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第二五話 「長門の心遣い」

 昭和15年2月13日、第二艦隊は大阪湾を抜錨。次なる泊地、鹿児島県の有明(ありあけ)湾に向かって旅立つ事となった。


 紀元節で賑やかだった神戸とも、いよいよお別れである。12日、13日は各地での式典が終わったからなのか、第二艦隊が在泊する泊地を望める岸壁や浜には多くの見物人の姿が有った。大都会の神戸らしく、その人の数も1000人は下らない。第二艦隊乗組員達と供に、各艦の艦魂達も舳先に立って帽を振る。その姿を見れる者はいなくとも、見物人が振る日の丸が彼女達にとってはそれに応えてくれていると思わせるのには充分だった。


 明石(あかし)艦は第二艦隊とは別行動となり、第一戦隊に随伴して(くれ)へ帰る事となった。呉にて資材補給を行い、すぐ近くの(ひろ)海軍工廠で各種工作機器の積み込みを行うとの事であった。

 帝国海軍初の専門工作艦である明石艦は海軍上層部の期待も大きい。今回の呉寄航は工作資材の補修だけでは無く、ここまで第二艦隊と供に行ってきた冬季艦隊訓練の過程で出た運用上の懸案や問題点を一度抽出する意味合いもあるのだ。このようにじっくりと時間をかけて運用の形態を見極めようとする海軍上層部、以外にも彼等は修理補修という物に関しては並み以上の理解を示しているのだった。





 明石には最も親しい友人達とも束の間のお別れとなる。軽く手を上げて『また後で。』とそっけなく別れた明石だったが、自分を残して続々と出航していく仲間達の後姿を眺めるその瞳は、やはりどこか寂しそうだった。

 それでも夜には相方が調達したおいしい食べ物と、またも公務を放り出して遊びに来た長門(ながと)に彼女の寂しさも吹き飛んだ。



『うまあい。タコって、初めて食べたぁ。』

『さっすが、(もり)クン。良く手に入れた! 偉い!』


 明石と長門は厚紙で出来た箱から、狐色をした丸い物を爪楊枝(つまようじ)で刺して口に運んでいた。

 湯気の上がるそれにはタコが入っており、紀元節の2月11日に留守番をしていた(ただし)青木(あおき)砲術長がご褒美として買ってきてくれた物だった。常に酒保で物品を買い占める彼の胃袋を念頭に入れ、青木砲術長はご丁寧にも3箱も買ってきてくれたのである。もちろん、その真相は彼の相方が黒幕である。


 定位置である部屋の隅の椅子に腰掛け、そのお土産を食べる忠の表情も明るい。それは彼もこの時初めて食べた物で、ホクホクと暖かさを保つそれは冷えた身体をウチから温めてくれる。濃い口のソースのせいで大味ではあるが、元来塩辛い物が大好きな根っからの青森県人である彼にとってはとってもおいしい食べ物であった。その美味に彼の口元が緩み、やがて発せられる声も軽やかに弾んだ。


『たこ焼きって言うんだってさ。つい最近出来た料理らしいぞ。』

『タコうめぇ〜!』


 ベッドに腰掛ける明石もその味は大変気に入ったらしく、モグモグと頬を動かしている。

 その隣には唇を舌でペロリと拭く長門が、同じく膝の上に置いた箱からたこ焼きを口に運んでいた。時々明石と笑みを合わせては舌鼓を打つ彼女だがその格好はやはり部屋の中でも目立つという物で、忠はふと部屋を訪ねてきた際の長門の言動を思い出す。

 『メンドくせ!』と部屋に入るなり叫んだ彼女は、羽織るように袖だけ通していた第一種軍装の上着をヒョイっとベッドの上に投げ捨て、同時にすぐさま中に着込んだ白い長袖のシャツの裾をズボンから引っこ抜き、胸元や袖のボタンを全て外してしまったのだ。今に至っていつもの気の良いお姉さんになりきった長門のその姿は、とても海軍軍人だと思えない。

