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第一九話 「楽しい競技会/後編」

 時間は1143。

 正味3時間をかけて繰り広げられた鬼ごっこは、木村(きむら)大佐と追われる艦魂達が力尽きてその場に倒れ込む事で終わった。艦尾のマットの周辺で肩で息をしながらヘタる艦魂達。(かすみ)明石(あかし)も汗だくで座り込んでいた。


 例外なく(ただし)も、マットの正面に大の字になっている。

 自問自答しながらも怖いお人に後ろから追われ続けた彼の疲労は、これまでの海軍生活で経験したどんな訓練よりも辛かった。あまりよろしくない事だが、忠は服の胸元のボタンを外して前を開くと、帽子を手にとって顔を扇ぐ。


 『ぜはぁ、ぜはぁ・・・。』とその場にいる者の殆どが疲労の吐息を発する中、彼の隣では唯一平気な顔をした神通(じんつう)に木村大佐がガミガミと怒られている。時折響き渡る、神通が振り下ろす竹刀の音と木村大佐の悲鳴。だがそれを止める役の(あられ)も神通の実の妹である那珂(なか)も、走り疲れてマットの上に横になっていた。忠にすらも既に木村大佐を助けようという余裕は無かった。


 もう勝手にやってくれ。


 そんな言葉が彼の脳裏を通り過ぎていく。甲板に大の字になっている忠の瞳には、変わらずに青空を流れていく雲が映る。風によって流れる雲、朝見たときには羨ましく思えたその光景も、今の彼には少し可哀想に思えていた。


 大変だな、いつも追われているお前は。


 そう思いながら、しばらく忠は空を眺めていた。



 その時、艦全体に昼食を促すラッパが響いた。周辺に停泊する艦からも一斉に同じ譜のラッパが鳴り出し、その場にいた者の全てにとある時間を伝えていく。

 やがてその場を圧するラッパの音を認めた神通は、足元で悶える木村大佐から顔を上げた。どうやら怒りに任せた興奮状態から我に帰ったようで、彼女は周辺に倒れ込んでいる仲間達を見回して状況を把握している。予定していた柔道の訓練が出来なかった事を再度認識して、神通は呼吸を整えながら目を閉じて舌打ちをした。


『ちっ・・・!』


 やっとの事で身体に力が入るようになった忠は上半身を起した。空腹を知らせる腹の音が鳴り、彼は自分のお腹を押さえながら、横で不機嫌そうに目を閉じて俯いている神通に向かって声を発した。


『はあ・・・。神通、一旦艦に戻って昼を食って来ていいかい?』

『ふん・・・。仕方あるまい、午後から始めるか。』


 艦魂である瞬間移動の能力が忠には使えないので、彼は相方の明石に視線を流す。

 鬼ごっこの鬼に追われた張本人である明石は、マットの右舷側で倒れた霞に折り重なるようにうつ伏せで横になっている。呼吸が苦しいのか、彼女は大きく開けた口から舌を出して荒い息をしていた。


 あれではとても自分の艦まで帰れるような体力は残ってはいまい。


 どうした物かと考える忠だがふと聞こえてきた物音に神通の方を見ると、木村大佐が滅多打ちにされた背中を押さえながら立ち上がった。『お〜、あだ・・・。』と顔をしかめながらも、立ち上がって少しするとその表情は普段のそれに戻ってしまう。


 なんとタフな人だ。


『神通、帰らせる事は無いぞ。』

『ん?』


 木村大佐の言葉に神通は怒り半分、興味半分といった複雑な顔で振り返った。


『昼飯は全員分用意してある。昨日、霰から聞いとったからな。主計長に頼んで、房業教育食として用意させておいた。森少尉、お前も遠慮せず食っていけ。』


 木村大佐は白い歯を見せて、笑顔でそう言った。主計科員その物の教育として作られる食事を方便として主計長を説得したらしく、わざわざ彼はここにいる艦魂達の昼食を用意してくれたのだと言う。さっきまで明石を追い回していた木村大佐だが、ひょうきんながらも何か優しい親父のような感じを放っている。

 そして神通は曲がった事は嫌いだが、逆にこのような心遣いを無碍にする事も嫌いな性分だった。彼女はふて腐れながらも、彼とは目を合わせずに小さい声で礼を口にする。


『・・・ふん。それはすまんな・・・。』


 さすがに神通は長く生きていない。短気な人だが子供のように意地を張らず、素直に木村大佐へ礼を言った事に忠と木村大佐は小さく笑った。

 そんな二人に少しイラっとしつつ、神通は頭を掻きながら倒れ込む部下に声をかける。


『お前等、昼飯は私のトコで用意してある。とりあえず食え。おい、霰。ジジイと昼飯を取って来い。』

『は、はい〜・・・。』


 霰は神通の声に力なく返事をするとおぼつかない足取りで立ち上がり、忠達がいる所まで歩いてきた。

 外見的に運動が得意そうではない霰は汗びっしょりで、まだまだ呼吸が荒い。それでも一言半句の文句も言わずに、神通の命を実行しようとする辺りはさすがだ。霰は木村大佐の前までくると、姿勢を正して言った。


