第三三話 「予感」
昭和15年3月27日。
明石艦を含めた第二艦隊は、長らく訓練に勤しんだ作業地であり中城湾から錨を上げた。暖かい潮風が漂い、まるで子供が自由に書いた絵の様に鮮やかな沖縄の風景ともしばしのお別れとなる。
ほぼ1ヵ月間も留まると乗組員達の感慨も一塩であり、上陸時に仲良くなった沖縄の人々は漁船を出して第二艦隊各艦の周りを駆けて行く。小さな漁船の上に仁王立ちして日章旗を振り回してくれる者もおり、その豪快な別れの挨拶に乗組員達も精一杯に手を振って別れを惜しんだ。
さんご礁で美しい中城湾を西に向かって旅立っていく第二艦隊の軍艦旗は、彼等沖縄の人々の目にはどう映ったであろうか。
やがて第二艦隊は僅かの間だが南支方面行動となり、次なる泊地を大陸沿岸の廈門に定めた。師匠の言葉が見事に的中していた事に、明石は改めて朝日の偉大さを実感する。
廈門は沖縄よりもさらに南の地であり、そこまでに要する3日間の航海は暑さとの戦いであった。だが大陸沿岸の航路は民間船の往来も激しく、颯爽と海原を進む大名行列のような第二艦隊は行き交う船舶の乗組員達の視線を釘付けにする。その中でも帝国船籍の船舶は第二艦隊の各艦に翻る軍艦旗を目にして歓喜し、わーわーと歓声を上げて甲板から手を振ってくれた。
3月30日、1637。
第二艦隊は廈門に到着し、廈門港に錨を下ろした。
入り江の多い廈門は波も静かで水深も深く、大型船舶が難なく停泊できる天然の良港で国際的にも古くからその名を知られた港湾都市である。
戦国時代に名を馳せた南蛮貿易の一大拠点でもあった廈門は、最近は東南アジアへの労働力提供の基地として機能する事によりその財力を維持しているのだという。さらに西洋資本も向けられているこの地は、ベトン製の岸壁や簡単な起重機も備えた中々に近代的な港湾都市である。
現在、この廈門は日本によって占領されているが、過去にもアヘン戦争でイギリスに占領された歴史がある。だがオランダ人と供に世界的にも優れた商売感覚を持つ支那人が住む地らしく、逆に開港するや大陸製の青磁や陶器、烏龍茶の輸出等を通して莫大な富を築くというアジアの偉業を具現化した地でもある。そして支那事変の勃発に伴って昭和13年に帝国海軍によって占領されるや、今度は帝国海軍向けの物品調達で一儲けしようとする逞しい都市であった。
4000年の歴史は伊達ではなく、支那人が調達してくる物品は品質も良く、それを受け取る側の第二艦隊の主計科員を大いに喜ばせた。他にも竹や木等の一般的な資材、軍服にまで及ぶ被服の製造や仕立、その長い歴史の中で築き上げてきた一大商業網を駆使して調達する名品珍品など、商売上手な支那人像をハッキリと伝えるのがこの廈門市であった。
また、他民族が混在する大陸では用いる言葉も様々という大陸独自の事情に対して、廈門では台湾人と同じ言葉を用いるという事からその領有先である日本に対しての感情がそれ程までに先鋭化していないという事も日本にとっては嬉しい事だった。
沖合いに錨泊する第二艦隊を他所に、明石艦は岸壁に接岸しての資材補給を行っていた。同じ土の上で今も繰り広げられる支那事変だが、廈門の港はそんな喧騒をあざ笑うかのように人々の往来が盛んであった。接岸するとすぐに現地の子供達が岸壁に集まり、どこからクスねてきたのか煙草やお茶の葉等を持ち寄って乗組員達に交換をせがんでくる。特に汚い服を着ている訳でもない子供達のそれは戯れなのだろうが、なけなしの缶詰やお菓子を乗組員達があげると『ワーっ』と元気の良い声を上げて去っていった。
資材の出し入れは砲術科のお仕事であり、今日も忠は甲板にて搬入の指揮を取る。
