第二三話 「涙と缶詰と雪風」
昭和15年1月16日。
第37代内閣総理大臣として、海軍大将の米内光政が陛下より組閣の大命を拝した。
前々回の内閣である平沼内閣での海相時代、彼は現在の連合艦隊司令長官である山本中将と供にファシズムと号した独伊政府との提携に猛反対した事で知られる。しかし既に世論においては独国の人気が高く、独国との同調を拒否し続けてきた彼に対する国民の目は冷ややかだった。
そして昭和15年1月26日。
この日をもって昨年より米国政府より通告された日米通商航海条約がついに失効となった。石油輸入量の90%を依存する相手国に対して、日本は無条約状態という事態に陥った。この事で米国との貿易が一切禁止になった訳ではないが、国際政治の社会においてその状態が如何に異常であったかを彼らが思い知る時、そこに用意されていたのは行き先が一つの線路だけであった。
ここに米国の日本に対する経済制裁が始まったのである。
昭和15年1月31日。
第二艦隊は横須賀海軍工廠から、千葉県館山湾に泊地を変更。同日中には館山沖に全艦が錨を下ろした。
房総半島南端に位置する館山市は昨年に市制が施行されたばかりの真新しい都市であるが、その地は幕末より帝都防衛の砦として機能してきた。東京湾の入り口に当たるこの地は帝都防衛における前哨陣地のような物であり、付近には明治の頃に築かれた砲台が無数にある。その中でも古い物では、それ以前の黒船が来寇した際に築かれた物まであるという。
またこの地にある館山海軍航空隊の基地は、日本で5番目に設置された歴史のある航空基地であった。
館山基地の大きな特徴はその飛行場の立地条件である。大正12年の関東大震災で隆起して誕生した浅瀬を埋め立てる事によって造成された本基地は、湾内である為に波が静かで水上機の運用が可能な事、海岸から突き出した敷地の為に一般人の目に触れにくい事、そして旧航空廠や海軍施設が集中する横須賀に近い事等から最新鋭機や試作機を存分に運用できる数少ない航空基地なのである。また大型の機体でも使用可能な程に滑走路には余裕があり、渡洋爆撃の言葉で有名になった中攻、すなわち九六式陸上攻撃機はここを開発の舞台とした。
さらには翌年、横須賀に次いで海軍砲術学校が置かれる予定の地もここであり、市街地には基地職員や生徒目当ての下宿、食い物屋、遊郭や飲み屋等が軒を連ね、鎮守府が置かれる地と並べても遜色のない立派な海軍都市でもあった。
泊地に向かう途中、忠は早速その館山ならではの光景を目にする事になる。
明石と供に覗く、発令所の舷窓の向こう。そこに広がった海面には、帝国海軍最新鋭空母の飛龍艦と蒼龍艦が全速力で航行していた。中型空母と識別されるこの2艦は排水量こそ2万トンを下回るほどでしかないが、長門艦とほぼ同じ長さの艦が駆逐艦並みの30ノット以上の速度で疾走するというその姿はとても勇壮だ。舳先で切り裂かれた波飛沫が、吹流しのように両艦の乾舷に靡いている。マストに掲げられた軍艦旗はのりで固めたかのように綺麗な長方形を維持しており、甲板で発生しているであろうその風圧がどれ程の物であるかを物語っていた。
『あ、きた!』
そう言って明石が指差した空の一角には、館山基地から飛び立った九六式艦戦9機と昨年12月に正式採用されたばかりの最新鋭機である九九式艦爆3機が飛んでいた。銀色の同体に真っ赤な尾翼という塗装の機体は、青空にキラキラとその身を輝かせている。その姿はまるで清流の中を泳ぐメダカのようだ。
彼等は揃って3機ずつの編隊を組んで二航戦の上を何度か通過して目標を確認すると、今度は編隊を解いて高度を下げ、単機となって飛龍艦、蒼龍艦の艦尾に向かって近づいていった。