『ひぃ、ひぃ・・・。木村大佐、お手伝いさせて頂くどす。』


 霰は神通ほどに彼を毛嫌いしているようではない事を忠は察するが、元々人形のように清楚で可憐な彼女には人を疑う事など知らないといった感じさえする。

 汗を袖で拭きながら綺麗な笑みを向ける霰に、木村大佐は彼女の頭を撫でて笑った。


『よおし、じゃ、行くか。』

『はい。』


 二人は笑顔を向け合うと、艦内に向かって歩いていった。

 面と向かって霰のように笑い合うことが出来ない神通は、二人の背中を少し口を尖らせながら眺めていた。






 しばらくして霰と木村大佐はおにぎりを満載した台車と、大きな運搬函(うんぱんはこ)を4個程かかえて戻ってきた。

 おにぎりは細かく刻んだワカメを混ぜて握られた物で、磯の香りがヘトヘトに疲れた艦魂達の食欲をかき立てる。さらには運搬函の中身は肉じゃがで、人間の食事として見てもこれは中々に豪華である。体力の回復が急務な神通以外の艦魂達は、おいしい食事をご馳走してくれる木村大佐に口々にお礼を言った。

 鼻を高くした木村大佐は『わっはっは。』と大声で笑っているが、一瞬にして部下の心を掌握してしまった彼に神通は不満げな表情を浮かべていた。


 マットを囲むように座ってみんなで食べる食事は、おいしい一時を与えられた艦魂達の会話で花を咲かせる。

 忠の右横には寄り添うように明石が座っておにぎりを頬張っているが、彼女はまだ微妙に木村大佐に信用が置けてないらしい。忠の体から顔を半分だけ覗かせて、たまに彼の左横に座る木村大佐に警戒の目を向けている。もっとも平気でお尻を触ろうとする彼に追い駆けられた彼女の不幸を考えるに、それは決して無理の無い事である。木村大佐は明石の視線に気づくと髭をピンと立てて笑みを送るが、明石はそれに気づくとヒョコっと忠の身体に隠れた。

 木村大佐の向こうでは神通が霰の給仕を受けて、黙々とおにぎりや肉じゃがを口に運んでいる。塩の聞いたおにぎりが疲れた身体に再び活力を漲らせる。神通もその味に満足しているのか、どことなく明るい表情をしている。どうやら彼女の怒りは完全に静まったらしい。

 その一方で霰は神通の碗にやかんで水を注ぐと、隣の木村大佐の脇にしゃがみこんで口を開いた。


『木村大佐、飲みはるどすか?』

『お。すまんなぁ、霰。』


 木村大佐が掲げたお碗に霰はやかんを傾けた。お碗に流れ込んでいく水の音が、二人の間に響き渡る。木村大佐は、一生懸命にやかんを傾けて水の入り具合を見つめる霰の横顔を眺めて思わず声を上げる。


『霰は良い子だなぁ。どうだ、オジサンの家にお嫁に来ないか?』

『ぶっ! ごほっ、ごほっ・・・!』


 木村大佐の言葉に、神通は飲みかけていた水を噴出して咳き込んだ。


 歳の割りになんとまあ、若さが目立つお人だ。


 そう思った忠は口に手を当てて笑う。彼の横では明石と霞が顔を合わせて、悲鳴にも似た呻き声を上げながら木村大佐と霰に視線を送っている。

 しかし当の霰は落ち着いたもので、楽しそうに笑いながら木村大佐に声を発した。


『うふふ。木村大佐は、もうお子さんもいはるんやないどすか?』

『わはは。でも、おじさんは霰みたいな子が好きだなぁ。』

『ふふ、おおきに。』


 霰は見た目は明石よりも年下で、女学生のような顔つきをしている。それでもこのように、やんわりと木村大佐の会話に受け答えできる、ちょっと大人びた接し方を持っていた。むしろ隣で咳き込みながら会話する二人を睨みつける神通の方が子供に見えてくる。おかしな光景である。

 故に忠の他にも那珂等、艦魂の内の何人かはその光景に笑っていた。


『森少尉、お前もそう思うだろ?嫁にするならこういう子が良いよなぁ。』


 木村大佐は霰の頭を優しく撫でながら、忠に顔を向けてそう言った。

 本人の前で『君みたいな子がお嫁なら〜。』等とは言いにくい物である。だがまだ幼い容姿と良く懐いてくれているいつもの彼女は忠にとっては妹のような存在であり、そんな意識を持って常に接したきた事もあって彼はさほど深くは考えずに声を返した。


『そうだな。霰みたいな子ならいいなぁ。』


 そう言って笑みを霰に向けると、霰は頬を少し赤くしながらも愛くるしい笑みで小さくお辞儀を返した。

 上官である木村大佐の言葉を否定するのはちょっと気が引けるので、愛想返事程度に返した忠の言葉だったが、別に彼は嘘を言ったつもりは無い。忠は那珂や霰のような、大人しくて綺麗な女性に好感を持つ人間だったのだ。


 少なくともウチの相方よりはマシだな。


 そんな思いから声を発した忠だったが、その直後、彼の背中には激痛が走った。


『いてっ・・・!』


 振り返ると不機嫌な事この上ないといった表情の明石が、彼の背中に手を伸ばしている。僅かに口を尖らせて横目でじーっと視線を向けてくる明石。と言っても勝手知ったる相方である彼女に、忠は恐れを抱く事はなかった。むしろ嬉しい嫉妬心を抱いてくれた彼女に、忠は悪戯っぽく笑って顔を近づける。


