表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/171

第三六話 「5月の夜」

 昭和15年5月1日。

 本年始まって以来、五回目の興亜奉公日を迎えたその日、第二艦隊の(くれ)鎮守府籍の各艦は母港である呉軍港に帰って来た。すこし寂しい光景だった呉の波間に、再び戻ってきた精鋭達がその身を浮かべて湾内を圧する。

 興亜奉公日であるその日は国民全員に生活の倹約と勤労奉仕が義務付けられており、呉工廠内にいる工員の数はいつにも増して多い。去る4月28日には米や味噌、塩にマッチ、木炭などの生活必需品が切符制となる事が閣議決定されたが、呉工廠で汗を流す人々は久々に堂々とその身を浮かべた城群にそんな喧騒を忘れて目を輝かせた。


 昨年の11月から半年たったこの日、連合艦隊ではまたしても大規模な編成替えが行われた。

 明石艦が所属する第二艦隊には各戦隊の兵力増強が図られ、まずは妙高(みょうこう)型一等巡洋艦の那智(なち)艦、羽黒(はぐろ)艦の二隻で編成された第五戦隊を戦闘序列に加えた。新鋭の最上(もがみ)型で編成される第7戦隊に比べれば古さが目立つ妙高型ではあるが、逆にその分だけ第五戦隊の二艦は錬度で優れており、那珂(なか)艦が率いる四水戦と組んで第四夜戦隊を編成する事になった。

 さらに第二艦隊司令部を置く第四戦隊には砲術学校の練習艦として過ごしてきた摩耶(まや)艦が合流し、第4戦隊は3隻編成となった。

 続いて神通(じんつう)率いる二水戦とコンビを組む第七戦隊には、最上(もがみ)型二等巡洋艦の最上艦と三隈(みくま)艦が合流。これで第七戦隊は最上型二等巡洋艦4姉妹の全員をもって編成され、第二艦隊で最も強力な砲撃力を備えた戦隊として生まれ変わった。ただ可哀想な事に第七戦隊の艦魂達が姉妹の再会を喜ぶのも束の間、強力な支援部隊を得た事で気を引き締めた神通は更なる鬼教官として化けようと心に決めてしまい、翌日から彼女達は神通による超がつく程におっかない教育を受ける事になってしまった。気の毒という他は無い。

 そしてさらに、那珂が率いていた四水戦からは第7駆逐隊が第一艦隊一水戦へ転属となった。これはすでに先月の頭より決まっていた話で南支方面行動であった為にこれまで四水戦と行動を供にしてきたのだが、艦隊訓練が終了した事をもってついに彼女達は誉れ高い第二艦隊から去る事になる。姉とは大違いで仏様のような物腰を持つ那珂は7駆の艦魂達からも大層慕われており、彼女は別れを惜しんで泣き出す部下達を励ましながらこれからも頑張るようにと声を掛けた。実は彼女達にとって那珂との別れはこれで二度目となるのだが、数年前の二水戦時代から何も変わらない那珂という優しい上官に7駆の面々の涙は止まる事はない。那珂としても辛かったが、指揮官たる者の対面を重んじて彼女は泣かずに部下達を見送り、その日の夜になって姉と一緒にお酒を進めた際に静かに泣いたのだった。


 第二艦隊以外では明石(あかし)とは近しい間柄である長門(ながと)が率いる第一戦隊に、扶桑(ふそう)型戦艦二番艦の山城(やましろ)艦が合流。また長門が艦隊旗艦を務める第一艦隊には、支那方面で行動していた川内(せんだい)艦を旗艦として新たに第三水雷戦隊が新編される事となった。そして長らく支那戦線に派遣されていたこの川内艦の艦魂、川内は神通と那珂の実の姉でもあった。

 

 




 明石艦は呉に到着すると製鋼部庁舎群前にある桟橋に横付けし、資材や燃料等の補給を受けた。接岸してすぐに乗組員達は搬入作業に精を出す事になってしまったが、彼らの表情はつとめて明るい。それもその筈、明石艦では乗組員全てに10日の休養上陸が許可されていたのだった。中でも出身地が呉に近い者には、帰休上陸として実家に帰ることも許されたのである。

