第二話 「青年と艦魂」
『おいしいね。』
雲ひとつ無い青空と連合艦隊の艦船群が停泊する絶景に包まれ、"明石の基準"で半分に折った羊羹の塊を明石はまるでりんごを丸かじりするかのように頬張っている。それなりに大きい羊羹の塊を詰め込む胃袋は細身の彼女の体のどこにあるのだろうかと疑問におもいつつ、忠は今更ながら別腹という言葉を深く理解する。
そして綺麗な女性の姿でもさすが帝国海軍艦船の艦魂、なんとも豪快な食い方を明石はする。噛み過ぎじゃないかと忠が疑ってしまうほどに、頬を膨らませてもぐもぐと笑顔で食べている。おかげさまで母が持たせてくれた忠の分の羊羹はタバコの箱くらいしか残っていない。だが彼女はおいしい一時を与えてくれた忠にすっかり馴染んで、その言葉遣いも無理の無い柔らかい物になっていた。
『あ、甘い物の匂いがする!』等と彼女が口にして気づかなければ黙ってるつもりだった忠は、小さくため息をする。だが彼は決して不機嫌ではない。測距儀の上に這い出て彼女の隣に腰を下ろし、不運にも母から貰った羊羹を笑顔という武器で簒奪されてしまったが、すっかりご機嫌の彼女は艦魂の存在と概要を説明してくれた。
子供の頃から世間一般の男の子の一人として淡い憧れを抱いた帝国海軍の軍艦にも命があり、自分だけはそれを五感で認識できる。そんな夢のような現実が忠を喜ばせた。
故に小さく残った忠の羊羹も、心なしか実家で食べた時よりも旨い。自然と彼の口元が緩んだ。
『そっか、人間と話すのは初めてなのか。』
忠の言葉に明石は心底うれしそうに『うん!』と大きくうなずく。時折、指についた羊羹の汁をベロベロとなめる仕草がとても可愛い。18〜19歳くらいの見た目を持ち、スラリと長身の彼女だが子供のような仕草と物言いが印象的だ。
『森さん、出身はどこ?』
すっかり彼に安心している明石が放った言葉は、とてもありきたりな質問。だが人間の社会では社交辞令のように飛び交うその言葉も、彼女の表情は心の底から忠という人部うを知りたいと願う気概が溢れている。澄んだ瞳で忠の目を見つめながら彼女は彼の答えを待っているが、そこそこ美人な彼女の視線に太刀打ち出来る程、忠は強くなかった。カッコつけるフリをして視線を彼女から眼前の絶景に移す。
『青森だよ、雪と魚ぐらいしかない田舎さ。』
『雪かあ、見た事ないなあ。』
いつの間にか食べつくした羊羹の紙を丁寧に折りながら明石は言った。おいしい一時が終わってしまったからか、彼女の言葉はさっきよりもほんの少し少し寂しそうに聞こえる。
『明石は、出身は佐世保になるのかい?』
『うん。2年くらいはいたんだけど、雪は降らなかったなぁ。』
『その内、大湊辺りにも寄航するんじゃないかな。その時見れるかもね。』
忠はチラっと彼女の横顔を見た。小声で『やった。』と呟きながら彼女は笑顔で背中を反って空を仰いでいる。するとちょうど彼女の首元に流れた忠の瞳には少尉の襟章が見えた。艦魂社会では何を持って任官するのだろうかと忠は疑問を抱きながらも、その階級が自身を同じであった事から少しだけ彼女に親しみを感じる。
『なんだ明石も少尉なんだ?』
忠に首元を見つめられている事に気づいた彼女は、頬を赤くして慌てて反った上半身を丸めた。
『ほ、補助艦艇だから・・・。な、長門さんが一番偉いんだよ!』
膝を抱いて丸くなりながら彼女は眼前の海原に浮かぶ艦船群を指差そうとした。だが、そこにお目当ての艦がない。
『あ、あれ・・? えっと・・・。』
明石はそんな言葉を上げながら、壁に字でも書くように人差し指を動かしている。彼女の困った顔を忠は初めて見た。
『あはは。長門艦は今日は和歌山沖だよ。新しい司令長官を迎えにね。』
昨日、同期と飲みに行って良かったと忠は一人で安堵する。
他愛無い酒の席での話が、奇しくも彼女の疑問に対しての回答になったのだから無理も無い。今度また飲みに行かねばなるまいと仲間達に感謝しつつ、忠は艦船群を眺めたままで明石に言った。だが返ってきた彼の声に、明石は自分の未熟な立場を思い知ってちょっと気を落としてしまったらしい。
