第三〇話 「沖縄の海」
昭和15年2月25日、朝。
呉での物資補給、及びその他諸々の用事を済ませた明石艦は舫を解いた。
12日間に及ぶ桟橋接岸を終えた明石艦だが、おかげで充分に陸地に脚をつけた生活を堪能できた乗組員達の表情は明るい。暫くの間お別れとなる呉の景色を惜しむ声はなりを潜め、むしろこれから始まる久しぶりの艦隊訓練を快く迎えるかのような、爽やかな笑い声が明石艦の最上甲板に木霊する。後部煙突からもくもくと煙を上げて、艦の周りに白波を立て始める明石艦。
今日も颯爽と軍艦旗が翻る艦尾の甲板には、明石が珍しく一人で直立不動の敬礼をしていた。
『行って参ります。』
そう言って敬礼する明石の向こうには、朝日艦のスタンウォークで手を振る朝日の姿があった。陽の光りを帯びて一層赤みを帯びて輝く髪を風に揺らし、肩の高さでゆっくりと右手を振る朝日。彼女は小さく微笑むと、振っていた右手を立ててその指先を自分の額に添えた。
ディーゼル機関を主機関としている明石艦は、缶圧の上昇を待つ必要がない為に加速の反応がとても早い。ついさっき岸壁から離れて回頭を終えたばかりだというのに、後部の煙突から黒煙を一際高くあげるとグングンと前に進みだした。そしてそれに合わせる様に小さくなっていく師匠の姿を、明石は敬礼を返したまま眺め続けた。
この10日余りの在泊で、明石は実に多くの事を朝日から学んだ。医学の知識は元より、軍医としての心構え、物の考え方、艦魂独自の哲学にまで及んだ朝日の教育。時に長々とお説教を受けてしまう事もあったが、その時間は第二艦隊に追随していては決して味わう事の出来ない貴重な時間であった。
今こうして呉を旅立つ明石であるが、その姿からは特別何か自分が変わったという感覚は無い。背が伸びた訳でもなければ、腕が太くなった訳でもない。だが明石は自らの左腕の肘の辺りに手を当てて、その実感を確かに感じとる事ができた。彼女の左腕には、純白の麻生地に大きな赤十字を描いた腕章が付けられていた。赤線の入った階級章と供に、明石を軍医だと周囲に認知させる事の出来る物がまた一つ増えたのである。そしてその腕章には、明石と朝日の大事な想いと記憶が込められていた。
その腕章は朝日が密かに作ってくれた物で、帝国海軍艦魂における一人前の軍医の証であった。朝日はその権威を持たせる為に腕章を渡す日にわざわざ第一戦隊の3人を始めとする艦魂達に声を掛け、授与式に臨席させた上で明石に手渡してくれたのである。帝国海軍連合艦隊旗艦の長門がそこにいた事で、その腕章は文字通り連合艦隊艦魂の長のお墨付きを得たのだった。ちなみに300隻を超える帝国海軍の艦魂において、赤十字の腕章を付けた者は朝日と明石しかいない。
明石は手渡されると同時にそこに込められた意義の重さに尻込みしていたが、そんな教え子の腕に自らの手で腕章を付けていた朝日は静かに声をかけてやった。
『明石。これから貴女は、艦魂として、軍医として戦わなければならないわ。』
突然の朝日の言葉に明石はロクに返事も返せなかったが、朝日は明石の腕に視線を落としたまま、その碧眼を細くして語りかけを続ける。
『ウミネコが鳴いて空を飛ぶ事も、桜の花が春になって綺麗に咲き乱れる事も、漁師が魚や貝を獲ってその日の食卓に並べる事も、かつて私を含めた貴女の先輩達が世界最強のロシア海軍と砲火を交えた事も、全てがこの世との戦いなの。貴女はこれから一人の軍医の立場を頂く艦魂として、その戦いに参加するのよ。逃げる事は出来ない戦いだけどね。』
腕章を付け終えた朝日はやっと視線を明石の顔に向けた。少し強ばった感のある表情で見つめる明石に、朝日は少しだけ微笑を歪める。教え子が抱いているであろう不安を綺麗に払拭できる言葉が、中々脳裏にうかんでこなかったからだ。だが嘘や詭弁を用いてそれを行おうとする気も朝日には無く、彼女は自分の思う所をそのまま伝える事にした。
『艦魂も人間も無く、生きるという事はこの世との戦いなの。私たちは生きる為に人と戦い、海と戦い、時代と戦い、この世という存在から生きる糧を奪うしかない。それはふいに水面に浮いている事も無ければ、気まぐれに空から降ってくる事もない。戦いに勝って奪う以外、方法はないのよ。』