ふと艦側から岸壁を見下ろすと、走り去っていく子供達に続いて現地の商人らしい男が何やら岸壁に下りた乗組員達に声を掛けていた。ニコニコと笑って独特の甲高い発音で放つ片言の日本語と民族服を着たその格好が、目にする者に彼が支那人である事を伝えてくる。ヘコヘコと何度も頭を下げる彼には敵意を感じないが、日本人とは違って終始胸を張ってお辞儀する彼にはなにか支那人独特の誇りを感じてならない。事実、彼のような支那人達の商売によって、シンガポールやスラバヤ、アンボン等といった東南アジアの都市は潤っているのである。
西洋列強に武力で抑えられようとも、彼らはそこに様々な糸口を見出して常に繁栄の道を探し当てているのだ。
忠は口元を緩めると口の前に手をかざし、岸壁で支那人と会話する部下に向かって声を張り上げた。
『小口!煙草があるかどうか聞いてくれ!』
頭上から響いた声で彼等は顔を上げると、その中で部下よりも速くその支那人の男が声を返してきた。小さく頭を下げながらも目を細くして微笑む彼の表情に、忠は煙草の有無を返事を聞く前になんとなく察する。
『タバコ、有ルマス。ドノカズ、欲シイデスカ?』
彼の声を受けた忠は指を三本立てて見せ、さらに声を返した。同じ漢字を使う支那人は物分りが良く、すぐさま彼も指を三本立てると大きく頷く。一応は通じてるようだが、その内容を確認する意味で忠は再度声を上げる。
『箱だぞ〜?3箱な!』
そう言いながら手のひら大の箱を指で象ってやると、支那人の男は自分の胸から煙草の箱を取り出してみせた。これですよね?といった感じで微笑むと、彼は再びお辞儀をして答える。
『夜ノ前。スグ、来マス。』
『おし、頼んだぞ〜!』
陽は既に傾きかけているが、彼の言葉は日が沈む前に来てみせるという意味だろう。ゆっくりと立ち去っていく男から忠は視線を流し、廈門市の街並みを遠めに眺めた。
占領から既に2年も経った廈門市は静かなもので、欧米や東南アジアに散った華僑からの投資に潤う街並みには花の香りすら漂う程である。あの空の向こう、遥かに続く陸路の向こうでは、今も日本人と支那人が互いの喉に刃を突きつけ合っている。自分もその刃の端くれなのだと思いつつも、平和と言う言葉を象徴したような廈門市街の光景を忠はしばし見つめ続けていた。
一方その頃、明石は廈門港の近辺に停泊する仲間の艦を訪れていた。豪華な造りの室内に通された明石だが、特にその部屋は彼女にとって目新しい部屋ではない。小奇麗なソファに木目の家具がならび、室内を縦に切り裂くように置かれた長机にはその艦体と同じように雪のような真っ白なテーブルクロスが掛けられている。
そしてその艦の主が部屋の奥のソファで姉の愛宕、高雄と一緒になって久しぶりの姉妹での会話を楽しんでいる。若手ながら切れ者で時には戦艦すらも指揮下に置く事のある愛宕だが、彼女の妹は顔こそ似ているが姉とは違って陽気でおしゃべり好きな性格であった。
その笑い声に明石と供に彼女の艦を訪れた第二艦隊所属の各戦隊長クラスである艦魂達も表情を緩め、久々の姉妹の会話を邪魔しないようにと部屋の隅で話し込んでいた。
彼女達がいる艦は、出迎えの為に廈門沖で合流した第二遣支艦隊旗艦の鳥海艦である。第二遣支艦隊は支那事変勃発によって誕生した支那方面艦隊の隷下部隊であり、活動拠点は南支の広州市である。鳥海艦を旗艦にした第十五戦隊が水上兵力の基幹であり、他にも第三連合航空隊、広東と海南、そして廈門に根拠地隊を持っている。戦力的には一個水雷戦隊程でしかないが、既にこの地で任務について2年に及ぶベテラン揃いの艦隊であった。昨年の海南島占領作戦にも参加しており、豊富な実戦経験を持つ第二遣支艦隊は訓練漬けの第二艦隊とはその錬度は比べ物にならない。
そんな第二遣支艦隊の所属艦魂達を束ねるのが、第二艦隊旗艦の大役を仰せつかっている愛宕と高雄の実の妹である鳥海であった。
『愛宕姉さん、摩耶姉さんはどうしてるの?』