 忠が色々と思考を巡らす中、手に付いたソースをベロベロお嘗め回しながら長門は口を開く。


『アタシも、初めて食べた。長生きってする物ね〜。』

『あははは!』


 その年寄り臭い発言に明石は笑っている。忠も部屋の空気に合わせて笑みを見せてやるが、普段余り話した事が無い長門の生い立ちを考えるとその発言もそこそこ納得できた。


 長門型は帝国海軍最新鋭の戦艦であるが、その建造時期は大正年間であり艦齢も既に竣工から19年近い艦なのである。もっとも他の戦艦と同様に数次に渡る近代化改装を受けており、その性能は欧米の同クラスの戦艦と比べても決して遜色は無い。長門型の性能は410ミリの主砲を主とする攻撃力、それに耐えれるだけの防御力、そして扶桑型、伊勢型でも発揮し得なかった速力を持ち、同時にそれらがバランスよく備わっている事が大きな特徴である。元々高速戦艦として建造された長門艦はその公試運転で計画速力を上回る速力を記録しており、この世に誕生した当時は戦艦としては世界最速でもあった。

 長門艦とは文字通り、日本の造船技術の優秀さを世界に示した艦なのである。


 それらを(かんが)みると、世界最強を自負する帝国海軍の旗艦を拝命するのは彼女の当然の宿命だった。だが忠は黙って頷いてその事に納得しながらも、その分身である長門がこれ程までに変わった性格の持ち主という事には首を捻ってしまう。

 一方、当の長門は忠のその行動に気づき、彼の考えている事がなんとなく解った。今日も忠が用意したラムネを一口飲むと、彼女は少しだけ背を丸めて忠に話しかける。


『森ク〜ン。なによ、その顔は〜。』


 (びん)のくびれた所を指で挟み、振り子のようにフラフラと左右に振りながら長門は言った。ちょっと眉を曲げているその表情には怒っているような感じはない。忠は少し苦笑いを浮かべて口を開こうとしたが、かがんだ事によって開いた彼女のシャツの襟元(えりもと)に視線が行ってしまい慌てて机の方に身体を向ける。脳裏に残る長門の胸のふくよかさが良く解る光景を振り切るように、彼はちょっと上ずった声でそれに答えた。


『いや、ほら。今日も逃げてきたんでしょ・・・? 連合艦隊旗艦って、お仕事とか大変じゃないのかい?』

『そうだけど、アタシ、お仕事って嫌いなのよねぇ。遊んで暮らせる生活ってないかなぁ? あはは!』


 ねえよ。


 高らかに笑い声を上げる長門に隣の明石も大笑いしているが、忠は一言そう心の中で呟くと額に手を当てた。まるで社会不適合者みたいな発言をする彼女が、子供の頃より憧れてきた長門艦の艦魂とは彼には思えなかった。それでも別に忠は長門が嫌いになった訳では決して無い。漂々(ひょうひょう)として常に驚く発言をする彼女に、彼はとても人間臭さを覚えたからだった。気の良いお姉さん、人間の世界でもいるそんな彼女の女性像が忠にはなんとも親しみやすいのだった。


『やる時、やれば良いのよ。いっつも気張ってたら、いざって時に力だせないじゃん?』


 最後のたこ焼きを頬張りながら、長門は紙の箱を丁寧に畳んでそう言った。もっともらしい彼女の言葉だが、忠には彼女の言う「やる時」の顔が想像できない。その疑問をいつものように笑みを作り笑って誤魔化す彼だったが、長門の隣にいた明石が彼女の腕に触れてその事を尋ねた。だがそれは忠のように長門の言葉に疑問を抱いたのではなく、単純に豊富な経験を持つ彼女の経歴に興味を抱いているだけだ。


『ねえ、長門さん。』

『うん?』

『長門さんが本気になるくらいの時って、今まで有ったんですか?』

『もちろん有ったよ。うう〜ん、そうねぇ・・・。』


 長門は足元に有ったごみ箱にたこ焼きの箱を投げ入れると、脚を組んで僅かに背を反らした。天井に視線を向けて唸る長門、どうやら何度か身に覚えがあるらしい。ふいに笑みを作って天井から明石に顔を戻した長門は、すこし炭酸が抜けかけたラムネを一口飲んで言った。


