第二〇話 「忙しい1月」
昭和15年1月1日、明石艦は第二艦隊の戦技訓練に参加しながら、有明湾にて新たな年を迎えた。
質素倹約が叫ばれて久しい日本にあって、この年は大変なお祭りであった。その年は押しも押したる皇紀2600年。ただ一系の大君がこの日いずる国を治めて2600年目の節目の年という。
終わりの見えない支那事変に疲れが出てきた日本であったが、国民はそれを忘れてこの大いなる一年を祝った。国家を挙げてのこの大祝賀ムードは国の機関が5年も前から委員会を発足させて準備され、「聖戦にただ邁進!」等の標語をあちこちに掲げているにも関わらず、皇室ゆかりの神社への参拝は割引券を配ってまで奨励するという盛大さだった。この年は刑務所に服役していた罪人には特別恩赦が下され、隅田川には支那事変の勝利を祈って「勝鬨橋」が架橋される等、全国どこへ行っても「めでたい、めでたい」の言葉が飛び交い、僅か一週間前の12月25日に木炭の配給が実施された事が嘘のように思える程であった。
明石艦においては軍艦旗掲揚の後に総員最上甲板整列の号令が発せられ、宮里艦長による訓示が言い渡された。ちょうど元旦が月曜日にあたる事もあり、艦長の訓示がそのまま教育日課となった。友好国ドイツと芬国に攻め込んだソ連等に代表される欧州の情勢が語られ、改めて世界の混乱する様を乗組員達は認識する。
『皇紀2600年の四方の節を祝い、遥かに皇居に向かい、万歳を三唱します!』
宮里艦長は訓示のシメとしてそう声をあげると、北東の空に向かって身体の向きを変えた。乗組員達も彼に倣って、北東の方角に身体を向ける。太陽が斜めから光りを放ち、その光りをキラキラと輝かせる波間の向こう。乗組員達の視線がそこへ集まると同時に、宮里艦長の声が響いた。
『天皇陛下、バンザ〜〜イ!!』
『『『 バンザ〜〜イ! 』』』
男達の万歳が明石艦から辺りに響き渡る。
空を舞うウミネコも同じように祝ってくれているのであろうか、万歳と叫ぶと同時にウミネコの鳴き声が発せられた。ゆっくりと翼を羽ばたかせて艦の上空を舞うウミネコに微笑む忠だったが、彼の身体はドンと隣から衝撃を受ける。振り向いた先では明石がニッコリと笑って、両の手を天に向かって広げている。乗組員と供に大声で万歳を叫ぶ彼女もまた、大いなる陛下への翼賛を心に誓っていた。菊花紋章こそ彼女には無いが、他の艦魂と同様に彼女もまた栄えある陛下の御船の中の一隻なのである。明石は忠に腕をぶつけた事を気にも留めずに、万歳を三唱した。
さすがに元旦である今日は、訓示が終わったあとは乗組員全員がお休みとなった。昼飯として振舞われたお雑煮だけが、洋上の彼等に正月気分を与えてくれる。
各科では配置において艦への祝いとして酒と雑煮一碗が供えられ、砲術科においても前部と後部の主砲へ盆に載せたお酒と雑煮をお供えした。機関科では艦のディーゼル機関に、航海科では舵輪と方位盤、工作科では工作区画の中央といった具合で、乗組員全員が艦と自分の持ち場に祝いの品をお供えしてやった。
今年もよろしくお願いします。
そんな言葉を放って艦と供に祝う彼等に、明石の機嫌は良かった。
『私にくれたんだよ!』と言って、あちこちに供えられた品を失敬しようとする彼女。まあ彼女の認識はなんとなく正しいと理解しながらも、お供えした彼らの気持ちを無碍にしたくなかった忠はそれを止める。
首根っこを掴まれて部屋まで強制連行された明石は指をくわえてイジていたが、見かねた忠が川島主計長に頼み込んで貰ってきた雑煮とラムネで彼女の機嫌は治った。