忠と明石、そして明石艦乗組員達の大半もその光景に目を輝かせる。滅多に見れない艦載機の空母への着艦行動である。おまけに空母、艦載機とも最新鋭。彼等がわくわくするのも当たり前だった。
小刻みに点灯する発光信号で誘導を受けながら、飛龍艦と蒼龍艦に着艦していく友軍機。フラフラと翼を左右に緩く振りながら、まるで小鳥が木の枝先にとまるようにゆっくりと2艦の甲板に舞い降りていく。竣工して間もない飛龍艦の方に、多くが着艦していった。
『飛龍には、あれが初めての自分の艦載機だよ。喜んでるだろうなぁ。』
そう呟いた明石は飛龍艦を優しげな笑みで眺めていた。彼女が口にした人物と忠は会った事が無いのだが、もちろん目の前のあの艦にも艦魂は居る筈である。彼は遠退いて行く二航戦からすぐ隣にいる明石に顔を向けて声を返した。
『飛龍や蒼龍はどういう人なんだい? やっぱ階級は高いのかい?』
『うん、二人とも階級は、一応私と違って兵科の士官だよ。でも私とは同期だけどね。』
言い終えた明石は忠に顔を向けた。少しだけ歪めたその笑みに、なにか彼女が含んだ物があるらしい事を相方の彼はすぐに悟る。すると明石は片手で頭の後ろを掻きながら続けた。
『えへへ。ホントは愛宕少将のトコで会った事しかないから、そんなにお話した事は無いんだ。まだ若いけど、会った感じは二人とも明るくて良い人だったよ。』
決して親しい間柄ではないそうだが、彼女が「良い人」と認識したのならばきっとその通りなのでろう。忠もまた明石に笑みを返して、その話をしばらく続けた。
ちなみに明石が言った愛宕少将とは、第二艦隊の旗艦である第四戦隊所属の重巡・愛宕艦の艦魂の事である。
愛宕とその姉に当たる高雄は常設で歴史もある第二艦隊の旗艦を竣工時から確約されており、数ある巡洋艦達の中でも艦魂の階級相場に対して飛び抜けて高い階級を頂いている。故に二人の階級は、連合艦隊旗艦の長門とは1階級しか違っていない。もっとも肩書きだけではなく支那事変への実戦参加は勿論、時にはその旗艦設備を充実させた機能をもって、皇陛下をもご乗艦させるという輝かしい経歴も彼女達は持っていた。その立身出世物語は艦魂社会でも有名であり、神通や那珂を含めた下級将校に当たる巡洋艦艦魂の中では金剛型戦艦と供に憧れと尊敬の的であった。
『蒼龍と飛龍はやっぱり姉妹なのかい?』
『うん。でも、ぜ〜んぜん似てないんだよ。』
『ん? 似てないの?』
忠の問いに、明石は二人のその姿を思い出してクスクスと笑い出す。霞と霰、神通と那珂のように性格は違っても体型や顔つきが良く似ているというのが、忠がこれまで見てきた艦魂たる者達の姉妹像であった。だが眼前で海面を駆けていく飛龍と蒼龍は、その限りではないのだという。
『ふふ、なんでだろうね。艦影が違うからかな?』
ひょいっと明石が指差す舷窓の向こう、忠もまじまじとそこにある2艦をよく眺めて見た。普段余り空母という物を見た事が無かった彼だったが、この時初めて両艦の違いが解った。蒼龍艦は船首の甲板が一段低く艦橋が右現前方にあるのに対し、飛龍艦は一段高い船首甲板と左舷中央に艦橋があるのである。先に建造された蒼龍に対しての不具合解消と、帝国海軍独自の新機軸を盛り込んで飛龍艦が建造された事による物であった。
なるほど、確かに形が違う。
忠は明石の言った事に納得して大きく頷く。その姉妹の姿は見れないまでも、彼は艦魂の複雑な存在の仕方の一端をよく理解した。
2月1日、館山湾での仮泊から一夜明けた。
忠は今日も元気に発令所に顔を出すと、青木砲術長より今後の予定を聞かされた。
