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第一八話 「楽しい競技会/前編」

 再会を期した宴会が終わった翌日の朝、明石(あかし)艦の中にホイッスルと供に号令が響き渡る。


『軍艦旗揚げ方、5分前! 総衛兵礼式整列〜!』


 この号令を持ち場で聞かない海軍軍人はいない。艦長から水兵に至るまでそれは同じで、これに遅れるとこっ酷く怒鳴られた後に樫の棒で思いっきりぶたれる事になる。帝国海軍は時間に正確に行動する為、常に5分前の精神で行動するのだ。





 既に発令所で待機している(ただし)は、発令所の中の数少ない舷窓を雑巾で拭いていた。磨くたびに透き通るような空と海を映してくれる窓が、綺麗好きの忠のやる気を湧かせる。忠の顔より少し大きいくらいの舷窓だが、彼は大きく身体を使って力を込めて拭いた。時折キラリと光って瞼を閉じさせる窓枠の反射光が、やんちゃな子供のように思えてくる。埃一つ無くなった舷窓を認めた忠は腰に両手を当てて口元を緩ませ、隣の舷窓で同じ様に雑巾掛けをする相方へと声を掛けた。


『明石、そっちは終わったかい?』

『うん、ちょうど終わった所〜。』


 隣の舷窓に向かって雑巾を握った手を動かしていた明石は、忠の声にニッコリ笑って答えた。昨日の神通のつめ痕がまだ薄く残っている彼女の両頬。赤い絵の具で悪戯(いたずら)描きでもしたような彼女の顔は、絵本に出てくる猫のようだ。これはこれで可愛いのだが、その事に触れると明石は間違いなくヘソを曲げてしまうのは想像に難くない。故に忠は何も言わずに、明石に笑顔を返してやった。


『そっか。』


 忠の声で二人は笑みを合わせると、それぞれが手に持っていた雑巾を畳んで机の上に置き、艦尾方向に向けて姿勢を正した。


『軍艦旗揚げ方〜! 揚げ!』


 やがて響きだしたその号令と供に、明石艦と近くに錨泊する他の艦からは一斉にラッパでの君が代が鳴り始め、第二艦隊が停泊する有明湾全体に響いた。


 なんと荘厳な音であろう。


 忠は敬礼をしながら、チラっと舷窓より波間に浮かぶ他の艦艇に視線を移す。他の艦艇もほぼ同じように、艦尾旗竿にて軍艦旗が掲揚されているのが見える。きっと明石艦の艦尾でも、同じように軍艦旗がこの澄み渡った青空に翻っているに違いない。忠の敬礼する手にも力が入る。


『そんなに硬くならないでも。今日は日曜だよ?』


 君が代と供に敬礼が終わるや、明石は帽子を取って頭を掻きながら言った。


『あはは、そうだな。』


 明石の声に忠は肩から力を抜くと姿勢を崩して、手近にあった椅子に寄りかかった。


 そう、本日は日曜なのである。

 「月月火水木金金」の詩で有名な帝国海軍だが、本当にそうな訳ではない。実際は月曜午前が教育日課、月曜午後からは金曜午後までは訓練日課、土曜日が整備日課に割り当てられており、日曜は基本的に日課は無い。希に訓練や整備での実績が悪いとか、戦隊対抗の競技会がある時なんかに別科が有ったりするぐらいである。

 全身綿のように疲れきった兵隊では、いつ何時戦闘が起こっても迅速に対処する事が出来ない。兵隊にとっては休養も大切な時間なのであり、一流の海軍である帝国海軍も当時からその事を良く解っていたのだ。


 椅子に寄りかかった忠はそのままの姿勢で一呼吸してから、机に置いていた雑巾を所定の位置へ戻す。そして気を楽にした忠を見て安堵した明石は、椅子に座って今日の予定を考え始めた。