『摩耶は2月1日付けで警備艦に格上げされたよ。横須賀で会ってきたけど、元気そうだった。』
『砲術学校の練習艦だからねぇ。つまんなそうだったわぁ。』
弾む声での会話を響かせて笑みをあわせる3人。
彼女達、高雄型四姉妹の艦魂は帝国海軍における艦魂達の中でも、特に姉妹仲が良い事で有名だった。数年前までは4隻で第四戦隊を編成し、最新鋭の設備を目玉とする彼女達は昭和8年の特別大演習にも姉妹揃って参加。演習が終わってから行われた木更津沖での特別観艦式でも、天皇陛下を御乗艦させた御召艦の比叡艦に続く供奉艦を姉妹で務めた。
その中でも切れ者揃いの姉を抑えて、陛下の前を進むという光栄を独占できる先導艦を務めたのがこの鳥海艦である。愛宕艦と高雄艦に施された改装は受けていないが、その実力は姉も認める優秀な指揮官なのであった。彼女達は神通や那珂よりも年下であり20代前半と若い外見ながらも、第二艦隊の総司令部という役目を約束された高雄型一等巡洋艦に相応しい天才肌の艦魂達である。
そしてこの鳥海艦では第二遣支艦隊として派遣された昨年より、内地での行動が多い部隊から見ると非常にユニークな艦内文化を育んでいた。笑い合うその姉妹を背に、長机の端を占領して集まっていた艦魂達は早速その文化を堪能している。
那珂と神通に挟まれるように席に着いていた明石は、目の前にある大きな紙面に目を輝かせて声を発した。
『へぇえ〜、艦長標語だって。おもしろ〜い。』
明石が言葉を発すると同時に、那珂と神通も視線を向けた先に書かれている内容に目を通して声を上げる。
『ほう、物価高とな・・・?』
『上海で商社がストライキかあ。今じゃこういうのは見なくなったわね、神通姉さん。』
珍しく人間の世界での話題を口にする彼女達だが無理も無い。3人を含めた艦魂達が見つめるその紙面の端には大きな文字で「鳥海新聞」と書かれているのだった。
これは鳥海艦主計科にて発刊されている艦内新聞であり、鳥海艦が傍受した新聞電報を基に作成した物である。情報ソースから紙面化までが全て艦内で行われる為に、その速報性は実は民間の新聞社よりも早かったりする。書かれている内容は時事ネタは勿論の事、芸能人の去就等の芸能ネタ、首相の施政方針演説等の政治ネタから海軍内での出来事、果ては天気予報にまで及ぶ中々に本格的な新聞だった。祖国を離れて励む乗組員達の事を考えて創刊された物であり、優しさという言葉が良く滲み出た代物である。
鳥海艦艦内のネタに限った紙面スペースもあり、明石はそこにまたもや新しい発見をして目を輝かせる。それは普段から自分の艦内でも繰り広げられている内容だったが、その可笑しさを含ませた書き方に明石はニッコリと微笑んで口を開いた。
『ハエ取り戦線成績表だって!ホント、おもしろいなあ!』
明石がはしゃいで見つめる紙面に那珂も興味を持って視線を流す。ただ数字が書いているだけかと思っていた那珂は、その紙面に記された表形式のスペースを見てついつい笑みを溢した。
『あら、分隊毎に順位をつけてるのねぇ。ふふ、撃墜数だって。』
他の艦魂達と同様に紙面のあちこちを指差して笑う明石と那珂。
そしてそれは神通も例外ではなく、紙面の端に興味を誘う記事を見つけた彼女は身を乗り出してそれを目に入れた。
『下士官兵番付・・・。ほう、武技教練の相撲の番付か。』
その身を水に浮かべて既に17年の神通は見た目は20代後半の女性ながらも、ふんどし一丁となった男性の姿を見ても眉一つ動かさない。むしろ武技などでの競い合いが好きな性分である彼女は、最近では自分の乗組員達が興ずる相撲を見物する事が楽しみの内の一つであったりする。艦魂の生活で相撲はやらないが、その番付表から神通は部下達の武技教練における成績を一覧表にして、部下達に競争意識を持たせる事を閃いた。
これは良い物だ!
