第二七話 「大事な事は?」
翌日から朝日艦にて、朝日による明石の軍医としての教育が始まった。これまで朝日が纏めてきた記録を片手に、明石はそれを自分のノートに真剣に書き写していく。どんな教育であろうと座学とは眠気や退屈との戦いであるが、明石に限ってはそんな事は無かった。
ちょっとだけ眉をしかませて朝日の日誌とノートに視線を流し、時折頷いては鉛筆に力を入れる明石の表情は熱心という言葉が良く似合う。希に首を捻って鉛筆を止めては、朝日に向かってあれこれと質問を投げる明石。もちろん朝日はそれに対して懇切丁寧に回答を返し、明石の疑問を解決させてやった。
艦魂に対する医学とは言え、それは人間に対する物とそれほど変わらない。朝日は経験上、応急処置術を特に学ぶよう勧め、明石もそれに従った。
帝国海軍工作艦の主目的は平時においては各工廠での修理補修支援、有事の際は前線に進出しての応急修理であり、本格的な艦体の修理や改修を行う能力は持っていない。いざ損傷艦が出た場合は被修理艦に横付けして破孔を塞いだり、強度的に不安な所に鉄材を貼り付けて補強したりして、本格修理可能な港湾まで自力で航行できるようにしてあげる事が帝国海軍工作艦の運用方法である。人間で言えば、軍医というよりは衛生兵に近いというのが実情なのだ。
外傷に対する基本的な処置である止血に始まり、大湊での沼風の様に骨折や捻挫等に対する傷の処置、ついでに昨今の人間の軍医事情でも注目され始めた歯科医科学にも範囲は及んだ。
日本における歯科医科学自体は、明治の頃から既にあった。日露戦争では既に軍や艦内等に歯科医を配置したりしていたが、その実情は民間の医師に将校待遇を与えて治療に当たっていた。故に皇軍では、歯科医科を専門とする軍医の将校や下士官というのは未だに確立されてはいない。平時においては、それ程困ってはいなかったのである。
ところが支那事変が始まると顔面の負傷に伴う歯の治療等、歯科医科学の必要性が前線より叫ばれ、国内の歯科医の協会から嘆願書が提出された事もあって、今年、すなわち昭和15年になってついに歯科医科を専門とする軍医将校制度が帝国議会で可決されたのである。後の3月30日、陸軍に歯科医将校の身分が制定され、海軍では翌年より歯科医科士官の身分が制定される事になる。
そんな事から朝日としても歯科医科学は未知の領域であり、明石と供にこれから学んでいく事になった。朝日は若いとはちょっと言い難い外観ではあるが、組織における生涯学習制度という物は人間も艦魂も同じなのだ。
覚える事はお互いにまだまだあるが当の明石と朝日は全くの素人ではないので、その教育内容はそこそこ高度な内容で進められた。
また朝日の得意な分野である、漢方や薬草といった生薬の教育も行われた。艦から足を離して行動する事ができない艦魂では原材料を調達する事が難しいが、明石には相方として人間の忠がいる。朝日はその事を念頭に入れて、明石に自慢の生薬メモを渡して教えてやった。
明石は初めて触れる生薬の知識に感動し、朝日が休憩を告げて紅茶を用意してくれたにも関わらず、一度もカップに触れもせずに生薬の本を熟読していた。
『う〜〜〜ん・・・・・・。』
ソファに腰掛けて穴を開ける程に本を読みながら放つ明石の唸り声は、向かいで紅茶をゆっくりと飲んでいた朝日をつい笑わせてしまう。明石のその声と表情が、思い出の中にいた朝日の師匠とまったく同じだったからである。口に手を当てて静かに笑う朝日に、明石は本から視線を動かさずに声を掛けた。
『・・・朝日さん。』
『ふふふ・・・。どうしたの、明石?』
『チンピ・・・って読むんですか、これ?チンピってなんですか?』
『ああ、陳皮ね。ミカンの皮の事よ。』
『へぇ、そうなんですかぁ。ミカンの皮、と・・・。』
