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第二四話 「神戸と紀元節」

 2月3日の出航時、館山(たてやま)は大粒の雨と霰が降り注ぐ荒れに荒れた天気だった。台風の暴風雨にモロに入ったような豪風と横殴りとなった霰混じりの雨が、第二艦隊の各艦を機銃弾のように襲う。どす黒い雲が立ち込めて薄っすらとしか見えない、舷窓の向こうの水平線。まるで飛騨(ひだ)山脈のように峰が連なっているかのような、海面から生える波の山と谷。

 だが第二艦隊は2月11日の皇紀2600年紀元節の祝賀行事を迎える為に、この荒波狂う太平洋の海原に繰り出していった。太平洋のうねりは高く、猛烈な風に巻き上がる波浪が第二艦隊各艦の上甲板を手荒く洗う。後にこの地獄を体験した者が語るには、「これ程の時化にあった事、海軍生活において無し。」と記す程の酷い天候であった。





 もちろんこの天候によって新兵が多い艦では重度の船酔いに襲われる者が続出した。乗組員の半分以上は軍属の民間人である明石艦もその例に漏れず、艦内各部での(かわや)では胃の中の物を吐き出す者が相次ぎ、ぐったりとした青い顔色の乗組員達で厠前の廊下は占領される。せっかく作ってくれた夕飯も今日は料理が残されたままの皿が烹炊所には多く返却されてしまい、川島(かわしま)主計長も残念そうな顔をしていた。


 そして(ただし)の部屋にもそんな乗組員と同じ苦しみを味わう、でもそれがとっても不自然な困った奴が一人いた。


『大丈夫か、明石(あかし)?』

『ぅぅぅ・・・・・・。』


 四つん這いで忠に背中を擦られ明石は彼が用意したバケツに向かって顔を垂れ、電動機のような唸り声をその口から漏らす。それを介抱(かいほう)している忠なのだが、いくら相方でも女性の身体をベタベタと触る事には慣れていない。最初の内はちょっと気が引けていた彼だったが、バケツの中に溜まった彼女の胃袋の中身がそんな事を忘れさせた。

 青ざめた顔に虚ろな目で苦しみの唸り声を発する明石艦の艦魂、明石。

 艦魂とは艦艇に宿る精霊のような物らしいが、その艦魂が船酔いに悩まされるている。なんとも馬鹿げた話である。18か19歳くらいの整った綺麗な顔立ちと細くてスラッとした身体つきを持ち、見てくれは結構良い明石ではあるが、そんな彼女に対して今の彼からは女性としても艦魂としても尊敬の念が消え失せていた。


 アンタ、本当に艦魂なのか?


 そんな言葉さえ脳裏を過ぎって行き、やがて呆れた彼の溜め息が発せられる。すると明石はその溜め息に少しムッとして顔を上げた。青ざめて力が(こも)らないながらも眉を僅かに吊り上げて口を開きかけた明石だったが、すぐに腹の奥から込み上げてくる吐き気に襲われて顔をバケツに戻した。


『ぅぅえぇ・・・!』


 一際大きくなった彼女の唸り声と供に、バケツの底から耳障りの悪い音が響いてくる。


 ダメだ、コイツ・・・。


 彼女と知り合って、何度そう思った事であろう。忠は心の底から明石に呆れながらも、苦しむ彼女の背中を(さす)る手に少し力を入れてやった。温もりが消えかけているその背中を暖めるように、彼はその日は一晩中、明石の背中を擦ってやるのだった。





 昭和15年2月8日、第二艦隊は大阪湾に到着。

 今やロンドン、ニューヨーク、ハンブルクと並ぶ世界4大海運都市との誉れも高い、神戸(こうべ)市沖に錨を下ろす事になった。この神戸市は昨年には東京、大阪、名古屋に続き、人口が100万人を突破した国内屈指の大都市である。呉に近かった事からそこに在泊していた艦艇も何隻か来ているようで、一際大きな長門(ながと)艦と陸奥(むつ)艦、伊勢(いせ)艦で構成される第一戦隊が神戸港に投錨していた。あれ程の大型艦が桟橋に停泊している、それはこの地の水深に相当の余裕があることを意味する。

 第二艦隊は官立神戸高等商船学校沖に投錨した。新鋭艦の多い第二艦隊は一般人の目に付かぬように、との配慮だったらしい。


 神戸高等商船学校は、大正20年に東京高等商船学校に続いて、帝国で2番目に官立高等商船学校として昇格した由緒ある商船学校である。その前身は川崎造船所の創立者とそのご令息が設立した私立川崎商船学校であり、その生徒は全て海軍予備生徒とし有事の際の予備士官となる責務が課せられていた。