『覚えてるのは、関東大震災の頃かな。あの時は焦ったなぁ。』


 その記憶が懐かしいのか、長門はそう言うと目を閉じて微笑んだ。そして彼女の放った言葉を聞いた忠は、幼少時の当時の記憶と供に兵学校時代に教官から聞いた長門艦における一つの逸話を思い出す。『おお、もしかして・・・。』と呟く忠だが、唯一その頃の記憶を持ち合わせていない明石は目を大きく輝かせて忠に顔を向けた。


『なになに?』

『あら。森クン、もしかして知ってるのん?』


 長門はどこか嬉しそうにそう言うと、忠もまた笑みを浮かべてそれに答えた。帝国海軍でも有名な逸話である事に、その一員である事から忠の声が無意識に弾む。


『ああ、大連沖から帰ってきた時の話でしょ?兵学校の教官が、よく話してくれたんだよ。』


 忠の口にした大連の言葉を聞いて、長門も彼の言う事が自分の言おうとしていた事と合致しているのを悟った。彼女から見ればまだまだ若い忠であるが、人間である彼でも自慢の逸話を知っている事が彼女には嬉しい。腕組みをして『ふふ〜ん。』と胸を張る長門だが、早くその話題を聞きたい明石は忠にせがんだ。


『早く教えてよ、森さん!』


 自分だけが二人の記憶を悟る事が出来ない明石は、頬を膨らませて忠に叫ぶ。ヘソを曲げた彼女の取り扱いにいつも苦労している彼は、すぐに明石にも笑みを向けてそれを教えてやった。


『関東大震災が起きた頃、長門艦は大連沖で訓練してたんだ。猛訓練の最中、地震発生の報を受けた長門艦を初めとした各艦は、救援物資を積み込むと全速力で本土に向かったんだよ。』

『ふんふん。んで?』


 長門は心の奥から込み上げてくる感情を抑えきれず、忠の声が一息つくと自慢げに顎をちょっと出して口を開いた。


『救助物資の積み込みや状況整理で、本当は出航までにはちょっと時間がかかったのよ。だから乗組員も私達も、とにかく急げや急げで突っ走ってさ。その時に、公試で出した記録よりも速い速度を出せてたみたいなんだよね、アタシ。』


 長門の言葉の最後の方にとある疑問を抱いた忠は、少し身を乗り出して長門に顔を近づけて声を上げる。


『あれ? 覚えてなかったの?』


 その言葉に長門はちょっと笑みを歪めると、頭の後ろを掻きながら言った。


『あはははは。あの頃はアタシもまだ若かったのよねぇ。1秒でも早く本土に行かなきゃって、他の事なんか考えてなかったの。後で聞いたら、その時に27ノットは出てたって言われたのよ。』

『うわあ〜、すっごおい!』


 明石は二、三度拍手すると、今度は長門の腕に倒れ込むようにして掴まった。笑みを返してくる長門に明石もまた笑みを返す。自分の自慢話に素直に驚きと尊敬を表す明石が、長門には可愛くて仕方なかった。明石の頭を優しく撫でながら、長門は嬉々とした声を発する。


『あははは! やれば出来る子よ、アタシ! やんないだけよ!』


 長門のその言葉はいつもの忠ならツッコミを入れているところだが、その逸話の真相が解明されないまま改装され、今は25ノットしか出せなくなってしまった長門艦の事を考えて彼は沈黙した。そして以前明石が言っていた「艦魂の健康状態が艦の微細な性能を左右する」という話を思い出した彼は、長年解明されてこなかったその謎に一つの答えを推測する。

 長門艦程の巨艦が1ノット速度を上げる事、それは並大抵の努力ではできない。艦全体の設計から重量比、果ては機関出力に至るまでの大改装をしなければ、それは非常に難しい事である。当時の長門艦には速度向上の為の改装はされていないし、むしろ当時の最新設計を取り入れて建造された長門艦には事後投入する技術だって無かった筈なのだ。


 公試速度記録が改竄されているという可能性もあるが、その原因となったのは他ならぬ長門艦の艦魂である彼女の仕業だったのではないか?