明石は僅かに唇を噛んでその言葉を腹の底に飲み込んだ。
何よりもその言葉が、戦いという物から無縁でありそうですらある人柄の師匠、朝日の口から出た物であったからだ。これまでに色んな物を映してきた師匠の青い瞳。そこには疑問や懸念を寄せ付けない、強い説得力があった。
キッと目に力を込める明石の肩に、朝日はゆっくりとした動作で両手を乗せると口を開く。
『明石が受け持つ戦線は、帝国海軍工作艦である明石艦の艦魂という名の戦線。そこは明石独りの力でなんとかするしかない。でも忘れないで。明石が必死に戦っている時、全ての戦線では同じように必死に戦っている者が必ずいる。その中には長門や比叡、明石と親しい艦魂や人間の少尉さん、そして私がいるわ。決して明石独りだけが敵陣に孤立している訳ではないのよ。明石が苦しんでいる時は、誰かも苦しんでいる。みんな一生懸命に生きている事を忘れず、明石にしかできない戦いをしなくてはダメよ。』
『・・・はい。』
朝日の優しい語りを受け、明石はやっと声を返す事が出来た。
『もし戦い方が解らなくなった時は、いつでも私の所に来なさい。明石の代わりに戦う事はできないけど、戦う為の策を与える事はできるわ。解ったわね?』
『はい!』
明石は朝日の語りによって普段の落ち着きを取り戻し、同時に生きるという戦場に赴く心構えを得た。尊敬する師匠に敬礼を返した明石を朝日と臨席していた艦魂達が優しく見守り、同時に新たな戦友の誕生を心から喜んだ。
昨日の光景を思い出すと、明石はちょっとだけ寂しかった。もちろんこれが今生の別れになるとは思っていないし、まだまだ教えてもらいたい事が明石には山ほどある。気の済むまで朝日の教育を受けておきたかったというのが正直な明石の願いだが、それが今は叶わなかった事もまた、師匠が口にした戦いなのだと明石は悟った。
瀬戸内の暖かい潮風が、明石の首の後ろで結われた髪の束を靡かせる。明石は手を下ろすと、小さく溜め息をして表情を明るくした。
始まったばかりの戦で逃げるようでは、必死に戦い方を教えてくれた師匠に申し訳が無い。
そう心の中で呟いた明石は遠のいていく呉軍港に背を向け、彼女の相方が今日も励んでいるであろう発令所に向かって歩き出した。
明石艦は豊後水道を抜けると、種子島を左舷に見て南へ駆けた。目指すは現在第二艦隊が訓練しているであろう作業地、沖縄県沖縄本島の中城湾。これまで沿岸を遠めに見て航行した事しかない明石艦にとっては、初めての全方位が水平線という航海だった。
ポツンと単艦で、大海原というキャンパスに白い航跡で線を引いていく明石艦。
時間が経つほどに暖かくなっていく航海は乗組員達にささやかな旅行気分を与えてくれ、洗濯物として今日も起重機に翻ったふんどし群もどこか輝かしく彼等の瞳に映る。もっとも明石はその光景が事の他お気に召さないらしく、『品がない!』と頬を膨らませて忠を困らせた。
後年、その航路を帝国海軍最後の水上艦隊が駆ける事になるとは、この時は誰も予想だにできなかった。
2月29日、照りつける日の光りに暑さすら覚える気候の中城湾に明石艦は到着。第二艦隊と数十日振りに合流した。
乗組員達には初めて沖縄に来た者も多く、本土とはまた違った沖縄の海や山の景色に目を奪われる。中城湾は沖縄本島に西側を、北の勝連半島と南の知念半島から連なった島々に東側を囲まれた湾であり、グルッと陸地に囲まれて投錨するその光景はどこか瀬戸内の呉軍港を彷彿とさせる。ただ湾内はそれ程水深が深くない為に、上陸の際の第二艦隊乗組員達はかなりの距離をカッターで漕いで行かなければならない。この時ばかりは運貨艇を搭載していた艦に配属されて良かったと、明石艦の乗組員達は喜んでいた。
沖縄はその歴史の上でも本土との関わりが少しばかり薄く、遠い海の果てにある事も有って東京や大阪にあるような大きな建物などは殆ど無い。だが帝国海軍にとっては、台湾や南支方面への中間地点にある事、有明湾と同じように広大な太平洋という絶好の訓練海域がすぐ近くにある事、一年中温暖な気候で綺麗なさんご礁や独自の食文化等が乗組員達の上陸に非常に貢献できる事等、中々に重要な作業地の一つであった。