『へへへ。やきもちですか?』

『ふん!』


 まるで神通のようにそんな声を上げると、明石はプイっとそっぽを向いた。

 可愛い所あるよなあと忠は微笑んだが、その会話を明石の向こうで密かに聞いていた霞が小さく口を動かしてこちらを睨みつけてくる。彼女が『馬鹿。』と口走っているのが、忠にはすぐ読み取れた。


『怒るなよ、明石ぃ。』


 そう言って忠は明石の肩に手を乗せようとしたが、彼女は空中でその手を払うとムスっとしながら膝を抱いた。


『触んないで!』


 またしてもヘソを曲げてしまったらしい。やれやれ、困った奴だ。


 明石が怒っているのは完全に自分のせいという事は忠にも解っていたが、そんな彼女に愛おしさを覚えた彼はそれを忘れて笑った。

 その後、1300の課業開始を迎えるまで、彼の手を尽くした明石のご機嫌取りが展開された。昨日の夜のように、神通や那珂が助け舟を出してくれる事は無い。明石の後ろを追い駆けて声を掛けては罵られ、時には脛を蹴られる忠。他の艦魂や木村大佐に指を指されて笑われる中、ようやく彼女がまともに口を利いてくれたのは、課業始め5分前の号令がかかった辺りだった。






 そして神通の『別科始め。』の号令から10分ほど打ち合わせをした後、待ちに待った戦隊対抗体育教練が始まった。

 神通の要請通りに忠は主審となり、副審として木村大佐が就いてくれる事になった。二人とも兵学校の武技教練で柔道は経験しているから、その判断はバッチリである。明石はただの野次馬かと思いきや、怪我人が出た場合の治療員をかってでた。伊達に赤線の階級賞を付けていない彼女が治療員を勤める事に、艦魂達は憂い無く全力を尽くせると意気込みを新たにする。


 人間の世界でもそうだが、師団対抗、中隊対抗、学年対抗と言った具合に競争意識をもたせて競い合う事は、その結果と過程において高い効果をもたらす。古くは豊臣秀吉が用いたこの競争意識だが、同時にそこには部隊や集団の意地や誇りが上乗せされる物でもある。

 そして早くもそれを証明するかの様な光景が、忠の眼前には広がっていた。

 神通や那珂を除けばその場にいる艦魂達は年齢が十代そこそこの少女達ばかりであるが、さすがに帝国海軍の艦魂達である。マットを挟んで両舷に整列すると、どちらからとも無く殺気にも近い威圧感が発せられたのだ。

 特に那珂が率いる四水戦の面子のそれは凄まじい。忠が昼食の際に明石へと聞いた所によると、艦魂の身体能力は艦自体の性能とは全く関係ないそうで、やはり人間と同じように長い時間、質の高い訓練をすれば身につく物なのだそうだ。つまり生を受けて間もない朝潮(あさしお)型や陽炎(かげろう)型で構成される二水戦の面子よりも、竣工から暫く経っている吹雪(ふぶき)型で構成される四水戦の面子の方が艦魂としての実力は上になるのである。神通が(いかづち)に対して『胸を借りる。』と下手に出ていた理由もここにあったのだ。


 お互いに一斉に礼をすると、二水戦も四水戦も戦隊長を中心にして円陣を組む。その様子はさながら夏の中等学校野球大会のようだ。


『頑張りましょう。』


 いつもの笑顔で声をあげる那珂。彼女が率いる四水戦は下馬評でも有利であるし、その部下は猛者揃いである。余裕すら感じさせる四水戦の面々の表情は、忠から見る限りでは非常に明るかった。

 それに反して二水戦は予想通りと言うべきか、目を閉じる神通の前でビクビクと怯える少女達という光景になっていた。忠はその光景を瞳に入れ、彼女達の心情も忘れて思わず笑いが込み上げてしまう。それもその筈、二水戦の戦隊長は「鬼の神通」である。元来荒い言葉遣いで暴力的なこの人が、『負けてもいいや。』などと考える筈が無い。部下以上にこの人が一番張り切っているのであった。

 やがて一列に並んだ少女達が生唾を飲んで見守る中、神通はゆっくり瞳を開いた。闘志を溢れさせる彼女の目が、部下の少女達の身動きを封じる。


『いいか、お前等。』


 神通は部下一人一人の顔に視線を流しながら口を開いた。


『私達は栄えある帝国海軍二水戦だ。相手が四水戦だろうが、一戦隊だろうが、求められのは勝利だけだ。必ず勝つぞ。』


 神通はそう言うと少し表情を柔らかくして、腕を組んで姿勢を崩した。楽にした彼女の姿に、部下達の表情からも少し力が抜ける。


『今日はあれこれとは言わん。自分の思う通りに戦ってみろ。いいな。』

『『『 はい! 』』』


 今まで忘れていたかのように、部下達は大きな声で返事をした。若々しさが溢れる彼女達の声が辺りの波と風の音を遮る。四水戦の面々もその声にちょっと身を引いている。不敵に笑う神通の顔と彼女から闘志を与えられた部下達の姿に、忠と明石は笑みをあわせた。


 これは面白い戦いになるだろう。


 そんな思いに忠は大きく頷いた。

 ところがここで空気の読めない人が余計な事を言ってしまう。


『負けた戦隊は全員、おじさんの晩酌の相手をしてもらうからなぁ! だ〜はっはっは!』

『黙れ、ジジイ!!!!』


 腰に手を当てて大笑いする木村大佐。神通がすかさず罵声を浴びせるが、彼の言葉を耳にしてしまった双方の艦魂達からはすぐに悲鳴が上がる。午前中の鬼ごっこがまだ記憶に新しい彼女達には無理も無い。とりあえず自分は目標から外れた、と安堵して胸を撫で下ろすのは明石だけだった。