 遠瀬の有明湾では上陸は望めない。ましていつも部屋でゴロゴロすることが多い相方の休日を、彼女は何度も見てきた。明石にとっては美味しい食べ物もろくに手に入らない日曜はつまらない事この上ないが、つい先日長旅を終えたばかりの彼女の身体にはまだ疲労が残っている。明石は少し重い自分の肩に手を乗せ、肩を回しながら口を開いた。


『あぁ〜、今日は私も寝ようかなぁ。』

『あははは、それも良いんじゃないか。』


 実は忠も彼女の元気がちょっぴり無い事に気づいていた。日本列島を縦断する程の距離を航海してきたのであるから無理も無いし、いくら艦魂でも疲れない訳が無い。そう考えた忠は明石の言葉を優しく肯定してやった。


『お、いたか。』


 その時、発令所の右舷側入り口から女性の声が響いた。昨日聞いたばかりの声なので、その声の主が神通(じんつう)である事を二人はすぐに悟ったが、今日の彼女のその格好に二人は驚く。いつもは第一種軍装に身を包んで軍帽を深めに被っている神通なのだが、今日はなんと淡い真珠色の柔道着を着ている。どこから調達したのか真新しい竹刀を肩に乗せて小刻みに動かす彼女は、刃先のように垂れた長い前髪と鋭利な釣り目も手伝ってまるで道場の師範のようだ。

 珍しい神通の姿に忠は思わず声を掛ける。


『じ、神通。なんだその格好・・・?』

『うん? 見れば解るだろう、柔道着だ。』


 不思議そうな顔で発した忠の問いかけに、神通は至って平然とした顔で答える。何をそんなに驚いているんだといった表情で、彼女は首を傾げながら声を返した。


『人間も別科で柔道はやるだろう?』

『それは、艦魂もやるって事か・・・?』

『そうだ。』


 どうやら艦隊勤務の乗組員が武技教練として行う柔道や剣道を、彼女達も行っているらしい。

 明石の言う艦魂の身体的、精神的具合が艦の微細な性能に影響してくる事を考えれば、身体の強健さを高めるのは人間以上に艦魂では重要なのである。

 しかし丈夫な身体にするには身体を鍛える事が一番というのは人間だからこそ成り立つ話で、そもそも艦魂である彼女達が丈夫な身体を得る為にはその艦体に鉄材を張らない内はどうにもならないのではないのか?

 イマイチその理屈が理解できない忠は『ふぅ〜ん。』と相槌を打ちながらも、顎に手を添えて首を捻る。

 だが艦魂への疑問に考え事をする忠を横に、明石は珍しい自分以外の艦魂の生活に触れた事で目を輝かせていた。身体に溜まっている疲労も気にならなくなった彼女は、弾む声で神通に話しかける。


『いいなぁ、私、戦隊とかに所属してないから知らなかったよ。相手もいないし。』

『ふはは、そうだろうな。だから呼びに来た。どうせ暇だろう?』

『うん、暇〜!』


 明石は笑顔でそう言うと、すぐに神通の腕に飛び付く。喜ぶ明石の肩に手を乗せて神通もまた優しげに笑った。今日は寝ようかなと言っていた明石だが、親友の心遣いに彼女の顔からは少し疲労の色が消えている。


 ここで艦魂に関しての疑問をぶつけて立ち話してもつまらないな。


 そう思った忠は考えるのをやめて、笑みを作って二人に言った。


『あはは。楽しんできな、明石。』

『あー、森。お前にも来て欲しい。』

『え?』


 怖いという言葉の代名詞的存在である神通だが、そんな彼女にお誘いを受けるとは忠も予想外だった。神通の言葉に対して一言だけ声を上げて呆ける忠だが、神通はそのまま続ける。