青木大尉によると第二艦隊はこの地より南の太平洋上で訓練すると思いきや、ここで艦載機全ての補修と整備を行うだけらしい。3日には抜錨し、皇紀2600年の祝賀行事に参加する為に大阪へ向かうとの事であった。
第二艦隊の艦載機という物は空母搭載の機体だけではなく、各戦隊と水雷戦隊の巡洋艦が持っている水上機も含まれる。そして湾内にある館山海軍飛行場には水上機の受け入れ用にスロープ状になった部分が設けられており、波の静かな館山湾の恩恵もあって該当の水上機達は水上滑走のみで整備に向かっていった。特に第八戦隊の利根艦と筑摩艦は搭載機数が多く、海面に下ろした所属の水上機が一列で飛行場に向かっていく姿は鴨の親子のようだ。
だが鴨は鴨でも、その水上機達は鴨の皮を被った鷹でもある。九五式水上偵察機という名を持ち、偵察機ながらも支那戦線では敵戦闘機と渡り合って撃墜した記録もあるという世界に誇る飛行性能を持っていた。
その勇壮ながらも今日の青空を流れる雲のようにのんびりとした光景を、忠は発令所で煙草を吹かしながら眺めている。艦隊訓練が無く、艦載機の無い明石艦にとっては久々の暇な一時である。泊地に着く度に明石艦には各艦から要修理品の持ち込みが行われるが、つい昨日まで横須賀海軍工廠に停泊していた為か、今日はどこからも修理依頼は入ってこなかった。
商売をした事が無い忠だが、開店休業状態という言葉を一人納得。咥えていた煙草を指で挟み、机の灰皿の上で一度揺らした。しかしポトリと落ちる灰の塊は、灰皿からそれて机の上に落ちてしまった。
やれやれ、見られたらまた明石に怒られる。
そう思いながら灰皿を机の端に寄せ、彼は机の上に落ちた灰の塊を手で払う。塵になって宙を落ちていく灰は、発令所に流れ込んでくる風に乗って入り口から抜けていった。そしてふと脳裏に浮かんだその言葉に、忠は艦魂のお仕事とやらに向かった彼女がもうすぐ戻ってくるであろう事を予感した。
明石曰く、月初めの日は第二艦隊所属の各戦隊長が一同に会して、月毎の打ち合わせを行っているのだという。もちろん自分で艦を動かす事の出来ない彼女達ではあるが、艦隊各艦での異常の有無、訓練の成績、他の艦隊から伝えられる現状等、かなり広い範囲にまで議題が及ぶ本格的な大会議であるらしい。艦隊旗艦設備が整った第四戦隊の高雄艦で会議は行われ、豪華な内装が施された艦隊司令部用会議室を使用するとあって、当の出席者達は堅苦しい会議の参加であっても満更でも無いというのが実情だそうである。明石が朝からはしゃいで服や髪型をイジっていた事に、彼はそれをよく理解した。ちなみに旗艦である愛宕艦を使用しないのは、そこに本物の第二艦隊司令部があるからであるそうだ。
『ただいま〜。』
発令所入り口から呆けて飛行場を眺めていた忠は、反対側の入り口から響いてきた相方の言葉で振り返った。明石は存分に豪華な造りの会議室を堪能できたのか、満足そうに微笑んで発令所に入ってくる。忠の『おかえり。』の言葉を聞きながら、彼女は忠の机にある椅子に腰掛けた。だが木製の椅子のその座り心地があまりにも先程まで座っていた椅子と違うらしい。笑みを崩さないまでも、ちょっと口を尖らせて明石は声を上げ始めた。
『んも〜。もっと良い椅子を使おうよ、森さん。』
『ははは、高雄艦や愛宕艦じゃないんだ。これで充分─。』
『椅子は大事だよ?座り方一つで体の姿勢も決まるし、背骨にクセがついて立ち方まで変わっちゃうんだから。』
『そんな、大袈裟─。』
『森さ〜ん、なってからじゃ遅いんだよ? それに、もしそうなったら誰が治すと思ってるの?』
アンタが治すとでも言うのか?
