第三一話 「鮮やかな一日」
中城湾に明石艦が錨を降ろして少し経った頃、明石艦では待ちに待った上陸が許可された。これまで沖合いから眺めるだけだった沖縄の大地に心を躍らせる乗組員達は、やっと巡って来た上陸日に大喜びである。
その珍しいながらも綺麗な沖縄の風景は、彼等と同様に忠にもどこか晴れ晴れとした気分にさせてくれる。もうすぐあの砂浜に立てるのか、と逸る気持ちを抑えてにんまりする忠だったが、その腕をグイグイと引っ張って明石がお土産をせがんだ。
『ちゃんと覚えた? さーたーあんだあぎー、だよ!?』
『解った、解った。』
こうして作業地に着く度に強引にせがむ明石はいつもの事であるが、今日はちょっとその腕にも熱が入っている。少し面倒臭そうに声を返す忠だったが、明石は彼が運貨艇に乗り込むまでその名を何度も口にして彼に覚えさせようとした。
というのも、昨夜いつものように忠の部屋に集まった仲良し達が、一斉に口を揃えてその味を絶賛するお菓子があったからだ。サトウキビ栽培がさかんな沖縄らしく砂糖をたっぷりと使ったそのお菓子は、外はパリっと歯応えがありつつも中はしっとりとしたカステラのような食感なのだそうで、口いっぱいに広がるその甘さがやみつきなのだそうである。基本的に甘いものに目が無い明石と忠を他所に、彼女達は一様にその味が残る記憶を辿ってウットリしていた。普段は静かに酒を飲む神通や那珂ですらも、その大人びた外見からは想像もつかない程に身体をしならせて微笑んでいるという有様だった。そこまで言ったのならば持って来て欲しかったと思う忠と明石であったが、どうやらそのお菓子がカタチを留めているという誘惑に勝てる者はいなかったらしい。悪いなあと思いつつも、全員胃袋に流し込んでしまったとの事であった。
『残念。』と一言呟いて笑う忠だったが、彼の相方はそうではなかった。『それでも友達かぁ!?』と食って掛かった明石は口を山のように尖らせ、忠の袖を掴んで上陸の際にそれを調達してくるよう要求したのである。
笑顔の乗組員でごった返す運貨艇が細い煙突から煙を巻き上げ、グラリと揺れ始める足元にフラつく忠の耳には相方の怒号にも似た声が響いてくる。余程そのお菓子が食べたいらしい。軽く手を上げてその声に応える忠を、彼の近くに立っている乗組員達が不思議そうに眺めた。
10分程も白波を立てた運貨艇は、湾の中央部にある中城村の屋宜漁港の桟橋に接岸した。桟橋と言っても運貨艇が横付けすると漁船1艘すらも付ける場所が無くなる程の小さな桟橋で、乗組員全員が桟橋に移るのはかなりの時間が掛かる。
先に上がって桟橋を抜けた忠は、続いて降りてくる砲術科の部下達を待った。そこは背の高い蘇鉄の木が幾重にも伸びており、サンサンと注ぐ強い日差しに対して、その大きな葉っぱで日傘代わりとなってくれている。風に揺られて万華鏡の様に注ぐ木漏れ日と、透き通った蒼さを持つ海。沖合いに停泊する第二艦隊の各艦は、艦体その物に熱を持って熱苦しい事この上無かった。だが今はそんな艦が気の毒に思える程に、清涼で爽やかな気分を忠を含めた明石艦の乗組員達に与えてくれる。
雪のように白い砂浜に打ち寄せる波音と、風に揺られて天上から響いてくる蘇鉄の葉の音に耳を撫でられていた忠は、やがてそこにどこか懐かしさを覚えさせる楽器の音が混じってくる事に気づいた。
見れば残橋を抜けた所にある木陰で覆われた広場に、胡坐をかいて三味線を弾く浅黒い肌の老人がいた。沖縄県人らしい濃い顔立ちながらも、しわくちゃの肌と長く白い眉毛を持つ老人。枯れた枝のような腕や脚を覗かせる、古ぼけて褪せた色の青いシャツと短いズボンを身につけ、目を閉じて三味線を弾く彼は、なにかずっと昔からその場でそうして生きてきたような感じさえする。草が生えていない獣道から外れた所で音を奏でているその姿は、どこか野辺のお地蔵様のようだ。
