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第二六話 「碧眼の師」

 第一戦隊に伴われた明石(あかし)艦は月明かりが照らす中、母港でもある(くれ)軍港に到着。普段は潜水艦桟橋となっている電気部前の桟橋へ接岸した。(ひろ)工廠にて製作された新たな工作機械は列車で輸送されており、各種工作用資材と供にここで積み込む事となった。しかし搬入作業は翌日とされ、真夜中の重労働にならずに明日の朝に一度の搬入作業で済む事に乗組員達は喜ぶ。






 接岸した翌日、明石艦乗組員達による搬入作業が開始され、甲板でいつもの通り指揮を取る(ただし)長門(ながと)に連れられて行く明石を見送った。


 忠は二人が消えた先、明石艦が接岸した所から少し南西側を眺める。製鋼部庁舎群前にあたるそこの桟橋には、帝国海軍の歴戦艦、朝日(あさひ)艦がその身を浮かべていた。


 まるで天を貫かんとばかりに甲板からそびえ立つ前後のマスト、今では見ることが無くなったラム状艦首、時代を感じさせる簡素な上部構造物と艦尾のスタンウォーク。そして「先週帰って来たばかり」という長門の言葉を良く理解させてくれる、船体に施された雪のように真っ白な塗装。

 主砲こそ既に取り払われてしまっているが、かつて対馬沖で露助の侵略に天誅を下した帝国海軍敷島(しきしま)型戦艦二番艦の堂々たる姿がそこにはあった。その身を水に浮かべて既に41年の朝日艦は見る者にそれをよく解らせてくれる程の古めかしい形をしており、大正12年の練習特務艦改装工事にて缶を減らしている為に煙突が中央にぽつんと一つ立っているだけなのであるが、前後のマストと撤去された主砲によって均整が取れたその姿はとても美しい艦でもあった。

 姉妹揃って英国生まれの朝日艦は旭日旗こそ掲げているが、その形は英国艦船独特の優雅さと気品が備わっており、「貴婦人」の言葉が良く似合う艦である。




『砲術士! デリック、動かしますよ〜!?』

『お、おう! いいぞ!』


 特徴的な朝日艦の姿に目を奪われていた忠は甲板の上に木霊する乗組員達の声に我に帰り、朝日艦に背を向けて自分の仕事に勤め始めた。バインダーを片手にせっせと甲板と桟橋の間を行き来し、その都度兵員に指示を与える彼だったが、同じくせっせと励んでいるであろう相方の顔がふと脳裏に浮かび、彼の口元は自然と緩んだ。


 ちゃんとやってるかな、アイツ・・・。


 瀬戸内特有の澄み渡った午前中の青空の下、そんな言葉を心の奥で呟いて微笑む忠を乗組員達が不思議そうに眺めていた。






 一方、長門に案内されて朝日艦を訪れた明石は、不気味なほどにギラギラと光る木製ドアの前に立っていた。ニスが塗られてなんとも良い色合いの光りを放つそのドアは、そのドアノブもまた人間の手垢がこびり付いて黒ずんだ鈍い金色に光っている。どれ程に使い込まれて来たか、すなわちこの艦の艦魂がどれ程までに経験を積んできているかを、説明が無くともそのドアだけで明石は読み取った。そしてドアの上部にあるプレートには、「長官室」の文字。高雄艦等でも同じプレートが張られたドアを通った事もある明石だが、その荘厳さが放たれるドアと僅かに黒光りするプレートの年季は、高雄艦の比ではなかった。

 今から自分がこのドアを潜るのかと考えた明石は緊張の余り、今朝方アイロン掛けしたばかりの服の袖や裾を手で直した。もちろん、そこにしわは一本も無い。それでもあらかた服を直した明石は、気づいて良かったと胸を撫で下ろす。