珍しい呼び方ではあるが、明石はそれ程驚きもせずに頷きながらノートに鉛筆を走らせる。
およそ軍人の会話とは思えない二人のやりとりであるが、お互いに軍医という立場の二人は決してふざけ半分でやっている訳ではない。満足に帝国海軍艦艇を動かす為には、この二人を初めとした多くの特務艦の働きが必要不可欠なのである。まだまだ駆け出しの明石ではあるが、軍医という立場を頂いている上では新米である事を理由に患者の前で右往左往する気は彼女にはさらさら無い。
誇り高い「明石」の名を受け継いだ自分は、絶対に妥協なんかしない。
心の奥でそう叫んで小さく燃える明石の想いが、難解な医学知識への探究心を湧かせたのだった。
やがて朝日は紅茶を一口飲むと熱心に効能を書き写している明石に少し顔を近づけ、そこには書かれていない生薬の生成方法を教え始める。
『陳皮は一回煮た後にお水に浸し、乾燥させてから粉末にするのよ。さっき教えた石菖蒲や朝鮮人参と似てるわね。でも間違えないでね、石菖蒲はお酒で浸す。朝鮮人参は煮た後、火で炙ってから乾燥させるのよ。』
『は〜い。』
明石はノートから視線を逸らさずに返事をした。既にそのノートは半分程も書き込まれたであろうか。明石の鉛筆が握られた手、その小指の側面は真っ黒になっていた。常に忠の前ではマイペースな明石であるが、その反面、彼女の集中力は一度スイッチが入ると常人離れした物を発揮する。朝日に教えてもらった事を記すや、明石はすぐさまメモの次の項目に視線を移していく。
だがここで朝日は少し思うところがあって、明石のそれを止める事にした。突然に頬を触れた朝日の手と一緒に発せられた彼女の声に、明石は我に買って朝日の顔に向けて視線を上げる。
『明石、休憩をとりなさい。』
『あ、は、は〜い・・・。』
すっかり熱中していた明石は、ちょっと苦笑いしながら鉛筆を置いた。テーブルの上に置かれた朝日が用意してくれたカップからは、既に湯気が消えている。せっかくの師匠のご厚意を無碍にしてしまった事を明石はすまなく思って、すっかりぬるくなった紅茶を一飲みしてみる。
舌に伝わる味わいは問題ないが微妙な温度の紅茶は喉通りが悪く、いつもは鼻の中をくすぐる様に通り抜けていく香りも今は薄い。思わず眉をしかませて舌をちょこっと出す明石に、朝日は微笑んで声をかけた。
『ふふふ、おいしい?』
『あはは・・・、もっと暖かい内に飲んでおけば良かったです・・・。』
明石は顎を引いて歪めた表情で頭を掻く。彼女は上目遣いでチラチラと朝日の顔色を窺うが、朝日は別に怒っている訳ではなかった。むしろ熱中すると周りが見えなくなる明石の性分が、またしても彼女の師匠と同じであった事に口元を緩めている。
そして自分の思う所を認識したであろう明石を、朝日は彼女の放った言葉から読み取った。
『ふふふ。物事には機という物があるのよ、明石。』
『機・・・? 機会とか機先とかの機ですか・・・?』
『そうよ。』
朝日はそう言うと、両手で持ったティーカップをゆっくり静かに手の中で左右に傾け始めた。ユラユラと揺れるカップの波に小さく笑った彼女は、明石に顔を戻さずに教えを授け始める。
『この紅茶もそうよ。香気も味も、口に入れるまでに経た時間で良くも悪くもなるわ。そしてそれは、お仕事も同じよ。』
『う、すいません・・・。』
朝日が何を言わんとしているかを、明石はその言葉からなんとなく悟った。まして喉に残る後味の悪さが彼女にその事を一段とよく伝える。だがそれに対して一言で済ましてくれる程、朝日は大人しい人ではない。その事は昨日の長門と彼女の会話で、既に明石も見ている。頬を指先で掻いて俯く明石だったが、それにかまわずに朝日は話し始めた。
