた何枚かの紙を片手にしてなにやら小難しい話をしていた。
『陸兵が上陸する際の支援か。こんな戦いでボカチンはごめんだな。』
『実戦ってのはこういう物なんじゃない、山城さん?日露戦争の時だって、初期の頃の戦闘は先輩達も支援に回ってるし。』
少し若さが消えつつある30代前半の外見を持つ二人は、そんな会話をしながら笑みを合わせる。少将の襟章を身に着け、髪型こそ違えど軍帽から綺麗な黒髪を垂らした彼女達は山城艦と伊勢艦の艦魂である。隣同士で席に着く二人はお互いの手にした紙のあちこちを指差して声を弾ませるが、長机を挟んでその向かいに座っていた二人と同じ第一種軍装を纏ったクセ毛の女性がおもむろに声を放つ。
『戦艦同士の撃ち合いも発生してますし、何より近代海軍同士の戦闘記録は非常に希です。ここから何か学べれば、それは帝国海軍にとっても大きな一歩になる筈ですよ。』
笑みと供に明るい声をあげたのは、長門と良く似た顔を持つ陸奥であった。妹なのだから当然なのだが、なぜかサラサラと流れるような黒髪の長門に対して陸奥は大きく左に巻く強いクセ毛であり、髪の色も姉の艶のある黒色ではなく少し赤みを帯びた茶髪である。
重力など屁とも思っていないかのように耳の横で逆巻く髪を撫でながら、陸奥は二人と供に姉とは違った礼節を良く心得た物言いで話す。
『注目すべきは、4月9日に発生したナルヴィク沖での海戦ですね。英独供に巡洋戦艦同士での派手な撃ち合いをしています。』
『確かに、シレっとはしてらんないな。特に英国側の2隻の戦艦は私達と同じ世代の艦だ。最新鋭の独国戦艦2隻に対して、引き分けに持ち込んだんだから大健闘と言った所だな。』
『ふふふ。そうは言っても、38サンチと28サンチのルッキングだからねぇ。やっぱ主砲はデカイのに越した事はないね、山城さん。』
『砲戦距離はどのくらいなんだい、陸奥?独国のシャルンホルストとやらは、速度性能においても英国側とはドッコイじゃないか。近づく前に命中弾を浴びても良さそうな物だが・・・。』
3人が弾ませる話題は、先月初めにドイツが行った北欧への侵攻に際して発生した海戦である。
去る4月9日、ドイツはスウェーデンとの鉄鉱資源を主とする海上交通路を確保する為に、デンマーク、ノルウェーの2国に対して侵攻作戦を行った。スウェーデン側の港は地理的要因から冬季には凍結してしまい、その間ドイツは貴重な鉄鋼資源を絶たれる事になってしま事がその背景にあった。既に英国とは交戦状態であるドイツはこの懸案を解決すべく行動を起したのだが、作戦海域であるノルウェー沿岸は北海を挟んで英国の目と鼻の先である事から、侵攻作戦発動と同時に妨害する英国海軍と攻める独国海軍は極寒のフィヨルドを背景にして本格的に衝突した。
数度に及んだ海戦の情報は、連合艦隊司令部をその身に宿した長門が手に入れてきた物であり、タイムリーとは言えないまでも帝国海軍にとっては貴重な実戦の情報であった。そしてそれを知った陸奥は早速その情報を分析し、せめて艦魂の社会でも横展開しようと考えた末に今の光景へと繋がっているのだ。
もっとも長門にとってそれはつまらない日常の延長でしか無く、戦艦の艦魂としての先輩筋に当たる伊勢と山城を前にしながらも、彼女はいつものように軍装のホックやボタンを全て外して羽織る様に上着を着ていた。三行以上の文章を目に入れると極度の倦怠感に襲われてしまうという困った性格の長門は、骨格を失ったかのように身体を流して机に頬杖をついている。読む気が失せた書類を靡かせる様にしてパラパラと流し読みし、彼女はその書類を自らの手元に落とすようにして机に置いた。
『姉さん、真面目にやってよ。』
『へ〜へ〜・・・。』