 そう考えた忠には、明石を抱いてひょうきんに笑う長門の姿にとてつもない力を秘めている女性である事を感じずにはいられなかった。そして「やる時にやればいい。」という長門の言葉が、決して嘘でも言い訳でも無い事を彼はよく理解する。そこにいるのはあれこれと上手い事を言って逃げ回る面倒臭がり屋な女性ではく、しっかりとした実力を持って帝国海軍艦魂の頂点に立つれっきとした連合艦隊旗艦の艦魂なのであった。


『どうだ、スゲエだろう! あははは!』


 腰に手を当てて胸を張って笑う長門をその隣から明石が拍手して(あが)めるその光景も、決して行き過ぎた光景ではない。本人の言葉通り、長門とはそれだけスゴイ艦魂なのである。忠も素直にそれを認め、ニッコリと微笑んで拍手を送ってやった。


『私も頑張ったら、もうちょっと速度が速く出せるようになるかな?』


 明石はそう言うと、今度はその笑みを忠に向けてきた。長門の逸話に余程の感動を得たらしく、明石はキラキラと無垢(むく)なその瞳を輝かせ、颯爽(さっそう)と海を駆ける自分の分身を想像して遠い目をしている。


『ははは。明石の頑張りようだな。』


 中々に難しい事であろうとは予想しながらも、忠は敢えて笑って明石に声を掛けた。なにより前例を作った人が、まさにそこにいるのである。忠の想像通りにそれは大変に難しい事なのだが、長門と同じ艦魂である明石には決して不可能な事ではないのだ。

 『いよおし、頑張るぞぉ!』と拳を握って決意を新たにする明石に、やがて長門は再び彼女の頭を撫でながら、そこにあった努力以外の要素を静かな声で伝える。


『もちろん頑張りようよ。でも私が速度を出せたのは、普段から必死になって整備してくれた乗組員や、工廠の人達の努力の賜物よ、明石。』


 優しい声で話しかけた長門だが、明石はその声に目を丸くして彼女に顔を向ける。煙草に火を点けようとしていた忠も、長門の少し真面目さが篭った声に手の動きが止まった。

 二人の視線を集める中、長門はサラサラと流れてくる髪を肩の後ろに流して続ける。


『もちろん、明石にも速度をもっと速く出せる事は不可能じゃないよ。そしてそれは、明石の友達の神通(じんつう)や、那珂(なか)なんかにも出来る事。でもその為に整備や修理をしてあげられるのは、明石しかいないの。だから明石には、みんなが期待してるのよ。』


 長門の語りを受けて、明石も自分が何者であるかを悟って大きく頷いた。帝国海軍唯一の工作専門艦である明石艦、その存在と意義を長門は解り易く教えてやったのだ。すなわち彼女が頑張らなくてはいけないのは速度を出す為ではなく、常日頃からの仲間に対する整備補修を実施してあげる為なのであった。

 明石はちょっと残念そうに笑みを歪めたが、その長門の心遣いと自分にしか出来ない仕事がある事を今一度認識して大きく頷く。


『は〜い。軍医として頑張りま〜す。』

『うん、頑張ってね、明石。』


 笑みを向け合う二人。決して老けた顔をしてる長門ではないが、その笑顔と風格は優しい上司その物であった。実質的には今の明石の直属の上司は第二艦隊旗艦の愛宕(あたご)であるが、明石の顔に浮かんだ笑みもまた上司に物事を教えられて感謝する部下の顔その物であった。