『よおし、今日はいっぱい酒を飲んじゃうぞ!』


 上機嫌で両腕をブンブンと振る木村大佐の顔は青空に負けぬ笑みで、固められた髭が再びピンと跳ね上がる。副審なのにやたら元気一杯な彼を見て、お互いの艦魂達はさらに気合を入れて必勝を期した。


 勝負は両戦隊の選抜した選手を戦わせて、最終勝利数の多いほうを勝者とする。先鋒、次鋒、中堅、大将の順で戦い、大将以外は時間制限ありの引き分けも可。

 大将が戦隊長である事を考えれば二水戦に有利な感じに見えるが、那珂は至って平然と笑っている。


 なにか策でもあるのか?


 那珂を不思議に思いながらも、忠は両手を上げて声を上げた。


『両戦隊、先鋒前へ。』


 忠の掛け声によって二水戦と四水戦からは、少女が一人づつ立ち上がってマットの上に足を踏み入れた。二水戦側の先鋒は彼女達の中で最も背の低い艦魂で、顔つきも14、5歳といったところである。小さな鉢巻を締めて引き締まった表情をしているが、まだまだ幼さが抜けていない彼女は帝国海軍最新鋭駆逐艦の陽炎(かげろう)艦の艦魂である。

 対して四水戦から出てきたのは明石のようにスラっと長身の体格の少女で、歳も明石とどっこいと言ったところか。彼女の後ろから発せられる歓声を聞く限り、彼女は(ひびき)艦の艦魂らしい。


『お互いに礼!』


 双方とも緊張はしていない様で、淡々とお辞儀をすると軽く腕を上げて構えた。

 二人の動作を見て忠は木村大佐に視線を送る。木村大佐も準備は大丈夫らしい。というよりも早く始めて晩酌させてくれとでも言いたげに、白い歯を見せて時計を握った手を振っている。

 その姿に苦笑いして小さく溜め息をした後、忠は片手を上下に振って試合を始めさせた。


『始め!』


 勝負は白熱した。陽炎が開幕一番で響の腰に飛び込み後ろへ倒し込んだが、響もただでは倒れてくれない。咄嗟に体を捻って背中を守り、有効判定へと持ち込んだ。小さい身体を生かした駆逐艦の艦魂らしい陽炎の奇襲だったが、一度それを見せてしまった事で響は対策をすぐに立てて対抗する。両腕を目一杯伸ばして体格の差を生かした組み合いを行おうとしたのである。こうなっては体格の差がある陽炎には辛い。消極的になった事でやむなく指導を課した忠の判定に、陽炎は覚悟を決めて響の懐に飛び込んだ。だが両足を開いて構えた響に勢いを止められて、最後は払い腰で派手に投げつけられて一本を取られた。

 礼を終えた後、今にも泣き出しそうな顔でみんなの元へとぼとぼと帰る陽炎だったが、神通は陽炎の肩に手を乗せると労いの言葉をかけてやった。


『よくやった。お前らしい戦いをした結果だ、恥じる事はない。』


 これが那珂の言葉であったなら、陽炎は一言返事をして座っていたに違いない。声を上げて流す彼女の涙は、鬼の戦隊長である神通がかけてくれた優しい言葉にこそ溢れた涙であった。神通は陽炎の肩から頭に手を移して少し撫でると、彼女を霰に託した。申し訳なさそうに泣く陽炎を霰や仲間の艦魂達が励ます姿は、陽炎にはすまないが忠としては何か微笑ましい。


 がんばれ。


 そう心の中で呟いた忠は一度深呼吸をして笑みを直すと、さっそく次の試合は始めた。


『両戦隊、次鋒前へ。』


 忠の声に双方から声援と供に送り出されたのは、二水戦側は満潮(みちしお)艦、四水戦側は(うしお)艦の艦魂であった。満潮は先程の陽炎の意志を継ぐかのように彼女の鉢巻を腕に巻きつけ、長い髪を器用に折り曲げて後頭部で結っている。対する潮は勇ましい駆逐艦の艦魂にしては意外な容姿の丸眼鏡をかけた女の子で、眼鏡を外すとグリグリと目を擦って進み出た。戦う前から少し充血した感じの潮の目だが、指の骨を鳴らすと同時にその目には闘志が宿る。満潮もすかさず顔を何度か手で叩いて気合を入れた。


『お互いに礼! ・・・始め!』


 先鋒戦と違って体格が同じくらいである二人の戦いは先程の速度的な展開ではなく、慎重に相手の袖や襟を掴もうとする所から始まった。円を書くように相手の周りを歩きながら、袖を取ろうと腕を伸ばしたり、逆に相手の伸ばした腕を払ったりと小競り合いが続いていく緊張感のある戦いであった。

 両者は中々勝負のきっかけが掴めずに時間だけが過ぎていく。やがて緒戦に続いて忠が再び指導をかけようと腕を上げた瞬間、潮が強引に踏み出して満潮の腕を掴んだ。静まりかけていた声援が再び賑やかになる。満潮も腕を上げかけた忠の動作を認めており、ここが勝負と決意したのか自らも腕を伸ばしてがっちりと組み合った。両者とも頭を下げてお互いの足元辺りを見ながら上半身を揺さぶっての攻防を巡らす。