陸奥は長門に眉をしかめて注意を促しながら、横目でチラチラと向かいに座った二人の先輩に視線を送る。戦艦の艦魂としては帝国海軍でもっとも若輩な陸奥のその態度は当然と言えば当然であったが、当の山城と伊勢はそんな陸奥に対して苦言を呈すつもりはない。また、長門という艦魂をこれまで一緒に見てきた二人は、横でしな垂れる彼女を怒る気にもならなかった。二人は笑みを合わせると、長門を放っておくかのようにして再び紙に視線を流して話し始める。
『4月12日の戦闘も中々に興味深いじゃないか。航空機による偵察と潜水艦への事前制圧を行った後に、戦艦が止めを刺しに行くと。手荒くナイスだな。』
女性にしては低い声で、少し男っぽい物言いをする山城。帝国海軍艦魂の中でも彼女と姉の扶桑は最も背の高い艦魂であり、170センチ後半はあろうかという長身と日本人離れした広い肩幅が目を引く。痩せ型の体型である山城は、顔もどこかほっそりとした感じで頬骨がちょっと目立つ糸目の女性である。ほんの少しだけ目尻や口元にしわができつつあるその顔と、先程から人間が使う海軍内での略語を端々に散りばめた彼女の言葉遣いはその海軍歴の長さを相対した者に良く伝える。
そして似たような特徴を持った、山城の隣に座る伊勢。身の丈こそ普通であるが、彼女もまた同じように顔の所々に薄っすらと老いを滲ませており、その言葉もまた山城と同じように略語を用いている。耳を隠すくらいの短髪である伊勢は頬の上辺りで揺れていた前髪を掻き揚げて耳に掛けると、山城が目を留めた部分とは違った所に興味が湧き、すぐにそれを声に乗せる。
『ドイツは潜水艦の雷撃で、そこそこの被害が出てるのね。ボカチンにならなかったとしても、陽が昇ってから航空機で止めを刺されてる事例もあるじゃん。』
それまで真面目な表情で先輩の言葉を聞いていた陸奥だったが、伊勢のその言葉を受けて僅かに眉を動かす。同時に彼女の脳裏の中には、最近になって気に障り始めた連合艦隊のとある事情があった。
それは彼女自身の生い立ちをもって形成された、陸奥の艦魂としての生き方に端を発する。
世界最大の410ミリの主砲を持つ陸奥艦は、帝国海軍がワシントン海軍軍縮条約において八方の手を尽くして誕生させた執念の艦だった。当時まだ未成だった事を理由に廃艦の危機に陥った陸奥艦を、帝国海軍はあの手この手を尽くしてなんとか完成状態にして産み落とす事に成功した。必要な各種試験を省き、擬装工事も見えない部分は後回し、終いには就役済みである事実を取材に訪れる外国人記者に裏付ける為に、まだその身を浮かべてすぐの陸奥艦には海軍病院から怪我人を担ぎこんで病室もしっかり機能している事を印象付けて就役へのリアリティを持たせた事もあった。腹を痛めた子は可愛い、というのは彼女の生みの親である海軍でも同じ事で、大変な難産の末に生まれた陸奥艦は海軍内では長門艦を凌ぐ人気があったのである。そして屈曲式煙突を装備していた時代に連合艦隊の旗艦を務めた事も加わり、国民からの人気も実は長門艦より陸奥艦の方が高かった。
そんな陸奥艦の艦魂である陸奥は帝国への奉公の精神や忠誠心は人並みはずれた物があり、世界最大の主砲を持つ戦艦としての誇りも姉よりはずっと強く抱いている。帝国を象徴する軍艦である自信と帝国を護る為の最後の万人として、自分の双肩にこそ全てが掛かっていると信じて励んできた陸奥。
ところが昨年に連合艦隊司令長官に就任した山本中将は、普段から陸奥が今まで信じてきた事とは間逆の事を言って憚らなかった。先日も中将旗を翻す姉の甲板をブラブラと歩き回り、二人が見ている前で彼は主砲勤務の兵員達に向かってこう言い放った。
『君達、今に失業するぜ?これからの戦は、大砲をぶっ放してなんとかする様な戦にはならないよ。』
勿論、陸奥はこの言葉に憤慨した。