いくら軍医の艦魂とは言え、普通の人間は身体に異常が出たら病院に行くに決まっとろうが。
激しく間違っていて、それでいて彼の意見など眼中に無い明石の言葉にいつも通りにツッコミをいれる忠だが、決して彼は不機嫌になった訳ではない。早い物で知り合って半年近くにもなる彼には、そんな明石とのちょっとズレた問答は日常茶飯事である。当の明石にしても、目を閉じて溜め息をする彼をケラケラと笑うのが常だった。
暫くそんな調子での会話を続けて今日の会議の内容を明石から聞いていた忠だったが、ふと白い光りが発令所の入り口の向こうで光ったのを認めた。すっかり馴染んだその光り。ところがいま目の前にのあるその光りは、なにやらいつもよりも発光の仕方が激しい。太陽のようにギラギラと光り、やがて淡い感じが無いその光りが治まると、そこには第二艦隊の犬と猿として名が知れた二人が姿を現した。
『『ああ!!』』
その姿を現すなり二人はお互いの顔を見て眉をしかめた。他人の家に来た感覚も目の前に居るその主への挨拶も忘れ、二人の罵りあいが始まる。
『猿!! なにしにきた、てめぇ!』
『アンタこそ、何しに来たのよ! 雪風!!』
血気盛んを地で行く霞と雪風の声。
どうにもこの二人は反りが合わないらしい。一度、獲物を捕らえたら逃さないその集中力や発揮の仕方、訪れてきた際のタイミング等はこんなにも良く似ているのだが困ったものだ。
お互いに『ガルルル!』と鼻息を荒くする二人だが、額に手を当てていた忠が止めに行こうとして灰皿に煙草を押し付けている間に、明石が椅子から立ち上がって歩み寄って行った。ガシっと二人の首根っこを掴んできた彼女の顔に二人は気づくと、冷や汗を流し始めて大人しくなる。その明石の表情は忠からは見えないが、荒れていた頃の神通と真正面から喧嘩できた唯一の存在として艦魂の間で名を上げたという彼女の顔はどれ程のものであったろうか。怯える二人の顔にそれを読み取りながらも、忠の耳には明石のちょっと怖さが滲み出た声が響いてきた。
『こおら。誰のウチに来て騒いでるのかな?』
『『す、すいませえん・・・。』』
明石は二人の首根っこを掴んだまま振り返る。まるで親猫に噛まれて連れられる子猫のように二人は肩をすくませて、明石によって忠の前まで召しだされた。明石の表情は友人が訪ねてきてくれた事に喜んでいるのかニコニコと綺麗な笑みを浮かべているが、今の二人にはその笑みが事の他怖いようで定まらない視線を床のあちこちに配っていた。
明石もちょっとは歳をとったのか少しお姉さんの顔つきになってきた事を、その光景から忠はなんとなく感じ取る。
やがて首を離されて床に座り込んだ二人の額に、歯を見せて笑いながらデコピンを放つ明石。その姿は家庭的なお姉さんと言うよりは、一端の優しい上官の姿であった。
『明石さん、ウチの親方より怖いッスよ・・・。』
涙目の雪風の声に明石は大声で笑った。もちろん、雪風の言う親方とは神通の事である。
『あははは! 私も、いつかは戦隊長になれるかな!』
工作艦のアンタには一生なれんわい。
明石の言葉に忠は顔をしかめたが、二人はその笑い声にやっと安心したように表情から力を抜いた。神通のようにげんこつが飛んでこないのは最初から二人も解っていたが、何と言ってもその神通を殴り倒した彼女である。怒った明石に怯えてしまうのも無理は無かったが、その人柄をつぶさに見てきた霞と雪風は笑顔を取り戻す。
『二人とも、今日はどうしたんだ?』
『ふふふ、怪我してるようには見えないね。』
