第三五話 「有明の誓い」
◆本話のご拝読に関しましてのお願い。◆
読者皆様、いつも明石艦物語をご拝読くださり有難うございます。
今回はPCにてご拝読なされています読者の皆様に限り、お願いがございます。
ニコニコ動画のとある動画である下記のURLを別ウィンドウで開いて頂き、リンク先の曲をバックグラウンドで流しながら本話のご拝読にあたって欲しいのです。
第35話の執筆に当たっては下記URL先の動画、すなわちOneRoom(ジミーサムP)様の名曲
『From Y to Y』を執筆の時間は常にリピートでかけさせて頂きまして、今回のお話を象徴する曲とさせて頂いております。
ご拝読なされております読者皆様にあっては是非ともこの名曲を耳にしながら、忠と明石の物語を楽しんで頂けるようお願いいたします。
◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm6529016◆
▼要注意事項▼
ご拝読なされます、小説執筆者の皆様へ
この度の楽曲へのリンクはOneRoom(ジミーサムP)様より特別のご許可を頂いて実現した物です。決して安易に他の動画や楽曲作者への許可無しに小説でのリンクを張る様な事はしないよう、深くお願い申し上げます。
2009年 7月3日 明石艦物語作者 工藤傳一
昭和15年4月10日、第二艦隊は基隆を出航。南支方面での日程を終えた第二艦隊は訓練を始めた地、九州南部の有明湾へと戻る事になった。そして4月20日を持って第二艦隊の冬季艦隊訓練は終了となり、艦隊各艦はそれぞれの母港に向かって帰る事になるのだ。長く内容の充実したこれまでの艦隊訓練は第二艦隊の錬度を大きく引き上げ、古賀第二艦隊司令長官もその結果にはご満悦であった。
すっかり春の暖かさを含んだ潮風が吹き、ポカポカと過ごしやすい晴天の下を駆けていく第二艦隊。
その中の一隻である明石艦の発令所では、忠が毎日の日課である事務仕事に精を出していた。サラサラと流れるような動きで鉛筆が紙上を走り、空白の多い書類には、真面目さが良く伝わる角ばった文字が書き込まれていく。
もうすぐこの事務仕事ともお別れか。
そんな言葉を脳裏に浮かべながらも、決して手の動きを止めずに書類を片付けていく忠。艦艇乗組みの砲術士としてそれなりに経験を積んできた忠には造作も無いお仕事であり、机の脇に束で詰まれた書類は雪崩を打つかのように無くなっていく。ハッキリ言って、今日のお仕事は順調だった。
『はぁ〜・・・。』
だがそのお仕事の軽快な進捗も、今の忠の心を晴らしてはくれない。小さな溜め息を放っておもむろに室内を見回し、そこには自分一人しかいない事を改めて把握する忠。振り返ればいつもそこにあった明石の姿は無く、常に邪魔をするかのようにそこに響いていた声もこの一週間ほど彼は耳にしていない。相変わらず部屋には戻ってこないし、艦内をそれとなく歩き回って見ても忠には明石の姿を見つける事はできなかった。
その事を考えると忠の胸は釘を刺すかのように苦しくなってくるが、その気持ちを忠は先日覚えた怒りを思い出して打ち消す。自分に責があった事は解っているものの、それに対して余りにも耳をふさぐような相方の態度は、彼にとっては少しだけ理不尽に思えた。忠としても悩みながら、迷いながらとった行動だったし、そも彼は彼女を傷つけようとしたつもりは微塵もない。むしろ彼のその迷いは、相手が明石だったからこそ心に湧いた物であった。
だが明石はそんな彼に見切りをつけ、あの日、部屋を出て行った。そして「勝手にすればいい」と言い放って走り去った彼女の背中を、忠は追おうとはしなかった。自責の念よりも、やり場の無い怒りの方が彼の心には強く芽生えていたからである。
好き放題に言ったお前だって、オレの気持ちなんか知ろうともしてくれなかったじゃないか。
そんな言葉を脳裏で呟くと供に、無意識に入っていた彼の手の力に抗いきれず、走らせていた鉛筆の芯が乾いた音をたてて折れる。
『・・・・・・。』
無言のまま手の動きを止めて、紙の上に転がる芯の片割れを眺める忠。そんな小さなつまずきにも怒りが湧き上がる忠は口を尖らせて行くが、彼の胸の中では相方を憎みきれないもう一人の自分がいた。
あれだけ食う奴なのに、今のメシはどうしてるんだろう?
あんなにおしゃべり好きな奴なのに、今は誰と話してるんだろう?
今までオレを通して人間の洗濯機を使っていたのに、今は汚い服をそのまま着ているのかな?