『あ・・・。ご、ごめんなさい。私まだ連合艦隊には正式に所属してないから・・・。艦隊の行動とか良くわかんなくて・・・。』
彼女は恥ずかしさの余り顔を真っ赤にして忠から艦尾に視線を流し、それに気づいた忠も振り返る。帝国海軍艦船の証たる軍艦旗が、二人の視線の先にある明石艦艦尾の旗竿にはなかった。
『予定では11月だよね、編入は。』
忠としては大した事ではなかったが、明石に目を移すと今にも泣きそうな目をしていた。一丁前に砲術士少尉として来た忠と、階級だけでなんの肩書きも無い自分を比べて不甲斐なさを感じてしまったのだろうか。初対面の時の勢いはどこへやら、怒られて落ち込むような女の子がそこにいた。小さく背中を丸める明石に、忠はなんとかその場を繕おうと口を開く。
『大丈夫だよ。明石は最新鋭の専門工作艦なんだよ? 長門艦や陸奥艦ですら出来ない事が明石にはできるんだよ。今はしっかり働けるように訓練に励んで、焦らず編入される時を待てばいいさ。一緒に頑張ろう。な?』
最後の一言をつい勢いで言ってしまった忠は少し焦った。さっき出会ったばかりの女性に掛ける言葉ではない。しまったと忠は慌てるがそれが行動に出る前に、明石はその言葉に救われたかのように顔を上げる。落ちずに瞳の縁に溜まっていた涙が、笑顔になった事でホロリと彼女の頬を流れていく。
『ありがとう、森さん・・・。』
少し震えるように発した明石の声は小さかったが、周りの波音や重機の音にかき消される事無く忠の耳に届いた。満面の笑みの彼女に忠は自分の失言の影響が無い事を確認し、一人胸を撫で下ろす。年下の女性相手に一人慌てた自分が、彼には少し情けなく思えた。
ちょっとした自己嫌悪に襲われる忠を他所に、明石はニッコリと笑い体育座りのまま前後に体をゆらゆらと揺らしていた。
『森〜、いるか〜?』
カンカンとラッタルを上がる音と、野太く伸びのある声が測距儀の中から聞こえてきた。声の主にすぐ見当がついた忠はすぐさま返事をしながら、測距儀の中へと降りてみる。すると忠の予想は当たっていた。
『大尉。』
敬礼しようとした忠に、青木は笑顔につられて上下する髭と同じテンポで手を左右に振った。
『敬礼はいい。今日はとりあえず部屋でこの辺の書類を読んどけ。後、今日は夕食に続いてそのままお前の歓迎会だからな。』
そう笑いながらポンと忠に手渡された書類は結構分厚い。艦内の諸規則や砲術士少尉の業務内容関連の書類だ。その量に少し忠の笑顔が引きつる。
『は、はい。』
新人である忠のそんな表情を青木は予想していたのか、笑いながらラッタルを戻っていった。何か台風でも過ぎ去ったかのような雰囲気に、忠は手元を視線を落として眺めてみる。そこにあるのは台風の傷跡ともとれる書類の束。『あ〜あ・・・。』と心の中で口にする忠の後ろから、明石の視線とケラケラという感じの笑い声が聞こえる。
『一緒に頑張ろうね、森さん。』
明石にも忠の心の内は解ったらしく、お返しとばかりにさっき自分にかけられた言葉を彼女はわざとらしく言った。そんな明石に苦笑いするしかない忠。
『ははは、そうだな。』
忠は精一杯の歪んだ笑顔を明石に向けた。
『あ、天窓閉めるね。』
『うん。』
そう返事すると彼女は天窓から測距儀の中に降りてきた。手を空けるために座席に置いた忠の書類の束を、明石はツンツンとつついてはニヤニヤしている。もっとも忠はそれを気に留めず、天窓をパタンと一思いに閉めた。
『はい。』
彼が天窓を閉め終えた所で、明石は書類の束を憎たらしい笑顔で両手で差し出してくる。少し口を尖らせてそれを小脇に抱え、忠はラッタルを折り始める。そしてラッタルを降りた先、艦橋後ろの広い場に出た所で忠は歩みを止め、ふと後ろを振り返った。
そこにはニコニコと笑顔を湛えた明石がいた。彼女は表情をそのままに、忠の視線に首を傾げる。
『うん?』