忠の言葉に続いて明石も声を発した。彼女の言葉通り、軍医の明石を訪ねた割りにしては二人とも元気そうである。登場した瞬間に喧嘩できるのならば、どこか具合が悪いといった事も無いであろうという物だ。
机に寄りかかった明石が首を傾けて見つめる中、まず最初に声を上げたのは霞だった。彼女はズボンの両ポケットから何か銀色に光る薄い円筒状の物を取り出すと、顔を上げて小麦色の顔に白く輝く歯を見せて笑った。
『今日の夜は、戦隊長達も久々に遊びに行くって言ってたんです。んで、いつも森さんにお金払わすのは気が引けるんで、今日は食べ物をちょっとだけ調達してきたんですよ。』
そう言って忠に差し出して来た物、それは缶詰だった。ラベルに書かれた見慣れた文字が、それが人間が食べている物と同じ代物である事を彼に伝える。『へぇ〜。』と声を上げて何気なく霞の手を下から持ち、その手に乗せられた缶詰を見入る忠。霞は頬を赤くしながらも、嬉しそうに笑っていた。人間の食べ物をひょこっと持って現れた彼女であるが、そもこれはどこで手に入れたのかとふと疑問が湧いた忠。すぐさま彼はその問いを霞に投げた。
『これどうしたんだい?』
言い終えて視線を缶詰から霞の顔に向けると、霞は歪んだ笑みをして俯いた。顔をちょっと下に向けながらも、チラチラと床と忠の顔を交互に視線を配っている。
『あ、今日、私の艦で糧食積み込みやってたんです。それで、その・・・。甲板に上げられた箱からヒョイっと・・・。』
『こら。』
忠は霞の額に人差し指を当てて軽く押した。仰け反る首を戻す霞はまさか怒られるとは思っていなかったらしい、軽く目を見開いて口をうっすらと開けていた。
『士官のオレが銀バイを見つけて、よくやったなんて言うとでも思ったのか?』
その言葉に霞は肩をすくませて俯いた。
もっとも忠は彼女をしょんぼりとさせようとは決して意図している訳ではなく、せっかく持ってきた彼女の贈り物を無碍にするのは彼にしても本当は辛い事である。だが信賞必罰をハッキリとさせるのが軍隊であり、そも彼女は乗組員達が食べるべき物を失敬してきたのだ。そのような行動に関してはダメな物はダメだとハッキリと言わなければならないし、士官である彼にとってはなおの事であった。
一方、明石はそのやりとりを壁に寄り掛かって笑みを崩さずに見守っていた。相方が本気で怒ってる訳ではないし、彼にしてもその言葉は不本意である事を理解していたからだ。霞から忠に視線を流すと、彼もまた明石に視線を流して目が合った。忠は小さく笑って頭を掻くと、霞の僅かに震える肩にそっと手を乗せる。その事から恐る恐る顔を上げて忠の表情を覗き込む霞に、忠は笑みを見せると優しい声色で話しかけた。
『これは拾ったんだろ?運が良かったな、霞。』
『・・・・・・え?』
『一人で食べるのが勿体無いから、くれたんだよな。ありがとな、嬉しいよ。』
彼の言葉に疑問を持ちながらもそう言って頭を撫でてくれる彼の手の温もりが霞の心を癒し、同時にその言葉の意味をなんとなく彼女に伝えてくる。そういう事にしておこうよ、忠の心の声が霞には不思議と聞こえた。
やがて霞の表情に再び明るさが戻っていくのを確認した忠は大きく頷きながら彼女の手から缶詰を一つ取り、明石に向けて嬉しそうな声を発する。
『鯨の大和煮だぞ、明石。今日はみんなで酒でも飲むか。』
明石もまた大きく頷くと、ちょっとわざとらしく嬉しそうに口を開く。
『やった! 霞、今日は朝まで付き合ってね!』
『は、はい!』
二人が笑みをあわせる中、忠は手に持った缶詰を見ながら今日の宴を想像してちょっと苦笑いする。