『・・・ちッ。』
次々に浮かんでくる心配を、忠は再び怒りを呼び起こさせて打ち消した。
なんでオレがこんな思いをせねばならんのだ。
そんな思いから吐き捨てるように彼は舌打ちをする。机の一角にあった煙草の箱に手を伸ばし、乱暴な動きで煙草を取り出すと、彼は箱を机に放り投げて口に挿した煙草に火をつけた。一度吸って大きく吐き出した息と、それに伴って彼の口から漏れる煙。発令所左右の入り口を通っていく風に乗って、その煙は艦の外へと流れていく。その煙を目で追っていた忠は再び煙草を口に挿すと、仰け反っていた上半身を机にかぶせるようにして鉛筆に手を伸ばした。再び紙面の上を駆けていく鉛筆と、握った手から伸びた先にある忠の眉をしかめた顔。
勝手にするさ。
心のあちこちに湧いてくる想いに、忠は怒りのみで蓋をしてお仕事を続けた。
4月15日、第二艦隊は有明湾に到着。
暫く振りの有明湾は以前訪れた時とは全く違う風景が広がっており、緑一色だった陸地にはまさに盛りを迎えた桜の木が花を咲かせていた。
春の色と言えば桜の色。そして富士山と供に、日本を象徴するその花。沖合いから眺める陸地は、桜色の絵の具で線を引いたかのようであった。今年初の桜を見れたと、第二艦隊の乗組員はこぞって喜びの声を上げた。
艦隊訓練終了の打ち上げを花見酒としよう。
そんな声が艦隊全艦から発せられた。
その日の夜、有明湾に寄り添うように停泊する各艦の内の一隻、神通艦の一室に明石の姿が在った。
『・・・・・・。』
ベッドに腰掛ける神通は、その隣でバクバクと握り飯を頬張る明石を眺めていた。こうして餓鬼の様に食べる友人の姿はいつもの事であるが、それは明石艦でしか見る事のできない光景の筈であった。『美味い美味い。』と無邪気な声を明石が上げ、それを調達した彼女の相方が苦笑いしながらも見守っている事で成立していた友人の姿。知り合って以来初めての事に、神通は背後で肩を揉む霰と顔を見合わせる。霰は手を動かしながらも不思議そうな表情で首を捻った。もっともそれは神通も同じで霰の真似をするかのように首を捻ると、再び隣の明石に顔を向けなおした。
『おい、明石。』
『んん・・・?』
明石は何事も無かったような至って平然とした顔で神通に顔を向けてきた。ほっぺにご飯粒をつけて頬を動かす明石の表情はいつも通りといえばそうだが、この時間にこんな場所でメシにありついている時点でおかしい。神通と霰はその事に既に気づいており、二人とも今の光景の裏にある理由をなんとなく感づいていた。
そして神通は脳裏に抱いたその理由を率直に明石にぶつけてみる事にした。再び視線を戻して握り飯を食べ始める明石を、神通はじっと見つめて静かに問いかける。
『森と喧嘩でもしたのか?』
『・・・・・・。』
明石はその声にチラっと神通に視線を流すも、すぐにまた視線を戻した。特に顔色を変えることも無く、無言のまま頬を上下させる明石だったが、そんな彼女の姿は質問の答えを充分な程に神通と霰に伝えた。そして神通は廈門での明石との会話を思い出し、その喧嘩の原因が彼女の相方が砲術学校へと旅立つ事にあるのだと直感する。霰は相変わらず首を捻っているが、それに反して神通は明石の言動を納得したかのように小さく何度か頷く。
やがて目を閉じて小さく溜め息をした神通は、右手に持っていた酒の入ったコップを口に近づけた。静かに酒を喉に流し込んだ神通は、目を閉じたままで再び口を開く。
『いいのか、明石・・・?』
明石はその声にも頬の動きを止めなかったが、彼女の心は確かに揺れ動いていた。握り飯を口に入れてモグモグと動く明石の頬に、目からこぼれた物が電灯の光を受けて輝きながらゆっくりと落ちていく。そしてそれが頬の半分ほどにまで伝っていくと同時に、明石の呼吸が咽ぶように荒くなり始める。そんな明石の姿を横目でそっと見た神通は、彼女が憂う事の全てを察した。
きっと森に、本心ではない何かを言ってしまったに違いない。そして今頃になって後悔し始めたのだろう。
そこまで神通が考えると、それまで何も言わなかった明石は震える声で言った。
『どうせ、もう・・・、行くんだよ・・・。』