どうしたの?と言う様な顔だ。悪気が全く無く、人を疑う事など露知らぬ無垢な笑顔で忠の目をじっと見入る明石。部屋に戻って大尉の指示通りの業務をしようとしている忠は、この時、そんな自分の後ろに追随してくる明石に非常に素朴な疑問を抱いたので聞いてみる事にした。
『うんと・・・。なんでついて─。』
『早くお部屋戻んないと。夕食まで書類読み終えなきゃいけないんでしょ? 初日なのに大変だよねぇ。』
『いや、だから、なんでついて─。』
『あ、でもボヤボヤしてたら青木さんに怒られるよ? 結構怖いんだよ、青木さん。』
また無視かよ。
そう脳裏で呟きながら、忠は額に手を当ててため息をつく。決してこの女性が嫌いな訳じゃないが、こういうマイペースで出鼻を挫く話し方をされるのが忠は苦手だった。でも彼女の仰る通り、こんなトコでブラブラして怒られる気など彼には毛頭無い。とりあえず自分の身に危険がないと思われる彼女への疑問は封印する事に決め、二度目のため息と同時に正面に向き直った忠。だがその背中を明石は後ろからグイグイと押し始めながら、忠の行動を急かす言葉を放つ。
『5分前の精神!急ぐ、急ぐ!』
なんでこんな所まで来て、兵学校みたいな事を言われなきゃならんのだ。
そんな事を思いながら、忠は背中から伝わる力に身を任せて歩き出した。
最新鋭の艦である明石艦は、こういう所で役得がある。
マサに案内された時は荷物を置いただけで彼には部屋をじっくり観察する暇が無かったが、改めて見てみるとその部屋は隅々に至るまでピカピカだ。備え付けの机や棚、ベッドや壁には埃一つ着いていない。壁や天井のほのかな塗料の匂いさえまだ残ってる。
本来なら忠のような下級将校は、艦内各科長に当たる士官のように個室を与えられる身分ではない。士官室士官と正確には呼ばれるのだが、これに対して忠の様な幹部ながらも若輩である者達は3人部屋か2人部屋での士官次室での生活となり、次室士官という呼称で艦内でも明確に区別される物である。
だが僅かしか配属されていない明石艦艦内の士官の一人である事と、水平甲板型の艦体を持つ事からそこそこに居住性の良い明石艦の艦内事情も功を奏し、彼にはとっても狭いながらも個室が用意されており、その事もまた忠の部屋に対する印象をより良い物へと変えていく。800人近い乗組員数を誇る明石艦なのだが、その内の士官とされる階級の乗組員は僅かに15人しかいない。彼はまだ新米の少尉ながらも、その数少ない士官の一人なのである。
『さすがにピカピカだなぁ。』
『へへーん、気に入ってくれた?』
小奇麗な部屋に感動して、忠は彼女の事をすっかり忘れてた。ゆっくり背後へと振り向いていく忠だが、明石は対称的に至って普通そうにして部屋備え付けである椅子に腰掛け微笑んでいる。
とりあえず部屋に入った状態なら大尉の目は届かないだろうと彼は判断し、かねてからの懸案を解決する事にした。明石に身体を向けなおすと腰に手を当て、忠は彼女に顔を近づけるように僅かに腰を折って声を上げる。
『なあ、明石。』
『うん? なあに?』
艦橋からこの部屋に来るまで悩み続けた忠の心など、気にも留めていない彼女。首をかくんと傾けて、きょとんとした顔で忠の声の続きを待っている。
『なんで、ここにいるの?』
忠の質問に明石は眉間に緩くしわを寄せて口を尖らせた。同時に右手の指先を頬に当てて、彼女は忠の質問に返す言葉を悩んでいる。
『う〜ん、まだ艦魂の説明が足りなかったかな?艦魂はこの艦と一心同体だからこの艦の中なら─。』
『いや、そうじゃない。』
質問の意味が伝わっていないと判断した忠は、初めて彼女の会話を封じて発言する。
『ここオレの部屋だよ?なんでオレの部屋にまでついて来るの?』
『うっ・・・。』
忠の言葉に明石は驚いた顔をした後、肩をすくめて丸くなり俯いてしまった。
明らかに衝撃を受けて言葉を詰まらせた彼女の姿に、忠は自分の言い方が少しキツイ言い方だったとすぐ気付く。
『あ、ごめ─。』
『わ、私ここにいると、じゃ、邪魔・・・?』
