第三二話 「忠、魚雷に学ぶ」
3月10日、1921。
風はそれ程でもないが、その日は朝から大粒の雨が降っていた。
艦隊全艦が参加しての大戦技訓練を予定していた第二艦隊は天候不順を理由に訓練開始日を翌日へと延期し、その日は全ての艦では一日まるっと整備日課となった。特に大きな出来事もなく、まるで休日の様に過ごせる一日であったが、それを快く思えない者も少なからずそこにはいる。
いつもの様に忠の部屋に集まった仲良し達だったが、その中で神通は不満げな表情を浮かべていた。
せっかくの戦技演習をフイにしてしまった沖縄の天気が彼女の心を曇らせたのである。特に神通が率いる二水戦は隷下の駆逐艦が新参ばかりであり、貴重な訓練の時間が削られてしまった事は彼女にとって残念でならない。
もっとも神通はそれを余り表情に出そうとはしない。その理由は、考えがすぐに読み取られてしまう事が彼女の理想の上官像に当てはまらない事と、不機嫌な雰囲気をばら撒いてせっかくの楽しい一時を無駄にしたくなかったからである。
故に何食わぬ顔で部屋に響く仲間達の会話を耳に入れていた神通だったが、その内容はやはり頭には入っていなかった。
『どうしたの、神通?』
『うん・・・?』
ふと神通に声を掛けてきたのは、自身の隣で寝そべった明石だった。20センチはあろうかという羊羹の塊を口に挿したまま、明石は隣で黙りこくった神通の顔を覗きこんでいた。暫くの間手元に視線を落としていた神通は、明石の問いかけに顔を上げる。
ベッドの中央に腰掛けている神通だが辺りに視線を流すと、寝そべって羊羹を貪り食う明石とは自分を挟んで反対方向にいる那珂も首を捻って姉の顔を覗きこんでいた。正面の床に座った霞と霰、雪風は、キャッキャッと声を弾ませて部屋の隅で椅子に座る忠と話をしている。
呆けた顔で部屋の状況を把握する神通だったが、その腕を引っ張りながら明石が再び声を掛けた。
『どっか痛いの?』
『いや・・・。そんな事はない。』
神通は明石に小さく笑みを見せると、明石に向かって右手を差し出した。すると明石はそれまで口に差し込んでいた羊羹の塊を噛み切り、神通にその羊羹を手渡した。明石の歯型がくっきりとできた羊羹だったが、神通は気にも留めずに口に運ぶ。歯が痛くなる程の羊羹の甘さに神通は口元緩ませ、それを横から見ていた明石も微笑んだ。
二人は言葉をそれ程交わさずとも、お互いの事を気遣い、その気持ちに感謝を示す事ができる唯一無二の仲良しなのである。出会った頃にはその綺麗な顔にお互いの拳を打ち込んだ事など、今の二人には笑う事のできる昔話の一つにしか過ぎない。そして未だかつて得た事の無かった真の友の存在を喜ぶような姉の姿に、那珂もにっこりと微笑んでいた。
無言のまま笑みを湛えていた三人だったが、その内にそんな彼女達を遮るように忠の声がその場に流れてきた。
『う〜〜ん、神通。どうだ、これ?』
『ん?』
神通が視線を向けた先では、忠が何やら困ったような笑みでノート大の紙切れを手にしていた。彼の隣には雪風が立っており、忠の袖を掴んで何やらニヤニヤとしている。状況が解らずに首を捻る神通を他所に、忠は雪風に視線を流して口を開く。
『ごめんな、雪風。オレは砲術が専門だから、水雷はよく解んないんだ。』
『あはは!森さんにも解んない事ってあるんスねぇ!』
どうやら紙に書かれた内容は雪風が書いた物らしく、彼女はその内容の良し悪しを忠に尋ねたらしい。そして彼の言葉通り、専門外である水雷の話に困った忠が神通にお鉢を回してきたのだった。