 長い戦いに二人の吐息が大きくなってきたが、その状況を打破したのは満潮だった。踏ん張ろうと前に出た潮の隙を見逃さず、彼女は潮の内股から足を入れて跳ね上げた。『ああっ!!』と思わず四水戦の面々から悲鳴にも似た声が上がるが、満潮の内股も完全ではなかった。跳ね上げて少しすると彼女の足は潮の足から解けてしまい、潮はかろうじて倒れ込む際に体を捻り込めたのだ。

 ドスンと倒れ込む音に、木村大佐と忠は声を上げる。


『技有り!』


 二人の判定に満潮が悔しそうにマットを軽く叩き、潮は小さく溜め息をして安堵した。

 再び立ち上がって再開させると、潮はまたも強引に満潮に飛び掛る。時間もかなり経ったおり、このままでは判定負けになってしまうから彼女としては当然の行動だった。前に出てきた潮に対して、袖を取られながらも満潮は両足に力を入れて耐える。

 また一進一退の組み合いかと誰もが予想したが、潮はその裏の裏を読んでいた。膝をカクンと折り曲げて満潮の脚の間に潜り込むように背中を床につけると、片足で満潮を支えて後ろに投げ飛ばした。派手で人気の高い巴投げである。咄嗟の出来事だったからか、満潮は即座に体を捻ったが肩からマットに落ちてしまう。柔道では危険な倒れ方である。

 忠の横で薬箱片手に座り込んでいた明石も、満潮の倒れ方を見て僅かに腰を上げた。


『技有り! 待て!』


 一度試合を止めて忠は満潮に駆け寄った。潮も少し心配そうに倒れ込んだ満潮を見ていたが、満潮は前転でもするかのようにコロンと立ち上がると腕を回して忠に声を発する。


『ふう・・・。大丈夫です、森さん。』


 笑みこそさすがに向けてこないが、満潮は別段痛い訳でもないらしい。彼女は元の位置まで戻りながら、ちょっと解けた後ろ髪を結い直している。その姿に潮も安心したのか、呼吸を正しながら仕切り位置まで戻った。そんな二人に明石もまた胸を撫で下ろし、再び忠の横に腰を下ろす。忠も小さく安堵の溜め息をすると、腕を上下に振って叫んだ。


『始め!』


 再開の合図と供に二人はお互いが再び同点となった事を意識して、勝負はまた慎重に袖の取り合いをする所からとなった。満潮が勝てばまだまだ二水戦は望みが繋げる事が出来る。また、潮が勝てば四水戦にとっては王手をかける事になる。


 負けられない。


 その思いに必死に攻撃の糸口を探す二人だったが、彼女達はもう一つの可能性を忘れていた。

 刹那、木村大佐がサッと腕を上げた事に忠は二人を制する。


『そこまで! 両者同点につき、引き分け。』

『『あ・・・!』』


 二人はどうやら時間という物を完全に忘れていたらしい。忠の声を聞くや、二人とも同じく苦い顔をしている。お互いの陣営からも落胆の声が響き渡るが、戦隊としての勝負はまだついていない。満潮と潮は礼をして握手するとお互いの健闘を称え、それぞれの仲間達の下へ戻っていった。両陣営からは同様に『惜しい〜。』と労いと悔いが入り混じった声が聞こえてくる。だが食い入る名勝負を見れた事は、お互いの戦隊の士気を大いに高めた。


 気を取り直して、忠は次の試合に進める。


『両戦隊、中堅前へ。』


 歓声が一際賑やかになった四水戦だが、出てきたのは午前中に神通に挨拶に来た少女、(いかづち)であった。『よっしゃ!』と大きな声で気合を入れ、腰の帯をキュッと結ぶ彼女。背は小さいが中堅を任せられるくらいだから、きっと四戦隊の中でも腕前は相当に良いのだろうと忠は考える。つま先をマットに何度か突き立ててマットの感触を確認している辺りはさすがに吹雪型駆逐艦の艦魂であり、伊達に長く艦魂をやってきた訳ではない雷の凄さを忠は改めて思い知った。

 その内にふと二水戦へと視線を流した忠は、そこにいた人物を確認して目を疑った。

 マットの端っこで両腕を伸ばして準備しているのは、忠と明石も見慣れた麻色の肌に元気が溢れた顔の少女。


『とぉりゃあ!』


 掛け声を放って前転宙返りでマットに進み出てきた彼女は、なんとあの霞である。背が小さいながらも運動神経が良さそうな彼女だが、忠と明石は大声を上げて彼女が泣きついてきた記憶がまだ新しい。妹の霰はしっかり者の風格があるが、霞に関しては笑うのも泣くのも元気な赤ん坊といったイメージが強かった。あんなに神通に怯えて泣いていた霞が、今や二水戦の中堅として戦いの場に立っている。その事に忠は暫く見てないう内に彼女が随分と成長したらしい事を悟る。先輩艦魂を前に全く動じた様子も無い霞に、忠も明石も驚くばかりだった。


『お互いに礼。』


 マットの上で相対した二人の表情は、それまでの4人には無かった自信が漲っていた。僅かに口元を緩ませる二人、両陣営からもこれまで以上の声援が飛ぶ。そしてこれもまた今日は初めてだが、どちらの艦魂達の声援にも同じ様な言葉が含まれている。