顔を床に向けたまま、明石は言った。帽子のつばで忠には彼女の表情が見えなかったが、彼女の声に込められた気持ちが伝わってくる。
『その、まだ私って他の艦魂とあんまり話す機会ないんだ・・・。艦隊編入もされてないし・・・。森さんとは会ったばっかりだけど普通に話せるし、もっと話したかったから勝手に来ちゃったんだけど・・・。迷惑だよね・・・。』
『いや、迷惑じゃないよ!ごめん、そんなつもりじゃなかった・・・!』
忠の慌てたその弁明に、明石は少しだけ顔を上げた。忠からは明石の口元辺りが見えるのみだが、不安げな表情をしているのが彼女の桜色の唇から解る。忠は消える間際のロウソクのような彼女の落ち込み様を払拭するために、少しだけ声色を上げて違う話題を振ってみた。
『・・・あ、明石はいつも艦の中のどこにいるんだい?自分の部屋とかあるの?』
『うん・・・。でも乗り組む人が増えてきちゃって、私が使える部屋はもう無いんだ。最近は通路の隅っことかかな・・・。』
『あ、そうなんだ・・・。』
相も変わらず明石の口から返ってくる弾みの無い声に、何か彼女の身の上がとても不憫に忠は思えた。明石が人並み以上に話す事が好きな性格であるという事は、忠も既になんとなくだが解っている。だがそんな明石にとって、他の艦魂とあまり話せない立場と供に居場所すらも転々としなければならなかったこの2ヶ月間と、その中で味わってきた彼女の心の寂しさや辛さはどれ程の物だったろうか。ある意味では心が飢えているのかもしれないと忠は考え、それまで抱いていた彼女に対する考えを改める。
『それなら、少しここに居なよ。』
測距儀の上であの笑顔を見せられた忠には、すっかり消沈している不憫な彼女をこれ以上見れなかった。
例え一時でも彼女の心が和らぐならそれで良い、根は心優しい彼のそんな想いを込めた言葉に明石は顔を上げる。
『ほんと・・・?』
『うん。オレみたいなのが話し相手でいいなら・・・。』
おもむろに差し出した忠の右手を明石は両手で掴むと、うつむいて自分の額につけた。忠は驚いて一瞬手を引こうかと思ったが、そのままにしてやる。きっと何気ないこんな小さな触れ合いが、彼女は欲しかったんだろう。豊かな表情と、時折見せるマイペースなおしゃべりが特徴の明石。そんな彼女だけに、この2ヵ月間は寂しさとの闘いだったのではないだろうか。忠は微かな彼女の泣き声と供に、右手に冷たく濡れた物がしとしとと伝わるのを感じた。
『一緒に頑張るんだろ? 泣くなよ、明石。』
『ふふ・・・。森さんが言ったセリフなのに。』
『あはは、そうだっけ?』
微笑む忠に明石はゆっくり顔を上げる。赤くなった目と涙で汚れた頬を擦りながら、頼りなくも優しい笑顔で忠を見つめた。
『せっかくの美人が台無しだよ。ほら顔拭いて。』
『うん・・・!』
忠の差し出したハンカチで明石は顔を拭いた。時々ハンカチの隙間から見える頬を少し赤くした彼女の笑顔に、忠も不思議と心が安らぐ。
やがて部屋を支配していた気まずい雰囲気も晴れ、彼は一安心してベッドに腰を下ろし、書類の束を解き始めた。
やれやれ、こいつの読破と明石のおしゃべりの相手か。こりゃ大変だ。
忠はそう思いつつも小さく微笑み、静かにため息をした。
『お仕事開始?』
明石はようやく涙が収まったのか、椅子から立ち上がって言った。
『ああ。夕食までやっつけるさ。』
忠の言葉に小さく明石は頷く。
『お茶でよかったら飲む?』
そう言って彼女が机の上で手をを2、3回左右に何かを撫でるように動かすと白い光がふわっと光り、湯気が上がるきゅうすと湯呑が出現する。この白い光を伴った不思議な能力に関しては、既に忠は測距儀の上で明石と話していた際におしえてもらっていた。何も無い所に突然物体が出てくるというなんとも奇妙奇天烈なお話だが、それが明石にとっては自分に対する精一杯のお礼とすぐ気づいて笑顔を返してやる。