 それは川崎造船所その物が軍艦建造を請け負って来た事ともあながち無関係ではなく、同造船所には日本初の民間造船所による戦艦建造計画として榛名(はるな)艦の建造を請け負った事から始まる輝かしい歴史がある。そして榛名艦建造時、三菱長崎造船所で同時に建造された霧島(きりしま)艦との間で勃発した激しい建造競争は海軍でも有名であり、その際に機関試運転の不備によって川崎造船所側は建造計画が遅延。それが響いて三菱長崎造船所の霧島艦が先に進水してしまい、責任をとって自刃したという篠田(しのだ)造機工作部長の悲劇は神戸川崎造船所の名とその想いを天下に知らしめた。

 そんな事から海軍からの覚えがめでたい川崎造船所と関連する神戸高等商船学校付近は海軍関係の仕事を引き受ける人々が多く住んでおり、防諜の面でも呉海軍工廠と同じ環境にあるとあって新鋭艦の多い第二艦隊の泊地としては最高の条件だったのだ。

 ちなみに忠や明石に近しいところでは、この神戸川崎造船所は神通(じんつう)の生まれ故郷である。






 泊地に到着して明石艦が投錨するとすぐに、艦隊各艦から要修理品を載せた内火艇やカッターが艦の周りに蟻のように群がってきた。先日の大時化でどの艦も軽微な損傷を被ったようで、修理品の大半は各艦の艦橋外側に設置されている双眼鏡、機銃や高角砲の照準機器関連であった。中には旗竿がひん曲がってしまった艦もあった。


 上陸を期待していた明石艦乗組員達だったが、海軍工廠ではない当地での修理補修は明石艦が受け持つしかない。その為に今日は朝から乗組員総出での工作部支援を行う事となった。忠が所属する砲術科では、物品搬送の作業全般と機銃の各備品を対象とした軽修理、それらの清掃が当てられた。


 穏やかな陽の光りが降り注ぎ、呉と似た暖かい風が流れていくという至って過ごしやすい今日の艦首甲板。艦首旗を掲げた旗竿から第一主砲までの間に天幕を拡張し、直射日光を避けながらの地味な作業。だが普段のこうした努力が、帝国海軍連合艦隊の戦力維持に繋がっているのだ。その想いを胸に秘めた砲術科の面子は、ウェスや洗箒頭(せんそうとう)を片手に分解した機銃の各備品を念入りに整備する。


 工作部で保管してある交換用のレンズを高角砲の照準用望遠鏡に取り付ける忠は、やっと一つ目の望遠鏡の修理が終わった所だった。海に落とす訳には行かない高価なレンズを取り扱う為、彼はいつもの持ち場である発令所の中で作業をしていた。ピンセットで持ったレンズが、彼の手につられてカタカタと震える。忠は極めて真剣な表情を浮かべながら片目を閉じてレンズを入れる溝を睨み、そーっとレンズを近づけてゆく。レンズの先端が溝に嵌った事でちょっと気を緩める忠だったが、ホッと一息つくと同時にレンズはポロッと外れて胡坐(あぐら)をかいた彼の足の上に落ちた。


『はあぁぁぁ〜・・・。』


 落胆の溜め息が意識しなくても彼の口から発せられる。自分があまり手先が器用ではない事を、彼は(うつむ)いて悔やんだ。忠のそれは望遠鏡を相手に格闘し始めて、既に10回以上も繰り返されている。(ひざ)の辺りで太陽の光を受けて輝くレンズは、まるでそんな彼をケラケラとあざ笑っているようだった。