 閉鎖的な艦内での窮屈な生活、使いたい時に使えない水や(かわや)、風呂。それが海軍の当たり前であったとしても、それを履行する乗組員達は一般人とはなんら変わらない人間達であり、帝国海軍軍人の肩書きだけでそんな生活をずっと続ける事など不可能だ。

 故に今の明石艦上甲板では、乗組員達が長旅の疲れも感じさせぬ程の明るい声を上げて作業に当たっていた。


 だが明るいその声が響く明石艦の艦尾の向こう。繋がった同じ岸壁に今日も気高くその姿を浮かべる朝日(あさひ)艦には、そんな乗組員達に反するように落ち込む人物がいた。





 「広間の中に入り立てば、ただ宮殿の心地せり」と謳われた事がよく理解できる、朝日艦艦尾の長官室。真紅の絨毯と年季の入った家具が置かれたその部屋には、主である朝日がいつものようにソファに腰掛けていた。

 英国で生まれた際に持ってきた嫁入り道具の一つであるティ−カップを持ち、香りを確かめながら朝日はカップに唇をつける。人間の世界にですら40年間も同じカップを使い続ける人は滅多にいないが、今日も鼻をくすぐる湯気と供に舞い上がる香気を放つカップに朝日は僅かに口元を緩める。そして朝日はその表情のまま顔を上げ、テーブルを挟んで向かい側に座った明石に視線を流した。


 明石は朝日が出してくれた食べ物をがっついていた。

 金物でできたお碗に甘い蜜と供に入ったそれはとても美味しいお菓子の様だが、赤十字の腕章をつけた朝日が用意した物らしく立派な薬膳料理であった。弾力のある白い寒天のようなそれは、朝日艦の主計科が上海での行動中に調理法を覚えて造ったのだそうで、杏仁豆腐というらしい。つるんとした喉通りと奥深い甘さが絶妙な食べ心地であるが、明石はいつもの様にはしゃいで食べる事はなかった。まだ少しだけ赤みを帯びた明石の目、その縁には僅かながら光る物が溜まっている。

 そして眉をしかめ、無言でスプーンを口とお碗に交互に行き来させる明石に、明石の隣でそれを歪んだ笑みを浮かべて眺めていた長門が声を掛けた。


『あ、明石〜・・・。元気出してよ、ね?』

『・・・・・・。』


 そっと肩を触れて困ったような表情で放った長門の声に、明石は口に詰め物をするかの様にスプーンを運び、目を瞑って頬を上下させながら頷いた。



 明石と(ただし)が別れたらしい。


 艦魂達の間でも有名だった二人のそんな噂は、呉にずっと停泊していた長門の耳にも届いていた。おしどり夫婦等と影で呼ばれ、長門自身も陸奥(むつ)伊勢(いせ)などの仲間内にはそのように伝えてきた。かつて第一艦隊の隷下部隊である第一水雷戦隊、及び第三水雷戦隊の戦隊長として過ごし、長門の直属の部下を務めていた那珂から聞いた所によると、どうやら忠が砲術学校への入校を決意した事に端を発する大喧嘩があったらしい。直前になるまで言い出せなかったという忠の態度は長門が知る彼の優しさがよく滲み出た行動であり、そこにあった忠の心情を長門は良く理解する事ができた。だが同時にそこへ苛立ちを募らせて彼に対して憤りを隠せなかった明石の心の内も、長門には良く理解する事ができた。そして二人して素直に自分の事を言えないままであった事が、長門に二人の若さをよく伝えてくる。

 ただ、端から見ていると微笑ましい二人が結果として別れてしまった事は、そんな長門としても素直に残念ではあった。独りになって呉に帰って来た明石の泣き腫らした顔は可哀想の一言であったし、持ち前の元気がすっかり無くなってしまった明石の姿は長門にはどこか痛々しく見える。


