第二九話 「忘れられた診療」
昭和15年2月18日、0846。
軍艦旗の掲揚も終わり、毎日の診療も終わって一休みした後の課業開始。乗組員達が一斉に持ち場で上司から指示を受け、各々の務めに励む。今日も青空で迎えてくれた呉の朝は、彼らの顔に覇気を漲らせてくれる。
そんな朝の明石艦発令所では机に向かい始めた忠に、重い薬箱を両手で持ち上げた明石が声を掛けた所だった。
『じゃあ、行って来るね。』
呉に着いてから毎日続けられてきた光景。
朝日の専門教育が既に実を結びつつあるのか、明石の顔からは以前にも増して子供っぽさが消えている。若干の疲労感を滲ませた表情で薬箱を持ち上げていた明石の顔がまだ記憶に新しい忠は、その成長を褒めるかのように笑みを向けた。
『おう。いってらっしゃい。』
『うん。いってきまあす。』
笑顔でそう言った明石は、言い終えると同時に白い光りをその身体へと纏い始めた。淡く優しい感じの光りは輝きを増し、眩しさに耐えかねて忠が目を細めると同時に彼女の身体ともろともに消える。音も発せずに起きる閃光と、細かい光りの玉が粉雪のように振り落ちて消えていくその余韻が、忠に彼女が艦魂である事を伝える。
朝日の教育は決して優しい物ではないらしく、夕方頃になって部屋に帰ってくる明石はいつも疲労の色を顔に浮かべている。だが最近はあれを買って来いとかこれが食べたいとわがままを言う事も無く、部屋に入ってすぐに彼女は自分のノートを開いてその日の復習をするのだった。出会った頃なら今日のような別れ際にはなにそれを用意しておけと言っていた明石が、発令所で一人ポツンと机に向かう今の忠には少し懐かしい。
少しは骨が出てきたのかな?
そんな事を思って鉛筆を握り、目前の机に走らせ始める忠。
最近は何か明石が自分とドンドン距離が離れていく感を彼は覚えていた。わがままな相方よりも一人前の軍医に近づく事。それは決して悪い事ではないが、どこか自分だけが置いていかれて行くような感覚が、忠には少しだけ寂しかった。なんだかんだ言いながら明石は日進月歩で成長しているが、忠自体はなにか成長したという感じがないからである。
こんなんで良いのか、オレ?
心の中でふとそう呟いた忠は無意識に昭和12年の大ヒット曲、同郷の星でもある淡谷のり子の「別れのブルース」を口ずさんでいた。
『窓を開け〜れば〜、港が〜見〜える〜・・・。』
発令所を吹き抜けていく今日の風が、彼の視線が向けられる書類の端をひらひらと靡かせる。そしてその風が彼の歌声を乗せて通り抜けて行く、発令所の左舷入り口の向こう。擬装桟橋であるそこには、昨日試験航海から帰ってきたばかりの新品同様に光り輝く大型艦が横付けしていた。
荘厳な雰囲気を持つドアも慣れてきた明石は、いつもの通りに中にいる部屋の主からの返事を耳にしてドアを開けた。
舷窓から傾きの激しい朝の陽の光が差し込む、軍艦にしてはちょっとノスタルジックな家具や絨毯がある部屋。そして部屋の中央に置かれた向かい合ったソファに、今日も腰掛けてゆっくりと紅茶を飲む朝日の姿を明石は認める。
『おはようございます。』
『おはよう、明石。』
綺麗に背筋を伸ばしてカップを口に近づける朝日は、静かに朝のティータイムを楽しんでいる。英国生まれだからなのかこの朝日はとにかく紅茶を飲める一時をなによりも大事にする人で、朝起きてすぐの一杯目に始まり、朝食後と午前中の休憩、昼食後と昼休みのシメ、午後の休憩と夕飯後、と一日になんと7回もティータイムを設けているのだった。もちろんそれは人間が飲む本物の紅茶であり、連合艦隊旗艦の長門を使って司令部で飲まれている物を失敬してきて貰った物だ。
