第三四話 「すれ違い」
昭和15年4月2日。
束の間の南支行動を終えた第二艦隊は対岸の台湾へ移動。移動と言っても廈門から東に少し進んだ所に台湾はあり、感覚的には泊地の変更といった感じである。翌朝には台湾北部の港湾都市である基隆市へと到着した。
基隆市は台湾の中でも比較的大きな都市であり、内地にもっとも近い港湾都市であった事から帝国による台湾領有時にはここに台湾総督府が置かれた。設置から1ヶ月で総督府は内陸にある台北市に移されてしまったが、深い入り江の地勢をもつ基隆は港湾都市としてうってつけであり、領有化してすぐに日本は基隆一帯の港湾への拡張工事を行った。元々水深があまり深くなかった基隆はこの工事で大型船舶の接岸が可能なまでに余裕を持ち、第二艦隊の各艦は久々にその身を岸壁に横付けする事ができた。馬公要港部管轄区である基隆には帝国海軍の出張所や連絡所が設けられており、海軍としての馴染みもそこそこにある都市である。
また台湾北部は内地に近くて住民も親日的な人々が多い事から、その台湾の玄関たるこの基隆市は日本人の移民が多い事も特徴的であった。当然それに伴って基隆市街には日本人向けの飲食店等がちらほらとあり、それは艦隊勤務の合間の休養に対しても一役買ってくれる。
初めての台湾への上陸とあって軽い足どりで艦内を歩く忠は、意気揚々と自分の部屋にある扉を開けた。上陸証に財布、その他必要な物を取る為に部屋に戻った忠であったが、彼はそこにせっせと薬箱に向かう相方の背中を見つける。
上陸先でのおいしい食べ物の調達はいつもの事。もうすっかり慣れっこである忠は机を漁りながらも笑みを作ると、床に腰を下ろして自前の薬箱の点検に勤しんでいる明石に向かって口を開いた。
『明石、これから上陸だ。まだ食べたい物とか聞いてなかったんだけど、なにが良い?』
口元を緩ませながらそう言った忠は、机の上にあった財布を取ってポッケにしまい込んだ。机の上に散らばった本や書類を片付けながら相方の返事を待つ忠。だが当の明石は振り返る素振りもせずに、どこかいつもの無邪気さが抜けた声で答えた。
『ん〜。いいよ、別に。森さんのお金、なくなっちゃうし。』
その声に忠は思わず紙を持ったままの手を止め、驚きを隠せない顔で相方の背中に視線を流す。それは彼女と知り合って以来、初めての出来事であった。いつもは聞く前からこれでもかと言わんばかりに言い聞かせようとする明石なのだが、今日は珍しくそんな行動を取らない。声を聞く限り機嫌が悪いようではないらしいが、ここ最近の明石の行動が忠にはとても気になった。
廈門を出発する辺りからどこか静かになった明石。忠はそんな彼女を心配し、隣まで歩み寄ってその表情を覗き込むようにしゃがみこんだ。
『明石、どうし─。』
『あ、ごめ〜ん。今ちょっと数、数えてるんだ。後にして貰って良い?』
いつもの通り忠の声を遮って口を開く明石。彼女はそう言いながら一度忠に苦笑いすると、すぐにまた手元の薬箱に向かって視線を戻した。会話する相手が困るほどに目を見つめてくる明石なのだが、ここの所は一切目を合わせようとしてこない。そしてその顔は特に頬を膨らませている訳でもなければ、口を尖らせているわけでもないのだ。そんな彼女の心の内を、相方である忠は悟る事ができなかった。
『そ、そうか・・・。』
ちょっと肩を落として呟くように忠がそう言うと、明石は手元に視線を向けたまま歪んだ笑みを作る。
『うん、ごめんねぇ。』
一向に明石の心が見えてこないのは辛かったが、上陸の時間が迫っている事を思い出した忠は小さく溜め息を放って立ち上がった。その間、彼はずっと明石の横顔を眺めていたが、彼女は動じる事も無く黙々と薬箱の中の瓶やガーゼ等の数を紙に書き込んでいた。
やがてここまで相方の態度を心配してきた忠だったが、どうにも心を開こうとしてくれない明石に段々と腹が立ち始める。だが今ここでそれを彼女に問いただす気も無ければ、そんな時間も彼には無かった。そっぽを向くように忠は体ごと顔の向きを扉に向けると、腕時計をチラチラと見ながら部屋を出て行った。
扉が閉まることを示す重い金属音が、シンと静まり返った部屋に響く。
明石はその音にも顔色を変える事無く、ただ黙って薬箱の中をいじくりまわす。そして、ふと彼女は紙に書いた数字に目線を流した。そこに書かれたのは彼女の口から出た言葉を否定するデタラメな数字ばかり。明石は最初から、数を数えてなどいなかった。
私は何をしてるんだろう・・・?