『ほ・・・、ほらあ、オトコなんて一杯いるしさぁ・・・。あ、なんなら、他所の艦からアタシが目つけてる人を回そっか!?』


 わざとらしく口元を吊り上げて長門は言った。

 意気消沈してしまっている明石をなんとか元気付けようと必死な長門の事は、相変わらず杏仁豆腐を口に詰め込んでいる明石にも良く解っている。しかし、あくまで優しいお姉さんである長門に感謝の念は湧いてくるのだが、それ以上に明石には長門の言葉で蘇ってきてしまう相方の記憶が辛かった。

 この数日で痛いくらいに実感した、彼女の中にある忠の特別さ。彼の代わりになれる者などいないと心の中で呟くものの、そんな相方を突き放した自分の馬鹿さに明石は悔しさを覚えてしまう。そしてそれは明石の意識とは関係無しに、彼女の瞳の縁に溜まっていた物を溢れさせた。


『う・・・、うう・・・。』


 咽び泣く声が明石の口から漏れてくると同時に、ほろほろと彼女の頬を涙が零れ落ちていく。明石の横から必死に声を掛けていた長門だったが、さしもに泣き出してしまった明石にうろたえた。どうすれば良いか解らずに両手を宙で右往左往させる長門だったが、突然その場の空気を切り裂くように長門と明石の向かいから音が響いてきた。


 カチャン


 音が発せられたそこには、朝日の膝の前に辺りのテーブルでカップが置かれていた。普段は呼吸の物音すらも発しないかのように物静かな朝日の事を良く知っている長門は、先程耳に響いてきた音が意味する事を薄々悟りながら、恐る恐る視線をテーブルの上のカップから朝日の顔に向かって流していく。


『・・・・・・。』


 朝日は青い瞳を細め、眉をしかめて長門の目をじっと見つめていた。典型的なお嬢さんである朝日は相手を震え上がらせる様な迫力を伴って睨みつける事はないが、数々の修羅場を潜り抜けてきた先輩のそれは、長門にハッキリと朝日がご立腹である事を伝えるのには充分だった。


『あ、あはは・・・。さ、さーせん・・・。』


 すまなそうに頭を掻いて縮こまってみる長門だったが、先輩のなんともおっかない視線と隣で涙する明石に挟まれて自分の失言を恥じた。そして何度か朝日と明石を交互にチラチラと視線を流した後、長門は明石にすがるようにして抱きつき、今にも泣き出しそうな声で明石に声を掛ける。


『あ、明石〜、ごめんねぇ。お、お願いだから泣かないでよぉ・・・。』


 明石は長門の声を受けて一応は頷いて見せたものの、溢れ出てくる涙が止まらなかった。両手を目に当てて拭っても涙は一向にやまず、膝の上に涙が落ちて砕ける度に明石の心は後悔の念で埋まっていった。


 ただ一言、「行くな」と言えば良かった。


 この数日の日課ともいえる程に明石はその言葉を心の中で叫んでみるも、最早それは後の祭りでしかない。そしてその事実から生まれて押し寄せてくる後悔と懺悔の念に耐える為に、明石はただ泣く事しかできなかった。


 鼻水と涙によって水で濡らしたかのような教え子の顔を眺めていた朝日は、おもむろに立ち上がって明石の脇まで歩み寄ると彼女の隣に寄り添うようにして腰を下ろした。そっと明石の背中に手を触れてやる朝日だったが、明石は師匠の手の温もりを受けても涙が止まらない。


『そう・・・。』


 朝日はそんな声を発しながら何度か頷くと、フッと口元を緩めて明石を包むようにして抱き寄せた。そして朝日の胸の中で嗚咽に苦しむ明石もまた、朝日の借してくれた胸で涙を拭うようにして顔を埋め、両手で朝日の身体に腕を回す。ぎゅっと力を入れて抱きつく明石の頭を朝日は優しく撫で、それまで誰も口にしなかった率直な言い方で明石の心を確認した。