『審判が必要なんだよ。今日は戦隊対抗の訓練でな。試合もやるんだが、審判をどっちかの戦隊から出す訳にもいかんだろ。』






 神通の要請を引き受けた忠と明石は、彼女の身体から発した白い光りで神通艦の艦尾に来た。

 一瞬だけ地から脚が離れた感覚に忠は慌てたが、それが動作に出る前にすぐまた脚が地に着いた。見慣れない甲板にでたと思って顔を上げると、そこは長い機雷軌道2本が両舷に施設されている二等巡洋艦独特の構造の艦尾。普段から明石という艦魂を間近で見ながら生活してきた忠にとって、そこが神通艦であると理解するのにはそれほど時間はかからなかった。

 機雷軌道の間には体育用のマットが二枚ほど敷かれており、両横の機雷軌道には神通と同じ柔道着姿の少女達が座ってきゃっきゃと声を上げて話している。そして右舷側の少女達の中に、忠と明石は見知った顔を見つけた。すぐさま明石は彼女達に歩み寄りながら声をかける。


『おお、(かすみ)〜、(あられ)〜。』

『あ、明石さん!』


 今日も元気な霞がすかさず立ち上がって明石に抱きつく。明石にとって神通が姉なら、霞は妹のような物だ。おはようの挨拶もなく、わーわーと声を上げて抱合う彼女達。その横から礼儀正しく挨拶する霰が、ちょっと浮いて見えるというのは困り物だ。


『あ、森さん、おはようございます。』


 左舷側の少女達の中から歩み寄って、深々とお辞儀をしながら挨拶してきたのは那珂(なか)だった。彼女もまた例に漏れずに柔道着を着ている。小奇麗に肩の高さで揃えた髪と美しいその笑顔、彼女には申し訳ないが柔道着姿がこれ程似合わない女性もそうはいない。もっともそれ程までに那珂の女性としての品格が高いという事の裏返しでもある。

 そんな那珂の姿に自然と笑顔になれた忠は、彼女に向かって笑みを浮かべると挨拶を返した。


『おはよう、那珂。』

『那珂、少し練習させるか?』


 忠の声に続いて神通が声を放つ。心地良さそうな笑みの神通だが、その人柄と肩に乗せられた竹刀が物凄く怖い。それはどうやら部下である駆逐艦の艦魂達も感じているらしく、はしゃいでる明石と霞、霰以外の艦魂は少し怯えるような表情をして横目でチラチラと神通をみている。

 那珂の部下であろう左舷側の艦魂達も同じ面持ちだが、実の妹である那珂はそんな神通は慣れっこだった。笑みを崩さずに、彼女は神通の問いに答える。


『そうね。身体が温まってからじゃないと怪我しちゃうし。』

『よし、決まりだ。お前達、しばらくは自由練習だ。よく身体を動かしとけ。』

『『『 はい! 』』』


 神通の声を受けて両舷に座っていた少女達は一斉に立ち上がり、体操や乱取りを始める。那珂はその光景を見ると再度忠にお辞儀をして、自分達の部下を監督するべく左舷側へと戻っていく。

 忠はゆっくりと歩いて行く那珂の後姿を見て、薄々感づいていた疑問を神通に確かめた。


『神通。』

『ん? なんだ、森?』

『やっぱ今日の対抗戦隊ってのは、那珂の四水戦かい?』

『ああ、そうだ。左舷側にいる奴等は、那珂が指揮する6駆(第6駆逐隊)と7駆(第7駆逐隊)の連中だ。』

『へぇ、じゃあ、姉妹対決だな?』

『ふん。負けてやるつもりは無いがな。』

『ははは。』


 不敵に笑って竹刀を床に立てる神通。ちょっと怖い彼女だが、言葉の端々に厳しさと頼りがいのある上司の風格がある。そよそよと吹き抜けていく風が神通の柔道着と前髪を揺らし、良い顔つきをするようになった神通の表情を忠は自身の瞳に映す。最初に出会った時とはすっかり変わった神通の横顔に、忠は微笑んだ。


 そして少しの間、練習に励む艦魂達を眺めていると、左舷側から少女が一人走り寄ってきた。

 霞や霰よりは少し歳が上らしく子供っぽさが消えかけている顔立ちの少女で、短い髪を頭の右側に寄せて小さく結んでいる。彼女は神通の視線を邪魔せぬように脇に立ってお辞儀をしながら口を開いた。