朝日の向かいの席に腰を下ろす明石だが、朝日はそんな彼女を放っておくかのように一人紅茶の香りを楽しむ。ここ数日の教育で白紙のページが少なくなってきたノートを明石は取り出すと、鉛筆と一緒にテーブルの上に用意していつでも勉強できる準備をするが、すっかり自分の世界に浸っている朝日は目を閉じて舞い上がる湯気に顔をゆっくりと左右に振る。
『ん〜〜、幸せだわぁ。またこうやって、六甲山系のお水を使った紅茶を味わえるなんて・・・。』
目を閉じたまま朝日は口元を緩めてそう言うと、手にしていたカップを口に運んで僅かに傾けた。今か今かと朝日の言葉を待っていた明石だったが、放たれた言葉にちょっと拍子抜けして肩から力が抜ける。
朝日は明石の眼前にいるにも関わらず、一人別世界にいるかのように静かに喉を通る紅茶の余韻を味わっている。帝国海軍の5分前の精神は朝日の故郷である大英帝国にその源流が有るのだが、いつも彼女は紅茶の時間だけはギリギリ一杯まで使おうとする。おかげで教えを受ける側の明石は常に今のような手持ち無沙汰な時間を持たされてしまうのだが、それはそれは美味しそうに紅茶を飲む朝日の顔が彼女は大好きでもあった。目尻や口元に少しだけ浮かぶしわと絵に描いたように優しげな朝日の微笑が、明石の表情も自然と笑顔にさせてしまう。
『大陸のお水は、やっぱり美味しくなかったんですか?』
『ふふふ、ちょっと硬いのよね。おかげで紅茶の香りも味も、満足できる所まで持っていくのは苦労したわ。』
明石の質問に朝日は背筋を曲げる事無く、僅かに顎を引いて味を噛みしめるかのようにして答えた。よほど帝国海軍が補給したお水が彼女の口に合う紅茶に貢献しているらしい。小さく朝日の表情を笑う明石に、朝日はやっとその青い瞳を覗かせて口を開いた。
『帝国海軍が使ってくれている六甲山系のお水は、香気のしっかりした茶葉の良さが良く引き出されて助かるわ。こんなに良いお水と巡り合えるなんて、きっと英国にいたら味わえなかったでしょうね。』
朝日はそう言いながら、カップの底に溜まった最後の一口を名残惜しそうに喉に流し込んだ。鼻から抜けていく香気と喉に残る余韻をしばらく楽しんだ朝日は、小さく溜め息をしてカップをテーブルの上に置く。そしてカチャンと響くカップを置く音が、二人にとっての課業開始の合図でもあった。
カールの掛かった赤毛の髪を撫でながら朝日は声を発し、その声に明石は待ってましたと言わんばかりにニッコリと笑って返事をする。
『じゃあ、昨日の続きから始めようかしらね。』
『はい!』
今日も繰り広げられる、朝日の明石に対する医科学教育。左右の手の動きを交えて丁寧に物事を教える朝日と、一言一句聞き逃すまいとそれに耳を傾けてはノートに書き写していく明石。テーブルで舷窓からの光を受けてキラキラと輝くカップとスプーンが、そんな二人を静かに見守った。
ちなみに朝日が口にした水。
即ち呉軍港を母港とする艦艇が飲料水として補給する六甲山系の水は、後年、高級ミネラルウォーターとして人々の憧れを集める品物となっていく。それは東洋の小さな島国から湧き出た水だが、例え戦争があった時代であっても人々の喉を潤していたのだった。
同日、1203。
昼食を終えた朝日と明石は1300の甲板諸掃除の号令がかかるまで、お互いソファに腰を下ろして休んでいた。開けっ放しにしたスタンウォークへと繋がる扉から少し暖かさを取り戻しつつある瀬戸内の風が、舷窓のカーテンをそよそよと靡かせながら部屋の中を通り過ぎていく。
そんな中、『休める時に、思いっきり休む物よ。』と朝日に言われている明石は、それではとソファに横になって昼寝としけこんでいた。いくら上司のお許しが有ったとしても、その目の前ですやすやと眠る明石はかなりの豪胆である。根が天真爛漫で無邪気なだけにお許しさえあれば少しばかり非常識な行動もとってしまう明石であるが、当の朝日はそれを咎める気などは無かった。