彼の判断は正しく、事実、二水戦の戦隊長という艦魂社会での立場を頂いている神通はその生涯の殆どを水雷戦隊旗艦として過ごし、実質的に指揮を取る司令官の五藤少将をも凌ぐ生粋の水雷オタクであった。雷撃運動や戦隊の襲撃運動は彼女の得意分野であり、連合艦隊旗艦の長門をして「天才」と言わしめる程の持って生まれた才が彼女には有った。忠や明石は知らないが、その豊富な知識と経験、センス、そして並み以上の度胸の持ち主である神通は水雷戦術においては強いこだわりを持っており、同じ第二夜戦隊を組んでいる七戦隊の仲間達や、艦隊司令部直卒である四戦隊の上官達に向かって暴言を吐く事は日常茶飯事であった。時にはなんと艦隊旗艦の愛宕にすらも食って掛かるという程である。
常にその姉を抑える役目の那珂は大変であったが、同じく水雷戦隊旗艦を長く務めてきた彼女は姉の口にする事は決して間違いだと思ってはいない。そして、霞と霰、雪風を含めた神通の部下達は、怖いながらも自分達が所属する二水戦の理想の為には平気で上官と一戦交えてくれる上司、神通を深く尊敬していた。
『戦隊長、どうスかね・・・?』
雪風は忠の手から紙を取ると、ベッドで脚を組んでふんぞり返る神通の前まで歩み寄って紙を差し出してきた。さしものやんちゃ娘、雪風も神通の前では大人しい物で、両手でもった紙を差し出すと同時に深々と腰を折って頭を下げる。
神通は左手にお酒の入ったコップを、右手には明石から手渡された羊羹を持っており、手を空ける為に明石に向かって羊羹を差し出した。それに気づいた明石が口を大きく開けると、神通は羊羹をそのまま明石の口に差し込み、空いた右手で雪風の手にあった紙を取った。
『どれ。』
神通が書かれた内容に黙って視線を配り始めると、両横から那珂と明石も神通に顔を寄せてその紙を眺めた。神通期待の新人である雪風は、その性格とは裏腹に身体能力も知識も抜群に良い。俗に言う優等生である彼女の文には水雷における専門用語が沢山用いられており、それを理解できない明石は眉をしかめて首を捻る。少し間をおいて口を開いたのは、神通の斜め後ろから紙を読んでいた那珂だった。
『これ、雪風が考えたの?』
所属戦隊こそ違うが、雪風にとっては那珂も水雷戦隊という名の土俵を同じくしている上官である。まして自分の上司の実の妹にして、普段から暴れん坊の神通を止めてくれる那珂は雪風にとっても頼れるお人だ。雪風は背筋を伸ばし、両の手を腿の脇に置いて那珂に答えた。
『はい。アタイ達、陽炎型と実験搭載した6駆が積んでる新式魚雷の性能を持ってすれば、きっと行けると思うッス。』
『ふむ。遠距離からの雷撃、それも隊単位による開進射撃か・・・。』
『はい!』
自分の提案に対して真剣に考えを巡らしてくれる二人の上官に、雪風は表情を明るくさせて胸を張った。
盛り上がっている3人だが、部屋の端の椅子からそれを眺めている忠にはその内容が皆目解らない。そして雪風が口にした言葉が気になった忠は、足元でお菓子を頬張る姉妹にそれを聞いてみる事にした。
『なあ、新式魚雷ってなんだ? 霞達には無いのか?』
後輩が目立っている事が気に食わないのか、霞はちょっと口を尖らせながらも笑みを向けて忠に答えた。
『正式には九三式魚雷って言うんですよ。雪風が言った通り駆逐艦ではまだ陽炎型と、那珂さんとこの第6駆逐隊にしか装備されてないんですよ。』