それは神通に対して言ったというよりも、まるで自分に言い聞かせるような声だった。明石は目から滴るものを拭おうともせず、ただ床を眺めるようにして顔を下げるだけである。前髪で隠れた彼女の目元から、溢れ出る物がポタポタと落ちて床に砕けていく。ついついその姿に目を留めて手の動きを止めてしまった霰だったが神通はそんな霰を咎める事はせず、スッと立ち上がって明石に身体を向ける。
彼女には明石の考えている事が手に取るように解った。そしてそんな彼女が心の奥に秘める願いを実現する事を心に決め、明石に向かって声を放った。
『立て、明石。森の所へ行くぞ。』
『・・・・・・。』
明石は立とうとはしなかった。ただ俯いて涙を落とすのみの彼女に霰が手を触れようとするが、神通は霰と視線を合わせると首を振って止めた。
『嫌なんだろう?別れるのは。』
『・・・勝手にしろって、もう、言っちゃったよ・・・。う、ううっ・・・。』
明石は両手で自分の頭を押さえ、嗚咽を伴った声で答えた。そしてその言葉に、先程予想した明石と忠の間に起きてしまった一件を神通は確信した。そして堰を切ったように涙を流す明石の姿は、決してそれが彼女としても望んでいた言葉ではなかった事を神通に伝える。
『・・・か、勝手にすれば、いいんだ・・・。勝手に、すればぁ・・・。あ、あうぅ・・・。』
そう言いながら泣く明石に、神通は先程決めた事を尚更実現してやらねばと思い、明石の腕に手を触れて声を掛ける。
『嫌なんだろう?ほら、いくぞ。』
神通は言い終えると同時に、明石の腕を掴んで身体を部屋の入り口に向けて歩き出そうとした。恐らくは明石にしても思う事はたくさんある。だが一つだけハッキリしてるのは、明石には相方との別れが嫌であるという事だった。でなければ、明石が泣く筈がないからである。
かつて父のように慕った者と悲劇的な別れをしてしまった神通には、そんな明石の心のうちが良く解った。いなくなってからその大切さに気付くのが世の常と言えど、後で後悔の涙を流す気持ちは辛い以外の何者でもない。神通はそんな思いを親友である明石にはして欲しくなかった。故に強引にでも明石をもう一度忠に会わせ、せめてお互いの気持ちを伝えさせてやろうと思ったのである。
だが明石の腕を引っ張ろうとした直後に、神通の腕には音もなく激痛が走った。咄嗟に神通が振り返ると、そこには自分の腕を掴んだ神通の腕に顔を近づけ、必死の形相で歯を突きたてている明石の姿があった。ボロボロと涙を流し、呻き声のような泣き声を上げながら神通の腕に噛み付く明石に、神通は拳を握って痛みに耐えながらその心情を再び悟った。
明石はとにかく悔しかった。何も言ってくれなかった忠の事も、それに対して距離を取ろうと考えた自分も、彼女自身が言い放ってしまった決定的な言葉も、そしてそれを悟って助けようとする友人の心遣いも、全てが明石には悔しかった。
神通が先程から口にする言葉は、脳裏に浮かばせないようにしながらも明石が心のどこかで思っている正直な気持ちであった。だがそれを表に出す事もできなければ、自分の口から放つ事も明石にはできなかったのである。
しかし神通は明石の心の内をよく理解しながらも、それをハッキリと間違いであると判断した。そして明石が噛み付いた腕に力を入れた神通は、もう片方の手で明石の襟を掴んで噛まれた腕を力任せに引っこ抜くと、思いっきり振りかぶって明石の頬に打ち込んだ。
『あぐぅっ!!!』
殴られた明石は神通の拳の動きに引っ付く様にして、ベッドの上から床に強く打ち付けられた。最近では滅多に見る事の無くなった神通の全力での殴打、ましてその相手が大の仲良しである明石であった事に、そっとベッドの脇から今まで見守っていた霰は仰天した。明石は痛みにもがき、殴られた彼女の頬は青く変色していく。そして床で悶え苦しむ明石の襟に神通は手を伸ばすと、両手で襟を掴んで明石を吊り上げた。脚に力が入らない状態で締め上げられる明石と、彼女の顔に向かって怒りをあらわにした鋭い目つきで睨みつける神通。
そんな光景に霰はベッドから身を乗り出すようにして、神通の身体に手を伸ばしながら咄嗟に声を放った。
『せ、戦隊長・・・!!な、なにを─!』
『黙れええ!!!!』
『うっ・・・!』
もう少しで神通の腕を掴もうとしていた霰の手は、久々に神通の狂気すらも漂わせた表情と声を受けて止まってしまった。恐怖に怯えて後ずさりする霰から視線を流した神通は、襟を掴んだ彼女の手を解こうとする明石に向かって荒げた声を浴びせる。