実弾が飛び交う上海で活動した経験もある彼女は、眠れる時には眠るという戦場の現実を肌身を通してよく知っていたからだ。眠いなら我慢しろ、等と部下を鍛える上官は人間にも艦魂にもいくらでもいるが、実際の戦場には見栄も体面も無く、寝不足のまま朦朧とした意識で歩いて甲板から落ちた水兵や、銃撃戦の最中に物陰に隠れた事に安堵して眠ってしまった所を手榴弾で吹き飛ばされた陸戦隊員等、睡眠に起因した惨状を彼女はその碧眼に何度も何度も映してきたのである。眠れる時間があるならその時に眠っておく。それが朝日が学んだ戦地における鉄則なのであり、そこに赴く事を使命とした艦魂にあっても決して他人事では無いと考えているのである。
それに「休みの時間くらい自由にゆっくりしたい」というのは、誰しもが思う事。そこには海軍軍人も一般人も、艦魂も人間もないのだ。
まだこの時代には労働基準法等無いが、帝国海軍も午食(昼食)を含めてお昼には1時間15分の休憩を取っていた。もちろん新兵さんはあちこちの整理などを課せられて名前だけの昼休みになってしまうのだが、組織としてはちゃんと昼休みという休憩時間は設けていたのである。ちょっと偉い肩書きの者達はその自由な時間を思うように使い、デッキビリヤードを楽しむ者や読みかけの本を読む者、逆に無警戒なその時間を狙って銀バイに走る者、そして明石のように昼寝をする者がほとんどであった。
明石と同じく昼休みを満喫する朝日は、銀縁のメガネをかけて英文で書かれた本を読んでいる。メガネ姿の朝日は日本人離れした顔立ちと落ち着きを極めた年齢もあって、まるでどこぞの大学の教授のようでもある。だがそんな麗しい朝日の姿にも、それとは背中合わせの視力の低下という老化現象が滲み出ていた。
40代で視力に不安が出てくるというのは人間ではかなり早い。老けた老けたと馬鹿にされるであろうが、艦としての朝日艦は人間で言えば実はかなりの老兵なのである。
公試運転中に起した座礁事故を筆頭に、40余年に及ぶ海軍生活で彼女の分身は幾度もその身に傷を負ってきた。その都度、あちこちに補強処置をしてこれまで頑張ってきた朝日艦であるが、そもそもの艦体はオリジナルのままである。そこかしこにガタが出始めた分身と同じように、艦魂である朝日自身もその身体は老いが蝕み始めていたのだ。
最近は字を読むのにメガネが無いと不便になったし、肩も以前より凝りやすくなった。朝起きて伸びをしただけで筋を痛める事もあるし、歩く事すらもこの頃の彼女にとっては正直面倒だと思うようになっていた。
『はぁ〜〜・・・。』
深い溜め息をした朝日は、向かいでゴロンとソファに横になって眠る明石を眺めた。
元気盛りの明石は大口を開け、長い脚を肘掛けにかけて眠っている。幸せそうな事この上ないという感じで微笑んで眠る明石の顔が、同じく昼寝をしていた師匠の記憶を朝日に蘇らせてしまう。脳裏にその絵が浮かんだ瞬間、朝日は口に手を当てて笑った。彼女の記憶ではまさにそのソファで同じような顔で眠る自分の師匠、すなわち先代の明石の眠る姿があったからだ。帝国海軍が夫と例えるならば、朝日にとっては嫁入り道具である英国製のソファとテーブル。それを大層気に入って眠る師匠の記憶が朝日に蘇ってくるが、同時に目の前で眠る後輩の顔が彼女には少し憎らしくなった。30年以上前の記憶にある師匠と全く同じ顔を持つその後輩に、朝日は自分だけが年老いた事だけを明確にされてどこか嫉妬心のような物が出てしまうのだ。
年老いたのは私だけか。