『雷、勝てるよ!』

『霞、勝てるから自信を持って!』


 どうやら二人とも戦隊の中では、全員にその実力を認められている存在らしい。

 チラっと忠は霞に視線を送ったが、霞は白い歯を見せていつもの笑顔を向けるだけである。まあ見ててよ、とでも言わんばかりの彼女のその顔に小さな心配を抱きつつも、忠は腕を上げて声を発した。


『始め!』


 その瞬間、その場にいた全員が絶句する。

 忠の手が振り下ろされた直後、なんと霞の姿が消えたのだ。それは彼女を目の前に捕らえていた雷も同じだった。


 確かに今、目の前にいたはず。


 そう心の中で呟いた刹那、彼女の目の前に霞の顔が現れた。先程の陽炎と同じように、低い体勢で一気に距離を詰めてきたのであるが、その動きの速さが尋常ではない。咄嗟に右脚を前に出して踏ん張ろうとする雷だったが、神通はその光景を見て口元を緩めた。


『勝ったな。』


 神通がそう呟くと同時に霞は雷の脚の間から右足をグンと大きく伸ばし、雷の後ろに残っていた左足を踵で一払いした。大内狩りである。雷の胸元に顔を埋めるようにして前に突進する霞によって雷は体重が後ろに掛かり、さらに支えていた足を刈られて仰け反るように倒れた。

マットに倒れ込む雷の音が、空気を切り裂くように甲板の上に響き渡る。

 試合開始から僅か数秒、あっという間の早業だった。


『一本! それまでえ!!』


 まるで芸術品ともとれる霞の技に、木村大佐も迷うことなく手を下ろす。文句なしで高らかに下された一本判定は、両戦隊のどよめきと歓声を一気に集めた。


『しゃああーーっ!!!』


 歓声の渦の中、霞は片手を高らかに天に突き立て叫び、空に輝く太陽を弾き飛ばす程に笑って喜びを爆発させる。青空の下、麻色の肌に白い歯を輝かせて笑うその姿は、霞には良く似合う姿だった。

 彼女に倒された雷もその見事な技に脱帽したようで、悔いるような表情は見せない。お互いに礼を済ますと、二人は供に満足したような表情でそれぞれの仲間達の元に戻って行った。

 二水戦では本日初めての勝者誕生を受けて、所属の艦魂達が飛び上がって喜んでいる。最終戦を残してついに王手をかけた二水戦の士気は、ここに来て大いに上がる。鬼の戦隊長から貰ったお褒めの言葉で、霞は拳を震えるほどに握って喜びを噛み締めていた。



『申し訳ありません、戦隊長!』


 四水戦では自慢の中堅が敗れた事を受けて、少しだけ空気が暗くなっていた。残念そうにしながらもいつもの大声で失態を詫びる雷だったが、彼女の上司はそれを怒るような事はしなかった。


『敵が強かったわね・・・。』

『はい!』


 那珂は彼女の顔にタオルをあてがって、汗を拭き取ってやりながら言った。根が真面目な雷は顔にタオルがかかったまま、表情を変えずに声を返す。そして那珂は彼女に笑みを向けると同時に、ゆっくりとその場に立ち上がった。いつもは優しくニコニコと笑っている那珂の顔に、まるでその日の風が乗り移ったかのように静かに闘志が纏われて行く。


『大丈夫。私が勝てばいいだけだから。』


 普段の面持ちを捨て始めた彼女の声に、部下達が顔色を変えていく。

 一方、二水戦でも神通が立ち上がって身体を動かし始めた。その長い手足を伸ばしたり縮めたりして、屈伸運動をする神通。その姿を認めた忠は今から始まるであろう白熱した大将戦を予測し、早く見てみたいという気持ちに抗いきれなくなって声を発した。


『両戦隊、大将前へ!』


 一際力が篭った忠の声で、神通は袖や襟、帯を直しながら歩み出た。キッと一点のみを見つめる彼女の瞳とその表情は、実に頼りがいがあるという物である。


 これなら二水戦の艦魂達も安心して応援できるだろう。


 そう思って忠は二水戦の面子へと視線を移したが、彼女達の視線は神通の少し向こうに焦点を合わせて凍りついていた。『ん・・・?』と呟いて四水戦の方を振り返った忠は言葉を失った。

 肩で揃えられた綺麗な黒髪を頭のてっぺんで結んだ那珂が、四水戦の艦魂達に声援を送られて歩み出てくる。初めて見せる彼女の真剣な顔は結った髪も手伝って、あろう事か姉の神通と瓜二つだったのだ。元々顔立ちが似ているこの姉妹だが、性格がまるっきり違うので普段一緒にいる忠や明石も二人の違いがすぐ解る。時には姉妹という関係すらも忘れさせる事も多い彼女達だが、そこに有ったのは刃物のような瞳を同じようにギラギラと輝かせた二人だった。

 そして神通は久々に見せた那珂のその表情に、ニヤリと口元を緩めて声を上げる。


『那珂、手加減はせんぞ。』

『ふふ。その方が姉さんの為よ・・・。』


 その人柄からは想像も出来ない、那珂の挑発ともとれる言葉が神通には返された。

 風に揺られる前髪が神通の顔の前を揺れる。やがて再び彼女の顔があらわになった時、そこには今にも獲物に飛び掛ろうとする肉食獣のような神通の顔があった。しかし那珂もまたそんな姉を、同じ視線で睨み返した。