『そう・・・。好きだったのね、その人の事・・・。』

『あ、あ・・・、あああぁぁ・・・。』


 明石は頷かなかったが、朝日の言葉を受けて声を一層大きくして泣いた。その行動こそが、朝日には彼女の精一杯の答えであると感じられずにいられなかった。

 初めて明石と会って教育を実施した2月、朝日は一度だけ明石にちょっと意地悪な質問をしたことがあった。艦魂が見える人間と出会い、文字通り寝食を供にしているという明石。そしてそんな明石が艦魂社会における軍医として生きていく上で、人間と艦魂のどちらかを切り捨てなければならない時がある、と。その時、明石は「どちらも助ける」と即答した。朝日はその答えを悪いとは言わなかったし、彼女自身もそうは思わなかった。

 だが朝日は、今の明石にその時の答えが明確に違うと確信した。明石にとってはその人間の少尉こそが大事であり、全てなのである。それは帝国海軍の艦魂としては致命的な間違いであり、実は明石と顔を合わせる前に噂を耳にした時、朝日はその事を叱ろうとさえ思っていた。長年、軍医として生きてきた朝日にとっては、艦魂が仲間達よりも人間の方に肩入れする、というのは到底許す事のできない由々しき事態であり、身の程を忘れた教え子は叩いてでも考え方を直させようとしていたのである。

 ところが顔を合わせてしばらく経ち、こうして涙で頬を濡らす明石の表情を目にした朝日は、その考えに基づいた行動をとろうとはしなかった。


 心の底から愛する男性を得て、その為に涙を流す。

 それは艦魂や人間等というちっぽけな区切りではなく、この世に生きる全ての命が得る事のできる当たり前の姿なのではないだろうか。

 女性として生を受けた明石が一人の男性を想う余りに泣き崩れるこの光景は、本当に間違いなのだろうか。


 胸の中ですすり泣く明石を見つめる朝日の脳裏には、そんな疑問が湧いていた。それはとても難しい疑問であり、そも艦魂が見える人間の話は聞いた事があっても供に過ごした事が無い朝日にはその答えは到底出せない物だった。

 だが一つだけ、朝日の心に湧いた物がある。それは今、自分の胸の中で泣く教え子と同じ顔を持つ朝日の師匠が教えてくれた「命に対する理想」であった。

 朝日はそれを思い出すと同時に小さく微笑むと、目を閉じて明石の額に頬を添えるようにして語りかける。


『明石、その気持ちを大事にするのよ・・・。』

『・・・う、う、あああっ・・・。』

『きっとその人は戻ってくるわ。それまでその気持ちを忘れず、いつか戻ってきた時に思いっきりぶつけてあげるのよ。大丈夫。こうでありたいと強く願ってさえいれば、結果は必ずついてくるわ。今は泣いてもいいから、頑張るのよ、明石。』


 長門が脇からそっと見守る中、朝日の胸に顔を埋めた明石は泣きながらその言葉に頷いた。朝日には艦魂が見える事のできる人間を身近にした教え子の境遇が気の毒な事この上なかったが、40余年の自分の生涯では一度たりとて味わう事のできなかった感情を持つ事のできた明石を少しだけ羨ましく思った。


 頑張れ。


 その言葉を何度も心の中で呟きながら、朝日はしばらくの間、明石の頭を撫でてやった。







 陽が暮れて気温が下がり、月と星達が夜空に目立ち始める頃。

 明石はこれまで近づこうとさえしなかった、かつての忠の部屋に戻ってきた。ゆっくりと扉を開けた先に広がった、生活の息吹がすっかり消えた部屋。あれだけ本が並べてあった机は綺麗に片付けられ、いつも相方が寝るまでは自分が占領していたベッドには既に布団は無く、鉄のフレームが有るのみ。僅かに口を開いたクローゼットは、その隙間から中には何も入っていない事を明石に伝えた。

 入り口を入ってすぐ脇の壁にあるスイッチを慣れた手つきで押すと、部屋に一つの電灯がポツリと灯りをともしだす。こんなにも侘しい灯りであったかと感じながら、明石は後ろ手に扉を閉めた。明るくなった部屋の床は髪の毛一つ落ちておらず、それが明石の記憶から綺麗好きだった忠の事を引っ張り出そうとする。


 どんな気持ちで彼は部屋の掃除をしたんだろう?


