第二一話 「先輩と後輩」
昭和15年1月19日。
第二艦隊は休養の為、宿毛湾から豊後水道を北上。大分県別府湾にその錨を下ろした。
別府湾は古く室町の時代から開かれた港で、この地に覇を唱えた梟雄・大友氏が南蛮貿易の港として指定している。鎖国という時代もあったが、日本国内としては珍しい国際色豊かな歴史を持つ港湾であった。
海軍の要港部等がある訳ではないが、大型艦船でも難なく停泊できる余裕ある水深と広さを持つこの湾も、有明湾と同様に帝国海軍の使用頻度は高かった。
この別府湾を西から望む別府市は温泉が全国的に知られており、南から望む大分市は先に述べた大友氏の城下町として栄えた事から鎮西の中でも比較的大きな都市である。それに伴った商業、観光業が発展している事は、艦隊乗組員達の休養には持ってこいだった。
また昭和9年に佐伯町(現・佐伯市)に大分県初の海軍基地として佐伯海軍航空隊が置かれたのを皮切りに、昭和13年には大分市に、そして昨年には別府市の北、宇佐郡(現・宇佐市)に呉鎮守府隷下として練習飛行隊の基地が置かれ、連合艦隊にとっては航空兵力との密接に連携した訓練が可能な立地条件を持っていた。各国の船舶が頻繁に出入りする東京湾を凌いで、この地は帝国海軍がもっとも御用達とする訓練地である。
さっそく第二艦隊の各艦でも半舷上陸が出され、乗組員達は宿毛湾での訓練での疲れを癒そうと続々と艦を降りていった。
雲ひとつ無い晴れ空の下、神通艦の艦橋天蓋の上では時間を持て余した神通と那珂、そして明石が横になって、暖かな日の光りをのんびりと浴びていた。
仲良し3人で集まれば楽しい会話が響く。と思いきや、今日の明石は荒れていた。頭の後ろに両手を当てて仰向けで寝転がる神通だが、その身体を隣に座った明石がグラグラと揺さぶって声を上げる。
『不公平だぁ!』
『しょうがないだろう? 上陸の引率は幹部がやる物だ。森の仕事の内の一つだろうが。』
『やってらんねぇ!』
『ふん、まったく・・・。』
呆れ顔で視線を送る神通だが、明石は頬を膨らませたままだった。横になった神通を挟んで、明石の向かいに脚を崩して座る那珂はいつものようにクスクスと笑っている。湯気が上がる湯のみを口に運びながら、那珂はご立腹の明石に声を放つ。
『私達は人間と違って、陸地に脚をつけれないのが不便なのよねぇ。』
『不公平だぁ!』
『ふふふ。でも森さんならすぐ帰ってくるんじゃないの?』
那珂の問いかけに明石は俯くと、低い声で唸るように声を返した。
『一泊するんだって・・・。宇佐に行くって言ってた・・・。』
『あら、飛行場にでも行くのかしら?』
『宇佐神宮だよ、きっと・・・。昨日、鉄道唱歌歌ってたもん・・・。』
宇佐神宮は日本書紀にもその名が出てくる事で有名であり、皇紀2600年を祝う今年は神武天皇の縁があるこの宇佐神宮を訪れようという人が多かった。故に忠もせっかくだからと上陸先で脚を伸ばそうとしただけの話なのだが、それはそれは楽しそうにして下艦していった彼の姿が明石には面白くなかった。自分で放った言葉で昨夜の記憶を辿ってしまった明石は、再び顔を上げると怒りを込めた声を上げる。
『やってらんねぇ!』