『神通中尉、お久しぶりです! 6駆、7駆を代表して挨拶に参りました!』


 小柄な身体の彼女だが物凄く声が大きい。忠は一瞬、信号ラッパが鳴ったのかと勘違いする程であった。神通もすぐ近くで発せられたその声に、少し首を傾げて苦笑いしている。だが彼女は怒る様子もなく、右手の小指で耳をほじりながらその少女に顔を向けた。


『相変わらず声がデカいな、(いかづち)。』

『はい! 有難うございます!』


 雷と呼ばれた少女。

 第6駆逐隊所属、吹雪(すぶき)型駆逐艦の23番艦である雷艦の艦魂である。元気が良くハキハキとした物言いで、律儀にも神通に口を開くたびにサッとお辞儀する。カクカクと姿勢を止めるその動作は、どこか主君に仕える侍のようだ。


『褒めとらんわ。まあ、元気そうで何よりだ。』

『はい!』


 雷の返事に少し俯いた神通はふと顔を上げると、左舷側の艦魂達を眺めた。だが視線を向けた先で僅かに眉をしかめる神通の表情を、忠は見逃さなかった。目を細めて小さく溜め息をした後、神通は静かな声で呟く様に言った。


(いなづま)も元気そうだな。』

『はい! 元気にやっております!』

『そうか。』


 神通は一度だけ頷くと、雷の肩に手を乗せて優しく微笑んだ。雷はビシっと全身に力を入れて、身体を硬直させる。神通の笑顔に表情を明るくさせながらも、雷は直立不動の体勢を崩さなかった。


『今日は胸を借りるぞ。』

『はい! よろしくお願いします! では!』

『ん。』


 軽く手を振る神通に対し、雷はキビキビとお辞儀をして握った両手を脇に添えた。その姿勢のままクルリと回れ右で背を向けると、小走りで左舷の仲間達の下へ帰っていった。わざとらしさすら感じられる雷の物腰に、神通と忠は小さく笑ってしまう。走るテンポと同じ間隔で、雷の右に結ったちょんまげの様な髪が揺れる。可愛らしさとどこか昔臭い侍気質が同居する少女だった。



 後年、この雷艦の名は後に戦う事になったイギリス兵によって伝えられ、祖国日本には戦後60余年を経てからその栄光が知られる事になる。だがその時代を見届ける事ができる者は、不幸にもこの場にはいなかった。



『あはは。おもしろい子だな?』

『ふん。変な奴だ。』


 忠は神通に視線を流して声を上げたが、神通は笑みを隠すようにすこし俯いて声を返した。彼女の機嫌は良さそうだが、どうにもこういう所を他人に見せるのを嫌う傾向にある。


 まあ神通らしさという点ではこの方が似合っているかもしれない。


 そう思いながらも忠は、雷と彼女の会話にふと抱いた疑問を彼女にぶつけた。


『雷や電は知り合いなのか?』

『ふはは。知り合いも何も、あいつ等全員、元二水戦所属だ。』


 忠が予想していた答えは当たっていた。だが彼はもう一つ、何か神通が胸に秘めている事があるのを感じていた。『ふぅ〜ん』と小さく呟いて腕を組んで姿勢を崩すと、おもむろに顔を上げて空を眺める。羨ましいくらいにゆっくりとした動きで、青空を雲が流れている。

 忠は視線を空に向けたまま、半歩だけ神通に寄って口を開いた。


『電って子は、何かやったのかい・・・?』


 そう言った忠だったが、彼は神通の返事は期待してなかった。ズケズケと他人の事を聞くというのは人間でも艦魂でもあまり好まれないだろうし、まして神通の様に自分を余り出さないような性分の人にはなおさらだと思ったからだ。