脳裏でそう呟いた神通は顎に手を当て、ニヤニヤと笑みを浮かべながらその番付表の書き方を熱心に記憶に焼き付けていた。だが鬼の戦隊長として恐れられる神通の笑みを受けて、その場にいた明石と那珂以外の艦魂達が背筋を凍らせたのは言うまでも無い。
やがて創刊からこれまで発刊された新聞を次々に読んでいた明石は、一面の右下に「一日一言」というスペースがある事に気づいた。そこには、軍医の彼女を良い意味で唸らせる言葉が書かれている。
「治す医者より、罹らぬ予防」
名言だった。
『おおお。』と声を上げた明石は思わず両手を胸の前で合わせ、紙面の言葉に拍手を送りながら感動する。第二艦隊の戦隊長クラスの艦魂の中では最年少に近い明石であるが、ただ一人だけ赤線入りの階級章をつけている彼女の声はその場にいた者達の視線を集めるには充分である。神通や那珂も含めた全員が一様に視線を向ける中、明石はスッと立ち上がると手を後ろで組み胸を張って声を上げた。
『治す医者より、罹らぬ予防。怪我はしない事に越した事はないんです。皆さん、普段の訓練でも怪我には充分注意してくださいね。』
明石の人柄と実力を知り始めた第二艦隊の艦魂達は、彼女の声を受けて笑みを浮かべて一斉に返事をする。それまで神通の不敵な笑みに恐怖を覚えていた彼女達だが、ハキハキとした物言いの明石の言葉は彼女達の心からそんな感情を一瞬で拭き取ってしまう。
ようやく明るくなった雰囲気に安堵した明石はそれを楽しむかのように大きく一度頷くと、片方の口元を引きつらせてニヤリと笑って神通に顔を向けた。唐突にそんな表情を向けてきた友人に首を捻ってみせる神通だったが、明石はそんな彼女に指を指して口を開いた。
『特に神通!いっつも霞達をぶっ叩いてるんだから、少しは気を使ってよね!』
明石の言葉に神通はさも不機嫌そうに表情を曇らせると、いつもの短い返事を発してプイっとそっぽを向く。
『ふん。』
普段の生活態度を指摘されてふて腐れる姉に、明石の隣に座っていた那珂は口を押さえて笑った。そしてそんな那珂の笑みにつられるように、その場にいた艦魂達も神通を笑みを伴って眺める事ができた。
内心は笑われ者になってしまった事に腹を立てていた神通だが、仲間達が珍しく笑みを合わせる今と言う瞬間を無碍にしたくなかったので彼女は何も言わなかった。神通としてもこんな朗らかな一時を望んでいるのだが、口下手で不器用な自分の性格ではそれを上手く実現できない事を知っているのである。だが今では親友である明石がそこに気を回してあれやこれやと考えを巡らし、神通が思うところをすんなりと実現してくれる。不機嫌そうに口を尖らせたままの神通だったが、彼女の肩に手を乗せて優しく微笑んでいる明石に彼女は心の中で小さく感謝するのだった。
約一名を除いて笑いあう艦魂達だったが、その中の一人がおもむろに向けた視線の先に驚きを覚えて声をあげた。
『あ、おんなじだ。』
声を上げたのは明石とは長机を挟んで反対側の席に座る、明石と同じちょっと大人びた顔つきになり始めた10代後半の外見を持つ少女。小柄な体格でその顔つきには不釣合いな第2種軍装を身に着けて少尉の襟章を持つ彼女は、明石と供に第二艦隊では新参の部類に入る第八戦隊の利根艦の艦魂、利根であった。第二艦隊への所属時期、艦齢、階級など、明石とは随分と同じ境遇が重なっており、仲間内の中でも明石とは割と仲の良い艦魂である。
一人机の上にある紙面の一角を指差す利根に、すぐに明石は長机の上に身を乗り出すようにして顔を近づけた。
『利根、どうしたの?』
『あ、うん。ほら、ここだよ。』