『ちっくしょ〜・・・。』


 頭を荒く二、三度掻いて忠はそう呟くと、再びピンセットでレンズを挟んで望遠鏡の溝に向かって慎重に、だがまたもカタカタと手を震わせながら近づけてゆく。




 その様子を振り返って微笑む明石は、すぐに顔を正面の患者に向けた。彼女が腰掛ける椅子とは向かい合う位置に置かれた椅子、そこには艦魂による行列の先頭の人が腰掛ける。

 朝から始まった第二艦隊所属艦魂の健康診断、それは軍医少尉の明石のお仕事である。


 主力の各戦隊や二航戦の空母の艦魂達は階級が高く、身体そのものが丈夫であった事もあって既にその診断は終わっていた。むしろ第四艦隊事件や友鶴(ともづる)事件等での影響が大きい、駆逐艦の艦魂達が明石には気になっていた。館山沖での猛烈な時化を潜り抜けてきたからである。あれだけの大時化の海を衝突事故を起すことなく突破して来れた第二艦隊所属艦の艦魂達に彼女は感心していたが、神戸に到着してからのいきなりの要修理部品の山に驚いた明石はすぐさま全員の診断を第二艦隊旗艦の愛宕(あたご)に要請した。艦隊の中で唯一人、赤線の入った階級章をつけている彼女の意見具申を受け、愛宕はそれを了承。その結果が今の光景である。


 机に体を捻ってサラサラと診断表に鉛筆を走らせる明石。記入の終わった診断表を脇に寄せ、新しい診断表を用意しながら彼女は声を上げた。


『次の人〜、お名前はぁ?』

『二水戦、神通だ。』

『およ? なんだ、神通かあ。』

『ふん。』


 明石はそう言って机から椅子に座る神通に笑顔を向けた。神通も(わず)かに微笑むと、いつもの短い口癖を静かに放つ。ふてぶてしく脚を組む彼女からは、どこか具合が悪いという雰囲気が微塵(みじん)も感じられない。

 やがて明石は微笑んだまま神通から再び机に体を捻り、診断表の上の項目から順に鉛筆を走らせる。


『上着のお腹の辺り、開けておいてね。』


 そう言いながら軽やかに鉛筆を走らせる明石。神通は明石の声に従い、濃紺の第一種軍装のボタンを腹の辺りから外した。問診を始めようとするも、勝手知ったる神通のそれは聞かなくても明石には解る。明石は(つぶや)くように声を発し、診断表の項目に記入し始めた。


『お酒は、・・・飲む。煙草は、・・・吸わない、と。今まで、大きな怪我は─。』


 声を詰まらせた明石の表情が固まり、手に持っていた鉛筆の動きが止まった。彼女の言葉の最後の方で神通も寂しそうな瞳をして眉をひそめる。その内に自然と二人の曇った表情を湛えた顔は俯いてしまう。


 美保ヶ関(みほがせき)事件。


 二人の脳裏に浮かんだ言葉。

 神通は目を閉じながらも(まぶた)の裏に昨日のように鮮明に浮かび上がってくる情景と、それに(まつ)わる無念さに耐えていた。同時に明石も視線を動かさずともそんな神通の表情に気づき、すぐにその心を撫でてやるように明るいながらも静かな声をかける。


『ごめん、した事あったね・・・。』

『ふん・・・。』


 短くて無愛想な神通の返事だったが、その声色には彼女なりの感謝の念が込められていた。二人にしか解らない会話がそこにはしっかりと成り立っている。そして二人の表情からは曇りが消えていく。

 ちょっと気まずい空気をその場に発生させてしまった事に明石は僅かに笑みを歪めると、すぐに鉛筆を再び動かし始めた。


入渠(にゅうきょ)修理歴、有り、と・・・。』


 言い終えて鉛筆を机に置いた明石は、向かいの神通に身体を向け直す。彼女と一瞬だけ笑みを合わせると、明石は神通の服の開いた所から手を入れて触診を始めた。軍医としてそこそこ経験を積んできた明石は慎重に神通の身体のあちこちを触れて異常の有無を確かめながらも、同時に声を掛けて問診の続きを行える程になっていたりする。神通の後ろで列を作る彼女の部下達はその達者な診断に感心していた。


『最近の身体の調子はどう?』

『いつも通りだ。特に変わった所はない。』

『睡眠はしっかり取れてる?忙しいからって、寝る時間、削ったりしてない?』

『いや、最近はそうでもない。』


 淡々と進められる明石の触診と、神通との会話。

 その時、明石の後ろで苦闘する青年がまたもやピンセットで挟んだ物を落とし、『ああぁ・・・!』と悲痛な声を上げる。その光景に神通と明石はクスクスと笑い、二人の間に張り詰めていた軍医と患者としての空気は取り払われた。笑いを堪えながらも触診と問診を続ける明石に、その空気を堪能するかのように神通は声を返す。