その主砲こそ帝国を護る最大の武器であるし、そもこの主砲を持っている帝国海軍の艦艇は自分と姉しかいない。戦の将来を嘆くのなら、まずは条約を受けて廃艦にした妹や仲間達の復活こそ急務ではないか。仮想敵国の第一位を米国と決めて大正の時代を迎え、少ない兵力で如何にして大国である米国と戦うのかを模索しなければならない人間達が事もあろうに今度はいらないと言い出した事は、陸奥のプライドと今までの輝かしい栄光に泥水を被せる事と同義だった。
そしてそれをいくら訴えても、お気楽な彼女の姉はまるで聞こえていなかったかの様な態度を貫き、陸奥の声に真面目に耳を貸してはくれなかった。『難しくて、わかんなあい!』等と言いながら立ち去る姉にして、現在の連合艦隊旗艦。こんな状態で続く日常が、陸奥の悩みの種であった。
『はぁ・・・・。』
無意識に額に手を当てて陸奥は溜め息を放っていた。考えれば考えるほど、彼女の悩みは軽い頭痛となって彼女に襲い掛かってくる。置かれている立場と言い、身内の事と言い、今の陸奥には分身の倉庫が満杯になるほどの悩み事が溢れていた。
そんな陸奥を横目でそれとなく認めていた長門は、伊勢に向かって手を差し伸べながらおもむろに声を放った。
『伊勢ぇ。ちっと借して。』
先輩に対して呼び捨てにする長門であるが、伊勢も隣の山城もそれに怒るような素振りは見せなかった。長く一緒に帝国海軍の戦艦として過ごしてきた二人は、だらしない格好で手を差し伸べてくる長門が実はどれ程に凄い艦魂であるかを知っているのである。対して常に姉のだらしなさを嘆く妹の陸奥であるが、それは彼女が長門とは余りにも距離的に近すぎる姉妹という関係である為に見えていないだけなのであった。
『これでいいの、長門?』
『うん、ちっと借してぇ。』
そんな会話をしながら伊勢の差し出した手から紙を受け取る長門。相変わらず頬杖をついたまま、彼女はゴムでできたかのように腕をだらんだらんと動かして自らの顔の前に運んだ。そこに書かれた内容を流し読み程度にして一読すると、長門は疲れたような溜め息をしながら言った。
『陸奥ぅ・・・。』
『え・・・? な、なに姉さん・・・?』
突然の姉の語り掛けに困惑する陸奥は、力が抜けた声で長門に顔を向ける。長門は陸奥には視線を向けずに、どこか遠い目をして部屋の奥を眺めながら続けた。
『3月の佐伯湾での戦技訓練。あの時の一戦隊の被命中判定って、いくつだったっけ?』
長門が放った言葉を受けて、陸奥はその酷い内容を記憶から蘇らせしまい、ふたたび軽い頭痛と戦いだした。目を閉じて額に手を添えてクルっと巻き癖のついた前髪を横に分けながら、陸奥は静かに、だが明らかに不満そうな声色で言った。
『中攻18機からの雷撃よね・・・。被雷判定は11発─。』
そこまで言った所で、陸奥は伊勢が先程までに口にしていた航空機による戦果をその脳裏に過ぎらせた。そして同時に、長門があろう事か航空機による艦船攻撃での可能性に注目している事を察する。それは昨今になって海軍内でも実しやかに囁かれている航空主兵と呼ばれる考え方であり、海上戦闘における決定的な戦力は戦艦ではなく航空機であるというのが大筋であった。
その考えがどうしても好きになれない陸奥は、それを平然と口にした長門にキッと力の入った瞳を向けて憤りを伝えようとする。なぜならその考え方を推進する張本人は、彼女が気を許せない山本連合艦隊司令長官その人であったからだ。
『でも姉さん、実戦では厚い対空砲火が敵機の行動を抑制する筈よ!』
陸奥は僅かに椅子から腰を浮かして、身を乗り出すようにして語気を強めた声を長門に放つ。真面目ながらも直情的な性格の妹がそう言ってくる事を、長門はぼんやりとしながらも予測済みであった。故に彼女は妹の声を受けても別段驚くような仕草を見せず、姿勢と視線をそのままにして声を返した。
『それは敵の兵力にも寄るじゃない。それに、今のアタシ達が形成できる対空砲火が厚いか薄いかなんて、一体何を基準にして判断できるのよ?実戦じゃない訓練の際の兵力で判断するの?』