『機という物は、紅茶にも、お仕事にも、お勉強にも、そして治療にも同じ様に関わってくるわ。機を掴めば効果は最大に引き出され、逆に逸してしまえばどんなに強力な効果を持つ物であっても、それを発揮する事が出来なくなってしまうのよ。明石、軍医である私達が機を逸してしまう事、それは患者に対しての治療を失敗するという事よ。』
決して強い口調ではない朝日の声。優しく笑いながらゆっくりと語りかける彼女の姿からは、後輩をいじめようとか叱りとばそうという感じが伝わってこないし、朝日にしてもそのつもりは微塵も無かった。必死に知識を吸収しようと熱が入った余り、先輩からの注意を受ける明石。だが朝日もまた、次代を担うこの若者に自らの知識や経験を授けようと必死なのである。命を守る番人である軍医の立場を供にする二人、そこに賭けた熱い想いが生んだ光景だった。
だが一つだけ明石にとって不幸だったのは、彼女に語りかける偉大な先輩には、連合艦隊旗艦の艦魂ですら尻尾を巻いて逃げ出す程の重度の説教癖がある事だった。
冷や汗を浮かべて引きつった笑みをする明石だが、朝日は構わず次々と言葉をまくし立てる。けっして怒鳴る訳でも無く、ただニコニコと笑ってゆっくりとした口調で語りかけられては、反抗する気も明石からは失せてしまう。まして彼女の言っている事は間違いではなく、そも自分の失態からこうなってしまった事を痛感した明石はただひたすらそのお説教に耳を傾けるしか無いのであった。
『負傷した艦魂達は命の危険に陥っている時だってあるわ。そんな状況下で軍医である私達が機を逸する事は、患者を殺す事と同義よ。だから私達には機を逸する事は絶対に許されないのよ。私達だけが仲間の命を守る最後の番人なの。解るわね?』
『は、はい!』
『うん、解ればいいのよ。ふふふ。』
大袈裟な感じで手を動かしながら長々と話し続けていた朝日だったが、素直にその言葉を聞いていた明石の返事を受けて、手に持っていたカップを静かにテーブルに置いて笑った。やっとの事で解放された明石も、胸に手を添えて安堵の溜め息をする。誰しもお説教を受けるというのは気分が良い物ではない。長門のように逃げる訳にも行かなかった明石の安堵は当然といえば当然であるが、自分の為に必死になってくれている朝日の心情を悟り、やがて明石は感謝の念を抱いて微笑みを浮かべる。心なしか先程よりもさらにぬるくなった紅茶の味が、明石には美味しく感じた。
『あ、そうだわ。』
カップを置くと同時に鉛筆を握って視線を落としていた明石だったが、ふいに発せられた朝日の声に手を止めた。明石が顔をスッと上げると、朝日は両手を胸の前で合わせて口を開く。
『明石は呉での資材補給が終わったら、次はどこの作業地へ向かうの?』
その言葉に明石は朝日からちょっと視線をズラして、相方が教えてくれた行動予定を思い出す。
ちなみに作業地とは帝国海軍の訓練を行う海域の事で、以前に明石艦が訪れた有明湾や佐伯湾、四国の宿毛湾等の事を言う。
『たしか〜・・・、沖縄って言ってました。なかすく湾、だったような・・・。』
明石は記憶の中でぼやけるちょっと珍しいその地名を思い出そうとする。琉球語を基にした特徴的な名前だったが、元々あまり方言や外国語には聡明ではない明石にはその地名が中々浮かんでこない。
だが帝国海軍に永久就職してこの方40年以上にも及ぶ朝日は、明石が思い出そうとする地名に心当たりがあった。首を捻る明石をクスクスと笑いながら、朝日は胸の前で合わせていた両手を膝の上に下ろしてその地名を声に変える。
『ああ、中城湾ね。』
『あ、はい、そうです。』
喉まで出掛かって出てこないその地名を的確に即答した朝日。今更ながら、明石は彼女のこれまでの経歴を思い出して尊敬の念を覚える。北はウラジオストックから南は台湾まで、帝国海軍の主力として常に駆けずり回ってきた朝日の豊富な経験を明石はよく思い知った。
一方、朝日は明石の表情が明るくなった事を喜ぶかのように、自慢の琥珀色の髪を撫でながら話を続ける。