『なにか悩み事とかはない?気苦労は身体に毒だよ。』

『今、帝国海軍一のヤブ医者に診断されている。これじゃ診断結果が気になって、夜も眠れん。』

『ふふふ。なにお〜。』


 神通の憎まれ口を受けて、僅かに引きつった笑みをして明石は触診を続けた。

 彼女が冗談を言う時は、余程機嫌がいい時である。それを知っている明石は嬉しそうに笑っていたが、ちょどその時に触れた神通の脇腹でその手を止めた。明石は何度か手に伝わる感触を確かめて、顔を床に向けて俯く。

 これには神通もさすがに驚いて表情を変え、前髪で隠れた明石の顔を覗き込んで声を掛ける。


『ど、どうした、明石・・・?』


 珍しくうろたえた声を上げる神通に、彼女の後ろで列を作って並んでいる部下達も視線を集める。そして神通の声を受けてゆっくりと顔を上げた明石はニヤリと歯を見せて笑うと、先程の復讐とばかりに彼女に言い放った。


『にしし! ちょっと太ったでしょ!?』

『『『えええええ!!』』』


 神通の背後にいた少女達が驚きの余りに声を上げる。細かい作業に四苦八苦しながらも、それとなくそのやりとりを耳に入れていた忠もつられて顔を上げた。

 体重は自己管理の成績表とも言われる。いつも怖くて厳しくて鬼の二水戦戦隊長の異名をとる神通がまさかの自己管理失敗など考えられない事であり、その場にいる神通と明石以外の全員が驚愕したのだ。

 明石は『ざまあ見ろ!』とでも言いた気にケラケラと笑っていたが、その姿を見て忠は額に手を当ててうな垂れた。いくら仲が良いと言っても、怒らせる相手を完全に間違えているからだ。そして突如としてその場に立ち込める強烈な殺気を察知し、相方の無茶振りに彼は呆れ果てた。


 馬鹿だろ、アンタ・・・。


 彼がそう思った瞬間、予想された神通の怒号が響き渡った。


『ここ、こ、この馬鹿がぁあああ!!!』


 彼女の咆哮と同時に、ガツン!!と鈍い音が発せられる。


『ぐげぇっ!!!』


 聞き慣れた声の悲鳴も彼の予想通りであった。忠は恐る恐る片目を開けて、悲鳴がした方に視線をゆっくり流す。そこには椅子から転げ落ちて頭を押さえながら悶絶する明石と、恥ずかしさの余り赤面しながらも眉間にしわを寄せて床に転がる馬鹿を見下ろす神通が立っていた。長い神通の前髪の付け根の辺り、そこには小刻みに脈動する血管が浮き出ている。完全にご立腹のようだ。『ふん!』と吐き捨てるように言うと、神通はクルッと踵を返して発令所の出口へと歩いてゆく。肩を張って立ち去ろうとするその後姿が、彼女の心境をよく物語っていた。

 そして神通が振り返った先では、驚きの表情でその退治劇を見ていた少女達が、神通が振り返ると同時に目を合わせないように顔を各々の思った方に向けた。帝国海軍でも有名な癇癪(かんしゃく)持ちの上司から逃れようと、物凄く白々しい声での会話が響き始める。


『あ、あれ!? 今日って何曜日だっけ・・・!?』

『ば、馬鹿だなあ! 昨日、カレー食べたでしょ・・・!』

『み、みてよ! あ、あんなところにカモメ・・・!』


 涙ぐましい少女達の努力である。神通が横を通り過ぎる度に、そこにいた少女はビクンと身体を震わせていた。伊達に彼女達も二水戦で頑張ってきた訳ではない、この手の危機回避能力は上司のおかげで天下一品である。唯一人を除いて・・・。



『・・・・・・。』


 口に手を当ててキョロキョロと視線を振る(あられ)

 彼女もまたどうにかして切り抜けようと考えを巡らせていたのだが、生来トロい性格の彼女には結局策が思いつかない。とりあえず神通とは目を合わさないように視線をちょっと低くしていたが、明石が放った言葉が彼女には気になり始めて仕方が無い。無意識に霰は横を通り過ぎようとする神通のお腹をまじまじと眺めており、当の本人がそれに気づいて立ち止まってもその視線を逸らさなかった。周りの仲間達はそれに気づいてざわめくが、自らがとばっちりを受ける事を考えると差し伸べる手も引っ込んでしまう。


『・・・・・・あ。』


 やっとの事で我に戻った霰だったが視線を上げた先に有った上司の顔に、霰の首筋には冷や汗がダラダラと浮かぶ。謝ろうにも余りの恐怖に霰の身体は動かない。もっとも動いたところで、それは無駄な努力である。言わずもがな、もう遅かった。