 やがて長門は明石の頭から手を離して彼女の肩に触れるが、突然この時にふと何かを思い出したように声を上げた。


『あ! 言うの忘れてた!!』

『はい? な、なんですか?』

『む?』


 驚きと興味を示した忠と明石の表情を向けられた長門は、ポンと手を軽く叩いて明石に言った。


『今回の呉への寄航。資材の補給だけじゃないんだよ、明石。』

『なにかあるんですか?』


 長門は不思議そうな顔で見つめてくる明石に小さく笑うと、今度はその顔を忠に向けて続けた。


『森クンは知ってるよね。明石艦の今後の予定は?』


 突然の質問に忠は慌てながらも、夕食の時に青木砲術長から聞いた明石艦の予定を思い出した。顎に手を添えて記憶を辿り、長門から視線を僅かにそらしたまま彼は答える。


『えっと、今日中には呉着だろ・・・。そんで2月25日呉発で、2月29日に沖縄の中城(なかぐすく)湾で第二艦隊と合流する筈だったなぁ・・・。』

『そ。でも資材搭載だけで、10日近くも在泊すると思う?』

 『あ、確かに・・・。』


 彼女の口にした疑問が忠と明石にもすぐに浮かんでくる。首を捻る二人に笑みを向け、長門はクスクスと笑いながら明石の肩に再び手を置いて声を上げた。


『明石。第二艦隊は今、有明湾で猛訓練中よ。利根(とね)筑摩(ちくま)を除いて、第二艦隊の士官の子達は実戦経験も豊富で、きっと腕をメキメキと上げるだろうね。神通や那珂と友達になってる明石には、それはよく解るよね?』

『ん・・・、はい・・・。』


 明石の顔から笑みが消え、その唇の隙間からは少し力が無い返事が発せられる。その心の内は長門だけでなく、忠も良く解っていた。


 忠と明石の近しい間柄である二水戦。そこには圧倒的な上司としての威圧感を持つ神通と、その神通の事を良く理解して仕える(かすみ)(あられ)雪風(ゆきかぜ)等を初めとした若い部下達がいる。まだまだ経験不足ながらもその部下達は経験豊富で厳しい上司である神通に教えを請い、その実力は日に日に上達しつつある。あんなに泣き虫だった霞が今や二水戦の最精鋭駆逐艦となっている事実は、いつぞやの柔道の競技会で二人とも見ていた。その霞の成長は、上司である神通が手取り足取りでしっかり教育したからに他ならない。人間だろうが艦魂だろうが成長における最大の要素は、しっかり丁寧に物事を教えてくれる師匠がいるかどうかなのである。



 自分には師匠がいない、工作艦として建造されたのは私だけ。


 脳裏に浮かぶ言葉が、明石の心の奥底に眠る孤独感を揺り動かす。良くも悪くも工作艦という存在は、彼女唯一人なのだ。口を僅かに尖らせて伏せ目がちに俯く明石だったが、長門は明石の頬に手を当てて顔を上げさせるとニッコリと綺麗な笑みを見せてやった。

 やがてまるで部屋の中で泣く子を家の外での遊びに誘うかのように、彼女は声を弾ませて明石に話しかける。


『だ、か、ら。明石にも経験豊富なお師匠様、紹介してあげる事にしたの。まあアタシにとっても師匠なんだけどね。あははは。』

『ほ、本当ですか!?』

『嘘じゃないよぉ。その為に在泊日程をイジったんだも〜ん。』

『長門さ〜ん! ありがとうございます〜!』


 明石は再度笑みを浮かべると勢い良く長門の腕に抱きついた。連合艦隊旗艦の言葉である、それが嘘であるわけが無い。明石にとっては竣工以来、初めての教育を授けてくれる人に出会えるのだ。

 新たな自分の成長と出会いに心を躍らせる明石だが、そのやりとりを耳にしていた忠には明石の特殊な立場を共にする艦魂という存在が全く思い当たらない。

 腕を組んでその事を考えていた忠は、長門に向けてふいにその疑問を投げ掛ける。


『なあ、長門。艦魂じゃ軍医って珍しいんじゃないのかい?明石以外にもいるの?』

『いるわよぉ。ついこないだ上海から帰ってきたばかりの、超が付く程に経験が豊富な先輩が一人ね。』

 長門が口にした地名を聞いて、明石と忠にはその艦名が脳裏に浮かんだ。

 軍歌「日本海軍」にもその名を謳われ、日露戦争で主力として戦った英雄艦。2年前に工作設備を装備し、上海を拠点に活動してきたその艦は先程長門が言った「戦艦としての彼女の師匠」という言葉を二人に納得させる。その活動記録を読んだ事が、大湊(おおみなと)での第一駆逐隊の修理にどれ程役立った事だろう。