そんな言葉を脳裏に浮かべると同時に、朝日はその因果を愛でる様に苦笑いした。どうしても明石を見ると昔の事ばかり思い出してしまう自分、その事が朝日に老いという物をさらに強く実感させる。生きている事の裏返しでもあり、同時に受け止め辛い現実でもあった。
一人感慨にふける朝日だったが、その刹那、彼女の部屋に通ずるドアをノックする音が何の前触れも無く響いた。重苦しくもどこか軽快な音が鳴ると同時に、ドアの向こうから声が発せられる。
『軍医中将。自分です。』
『ああ、入って。明石、起きるのよ。』
朝日はドアの向こうに声を返すと、目の前で眠る明石の肩を触れて揺すった。それ程深い眠りについてはいなかった明石は、目を擦りながらゆっくりと上半身を起こす。小さくあくびをした明石は肘掛けに乗せていた脚を床につけ、肩に手を乗せて腕をグルグルと回す。
やがてパチパチと力を込めた瞬きをすると、明石の表情からは早くも眠気が去った。
『むお・・・。あ、すいません、朝日さん。寝すぎちゃいました・・・?』
『いいえ、まだ昼休み中よ。でも患者さんが来たのよ。実習として、明石が診療してあげなさい。』
そう言って明石の後ろを指差す朝日。患者の言葉で顔色を変えた明石が振り返ると、そこには奇妙な格好をした女性が立っていた。
『やあ。』と気さくに声を掛けてきた彼女は、朝日や明石と同じ第一種軍装に身を包んでおり、その服装から彼女が同じ艦魂である事を明石は察する。だが明石の視線は小柄な体格の彼女の顔に釘付けとなった。その女性は顔を包帯でこれでもかと言わんばかりにグルグル巻きにしており、顔に比して大きめな目と低い鼻、口が包帯の隙間から見えているのみなのである。
その格好から余程の重傷を負っているのかと目の色を変える明石だったが、それにしてはその女性の放つ声は元気の色が滲んでいた。片手を上げて瞳を細めながら歩み寄ってくるその姿からは、身体のどこかに痛々しい傷を負った怪我人であるという感じもしない。左手に持った軍刀も杖代わりにするようなことは無く、その頭部の有様に比して至って健康そうな彼女。
とりあえず明石は椅子の端に寄って、ソファの空いた所にその人物を座らせた。まじまじと不思議そうな目で眺める明石だったが、その女性は優しげに瞳を細めると小脇に抱えていた軍帽をテーブルの上に置く。するとその軍帽の横に、朝日が用意した紅茶のカップがスッと差し出される。
『その様子だと、それほど痛みはないようね?』
『ええ、おかげさまで。でも顔が痒くて、痒くて・・・。』
朝日の声からして、どうやらその包帯だらけの顔を持つ女性は顔見知りの仲らしい。軍刀をソファに立てかけると、その人物は朝日に軽い会釈をしながら顔のあちこちを掻き始めた。朝日は口に手を当ててクスクスと彼女を笑い、呆ける明石に視線を流して口を開く。
『明石、よく聞いて。彼女は1月31日に改装を終えたばかりなんだけど、ご覧の通り、艦魂の顔に影響が出る程の大改装だったのよ。一応、今日でこの包帯はとっても大丈夫な筈だから、包帯の除去と事後診断をしてあげなさい。解った?』
『あ、はい!』
突然の実習という事で上ずった声で返事をする明石。
だがそのやり取りを耳にしていたその隣に腰を下ろした話題の女性は、明石が声を返すのと同時に目を輝かせて明石に顔を近づけてきた。包帯だらけで眉毛や頬の動きがわからない彼女の表情だが、優しそうな黒い瞳と明るい物言いは悪い人ではなさそうである。
『ああぁ〜、アナタが明石?聞いてるわよ、神通をぶん殴っちゃったんだってぇ?』
彼女は笑いながらそう言ってきた。新参の自分の名前を覚えられていて嬉しいものの、その理由が今は親友となっている神通との大喧嘩であった事に明石は少し恥ずかしさを覚える。力ない笑い声で応じて頭を掻く明石だったが、隣の女性はそっと明石の肩に手を乗せて笑った。