明石が淹れてくれたお茶のおかげか、なんとか夕食開始までに忠は書類を一読する事に成功。自分の事だからか、意外にも明石は書類の内容を説明してくれた。知的な雰囲気があまり感じられない明石だが、自身の分身として艦の隅々まで知っている彼女の講義に忠は助けられる。
ここには何の設備がある、ここの通路は常に人通りが多い、ここは物品の搬入の際に混雑して通れない時があるなど、艦の中身と日常をよく知っている明石の言葉は、これからそこで働く事になる忠が職場を理解する上で大いに参考になるのであった。
『ありがとな。』
忠のお礼の言葉に、優しく笑った明石。
だが明石の小講義が終わってすぐ、夕食の案内をしにマサが部屋を訪ねてきた。部屋を覗き込んで忠を呼ぶマサの視線は忠にしか向いていない。やはり見えてないのかと忠は改めて艦魂の見える事を実感し、ちょっとした優越感を覚える。そのまま部屋に残る明石に軽く手を上げて挨拶し、彼は弾むような足取りで夕飯へと向かっていった。
部屋で一旦別れた二人だったが、明石は歓迎会が始まる頃になって夕食と歓迎会の会場である士官食堂に忠を追ってひょっこりと現れた。触れ合いに飢えている彼女の心を思い出し、忠は自分の横に小さく手招きして明石を呼んでやる。
『きちゃった。』と言いながら軍帽をとり、忠の横に座りながら笑う明石。首の後ろで結った明石の髪は、サラサラと彼女の背中を流れている。これから始まる宴会を楽しみにしているのか、明石は一人でニヤニヤと微笑んでいる。だが彼女を素通りして忠への配膳を行うマサに明石は背を丸め、目を伏せ気味にして口をへの字にした。忠はみかねて自分の前にあった皿やお碗を少し寄せて明石と自分の間に置いてやった。明石はそんな忠に大きく瞳を開いて微笑むと、お碗の中の肴を一つまみして口に運ぶ。
よく食う奴だ。
食欲旺盛で女の子らしさが薄れる彼女の豪快な食べ方に、忠は胸の中でそう呟きながら笑った。
『よおし、それでは今から─。』
年寄りとは誰もがあういう物なのか。少しくどい感じの堀田特務艦長の初めの挨拶を皮切りに、男達の宴が始まった。あちこちから乾杯を求められる忠。乾杯する都度、叱咤激励される忠はなかなか一杯目に口をつけれない。しかも主役がまだ一滴も飲んでいないにも関わらず、早くもコップを空にしている堀田艦長の号令が飛ぶ。
『第一撃、青木! 軍艦行進曲! よ〜い、・・・て〜!』
『『『 護るも、攻むるも黒鉄の〜! 』』』
堀田特務艦長の声で立ち上がった青木大尉は脚を大きく開き、帽子を握った右腕をブンブンと振って音頭をとった。180センチを超える大男の青木大尉による迫力ある音頭と、低音が効いた声につられ食堂内の全員が歌いだした。手拍子の嵐の中、暴れるように腕を振る青木大尉は、のほほんとした昼間の彼からは想像がつかなかったがとても歌が上手かった。明石もさすがにこの歌は知っているのか、両手で手拍子を打ちながら体を左右に揺らして歌っている。
『カルピスとおいしい物が食べれるんだよね!』と、賑やかな雰囲気で始まった宴会にすっかり上機嫌な明石だったが、帝国海軍の酒の場をナメていた彼女は、上半身裸になって歌いだした男達の姿に顔を真っ赤にして膝を抱える。酒を飲んで騒ぐ事がそこそこ好きな忠は、艦長の計らいで給仕としてその場にいたマサと供に手拍子を打ちながら大声で歌う。忠にしか見えていないが、明石は彼の隣にちょこんと座り、眼前の裸の男達を見ては赤面してうつむき、忠が用意してくれたカルピスや小料理を目に残る光景を振り払うように口に運ぶ。茹ダコのように真っ赤な明石の顔を、忠はチラッと横目で見てみる。コイツ可愛いじゃないかと彼は思ったが、もう酒が回ったかと素直な自分の気持ちに心の中で言い訳をした。