 そんな事を考えながら部屋の中央まで歩いた明石は、ふとある事に気付いて足を止めて顔を上げた。まだ力が篭らない動きで左右を見回し、彼女は肩の高さで両腕を左右に伸ばす。どちらの指先も壁には遥かに届かないくらいに部屋の広さがある事を、明石はこの時初めて気付いた。部屋の主であるにも関わらず、押しかけた仲間達を横目にいつも部屋の隅にある椅子に腰掛けていた相方。その光景に彼女自身も狭い部屋だと何度も思っていたのに、主を失った今の部屋は本来の広さを明石に充分過ぎる程に伝えた。

 なんとかそれを否定したかった明石はベッドに向かって淡く白い光りを放ち、そこに自分の布団を出現させてみるものの、目に映る光景は彼女が部屋から感じる感覚を少しも変化させてはくれなかった。


『はあぁ・・・。』


 大きく溜め息をつきながら明石はベッドの端に腰を下ろし、記憶に残っていた部屋の印象からは嘘の様に静まり返った部屋のあちこちに視線を配ってみた。


 机から床に灰皿を落として自分の布団を灰まみれにした時、怒ったフリをしてヘコヘコと頭を下げる森さんを内心笑いながら怒鳴った事があったな。

 扉の向こうから響いた「巡検」の言葉を受けて、私が着替えている事を忘れて思わず振り向いてしまった彼を変態と蔑んでやったりもしたな。

 私が布団に落とした甘納豆がその後に見つかって青木大尉におもいっきり雷を落とされた時は、今にも泣きそうな顔でしょんぼりとした彼を元気づけるのに苦労したっけ。


 蘇ってくる忠との思い出が明石には辛く圧し掛かって来るが、この数日の間に泣き尽くした明石の目にはもう涙すらも湧いてこなかった。その記憶をお世辞にも今まで大事にしてきたとは言い難い自分とその結果である部屋の光景に、明石の胸の中には罪悪感と自分への嫌悪感が積み重なっていく。ふと脳裏を過ぎっていく友人の口癖は、今の自分を良く表した言葉であった。


 いつの間にか床を眺めるようにして俯いていた明石だったが、静まり返った部屋の中へ唐突に正面から響いてきた物音を受けて顔を上げる。そこには今しがた彼女の脳裏に浮かんだ言葉を口癖とする友人の、開いた扉の隙間から部屋の中を窺う姿があった。


『ふん・・・、ここだと思った。』

『神通・・・。』


 長い前髪の奥、深めに被った軍帽の陰になったそこには、神通らしい鋭く尖った瞳がある。不機嫌そうに眉を僅かにしかめているが、それでも普段から仲の良い明石はそんな彼女が不機嫌なのではない事をすぐに感じ取る。少し大きめの紙袋を腕に抱えた神通は足で扉を閉めると、ゆっくりと明石の隣まで来てベッドに腰を下ろした。目元が前髪で隠れていながらも、紙袋から中身を取り出して差し出してきた神通の手に、明石は彼女なりの優しさが込められている事を認識する。


『食え。』


 短い神通の言葉を受け、明石は彼女の手から差し出された握り飯を受け取った。ぶっきらぼうな物言いの神通だが、明石が握り飯を受け取ると同時に彼女は再び紙袋に手を突っ込み、今度は小さな水筒と金物の碗を取り出して水の用意を始めてくれる。いつもはこんな事は従兵である(あられ)にやらせているが、元気の無い友人の為ならば黙々とそれをこなしてくれる所が神通にはあった。