『砲術士。』
その老人を物珍しげに眺めていた忠に、彼の背後に既に集合した砲術科の面々の内の一人が声を掛けてきた。他の科の連中が列になってゾロゾロとその老人の前を通って行く中、忠は背後の部下達から視線を正面に戻すと声を上げた。
『自由散策。30分後に集合をかけるぞ。』
忠の言葉に彼らは返事をすると、すぐに仲間内で集まって砂浜へと散った。わーわーと声を上げて浜遊びする者もいれば、木陰にひっくり返って昼寝する者等、各自の思うがままの時間を堪能しだす。忠は一度、腕時計を確認すると、三味線を引き続ける老人とは道を挟んで反対側の草地に座り込んだ。彼の耳には特徴的な沖縄独特の音階で奏でられる三味線の音が流れてくる。その音色ににわかに瞳を閉じて聞き入った彼だったが、老人もまたその視界の端にいれていた。
見慣れない海軍の服に身を包んだ青年だが、吐息の音すらも押し殺すようにして静かに聞き入る彼を見て老人は微笑んだ。荒涼な大地に転がる岩の様に彫りの深い顔の老人は、笑顔になってもその顔の感じが消えない。だがその表情にはなんともいえない暖かさがあった。
『海軍さん、どっから来た?』
しゃがれた声で少し忠には聞き取りにくい老人の声だったが、いかにも地元の者といったその風貌からは想像もつかない程の綺麗な標準語で彼は言った。背後にあった太い蘇鉄の木に背をもたれていた忠は少しだけ驚くものの、すぐにその表情を明るくさせて背を戻した。
『あ、どうも。自分は青森です。』
『そうかい。遠い所からよく来なさったなぁ。』
三味線の音を途切らさせる事無く老人は言った。静かに答えてくれた忠の態度が嬉しかったのか、老人はその顔にさらにしわを歪ませた笑みを向けた。老人は二、三度手元に視線を落として絃の位置を確認すると、どこか遠い目をして忠の足元辺りを見つめながら言った。
『わたしも昔は陸軍でしてね。あちこち行った物ですよ。』
やせ細った老人だが、その昔は陸軍軍人だったという。海軍軍人とは相容れない存在と思われるような陸軍だが、まだまだ潮気の薄い忠にはそんな考えは微塵も無かった。彼の故郷には、その地の人々によって編成される郷土部隊がいたからである。少しだけ故郷のことを思い出す忠に、老人はさらに嬉しい言葉を放った。
『青森なら弘前第八師団ですねぇ。』
『あはは。はい。自分、弘前ですよ。』
『おお、そうですかあ。わたしは熊本第六師団ですよ。』
いかつい外見とは裏腹に、老人はニコニコとしながら声を返した。忠もその老人の笑顔と、手元から響いてくる三味線の音色に自然と表情が明るくなる。そして老人が口にした地名により、忠は何故この老人が流暢に標準語を話せるのか見当がついた。
『あ〜、それで訛りが無いんですね?』
ポッケから煙草を一本取り出し、口に挟みながら老人の答えを待っていた忠だったが、老人は少し俯いて苦笑いしする。ゆっくりと首を捻り、忠とは視線を合わせぬままで老人は言った。
『いやあ、身体で教えられましたよ。うちなー(沖縄)の言葉というのは馬鹿にされましてねぇ。』
方言で苦しんだ過去を話す老人に、同じく国内でも屈指の難解な部類に入る方言、津軽弁を使う自分の境遇を忠は重ねた。江田島の地を踏んですぐの頃は、その珍しい言葉から彼は仲間と打ち解けるのにはかなり時間が掛かった過去がある。根が真面目で銃剣道の腕前が強かった忠は仲間外れにされるような事は無かったが、その実はイジメに遭う危険と隣り合わせの幸運でもあった。