言い終えると明石は再び頬を膨らませながらも泣きそうな目をする。神通は彼女のその表情に小さく笑いながらも、ポカポカと注がれる陽の光りに大きくあくびをした。瞳の縁に溜まった涙を指先で拭きつつ、神通は口を開く。
『今日はジジイも上陸でいないんだ。せっかくなんだから、静かに過ごさせてくれ。それにたまには森にも羽を伸ばさせてやれよ、明石。』
文字通り寝食を供にしている忠と明石だがその生活の実態は神通の言葉通り、忠が明石に合わせていると言った方が正しいし、当の明石にしてもそのつもりであった。もちろん嫌な顔をしながらも毎度のように自分のわがままを聞いてくれる彼に、明石は心から感謝している。だがそれでも彼女は、正直な自分の気持ちを抑えられなかった。
それはいくら言ってもどうにもならないという事も、それが自分の一方的なわがままであるという事も解っている。ただそれを一緒に共有できないという事が、そして自分と相方の存在が違うという現実が、彼女の胸の中からモヤモヤとした行き場の無い怒りを込み上げさせるのだった。
『ふこーへーだあ!!』
『お前なあ、そういうの嫌われるぞ?』
『やってらんねえ!』
『ふん。』
今日はエラく不機嫌だな。
そんな言葉を脳裏に浮かべながらも、神通は珍しく相方に関しての愚痴を言う明石を小さく笑った。
これはきっと帰ってきた相方は、彼女の無理難題を吹っ掛けられる意地悪を受けるに違いない。その姿が目に浮かぶ程に予想できる二人に、神通も那珂も込み上げる笑いを抑える事が出来ずに笑った。
昭和15年1月21日、第二艦隊は別府湾での休養を終えて抜錨。
3日後の1月25日、帝国海軍4鎮守府の内の一つ、横須賀へと到着した。呉に継ぐ規模の一大軍港である横須賀は、多種多様な術科学校が置かれる海軍の教育の聖地である。汽車で北に行った東京・築地には未来の海軍を背負って立つ者を育てる海軍大学校もある。そして昨今の世界の軍事面では飛躍的な進歩を遂げている兵器である航空機の生産、補修、研究を束ねる組織、海軍航空技術廠が設置されている。これは呉にすらない、横須賀鎮守府の特徴である。
また、呉海軍工廠、広海軍工廠、舞鶴海軍工廠と同様に実験研究の部署が置かれている横須賀海軍工廠では、光学、機雷、電池や機関といった部門の実験と研究を行っており、帝国海軍の科学力、技術力の最先端を日夜探求している所でもある。
さらに国内でも有数の造船の地でもあり、少し離れた横浜船渠は那珂の生まれ故郷でもあった。
横須賀到着から二日後の1月27日。
ここまで給油だけ受けてきた明石艦は横須賀工廠の造機部の前の桟橋に接岸し、各種資材の補給を受けた。入港してすぐの搬入作業は面倒だったが、カッターで漕いでの上陸にならなかった事に乗組員達は喜ぶ。
測距儀の上に座り込んだ明石は、甲板でせっせと搬入作業に携わる忠を眺めていた。今日は少し曇り空で、有明湾や別府湾に比べて北にある横須賀はまだ少し寒い。外套の襟を引き締める彼女の口からは、白くなった息が舞い上がる。やっぱり寒いのは苦手だと自分の弱さを感じながらも、今回は外泊しないという昨夜の相方の言葉を思い出す明石は口元を緩める。幕末からの造船都市である横須賀は、別府湾と同じく国際色豊かな港湾で、付近にはおいしい食い物屋が沢山ある。それはつまり、おいしい食べ物に彩られた今日の夜を明石に保証する物であったのだ。
今日は何が食べれるかな?