 だが神通は忠の横顔をチラっと見た後、床に立てていた竹刀を再び手に持って肩をトントンと叩きながら声を返した。


『ふん。私と同じだ。あいつも不注意で衝突事故を起した。』

『え・・・。』


 忠は期待していなかった神通の声とその内容に、驚きを隠せなかった。空から彼女に視線を流すと、神通は目を閉じて俯いていた。脳裏に蘇る悔やみきれない記憶が、神通の表情を曇らせていく。マズイ事を聞いてしまったと思い、忠は慌てて彼女に詫びた。


『あ、ごめん。立ち入った事だったね・・・。』

『いや・・・。私よりも電の方が辛いさ。自分の姉を殺してしまったんだからな・・・。』

『な、なんだと・・・!?』

深雪(みゆき)と言ったかな・・・。当時は那珂が二水戦の旗艦でな、私はよくは知らんのだ。』


 神通は苦笑いしながらも寂しそうな目で、左舷に陣取った艦魂達を見つめた。彼女の視線の先では、手を叩きながら笑顔で部下達を教育する那珂の姿がある。普段はおっとりとして笑みを絶やさない那珂だが、彼女の心にはどれだけの傷があるのだろうと忠は考える。そしてそんな那珂に反して、同じ美保ヶ関(みほがせき)事件で心に傷を負った神通の変貌振りは周知の事である。

 似ているようで似ていない姉妹。そんな事を考えながら、忠は神通に再び視線を戻した。神通は忠の表情からその考えている事が少し読み取れたのか、どこか自嘲気味に口元を緩めて言った。


『ふん。那珂はその時、ただ電を抱きしめてやっていたな。私は馬鹿だったから、あいつ等に八つ当たりするのが関の山だった・・・。』

『そっか・・・。』


 自分の失態と艦魂達の中の話を語ってくれる神通。

 その事に忠は彼女が明石と同じように、自分にも気を許してくれていると感じて微笑んだ。短い忠の返事に、神通もまたどこか嬉しそうに小さく笑って髪を掻き揚げる。

 彼女は心に溜め込んだ事を那珂とは違って、しまい込む事ができないらしい。いつもげんこつやきつい物言いである彼女の言動は、常に誰かにその事を解って貰いたいという彼女の弱さの裏返しであり、忠はそれを悟られぬように理解した。

 ほんの少しだけ神通の心が覗けた事に忠は微笑んで、マットの上で身体を動かす艦魂達を眺める。一人一人に色んな悩みがあり、一人一人に違った笑みがある。そんな当たり前の事を彼女達に感じた忠は、今までよりも少しだけ艦魂が身近に感じる事が出来たのだった。





 

『元気が足りんぞ、神通!』


 突然聞こえてきた少ししゃがれた低い男の声と、隣に居る事で忠にはよく聞こえた神通の身体を叩く音。

 声のする方に目をやると、忠とは神通を挟んで反対側にいつの間にか髭を生やした小太りの男が立っていた。忠と同じ濃紺の第一種軍装に、大佐の襟章を身に着けている。細い糸目の顔だが、とにかくそこで目立つのは鼻の下に伸ばした髭。油で固めた今時では珍しい立派なカイゼル髭で、顔の輪郭から尖った髭先がはみ出ている。

 神通も同じように驚いた表情をして彼に顔を向けるが、すぐにその顔には怒りの色がほとばしり始めた。よく見ると彼が神通を叩く為に伸ばした手は、あろう事か神通のお尻にあったのだ。彼は『わっはっは。』と豪快に笑っているが、神通の額には小刻みに脈動する血管が浮き出ている。強く噛んだ歯の隙間から漏れてくる神通の吐息。一瞬だけその場が沈黙したと思った刹那、神通はその男性に飛び掛った。


『ジ、ジジィイーッ・・・!』


 咆哮した神通は肩に乗せた竹刀を彼めがけて上段から振り下ろした。艦魂の彼女が怒ったからなのか、男に回避された竹刀が甲板にぶち当たると供に、艦がほんの数秒だが上下に震え出す。まるで荒天時の航海でもしているかのような艦の動揺に、逃げようとした彼はその場に尻餅をついた。