『お前、なんで森に正直な自分の気持ちを言わん!?』
『ぐぅっ・・・。は・・・、離して、よ・・・!』
『行くなと言えば良いだろう!?森の脚にしがみついて、行くなと頼めばいいだろうが!!』
頬を腫らした明石は、神通の言葉を受けて言葉を詰まらせた。それこそが自分がしなければいけないと考えていた行動の一つだったからだ。嫌なら止めれば良い、神通の言葉はもっともな事であった。だがそれでも明石は自分の気持ちを偽ろうとした。熱くなってきた頬にも神通の声にも、明石の悔しさが治まらなかったのである。
『・・・だ、だって、も、・・・森さんが決めた、んだよ・・・。』
『ああん・・・?』
『私・・・、が、どうこう言っても・・・、も、森さんが─。』
そこまで明石が言った所で、神通は怒りに任せて再度明石の頬に拳を打ち込んだ。
『この馬鹿があ!!!!』
殴られた明石は仰け反る様にして壁に背を打ちつけ、重い金属音が部屋の中に木霊した。その光景に怯えきっていた霰も意を決し、跳びかかるようにして神通の身体にしがみつく。
『せ、戦隊長・・・!か、堪忍してやってください!』
腰の辺りに抱きついてくる霰に身体の自由を奪われる神通だったが、彼女は霰を無視するかのようにして目の前で倒れ込む明石に叫んだ。
『お前の気持ちを聞いてるんだ、馬鹿が!!いつもわがまま言って森を困らせてきたのはお前だろうが!?それを、こんな時ばっかり森のせいにしやがって!!!卑怯だと思わんのか!!??』
『・・・・・・。』
床でのた打ち回りって痛みに耐えながらも神通の声を耳にした明石は、その言葉に自分の罪を明確に悟った。
基隆での夜、怒った明石は忠に対して、同じように彼を責める言葉を言い放ってしまった。怒りに任せて言い放った明石であったが、記憶に蘇ってくるそんな自分の姿は神通が言う通り、自分の非を他所にして相方のみを責める卑怯な奴以外の何者でもなかった。その記憶が蘇ると同時に、明石の心は後悔の念で満たされていく。
なんであんな小さなことで怒ってしまったんだろう?
なんであんな言い方をしてしまったんだろう?
なんでいつもの様な接し方をできなかったんだろう?
そんな言葉が脳裏を過ぎった刹那、人前である事も、霰の前での士官としての体面も忘れ、明石は両手で頭を抱えて大粒の涙を流し、赤ん坊の様に大声を上げて泣いた。
『ぁああ・・・、うああぁぁあ・・・・!!!』
憎しみをもって明石を殴り飛ばした訳ではない神通は、その姿に振り上げていた手を下ろす。そしてその事に安堵した霰が明石に駆け寄って行くのを認めながら、神通は舷窓の向こうの夜空に向かって視線を流した。キラキラと煩わしい程に輝く星を目に入れ、彼女の身体からはそれまで震えるほどに篭められていた力が抜けていく。そして怒りが静まりつつある彼女の耳には、十数年前の自分と同じように泣き崩れる明石の声が届いてくる。
『どいつもこいつも・・・。馬鹿者が・・・!』
昭和15年4月20日。
連合艦隊第二艦隊の冬季訓練は全過程を終了。前日には艦隊各艦にて訓練終了における打ち上げの飲み会が催され、翌日には各艦がそれぞれの母港に向かっての帰途につく事になった。選りすぐりの戦隊で編成されたこの第二艦隊の勇壮な姿も、次回の艦隊訓練である夏季艦隊訓練までは見納めとなる。
旅立ちの日を迎えた忠は、明石艦の最上甲板左舷中央部に立っていた。部屋にあった荷物をしまい込んだカバンと衣嚢を横に置く忠の顔を、その旅立つを祝うかのように輝く太陽の光りが照らしつけてくる。前日の打ち上げ兼送別会では同僚や諸先輩から励ましの言葉を頂いた彼であったが、その実はそれ程酒も箸も進まなかった。あまりはしゃぐ気持ちになれない彼は部屋に戻っての最後の夜も、同居人が消えた事で静かになった部屋に馴染めず、逆に中々寝付けないという有様だった。
『はぁ・・・。』
若干の疲労が混じった溜め息を放ち、忠は明石艦左舷の沖合いに停泊する駆逐艦群を眺める。艦首に大きく「8」と書いたその艦群は、母港横須賀へと旅立つ事に備えて煙突から一際大きな煙を靡かせている。そしてその艦群の内の一隻こそが、文字通り彼が新たな道へと船出する為の船その物であった。
黙ってその艦を眺めていた忠だったが、その背後から革靴特有の甲高い靴音が静かに響いてくる。他に乗組員が一杯いる事を知っている忠は気にも留めなかったが、その靴音の主は忠の横まで歩み寄ると静かに声をあげた。