『あう、あ・・・。す・・・、す、すみま─。』

『おらぁあああ!!!』


 霰の頭にげんこつが振り落とされた。咄嗟に目を(つむ)る仲間の少女達と忠の耳には、鉄の塊を思いっきり蹴り飛ばしたような重い衝撃音と可哀想な事この上ない少女の悲鳴が届いた。


『はうっ・・・!!!』


 ベッコリとへこんだ水兵帽と供に、霰はその場に崩れ落ちた。

 ああなってしまった神通は那珂(なか)ですらとめることは出来ない。むしろ霰を成敗した後、さっさと立ち去ってくれた今日は運が良い。神通が白い光りを放って消えた事を確認し、残された少女達は大きなタンコブを作って目を回す明石と霰を介抱しにかかる。余程の力が込められたげんこつだったらしい、二人が意識を取り戻すのはその後しばらく経ってからだった。

 騒がしい一日で、忠の仕事はちっとも(はかど)らなかった。





 2月11日、この日は皇紀2600年の紀元節である。前日に第二艦隊乗組員達は一斉上陸し、軍用列車を使って奈良県の橿原(かしはら)神宮に移動。神武(じんむ)天皇が即位したまさにその地で盛大な祝奉式典が行われ、これに参加する事となったのだ。この日は橿原神宮だけではなく全国津々浦々の神社という神社では同じように式典が執り行われ、その数は11万箇所以上にも及ぶという。


 明石艦では宮里艦長が上陸隊を直卒、幹部連中も科長格は全て出払った。しかしだからと言って艦を無人にするという事は無い。居残り組みは必ずいるもので、その殆どは経験が浅い新顔の務めとされる。その中には当直将校を命じられた忠の姿も有った。


 士官食堂の前の通路。

 艦内で最も広い通路となっているそこには、艦内神社にお神酒や甘いお菓子を載せた碗を備える忠とそれを手伝う明石の姿が有った。今日は艦内には50名程の乗組員達がいるだけで、普段は乗組員達の往来が最も激しいこの場所も静かなものだった。響くのは二人の会話と、お供え物を置く時に発せられる物音だけである。

 食堂から持ち出した椅子を踏み台代わりにして、忠は通路隔壁の一番上に設けられた神棚に手を伸ばしている。決して大きくない明石艦の艦内神社であるが、ささやかに紀元節を祝おうとする二人の表情は明るい。踏み台の下にいた明石は小さなお皿に羊羹を2切れ乗せて、やがてその皿を忠に差し出した。


『これで最後。どう、乗りそう?』

『うん、大丈夫そうだ。よっ、と。』


 忠は皿を受け取ると神棚の最前列にお皿を置いた。周りにはお神酒の入った杯、甘納豆や甘栗等が入った碗、工作部に頼まれて置いてやった小さなハンマー等がひしめき合っている。随分とごちゃごちゃとした神棚になってしまったが明石はつま先立ちで神棚を覗き込み、その豪華な様に喜んでいた。

 椅子から降りた忠は廊下の端に椅子をどかすと、捲くっていた袖を戻して姿勢を正す。二度腰を折って深々と頭を下げ、拍手を二回打つ。乾いた音が艦内通路に響き、賑やかな神棚を少しだけ荘厳に見せた。参拝の仕方がわからない明石は彼の動作を見よう見まねで真似する。顔の前で手を合わせる忠に続き、彼女も手を合わせて目を閉じる。

 今日より2600年の昔、我らが天皇家の祖が誕生した。その遥かな時の流れと今も続くその御稜威(みいつ)に、二人は心を正した。


 これからもどうか我らに、幸と栄光をお与えください。


 そんな言葉を脳裏に浮かべた二人は、手を下ろすとお互いに笑みを合わせる。

 今日は艦内に殆ど人はいない。それは明石と部屋以外で行動する上で、忠が彼女に対して気づかれないようにと努力する必要が無いと言う事だ。また、艦内での最高責任者が今日は忠である。当然の様に日課は無く、好き勝手し放題の一日なのだ。そんな今日という日が二人の話し声を弾ませるのは、当然と言えば当然であった。