 明石は部屋の電灯をかき消すほどに表情を明るくさせて、脳裏に浮かんだ人物の名を長門に確認した。


朝日(あさひ)さんですか!?』

『ご名答〜! 朝日さん、先週帰ってきたのよ。11月の編成替えで、艦内の工作部が陸上施設に移ったんだって。今回はほんの一週間ちょっとだけど、きっと明石の成長に繋がると思うよ。大きくなって、第二艦隊のみんなを驚かせてあげてね!』

『やった〜〜!』


 明石はベッドに腰掛けたまま、文字通り跳び上がって喜んだ。彼女が掴んだ腕の主である長門もそれに抗う事はせず、一緒になってわーわーと声を上げて飛び跳ねる。

 新たな自分の可能性と出会いを喜ぶ相方に、忠はフッと小さく笑った。


 よかったな、明石。


 もちろんそれを心から相方を祝福する忠だったのだが、先程から長門が口にした文言がどうにも彼には気がかりだった。これまでの艦魂の暮らし振りから見てもその文言が示す内容が彼には思いつかない。笑みを絶やさないようにしながらも、忠はその疑問をぶつけてみる事にした。


『長門、一個だけ、聞いてもいいかな?』

『うん? なんじゃらほい?』

『さっき、在泊日程イジったって言ったよね・・・?』

『おうよ!』

『それって艦魂の文書か何かなのかい?艦の日程は連合艦隊司令部の命令書で決まる筈でしょ? 艦魂が書いた書類って誰にも見えないし、効力も無いんじゃないのかい?』

『その通〜り。だから本物の命令書をイジったの! アタシって天才だよね!』

『・・・・・・。』


 言いかけて忠は止めた。

 それが天下の帝国海軍においてどれ程に重大であるかを悟りつつ、逆にそれを平気でやってのけたこの長門が途端に怖くなったからである。それは何かに怯える恐怖ではない。相方を超える余りにも無茶な事をしてケロっとしている長門のお気楽さに、彼は今後の帝国海軍がどうなってしまうかを憂いだのであった。額に手を当てて溜め息をつく彼だったが、聞きたくないその真相を長門は高らかに笑い声を伴ってぶちまける。


『山本長官はお風呂が長いから助かったよ! 机に置いてあった万年筆も使いやすかったし〜。もうビックリするくらいにサラサラと書けたのよ! あはははは!』

『わ〜い! さっすが長門さ〜ん!』


 長門の言葉に明石は両手を上げて褒め称え、二人して大きな声で幸せそうに大笑いしている。その光景と部屋に響く笑い声が、忠の理想の「正しい物が通る海軍」という帝国海軍像を打ち砕いていく。気の毒な事この上ないが、笑い合う二人は彼の心情をはちっとも解っていない。


 ダメだ、こいつら・・・。早くナントカしないと・・・。


 手に負えない性格では完全に師弟関係になっている二人の笑い声、綺麗なその声が忠には辛かった。彼が幼い頃から抱いてきた帝国海軍像が、積み木のお城のように音を立てて崩れてゆく。彼が幼い頃から憧れてきた長門艦の気高き姿が、水で滲んでいく水彩画のように霞んでいく。

 

『よおし、飲み直しだあ!』

『お〜〜!!』


 まだ、やるんですか?


 その夜、忠には人間の仲間達と供に飲むお酒が少し恋しかった。

長門艦のエピソードとして有名な、関東大震災の逸話ですが、公表値よりも速かった事だけが有名になってますが、この時公試よりも速い速度がでていたそうです。

この事は長門艦の艦内でも語り継がれ、その誇りが「いっそ長門で首吊ろか」と謳われた程の厳しさの原点であったらしいです。


作者親戚(元長門艦通信科所属)は当時は乗組んでいませんでしたが、このお話は月曜の教育日課や善行章をつけた先輩からもよく聞かされていたそうです。


しかし、今もって謎の多いこの逸話の速度。レイテ沖でも最大戦速の大和艦と並走していた、との逸話もある長門艦は実際、何ノット出せたんでしょうね? 新たな資料の発見が待たれます。

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