『ははは、良い根性してるよぉ。金剛姉さんが珍しく褒めてたんだよ。』
『あら、金剛が褒めてたの?ふふふふ、そうなの。』
二人は満面の笑みで声を上げて笑うのだが、明石は二人が口にした「金剛」という言葉に仰天した。
それは帝国海軍戦艦において最も古参である戦艦の名前にして、人間の兵達が鬼や蛇と呼んで恐れる程の艦の名前なのである。帝国海軍で一番風紀が厳しいその艦は、実は明石の親友である神通の師匠でもあった。
そしてその名を姉さんと繋げて呼んだ事が、艦名は解らないまでも明石に彼女の正体をなんとなく伝える。その曖昧ながらも明石の脳裏に浮かんだ答えを証明するかの様に、朝日に顔を向けてケラケラと笑う彼女の襟には星一つが輝く少将の襟章が輝いていた。
いくら患者とは言え、軍医少尉である明石とは階級が比べ物にならないくらいに違う。明石は慌てて立ち上がって踵を揃え、指先まで伸ばした右手を額に添えた。
『て、帝国海軍工作艦、明石です!け、敬礼もせずにすいません!』
『ほ〜、元気があるねえ。』
直立不動の敬礼で固まった顔の明石に、その女性は包帯だらけの顔を向けた。彼女は包帯の上から頬の辺りを指先で何度か掻くと、律儀にも立ち上がって同じように踵を揃えて答礼する。
『自分は帝国海軍戦艦の比叡。願います。』
『ね、願います!』
彼女は金剛型戦艦二番艦の比叡艦の艦魂であった。
明石や朝日と比べると小柄な体格の比叡であるが、その実は朝日と同じ明治生まれの古強者である。明治44年生まれの比叡艦は日露戦争こそ参加していないが、竣工してすぐに青島方面での作戦行動に参加。その後も大陸沿岸の警備行動に従事してきた経験豊富な艦である。だが竣工後18年を経た昭和4年にロンドン海軍軍縮条約で練習戦艦となった比叡艦は後部の第4砲塔を撤去し、アーマーは剥がされて機関も減らされる等、戦艦としてはかなり不遇な道を歩んだ苦労人であった。
しかしここから彼女の栄華が極まった生涯が始まった。運命の女神はそんな彼女に微笑み、改装が容易で艦隊に所属していない事から年間スケジュールが組み易い練習戦艦という境遇が注目された彼女は、陛下を乗艦させる栄誉を独占する御召艦の道を与えられたのである。元々の彼女の名付け親も大正天皇であり、その艦生はまさに陛下と供に歩んだと言っても過言ではない。帝国海軍でも指折りの、花のある生涯を送る艦であった。
新参の明石には師匠と同様、そんな彼女は艦魂としての大先輩であり、おまけに師匠とは違って現役の戦艦である。その事から今まで挨拶もそこそこに隣で座っていた事に、明石は粗相を犯したと思って焦った。だがそんな明石を比叡は怒る気は無かった。それよりも早急に対処して欲しい事があったからである。
『ねえ、早く包帯とってくれない?痒くて死にそうなんだよぉ。』
比叡はそう言いながら、自分の顔のあちこちを両手で掻き毟った。
朝日と比叡は歳の差は10歳程違うが、それでも明石から見ればかなり年上である。しかし彼女の声は意外な程に若く、その動作は歳の差を感じさせないくらいの可愛らしさがある。そんな比叡の姿が明石の警戒感を和らげるのには、それほど時間はかからなかった。上司や先輩といった感覚よりも、明石には友達としての感覚の方が強く芽生えたのだ。身体の硬直が薄らいだ明石はニッコリと微笑むと、爽やかに『はい。』と返事して比叡の顔に手を伸ばす。
念入りに巻かれた比叡の顔の包帯を、明石はゆっくり丁寧に巻き取り始めた。
比叡は随分長い間この包帯を取っていないらしく、その事は朝日の口にした大改装の規模を明石にも深く理解させた。顔に戻りつつある爽快感に機嫌が良い比叡は、持ち前の大きな瞳を輝かせてその改装の事を二人に語り始める。