 そして彼女の横には、同じく服をそそくさとイジる長門の姿が有った。だが明石のように緊張を解す為に彼女は服を直している訳ではない。普段から正装を嫌う長門は、第一種軍装をちゃんと着るという事に慣れていないのである。


『んも〜、なんでこんなにメンドい服にしちゃうかなぁ・・・。』


 長門はそう呟きながら、口を尖らせて服のホックを掛けていく。海軍軍人なら当たり前の事が、彼女に限ってはそうではなかった。「常識なぞクソ食らえ」、これが長門の座右の銘であった。しかし隣で悪戦苦闘するぶっ飛んだお姉さんに明石は緊張の糸を少し緩める事ができ、ホッと小さく息を放つと微笑を浮かべる。

 その内にようやく明石と同じ格好になった長門は、小脇に挟んでいた軍帽を掴むと頭の上に乗せた。軍帽からはみ出る長い髪を少し撫でながら、彼女は明石に向かって声を掛けた。


『ふう。んでは、行ってみよっか。』

『はい!』


 嬉しさと気合が込められた明石の返事に長門は笑みを返すと、鈍く輝くドアをノックして声を張り上げた。重苦しくも乾いた音を放つドアの音は木管楽器の様でもある。


『軍医中将! 長門です!』


 明石は長門の声が響くと同時にパッと背筋を伸ばし、身体の両横に下ろした手を指先まで伸ばした。和気藹藹(わきあいあい)とした艦魂社会において、長門ほどの人物が相手を階級で呼ぶ事は大事(おおごと)である。ましてその階級が自分と同じ赤線が伴う物である事も、明石にとっては大事であった。

 ところが部屋の中からは返事が返ってこない。思わず長門に顔を向けた明石だったが、長門は彼女には顔を向けずに首を捻るとドアに左耳を当てて中の様子を探った。耳をつけてすぐに長門は目をパッチリと開いて微笑むと、ドアノブに手をかけて明石に声をかける。


『あ、いるじゃん。入るよ、明石。』


 長門はそう言うと、明石の返事を待たずにドアを開けた。次の瞬間、ドアの向こうに広がった景色に明石は目を輝かせて思わず声を上げる。


『ぅわあぁぁ〜〜〜・・・。』


 床一面に敷かれた真っ赤なカーペットは、踏み入れた足が沈む様。壁に有る窓枠は宝石のように輝き、部屋の中に置かれた椅子やテーブルは鈍い光を放ちながらも絵画の様な木目を映し出している。

 目に映る豪華な室内に、明石の思考は一瞬停止してしまう。足元を揺らす艦の動揺だけが、明石にそこを艦内の一室である事を忘れさせなかった。

 そして目に映るその光景に合うように、明石の耳には綺麗な鼻歌が潮風に乗って微かに響いてきた。


『たん、たーたん、たん・・・。』


 落ち着いた少し低めの、でも鈴を転がしたように綺麗で滑舌の良いその声。明石を背に部屋の奥のテーブルまで歩み寄った長門は、その声が流れてくる部屋の両横の壁に有ったドアに向かって指を差した。それを認めた明石は部屋の椅子や天井に視線を配りながら、その扉に向かってゆっくり近寄っていく。やがて彼女が扉の前に足を進めた辺りで、それまで聞こえていた鼻歌がちゃんとした歌声に変わった。思わず歩みを止めた明石の耳に、まるで彼女を包み込むかの様に歌声が流れてくる。


隧道(トンネル)つきて(あら)わるる

横須賀港(よこすかみなと)の深みどり

(うしお)に浮かぶ城郭(じょうかく)

名も(かぐわ)しき敷島(しきしま)


 明石も良く知るその歌。そしてその歌が示すものは、帝国海軍艦魂の全員が憧れる自分だけの歌を持った艦型。歌声の最後の歌詞において歌声の主を悟った明石は、意を決して目の前に有った扉を開いた。