忠はその事を知らないが、事実、今彼の目の前にいる老人を含めた沖縄県民は、意図的に県内には連隊が置かれなかった事もあり、九州各県の連隊に分散配置されるのが常であった。そしてその特殊な方言によって、営内では多くの県民がイジメの恰好の標的とされたのである。
『あ、すいません・・・。』
忠は老人に辛い過去を話させてしまった事をすまなく思い、口に挿していた煙草を取ると大きく頭を下げて詫びた。だが老人は小さく笑いながら、子気味良く三味線を鳴らせて忠の頭を上げさせてやる。少し引きつった笑みを浮かべて老人の顔色を窺う忠だったが、当の老人は気にすること無く再び明るい声で話し始めた。
『はっはっは。まあ悪い事ばかりでは無かったですな。特に軍旗祭りは、楽しみで楽しみでねぇ。』
『あ〜、自分も子供の頃は楽しみでした。自分は親戚の何人かが弘前の兵営に・・・。』
忠は老人の言葉にまたも故郷での思い出を脳裏に浮かべ、その記憶を辿っては懐かしい思い出を老人に語り始める。老人も同じように若りし頃の良い思い出を懐かしみ、それを惜しげも無く忠に語ってくれた。
陸軍談義に花を咲かせる二人。
海軍の制服を着る忠がその会話にのめり込むのはどこか変だが、当時の一般的な国民としてはその意識は決して変ではなかった。勤務地が常にあちこちになってしまう海軍とは違い、陸軍は普段は衛戍地にその身を構えており、部隊の中核たる兵や下士官に至る人員はその地から召集するのである。よって衛戍地付近の住民からは親近感を持たれ、当の衛戍部隊も地域密着型の衛戍運営を行っており、さらには人目が届きにくい海の沖合いで演習する海軍に対し、陸軍の定期的な演習は付近の刈入れの終わった田畑で行う事もしばしばで、住民からの意識的、物理的距離感は海軍とは比べ物にならないくらい近しい存在であった。
ちなみに彼らが口にした軍旗祭とは衛戍地を一般人向けに解放し、普段は兵営の奥で厳重に保管されている軍旗を人々の目に触れさせるという陸軍独自のお祭りであった。忠も幼い頃には、兵2名に両脇を護衛され、誘導将校を伴って目の前を横切っていく軍旗を何度も目にしていた。当然、その後に続いて衛戍部隊による分列行進に幼心を沸き立たせ、普段は営門前で怖い顔で仁王立ちする兵隊さんが、信じられないくらいの優しい顔で営む出店や仮装大会、喉自慢等の催し物は、忠を含めた地元民達がねぶたと同じくらい楽しみにする大きなお祭りであった。そして男の子達が漏れなく夢中になる、帝国陸軍装備品の展示。自分の身体よりも遥かに大きい銃器や野砲等に目を輝かせたのは忠も例外ではなく、少年達にとって陸軍とは文字通り、天に代わりて不義を討つ正義の味方なのであった。
後年、帝国の終焉と同時に栄えある帝国陸軍もその歴史に幕を閉じる事になるが、この軍旗祭と同様の微笑ましい光景は駐屯地祭と名前を変え、この時から70年以上が経っても変わらぬまま続けられる事になる。脈々と受け継がれる、良き伝統であった。
『砲術士。』
すっかり夢中になっていた忠は、彼の横に集まった部下達の声でやっと我に帰った。腕時計を見ると既に集合の時間を少し過ぎており、少し遊びつかれた部下達の表情もあって忠は腰を上げる。お尻の辺りを手で軽く払って土や葉っぱを払い落としながら、彼は未だに演奏を続けている老人に向かって声を発した。
『良いお話を聞けました。有難う御座います。』
『あっはっは、いえいえ。』
老人は座ったまま腰を折り曲げて頭を下げた。余程三味線が好きなのか老人は手を休める事無く、礼を返す忠にしわくちゃの笑みを向ける。