甘い味付けのこの鯨の大和煮は二人も好んで良く食べ、その都度にお酒を飲んでは歌を歌うのが相場であった。それに加えて今日は親友の神通が来るし、彼女が来るという事は従兵の霰と妹の那珂も来ると言う事である。当然、その場の雰囲気によって酒が進んだ明石が覚えたての歌をあれやこれやと歌う事は間違いない。そしてその際に伴奏に狩り出されるのは、ハモニカ奏者の彼の運命である。明石の言葉通り、朝まで続くであろうドンチャン騒ぎが彼の目にはありありと浮かんでくるのであった。
いつの間にか顔を下げて頭を掻いていた忠は、ふともう一人の来訪者の事を思い出して顔を上げる。
霞と明石が手を取り合ってきゃっきゃと騒ぐ隣で、その来訪者である雪風はなにか気まずそうな顔で口を尖らせてそっぽを向いている。少しだけ目の縁に涙を湛えた彼女の瞳が気に掛かり、忠は雪風に顔を近づけて声を掛けた。
『雪風。お前はどうしたんだ?』
『・・・・・・。』
忠の声に雪風はチラッと一度だけ視線を彼の顔に向けたが、すぐさま顔の向いている方に戻した。泣きそうでありながらも物凄く不機嫌そうに口を尖らせている雪風。よく解らないその心の内が忠には気になった。そして初めて明石艦を訪れた彼女の用件も、彼の興味を湧かせる。
どうしたと言うのであろうか?
そんな思いに忠は再び声を掛けた。
『どうした? なんか悩み事でもあるのか?』
『・・・んっ・・・。』
返事と言うよりは嗚咽に近い彼女の声。霞と明石も視線を向ける中、雪風は後ろで手を組んだまま顔を壁に向けたままだった。
ずっと黙り込んだままの雪風であるが、ふと忠はそんな彼女が背後に回している両腕が何やら不自然に動いている事に気づく。恐らくそれを彼女に言っても黙ったままであろうと考えた忠は椅子から立ち上がると、彼女の正面に歩み寄って目線を合わせる様にしてしゃがみこんだ。相変わらずそっぽを向いたままの雪風であったが、忠が両腕にそっと触れるとその表情を隠すように今度は俯いてしまう。しかし忠は雪風のその仕草に、その手に何かが握られている事、そしてそれが何であるかを薄々読み取った。
『出してみなよ。』
静かにそう声を掛けて雪風の腕を前にゆっくり引き寄せると、雪風は抵抗すること無くお尻の辺りに置いていた自らの手を忠の前に差し出した。その手の中には霞と同じ銀色に輝く缶詰が握られている。霞が驚く横で、忠は雪風が目の縁に溜めたものがこぼれ落ちない様に静かに語りかけた。
『拾った、のかな?』
『・・・・・・。』
大人しくなっている雪風だが、それを嘘と思わせるかの様に首を素早く横に振る。
『銀バイしてきたのか?』
『・・・・・・。』
少し沈黙が流れた後、雪風はゆっくりと頷いた。その刹那、波打った長い前髪で隠れた彼女の顔から、目の縁にあった物がほろりと落ちて床に砕けた。そうさせないように気を遣ったつもりであった忠だったが、残念ながらそれは失敗に終わった。無念さを滲ませて苦笑いしながらも、その涙の理由を彼は雪風に尋ねる。
『どうして、泣くんだい?』
『・・・猿に、先越された・・・。』
どうやら雪風は一番に贈り物を渡したかったらしい。相手が普段からいがみ合う霞を相手にして二番に甘んじてしまった事は雪風としては我慢ならず、ましてその品が同じだったとくれば彼女のその無念さはわからんでもない。些細な事だが、そこに賭ける強いプライドが雪風には有った。
なんと言う負けず嫌いだ。
そんな事を思いながらも雪風のその心遣いを無碍にしたくなかった忠は、彼女の手から缶詰を一つとって声を上げる。