 扉を開いたそこは艦尾。狭い空中に浮いた甲板と、腰より少し高いくらいの装飾が入った手摺が有った。スタンウォークだ。

 甲板と手摺はぐるっと艦尾を囲むように設置されており、その突端にはまるで室内にあった椅子の様に赤茶色に輝く髪を(なび)かせた女性が、僅かにその身を屈めてそっと手摺に寄りかかっている。

 やがて風に揺られたドアが重い音を立てると、その女性は振り返った。


『あら、貴方が明石かしら?』


 日本人離れした彫りの深く、高い鼻とその日の空をそのまま映したような青い瞳。今まで知り合った仲間達とは違い、彼女の口元や目尻に僅かにしわが入っている。そしてカールのかかった琥珀のような色合いを持つ、胸の高さくらいまで伸びた独特の髪。背丈は明石と殆ど変わらないが、長門よりも遥かに年上でその年齢は40代くらいか。

 その容姿に驚いて立ち尽くす明石に、彼女は優しく微笑んで明石に歩み寄った。彼女の口元にあるホクロがゆっくり動き、完璧な西洋人の顔からは想像も出来ない程に流暢(りゅうちょう)な日本語が呆けた明石に放たれる。


『軍医少尉・・・。そう、やっぱり明石ね?』


 西洋人らしい肩幅の広い大きな身の丈を僅かに折り曲げ、明石の襟元をマジマジと見つめてその女性は言った。

 彼女の襟元にある階級章を目に入れて完全に固まってしまった明石は、敬礼も返事もできずに口を僅かに開いたまま立ち尽くす。するとその後ろの開いたドアからは長門がひょこっと顔だけ覗かせ、頭に乗せていた軍帽を片手で少し上げて口を開いた。


『あ、や〜っぱりいましたね?』

『あら、長門。何時来たの?』


 笑みを合わせる二人。ふと肩に触れてきた長門の手に、明石は我に戻って後ろに立つ長門と視線を合わせた。


『ほら、挨拶して。』


 長門はそう言うと明石の固まった右腕を掴み、手を額の辺りに添えさせてやった。明石はその姿勢が敬礼になっている事に気付き、長門の言葉に従わんとして震える声を上げる。


『て、帝国海軍工作艦のあ、明石です・・・! ん、ね、願います・・・!』


 緊張という言葉を良く理解させる明石の声と表情に、目の前にいる女性はクスッと小さく笑って明石の頭を優しく撫で、その視線をふと長門に向けた。


『元気が良いわね。お嬢さんだと思ったけど、土方(どかた)なの? この娘?』

『緊張してるだけですよ。んも〜、アタシには全っ然そういう態度とらないのにぃ。もうちょっとアタシにも尊敬の念を持ってくれたって良いじゃん、明石ぃ。』


 不満げに長門は明石の頭をツンツンと突付く。カクンと首を傾けたままの明石に目の前の女性は大きな青い瞳を細めると、ゆっくり右手を持ち上げて額に添える。ふんわりと風のような動作ながらも、その敬礼は明石が出会ってきた人々の中で最も綺麗な敬礼だった。

 小さな溜め息をして、彼女は明石に自らの名を名乗った。


『帝国海軍工作艦、朝日です。願います。』






 3人はスタンウォークから室内に戻り、部屋の中央にある向かい合ったソファーに腰を下ろした。腰を下ろすと同時に倒れてしまうような感覚を覚える程に、柔らかくて底が深い椅子。緊張の余り固まった身体でその椅子に腰掛けた明石は思わず悲鳴をあげてしまい、その様子を二人の上司に大笑いされた。頬を赤くして頭を掻く明石だったが、朝日が掛けてくれた優しい言葉と用意してくれた紅茶にやっと気を緩める事が出来た。



『まあ、艦魂が見える人と一緒に暮らしてるの? 良かったわね。』

『は、はい!』


 向かい合う朝日に明石は嬉しそうに返事をした。明石の隣に腰を下ろして彼女の経歴を簡単に説明した長門は、自慢の相方を素直に認められて口元を緩める明石に微笑みを向ける。