チョロチョロと水が流れる音が、ベッドの上で横になって本を読む忠の耳に入ってくる。視線を音がした机に向けると、明石は空になった碗に汁櫃から雑煮をよそっている。彼の記憶が正しければ、それは4回目のおかわりになっている筈である。唇を舌で舐め回しながら、おたまを碗に運ぶ彼女は嬉しそうにニコニコと笑っている。
『うまいか?』
『うん、うめぇ!』
明石は返事をしながらもお碗の雑煮を勢い良く口に流し込んでいる。細身の彼女のお腹は横から見ると忠の手のひらを広げたくらいの幅しかないが、常に5人前はあろうかという量の食い物を入れる胃袋は彼女の身体の何処にあるのだろうかと彼は素朴な疑問を抱く。そして知り合って以来、全く体型が変わらないという不思議。
いくら艦魂であってもそんな彼女に忠の疑問は絶える事が無いのだが、それはそれは嬉しそうに食べる明石の表情がいつもそれを忠から忘れさせた。
まったく、おかしな奴だ。
毎度のように脳裏に浮かぶその言葉を、忠はいつもの様に心の中で呟いて微笑み、視線を彼女から本に戻した。
こうしてゴロゴロとしながら二人は休日を楽しんだ。
翌日の1月2日、有明湾の志布志漁港に上陸用の桟橋を作るとの事で、明石艦より工作部の連中が志布志漁港へと派遣された。
有明湾は第二艦隊に限らず、連合艦隊の各艦隊が訓練をする重要な湾で、佐世保と呉に近い事から使用頻度は高い。それに伴って艦隊乗組員達の休養の為の上陸用桟橋が必要であり、工作艦である明石艦の能力がまたも発揮される事となったのである。もっとも当の乗組員達にとっては洋上の泊地から8キロもカッターを漕いでの上陸であり、寂れた漁村である志布志漁港では遊べる所は無かったようであるが。
砲術科も資材を運貨艇に搭載する作業を支援する事になり、忠は甲板での運搬作業監督者として携わっていた。
周辺に停泊する艦はまだ正月休みを続けており、甲板でせっせと励む明石艦乗組員達の姿をのんびりと眺めているようである。そんな他所の艦を羨ましげに思いながら、忠も仕事に精を出した。運貨艇に積み込んだ資材の種類と量を、さらさらと手に持ったバインダーに貼り付けた用紙に記入していく。
久々に響く工作区画からのけたたましい機械音と、工作区画が稼動している事を示す前部煙突からの煙。起重機が艦内で加工された桟橋の資材を、次から次へと忙しなく運貨艇に運び込む。これを管理、統制するのも結構大変なお仕事である。
明石艦の早過ぎる仕事始めにより、桟橋は次の日の1月3日に完成。漁港の人々は海軍さん御用達の地とされたと大喜びで、運貨艇が満載になるほどの大量のお酒や獲れたての魚介類をお礼として頂いた。
それを見た明石はしばらく続くであろう海鮮料理三昧の日々を想像して大はしゃぎだったが、ハッキリ言ってこの人は何にもしていない。
1月7日、第二艦隊は訓練地を高知県南西部にある宿毛湾に変更して出発。同日夕刻には到着して、全艦が錨を下ろした。
宿毛湾は豊後水道の入り口に当たる部分にあり、小さな漁村ではあったが珊瑚の産地として有名である。豊富な海の幸も有名でありながら温暖な気候を利用した柑橘類の栽培も盛んであり、明石艦が訪れた時期はちょうど特産品であるジャボンの収穫時期だった。おかげで洋食の心得が有る川島主計長は珍しい柑橘類を目にした事で上機嫌となり、上陸した当地で食材探しに夢中になった。また宿毛湾は泊地から南方に進むとすぐに果てしなく続く太平洋に出る事ができ、大艦隊での艦隊運動訓練が思う存分できるという立地条件も備わっていた。さらに漁村の民家では自宅の風呂を上陸してきた海軍軍人向けに有料で使用させてくれ、忠も久々に思う存分お湯を使っての垢落としが出来た事に満足する。