『そっか、拾ったのか。二人とも、ツイてるな。今日は雪風も来いよ。狭い部屋だけど、みんなで宴会─。』
『ち、ちきしょー・・・。うああぁ・・・。』
忠の言葉が終わる前に、あれ程までに気の強かった雪風は声をあげて泣き出した。霞に向けたそれと全く同じである彼の言葉とその優しさが、彼女に「負け」の二文字をハッキリと伝えたからだった。忠は泣きじゃくる雪風の頭を撫で、残酷に彼女のプライドを砕いてしまった事を詫びる。
『ごめんな。なんにも考えずに、声掛けちゃって・・・。ごめんな・・・。』
『あぁあ・・・、あぁ・・・。』
だがその言葉すらも、雪風にとっては悔しさを倍増させる言葉以外の何者でもなかった。もちろん彼が悪い訳ではないし、恨んでいる訳でもない。ただ、負けたことが悔しかった。それは運が悪かっただけの話かもしれない。
帝国最新鋭の陽炎型駆逐艦、竣工時から九三式酸素魚雷を装備した史上初の艦型で、それまでの駆逐艦の問題点を全て克服した帝国海軍駆逐艦の決定版。その端くれの誇りと意地が強かった雪風にとって、如何なる理由であっても旧型の駆逐艦に負ける事は許せなかった。たとえそれがどんな勝負であったとしてもである。
その小さな身体に襲い来る負けの二文字に抗うには、ただ泣くしか雪風には選択肢がなかった。
女性を泣かせる事が男にとってどれ程に不名誉であるかは忠にも解っているのだが、その心情を慰める言葉をかけても今の雪風にはつらいだけであろう事も彼には解っていた。幼い外見と小さな身体の雪風に霞や霰のように妹のような感覚を覚えている忠は、そっと雪風の顔を自分の肩の辺りに埋めてやった。これが明石や神通のように大人びた外見を持つ艦魂であれば出来なかったであろう。
忠は雪風の心遣いとそこに賭けた想いに心から感謝し、静かに声をかけた。
『小豆の缶詰か。人間と同じだな、小豆や鯨の大和煮は人気がある。』
『うあぁあ・・・。』
『今日は雪風も来るんだぞ。一緒にこの缶詰、食おうな。』
彼のその言葉は嬉しかったが、雪風の涙は止まらなかった。貸してくれた肩も、掛けてくれた言葉も、それらの基になっている彼の優しさも、全てが悔しかった。
後年、日本海軍一の幸運艦と呼ばれ、同時に死神に憑かれた艦とも呼ばれる事になる雪風の、淡い青春の一時だった。
指をくわえてその光景を眺める霞の横で、明石は相方の優しさと雪風の意地に微笑みながらもその相方が自分には見せた事の無い表情を雪風に見せている事を認め、唇の端を強く歯で噛んでいた。彼女には霞と雪風がどんな想いを胸に、ここを訪れたのかは解っていた。そして同時に、彼女達のその思いを疎ましく思う自分にも気づいた。焦るような感覚は湧いてこない。むしろ『ふ〜ん、そうなんだ。』と平然と理解できてしまう自分が、なんだか明石には少し腹立たしかった。
その夜、明石の予告通りに大宴会が挙行された。
ところがすっかり距離が縮まった雪風と忠がくっつく姿に、神通が声を荒げる。『ウチの部下に手を出すとは、良い度胸だ!』と、理不尽にも竹刀で滅多打ちにされる忠は気の毒という他は無い。その事情を説明しようにも、雪風の意地を思い知った彼の口は重くなってしまう。結局は那珂や明石が宥め、座る位置を変更する事でようやく彼は解放された。ちなみにこの時、霞が一人冷ややかに笑っていた事を知る者はいない。
昭和15年2月3日、第二艦隊は館山湾を出航。太平洋を日本列島に沿って南下し、皇紀2600年の祝賀行事が開かれる大阪に向かった。