霞はそこまで言うと、手に持っていたラムネの瓶を口に近づけて一飲みした。相当雪風が目立つ事が気に入らないらしく、飲み終えると今度は手元にあった甘栗を一粒取って、口の中にヒョイっと投げ入れた。眉をしかませて頬を動かす、珍しく不機嫌そうな霞。霰は姉のそんな表情に困ったのか、忠に向けて苦笑いを向けてきた。心優しい霰の事である。恐らくは許してやってくれという想いが篭った笑みなのだろうと忠は悟り、机の上から飴玉を一掴み取って、笑みと供に霰に手渡してやった。
『森さん、おおきに。』
両手で大事そうにしながら霰は飴玉を受け取ると、さっそく包み紙を外そうとする。戦闘艦の艦魂である事は忘れてしまう程に大人しい霰に、忠は少しだけ遠慮の気持ちが薄らぎ、隣でふて腐れている霞に変わって先程の話を彼女に聞いてみる事にした。
『なあ、霰。どんな魚雷なんだ? 今までのとは何が違うんだ?』
『う〜〜ん・・・。ウチもよおは知らんどす。軍機らしおすな。あ、やて性能はちびっと聞いたどす。』
そういうと霰は顎に右手の人差し指を添え、天井に視線を向けて記憶を辿り始めた。僅かに眉をひそめながら、霰は記憶にある新式魚雷の性能を語り始めた。
『確かぁ、大きさの寸法は大体同じで、雷速48ノットで射程は2万メートル。炸薬は・・・、490キロやったような・・・。』
『2万メートルだって・・・!?』
一応は兵学校出身である忠は、当然の事ながら魚雷についての基礎知識はある。現に彼は霰や霞が搭載する一般的な魚雷の数値は大体は覚えているのだが、その事が霰の言葉を聞いた忠を驚かせた。
彼が知る一般的な魚雷は九〇式魚雷という名の物で、炸薬は400キロと霰の言う九三式魚雷とはそれ程大きく違う訳ではない。事実、魚雷自体の大きさも直径は同じ61センチで、長さも九三式の方が500ミリ長いだけである。ところが九〇式の射程は雷速45ノットで7千メートルであり、単純に九三式の駛走性能は九〇式の二倍。忠は鉄砲屋らしくそれを大砲に置き換えて考えてみるが、それにしても射程距離が弾速をそのままにして二倍になる等とは信じられないお話である。
呆けた顔で忠は噂の新式魚雷の構造を考えてみるが、その構造はまったく頭に浮かんでこない。今更ながら帝国海軍の技術力に感心しつつ、そのぶっ飛んだ数値の裏を忠は模索した。
忠が頭を捻っている最中、ようやく雪風の提案を読んでいた神通が声を発する。雪風はその提案に自信を持っており、上司から必ずやお褒めの言葉が返ってくるだろうと期待していた。ちょっと口元を緩ませて目を輝かせていた雪風だったが、神通は一度チラっと雪風に視線を流すとすぐさま紙に視線を戻し、ちょっと雲らせたような表情を浮かべながら口を開くのだった。
『距離1万メートル以上での斜進射法か、悪くは無いが・・・。ふむ・・・。』
僅かに首を捻ってそう言った神通に続き、神通の肩に顔を乗せるようにして眺めていた那珂も口を開いた。
『うう〜ん・・・。同航体勢だとしても、距離1万以上では命中させるのは至難の業ね。』
二人の上官から返って来た否定的な意見に、鼻っ柱の強い雪風は臆する事は無く、逆にちょっとムッとしたように僅かに口を尖らせて声を返した。
『それは訓練でどうにでもなるッスよ。それに九三式魚雷はゆくゆくは帝国海軍の雷装の標準になるっスから、水雷戦で用いられる戦術そのものがこうなる筈ッスよ。』
『だろうな・・・。』
神通は雪風の言葉に、どこか力が抜けたような声でそう言った。鬼の戦隊長に意見を肯定された雪風だったが、その新鮮味が希薄な声を受けてさらに口を鋭く尖らせる。明らかに不満げな表情を浮かべる雪風に、神通は何食わぬ表情のままで声を発した。