 落ち着きという言葉がそのまま音になったような朝日の声は、偉大なる先輩を前にした長門の気もまた緩めてくれる。まだちょっと俯いてまともに朝日と目を合わせられない明石を気遣い、長門は椅子の肘掛けに身体を流すように乗せ、今度は明石に朝日の経歴を説明した。


『言わなくても知ってると思うけど、朝日さんは敷島型戦艦の二番艦だよ。日露戦争では、いま私が所属してる第一戦隊に所属してて、ロシアの艦隊をコテンパンにしちゃったのよ。も、スゴイのなんの!』


 同じ戦艦の艦魂である長門にとって、帝国海軍がその名を世界に轟かせた日本海海戦は眩しすぎる程の栄光だった。敵の軍艦を沈めるための最大の駒たる意地と誇りが長門にもあり、未だに敵艦と砲火を交えた事がない彼女はその羨ましさを言葉の端々に散りばめる。

 工作艦である明石には正直その心の内がピンと来なかったが、まるで自分の事のように朝日を褒め称える長門の笑顔にそれがどれ程までに凄い事であるかをなんとなく悟った。

 だが当事者たる朝日は落ち着いたもので、小さく笑うとティーカップをゆっくりと口に運んで一飲みする。昔を懐かしむ目でカップの中にある小さな湖面を眺めながら、舞い上がる湯気の向こうの長門に視線を移して朝日は静かに声を上げた。


『ふふふ。昔話は止してよ、歳が気になるじゃない。それに対馬沖での合戦は、第二戦隊の島村(しまむら)さんと磐手(いわて)の手柄よ。』


 舷窓から差し込む陽の光りを受けた朝日の笑み、その両脇にある赤茶色の髪がまるで気高き鷲の翼のように明石の目には映る。そして長門がすっかりこの朝日に心服してしまっている姿に、明石もは自然と口元が緩んでしまう。美しさと優しさを持った朝日の笑顔、明石はそれに眩しさを感じて逃れるようにふと長門へと視線を流した。ところが彼女はほんのついさっきまでとはうって変わり、今度は眉をしかませて舌を出している。


 やっちまった・・・。


 そんな長門の心の声が不思議そうな顔をする明石に伝わると同時に、朝日は笑みを崩さぬまま長門に向かってゆっくりとした口調で語りかけ始めた。


『あの合戦での二戦隊の動きは、目的が何であるか、その為に取りえる手段は何かを常に考えて行動した島村さんの判断が決め手よ。ただ命令に従って私達、一戦隊の後ろについて来るだけじゃ、あの合戦での目的は達成できなかったわ。常日頃から、連合艦隊という組織の中で、そういう考え方が出来るようにしっかりとした理解を得ていた組織の運営も見習うべきね。長門。貴方は今、連合艦隊の旗艦でしょ? 私達の功績を伝えてくれるの良いんだけど、ちゃんとそういう組織作りはしてるの? いつも言ってるけど、過去を振り返る上で必要なのは輝かしい栄光や恥ずべき失敗ではなく、そこに繋がった試行錯誤の過程と結果よ。解ってる?』


 西洋人らしく朝日は手の動きを交えて、長門に語りかけている。長門は引きつった笑みで『は〜い・・・。』とどこか力が抜けた返事をすると、その表情のまま明石にチラッと顔を向けてきた。

 どうやら朝日という艦魂には、重度の説教癖があるらしい。

 さすがの長門も尊敬する先輩にかかっては、それをはねつける事もできない。不自然にニヤけて頭の後ろを片手で掻き、力が抜けた返事をするのが関の山だった。二人のやりとりに形無しという言葉を良く理解した明石は、両手で口元を覆って悟られないように笑う。