『もう、行くのか・・・?』
声を受けた忠が顔を向けた先にいたのは神通だった。
いつもの様に軍帽を深めに被り、腕を組んでキッと海の向こうを眺める神通。その後ろには今にも泣きそうな顔をする霞、雪風と供に、もう一人の部下らしき水兵服姿の少女が続いていた。彼女達に笑みを見せてやった忠は、再び視線を沖合いにある駆逐艦群に向ける。
『ああ・・・。』
『ふん・・・。』
神通はそれだけ言うと、後は何も言わずに忠と供に沖合いを眺めた。彼女とは相方と供にこれまで親睦を深めてきた仲である忠は、神通の何かを言いたげにしている表情を何となく読み取る。だがそれがきっと明石の事であると考えると、少しだけ忠の口も固くなってしまう。
どう切り出そうかと考えていた忠だったが、背後から走り寄ってくる靴音を耳に入れて再び背後に顔を向けた。
『ひぃ、ひぃ・・・。戦隊長・・・。』
肩で息をしながら声を発したのは霰だった。振り返った忠に汗だくになりながらもニッコリと笑って見せる霰は、同じく呼ばれて振り返った神通と視線を合わせると途端に笑みを掻き消して首を左右に振る。その霰の動作を認めた神通は、少し強めに歯を噛むと小さく舌打ちをした。
『あの馬鹿が・・・。』
そのやりとりを目にしていた忠は、神通が明石を連れて来てくれた事を察した。怖いお人ながらも世話になりっぱなしである神通には感謝の念が絶えないが、彼はちょっと口元を歪めた笑みを作って神通に言った。
『いいよ、神通・・・。いいんだ・・・。』
『何が"いい"だ、馬鹿者が。』
煮え切らないその態度に神通はギロリと彼を睨みつけるが、忠は苦笑いしたまま俯いている。しかし二人揃って同じように自分の気持ちを押し殺す事に、神通は声を荒げて叱責しようとする。どれ程までに別れという物が辛いかを知っている神通は、それを次代を担う若者には味あわせたくなかったのだ。だが言いかける神通の声を、これで良いと諦めをつけようとする忠は遮った。
『大体、男のお前が─!』
『オレが気持ちを正直に伝える事ができなかったから、明石は愛想を尽かしたんだよ・・・。』
『・・・・・・。』
忠とて何も考えていなかった訳ではない。
明石がいないこの二週間程、忠は今までの事を彼なりに整理しようとした。どうして明石が怒ったのか、いや、そも彼の態度を受けた彼女は彼の事をどう思ったのだろうか。静けさが支配する自分の部屋で考えを巡らした彼は、そこに一つの答えを見出した。そう、明石はきっと愛想を尽かしたのだ、と。
普段から笑って彼女の言葉を誤魔化し、当の本人である彼もそれでなんとか済まそうとタカを括って過ごしてきた。正直に思った事を彼女に素直に言った事など、これまで一度もない。無邪気な笑顔で話しかけてくれた明石に対して、自分のそれは裏切りという名の罪だとさえ彼には思えた。そしてそんな事に彼が気付いたのは、相方の心を傷だらけにしてしまった後である。
許しを請う等という気持ちには彼はなれかった。彼が罪に気付いた時、その心に浮かんできたのは「明石に対する償いをせねばならない」という思いであった。そしてその為に自分ができる事は、彼女の言葉通りに相方の前から姿を消すしかないと忠は結論付けたのである。
だが彼の言葉を後ろで耳に入れていた霰は、数日前の明石の姿にその気持ちを察し、忠の腕を引っ張るようにして声を上げた。
『明石さんは森さんに愛想なんか尽かしておらんどす!明石さんは─!』
『いいんだ、霰・・・。』
忠は霰の声を受けるも振り返らず、静かにそう言って霰の声を遮った。彼は手摺に寄りかかるようにして腰を折ると、細くした瞳で海の向こうを眺めながら話し始めた。
『・・・オレさ、明石が軍医として大きくなっていくのが、凄く悔しかったんだ。オレだけ置いていかれてるような気がしてさ・・・。』
穏やかな有明湾の潮風の乗ってくるかのような忠の声。神通はその声を受けて眼前の海から彼の表情に視線を向け、不機嫌そうないつもの鋭い目つきで睨みつけるようにしながら彼の声に耳を傾けた。
『・・・別れるのは正直辛いよ。だけど、このまま居心地の良い生き方をしてまで明石と暮らすのは嫌なんだ・・・。』
『だから砲術学校に・・・?』