明石の問いかけに笑みを見せた利根が指す紙面の一角には、「砲術士・高津戸少尉、砲術学校普通科への入校における壮行会の案内」とあった。記事の内容に目を通す明石だが、利根は彼女がまだ記事の内容をちゃんと理解できていないにも関わらずに話を続ける。
『わたしのトコの砲術士の人も5月からは砲術学校なの。高等科だけど。』
利根は言い終えると少しだけ眉をひそめて寂しそうな表情を浮かべる。もちろんその理由は乗組員という大事な自分の仲間が、お仕事とはいえ自分の元から去っていく事にある。
帝国海軍では、士官以上における人事異動は1年を目安として頻繁に行われる。下士官兵上がりの特務少尉と呼ばれる身分の者は一つの艦に対して退役まで永久勤務する事もあるが、兵学校を出た者は転属の度に大型の艦、または偉い肩書きを持たされて配属され、将来的には艦長や長官等といった責任者格として海軍に勤めていくことになる。
それ自体は別に帝国海軍に限ったお話ではないのだが、当の艦魂達にとっては別れ以外の何者でもない。腕前の良い乗組員との別れを惜しむ事もあれば、その下手糞な腕前に文句を言いたくなる時だって彼女達にはある。何百人と乗組んでいれば名前を覚えるのも大変であるが、彼女達にとっての乗組員は文字通り血肉であると同時に、触れ合う事はできなくとも同じ物事に一喜一憂する大切な仲間でもあるのだ。
『そうか。大変だな、利根。お前のところは主砲塔が多いから、砲術士が抜けるのは辛いだろう?』
『ええ・・・。』
利根に声を掛けたのは、それとなくその会話を耳に入れていた神通だった。怖い性格でまかり通っている神通だが、その口から出てきた自分を心配してくれる声に利根の表情は明るくなる。
第八戦隊の利根艦や筑摩艦、そして神通率いる二水戦がコンビを組む第七戦隊の鈴谷艦と熊野艦はともに二等巡洋艦として計画された艦型であり、搭載主砲の口径やそれまでの系譜は違えども神通と同じ所謂軽巡洋艦である。
同じ河川の名前を持つ彼女達は神通や那珂にしては妹のような物であり、当の彼女達にとってもまた、神通はとっても怖いけど頼れるお姉さんだと思っていた。特に明石と出会ってからの神通は人柄がまるっと変わり、相変わらずげんこつを振り回す所はあっても以前の様に鼻や歯を折る程までに殴りつけるような事はなくなった。4人とも演習の際には彼女にガミガミと怒鳴られる事は日常茶飯事であるが、それ自体も神通がなんとか教えを授けようとしているという事であると彼女達はちゃんと理解している。故に彼女達にとっての神通は、重巡らしく山の名前を頂いた愛宕や高雄以上に親しみを感じている人物であった。
ちなみに彼女達とその姉妹の中には、精悍な顔つきで寡黙な性格の神通に対して姉や先輩以上の好意を抱いている者もいたりする。
『那珂、八戦隊はお前のところと組んでるんだ。支援砲撃が甘くなった事で襲撃の成績を落とす訳にもいかんから、後で利根や筑摩とはよく打ち合わせをしておけ。』
『ふふふ、はい。』
神通の声に、那珂はどこか姉を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて返事をする。
ついつい神通は指揮官的な物言いをしてしまうのだが、それは持って生まれた彼女の指揮官としての才能の裏返しでもある。不器用な姉はそれを抑える事はできないが、その言葉の内容は「後輩の心配をフォローしてやれ」というなんとも優しさが染みた言葉であった。底抜けに怖い姉ではあるが、同時に底抜けに優しい心も持っているのである。
自分と良く似た顔立ちであるにも関わらず自愛心溢れる笑みを向けてくる那珂を、神通は羨ましく思いながらも、少しだけ悔しくてそれまで向けていた視線を那珂の顔から外した。