 その場に殺気にも似た空気が立ち込める。顎を引いて上目遣いに睨みつける神通と、逆に顎を出して見下すように睨み付ける那珂。


 忠と明石も彼女のその表情には驚いたが、彼女の背に映る四水戦の艦魂達の姿を見てその裏に秘めた彼女の心意気を悟った。いつも優しいお姉さんである那珂も、いまや神通と同じ水雷戦隊旗艦を頂く立派な指揮官である。四水戦の少女達にとっては彼女こそが唯一絶対の上官であり、そんな立場を頂く者が相手が姉や二水戦だからといって負けて良い訳が無いのだ。姉と同じく、そしてそっと胸に秘めるような那珂の四水戦戦隊長としての誇りと意地が、彼女の表情には表れていた。

 知らぬ間に霞も、霰も、そして那珂も大きく成長していたのだ。


『お互いに礼!』


 二人は互いに視線を相手から逸らさずに小さく頭を下げる。

 そしてその動作が終るや、ほぼ同時にゆっくりとした動作で身構える神通と那珂。両陣営の声援も二人の気迫に押され、声を押し殺して固唾を呑んだ。しんと静まり返り、波音だけが優しく響く中、忠は意を決して試合を始めた。


『始め!』


 忠の合図を聞くや、神通は軽い足取りでダンスでも踊るかのように足を動かして那珂の様子を窺った。逆に那珂は両腕を肩より少し高いくらいの高さで前に伸ばして、動き回る神通を正面に捉えようとする。神通は小刻みステップを刻んで素早い動きをとるのに対し、那珂は対照的に大きく横に足を開いてゆっくりとした動きでそれを追うのであった。やがて動き回る神通は時折、那珂の腕を取ろうと手を伸ばすが、腕を伸ばした那珂の懐までには中々入り込めない。

 そして開幕から少し時間が経った頃、神通は思い切って前に踏み出した。しなやかな神通の脚がマットを蹴ると同時に、銃剣道の突きのように半身で距離を詰める。那珂は腕の下に潜り込んできた神通の奥襟を握ったが、同時に少し踏み込んでいた彼女の左足を神通は見逃さなかった。


『せやっ!』


 短い掛け声を放って神通は那珂の左足を払った。空手の蹴りのような神通の出足払いを受けて那珂は姿勢を崩すが、今日の彼女はそんなに簡単には倒れない。那珂は肩膝を突きながらも体を捻ると、神通の奥襟と供に袖を掴んで背負い投げを繰り出す。

 彼女の気合とその闘争心は充分であるが、相手の神通だってそう簡単にはやられる訳が無い。神通は那珂の動きを読んで彼女の背後から脇に体勢を流すと、上から体重をかけて押し潰した。当然どちらの技も成立していないから二人はそのまま寝技へと移行するが、すぐに身を丸めた那珂に神通は攻めあぐねる。


『待て! 元の位置へ!』


 寝技というものは地味で見栄えが良くないが、その攻防にはとても体力を消耗する物である。完全に本気になって戦う二人にはなおさらで、忠の合図に立ち上がった二人は肩で息をしており、その顔には既に大量の汗が滲み出ている。

 お互い乱れた柔道着を直し、腰の帯を強く締めるとどちらからという事も無く身構えた。


 ここで思わぬ苦戦を強いられる神通を見て、彼女の部下である二水戦の艦魂達が声を上げる。


『せ、戦隊長、頑張ってください!』

『うるさい、黙れ!』


 神通は集中しているその状態を邪魔されたくなかったらしく、部下の声援を邪険に封じる。せっかく振り絞った声を叱られてしまい、声を発した少女はしょんぼりと落ち込んだ。そしてこれまでひょうきんに笑っていた木村大佐は、その神通と部下のやりとりを眉をひそめて眺めていた。片手で髭の先を摘みながら、彼は何か考え事をする。

 だが神通はそんな木村大佐に気づかずに、呼吸を整えながら忠に言った。


『ふぅ・・・。森、早く始めんか。』


 神通の催促を受けて、忠は試合を再開させる。

 一進一退の攻防が続く中、二人は試合が始まって四度目の組み合いとなった。疲労とお互いの実力が解ってきた彼女達に余裕はない。お互いの額をぶつけるようにして頭をつけ、相手の足元辺りに視線を落としてその出方を窺っている。ポタポタと二人の足元に、お互いの汗が流れ落ちる。

 緊張感という言葉だけがその場を支配する中、おもむろに木村大佐は横になって言った。


『う〜〜ん、お酌だけじゃつまらんなぁ。』


 すっ呆けた彼の声に、彼以外の者が眉をしかめる。当然、彼の目の前で死闘を繰り広げる神通と那珂も例外ではない。神通は那珂から少し目を逸らして、疲れに歪んだ表情で言った。


『はあ、はあ・・・。く、黙れ、ジジイが・・・!』


 疲労困憊ながらも怒りを込めて発した神通の声だが、木村大佐はお構い無しに続ける。


『よし、負けた方はみんなでおじさんと一緒に寝る事にしよう!うむ、それが良い!』


 どんどん酷さを増す木村大佐の敗戦に対する罰ゲーム。別に彼にそれを決める権利は無いのだが、その言葉を聞いた両陣営の艦魂達から悲鳴が上がった。


『い、いやあーーー・・・!!』

『嫌だあ! 戦隊長、お願いだから勝ってええぇ!』


 可哀想に、泣き出す者も出始めた。忠にしたら木村大佐の言動は面白い事この上ないが、当事者である彼女達の気苦労を察すると気の毒である。故に自身の顔を隠すように手を当てて、悟られないように笑う忠。彼の隣では、先程自分を追い駆けてきた木村大佐の発言に悪寒を感じて鳥肌を立てた明石が、ブルブルと肩を震わせている。