そしてその手元から奏でられる音色に、故郷の津軽三味線を思い出していた忠。老人との他愛無い一時が終わってしまった事に少し名残惜しさを覚えながらも、忠は軽い動作で額に右手を添えた。『では。』と短く呟いて老人の前を横切っていく忠の背後からは、彼の後ろ髪を引くかのように三味線の音が流れ続けていた。
その後、忠が率いた砲術科の乗組員達は、砂浜から2キロ程離れた小高い丘陵に向かった。緑豊かな丘陵には石垣の土台や通路が立ち並ぶ中城城跡があり、馴染みの薄い沖縄の歴史に彼等は想いを馳せた。築城当時の建造物は既に無くなっているのだが、村役場として現役で使用されているという日本でも指折りの働き者のお城であった。役場の職員達は快く乗組員達を迎えてくれ、彼等は眺めの良い石垣の上に莚を敷いて昼食の時間をとる事ができた。背の高い蘇鉄の木が生い茂っていた砂浜とは逆に、中城城跡がある丘陵には木々が殆ど無く、明石艦を始めとする第二艦隊の各艦がその身を浮かべる中城湾を一望しての昼食は、乗組員達の表情を明るくさせた。上陸の際に渡されるお弁当はおにぎり二個と一握りの沢庵という質素な物だったが、目の前一杯に広がる宝石の様に青い海は、そんな事を彼等の脳裏から拭い去った。
昼食後は中城村の中に限っての自由散策とし、乗組員達は思い思いの足の向くまま村内で遊んだ。まだ2月だというのに暖かい沖縄では既に海で遊ぶ子供達もおり、村はずれの田圃ではなんと田植え作業の真っ最中であった。掛け声を放って畦道から投げ入れられる稲の束と、泥まみれ汗まみれになって足元に落ちてきた稲を植えていく百姓の人々。のどかなその風景は、またも忠に懐かしき故郷を思い出させてしまう。彼は込み上げてくる帰郷の二文字を振り切るように、田圃の光景に背を向けて村内へと戻った。
その後、村の中を歩き回ってようやく見つけたお店で、相方が催促したお菓子「サーターアンダーギー」を調達した忠。意外にもそれは油で揚げたお菓子で、たっぷりと使われた砂糖が揚げられた事によって放つ香ばしい香りは、どこかドーナツのようでもある。沖縄では庶民的なお菓子らしく、お店で品物を買う忠の横では、現地の子供達がワーワーと声を上げながら頬張っていた。子供達は珍しい軍服を着た青年をみて何事かを言っているが、強い沖縄弁での会話は忠には理解できなかった。それでも忠が笑みを見せてやると、彼らも白い歯を見せて笑みを返してくれ、店とは道を挟んで反対側に有った木から花をとってきてくれた。沖合いから眺めている限りは緑一色の沖縄だが、その花は春を思わせるような鮮やかな赤紫色の花で、子供達の口にするところによると「ムラサキソシンカ」というらしい。相方へのお土産が一つ増えた事に喜ぶ忠。彼がお礼を言うと、子供達も「ありがとう!」といかにも真似てみたといった感じの発音でお礼を返してくれた。無邪気に走り去っていく子供達に微笑んだ忠は、腕時計を見て集合の時間が近づいている事を悟り、道端に生える美しい花達を観察しながら集合場所になっている桟橋に向かって歩き出した。
束の間の陸上散策を終えて艦に戻った乗組員達は、再び配置に戻って各自の持ち場の整理整頓を開始する。常に清潔な状態を維持しようとする帝国海軍生活では最も多い掃除のお時間だが、その実は「やる事が無いから掃除でもさせておけ」というやっつけ気味なお仕事でもあったりする。隣で一緒に励む仲間と上陸の話をしながら整理済みの所を一度崩してまた整理する、という光景が明石艦艦内のあちこちで繰り広げられるが、なにも明石艦に限ったお話ではない。そしてそんな命令を発する身の者も、それとなく部下達から向けられる視線に抗うように持ち場のお掃除と励むのが帝国海軍生活の日常である。