そして忠はそんな彼女を見かねて、お酒を勧めてみる事にした。彼としては歳若い彼女にお酒を飲ませるのは気が引けたが、せっかくの賑やかな場もこれでは楽しめないだろうと思い、物は試しだと勧めたのだった。ちびちびと日本酒を飲む明石は相変わらず赤面しているが、酔ったのか裸の男達に対する気後れが少し無くなったようだ。顔を上げて次々に歌われる軍歌を体を揺らして歌っている。揺れる彼女は時折、隣の忠に肩をぶつけるが気にもせずに歌い続ける。楽しんでるな、良かった。ガラス細工のように綺麗な歌声と心のそこから喜んでいる明石の表情を、横から見て忠はそう静かにつぶやいた。
『この歌かあ!』
そう言いながら明石はへたり込むように座っていた体勢から姿勢を直し、宴会のシメとして全員で歌った「月月火水木金金」を叫ぶように歌い始める。あんた海の男なのか?という疑問は下らないので、忠は敢えて言わなかった。それでも、まだレコード化されていない曲なのに明石がよく知ってる事に、生まれたばかりとは言えさすが帝国海軍艦魂だと忠は一人感心する。しかし歌い終わったと同時に、明石はふらふらとしながら赤面の笑顔を忠に向けて一言。
『疲れた。寝る!』
そう言ってその場にひっくり返ってしまった。気味が悪いくらいニヤニヤした寝顔で、忠が揺さぶっても面倒くさがって起きようとしない。既に食堂の男達は腰を上げ、後片付けと寝床へと戻り始める者達に分かれている。忠はそんな光景を視界にいれつつも、周りの者達にその仕草を気取られないよう注意しながら明石の肩を揺するが、明石は彼の心遣いと手を煩わしそうに振り払った。
はあ、世話のかかる奴。
そう思いつつ、忠は人に見られないようそそくさと明石をおぶって自分の部屋に向かった。
少し休ませてやるか。これじゃ歩いたが最後、海に転落するかもしれない。酔いが冷めてから帰らせよう。
あれだけ飲んで食ったにも関わらず、細身の明石の体はとても軽い。背中から伝わるほのかな彼女の体温と耳元で聞こえる息遣いが、明石が艦の命であり人外の者である艦魂だという事を忠から少し忘れさせる。
一応は3年以上に及んだ海軍兵学校で鍛えぬいた丈夫な身体を持つ忠は、一般的な女性と同じくらい体重である明石をおぶってもバテるような事はなく、ほんの少しも乱れていない呼吸としっかりとした足取りで自身の部屋まで辿り着いた。
だが部屋の扉を開けた先に、忠は予想外の光景を目にして思わず声を上げる。
『な、なにこれ?』
自分の部屋の扉を開けて驚く人間とはどれ程いるだろうか。そこにはベッドとは別に、床にもう一つの布団が敷いてある。忠はその時、ちょっと酔いによって停滞する思考回路の果てに、士官食堂に行った自分を時間を置いて明石が追ってきた事をふと思い出した。
『私、下でいいよ。』
立ち尽くして思考を整理する忠を他所に、ご機嫌でそう言って酒臭い息を出しながら忠の背中からずり落ちた明石は、四つん這いで床に敷かれた布団に潜り込んだ。
もちろん忠は酔いを忘れて、自身の部屋にて眠ろうとする明石に声を張り上げる。
『ちょ、ちょっと待っ─!』
『う〜ん?』
唸るように声を放った明石は既に目が半開きだ。掛け布団の中でモゾモゾと動くとその中から上着がヒョイっと弾き出される。昼間の綺麗で繊細な彼女が、今は酔っ払ったオッサンのような行動をとっている。なんという女だ。
『おいおい、ここに居ても良いって言ったけど、寝るのはマズイだろ?』
『なんで?』
『なんでって、いくら艦魂でも明石は女の子─。』
『疲れた。寝る!』
『いや、寝るって─!』
『ヤだ!寝る!』
『だ、だから、ここはオレの部屋─!』
『おやすみぃ・・。』
『人の話を最後まで聞けーーーー!!!!!』
『すー・・・、すー・・・。』
人生22年目にして掴んだ夢の艦隊勤務、なんでこんな事になってしまったんだ。不憫に彼女を想ってやったオレが馬鹿だったのか?やっぱこういう女、苦手だ。
一日の疲れとマイペースを極めた手に負えない女性と収拾不能の事態、忠は両手で頭を抑えてベッドに崩れ落ちた。
『もうやだ、オレ・・・。』
彼が幼い頃から憧れた海の男の艦隊勤務はこうして初日を終えた。同時に彼の「気ままな男所帯」という夢も終わった。
明石艦の中ではその夜、夢破れて枕を濡らす青年の声が波音のように静かに響いたという。