『もう参りましたよぉ。またちょこちょこ改装するかと思ったら、外したアーマーや第4砲塔をまた付け直すんですもん。おまけに機関も総換装ですよ?なまった体を鍛えなおす時間くらい欲しかったです。』
『あら、じゃあ戦艦籍に復帰ね。良かったじゃない。』
『はい。一応2月1日付けで、予備艦から練習兼警備艦に格上げされました。まだちょっと本調子じゃないですけど、身体自体はとっても軽いです。』
比叡の語る近況に朝日は目を細めて耳を傾けていた。比叡にとっても朝日は先輩に当たるが長門よりもさらに年代が近いからか、その会話にはどこか遠慮するような感じは微塵もなかった。相変わらず顔が痒いのか、膝の上に置いた手をウズウズと落ち着き無く動かす比叡。その行動に明石は微笑んで、巻き取る包帯を自らの手に絡め取っていく。
『すぐに三戦隊に配属されるんじゃない?やっと金剛達と同じ性能になったんでしょ?』
『だと良いですがねぇ。』
そう言って腕を組む比叡。明石はそれと同時に、比叡の頭全体に巻かれた包帯の隙間から彼女の髪を目に映した。
手術明けだからなのか、比叡は女性ながらも髪が極端に短かった。それも5分刈り程度で揃えられた帝国海軍軍人らしい丸刈りであり、長門のような腰まであろうかという長髪と比べるとその差がよく解る。その意外な様にちょっと驚く明石だったが、当の比叡もまた包帯がまだ少し巻かれた頭を撫でて悲しそうに声を上げた。
『あ〜あ、また丸刈りから出直しかぁ。』
口を尖らせて呟いた比叡を朝日は口に手を当ててクスクスと笑う。その表情の両横を流れ落ちるカールのかかった琥珀色の朝日の髪が比叡には羨ましくも有り、同時に憎らしくもあった。
『髪の毛伸ばすお薬ってないんですか?これじゃ笑い者ですよ。』
『そっちの方が治療し易いわ。むしろずっとその髪型にしてて欲しいくらいよ。ふふふふ。』
頬を膨らませる比叡を朝日は笑い、同時に明石もそのやりとりに笑みを溢した。若々しい声とその言動は、明石に比叡との歳の差をあまり感じさせない。僅かに涙を溜める彼女の大きな瞳が、その心の内を常によく伝えてくるのだ。長門よりも年上で朝日よりも年下である比叡。その歳はおそらく30代半ばと予想する明石には、その言動と年齢のギャップが可笑しくてたまらなかった。
口元を緩ませて包帯を巻き取る明石だったが、やがてあらわになった比叡のおでこは意外にも柔らかく色つやの良い肌であった。思わず比叡の額に手を触れる明石は、スベスベで程よく湿気を持ったその感触にビックリしてしまう。口にこそ出せないが、師匠の朝日とは肌の感じがまるで違うのだ。明石の突然の行為に比叡も何事かと自らの額を撫でてみた。
そしてそこに明石と同じ感触を味わった比叡は、大きな瞳を輝かせて声を上げる。
『おお!?ちょっと若返った!?』
『何言ってるのよ、艦橋の改装をしただけじゃない。』
『艦橋の改装?』
朝日の言葉を受け、明石は止めていた手を再び動かして包帯を巻き取りながら首を捻った。
明石艦に限らず艦艇においてはその艦影の上部構造物の目玉とされる艦橋だが、その改装が艦魂に対してどういう影響を及ぼすのかが明石にはイマイチ見当がつかないのだ。
だが比叡はすぐに顔を明石に向けて、その改装の詳細を教えてくれた。
『金剛姉さん達と違って、私は下部艦橋甲板の一部とマストを残して、艦橋は全部取り払っちゃったんだよ。新しい方式の艦橋構造にするんだってさ。今流行の防空指揮所や遮風板に、主砲の射撃指揮装置も最新鋭の物を積んだし、艦橋後部や内部のラッタルも複線になったりしてるんだよ。艦橋横には高射機も付いたし、構造自体も大分スッキリしたかな。』