例外なく忠も発令所の壁や舷窓を雑巾で拭いていた。綺麗好きな彼にしてはその時間は特に苦痛でもなく、艦橋からの伝声管より響いてくる仲間のやる気の無い会話を耳に挟みながらも、雑巾を持ったその手には力が入る。雑巾に一度隠されて再び覗かせる綺麗な壁、その壁に無上の喜びを感じる忠は表情を明るくさせて大きく一度頷くと、再び大きく腕を振って雑巾掛けに勤しんだ。そして彼の背後にある机では、椅子に腰掛けて彼が調達してきたお菓子にさっそく舌鼓を打つ明石の姿があった。噂通りだった食感と口一杯に広がる砂糖の甘さが、明石の表情を明るくさせる。大の男の握り拳ほどもあるサーターアンダギーだが、明石はそれをペロリと口に押し込む。その様子をクスクスと笑う忠を横に、彼女は二、三回顎を上下させるとまるで蛇の様に一飲みしてしまう。
『んん〜〜、うめぇ〜〜〜!』
砂糖のついた指先をベロベロと嘗めながら明石はそう言うと、すぐにまた机の上に置いたお菓子の山へと手を伸ばす。何がそんなに嬉しいのかと疑問に抱くほどにニコニコと笑ってお菓子を頬張る明石は、口にお菓子をヒョイっと投げ込むと机の脇に置いていた赤紫色の花を手に取った。忠がそっと見守る中、明石はその花を顔のすぐ近くに寄せて愛でているが、別に彼女は花を食べようとしているのではない。
艦魂である明石にとっては陸地は元より、艦の周りの海にすらも足を踏み入れる事はできない。人の手によって造られた彼女が触れ合える自然とは、その身を浮かべる海面と空を自在に飛んでいく鳥達、そして遠目にしか見る事のできない空と陸地の風景だけである。人間であれば誰でも見た事のある草や花は、彼女達にとっては双眼鏡で眺めるしかない、決して手の届かぬ存在なのである。
特に意識もせずに持ち帰った忠だったが、その花を大事そうに両手で持ち上げて慈しむ明石の表情に口元を緩めた。さっきまでとは別人のように今度は静かになって花を見つめ、時折指先で優しくそっと花びらを撫でる。『キレイだなぁ。』と呟きながらマジマジと花を眺める明石が、気づかれないようにその姿を窺っている忠の視線をを釘付けにした。
可愛い所、あるんだけどなあ。
そんな言葉を彼が脳裏に浮かべたと同時に、明石は花をそっと机に戻すとまたも表情をコロっと変えてお菓子を口に投げ入れた。少しだけ荘厳さを漂わせていた明石だが、今はその雰囲気を吹き飛ばしたかのように笑って頬を動かしている。その可笑しな人柄に忠は再び笑って、視線を前に戻した。
それから少し経った頃の事だった。
椅子に腰掛けて上陸した地の話をする忠と明石の耳に、艦内放送によるブザーが響いてきた。既に時間は1600。もう少しで夕飯のお時間であり、艦内のあちこちでは一日のシメである甲板掃除の準備をし始めている。そんな時間にかかった艦内放送は、明石艦乗組員にとっては珍しかった。
『総員傾注。八戦隊筑摩艦搭載の水上機が墜落したとの報有り。これより明石艦は泊地を変更、引上げ作業に従事せり。』
『明石艦、出航用意。』
スピーカーが静まると同時に、号令員の声が矢継ぎ早に発せられた。それを受けてすぐさま、明石艦の最上甲板は乗組員達の走る音が木霊しだす。まだ夕暮れにもなっていない沖縄の空は、乗組員達の時間の感覚を少しだけ狂わせた。『こんな時間から出航かよ。』という声がでてもおかしくは無いのだが、誰一人一言半句の文句も言わずに己のやるべき事に全力を注ぐ。それはまるで朝に作業地から旅立つ光景のようだ。