 その最中にも朝日のお説教に苦戦する長門であったが隣でやっといつもの笑みを取り戻した明石に安堵し、悪いなと思いながらも彼女は得意技を発動する事を決めた。長門は頭を掻きながら朝日の背後に位置する壁の上にある時計を探し当て、突然に大きな声を上げる。


『んあ! しまった!』

『─あら。どうしたの?』

『や〜、すいませぇん。これから陸奥(むつ)と、各駆逐隊の訓練状況の整理やるもんで・・・。でへへへ・・・。』

『え!?』


 明石は長門の放った言葉に驚き、ついつい声を上げる。

 連合艦隊きってのサボりの常習犯である彼女の生活を、明石はこれまで何度も見てきたからだ。つい昨夜だって溜まった仕事を陸奥に咎められながらも、隙を突いて自分の艦から脱走してきた彼女である。その長門がこれから仕事がある等と言い出す事が、明石には信じられなかった。もちろん明石が予想した通り、それは嘘だ。


『なが・・・─。わぷっ!!』


 隣に座る長門に向かって顔を近づけて口を開こうとした明石だったが、長門はすぐさま明石の頭に有った軍帽に手を伸ばすと、軍帽の先端を摘んで下にズリ下ろして明石の顔を覆わせた。困惑する明石が顔に手を伸ばすも、長門は片手で顔を覆わせた軍帽を抑えつけている為に外れない。朝日がそんな二人の姿を不思議そうに見つめる中、長門は矢継ぎ早に声を発した。


『や〜、勉強になりました!さ〜っそく、陸奥にも伝えてきますよ!』

『あら、そう? 大変ねえ、全部の駆逐隊の整理なんて・・・。』

『これも仕事ですから〜! あははは!』


 非常に白々しい声であるが、その声色に朝日は気づかないらしい。長門の横で何事か言わんとしてもがく明石を不思議に思いながらも、これから連合艦隊旗艦としての職務に励むという後輩に朝日は笑みを見せて別れを告げた。


『また、いつでも来なさい。長門。』

『はい、是非是非! んじゃ!!』


 その言葉が明石の耳に届くと同時に、明石の顔に発生していた圧力が消えた。ポロッと落ちる軍帽によってやっと開けた目の前、だがそこには隣にいた筈の長門の姿が既に無い。


 あ、いない!


 そう思った瞬間、明石の後ろからはドアが閉められる音が響いてきた。あっという間の早業に、呆然とする明石。朝日は頬に手を当てて、僅かに首を捻って青い瞳を細めながら言った。


『あの()はちょっとそそっかしいのが玉に傷なのよね。人の話はちゃんと聞く良い娘なんだけど・・・・。』


 いつも自分を訪ねてきてくれる長門が、如何にして来てくれているかを明石は思い知った。そして先輩相手に堂々と猫を被る長門という艦魂を、色んな意味で彼女は恐れた。







 長門が逃げ去った後、二人はしばしの間沈黙して立ち尽くしていた。明石は自分をトカゲの尻尾として使った長門に対して、少しだけ尊敬の念を失う。溜め息をして自分の世代の艦魂のだらしなさを恥じる明石だったが、その明石の表情に朝日は笑い始めた。


『ふふふふ。今の子達って、本当に元気があるわね。』


 そう言って再びソファに腰を下ろす朝日。明石も苦笑いを返して再び腰を下ろした。座ると同時に手の中に有った軍帽を被りなおした明石は、朝日が何故か目を細めて自分の顔を眺めている事に気づく。青き透き通った朝日の瞳は、晴れの日の静かな海原を映している様だ。