また本海域に到着してすぐに、二水戦指揮下の第18駆逐隊に陽炎型2番艦の不知火艦が合流。第18駆逐隊は朝潮型2隻、陽炎型2隻の4隻で編成され、名実供に帝国海軍最新鋭の駆逐隊となった。
合流した日の夜、神通が珍しく上機嫌だったのは言うまでも無い。
到着から2日後の1月9日からは、第二艦隊所属が全参加しての大規模な艦隊訓練が太平洋上で始められた。
明石艦は重巡並みの比較的大きな艦影を持っている為、仮装戦艦や仮装空母の役割で訓練に参加する事になった。本日は攻防一体となった実戦的な訓練で、明石艦は第二航空戦隊の空母飛龍艦、蒼龍艦と第八戦隊の重巡、利根艦と筑摩艦、そして那珂艦が率いる第四水雷戦隊と艦隊を組んで行動し、それを襲撃してくる別働隊を迎撃するという内容だ。
戦闘艦とこれほどの規模で艦隊を組むのは明石艦としても初めての事である。特に航海科や機関科にとっては『所詮は特務艦か。』と言われない様な操艦をせねばならないとあって、該当の乗組員達には気合が入っていた。
そしてそれは発令所で配置に就いている忠もそれは同じだった。明石艦の訓練で行なえる発砲は空砲であるが、今日の明石艦は仮装戦艦としての立ち振る舞いが求められている。阻止砲撃を八戦隊や四水戦と合同で的確に行う事が必要で、射撃における当日修正はひとえに砲術士としての彼の能力が物を言うのである。
砲術科の面々も緊張の面持ちである。発令所の中の兵員達もちょっと落ち着かない感じで、各々の位置に立って待機しており、その中の一人である忠も指を小刻みに動かしながら煙草を吸っていた。壁に寄りかかっているのだが、今の彼には心なしか艦の動揺が大きく感じる。
彼の横では明石が座り込んで、またいつもの無線電話機を出現させてダイヤルをグルグルと回している。まだ上手く周波数が合わないのだろうか、彼女はヘッドフォンを耳に押さえつけながら首を捻っていた。やがてふいに顔を上げた彼女と忠は目が合った。忠は発令所の中にいる他の兵員達に気づかれないように、無言で明石に片手を差し出す。
オレにも聞かせてくれよ。
そんなメッセージが篭った彼の動作だったが、明石は憎たらしい笑顔であかんべを返した。彼女の返答は予想してあったので、忠は苦笑いをしながら溜め息をしてすぐに諦める。
なんとケチな奴だ。
ちょうど煙草の火が口元に近づきつつあったので忠は机の上の灰皿に煙草を押し付けて火を消すと、ポッケから発令所の壁に埋め込まれた金庫の鍵を取り出した。発令所の中にいた兵員達は忠の動作と取り出された鍵に気づき、一斉に配置の椅子や受話器の前に向かって配置に就く。そんな仲間達を尻目に忠は金庫の扉に歩み寄ると重い金属音を響かせて金庫を開き、赤い一冊の本を取り出した。「射表」と呼称されるその本は軍極秘である。
これは当日修正に用いる様々な数値を対数表のように纏めた物で、砲術士である彼のお仕事は航海科から伝えられる風速や大気密度等のデータを基に、この射表から修正の数値をみつけては計算してその時の環境に応じた修正を指示する事である。算盤すらない発令所の中、忠はこの複雑な修正値を暗算、時には紙に書いて計算して導き出さなければならない。数字に弱い人には一日とて務まらない、大変なお仕事であった。
普段は優男で頼りない感じがする彼も、この射表を片手にした時だけは軍人の顔になる。彼の計算が一秒遅れると、その分だけ主砲の射撃が遅れる。彼の計算が一度でも間違えられると、どんなに的確な測距がされても弾は当たらない。若干22歳の若者だが、彼はその責任と立場をよく理解していた。