そんな言葉を脳裏に浮かべながら、明石は顔を少し上げて舷窓の向こうに広がる青空を眺めた。
基隆市街に繰り出した忠はさっそく市内での自由散策としけこんでいた。廈門と違って第二艦隊の全艦が岸壁や桟橋に横付けしているからか、市内には同じ帝国海軍の軍服を着た者がやたらと多い。桟橋から商店がならぶ路地を歩く忠だがそこですれ違う水兵のペンネントには聞きなれた艦の名前が入っており、どうやら明石艦だけでなく他の艦でも上陸日になっているという事を彼は悟った。
先程の明石の態度に腹を立ててしまった彼だが、決して彼女が悪い人柄ではない事からその考えを今は改めている。
今まで一緒に頑張ってきた明石と自分。それを態度一つで怒るようでは彼女の相方であると胸を張って言えないし、何よりあまりにも薄情という物であろう。怒る前にその理由がどこにあるのかを探って、彼女をいつもの調子に戻してやらなければならない。そして、例え彼女が人外の者であっても、それができるのは自分だけだ。
歩きながらそんな事を考えていた忠は、自らの頭を冷やす意味合いも含めて風呂屋に行く事にした。上陸先で垢落としするのはいつもの事であるし、先程から彼が目にする基隆市内の看板は日本語で書かれた物もたくさんある。故に彼がお目当ての看板を探すまで、それ程時間は掛からなかった。彼が目に入れた「風呂屋」とデカデカと書かれた看板の下、入り口に当たるそこには水兵達の行列がまだできていない。他の艦艇よりも先んじて上陸を許可してくれた宮里艦長に感謝しつつ、忠は風呂屋の暖簾を潜って行った。
真昼間から風呂屋にくる人々とは海軍関係くらいであろうか。脱衣所からして既にガラーンとしていて人気は無く、お湯が湯船から溢れるザバザバという音が空しく響いているだけであった。呉では夜勤明けの工員等が結構いる為に風呂屋は一日中繁盛している物であるが、軍港ではなく内地からも離れた台湾ではそうではないらしい。もっともそれは忠にとっては喜ばしい事である。広い湯船を自分一人で独占できるし、尻に青いアザをつけた部下達から羨みとも恨めしいとも取れるような視線を向けられて入浴しなくても済むからだ。
憂う事のない忠は少し乱暴に服を脱ぐと、風呂屋に入る際に番台の主人から買った石鹸と手拭いを持って浴場へと入っていった。
腰掛と風呂桶を置いた際に放たれるのどかな音に耳を撫でられ、蛇口の前にどっかと腰を下ろした忠はさっそく桶に湯を溜め始める。
いつもはコインと引き換えに洗面器3杯分のお湯でしか体を洗えないが、それなりに長く艦船勤務に勤しんできた彼の身体は今ではすっかりそれに慣れてしまっている。額の辺りから洗面器を傾け、チョロチョロと湯を少しずつ垂らしては頭や体を念入りに洗う。普通の人なら僅か洗面器3杯の湯では頭すら洗う事ができないが、それでも忠は器用に体を万遍なく洗えてしまうというのだから慣れとは恐ろしい物である。お金を払っているにも関わらず、日頃のクセが抜けない彼は一通り体を手拭いで擦ると、洗面器の最後の残り湯を頭から被って浮かび出た垢を落とした。
3日振りの垢落としで彼は爽快感に浸ると、待ちに待った湯を満々と湛えた湯船に向かった。艦船勤務での風呂では決して味わえない真水のお湯が張られた湯船は、歩み寄る忠の表情を無意識に明るくさせていく。熱かろうがぬるかろうが海水のお湯が張られた湯船を、カルガモの親子の様になって突き進むいつもの入浴ではない。忠は湯加減を確かめる事も忘れて、湯船に身体を沈めていった。サラサラと身体を触れていくお湯に心躍らせると、彼は湯船の置くまで進んで壁に背をつけて腰を下ろす。
『くあぁ〜・・・。』
思わず声を伴った溜め息が彼の口から放たれてしまうが、一般的な日本人では誰しもこのような事はある。早くも彼の額には大粒の汗が滲んでくるが、それすらも今の彼には心地良い物であった。その心地良さに目を閉じて顔を上げた忠は、小さく鼻歌は歌いながら入浴を楽しんだ。