『この世という物は不思議ね・・・。名前が同じだと、心も身体も似る物なのかしら・・・。』


 どこか懐かしむ様な表情でそう言う朝日だったが、明石には彼女の言っている事がまったく解らない。咄嗟に出た返事は、その事を朝日に伝えた。


『は、はい?』

『ふふふ・・・。そう、知らないのね・・・。』


 朝日はテーブルの上に置いていたティーカップを手に持ち、遠い目をしながらも自分の言葉が含んだ事を明石に教えてあげた。


『日本に来てすぐの頃、私にも先輩が何人かいたのよ。同じイギリス生まれで一戦隊を組んでた富士さんや巡洋艦の艦魂達のリーダーだった浪速、初代の連合艦隊旗艦を務めた松島さんに、戦利艦として軍艦旗を掲げながらも清国生まれの誇りを捨てなかった鎮遠さん。でも、その中で最も親しくしてくれたのは、四戦隊の明石だったわ。』


 朝日が放った言葉に、明石は驚きを隠せなかった。

 工作艦として建造され、現在の連合艦隊では唯一の工作専門艦は自分だけだと思っていたからである。当然、その名前も連合艦隊歴史上、自分だけにつけられた物だと彼女は思っていたのだ。


『あかし・・・?』


 呟くように出た明石の声だったが、朝日はその言葉を聞き逃さず、ニッコリと微笑むと頷いた。


『そう、貴女と同じ名前よ。当時は私が明石に教えられる立場だったのに、30年以上も経ったら今度は私が明石にあれこれと教えるなんて、本当に不思議・・・。ふふふ。』


 朝日はティーカップを両手で持ち、ゆっくりと左右に傾けた。カップの中で揺らめく紅色の波に、彼女は昔を懐かしんで微笑んでいる。その波間に朝日が見た顔と同じ顔を持つ明石は、自身と同じ名を持つ者の存在を知った事で湧き出した感情を抑えきれず、テーブルの上に身を乗り出して声を上げた。


『も、もっと教えてください! 先代の事を!』

 

 初めて知った自分へと繋がる「明石」という名前の系譜。彼女には文字通り他人事ではなかったし、教えた側の朝日もそれで済ますつもりは無かった。その言葉を待っていたとでも言わんばかりに、朝日は口元のホクロを隠すように手を添えて話し始めた。


『明石は・・・。あ、ごめんなさい。貴女の先代は、正確には須磨(すま)型防護巡洋艦の二番艦だったわ。私より一年前に横須賀で建造されてて、異国生まれの私にこの国の海域の知識を色々と教えてくれたのよ。ふふふ、可笑しいわ。思い出してみたら、物言いも貴女とそっくりよ。』


 別段褒められた訳ではなかったが、明石は朝日の言葉に表情を明るくする。

 そして朝日が口にした「そっくり」という言葉が、先代が間違いなく自分とは他人ではない事を確信させた。仲間達のように姉妹がおらず人間のように子供が生まれるという概念が無い艦魂の彼女にとって、それはなによりも嬉しい事だったのである。

 朝日の目の前にある明石の両頬に釣り上がった口元と子犬のような目、それが記憶に蘇る顔とまったく同じである事に彼女もまた笑い、手に持ったカップを口に近づけて一口飲んでから話を続けた。


『貴女の先代は、ロシアとの戦争の火蓋を切る事となった合戦、仁川(じんせん)沖海戦に参加してたわ。その戦いに参加してた艦魂の中で貴女の先代だけが、自決したロシア側の艦魂の様子を報告してくれたのよ。』


 朝日はそれまで少し伏せるように俯かせていた顔を上げ、遠い目で天井を眺めた。


『変わった艦魂(ひと)だったわ。貴女の先代は「その様子を絶対に全軍に伝えるべきだ」と、戦隊長の浪速(なにわ)が止めるのも聞かずに報告してくれたのよ。もちろん、みんな(いぶか)ったわ。“明石は阿呆だ。人間にも伝わらない事を記録してどうする。”、なんて言われながらも、あの艦魂(ひと)は信念を曲げなかった。でもその後に、みんなが明石の言葉を思い知らされたわ・・・。』