『と、いう事は。その次は台湾か廈門ね。それなら教えておいた方が良いわ。』
朝日はそう言うとテーブルの上に手を伸ばして、明石の手元にある生薬の本のページをサラサラとめくった。突然の朝日の行動でちょっと驚く明石を他所に、朝日は数ページ程めくったところでページの中段程にある項目へ手を動かして指差した。
『これよ。ゲンノショウコっていうんだけど、下痢止めに良く効くのよ。廈門とかでは大陸のお水を補給するんだけど、日本人にはちょっと合わないのよね。下痢に悩まされる水兵達も多かったから、手に入れる事が出来るなら持って行くのよ。もし無かったら、現地でも採れる筈だから探してみると良いわ。』
そう言って朝日が指差す項目には「別名・イシャイラズ(医者要らず)」の文字。軍医である明石をあざ笑うかのように、その草には彼女を失業の危機に陥らせる程の効力が備わっているらしい。その滑稽な名前と師匠イチオシの効能に、生薬の面白さを覚えて明石は小さく笑う。だがすぐにその笑みは消えていく。
というのも、艦魂というのは病気という物には実は無縁であるからだ。人の形をしているとは言え、彼女達艦魂の実際の身体は鉄の塊である。体温が常温から5度高くても低くても死んでしまう人間とは、その身体の頑丈さは比べ物にならない。だから朝日が教えてくれた「水を飲んで腹を壊す」という事が、艦魂の明石にはそれ程重要な事とは思えなかったのである。
どこと無く晴れない明石の表情を目に入れた朝日はそれを悟り、明石の手元に伸ばしていた手を引っ込めると静かに言った。
『明石、貴女には艦魂が見える人間がいるのよね?』
『え? あ、はい。』
『その人とは親しいのでしょう?』
『はい、まあ・・・。』
『ふふふ。』
相方の話題を振った瞬間に明石の表情は変わる。多くを語らない明石であったが、ちょっと頬を赤くしてニヤける彼女の表情がその心の内を朝日に良く伝えた。これは珍しい事もある物だと朝日は心の中で呟き、大事な事を明石に教える為に気が引けながらもちょっと意地悪な質問を明石に投げてみた。
『貴女、目の前でその人が倒れてても、放って患者の治療にだけ専念するの?』
『う・・・・・・。』
朝日の質問を受けて明石は言葉を詰まらせた。先程脳裏を過ぎった脆弱な人間の身体、それは彼女の相方とて例外ではないのだ。小さな小銃弾位ならへこみもしない明石の身体だが、相方にとっては致命傷を与えるには充分である。あまりにも儚いその存在の仕方は、明石に自分と相方との距離を感じさせるのには充分だった。だがふと視線を向けていた生薬の本と書き写した自分のノートに気づいた明石の表情には、再び決意の色が蘇ってくる。
だったら、私が守れば良い。
そんな事を思った彼女の手がギュッと握られる。そして朝日も、明石のその拳と表情に青い瞳を細めた。力が篭った眼差しで顔を上げた明石は、朝日の質問に胸を張って声を返す。
『いいえ、助けます。』
『では、患者はどうするの?』
さらに返って来た朝日の言葉に明石は一瞬だけ視線を下に落とすが、すぐにその視線を朝日に戻した。即答こそできなかったが、その語気の強さが朝日に明石の想いを伝える。
『どっちも助けます。』
明石の答えを受けた朝日は、大きく溜め息をしながら目を閉じて微笑む。
まだまだ未熟な身の上で艦魂と人間を同時に助けるという明石の言葉は、朝日からしたら身の程がまだ良く解っていない青二才の戯言でしかないが、彼女は別段それを咎めようとするつもりは無い。
それに、そもそも彼女は明石をいじめる為にこんな質問をした訳ではなかった。
この世という物は実に厳しい。朝日自身、40余年に及ぶ海軍生活で、どちらかを切り捨てなければならない事が幾度も有った。そして艦魂が見える人間と関わらずに生きてこれた彼女の経歴が、その時に非情な決断をした朝日の背中を押したのだった。