その身を湯船に沈めて10分程経っただろうか。湯気が立ち込めて視界が狭まる中、浴場の入り口が開く音が木霊してきた。それと同時に浴場に入ってきた人物は影ぐらいでしか忠には捉えられないが、丸い形の髪型を見るに同じ海軍軍人ではないかと忠は予想する。じんわりと温まり始めた身体をお湯の中で擦りながら、忠は顎を水面につける様にしてその人影を眺める。その人物は蛇口の前に座ると随分と念入りに顔を洗い、立ち上がって鼻歌を鳴らしながら湯船に歩み寄ってきた。その野太い声に聞き覚えがあった忠は、彼が近寄ってきた事で露になったその顔から正体を即座に察し、咄嗟に驚きが滲んだ声を上げた。
『あ、木村大佐!!』
『お?おお、森!お前か!?』
偶然の出会いに驚いたのは忠だけではなかったらしい、木村大佐は大股で湯船に入りながらも目を輝かせている。『わっはっは!』とその出会いを心の底から喜んでいるような笑い声を上げて、忠の横まで湯を掻き分けてくる木村大佐。中年とは思えない程に男らしい身体つきと、股間からブラブラと垂れ下がっている物を隠そうともしない彼に海の男の豪快さを覚えた忠は大笑いした。そして楽しそうに笑みを浮かべる若者を横に、木村大佐もどっかと腰を下ろして身体を沈めた。湯気が立ち上る水面が治まらない内から、木村大佐は油を落として力なく垂れた髭を撫でながら話しかけてくる。
『どうだ、最近の調子は?明石とは上手くやってるか?』
木村大佐の何気ない語り掛けに、忠は何食わぬ顔で『はい。』と答えた。ヘラヘラと笑って見せるものの、別れ際の明石の素っ気無い態度が彼の脳裏に蘇り、口元を緩めていながらもその表情にはどこか晴れ晴れとした物が無かった。いくら考えてもその態度に納得できず、逆にその理不尽さがちょっと腹立たしくなってくる忠。そしてそんな忠の表情の変化に、彼の倍も長く生きてきた木村大佐はすぐに感づいた。
『どうした、森。明石と喧嘩でもしたのか?』
木村大佐の問いかけに忠はピクっと眉を動かしたが、その心の内を読まれないようにとすぐに笑みを浮かべて声を返す。
『いやあ、そんな事はないですよ。』
『ほむ、そおか。』
やんわりと木村大佐の質問を避けた忠だったが、彼の脳裏には妙に相方の事が浮かんでくる。
なぜあんなにも欲しがったお菓子をせがまなかったんだろう?
なぜいきなり自分の心遣いを断るようになったんだろう?
そしてなぜ、彼女は目を合わせてくれないんだろう?
考えても考えても忠にはその理由が解らない。
彼にしても別れが刻一刻と近づいている今、相方である明石とのそんな関係は不本意である事この上なかった。こんな状態じゃ話は切り出せないなと忠は思いながら、いつにも増して明石の事ばかり考えてしまう自分が何か情けなかった。
小さく溜め息をついた忠は、脳裏に浮かぶ事を忘れようと木村大佐と話すべく話のネタを探し出す。そして艦長格である彼が公衆浴場にいる事にさっそく素朴な疑問を見つけた。すくった湯を頬に擦り込むようにして顔を洗う木村大佐に、忠は笑みを向けて話しかける。
『そう言えば、木村大佐。艦長には艦長用の浴室があるんですよね?なんでこんな所で風呂に入ってるんです?』
忠がそう言うと、木村大佐は困ったように苦笑いして頭の後ろを掻き始めた。
『それがなぁ。神通が入らせてくれんのだ。』
『は?な、なんですかね?』
『先にワシが風呂に入るのが気に食わんらしい。まったく、わがままな奴だ。』
『はっははは。』
神通とはそこそこ親しい忠は、その彼女らしい言動と愚痴る相方に大笑いした。二人揃うといつも時代劇さながらの退治劇を始める木村大佐と神通であるが、なんだかんだ言いながらもこの二人は良いコンビであった。口を僅かに尖らせて口にした木村大佐の愚痴も、それはまるで年頃の娘に疎まれて悲しむ父親の様である。考えてみると蔑称として神通が口にする彼の呼び名「ジジイ」も、なにか嫌いな父を呼ぶ実の娘が放つ言葉のような気がしてならない。実に可笑しな二人であった。
そして腹を抱えて笑いながらも、忠にはそんな二人が今はとても羨ましかった。