『うん、なんか不公平だろ・・・?オレがいつまでもペエペエでのん気に暮らして、明石だけが頑張るなんてさ・・・。そのクセ対等に接しようなんて、不公平でオレは嫌なんだよ・・・。』
神通はそこまで聞くと、再び海の向こうに視線を戻して大きく溜め息をした。彼の言葉は明石とは違って相手を責めるような言い方ではなく、彼の素直な気持ちを率直に口にした物であると神通は感じた。いつのもはナヨナヨとして優柔不断な彼だが、その胸の内には相方への気持ちから生まれる彼なりの誇りがあったのだ。だらだらと明石と過ごすような事を嫌い、もっと彼女と吊り合う様な人間となる事を決めたという彼の言葉に、神通はそれまで抱いていた考えをその場で改める。
『ふん・・・。お前も言う様になったな・・・。』
その声に忠は神通が何をしようとして自分に会いに来たのかを察し、僅かに口元を緩めて隣で海の向こうを眺める神通に視線を流した。
『オレを叱りにきたのかい・・・?』
忠がそう言うと、神通もフッと口元を緩めて声を返す。
『歯の一本でも折ってやろうと思っていた所だ。』
言い終えて笑みを合わせた二人は、静かに声を上げて笑った。
もっとも本当なら明石とこうやって別れたかった忠は、笑みを浮かべながらもその瞳には寂しさを滲ませる。胸の中で何度も「これでいい。」と言い聞かす忠であったが、そんな彼と神通のやりとりに納得のいかない霰は再び忠の腕をとって声を張り上げた。
『森さん!明石さんは泣いてはったどす!森さんだって泣きたいのとちゃうんどすか!?ホンマにそれでええんどすか!?』
霰は瞳の端に光るものを湛えながら、忠の顔を睨むようにしてそう言った。忠は霰の言葉に胸を詰まらせたがすぐさま歪んだ笑みを作って霰の肩に手を触れると、おもむろに顔を上げて青空を眺めた。今日もそよそよと風に流されて行く雲を瞳に映し、鼻で小さく笑った後に彼は言った。
『・・・それを明石に言える勇気がなかったから、こうなったんだよ。霰。自業自得だ・・・。』
その場を少しの間だけ沈黙が支配し、潮風が音もなく駆け抜けていく中、彼らの耳には別れの合図ともとれる音が響いてきた。
ドッドッドッド・・・
彼らの見つめる先。「8」のマーキングが施された駆逐艦から、一隻の内火艇が彼らの足元にある明石艦のラッタルに向かって近づいてくる。腕を組んだままでその内火艇を目に入れた神通は小さく溜め息をすると踵を返し、背後にいた部下の一人に声を放った。
『朝潮、道中は気をつけるんだぞ。6月には夏季艦隊訓練が始まるから、それまでしっかり休息をとれ。』
朝潮と呼ばれた少女は神通の前まで進み出ると、直立不動の敬礼をして声を返した。
『はい!』
元気の良い返事をした朝潮は神通が軽く答礼をした事を認めると、体勢をそのままに忠に身体を向けて口を開いた。
『帰るついでで恐縮ですが、横須賀まで運ばせていただきます。森少尉。』
横須賀を母港とする朝潮艦と、彼女の姉妹で構成される第8駆逐隊。冬季艦隊訓練を終え、今まさに母港に向かって帰らんとする朝潮艦が、忠を横須賀まで運ぶ旅立ちの船であった。
『うん。願います。』
軽く敬礼を返して朝潮を解放してやる忠。
そして朝潮が楽な体勢に移ると同時に、彼の腕には霞と雪風が纏わりついてきた。優しく笑みを向ける忠であるが、二人は別れを惜しんで今にも泣きそうな顔でどちらからともなく声を上げる。
『森さん、頑張ってね!元気に戻ってきてね・・・!うぇえぇ・・・!』
『無事に戻ってきてくださいね!?ア、アタイも頑張るッスから、も、森さんも・・・!う、うあああ・・・!』
似たような言葉を同時に放って忠に泣きつく霞と雪風。二人の肩に触れて笑みを向ける忠に、兄の様に慕ってくれた彼女達との思い出が蘇ってくる。
思い起こせば、明石と忠にとって始めての共通の知人となった霞。いま隣で腕を組んでムスっとしている神通に殴られ、大粒の涙を流して泣きついてきた霞も、今では押しも押されぬ二水戦最強の駆逐艦として成長した。忠が彼女の肩に手を触れるのは久しぶりだが、その肩の触れた心地は以前の様に華奢な彼女の身体つきを伝える事はない。麻色の肌に白く光るように歯を輝かせた、元気という言葉が良く似合った霞。
そしてそんな霞と犬猿の仲でありながらも、負けん気の強さと陽気で素直なおしゃべりでいつも笑顔にさせてくれた雪風。小豆の缶詰一個に掛けてくれた想いと、人一倍の負けず嫌いを見せてくれた事が忠にはまだ記憶に新しい。ぶっきらぼうな物言いと姉御肌な彼女だが、忠に艦魂たる者の姿を良く伝えた魚雷談義の火付け役になる程に、豊富な知識を併せ持った秀才でもある雪風。