 忠という、人間が食べるのと同じ食べ物の調達方法を失ってしまい、今日とて朝から何も食べていない明石は神通の優しさに深く感謝して握り飯にありつき、もぐもぐと大きく頬を動かして噛みながら呟くように礼を口にする。


『ありがと・・・。』

『ふん。』


 手元でカチャカチャと音を立てながら、神通は明石に視線を流さずに碗に水を注ぐ。そして充分に水を湛えた所で、碗を明石に差し出した。


『ほれ。』


 明石は欠けた握り飯を左手に持ち替え、開いた右手で神通の手から碗を受け取った。溢さない様にしてゆっくりと口に近づけ、明石は口の中に残った後味と握り飯を洗い流すようにして水を飲んだ。

 碗の傾きを次第に増していく明石を横目に見ていた神通は蓋をした水筒を紙袋に戻して明石と自分の間に置くと、小さく溜め息をついて頭から軍帽を取った。僅かに背を反らしてふてぶてしく脚を組み、自分を挟んで明石とは逆の方に帽子を放る神通。改めて明石の顔を横から眺めてみるものの、明石の表情は涙こそ無い数日前の彼女のそれとは何も変わっていない様に神通には思える。

 もちろんその原因は一端は明石にもあるのだが、一向に元気が戻らない友人の姿を見るのは神通は嫌だった。また、そこに懸けられた忠と明石のどちらの心をも知る彼女は、悲しい結末を迎えてしまった二人を決してその口癖の通りに馬鹿だと蔑んでいる訳でもない。

 お互いを嫌ったわけではなく、むしろ逆の想いを秘めてしまったが故に別れてしまった二人。当事者の片割れである明石を頭ごなしに叱った彼女だったが、その実、二人のその姿は神通にとってはなにか微笑ましい輝きを放っているように感じてならなかったのである。

 そんな思いを隠しきれず口元を僅かにゆがめた神通は、どんよりと暗い空気を放つ明石に向かって静かに語りかける。


『気を落とすな、明石。森はお前の事を嫌いになった訳じゃない。』

『・・・・・・。』

『別れ際にな、森が言ってた。今のお前との関係が不公平だってな。』


 明石はその言葉を受けて僅かに首を振って神通に顔を向けた。

 忠と離れてしまった後、明石は彼がどうしているのかまったく知らない。部屋を飛び出してしまった後になって自分の言動を恥じた彼女は、どの顔を下げて彼と会えばいいとすら思っていたのだ。忠の心遣いなど怒りに任せて振り払ってしまったし、酷い言葉も投げつけた。絶対に自分を許してなどくれないだろうと思っていた明石だったのだが、それ故に別れ際に言ったという意味深な彼の言葉は明石には気になって仕方が無い。

 僅かに頬の動きを遅くして顔を向けてきた明石を認め、神通は彼女から少しだけ視線を外してさらに続けた。


『森はあれでな。お前の成長を喜びながら、出会った頃とあんまり変わってない自分がお前には不釣合いだと思ってたんだよ。アイツも男だ、見栄も体面も捨てて目の前の幸せに跳びつく様な真似はできない。だからお前との関係に関しては、自分の美学を突き通さなきゃ気が済まなかったんだよ。まったく馬鹿な奴らだな、男というのは。』


 神通はそこまで言うと視線を明石の方に戻した。明石は片方の頬を膨らませたまま、黙って神通の瞳を見つめてくる。そも艦齢的にはまだまだ幼く、女性ばかりの艦魂社会の一員でもある明石には、身体的な特徴以外での男女の違いという物がイマイチよく理解できていない。だが隣で冷静に分析した男性像を語る明石の友人は既に艦齢14年を迎える艦魂としての大先輩であり、その声には明石の脳裏にそこに対する疑問を沸かせないだけの強い説得力があった。