緊急の出航とあって、艦首旗を降ろさぬままで明石艦は抜錨。同時に宮里艦長の号令がかけられ、後部煙突から煙をもくもくと巻き上げた。『ふう。』とどこか力が抜けた溜め息を放って明石が椅子から腰を浮かせると同時に艦は前進を開始し、その艦首は静かな中城湾の水面を切り裂き始めた。
南北に広がった中城湾の地形に合わせて第二艦隊は停泊しており、明石艦が停泊していた南端から第八戦隊が停泊していた北端まで行くのは少しばかり時間が掛かった。各自の持ち場でザンザンと波を掻き分ける音を聞く乗組員達には、時間が経つと少しづつ艦内放送によって状況が伝えられた。
有難い事に、戦闘ではない事から砲術科は居住区にて待機となり、幹部以外は艦内にてしばしの休息となった。太陽が姿を隠そうとする沖縄本島と、その光りを艦首から被って影のみとなる第二艦隊の艦艇を横目に、明石艦は北上していた。
わびしい電灯の明かりに照らされた発令所では、一応は発令所責任者の忠が待機しており、少しづつ明るさを失い始めた湾内の光景を舷窓から眺めていた。昼間はあんなに綺麗だったさんご礁も、今は照らされる光りの量が足りないのか、海の色は瀬戸内の海の色とそれ程変わらない。ちょっと見慣れた感のある湾内の光景を目に映す忠、その横に明石が歩み寄ってきて口を開いた。
『とりあえず、死んだ人がいなかったのは良かったね。』
『うん、そうだな。』
先程の艦内放送によると、筑摩艦上から射出機にて飛び立とうとした水上機が射出時の衝撃に耐えられずに空中分解を起したのだという。砲術科である忠には飛行機の知識が薄く、帝国海軍にて広く運用されている水上機がそんな簡単に壊れて良い物か、との疑問が湧いてくる。艦砲で言えば、引き金を引く前に薬室内で爆発してしまうような物である。もちろんそんな事が無いよう、砲弾と火薬には工場からの出荷時にまで遡る記録簿が設定されており、現物が保管されている倉庫の鍵は砲術科のナンバー2である忠ですら持っていない。その事を考えると、危なっかしい運用方法のままで飛行機を用いる今の帝国海軍に忠はちょっと首を捻ってしまう。
釈然としない忠が明石に視線を送ると、明石もちょっと困ったように眉をしかめて微笑んでいた。
『神通や那珂が前に言ってたけど、こういうの結構よくあるんだって。射出機って火薬で動かしてるらしいんだけど、やりなおしができない上に、発動機の出力を上げる操作が上手くいかなかった時も落ちちゃうって言ってた・・・。』
明石はそう言うと舷窓に背を向けて、力なく壁に寄りかかった。一日の終わり頃になっての急な出航に少し疲れたのか、彼女は目を閉じて首を垂れる。
『どうした?疲れたのか?』
忠がそう声を掛けると、明石は目を閉じたまま小さく笑った。右手を左腕の腕章に添えて、明石は小さく溜め息をすると答えた。
『そういう訳じゃないよ。でもなんだか、落ち着く時間がないなぁって・・・。』
さっきまであれだけ食っといて何を言ってるんだ?と、忠は一瞬思ったが、彼女の分身が常日常からどれ程に第二艦隊に対して貢献しているかを思い出し、その考えを改めた。
明石艦は作業地に付く度に艦隊各艦からの修理品を一手に引き受け、母港の呉へ戻ったら戻ったで今度は工廠での作業の補助業務を託される。その為に造られた艦であり、その為に施された装備なのだが、当の明石艦にすれば毎日が実戦のような物である。今日の水上機の引き上げ作業も、懸架能力の高い起重機を持つ事が理由で明石艦に回ってきたお仕事であり、本来のお仕事ではない。明石艦の左舷に広がる、訓練を終えてその身を休める第二艦隊の艦艇達。だがその安息の影で、こうして地味なお仕事をひたすら遂行するのは、特務艦と類別される明石艦の宿命でもあった。