わくわくしてくる明石は、その気持ちを乗せて歌を歌った。
汽車より逗子を眺めつつ
早や横須賀に着きにけり
見よやドックに集まりし
我が軍艦の壮大を
酒を飲んでは忠と供に良く歌う鉄道唱歌。横須賀の歌詞は彼女達、帝国海軍艦艇が謳われている。明石にとっては忠や神通艦の木村大佐ぐらいしか触れ合いが無い人間達ではあるが、その歌詞は彼女と人間の距離を少しだけ近づけてくれた。自然と湧き上がる喜びに、明石は鼻歌で鉄道唱歌の曲を奏でる。
『あっ、明石。ちょっといいかしら?』
『うん? あれ、那珂?』
上機嫌の明石に背後から声を掛けてきたのは那珂だった。いつもはおしとやかにニコニコとしている彼女だが、今日はちょっと困ったような表情をしている。疲れたような溜め息をしながら、那珂は明石の腕を取って言った。
『ごめんなさいね。ちょっと神通姉さんの所に来てもらえない?』
『神通? うん、良いけど・・・。』
何か急ぎの用らしく、那珂はそわそわとしながら明石を立たせるとすぐに白い光りを放って消える。こうして明石と那珂は、洋上で錨泊する神通艦へと向かった。
『神通姉さん、入るわよ?』
扉を数回ノックして那珂がそう言うと、その扉は中から開かれた。開いたの扉の後ろには霰の姿があり、明石は軽く手を上げて挨拶をする。しかし霰も那珂と同様に、困ったように引きつった笑みを浮かべてお辞儀してきたのだった。
その事にさっぱり要領が得られない明石は、首を捻って部屋に入る。
部屋の扉のすぐ脇にある机と椅子。その椅子には部屋の主である神通が、何やら厳しい目で腕組みをして座っている。そして彼女の視線の先にある床の上には霞と供に初めて見る水兵服の少女が俯いて正座していた。口を尖らせて不満げな表情の二人だが、どちらも顔には引っ掻き傷や青いアザが出来ている。
軍医としての自覚が強い明石は、怪我を見ると放っておけない。神通への挨拶も忘れて、彼女は二人に駆け寄ってしゃがみこんだ。
『ちょ、ちょっと霞! 大丈夫!?』
『・・・はい。』
明石が顔を覗き込むと、霞は視線を合わせずに口をツンと尖らせて答えた。彼女の頬には爪で引っ掻かれた細い傷跡が数本走っている。それほど痛そうにしていない事に明石は小さく溜め息をして、今度は霞の隣に座る少女に声を掛けた。
『あなたも大丈夫?』
『・・・大丈夫ですよ。』
ぶっきらぼうに少女は言った。霞や霰等、駆逐艦の艦魂は爽やかで人懐っこい所を持っている事が多いのだが、この少女はあからさまな敵意を放つ殺伐とした感じを持っていた。大きく波打ったクセ毛を肩につく位の長さで無造作に伸ばし、右目の上から両脇に分けるという随分とお洒落な髪型をしている。霞と同じ小柄な体格で、同じように16歳くらいの幼い顔立ち。顔に比して大きい瞳をしているが、クリッとした丸い目の霞とは違い、那珂や神通のように鋭い釣り目を持っていた。
彼女の頬もまた赤く腫れあがっており、それが誰かに殴られたからというのは一目瞭然だった。
そして部屋の中に居る人物の中で、こういう事案において前科がある者が一人いた。その事を思い出した明石は咄嗟に立ち上がり、椅子に腕組みをして腰を下ろす神通に詰め寄りながら声を荒げる。
『神通!! またやったでしょ!!』
患者を前にしても怒りに駆られた時は見境無く怒鳴ってしまう明石だったが、一度それを見た事のある霰が彼女の身体に抱きついて止める。
『ま、待ってください、明石さん!!せ、戦隊長ではないんどす!!』
長身の明石の胸に顔を埋めるようにして静止する霰の声に、明石は振り上げていた手から力を抜いた。同時に彼女の顔からは、怒りの色が波のように静かに引いていく。
『え? あれ、そうなの・・・?』