しばらく木村大佐の愚痴を聞いては笑っていた忠だったが、そろそろあがろうと思って腰を上げると同時に木村大佐が声を掛けてきた。
『・・・森、明石を嫌わんでやれ。』
突如として放たれた言葉に、壁から背を離して進みだしていた忠は振り返った。そこにいる木村大佐は右手で首の付け根辺りを擦りながら、目を閉じて優しく微笑んでいた。心の中で憂いでいた忠の懸案を、木村大佐はその表情の変化だけで読み取っていたのである。忠と同じように人間だけでなく艦魂をも目に映すことができる木村大佐。そこに生起した艦魂である明石と人間である忠の諍い等は、なんとなくだが木村大佐には直ぐに察する事ができる。彼が持つ人並みはずれた観察力の成せる業であった。
『明石にはお前しかおらんのだ、森よ。あいつ等「艦魂」は、普通の連中からしたらオバケや幽霊みたいなモンだ。でもあいつ等も必死に生きてるんだよ。ワシ達と同じようにな。』
忠は木村大佐の語りかけに今の自分が憂う事への解決策があると直感し、身体を彼に向けなおして再び湯の中に身を沈めた。木村大佐は相変わらず目を閉じたまま、額や頬に滴る汗を手で拭って話を続ける。
『あいつ等にも言いたい事や愚痴りたい事なんてのはあるんだ。時には苛立って八つ当たりをする事だってある。その時にあいつ等を信じてやれるのは、ワシやお前のような奴しかおらんとは思わんか?』
『・・・そうですね。』
『ワシはあいつ等が好きだ。ワシ達と同じように怒りながら、泣きながら、笑いながら、自分達に課せられた事に対して逃げもせずに精一杯生きようとする、あいつ等がな。』
数分後、風呂屋の暖簾を勢い良く靡かせて走り去る忠の姿があった。
向かうはお菓子や珍しい料理が売っている食い物屋。まだ肌から湯気が立ち上る忠は、走りながら右腕の手首に視線を向ける。上陸の終わりまでは既に1時間をきっている。だが成すべき事を改めて認識した彼の表情は明るい。大きく腕を振って走る忠は、風呂上りだというのに汗が滲むことを気にもしない。別れ際に彼女から受けた言葉をそのまま実行しようとしていた自分を責めることも忘れ、彼は食い物屋を求めて繁華街に向かって走っていった。
待ってろよ、明石。いつもの事だけど、ウマイ物をたらふく食わせてやる。
その言葉を忠が脳裏に浮かべると同時に、そこには美味しい食べ物をホイホイと口に投げ込むいつもの明石の姿が浮かんでくる。白い歯を見せて微笑んだまま、彼は財布を片手に握り締めて走っていった。
『ふぃ〜〜〜・・・。』
まったく進めていなかった薬箱の点検をやっとの事で終えた明石は、今度は正確な数字を書き込んだ紙を片手にして大きく溜め息をした。
師匠の朝日より授かった生薬の知識はありがたいが、おかげでそれらを含めた薬品類を管理する手間が最近ではグンと多くなってしまった。硬い鉄製の床に座り込んで数字をひたすら数えるというのは、人間であっても艦魂であっても結構な重労働である。やがて凝った肩に手を乗せて、明石は身体を大きく後ろに反らせた。コキコキと音を立てる背中に心地良さを覚える明石は、ふとその視線を正面にあるベッドの上にあった舷窓に向ける。
真面目に仕事をし始めようとする前に見た時は透き通るような青い空がそこにはあったのに、すでに舷窓の向こうには赤みを帯び始めた空が広がっていた。伸ばして腕をそのままにして舷窓の向こうを黙って見つめる明石。シーンとした部屋の中には艦体を静かに打つ波の音と、カモメの遠い鳴き声が響くのみ。あっという間に終わりを迎え始めた一日に儚さを覚え、明石は大きく溜め息をついた。
『ただいま。』
重苦しい金属音が響くと供に、明石の背には相方の声が響いてきた。明石は少しだけ顔を向けるも、彼の表情を見たくなかった彼女は目を合わせようとはせず、流しかけた視線を再び舷窓の向こうに戻して声を返した。
『あ、おかえり。』
さっきと同じように視線を合わせてくれない相方だが、木村大佐の言葉を胸に秘めた忠はフッと小さく微笑むと、ドアを開けてすぐ右側にある机にいつものようにお菓子の入った紙袋を置いた。いつにも増して多めに買ってきたのか、紙袋は机に着くと同時にドサっと音を立てる。