『はあ、はあ・・・。こ、こ、この・・・、ジジイィがあ・・・!』


 またしても発せられる勝手気ままな木村大佐の言葉に、神通は強引に那珂の懐に飛び込んで胸を合わせた。


 さっさと終わらせて、コイツをぶん殴ってやる。


 そう思った神通だったが何も考えずに咄嗟にとった彼女の行動は、柔道の攻防としては致命的な愚作だった。脚を絡ませても那珂は倒れず、むしろ重心が上がって体重が後ろにかかった神通の体勢に那珂は身体を横にズラし、神通の両脚を後ろから伸ばした脚で払った。


 しまった!


 脳裏にそんな言葉を過ぎらせ神通だったが、彼女が気づいた時にはもう床に背中がついていた。彼女の上に覆い被さる様に倒れ込んだ那珂の顔から、覇気が消えて喜びを称えた笑みが現れている。神通は状況を予想しながらも、否定したいという希望を抱いて忠の顔を見る。だが彼は無常にも、神通の希望を打ち砕く言葉を発した。


『一本! それまで!』





 その瞬間、神通の脳裏にこれまでの競技会の結果が横切った。負けが1、引き分け1、勝ち1の同点で迎えた自らの大将戦。そして今、二水戦には2敗目が記され、四水戦には2勝目が記される。

 それは即ち、二水戦の負けを示していたのだった。

 その事を理解した刹那、神通は怒りを覚えて立ち上がった。


 集中していた時にコイツに邪魔された。邪魔さえなければ負けていなかったのに。


 そこの渦巻いた怒りに駆られ、神通は力がまだ入らない拳で木村大佐に殴りかかった。彼女の咄嗟の行動に、那珂や忠が叫ぶ。


『このクソジジイがああ・・・!!!』

『お、おい、神通!!』

『神通姉さん!!』


 しかし全く動じていない木村大佐は、神通の行動に身体を起して胡坐をかくとスッと片腕を上げた。彼の上げた手はパシッ!と小気味の良い音を放って、神通が振り下ろした腕を掴む。


『ぐ・・・。』


 那珂との戦いで消耗した体力で脚に力が入らない彼女は、腕を取られると彼の前に崩れた。荒い呼吸に耐えながら怒りに任せて木村大佐を睨みつける神通だったが、彼女の見た彼の顔には初めて彼から向けられた怒りの目が有った。眉を吊り上げて火山が噴火したかのような木村大佐の目の色に、神通はビクンと震えて声を失う。


『馬鹿モン! 部下を放り出して戦う指揮官がいるか!』

『あ・・・。』


 彼が怒っているのは先程の自分と部下のやりとりだと神通はすぐ解った。落ち着かない息と軽蔑していた彼の怒りに言葉を失う彼女だったが、そんな神通に向かって木村大佐はそう怒鳴ると手を上げた。

 乾いた音と頬に感じる痛みと熱さ。その感覚を覚えた頬を押さえて呆然とする神通に、木村大佐は口を開いた。


『お前は指揮官だろうが? 格好つけてそれを投げるな! 部下が泣いてたら一緒に泣いて、一緒に笑ってやれ。一緒に負けを悔やんで、一緒に勝ちを喜べ。勝ちばかり追っかけて部下を粗末にするな!』

『・・・・・・。』


 神通は俯いて唇を噛み締めながら、彼の怒鳴り声を黙って聞いていた。


『返事はどうした!?』


 そう怒鳴られてまたも神通の頬に木村大佐の平手打ちが叩き込まれる。

 静まり返るその場には、木村大佐の怒鳴り声と神通の頬が打たれる乾いた音だけが何度も響いた。だがそんな中で二人を見つめていた忠は、腕を組んでそれを見守っていた。

 部下の目の前でこうも叱責されては、二水戦旗艦としては赤っ恥もいい所である。それでも神通は一言も返さず、泣きもせず、ただ黙って木村大佐に怒られるばかり。もちろん木村大佐の言っている事は間違いではない。むしろ長い間、駆逐艦や掃海艇、特務艦の艦長を歴任してきた彼は、肌身を通してそれを良く知っているのだ。故に彼の声に大きな説得力を感じたのは、なにも忠だけではなかった。

 そして彼の人となりが、その光景をその場にいた者全員の目に不思議な様子で映した。胡坐をかいて怒鳴りつけ、時には手を上げる木村大佐とただ俯いて怒られる神通。それはまるで・・・。


『ねえ、森さん・・・。』

『なんだ、明石・・・。』

『なんかあの二人、・・・親子みたいだね。』

『ははは、そうだな。』






 その夜、神通は木村大佐が勝手に決めた罰ゲームを律儀にも受けたという。さすがに一緒に寝るようなことは無かったそうだが、その晩はずっと説教され続けたとの事だ。

 その話を切り出しても神通は『ふん。』といつもの口癖を吐き捨てて立ち去って行ったが、霰の話によると次の日から少しだけ部下の相談に乗ってあげるようになったという。そして最近は「二水戦」という言葉よりも、「私達」という言葉を好んで使うらしい。ほんの些細な事だが、彼女は指揮官としての大事な何かを彼から授かったようだ。父のような彼から。

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