明石はそう言うと胸の中で息をつく霰から、正面に捉えていた神通に視線を向けた。呆けた顔の明石を、神通は失敬なとでも言わんばかりに眉をしかめて睨みつけている。
『・・・・・・。』
『あ、あはは・・・。ごめ〜ん・・・。』
『・・・ふん。馬鹿者が。』
気まずそうに苦笑いして謝罪した明石だったが、神通のいつもの静かな罵声を受けて部屋の隅に引っ込んだ。登場してすぐに犯した失態に落ち込む明石は、しょんぼりとしながら那珂の隣で床に座り込む。
やがて一人暗くなって膝を抱いて丸くなる明石を他所に、神通は目の前で正座する二人を睨みつけながら声を発した。
『お前等、何を揉めてたんだ?』
神通の言葉が部屋の中に静かに響き渡る。どうやら二人の顔の傷は、取っ組み合いの喧嘩をした事の結果であるらしい。先程の自分の予想がまるっきり的外れであった事を思い知り、『あちゃ〜・・・。』と声を上げて明石は顔を歪めて頭を掻いた。
一方、神通の前で正座する二人は彼女の問いかけを耳にしてお互いを睨みつけた。人当たりの良い霞にしては珍しく、憎しみが篭った目を向けている。明石はそんな霞の姿に事の真相を悟る事が出来ず、首をカクンと傾けた。ほんの数秒だけ沈黙が部屋を支配したが、霞は神通に向き直って口を開いた。
『コイツが私の話を聞かないんですよ! 戦隊長に言われた教育を始めようと─。』
『ふざけんじゃねえよ! この女がいきなり殴りかかって来たんスよ!』
その言葉に霞が正座から片膝をついて腰を上げる。その動作を見逃さなかった隣の少女も、その腰を僅かに浮かせた。互いに目を見開いて睨み合う中、霞が口を開いて口論が始まる。
『アンタの口の利き方が悪いんだよ! 私は一水でアンタは二水じゃない!』
『なにが一水だ、バ〜カ! アタイ達はアンタ達みたいな出来損ないの駆逐艦じゃない! 雷装も速度も航続距離もアタイ達の方が優れてる! 自分より劣るような奴に、誰が頭なんか下げるかってんだ!』
『生まれたのは私が先なんだよ! それにアンタは一回も訓練に参加した事の無い新兵でしょ!!』
『そんなにお山の大将になりたいかよ!? まるで猿みたいだな!』
『なにを、この野郎!』
聞き手の神通や他の者を無視して、完全に頭に血が昇った二人は取っ組み合いの喧嘩を始めた。運動が得意な霞の身体能力は先の柔道の競技会で、ここに居る者全員が目の当たりにしている。当然のように喧嘩だって強い筈だが、相手の少女も言葉遣いから感じ取れるように鼻っ柱が強いらしい。霞相手に臆する事も無く、顔を殴られてすぐに彼女も殴り返した。
歯の一本でも折ってやる。
そんな勢いでボカスカと音を響かせて殴りあう二人だったが、やがてその顔を大きな影が覆った。ふとその事に気付いた二人が視線を横に向けると、そこでは立ち上がって額に血管を浮かせた神通が鋭い眼光を伴って見下ろしていた。その眼光にビクンと震える二人だが、もう遅い。すぐさま神通のげんこつが二人の頭に叩き落された。
『この馬鹿がぁあ!!!!』
頭に受けた激痛に悶え苦しむ二人はとりあえず顔の治療を明石に施され、『頭を冷やせ。』との神通の命令で自分の艦へと帰って行った。
犬猿の仲となってしまっている二人の少女が去った神通の部屋では、壁から下ろしたベッドに寝転んでいる神通と、その身体を揉む霰。そして壁に寄りかかって腕組みをする那珂と、椅子の背もたれを正面にして座り、頬杖をつく明石の4人がいた。
当然、彼女達の話し込む話題は二人の事である。そもそも霞の隣にいた少女の正体を知らない明石は、神通にそれを尋ねた。神通はちょっと疲れたような溜め息をしてそれに答える。
『アイツは私達の二水戦に今日付けで新しく編成された第16駆逐隊の一隻、陽炎型八番艦の雪風だ。』
『雪風・・・。』
『ああ、霰と同じ第18駆逐隊の陽炎や不知火の実の妹だ。確かお前と同じ、佐世保生まれだったはずだ。』