その音を耳にした明石は咄嗟にその方向へ視線を流した。いらないと言ったにも関わらず調達してきた大量のお菓子と、笑みを浮かべてマジマジと瞳を見つめてくる忠。いつもなら感謝の念が込み上げてくるのに、今の明石には小馬鹿にされたような感じさえしてくる。全ては相方が何も言ってくれない事への腹立たしさであったのだが、当の相方である忠はそれを知らなかった。
まだ機嫌が治っていないようだがそれを解決してやるのも自分の務めと考える忠は、机の上の紙袋からとっておきの珍しいお菓子を取り出して明石に歩み寄った。それに気づいた明石はプイっと視線を正面に向けてしまったが、忠は構う事無く彼女の横まで歩み寄ると、しゃがみこんで右手に持ったお菓子を明石の顔に近づける。
『ほら、明石。アイスクリームだぞ、食べたこと無いだろ?』
明石はチラッと忠の手に視線を送るも、すぐにまたそっぽを向いて力の抜けた声で言った。
『いいって言ったじゃん。』
少し俯いている為に忠からは表情が見えないが、上陸前と同様に明石は怒っているわけではないらしい。声色も特に怒りが篭っている訳ではないが、かといって嬉しそうな訳でもなかった。決して気が強い性格ではない忠は相方のその態度にまたしても弱気になってしまうが、なんとかその理由を聞こうと差し出した手をさらに明石に近づける。その度に明石が腹に何かを溜めている事も知らず、忠は再び笑みを作って彼女に話しかけた。
『どうしたんだよ?ほら、食べてよ・・・。』
明石はその声を受けて立ち上がると、部屋の脇に折り畳んだ自分の布団に向かって歩き出しながら声を返した。
『いいよ。気、使ってくれなくても。』
しゃがみこんでアイスクリームの箱を差し出していた忠を無視するかの様に明石は折り畳んだ布団に腰掛け、疲れたように溜め息をしながら額に手を当てて俯いた。
明らかに自分を避けようとしている相方の態度。忠には寂しい事この上なかったが、常に一緒に頑張ってきた相方のその態度を受けてまたしても次第に腹が立ってきた。最初の内に抱いていた相方の態度の理由探しも、事ここに至って忠の脳裏からは完全に消えてしまう。立ち上がってアイスクリームの箱を握った手に力を込めながら、彼は少しだけ語気を荒げて言った。
『なに怒ってるんだよ?言ってくれよ。』
怒りの色が出始めた忠のその声だが、それを耳にした明石もまた、溜まった鬱憤を抑える事が出来なくなった。
艦を降りるかもしれない、と相談すらしてくれないのは森さんじゃない!
そう脳裏で呟いた彼女はキッと歯を強く噛んで立ち上がると忠に背を向け、布団に向かって指先から白い光りを放った。粉雪の様に淡くゆっくりとした光りの飛沫が布団を包んだかと思うとすぐに輝きは静まり、そこには布団はもう無かった。そしてツカツカと大股で歩き出した彼女は部屋のクローゼットの前まで行くと、今度は勢い良くクローゼットの扉を開けて中から自分の衣服を乱暴な動作で肩に掛けていく。
何も言わないながらも明石のその行動に、忠は彼女が部屋を出て行こうとしていると直感した。眉を吊り上げて見るからに怒っているの表情と、クローゼットの中を引っ掻き回す様に荒く衣服を引っ張り出す明石。その姿は忠が今までに見たことの無い明石の姿であり、彼女を止めようと思いながらも声を掛けるのを忘れさせてしまう程であった。
やがて服を取り終えて明石が勢い良く閉めた扉の音が響き、忠はやっと我に帰った。明石は一切視線を忠には向けようとせずに彼に背を向け、今度は部屋の扉に向かって歩き出した。もちろん忠は咄嗟に腕を伸ばして、立ち去ろうとする明石の袖を握った。明石は歩みを止めてくれるものの、振り返ろうとはせずに顔を床に向けて僅かに俯いているだけである。
そして別れが迫っている忠には、どうしても今のうちに彼女に伝えておきたいことが在った。今まで世話になってきた彼女だからこそ、言い出せなったその別れの事。忠にはその別れの可否を選ぶことはできたが、居心地の良い明石との日々に反して彼は可を選択していた。決してその日々が嫌になった訳でもなく、決してそれを一時とは言え手放すことを喜んだ訳でもない。忠としても思う所があっての選択であった。