 そう言うと、これまで美しい笑みを浮かべてきた朝日の表情が曇った。それが辛い記憶によってもたらされたという事を、明石はすぐに悟る。


『貴女の先代は艦魂も人間も無く、生きる事と死ぬ事のなんたるかを説こうとしていたのね。私達がそれを思い知ったのは、旅順(りょじゅん)付近で敵の機械水雷にかかって仲間が次々と死んだ後だったわ。そして私の妹の初瀬(はつせ)も、その時に死んだわ・・・。』


 朝日は言い終えると、天井を仰いでいた顔を明石に戻した。心配そうに覗き込んでくる明石に、小さく笑みを見せて朝日はさらに続けた。


『目の前で自分の仲間や姉妹が倒れていく事に、あの時は全ての艦魂(ひと)達が泣いたわ。装備と威勢だけで過ごしてきた私達には、仲間や姉妹を失う心構えが出来てなかったのよ。そしてその光景は、私には貴女の先代の言葉を(ないがし)ろにした報いだと思えたのよ。そしてもう一度話を聞こうとした時は、当の明石も機械水雷にかかって重傷を負っていたわ。ふふふ、それでもあの艦魂(ひと)は笑ったわ。やられたぁ、なんて言って。』


 朝日は腰を浮かせておもむろに手を伸ばし、明石の頬に触れた。自分へと繋がる「明石」の名を持つ先代の物語を黙って聞いていた明石の頬に、それを伝えんとする朝日の手の温もりが伝わってくる。朝日もまた手に伝わる明石の頬の温もりを確かめ、大きく一度頷くと口を開いた。


『貴女の先代は私と艦種は違うけど、私の大事な友達であり、唯一の師だったわ。大正の時代に入ってからのシベリアでの作戦行動も一緒に行った。そして一緒になるその都度、命の大切さを教えられ、今の私、工作艦朝日があるのよ。』

『朝日さん・・・。』

『ふふふ、呼び方まで同じ・・・。』


 余程の感慨深さを感じたのか、朝日はホロリと一筋の涙を流した。だがその表情には悲しみは無く、青い瞳を細めて笑っている。ちょっと戸惑う明石の手を、朝日はもう片方の手で握って言った。


『あんなに命という物に対する信念をもっていた明石が、こうして工作艦となって生まれ変わってここにいる。きっとあの艦魂(ひと)も喜んでいるわ。私は貴女の先代には恩がある。その恩を返す為にも、私の知っている事は全部教えるわ。だから立派な軍医になるのよ、明石。』


 朝日の声と手の温もりは、明石にその想いをしっかりと伝えていた。朝日の想いと、自分と同じ名を持つ艦魂の物語。命を預かる軍医としての大事な物、命に対する信念。それをこの時、明石は確かに授かったのだ。そして彼女の心には、栄えある「明石」の名を持つ事への誇りが生まれた。


 私はただの補助艦艇なんかじゃない。

 私の名は明石、遥か昔から命の尊さを語った艦魂の名を継ぐ者。


 胸の中でそう呟いた明石は、大きく頷いて朝日に声を返した


『はい!』



 その日、彼女は軍医として、艦魂として、そして心の師としての唯一の師匠を得たのだった。

お嬢さん、ドカタ。


朝日の言葉としてでてくる以上の言葉ですが、これは海軍兵学校で用いられた隠語のような物です。

お嬢さん=後輩に優しく当たる、どちらかと言えば大人しい感じの温和な人。

ドカタ=後輩に厳しく当たる、どちらかといえば気性の荒い暴力的な人。


実際にはお嬢さんクラスとかドカタクラスと使って、各期の総称として使用された様です。


また同じ理由で、真珠湾攻撃で「燃料が無くなったら、適当な目標に向かって反転降下。突入せよ」と訓示して、その言葉通りに自爆した蒼龍航空隊の飯田房太大尉のニックネームは「お嬢さん」でした。

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