相方が時折見せるその勇ましい顔が好きだった明石は、彼に気づかれないように横目でこっそりと盗み見て微笑む。
発令所の真ん中に位置する約1メートル四方の箱型の装置、八九式高射射撃盤改二。手輪と各種メーターがあちこちについたイカツイ外見のこの機械が、忠の思い描く射撃を実践する。発砲操作をする銃把もこの装置についており、これを指揮するのは発令所所長を兼務する忠の役目である。
己が責務を彼はいつもの通り、目を閉じて深呼吸する事によって受け止めた。
今日も一丁やったるか。
そんな思いをそっと胸に秘めた忠は、舷窓から流れていく景色を見つめた。
『四水戦旗艦より信号。艦隊右舷前方、敵艦隊!』
艦橋と繋がっている伝声管から聞こえてき声に、発令所の兵員達が身構える。伝声管の前に歩み寄った忠だが、彼を待たずに砲術長の声が矢継ぎ早に伝声管から響いた。
『主砲打ち方用意!』
それきたと砲術科の兵員達の動きがあわただしくなる。艦橋上の測距儀が電動音を発して旋回し、それまで座り込んでいた主砲操作の兵員達も各々の配置につく。
明石艦は増速を始め、前方で哨戒隊列で航行する四水戦と二航戦の間やや右寄りに遷移して陣取る。八戦隊がさらに右寄りに陣取って8基の主砲を右舷に旋回させた。ちょうど二航戦を艦隊中央に置き、その右翼に壁を作るような格好となったのだ。
そんな中、忠は修正を指示しながらの合間を縫って舷窓から右舷を覗く。見れば水平線の向こうから、四戦隊、七戦隊の砲撃支援の下に真一文字で突進してくる神通艦の姿があった。盛大に煙突からどす黒い煙を上げて、30ノット以上の高速で魚雷のように接近してくる。ちょうど明石艦を正面に捉えているらしく、神通艦に単縦陣で続く指揮下の駆逐隊の艦影が神通艦の排煙と一回り大きい艦影で隠されていた。
『お〜お〜、きやがったな。』
そう呟く忠の後ろからは、明石の笑い声が響いてくる。また神通のべらんめえが聞こえているのであろうか、明石は緊張感の無い顔で抱腹して笑っていた。
するとそれまで明石艦の遥か前方に位置していた四水戦が、一個駆逐隊を率いて針路を右舷に変更した。どうやら突撃躍進中の二水戦に対して阻止行動に出るらしく、那珂艦を先頭に駆逐艦3隻が突進してくる二水戦の側面へと回り込んで行った。
忙しなく声が飛ぶ明石艦発令所も、ようやく落ち着きが出始めてきた。砲側、測的供に既に右舷に旋回を終えている。忠の当日修正と砲術長の指示待ちとなっているのである。しかし机に座って紙に方程式を書いて計算する忠の耳には、聞きたくない航海科からの報告が入ってきた。
『風向、北北東! 風速3! 高度49、気温2度、気圧そのまま!』
『ちっ!』
前回の報告と内容が変わった事に、忠は舌打ちをして方程式に書き入れた数字を塗りつぶした。どうやらラジオゾンデがようやく計測を始めたらしい。紙に書いた方程式をそのままに数字だけ変更して続行しようとするも、何が何だか解らなくなってしまったので忠は再度始めから計算しなおした。射表を一枚一枚めくる動作が、その度に彼を苛つかせる。力が入った彼の手に、何度か鉛筆の芯が折れたが、とにかく今は時間が大事と怒るのも忘れて彼は計算を詰めて行った。
ミミズのようになった彼の書いた方程式だが、その答えはしっかりと導き出されていた。忠は机から立ち上がると叫び、号令員達はその声に耳を傾ける。
『当日修正! 左、寄せ1! 下げ1!』
彼の言葉を受けて射撃盤配置の人員は装置を修正し、号令員達は各々の伝声管や艦内電話の前で彼の言葉を復唱した。やっと終わったと忠は小さく溜め息をしたが、すぐにそれに対応した事を示す号令員達の言葉が返ってくる。再び発令所の中には男達の叫び声が木霊した。明石もヘッドフォンを僅かに耳からズラして、その声に耳を澄ます。