沖合いにて第二艦隊に混じって停泊する明石艦。
その発令所入り口近くの甲板では、真っ白な第二種軍装に着替えた明石と忠が、双眼鏡片手に湾に面した漁港の風景を眺めていた。赤い瓦を葺いた屋根が連なった独特の形状の家々が映る双眼鏡に、明石が興味を示して目を輝かせる。
『赤い屋根の家かあ。珍しいね。』
手摺に身を乗り出している明石の背後では、双眼鏡を失った忠が壁に寄りかかって煙草を吹かしていた。元々は彼が自前の双眼鏡を片手に風景観察と洒落込んでいたのだが、それを発見した明石は10秒も待たずに彼の手から双眼鏡を剥奪した。少しムッとした忠だったが、自分の様に上陸が出来ず、ただ沖合いから眺める事しか出来ない彼女の境遇を思って何も言わない事にする。
もっともその斜めに傾いた忠の機嫌は既に直っていて、あっちこっちに双眼鏡を向けて何かを発見する度に嬉しそうな声を上げる明石の後姿に彼は口元を自然と緩ませているのだった。手に持った灰皿に煙草を近づけて灰の塊を落とす忠だったが、突如としてその腕の袖を明石が掴んできた。双眼鏡を差し出しながら、頭上で輝く太陽の様な笑顔で明石は口を開いた。
『ねえねえ、狛犬があるよ。』
『狛犬? ああ、たぶん─。』
忠はそう言いながら明石の手から双眼鏡を取り、それまで明石が見ていたであろう湾内の民家を望んだ。沖縄独特の家々。連なった赤い屋根の上には、神社等でよく見る狛犬に似た置物が置かれている。屋根の上にあるというのは珍しく、なにか戦国時代の城の鯱のようにも思わせる。もっとも忠はその物体の正体には、ちょっとした心当たりがあった。
『やっぱりな。昨日ガンルームで聞いたんだけど、"シーサー"って言うらしいぞ。魔除けとかの意味合いが有るんだってさ。』
数少ない沖縄の知識を授ける忠だったが、すぐにその腕を明石がグイグイと引っ張った。早く双眼鏡を渡せ、という明石の無言の要求であるが、彼はそうなると既に予想していたので抵抗すること無く彼女に双眼鏡を手渡した。『おお、シーサー!』等と笑顔で双眼鏡を覗き込む明石であるが、忠はまたしても沖縄の景色をじっくりと堪能することが出来なかった。だが双眼鏡が無くとも彼の目には、赤い屋根の民家と白い砂浜、緑色に輝くさんご礁がしっかりと映り、本土には無い何とも鮮やかな色合いの景色を充分に楽しむ事ができた。
美しい風景を遠めに楽しんでいた忠だったが、ふいに明石が双眼鏡を下ろして振り返ってきた。何か良い事を閃いたのか、明石は白い歯を見せて笑いながら言った。
『森さん、上陸するんでしょ?』
『ああ、3月27日まではここに停泊するからな。なにか食いたい物でもあるのかい?』
『よし! じゃ、シーサー買って来て!』
『は・・・?し、しーさー・・・?』
いつもは上陸と聞けば食い物の調達をお願いする明石だが、今日は食べ物以外の調達を口にした。初めての出来事である事に驚く忠。だが明石はそんな彼の呆ける顔を小馬鹿にするかのように、口元に両手を当ててクスクスと笑っている。
『えへへ、舳先に飾って船首像にするんだよ! 名案でしょ!?』
自らの閃きを絶賛する明石だが、相方の忠はそのぶっ飛んだ発想に苦笑いを浮かべた。
アンタ、帝国海軍の艦魂だろ? 船首像の前に菊花紋章を欲しがれよな。
いつもの様に相方の訳の解らない発言に、そっとツッコミを入れる忠。しばらく先輩について修行してきたというのに、彼女の性格は相変わらずで、彼女より先に上陸先での買い物を口にしてしまった事を忠は少し後悔した。それでもはしゃぐ相方を眺める彼の表情は、少し歪んでいながらも笑顔からは変わらない。自分が知っているままの明石であった事を、彼はどこか安堵したのであった。
のんびりと沖縄の風景を楽しむ二人であるが、日曜日である今日はそれを咎める人もいない。それどころか温暖な気温に澄み渡った青空、そして緑色に輝く海を楽しめる沖縄に来たとあって、明石艦を含めた第二艦隊の各艦では乗組員達の膨らむ希望を後押しする号令がかかった。
『総員右舷最上甲板、遊泳用意。』