『なによ・・・?』
背を向けたまま、僅かに震えるような声で明石は言った。明石は少しだけ力を込めて腕を動かし、忠の手を振り払おうとするが彼は離そうとはしない。彼が喉まで出掛かっている事は、遅まきながらもどうしても、どうしても明石にだけは言っておかなければならない事だったからだ。きっとダメだと怒られるに決まっている、そう思いながらも覚悟を決めた忠は口を開く。
艦体に寄せる波の音も、常に足元の辺りから聞こえてくるボイラーの唸り声もその時ばかりはなりを潜め、静まり返った室内に二人の声だけが木霊した。
『明石、聞いてくれ・・・。』
『だからなによ・・・?』
『オレさ、・・・・砲術学校に行く事にしたんだ。』
『勝手に行けばいいじゃない!』
それは忠が予想だにしていなかった言葉だった。思わず力が抜けた忠の手を振り切るようにして身を翻した明石は、キッと忠を睨みつけると叫ぶような声で言った。
『砲術学校でもなんでも勝手に行けばいい!学校行って、偉くなって、戦艦の艦長でも司令長官でも勝手になればいい!』
『違う!そうじゃない、明石!』
明石が言わんとした言葉を、忠は同じように声を張り上げて否定した。事実、彼は偉くなろうとして砲術学校への道を選んだわけではないのだ。
そこには彼なりの想いが込められているのだが、怒りに任せた明石はその声に聞く耳を持とうとはしなかった。その根底にある忠のとある行動が、明石には嘘をつかれた様にしか感じなかったからだ。そして溜め込んでいたその事を、明石は抑えきれずに言い放つ。
『どうせ私は踏み台なんでしょ!?だから何にも言わなかったんでしょ!?』
明石の言葉が忠の胸に刺さる。忠としても、もっと以前からその事を打ち明ける事はできた。だが彼はそれができなかった。
『言おうと思ってたんだよ!でもそのまま言っても、明石が怒ると思って─!』
『私が悪いんだ!?なら、なおのこと勝手にすればいいじゃない!!どうせ口うるさい我がままな奴だとしか思ってないクセに、都合の良い時にはそのせいにするんでしょ!?』
忠は何も言い返せなかった。もちろん明石が言う様な奴だと彼女の事を思っているからではない。でも彼女の言葉が全て間違っているかというとそうでもなく、現に彼が脳裏に浮かべていた口を噤んでしまう理由はどれもこれも取り方によっては相手のせいにしている様な物ばかりだった。そこには相方への尊敬も信じようとする心遣いも無く、なにかにつけて自分を守ろうとする言い訳しかなかったのだ。
その事に忠は緩く唇を噛んで俯き、自らの保身のみに走った自分の弱さを責める。そしてそれを実感しながらも何も言い返してくれない忠の姿が明石の心に火をつけ、決して心の底から望んでいる訳ではない言葉を彼女に放たせてしまった。
『こんなつまんない特務艦なんか、さっさと降りればいい!!森さんなんか、大っ嫌いだ!!』
そう言って明石は部屋の扉を開け、部屋を飛び出していった。
今まで一緒に過ごしてきた相方だったから、忠にはその言葉が辛かった。今まで一緒に笑い合ってきた彼女だったから、悲しみに満ちた怒りが忠には堪えた。自分の勝手な思い込みと独断で犯した事、それは彼女への裏切りだったのではないか。そこまで考えた忠は情けなさを通り越して、自分に、明石に、そして上手くいってくれないこの世の全てに激しい憤りを覚える。既に解けかかって滴るアイスクリームの箱を強く握り、彼は叫んだ。
『あああぁぁ!!!!!!』
怒りに任せた叫びと、壁に投げつけたアイスクリーム。息を荒げる忠は壁に飛び散った液体をそのままに、部屋の奥にあったベッドに崩れるようにして横になった。舷窓から目立ち始めた月の光りが差し込む中、怒りと悲しみと寂しさが入り混じるモヤモヤとした心に耐える忠。
そしてその日、明石は部屋には戻って来なかった。