『別にこの戦術を間違いだと言ってるんじゃない。追尾斜進装置もあるから、恐らく将来はこういう戦い方になるだろう。一等巡の連中も装備し始めているしな。』
あくまで雪風の言葉を肯定する神通であったが、その表情が一向に晴れない事に雪風は声を上げる。だが神通はそんな雪風の言葉を遮るようにして声を被せてきた。
『じゃあ、なんで─。』
『遠距離攻撃という物は好かん。敵の損害が目で確認出来る程での近距離雷撃が望ましい。』
神通はそう言うと、眼前で不機嫌さを露骨に顔に出す雪風の肩に手を置く。彼女は相変わらず口をツンと尖らしたまま俯いているが、神通はそんな雪風に若い頃の自分を重ねて小さく笑った。雪風と同じくらいの年の頃、彼女もまたこうして先輩に意見をしてはヘソを曲げていたのである。右手に持った紙を靡かせながら、神通は雪風の顔を覗きこんで言った。
『これは貰っておく。雪風、お前の言っている事は間違いじゃない。だが私にも考えがあってな。我慢してくれ。』
『・・・はい。』
ふて腐れながら雪風は返事をしたが、神通は彼女の態度を怒るつもりは無い。雪風は神通が一目置いている期待の新人であって、今まさにその紙に書かれた彼女の意見に神通は深く感心しているからである。性能というしっかりした数字を用いて導き出した雪風の戦術は将来をも見越した物であり、神通がこれまで培ってきたノウハウを別にすれば、その内容は否の打ち所がないのであった。
口下手な神通の言葉に納得できない雪風だったが、そんな上司の妹は雪風の心の内を完全に読み取っていた。ベッドの奥から神通の真横まで進み出てくると、那珂は雪風に慈愛心溢れる笑みを近づけて言った。
『雪風、言いたい事は解ってる。この戦術なら私達自身が損害を受ける機会を減らせるのよね。何より夜戦配備での初期配置の位置から直接雷撃をできるし、1万メートル以上の距離なら隠密発射の効果も期待できる。支援隊の雷装も勘定すれば、遠距離での射角構成雷数も凄い物になるでしょうね。』
姉と違って器用な心遣いができる那珂の優しい言葉に、雪風は僅かに顔を上げて表情から曇りを除いてゆく。那珂は一度大きく頷いてみせると、横目で隣にいる神通を見ながら続けた。
『神通姉さんもその事は知ってるの。でも、私達のお仕事は魚雷を撃つ事ではなく、魚雷を使って敵へ損害を与える事。その観点から言えば、敵の損害や命中の成否が確認しづらい遠距離射撃にはちゃんと解決しなきゃいけない懸案もある。特に夜戦では視界が利かないし、曇天の天候では視界が1万メートルをきる事だってあるの。それに遠距離での雷撃には必然的に高い射撃管制能力が必要になってくるわ。敵との照準距離が遠いほど到達時間は長くなるからその分だけ敵にしても対処行動の猶予を与えるし、横衝撃での命中を目指す事自体もとっても難しくなっちゃう。』
那珂がそこまで言うと、雪風は頭の後ろを掻いて苦笑いした。
自らの案に自信を持っていた彼女だが、経験豊富な上官によって丁寧にそれを諭されると、根が素直な彼女はすぐに自分の至らない点を理解したのである。少しだけ険悪な空気が漂い始めていた部屋は、雪風の歪んだ笑みによって再び明るい雰囲気に包まれ始める。部屋にいる者たち全員が自然と笑みを浮かべる中、それまで黙っていた神通が静かに雪風へ声をかけて一連のやりとりを総括した。