蹴る殴るの大喧嘩を日常とする二人には忠も頭を悩ませたものだが、今となってはそれすらも彼女達との楽しい思い出であった。鼻水を垂らすほどに泣きじゃくる二人の肩を優しく叩きながら、彼は別れの言葉を口にする。
『霞、雪風、世話になったね。二人とも元気でやるんだぞ。それと喧嘩はするなよ・・・。』
嗚咽に苦しんで返事もできぬ二人の肩に触れた手を、忠はそっと伸ばして二人を自分の身体から離した。両手で涙を拭う二人には悪いが、彼には別れを惜しむ実の妹達の様に思えて笑みを増させてしまう。
『森さん・・・。』
そしてふと視線をもう一人の妹に向けた時、彼女は小さく彼の名前を呼んだ。
人形の様な外観を持ちながらも、実の姉である霞よりもずっと大人びた所を持った霰。常に糸目の笑みを絶やさず、持ち前の朗らかな性格で接してくれた霰にも、忠には感謝の念が絶えない。風鈴を鳴らしたような声で放つ独特の京訛りである霰の声は、無意識に彼の心を癒してくれた。ドジでトロい所からいつも神通に引っ叩かれているが、それでも一生懸命に従兵として仕える彼女は忠もずっと応援してきた。
霰は瞳の端に溜まった物を零れ落ちる前に袖で拭うと、スッと身体を伸ばして右手を額につけた。
『お達者で、きっと戻ってきておくれやす・・・・・。』
泣きこそしない霰であるが、彼女はその容姿とは裏腹にどこか他人の気持ちに対して敏感であった。何か別の事を言いたげにした感じで声を放った霰に、忠はその心の内を読まれている事を悟ってちょっと苦笑いしてしまう。
『うん。従兵、頑張るんだぞ。霰。』
『砲術士!来ましたよ〜!』
霰に敬礼を返し終えたと同時に、彼の足元のラッタルから部下の声が響いてきた。『おう。』と小さく返事を返した忠は、足元に置いてあったカバンと衣嚢を手にして神通に顔を向ける。
至って平然とした表情で視線を向けてくる神通の顔は、元々が鋭い釣り目である為に美人ながらも正直ちょっと怖い。忠はその怖さを誤魔化すように笑みを作り、彼女に声をかけた。
『世話になったな、神通・・・。』
『ふん・・・。』
神通のいつも通りの短い返事に、あまりにも強烈だった彼女との出会いが忠の脳裏に蘇ってくる。本気で明石を殺そうとした彼女の、大口を開けた龍の様な表情と咆哮。それは忠も生きてきた中で初めて目にした、剥き出しの狂気その物であった。
だがそんな彼女も今となっては、この場にはいない明石の真の友人となっているだから世の中というのは不思議だ。癇癪持ちで暴れん坊な所には忠も何度泣きそうになった事か解らないが20代半ばと彼よりも年上である容姿をもった神通には、彼の言葉通り色んな事で世話になった。もっともおっかない風貌とそれに伴った成熟した人物像を持つこの人には、妹達のような別れの仕方はいるまいと忠は思い、衣嚢を肩に背負うと同時に彼女の横を通り過ぎるようにして歩き出した。
『じゃあな・・・。』
真っ直ぐ視線を向けたままの神通の横顔に向けて、忠は軽くそう言って通り過ぎた。そして数歩進んだところで、彼の背後からは神通の声が響いてくる。
『あの馬鹿も、・・・後悔してるんだぞ・・・?』
神通は振り返らずにそう呟き、それを耳に入れた忠も歩みを止めた。今までどうしてるか解らなかった相方の事を伝えてくれる、神通の言葉。そして相方と最も親しい友人である彼女の言葉によれば、そんな相方が同じように悔やんでいるのだという。だが忠はそれ以上のことを考えなかった。じわじわと胸の中に湧き出してくる想いを抑え、彼は神通と背を向け合ったままキッと唇を噛む。そして僅かに俯いた忠は、衣嚢を掴んだ手をっ強く握って声を返した。
『・・・頼む・・・。』
『ふん・・・。』
いつもの短い口癖を放つ神通であったが、その声を彼女の返事であると感じた忠はラッタルに向かって歩き出した。神通が自分の願いを聞き入れてくれた事、そして彼女が伝えてくれた相方の様子が彼の瞳に光るものを湧かせ、内火艇に乗り移ろうとする彼の足取りを早めた。なぜだか彼は、目の縁に溜まったそれを誰にも見て欲しくなかったのだ。
そして彼がラッタルを降りると同時に、神通は溜め息を残して明石艦の艦内に向かって歩き出した。