『さて、もどるか。』

『今日は上陸しないの? 神戸って美味しい物、いっぱいありそうだよ?』

『できるわけないだろ。今日は一日、艦の中にいなきゃダメなの。』

『うえ〜、つまんね!』

『しょうがないだろう。まったく・・・。』


 ブーブーと文句を言う明石といつもの通り彼女の無理難題の相手をする忠だったが、二人の表情は明るかった。

 軽い足取りと弾むおしゃべりで発令所に戻る二人だったが、着いたそこには意外な人物が待っていた。


『おいっす〜。』


 忠の机の上に脚を組んで、ふんぞり返ったその人物。軍帽の無い頭から伸びた腰まである長い黒髪と、ボタンを全て外して羽織るように袖を通した第一種軍装。そして服の開いた隙間から覗く、その人物の分身についたバルジのように張り出した胸。片手を上げてひらひらと手を振る彼女の顔に、明石はびっくりして声をあげた。


『長門さん!』

『二人とも、久しぶりだねぇ。元気だった?』


 ニコニコと美しい笑顔で迎えてくれた長門は、駆け寄った明石を抱きしめた。帝国海軍艦魂の総大将でありながらも、これ程親近感が持てる程に朗らかな人柄がこの長門の特徴である。

 忠にとっても明石にとっても暫く振りの再会だが、明石と同じマイペースな性格の彼女はもうひとつの特徴の方もちっとも変わっていない。


『どうしたんですか、長門さん? いきなり現れたから、ビックリしましたよ。』

『や〜、紀元節の式典がメンドくさくってさ。ちょうど愛宕も来てるから一戦隊の艦で合同でやろうって話になったんだけど、メンドいから陸奥に任せて逃げてきた! あはははは!』

『おいおい、良いのかい?』

『あの子達、みんなカタいんだもん。つまんないのよぉ。』


 なんたるアバウト。


 長い髪で隠れているが、この長門の襟には中将の襟章が輝いている。そしてその立場は連合艦隊旗艦でもある程の大人物なのであるが、公務だろうがなんだろうがすぐに投げ出して逃げ回るのがこの長門という艦魂だった。

 彼女もまた明石と同じように長身だが、細身の明石や神通とは違って肩幅が広い。顔が小さい事もあるのだろうが、決して太ってはいない体型ながらも彼女にはどっしりとした存在感が備わっている。見た目は神通や那珂と同じくらいの大人の女性であるが中身は不自然なくらい子供っぽさがある長門は、明石を胸の中で抱きながら忠に手を差し出してきた。5本の指を反るように広げて長門は口を開く。


(もり)クン。アタシ、腹減った! なんかない?』


 声は違うが、その態度と言葉遣いはまるで明石とそっくりである。長門の問いを受けた忠は何も無い両手を肩の高さで広げてみせ、苦笑いして声を返した。


『なんもないよ。オレは今日はお留守番なんだ。』

『うは! つ〜まんね!』

『あははは! つ〜まんね!』


 長門はそう言うと無邪気な笑みを浮かべる。そのハッキリとした物言いを耳に入れ、明石も彼女の真似をするかのように同じ言葉を発した。


 やれやれ、手のかかる人がまた一人増えたぞ。


 笑みを歪めて頭を掻く忠だったが、久々の再会とどこか相方と似た雰囲気を持つ長門の声は彼の気持ちを不機嫌にはしなかった。

 サンサンと入り口から差し込む陽の光りが当たる床に腰を下ろし、忠は煙草に火をつけながら長門と明石の会話に耳を澄ます。お互いの近況から始まった会話だったが自分に乗組んでいる連合艦隊司令部の情報等を長門は教えてくれ、どれこれも初耳な事ばかりであった明石と忠は目を輝かせてその話に耳を傾けた。意外にも博識な長門は冬戦争や昨年実施された海南島占領作戦、支那戦線の状況から果ては新型の艦船の話題等、その話の内容の幅はとてつもなく広い。

 一度、話の途中で『その知識の情報源はなんなのか?』と忠は質問したが、帰ってきたのは彼女らしい返答。


『山本長官がお風呂入ってる隙に、長官室に忍び込んで書類を漁ったのよ! あはははは!』


 女性としても人物としても艦魂としても、帝国海軍随一の変な人であった。





 この日は、昼間は逃亡中の長門によるおもしろ話で笑い、夜には長門を加えた明石と愉快な仲間達の大宴会が催された。留守番を任されて盛大な式典に参加できなかった忠だったが、彼の皇紀2600年度紀元節は楽しいの一言に尽きる一日だった。

 その夜は人間と、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、特務艦の艦魂が入り乱れて騒ぐという、希に見る変化に富んだ夜だった。

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