『この案は別段、変ではないんだ。ただ射法も含めた実施要領がまだまだ決まっていない訳だから、今日明日で実践できる物でもない。その内、人間側でもこれに似た戦術を採用すると思うから、しばらくは戦隊長預かりの案件とする。いいな、雪風?』
『はい!』
背筋を伸ばして大きく返事をした雪風に、神通は口元を僅かに吊り上げてニヤリと笑うと、手にしていた紙を丁寧に折り畳んでポッケにしまい込んだ。彼女の隣で明石と那珂がその光景に笑みを湛える中、雪風は上司のその行動を見届けると大きく腰を折って一礼し、部屋の隅でその光景に耳を傾けていた忠の足元に戻って腰を下ろした。
採用とはいかなかったが、自分が具申した意見を肯定された事に雪風の顔には笑みがこぼれる。霞はそんなやり手の後輩に嫉妬の目を向けていたが、同時に雪風の様に新たな発想が湧かなかった自分がとっても悔しかった。悟られないように唇を噛む霞の肩を、唯一その心の内を悟る事の出来る霰が静かに触れていた。
そして足元でこもごもの想いを巡らす3人を他所に、忠は彼女達の博識さに驚いていた。彼がこれまで関わってきた神通や那珂、そしてその部下である少女達の姿は、怖い上司と怯える部下という光景でしか見た事が無かった。ところが今日は兵学校出身の忠がチンプンカンプンになってしまう程に、水雷についての高度なお話をしているのである。改めて彼女達が、栄えある帝国海軍の水雷戦部隊の艦魂である事を悟った忠。彼は顎に手を当ててゆっくり頷きながらも、興味が湧いた水雷の知識を彼女達から教授してもらおうと声を掛けた。実は彼のその行動の裏には、やがて来るであろうとある生活の為の予備知識を得ておきたい、という思惑が在ったのだが、それを明石を含めた彼女達が知るのはもう少し先の話である。
『なあ、斜進ってなんだい?』
おもむろに上げた忠の声に答えたのは神通だった。砲術士官である忠の境遇をよく解っていた彼女は、いつものような憎まれ口を叩くことなく、懇切丁寧にその言葉を説明しだした。
『読んで字の如く、斜めの進路。つまり魚雷を発射した後の雷道の状態の一つだ。敵の航行状態やこちら側との速度差、偏差角を考慮して、任意の角度で雷道を左右に傾斜させる事が出来る。』
お酒が回ったのか、部下の成長が喜ばしいのか。珍しく口数の多い神通であったが、魚雷に関しての知識が薄い忠は彼女の言った意味がイマイチよく解らない。僅かに首を捻ってその言葉の意味を考えた忠は、今まで知らなかった魚雷の知識の一つを想像して驚きの声を上げた。
『も、もしかして・・・。魚雷って曲がるの・・・?』
『なんだ、そんな事も知らんのか。』
目を点にして驚く忠に、足元でそれを常識とする少女達3人がクスクスと笑った。『へぇえ〜〜。』とベッドの脇で声を上げる明石もその事を初めて知ったようだったが、理不尽にも神通や那珂もまた忠を視界の端に入れて小さく笑っている。逆になにやら自分の無学に恥ずかしさを覚えた忠は、頭の上から帽子を取って笑みを歪ませながら頭の後ろを掻いた。さてどう話した物かと、これからする彼への説明の仕方を考えた神通は、彼が専門とする砲術と同調を取って話を進めることを閃いた。実戦では部下達の突撃路啓開の役目を負う神通は、霞や霰、雪風に比べて遥かに強力な砲熕兵装を持っており、その豊富な知識は砲術に関しても抜かりが無い。その豪放ではた迷惑な性格とは裏腹に、戦闘艦の艦魂としての彼女は文字通り「天才」なのである。
『森、公算射撃は知っているな?』
『ああ、もちろんだ。』
『その概要は?』
『目標の未来位置に向かって、弾着の散布界を移動させる。』