もちろんそれは間違ってはいない。むしろ艦魂が見える人間とは古来より限られており、朝日がしてきた決断は艦魂社会にとってはそも当然の事だった。
そしてそれは人間とて同じ事である。飼っている犬や猫を家族と言い張る人はいくらでもいるが、命の危機に際して自分と同じカタチの者や血の繋がった者を優先するのは当然であり、また同時にそれが独力でできうる事の限界でもある。この世に生を受けた全ての存在の当然の行為であり、それだけ生きるという事がどれ程までに厳しいかをこもごもが本能的に知っているからに他ならないのだ。
だが期待の新生である彼女の後輩は、幸か不幸か艦魂が見える人間と関わる生涯を送っている。それが艦魂である明石の決断に微妙な影を落とす事を、朝日は危惧していたのだ。
そんな中、朝日は明石の答えとその決意が本物である事を悟り、大きく頷いてみせる。正直、人間に対する感情にこれといって特別な物はないし、特別な感情を抱いた経験も無い。それでも朝日は今、明石が目の前で抱いた決意と答えを納得した。
こうでありたい、こういう風にしていきたい。ささやかながらも、そんな理想と信念を抱けぬ人物が命を救えやしないという事を、彼女の師匠もまた言っていたからだった。
視線を逸らさずにいた明石に対して朝日は再び瞼を持ち上げて青い瞳を覗かせると、彼女もまた今しがた胸に抱いた事を率直に明石に伝えた。
『それでいいわ、明石。正直、その判断は正しいか間違っているかで言ったら、後者の方だと思うわ。でも、良いか悪いで言ったら、私は前者だと思うわ。ふふふ。そして、私もそうでありたいわ。』
朝日はこれまでに無く優しく微笑むと、何かを胸の中に抱き寄せるように右手を胸の前に置いた。
自分と同じように彼女もまた何かを思い、そこに彼女なりの決意を秘めたのではなかろうか?
朝日のその姿に明石もまた瞳を細めると、自分の決意を認めてくれた事への感謝とその決意をしっかりと胸に刻み込むように大きな声で返事をした。
『はい!』
『その想いを大事にするのよ。そしてそれを抱いて生きた事を、その中で一緒に生きた仲間を後世に伝えなさい。なんと言われても良い、背中を指されて笑われても良い。大事な事は成否の判定ではなく、そこに込めた想いとそれに伴った試行錯誤の過程と結果よ。』
朝日の言葉に、明石は口元を緩めて大きく頷いた。自分の考えに理解を示してくれた帝国海軍の大御所、その事が単純に明石には嬉しかった。出会って僅か二日しか経っていないのに、既に明石は師匠から一部の知識と誇り、自信、そして命の尊さをほんの僅かだが確かに授かっていたのだ。
確かな教育の手応えを感じて喜ぶ明石だったが、その視線の先にあった師匠の姿に彼女の表情が固まった。
『貴方には・・・、本当に、お、教えられてばかり、だわ・・・。』
そう言った朝日の頬を、舷窓から差し込む夕日が光らせた物が流れていく。指先で目尻をゆっくり拭う朝日だったが、とめどなく溢れてくるそれは彼女の努力に反して止まる事はなった。
そして朝日が口にした言葉に、明石は先程自分を苦しめた彼女の癖の示す所を理解した。
彼女の相手に有無を言わせない程の説教癖。それは相手に対して諭す為の物ではなく、彼女の師匠から受け継いだ事を忘れない為の自分への戒めなのだと明石は考えた。
昨日、朝日が明石に話してくれた、師匠の言葉を蔑ろにした事によって失ってしまった妹と仲間達。長門の様に勝利で終わった日露戦争を奉る者はたくさんいるし、他ならぬ帝国海軍自体が目指している軍事思想は日本海海戦の再現をしようとする以外の何者でもない。そこにあった想いは伝えられず、そこにあった犠牲は忘れられ、今に残るのはその結果である勝利の美酒だけだった。