いつもは精悍で空気を切り裂くような号令も、今はどこか楽しそうな声になっている。号令と供に艦内のあちこちから乗組員達が駆け足で集まってくるが、彼らの表情も似たり寄ったりだった。各分隊長が集合をかける中、艦橋すぐ横のボートダビッドに青木大尉の姿を見つけた忠は、歩き出しながら明石に声を掛ける。
『お仕事だ。ちょっと行ってくるよ。』
これから始まる楽しい一時を想像して微笑む忠だが、竣工以来初めて掛かったその号令の意味が解らない明石は眉をしかめて首を捻った。同時に彼の笑顔の理由もよく解らないので、明石は彼の後に続きながらその事を聞いてみる事にした。
『ねえねえ、森さん。なに、ゆーえいって?』
『ははは。読んで字の如くだよ。有り体に言えば海水浴さ。』
『海水浴!?』
普段は聞きなれない号令だが、兵員の健康や遊戯をもって士気の維持を図ろうとした帝国海軍は、時にはこうして遊泳の許可をする事があった。
海軍の兵員達は全国津々浦々の出身者が集まって一つの艦に乗組んでいる。その上で軍艦という船である事から、彼らが働く職場は常に移動して一定の場所に留まる事は中々無い。だが逆にそれは彼等にとってはまだ見ぬ地への旅行と紙一重であり、こうして沖縄の海を楽しめる事は普段の生活での鬱憤を晴らすのには絶好の機会だった。嫌いな奴や、怖い上司等もこの時ばかりは一緒に笑い合って楽しむ仲間だ。
また艦内規則にも示されている通り、繋船桁を展開した後に装載艇をちゃんと下ろして足場を作り、非常時を想定して救命用の人員や救命索を用意する等、それを実施する艦の運営者達も細心の注意を払って行う本格的な物だった。
各分隊長の指示に従い、二言返事で遊泳準備に取り掛かる乗組員達。目の前にニンジンをぶら下げられた今の彼等は、その仕事の進めるのが早い事、早い事。まして工作艦である明石艦には片舷に使用できる起重機が4基もあり、号令が掛かってからあっという間に繋船桁や縄梯子、ラッタルを用意してしまった。これには各分隊長も、『いつもこれくらい早くやって欲しいモンだ。』と苦笑いするしかなかった。
まだ号令が掛かっていないにも関わらず、誰という事も無く服を脱いで猿股やふんどし一丁になった彼等。さしもの青木大尉も他の分隊長と同じく最早こうなってが命令などいらないと悟り、後を忠に任して日陰に座り込んでしまった。忠は救助作業監督という事で第二種軍装のままだが、それはそれは楽しそうに笑う部下達の顔に笑みを溢しながら口を開く。
『体操始め!』
『『『 はい!! 』』』
返事が終わるとすぐに彼らは身体を動かして準備体操を始める。この準備体操すらも規則で決められているのだから、いかに帝国海軍がこの遊泳に重い意味を置いているか解るという物だ。思い思いに腰や腕を振る彼らを横目に、忠はバインダーに貼り付けた紙に遊泳に参加する部下全員の名前を書き込んでいった。行方不明になる者が出た時の為の対策である。点呼は既に分隊集合時にとってあるので、ここに書き込んだ名前の者は「遊泳止め」の号令が掛かった時に確認するのだ。
『遊泳始め。』
甲板に響いたその号令を耳にするや否や、裸の男達は歓声とも奇声とも取れる声を上げて、舷側の海面に下ろした繋船桁に降りて行った。本当は救助作業員が先に降りるのだが、最早事ここに至っては命令してもだれも聞かないであろうと忠は諦める。
すると腰に手を当てて静かになった甲板から海面を眺める忠に、明石が近づいてきて声を掛けた。
『森さんは泳がないの? なんで救助作業に志願したの?』
明石は帽子を手にとってパタパタと顔を仰ぎながらそう言った。そしてせっかくの楽しい一時を堪能しようとしない相方の態度に、彼女は首を捻っている。忠はその真相を知られたくなかったので、何食わぬ顔で声を返した。
『なんでって、誰かがやらなきゃいけない事だろ・・・?』
『ふぅ〜ん。』
彼の人柄を考えれば、その言葉は実にもっともらしい言葉だった。だが明石はそんな相方の表情の微妙な感じを読み取り、顎に手を当ててその裏にある理由を推測してみた。初めの内は解らなかったが、その内海軍軍人らしからぬ理由を閃いた明石はニヤリと片方の口元を緩ませて忠の顔を覗き込んだ。明石に気づきながらも一度視線を向けるとすぐにまた海面に戻した相方の行動に、明石はその真相を確信してぶちまける。