ちょっと複雑な心境の神通であったが、ふとその隣で頬に手を添えて眉をしかめていた明石に気づいた。なにやら難しいことを考えている事がすぐ解る明石の表情に、神通は少しだけ口元を緩めて声を掛ける。
『どうした、明石?』
神通がそう言うと、明石は浮かべた表情はそのままに、顔だけを向けて声を返してきた。
『ねえ、神通。砲術学校って、なあに・・・?』
鬼より怖い砲術学校と海軍内では有名であるのだが、それは人間の世界でのお話であり、海軍歴がまだまだ浅い明石にはその概要がトンとよく解らない。まして工作艦として生を受け、戦闘艦である仲間達のように砲術に重きを置いていない彼女の生い立ちには、あまり出てきた事のない言葉であった。
神通は即座にその事を悟ると、一呼吸置いてから明石に体ごと顔を向けて話し始めた。
『砲術学校ってのは帝国海軍の教育機関の内の一つだ。あ〜、兵学校の事は知ってるな?』
その言葉に明石はもちろん頷いた。彼女が母港として滞在する呉軍港の目と鼻の先にある江田島に、海軍兵学校はあったからである。明石自身、何度も目にして来たし、そこの卒業生の一人である彼女の相方から何度もその名を聞いた事があった。
『うん、知ってる。』
『兵学校は指揮官としての初歩的な物事を教える学校。対して砲術学校とかの術科学校ってのは、その科に応じた専門教育を行う所だ。例え駆逐艦でも主砲塔の操作をする乗組員は下士官兵に至るまで、そのほとんどが砲術学校出の奴等だ。』
『ふぅ〜〜〜ん。』
どこかわざとらしい程の声で明石は頷くと、頬杖をついて天井を眺めた。自分から聞いておいて素っ気無い明石の態度に神通は少しだけムッとするが、その裏にあった明石の心の内を隣で聞いていた那珂は薄々感じ取っていた。
その経験上、那珂にも砲術学校という物は良く解っている。そしてその事が、那珂の心に一つの心配事を沸かせたのだった。明石に顔を向けて笑みを消した那珂は、その憂いを確かめるべく明石に尋ねた。
『明石、ちょっと良い?』
『うん?な、なあに・・・?』
『森さんて、少尉に任官してどのくらいなのかな?』
そこまで那珂が言うと、神通もまた明石の態度の裏にあった理由を瞬時に悟った。急に真面目な顔をした神通と那珂に挟まれる格好となった明石は、二人の表情に戸惑いながら記憶を辿ってその問いに答える。
『う、う〜んと・・・。まだ2年経ってはいないけど、それぐらいじゃないかな・・・?』
『それは、そろそろって事じゃないか?』
明石が言い終えると間髪いれずに神通は言った。
やがて明石は神通の言葉と表情に、心の中で憂いだ事が現実となりつつある事を予感し始める。だが彼女はその憂いの詳細を考えようとはしなかった。親友だと思っている神通や那珂よりもずっとずっと長く一緒に過ごしてきた相方がいなくなる、それは明石にとって最も恐れる孤独との戦いである事を意味しているからだ。
だが神通は現実に閉じる明石の目を力ずくこじ開けるように、凛とした声で続けた。
『砲術学校の普通科は砲術科配属の少尉と中尉が対象だぞ?推薦か志願で入校するモンだが、その目安は任官から2年くらいだ。ウチのジジイもそのくらいで水雷学校に入校してる。』
明石はその言葉を耳にいれるや、恐れていた事実をやっと真剣に考えだした。神通が口にした基準を相方は全て満たしている。まだ確信は無くとも、その事実だけが明石の心を激しく揺さぶった。
『そ、その砲術学校って、ど、どのくらい掛かるのかな・・・?』
僅かに震えるような声でそう言った明石。するとその肩に那珂はそっと手を乗せ、あくまでも明石を労わりながらゆっくりとその答えを口にした。
『砲術学校普通科は砲術学校単体での教育が半年。そしてその後に水雷学校での教育が半年で、全部終わるのに一年間はかかる。どちらも必修なの。』