『ふぅ〜ん・・・。』
明石はそう言うと頭から帽子を取って机の上に置き、両腕を背もたれの上に横に寝かせてその上に顎を乗せるようにして身を丸めた。その体勢のまま少し考え込んだ後、明石は真剣な顔で両手で神通の身体に力を込める霰に視線を流して口を開いた。
『ねえ、霰。陽炎や不知火もあんな感じなの?私、キョーダイがいないから良く解らないんだ。』
霰は明石に向けて小さく笑みを向けた。何気ない明石の言葉だが、姉妹艦という物が一般的な艦魂社会では基本的に姉妹がいない者はいない。そういう観点から考えると、明石は天涯孤独の身だった。当たり前の様に姉妹がいる自分の境遇に感謝しつつも、それが無い明石に霰は少しだけ同情する。もっとも明石はそれを気にしているようでない。霰は表情に出ようとする同情の色を掻き消す為に、敢えて笑みを作ったのだった。
『いいえ、陽炎も不知火も良い子どす。雪風と同じく配属された黒潮って子も、あないに難儀な性格ではないんどすよ。』
霰に続いて那珂も声を発する。
『いくら姉妹でも、性格は人それぞれよ。私と神通姉さんも全然似てないでしょう?』
『なんで私を引き合いに出す?私はあんなじゃじゃ馬ではないわ。』
目を閉じて背中に伝わる霰の手に力を抜きながらも、神通は不満げに言った。彼女の言葉に言った本人以外の3人が小さく笑う。
『ふふふ。例えよ、神通姉さん。』
『ふん・・・。』
口に手を当てて咳き込むように笑いながら那珂は答えたが、神通は笑い声を無視するかのように目を閉じたまま枕に顔を埋める。やがて笑い声が治まりかけると、明石は再び神通に尋ねた。
『ねえねえ、どうして霞と組ませたの?』
『新兵教練だよ。雪風も黒潮も竣工と同時に駆逐隊を編成、配属されたからな。』
『あ〜、さっき霞が教育がどうとか言ってたね。』
『ああ、特に雪風は新兵ながら司令駆逐艦となる身でな。それで同じように新兵ながらも司令駆逐艦をこなして来た霞を付けて、専属教育をさせようとしたんだ。それに霞の第18駆逐隊は朝潮型の霞と霰、陽炎型の陽炎と不知火の4隻編成だろ?陽炎型の扱いというか、その辺を霞は良く解ってると思ったんだ。あ、霰、もう少し上だ。』
神通はそう言いながら、自分の首の付け根辺りを右手の指先でトントンと軽く叩いた。それを見た霰は、伸ばした手を神通が示した部位に動かして返事をする。ところがその返事の仕方が不味かったらしい、神通の静かなお叱りが彼女に飛んだ。
『あ、はいはい─。』
『ハイは一回だ。馬鹿者。』
『あう・・・。す、すみません・・・。』
『ふん。』
この些細な言葉遣いにすらも徹底的に教育する所が、神通の教育方針の特徴である。私立神通学校のとっても厳しい校則なのだ。ヘコヘコと頭を下げながら神通の背に手を伸ばす霰の姿に明石と那珂は微笑みながらも、そこに湧いた一つの疑問を明石は声に変えて発した。
『う〜〜ん、神通・・・。』
『ん? なんだ?』
『雪風の霞に対する口の利き方って怒らないの?』
その疑問は那珂も、そして霰も同様に抱いていたらしい。明石の声が発せられてすぐに二人は神通の表情を覗き込んだ。だが神通はゆっくり目を開くと、ちょっと眉をしかませて微笑んでみせた。彼女はその表情のまま大きく一度溜め息をついてから口を開く。
『それだと雪風だけを怒る事になる。そして逆に雪風が言った事を怒るのであれば、アイツが言った駆逐艦としての優劣はどうする?あの言葉は決して間違いではないし、仮にそれを当の霞の前で言ってみろ。霞や霰、そして朝潮型で構成される第8駆逐隊の士気を急激に下げる事になる。指揮官としては愚作だ。』
『なるほどぉ・・・。』