『け、結構、大掛かりだったんですねぇ?』
比叡の説明を受けて、明石は大きく頷きながら包帯を巻き取って行く。
比叡艦の改装は彼女の言葉通り非常に規模の大きな改装工事であり、他にもバルジの追加や機銃の口径統一、試製段階の機銃射撃指揮設備の実験搭載、艦内機関の全てに及ぶ換装とレイアウトの変更、艦尾の延長、果ては射出機の装備等、その改装項目は戦艦としては異例の規模であり、ほぼ新造起工と言っても差し支えない程であった。
もちろん二年近くも呉で改装を受けた比叡艦のそれは延命処置等という消極的な物ではなく、現代の戦艦とも殴り合う事を視野に入れて施されたアグレッシブな改装項目は、彼女をその艦齢とは裏腹に帝国海軍の中でも最速の戦艦として生まれ変わらせたのだった。
彼女が口にした大きく変更された艦橋構造も、第四艦隊事件や友鶴事件を受けて構造物軽量化と強度確保を狙って制定された「檣楼施設標準」に基づいて形成された物なのである。
そしてそれは、彼女達のいる製鋼部前の桟橋から偽装桟橋を挟んで向こう側にある造船ドックで、今まさに建造されている新型戦艦における艦橋の先行試験の意味も含まれているのだった。
だがこの時にその事を知っているのは、連合艦隊司令部の情報を垣間見る事の出来る長門だけである。
『おわっ!』
『あら・・・。』
巻き取った包帯を片手に固まる明石と、その眼前に現れた後輩の変わり果てた姿に目を点にする朝日。二人が驚愕の表情で視線を送る先には、明石とそれ程変わらない顔つきのうら若い乙女の顔があった。
端正な顔立ちと、丸みを帯びた顔に比しても大きな目。人間のような丸刈りの頭だけが、その女性を比叡だと二人に理解させた。
『な、なんですか・・・?』
当の比叡はやっと包帯から解放されたその顔を指先で掻きながら言った。
約二年振りに外気と触れる肌の爽快感が、不思議そうな目をする彼女の口元を無意識に緩ませてしまう。両手で頬を擦る比叡が視線を二人に配る中、朝日が無言のまま手鏡を出して比叡に手渡した。首をカクンと捻って眉をしかめる比叡は、それを受け取るとさっそく自分の顔に向ける。刹那、彼女は叫んだ。
『うっひょお〜!!これ私!?』
唖然とする明石と朝日を他所に、比叡はまったくの別人とも言える自分の顔に驚きを隠せない。明石も朝日も、そして当の比叡もその分身の艦齢が既に25年を過ぎている事は知っている。艦魂であれば既に30代半ばであり、容姿は人間と大差ない事を含めると比叡のその10台後半ともとれる顔つきはまさに信じられない光景だった。
ここに、帝国海軍唯一の整形美人が誕生したのだった。
ついさっき自分の老いを感じて感傷に浸っていた朝日は、比叡が持ったあまりにも若々しい顔に声も出なかった。明石も包帯を持った手を空中で浮かべたまま、口を半開きさせて比叡の顔をマジマジと眺める。下手をしたら自分よりも若い顔立ちである比叡。『これなら髪さえ伸びれば、私もまだまだイケる!』と隣で大はしゃぎの彼女が、朝日と明石の脳裏から事後診断の事を完璧に忘れさせた。
誰しも常に若くはありたいものであるが、艦魂であれ人間であれ、女性というのは特にその願望が強い物である。この日、比叡の事後診断を放り出した師弟はその足で連合艦隊旗艦の長門艦に押入ると、主である長門を捕まえて艦橋構造物の整備を訴えた。珍しく自分の艦を尋ねてくれた二人に長門は始めの内は笑顔を向けていたが、無理難題をふっかけられた挙句に大いにその職務についてお説教される憂き目にあってしまった。特に久々の迫力ある朝日のお説教は、ただでさえ大らかな性格の長門にはまるで破孔から次々と浸水してくる海水のようであった。
かくして次の日、長門は寝込んだ。