『1番主砲、修正良し!』
『方位盤良し!』
『2番主砲、修正良し!』
忠は最後の言葉を聞くや、艦橋に繋がる伝声管の前に走り寄って叫んだ。
『主砲、修正良し!!』
すぐに伝声管からは、砲術長の野太い声での返事が返ってきた。
『一斉打方! てぇー!!』
『一斉打方! 発砲ー!』
砲術長の指示を受けて、すぐさま忠は振り返って叫んだ。彼の言葉が発せられて数秒後、壁一枚を挟んだ艦首から閃光と射撃音と衝撃が押し寄せてくる。
明石艦の主砲は高角砲であり艦載砲としては小さいが、その口径は陸軍であれば重砲に匹敵する。発射音に続く排莢音が響く中、忠は再び舷窓から外の様子を眺めた。
例え空砲といえども実弾とはなんら変わりない砲声を伴った明石艦と八戦隊の射撃が始められたその時、艦隊外郭の八戦隊と二水戦との距離は2万メートルをきっていた。
神通艦艦橋の天蓋では自分に向けて発砲してくる目標に、眉一つ動かさずに睨みつけたままの神通が腕を組んで立っていた。彼女の耳にも明石と同じようにヘッドフォンが掛けられており、胸元には首から提げた紐でぶら下がったラッパ状のマイクロフォンがある。どちらも彼女の足元にある、黒い箱状の機械からケーブルで繋がっている。
やがて神通は自身の艦尾に、一度視線を流す。4本煙突から盛大に巻き上がる排煙で部下達の姿は見えないが、彼女はその漆黒の煙の向こうに彼女達が追随している事を信じていた。これまでの猛訓練についてきた彼女達がついて来れないわけが無い。
手塩に掛けて育ててきた部下なのだから。
そう思って神通は再び正面に顔を向けなおすと、足元から聞こえてくる艦橋の声に耳を澄ました。
『木村艦長、煙幕展開用意はいいな?』
『はい、いつでも。』
『よし、襲撃開始。 各隊に通達!』
『主砲打方始め! 煙幕展開!』
木村大佐に指示を飛ばしているのは二水戦司令官の五藤存知少将である。勇猛果敢な彼の指揮は神通も気に入っており、その声を聞いた彼女は小さく笑う。そして側面に視線を送って四水戦との距離が遠いと認識した彼女は左手で胸の下にぶら下がっていたマイクロフォンを持ち、指揮下の艦魂達に向けて声を発した。
『これより煙幕を展開する。お前達は現状の速度と針路を維持してそのまま突っ込め。煙幕を抜けた所は目標のすぐ近くだ、どてっ腹に魚雷を突き刺してやれ。』
『『『 はい! 』』』
部下達の返事と同時に艦首の砲が射撃を始め、彼女の背後にある煙突から濛々と黒煙が噴出され始める。神通は黒煙を眺めながらも、艦橋より響いてくる五藤少将の声に再びニヤリと微笑んだ。なぜなら彼が発した言葉が、神通の思い描く水雷戦運動と完全に合致していたからである。
『私が八戦隊を引き付ける。お前達は煙幕を抜けたら、取り舵で目標の艦隊後方へ向かって進め。反航体勢で目標とすれ違うはずだ。外すなよ。』
彼女の言葉に部下達が返した返事は、迷いが無く自信が溢れた頼もしい声だった。その声に彼女は軽く拳を握り、この襲撃が成功する事を確信した。神通は右手をさっと前に突き出して、艦橋から聞こえてくる五藤少将の言葉と同じ言葉を叫ぶ。
『二水戦、突撃!! 蹴散らせぇえ!!!』
『敵一番艦、左舷に旋回! 八戦隊、面舵で敵背後に回りこみます!』
艦橋からの声を耳に入れた忠は、手近な舷窓から外の様子を見た。
そこには神通艦が濛々と黒煙を靡かせて、艦隊の外側を這うように航行している。
反航して背後に回り込むつもりか?