『はは〜ん、泳げないんだ!?』
『な、なんで解ったんだよ・・・。』
一瞬にして看破されてしまった事の真相に、忠は頭の後ろを掻いて明石に視線を流した。彼の予想通り、明石は忠を指差して大笑いしている。いつも真面目で仕事もできる忠だったが、そんな彼の弱みを見抜いた明石は可笑しい事この上なかった。相方の気も知らずに抱腹する明石だったが、忠は少し表情を曇らせて唸るように声を上げる。
『できないモンはできないんだよ・・・。大体、水に物を入れたら沈むのが当たり前だろ?』
『あははは!浮く事もできないんだ!? 文字通りカナヅチだ!!!』
『なんだよ、もう・・・。明石は浮けるのかよ・・・?』
『浮いてるじゃん、今! あ〜はははは!』
明石はお腹を抑えて笑いながら自分の足元を指差した。その言葉に彼女が艦魂である事を思い出した忠は、完全に攻め口を失って口を尖らせる。彼女の分身は明石艦であり、泳げるのは無論の事、これまで艦底を地に着けたこと等一度も無い。つまり艦魂にはカナヅチはいないと言う事なのだ。
すっかり牙を折られた忠は肩を落として右舷の繋船桁に繋がれたカッターへと降り、大笑いする明石からそそくさと逃れようとする。一応は海軍兵学校の卒業生である忠は全く泳げないという訳でないのだが、泳ぎに対しては確かに苦手意識を持っていた。そんな忠は中々上手く水泳ができない自分の境遇を「水に物を入れたら沈む」という極めて初歩的な物理事象に結び付けて反論の声をあげるも、そんな水に今まさに浮いている10000トン近い鉄の塊を分身に持つ相方にはその理屈も通用しない。故に忠がふて腐れたような顔で縄梯子を降りていく間も、明石はずっと乾舷の上から指を向けて笑っていた。
ちなみに翌日になると彼女は仲間内にその事を言触らし、彼は惨めにも第二艦隊の艦魂達から『カナヅチ士官』のレッテルを貼られてしまった。
なんと失敬な奴だ。
忠が大笑いされている間に早くも乗組員達の遊び心には火が点いており、禁止されているにも関わらずに海面から数メートルはある最上甲板から飛び込む猛者も現れ始めた。宴会と同様に、無礼講の言葉が飛び交い始めた遊泳。お尻に青いアザをつけた水兵達がここぞとばかりに先輩や上司に群がると、一斉に担ぎ上げて海へと放り込む。揺り籠の様に波に揺られるカッターの上でのんびり煙草を吹かしていた忠のすぐ近くには、普段部下達をパシリとしてコキ使っている弟が投げ落とされた。
『くそー!テメーらあ!』と叫んだマサは兄とは違って水泳の達人であり、綺麗な平泳ぎで繋船桁に上がってきた。軽く手を上げて挨拶するとすぐに彼は縄梯子を登っていき、その姿が見えなくなると『キャー。』という悲鳴と供に彼の部下達が投げ落とされてきた。高く舞い上がる水しぶきに忠の煙草が消えかかってしまうが、そんな小さな事で彼等の笑顔を奪いたくなかった忠は我慢した。まだ彼の様にのんびりとカッターの上にいれるのはマシな方で、略装姿で甲板に居た川島主計長は「汚れても大丈夫な服装」という何とも理不尽な理由で服を着たまま海に放り込まれてしまった。ヘラヘラと笑いながら『やられたぜ。』と言って波間からカッターに上がってきた川島主計長だったが、その日の夕食で投げ落とした乗組員達には麦と具の無い味噌汁が出された事は言うまでも無い。
一方、久々の休日らしい日を過ごしたのは兵達だけではなく、忠の直属の上司である青木大尉は反対舷に糸を垂らして趣味の釣りを楽しんでいたりする。珍しい魚に一喜一憂する青木大尉はご機嫌で、今日のたくさんの釣果は夜の宴会の肴として振舞われた。
その日の遊泳が余程に功を奏したのか、次の日からは久々の明石艦到着との事で他の艦から要修理品を積み込んだ内火艇が集まる事になったのだが、すっかり楽しんだ乗組員達の士気は高く、要修理品の半数をその日の内に返却するという離れ業を見せる事になった。
5年後には血で真っ赤に染まる沖縄の海。しかしこの時は彼等の身体と心を隅々まで癒してくれる、母の様に優しき海だった。