『そうだ。雷撃も同じだ。ただ砲弾と違って魚雷の速度は時速100キロも出ないから、いくら距離が近くても到達までにはそれなりに時間がかかる。だから公算射撃を用いる。それと発射管が直角に真横を向いた状態で使用する事も関係する。魚雷が海面に飛び込む状態は、艦中心線に対して真横が一番安定しているんだよ。これが斜めにズレると不規則な進路になってしまう。それはお前がやる当日修正の諸条件と似たようなモンだ。』
神通は言い終えると、右手にあったコップを口に運んだ。彼女はゆっくりと酒を流し込むと、その余韻を楽しむかのように大きく息を吐いた。『さっすが戦隊長〜。』と丁寧な説明に拍手する部下達の声を耳に入れ、神通は床に目を向けたまま小さく微笑んだ。
忠は初めて知った魚雷の知識にただ頷くばかりであった。魚雷が曲がるどころか、発射管が真横を向けた状態でしか使用されないという事さえ彼は知らなかったのである。瞬きをも忘れる程に呆ける忠だったが、ここまで聞いた神通の説明で彼には一つの疑問が湧いた。
『なあ、神通。発射管の方向が規制されてるって事は、照準線を合わせるために艦を直接旋回させるしかないって事か?』
『あ〜、昔はそうやってた。だがそれは雷撃の準備行動を敵に教えてやるような物だ。そこで出てくるのが斜進射法。発射した魚雷が任意の方向に旋回するように、あらかじめ魚雷を調定しておくんだよ。これなら目標の姿勢に対して合わせる角度も少なくて済むし、爆発尖が確実に動作する有効撃角を作り出す事も容易い。もちろん命中させる為には緻密な射法計画を練る手間はあるが、目標の航行状態によっては無転舵での射撃なんかも可能だ。』
『じゃあ、右舷に発射して、艦尾を回って左舷に魚雷を撃つなんて事も・・・?』
『まあ、極論ではあるが可能だ。あ、確か潜水艦の雷撃では艦尾発射管の雷撃はそうする筈だったな。斜進を目一杯かけて、艦首方向にある散布帯の一番外側の射線を構成させるんだそうだ。』
忠は再び大きく頷いて息を呑んだ。今まで触れた事の無かった魚雷の知識と、それを懇切丁寧に教えてくれた神通のその頭の良さ。艦魂という存在は一般人からすれば幽霊や物の怪の類と同等の非現実的な物だが、そんな存在であってもさすがに帝国海軍の艦魂である。水雷に関しては基礎的な知識でしかないのだが、それを良く理解している神通の言葉に、忠は初めて艦魂という存在に尊敬の念を持つ事が出来た。
今までの彼にしたら、彼女達は財布の事情を屁とも思わずに食べ物を要求して来る、困った連中でしかなかった。良い様にからかわれて笑われる事はいつもの事だし、神通に限っては時には暴力を振るってくる事さえある。決してそうは思っていないが、俗世の言葉を借りれば疫病神その物である。だがそんな彼女達も使命を持ち、その為に必要な知識をちゃんと学んでいるのである。その事に少し感動した忠はその心に込み上げた想いを共有しようと、ベッドの脇にいる相方に顔を向けて声を発した。
『凄いなぁ。おい、明石─。』
『くかー・・・。』
艦魂とは自分に与えられた使命を常に胸に秘め、その為に必要な知識を懸命に学ぶ、健気にして誇り高い者達である。たぶん・・・。
そんな言葉を脳裏で呟いた忠は、約一名の例外を無視してその場にいた艦魂達に尊敬の眼差しを向けた。大口を開けてよだれを垂らす相方に呆れつつ、忠は神通とその仲間達と供に、その夜遅くまで水雷に関しての話題に花を咲かせた。多様な知識を学ぶ事が出来たその夜の宴会は、今まで彼女達と過ごしてきた忠にとっては数少ない楽しい一時だった。