自分の艦ではない為に決して歩き慣れている訳ではない神通だったが、彼女は一切の迷いも無く左舷中甲板にある小さな予備倉庫の扉の前まで来て歩みを止めた。その扉の向こうから僅かに物音がする事を確認した神通は、ゆっくりとした動作で胸の前で腕を組むと扉を背にしてに寄りかかった。しばしの間、沈黙を守っていた神通だったが、辛い事を友人へ伝える苦しみを断ち切るように、何食わぬ声で彼女は呟く。
『行ったぞ、明石・・・。』
神通の声が響くと同時に部屋の中からはドタドタとけたたましい足音が響き、静まるとすぐに部屋の中にある舷窓が開く音が木霊してきた。そしてその先に、自分の艦から離れていく相方の背を目に入れたであろう友人の、悲しく儚げな泣き声が響き始めた。
『ああ、ああぁあああ・・・!!ううぅああああ・・・・!!!』
神通はそんな中でも表情を一切崩さなかったが、決して他の人間には聞こえぬその泣き声の主の心が、彼女には痛いほどによく解っていた。そして危惧した事が現実になってしまった事に彼女は静かに憤りを覚え、その気持ちを乗せるかのようにして声を放った。
『だから、言ったんだ・・・。馬鹿者が・・・。』
言い終えてもなおその場で扉に寄りかかる神通。そしてそんな彼女の声を遮るように、その場には明石の泣き声が響き渡っていた。
部屋の中で床にしがみつく様にして泣く明石を、憎たらしい程に優しく照らす舷窓からの光り。そしてその舷窓の向こうにある朝潮艦は、煙突から一際高く煙を上げると艦首から白波を立て始めた。
狭い駆逐艦の艦内を回転数を上げた機関の音が支配し始める中、朝潮はお碗とお茶の入ったやかんを手に持って歩いていた。
珍しい客人にして艦魂が見える人間。まして妹達が世話になった人である彼には、このくらいのもてなしをせねば姉として申し訳がない。
そんな思いから客人の滞在する部屋の前まで来た朝潮だったが、彼女は部屋の前まで来た所で歩みを止めた。艦内に響き渡る重苦しい機関音に混じり、その部屋の中からは客人の嗚咽に苦しむ声が聞こえてきたからだった。
『ぅうああ・・・、うああぁあ・・・!!!』
遠退いて行く明石艦を映す舷窓にしがみつく様にして、忠は泣いていた。
彼には全て解っていた。神通に言った事は、結局は自分の強がりでしかなかった。霰に言った事は、結局は自分の気持ちの偽りでしかなかった。そして後悔しているという明石を神通から伝えられながらも、結局は格好つけようとして忠は彼女を手放したのであった。ただ涙を見せるのが嫌で、こうでありたい等という自分の理想を盾にして彼は明石から逃げただけであった。そして自分の気持ちを知りながらも、結局は自分からすらも逃げようとした事を今更ながら悟り、忠は後悔と懺悔の涙を流していたのだ。
いつも笑みを見せてくれた明石の事が忠の脳裏に溢れてくる。
彼女の優しさに甘えるようにして自分を誤魔化し、失う事への恐れから嘘までつき、さも当然の様にしてただそこに居座っていただけの自分に、彼は涙が零れ落ちる度に激しく憎みを募らせていく。
そんな自分を明石は一年間の間、記憶に留めていてくれるだろうか?
またあの笑みで迎えてくれるだろうか?
いや、また会えるのだろうか?
そんな言葉が溢れてくる胸に忠は苦しみ、失ったモノが余りにも大きかった事を改めて理解した。悔しさと憤りと無念が渦巻く心に、忠は舷窓を掴んだ手に力を込めて耐えながら泣き叫んだ。
『明石・・・、あかしぃ・・・・、うぐぅっ、ああぁ・・・!!!!!!』
有明湾に錨を下ろしたままの明石艦と、横須賀に向かって旅立っていく第8駆逐隊の4隻の駆逐艦群。その日の晴天をそのまま映したかのような海原を第8駆逐隊の朝潮艦は泡立つ真っ直ぐな航跡だけを残して駆けて行き、明石艦と朝潮艦はお互いの艦影を霞ませていった。
そしてお互いの艦で同じように泣き伏せる二人は、大声で泣きながら同じ事を心に誓っていた。
再会を期すまで続く、これからの時間の全て。その全てをただひたすらに悔いて過ごす事だけが、愛したヒトへの償いである、と。
昭和15年4月20日。
二人は別れた。
拙作にも関わらず、楽曲の提供を承諾していただいたOneRoom様。
この場をお借りしてお礼を申し上げさせて頂きます。
この度は本当に有難う御座いました。
明石艦物語 作者/工藤傳一