『・・・・・・。』
陸奥は言葉を詰まらせた。
呆けたような表情で放たれた姉の言葉には、それを本気で憂慮している感じが微塵も伝わってこない。だがその内容自体は正論であり、陸奥は対空砲火の強弱に関する基準の知識を持ち合わせてはいなかった。唇を噛み締めて机の一角を睨みつける陸奥と、そんな妹を無視するかのように部屋の奥に視線を流している長門。
実はこの二人、どちらかといえば姉妹仲が悪い艦魂なのであった。
だがこういうちょっと険悪な雰囲気を敏感に感じ取り、なおかつその場を取り繕うとしてくれるのが年上に値する者のお仕事でもある。二人を一瞬だけ鼻で笑った山城は、両手を胸に前で叩いて音を響かせながら声を発した。
『おしおし、二人の言い分は解った。議題として重要なのは、水上兵力における航空機に対して防御性だな。ただ長門が言った通り、それを判断、分析する為の基準となる要素が私達には決定的に不足してる。まだまだ英独のボカチン合戦は続くと思うから、これらの要素はこれからの欧州戦線での情報を基にして作っていこう。』
身の丈に合う凛々しくて大きな山城の声に、他の3人はこもごもの考えをめぐらせて頷いた。口を尖らせて席に着く陸奥と、肩から力を抜いて頭から軍帽を取る伊勢。
そんな光景と部屋の空気から重苦しい感じが消え失せた事を悟った長門は、山城が続けて言葉を放ってくるにも関わらず、手元にあった大きな世界地図をくるくると丸め始めた。
『長門、航空機の発展は著しい事は私も知ってる。大正9年の滑走台からの発艦実験を担当した時から、私はつぶさに航空機の進化を見てきたつもりだ。だが、まだまだ戦艦を始めとする水上戦力に対しての決定打にはならないんじゃないのか?航空機自体、天候にも左右されやすい─。』
山城がそこまで言うと同時に、長門は丸めた世界地図を右目の辺りに担ぎ上げた。突然の長門の行動に思わず声を止めてしまった山城であったが、長門はそれに気付いていない様な素振りで丸めた世界地図を覗き込んだ。そして片目を瞑って集中させた視界の先に発見した小さな感動を、わざとらしい程に無邪気な声で言葉に変えた。
『おおおぉ〜〜〜、世界が見える〜〜〜!』
『『『はぁぁ〜〜〜・・・・。』』』
三人の徒労という言葉を覚えた上での溜め息が、部屋の中に響いていく。結局この日、英独海軍による海戦を題材とした研究、勉強は何一つ進展しなかった。
どこかのんびりとした時間を送る艦魂達ではあったが、彼女達に忍び寄る死神の足音はすぐそこにまで迫っている。
この日、昭和15年5月10日。
ドイツ軍は各種問題を抱えていた事から計画を見直した黄色作戦をついに発動。イリエコのトランペットを空に轟かせ、軍靴の衝撃で大地を揺らし、遥か西に向けて砲火を灯しながら、ハーケンクロイツの旗を頂く兵士達が隣国に向かって一斉に越境を始めた。
ここに、8ヶ月に及んだ"まやかし戦争"という名の沈黙を破り、4年3ヶ月に及ぶ西部戦線の火蓋が切って落とされたのであった。
略語補足
・シレっとした=平然とした様子を表した言い方。いけしゃあしゃあ。
・ボカチン=被弾してボカン、その後に沈没する様を略した言い方。
・ルッキング=お見合いの事。転じて敵艦や艦隊同士が対峙する様を表した言い方。
当時の海軍軍人は、ルー〇柴や現役の女子高生が腰を抜かす程におもしろい略語を使っていたようです。男の世界なのでちょっと卑猥な言葉を指す物が多いですが、このような海軍独自の文化からは、なんとも人間らしい部分を垣間見れるような気がします。
ちなみに作者大爆笑の物がこちら。
・MMK=モテてモテて困っちゃう様子。ローマ字表記にして、頭文字をとった状態から付けられたそうです(実話)
・ggrks(ググレ、カス)みたいですねw
ちゃんちゃん