陽が落ちて薄暗くなり始めた頃、明石は自分の艦の通路を走っていた。
いつにも増して鬼気迫る表情で走る明石だったが無理も無かった。先程までに聞いた話を総合すると、彼女の相方は砲術学校への入校に伴って明石艦から降りる可能性が高い。そして仮にそうだとすれば、一年間という教育期間の内は今まで苦楽を供にしてきた相方とは会えない事になる。
そこまで考えた明石の脳裏には、誰にも話し掛けられる事無く過ごした竣工直後の孤独と寂しさに染まった記憶が蘇ってくる。もちろん今の彼女にはたくさんの仲間がいるし、最近は教えを授けてくれる師匠だってできた。でも彼は明石にとっては特別だった。今は師匠が教えてくれた「戦い」の言葉も、明石の心の中には少しとして蘇ってこない。彼女の心の中では、渦巻く憂いに対してはっきりと「嫌だ」という言葉が浮かんでいた。
『はあ・・・、はあ・・・、はあ・・・。』
明石は士官食堂の扉の前まで来た所で、その扉を睨みつけるように立ち尽くした。艦に戻ってすぐに向かった部屋に彼の姿は無かった。いるとすればここしかない、そんな思いで必死に明石は走ってきたのだ。
普段は彼以外の乗組員に姿が見えない自分との会話を聞かれないようにする忠。そんな彼は狭い士官食堂で明石が声を掛けても、ちょっと困った表情を浮かべて黙々と端を進めるのが常であった。逆にそれが面白くていつもあれやこれやとイタズラをしてきた自分の事が、今の明石には少し憎たらしくなってくる。もちろんこれから士官食堂に入って彼にその答えを迫っても、彼は同じように困ったような顔をしてくるに決まっている。だがそれも明石にはどうでも良い事だった。とにかく彼の口から事の真相を聞こうと、彼女は無我夢中だった。
一度大きく息を呑んでドアノブに手を掛けた明石。だが室内から響いてきた憎たらしい程に愉快な男達の声とその内容に、明石の手はドアノブを握ったまま動かなかった。
『森よ〜、砲術学校に行っちまったら、もうあれだけの量の酒保での買い物はできねえぞ?』
『その上、厳しいぞ、あそこは。気をつけるんだぞ。』
『はい。有難うございます。』
『来月二十日の艦隊訓練終了に合わせての下艦になるか。寂しくなるなぁ。』
『あははは、まったくだ。これで明石艦の士官は全員オッサンばっかになるな。』
『おいおい、オレまでオッサンかよ!?まだ27だぞ!?』
『『『はっはっはっは。』』』
明石の手が動いた。
だがそれはドアノブを捻る為ではなく、ドアノブから手を離す為に動いたのだった。指先が離れると同時に明石は手を宙に浮かせたまま、震える足どりで後ろに下がって行く。その最中、明石の脳裏にたくさんの思い出とそこにあったそれぞれの想いが、空から降りしきる雪の様に流れていく。そこに言葉は無く、ただ絵が浮かんでくるのみ。そして壁に背が当たると同時に、その絵はスイッチを切った電灯の様にフッと消えうせ、明石は力なくその場に座り込んだ。
鋼鉄でできた壁から背中に伝わってくる冷たさも、座り込むと同時に頭から落ちた軍帽も、目の前から響いてくる男達の声も、彼女は何も感じる事ができなかった。何事かを言わんとして開きかけた唇をそのままに、明石は呆然として扉を眺め続けていた。
米問屋先生の影響から、日露戦争を最近は勉強しております。とりあえずやる気を沸かせる為に、二〇三高地を見たのですがやっぱ良い映画ですね。号泣してしまいました(つД`)
資料発掘が進んだ現在では資料的価値はそんなに無いですが、そこに篭められたメッセージ的なものは素晴らしいですよね。昭和8年から現役入営し、その後に7年も従軍してシベリアの抑留も経験した小生の祖父が涙した、唯一の戦争映画でした。