 そして神通は呆けて見つめてくる明石に優しく笑みを見せると、再び口を開いて声を放ち始める。


『本当に馬鹿だ。だがな・・・、海を眺めながら寂しそうな顔でそんな事を語ってくれた森が、私には無性に良い男に思えたぞ。』

『森さん・・・・。』


 いつもは抜き身の日本刀ように殺伐とした印象を与える神通の声だが、今の彼女の声は明石の冷え切って固まった心を溶かすように暖かく包み、明石は今まであまり意識しなかった男としての忠を心の中に映し始める。


『森は頭も良いし、砲術科員としての腕も良い。必ず良い成績を収めて、配転先希望を叶えられる待遇を勝ち取る筈だ。だからアイツは絶対戻ってくる、解るか?』


 神通がそう言った後、お互いに間には少しの間沈黙が流れたが、それを遮ったのは小さくコクンと頷いた明石だった。


『・・・・・・うん。』


 小さい声での返事ではあったがほんの僅かだけ口元を緩めた明石の表情を受け、神通はそっと明石の肩に手を触れる。自分が女性であり忠が男性であると理解できた今、明石の心からは渦巻いていた暗い心が晴れ始めており、神通もまたそれを悟ったのだ。


『今は辛抱だ、明石。そしてアイツに対しての想いには誇りを持ってやれ、・・・森がそうしたようにな。それと森の気持ちも今なら解るだろう?なんでお前に砲術学校に行くと言えなかったのか、いや、そもそもなんで砲術学校に行こうと思ったのか・・・。』


 神通の問いかけの答えは明石にはしっかりと解っていた。


 男性である彼なりにきっと同じ想いを持ち、同じ苦しみを味わったに違いない。


 そう思った瞬間、明石の心は晴れた。そしてしばらく振りに彼女は、持ち前の綺麗な笑みを浮かべて神通に顔向ける事ができた。その笑みで彼女の返事を悟った神通は軽く明石の肩を叩くと、スッと立ち上がって言った。


『少し、元気になったみたいで安心した。そろそろ戻る。』

『うん。』


 笑みを合わせた所で神通はベッドの端に置いてあった軍帽を手に取り、部屋に入って来た時と同じように深めに被ると明石に背を向けて扉に向かって歩き出す。初めて理解する事のできた相方の心の一端に明石は心の底から喜びながらも、それを教えてくれた神通に深い感謝の気持ちを抱いて咄嗟に声をかける。


『神通。』

『ん?』


 歩みを止めた神通は背を向けたまま、首だけを捻って明石に視線を送る。


『ありがと。』


 明石は友人の心遣いに感謝してそう言った。だが神通はそんな明石を鼻で笑うと、ちょっとだけ眉をしかめながら明石に微笑んでみせた。その行動に明石が不思議に思って首を捻ると同時に、神通は静かに声を返した。


『ふん。礼なら森に言え。』

『・・・え?』

『アイツめ、お前を頼むと言いやがった。まったく、私に向かって尻拭いを頼むんだからな。大した奴だ。』


 いつもの様に憎まれ口を叩く神通。明石が感銘した心遣いを、彼女は尻拭いという少し下品な言葉で例える。だがそんな神通の言葉に、明石は腹を立てることは無かった。むしろ冗談を含んだような神通の台詞が意味する事を彼女の友人として良く知っている明石は、再び胸の奥から込み上げてくる感情を抑えきれずに声を漏らし始めた。


『ふふ・・・、ふふふふ。神通が尻拭いか。』

『ふっふっふ・・・。まったく、お前らと付き合ってるとロクな事がない。』


 明石のそれは友人の立場を滑稽に思った物だったのだろうか。それとも自分を苦しめていた暗い感情から解き放たれた喜びから出た物だったのか。そして神通のそれは自分の馬鹿さ加減を哀れんだ物だったのだろうか。それともやっといつもの自分に戻れた友人を祝福した物だったのだろうか。

 何れにせよ、二人はお互いに込み上げてきた可笑しさを隠せず、大いに笑い合った。


 桜が散り終わり、暖かさが暑さを伴い始める5月の夜の事だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