そしてそんな中で、朝日は必死にそれを忘れないように一人生きてきたのであった。次々と天寿を全うしていく仲間達をその青い瞳に映す度、そこに湧き上がった朝日の叫びは如何程のものであったか。例えそれが人間にはあまり信じられていない艦魂であったとしても、そこにあったのは必死に生きた命の物語であり、明石の目の前にいるのはそれを必死に伝える為に生きてきた気高く、尊敬すべき師匠であった。
『朝日さん。これ、どんな効能があるんですか?』
明石は師匠の涙する姿に優しく微笑むと、再び鉛筆を片手に生薬の本の項目を指差して言った。突発的に発せられた明石の問いだったが、その声色に明石の優しさが込められている事を朝日は強く感じる。「泣かないでください。これからは、私も一緒に伝えます。」と、口には出さずとも心に響いてくる明石の心の声が、長年伝えれなかった朝日の心の苦しみを撫でるように和らげて行く。自然と治まりかけた涙を拭きながら、朝日は明石の指差す項目に顔を近づけて視線を向けた。
『ふふふ、ドクダミね。鎮痛と解熱作用があるから、風邪をひいた時には調度良いわ。煎じて飲むだけで済むから手間も掛からないし、炙って患部に塗れば虫刺されにも効くのよ。』
『は〜い。』
しばらく二人は視線を合わせずに、生薬の本とノートだけを眺めて会話していた。だが音という物に頼らずとも、二人はお互いの心の内が手に取るように解っていた。
この世に存在する全ての生ある存在は、一生をかけて育っていく。かつては顕微鏡でしか見る事が出来なかった祖先が、悠久の月日を経て今の自分に辿り着くその過程を振り返った時、そこに繰り広げられた生きるという壮絶な戦いとそこに掛けられた想いは、それを知ろうとした者に壮大な浪漫と今に生きる為に必要な先人達の試行錯誤を教えてくれる。
決してそこに存在するのが当然な訳ではない艦魂であるが、二人はそれをこの日、肌身を通して感じたのだった。
その日の夜、朝日艦から戻った明石は、いつもの様にお菓子と飲み物を調達してきた忠と日露戦争について語り合った。
戦後の育ちである一般人の忠がさも当然のように当時の最新兵器である機械水雷による戦果、すなわちロシア旅順艦隊旗艦のペトパウロフスク艦撃沈の栄光を誇らしげに語る中、明石がそれをぴしゃりと止める。
『解ってないなぁ、森さん。良い?5月15日に八島艦が触雷してから、12月13日の高砂艦まで、大小合わせて10隻も沈められたのよ?。おまけに八島艦が沈んだその日、吉野艦と春日艦が衝突して吉野艦が沈没してるんだから。その度に戦死者もでてるし、その犠牲の上にやっとの事でペトロパウロフスク艦をドカチンできたって事、覚えておかないとダメだよ。なんにもしないで勝手に沈んだんじゃないんだからねぇ。』
『へぇ〜〜・・・、そうなんだ・・・。あ、あはは。』
急に日露戦争時の海軍事情を熱弁する明石に忠は驚きながらも、その知識量と正確さが兵学校出身の自分を上回る事に笑みを引きつらせた。笑って誤魔化そうとする忠はその態度を取っておけば明石の機嫌が治まるとタカを括っていたが、今日の明石はそれでは勘弁してくれなかった。
そしてこの怒っているわけでも無く、ニコニコと笑いながらゆっくりとした口調で語りかける明石の口調が、言い返そうとした忠の戦意を急速に削いで行く。まして日付や艦名まで正確に言う明石の言葉に、忠は言い返す隙がない。
『艦魂だから言ってるんじゃないよ?森さんと同じ人間も、一杯死んでるの。特にペトロパウロフスク艦は沈没までの時間が短かったから、司令長官のマカロフ長官本人すら一緒に戦死してるんだからね。機械水雷ってのはそれだけ怖い物なの。あ、森さん私が航海してる時、機雷警戒はしてくれてる?下手したら森さんも、弟のマサ君もみ〜んな揃って海の底になっちゃうんだからね。解ってる?』
師匠譲りの明石のお説教は、その夜遅くまで続けられた。