先の先まで冷静に状況を深読みしている神通に、那珂も明石も大きく頷いて感心した。さすがに「花の二水戦」の旗艦を頂く艦魂である。言葉遣いも気性も荒いが、彼女は連合艦隊旗艦の長門が認める程の人物なのであった。
そして今の話を聞いた霰が少し落ち込んでしまった事に、顔を見ずとも神通はその背中に伝わる力の加減で解った。だが彼女には焦る様子もその必要も無い。神通は再び目を閉じて静かに声を上げ、落ち込む部下に自分の腹を割った意見を教えてやった。
『安心しろ、霰。私は数字が書かれた書類で、艦の性能を決め付けるつもりはない。私達艦魂の頑張りようで、その艦は能力を何倍も出す事が出来る物なんだ。赤城さんや加賀さんを見ろ。艦齢は古いが、新顔の飛龍や蒼龍に対しても互角以上の性能を持っているじゃないか。自分が型落ちになった事に落ち込む必要はない。いいな?』
『は・・・はいっ!』
神通の言葉で霰の表情は再び明るくなる。語りかけている間、神通はずっと目を閉じていたが、従兵として常に傍らにおいて来た霰の声にその心配がなくなった事を感じて小さく笑った。那珂と明石もまた、そのやりとりに笑みを合わせる。やがて背中を揉む霰の力が戻った手に、神通は少しだけ安堵の色が混じった溜め息をして再び眉をしかめた。
『あ〜あ、どうした物かな・・・。』
暫くの間、4人は『う〜ん・・・。』と唸り声を上げて天井を仰いでいたが、唐突に部屋の中には扉をノックする音が響いてきた。重い金属音が勢い良く鳴る中、その向こうから聞こえてきた声に明石がビクンと身体を震わせる。
『おい、明石が来てるんだろ!? ここを開けろ、神通!!』
野太くちょっとしゃがれた声。その声が嫌と言うほどに強烈に記憶にこびり付いている明石は、すぐに声の主が木村大佐である事に気づいた。一気に顔が青ざめる明石はベッドの脇に跳び移ると、膝を抱いてブルブルと震えながら縮こまる。こんな言い方をすれば当人は怒るだろうが、すかさず彼の相方である神通が怒号を上げる。
『なにしに来た、ジジイ!?』
『明石が来てるんだろ!? さっき霰から聞いたぞ!!』
どうやら霞と雪風を甲板まで送っていった際に、霰は木村大佐に今日の来客を教えてしまったらしい。神通にギロリと睨まれて苦笑いする霰だが、彼女のその頭に明石の平手打ちが叩き込まれる。
『あうっ・・・。』
『何で教えたのよ!!』
『だ、だって〜・・・。』
頭を叩かれて涙目になる霰だが、身の危険を感じている明石は彼女以上に涙目になっている。そしてそんな二人を背にした神通は、再び扉に向かって叫んだ。
『今、取り込み中なんだ!帰れ!』
『取り込み中!? どうした明石、何か悩み事か!? 恋の悩みか!? それなら悩む事は無いぞ!! 明石にはおじさんがいるじゃないかぁ!!』
『い、いやああぁぁ!!』
彼には随分と気に入られているようだが可哀想に、明石は木村大佐の言葉に声を上げて泣き出した。当然、神通はプンスカと怒って竹刀を出現させ、彼のお望み通り扉を開けるとその勢いで彼を滅多打ちにした。毎度のように逃げ出す木村大佐を追い掛け回そうとする神通を、霰が小さな身体で必死に抱きついて止める。
日頃からこのように神通の周りの騒ぎを必死で止める霰だが、その都度とばっちりを食らう彼女の境遇は不幸という他無い。今日も明石や神通を必死に制止しててんやわんやの一日。終いには神通に『お前のせいだ!』と頭に乗せた水兵帽が吹き飛ぶ程に霰はこっ酷く怒鳴られ、そのお尻を竹刀で思いっきりぶっ叩かれるという憂き目にあった。
一気に騒がしくなった部屋の中、忠と同じ感覚でそれを見る事が出来る那珂だけが、一人口元を抑えて笑っていた。
結局この日、霞と雪風の仲を取り持つ良い算段は思いつかなかった。
GWという事で少しの間、帰省の為に更新を休止いたします。読者皆様には何卒ご理解の上、ご了承くださりますようお願い致します。