そう思ったのは忠だけではなかった。伝声管から砲術長の指示が聞こえてくる。
『主砲打方待て! 面舵で転舵するから、転舵が終わったら再開するぞ!』
高速で八戦隊に追跡される神通艦は明石艦とは反航して行くが、真横を向けていると魚雷攻撃される為に明石艦と二航戦は揃って面舵で転舵を始めた。一等巡洋艦二隻を相手に大立ち回りを演じる神通艦を眺めていた忠は、その艦の艦魂である神通が今頃は動きを読まれて怒っているだろうと思って口元を緩める。
ところがそんな彼の袖を明石がグイグイと引っ張って叫んだ。
『も、森さん! 罠だよ!』
『なに・・・?』
呆けた声で彼女に言葉を返した忠だったが、彼女の警告は既に遅かった。艦橋から繋がる伝声管からは、明石の言葉を現実として瞳に映してしまった乗組員達の悲鳴混じりの声が響いてくる。
『うわ! しょ・・・、正面に敵駆逐艦ーーーー!!!!』
明石艦や二航戦は神通艦の雷撃を警戒して面舵で転舵したのだが、それは艦首を神通艦が残した煙幕の壁に向けさせていた。グングンと近づいてくる煙幕の壁との距離は1万メートル程しかない。
しかしそこから突如として現れたのは、彼女が率いる二水戦の駆逐艦8隻。高速で煙幕を突破してくるその様子は、まるでどす黒い雨雲から発せられる雷のようだ。35ノットはあろうかという速度で疾走しながらもその隊列は一糸乱れぬ単縦陣で、それ自体が生き物のようですらある。
そして反航体勢で駆け抜けていく駆逐艦は、明石艦とすれ違う際に訓練用魚雷を一斉発射した。
『くっそ! やられた!』
宮里艦長の悔しさが滲んだ怒号が響くが無理もない。諸外国の駆逐艦と比較して圧倒的に魚雷の射線が多い帝国海軍駆逐艦から、至近距離で狙われたのである。回避など不可能だった。
また明石のヘッドフォンからも、目の前で魚雷を発射していく駆逐艦の声が聞こえていた。
『あ、明石さん見っけ!!』
『か、霞!?』
『あっはは! もらったぁあ!』
霞の声と供に猛スピードで白い雷跡が接近してくる。
狼狽する明石は忠の袖を引っ張って騒ぎ立てるが、二人にはどうしようもない。深めの深度で突き進むように作られた訓練用魚雷は、明石艦の艦底を憎たらしい程に颯爽に通り過ぎていった。それは満点の命中判定であった。
艦のあちこちから一斉に悲鳴があがる明石艦を尻目に、二水戦の駆逐艦達は明石艦後方に位置した二航戦にも自慢の魚雷を発射。悔しがる明石をあざ笑うかのように、彼女のヘッドフォンからは駆逐隊の歓声が響いていた。
『『『ばんざあ〜い!! ばんざあ〜い!!』』』
余りにも綺麗な戦闘を行った二水戦に、忠は悔しさを通り越して脱帽していた。さすがに神通が率いる部隊である。雷撃された際に明石艦は一発の応射もできず、一方的に叩きのめされた。
その日の訓練の結果は酷い物で、攻撃側の損害は八戦隊と渡り合った神通艦の大破判定のみ。防御側は空母2隻、仮装戦艦1隻が撃沈判定という惨めな物だった。
故に夜になっていつものように忠の部屋で行われた宴会では、鼻を高くした神通が上機嫌で酒を飲んでいた。忠と那珂は一言、『残念。』と言ってそれ程気にはしなかったが、明石はかなり悔しかったらしい。神通はベッドの中央に腰掛けて床に座った霞と霰を褒めているが、その横から明石があれやこれやとイチャモンをつけていた。
『囮なんて卑怯だ〜!』
『馬鹿者が。卑怯もへったくれもあるか。』
『なによ! 神通はカヤの外で大破判定だったクセにぃ!』
『なんとでも言え、撃沈判定め。』
『むきぃぃいい!』
奇声を発した明石は神通の服を掴んで、左右にグラグラと彼女の身体を揺らすが、神通は意にも返さずにお酒を静かに飲んでいる。となりで瓶ごと口に運んで自棄になって酒を飲んでいる明石が、なにか哀れに見えてくるという物だ。
無謀にも神通と論戦をしようとする相方に呆れながらも、その日、忠は改めて帝国海軍2水戦の実力を思い知った。
その後も第二艦隊の宿毛湾での訓練は熾烈を極めたが、おかげで新鋭艦が多い第二艦隊の錬度はみるみる内に上昇していった。太平洋上で繰り広げられた大規模訓練は2週間程で終わり、第二艦隊は休養の為に別府湾へと向かった。