明石は決して不満がある訳ではないし、静かに左舷の向こうで休む仲間達を憎んでいる訳でもない。ただ、そのお仕事の量と質が仲間達とは余りにも違う事が、明石にはちょっとだけ寂しかった。
忠は明石の表情とそれに伴う心の内が読めなかったが、どんな理由があっても彼女のそんな表情は好きにはなれなかった。なにか彼女の機嫌を治せるネタはないかと部屋を見回した忠は、それを発見するや机に歩み寄っていった。相方が何も言ってくれない事に明石は、先程よりもさらに表情を曇らせて俯いた。別に忠を責めようという気は起きないが、なにか自分一人が苦しんでいるようで心が晴れなかった。師匠が以前に語ってくれた話がまだ記憶に新しい明石には、なおの事であった。
その時、ふと落としていた視界に相方の脚が映った明石は顔を上げようとしたが、その頭を忠に両手で横から抑えられた。突然の彼の行動に驚く明石だが、忠は至って平然とした声で彼女の頭から帽子を取って言った。
『ほら、動くなよ。』
明石が言い返すのを待たずに、忠は彼女の頭の右耳の上辺りの髪に何かを挿した。その違和感に思わずその部位を触ろうとする明石だったが、忠は彼女の手を押さえると、今度は両肩に手を置いてクルッと身体の向きを変えた。
『うん、良く映える。』
背後から聞こえてくる相方の声と同時に、明石は目の前にあった舷窓に映り込む自分の姿を瞳に映した。陽も落ちてやっと暗くなり、発令所内の電灯で映り込んだ明石の頭には赤紫色の花が挿されていた。黒と白の軍装しか持っていない明石にとっては、初めて身に纏った鮮やかな色であり、濃い青紫色の夜景にぽつりと浮かんで輝く赤紫色の花は、なにか一人苦しんだ自分の様に明石には思えた。
『花が似合うって事は良い事だぞ、明石。』
再び背後から聞こえてくる忠の言葉に、明石はやっと笑みを取り戻した。肩に伝わってくる、彼の手の温もりに明石は口元を緩めると、両手を腰に当てて胸を張った。
『ふふ〜ん、と〜ぜん!』
決して二人の考えが理解し合えた訳でも、決して二人の心が通い合った訳でもない。だが明石は、忠という大事な相方の存在を、一連の彼の行動を受けて改めて認識した。明石の師匠である朝日が言った言葉を、彼女は再び思い出す。代わりに戦う事はできなくとも、策を与える事はできる。師匠と供に、そんな芸当ができる心強い人物が明石にはもう一人いたのだ。二人の顔が映り込んだ舷窓、その舷窓越しに二人は笑みを合わせた。
その夜遅く、明石艦は筑摩艦搭載機の墜落地点に移動して投錨。翌日には引上げ作業に入った。羽布張りで2トン少ししかない九五式水偵の引き上げだったが、折れ曲がった翼が海底に突き刺さって中々作業が捗らない。ところがさすがは明石艦。小笠原工作長の指揮の元、なんと潜水服に身を包んだ工作科員が水中に潜って翼を切断するという方法で解決した。非常に珍しい水中溶接の技術を応用しているらしく、明石艦乗組員を始め、訓練に向かう為にその場を横切っていく第二艦隊の各艦からもその光景は視線を集めた。そしてその中の一隻、気さくな艦長が座上する神通艦からは、手旗信号でその手腕を褒め称える信号が送られてきた。
『貴官ノ能力ト普段ノ勤労、誠ニ天晴レ。我、中城ノ珊瑚礁ニ帝国海軍ノ技術ノ最先端ヲ見ルニ至リ。』
艦魂同士の仲に収まらず、明石艦の存在は第二艦隊内でも認められ始めていた。この日、明石艦の快挙を目にした第二艦隊の士気は高く、頭一つ抜きん出た訓練の成績に古賀長官は手を叩いて喜んだという。