『ぐお!?』


 お尻に走った激痛に彼は目を瞑って顔をしかめているが、その目を開く前に彼の頭には神通の竹刀が思いっきり振り落とされる。


『ぐあ!!』


 悲鳴を上げて横たわり頭を抑えるこの人。まだ彼は名を名乗っていないが、神通がジジイと呼んだ事で忠は彼の正体が解った。昨日の宴会で話題に上った神通艦艦長の木村昌福(きむらまさとみ大佐、その人である。

 木村大佐は頭に大きなタンコブを作って悶えているが、それも当然の光景であると忠は思う。なぜなら昨日の明石と同様に、彼は怒らせる相手を間違えているからだ。マットの上で身体を動かしていた明石や那珂、そして部下達が表情を凍りつかせる中、完全に頭に血が昇った神通はうずくまる木村大佐の背中に竹刀を打ち下ろし始める。


『こぉの変態がぁああ!!』

『ぐあ!! お、おい、やめろ!! どわっ!!』


 必死に背中への攻撃に耐えて助命を懇願する木村大佐だが、それは無理という物だ。一度逆鱗に触れたが最後、生半可な仕打ちで神通が冷静を取り戻す筈が無い。彼の悲鳴は空しく響くばかりで、それを掻き消す様に咆哮している神通は鬼の形相で竹刀を何度も振り落としている。


『せ、せ、戦隊長! ど、どうかお気をお沈めに・・・・!』


 そんな中、そう叫んで神通の後ろから腕を回して抑えようとするのは霰だった。必死になってすっかりご乱心の上司を抑えようとする霰だが、身体が小さく非力な彼女では完全にご立腹の神通をとめることは出来ない。咄嗟に霰は叫ぶ。


『な、那珂中尉〜!!!』


 あまりの出来事に口を開けたまま呆けていた那珂だったが、霰の声で我に戻ると神通に駆け寄ってその背後から羽交い絞めにした。那珂が背中から、霰が正面から抱きつく事でようやく神通の動きも抑えられるが、まだ彼女の怒りは治まっていない。久々に龍のような顔つきになった神通は咆哮した。


『離せぇ、貴様らあ!!! うがあぁー!!!』

『じ、神通姉さん! 落ち着くのよ!!』


 大きく開いた神通の口の中には一瞬牙が生えているかの如く、ギラリと光った犬歯が見える。怖いどころの話ではない、さっきまで一緒に話していた事が嘘の様に忠には思えた。大きく見開いた神通の瞳に久々の恐怖を覚え、忠は胸の中で震える声を上げる。


 これはエライ事になってしまった・・・!


『あだだだ・・・・!』


 しかし悶え苦しむ木村大佐の悲鳴に、忠もやっと我に帰った。神通が完全に霰と那珂に制圧されている事を確認して、忠は甲板に倒れる木村大佐に駆け寄る。しゃがみこんで覗いた木村大佐の顔、痛みに苦しんで眉をしかめているが、豪胆にも恐怖に慄いた感じは無い。


『だ、大丈夫ですか、木村大佐?』

『ああ、大丈夫だ・・・。ぐ・・・。』


 あれだけ神通に滅多打ちにされたというのに、木村大佐はそう言うと腰を抑えながら立ち上がった。しわが目立ち始めた40代後半の顔の彼だが、随分と丈夫な身体をしているようだ。片手で腰を抑えながらも、もう片方の手でズレた軍帽を被りなおす木村大佐。首を2、3度左右に捻ってコキコキと音を鳴らすと、もう既に彼の顔からは苦しむような表情が消えている。小さく溜め息をすると、彼は自慢の髭を指先で撫でながら笑みを浮かべて言った。


『気合を入れてやっというのに、困った奴だな。』

『なにが気合だ!! このクソジジイ!!!』

『ヒドイ言い様だなぁ。』


 髭をキリッと直して、怒りの色が消えない神通に苦笑いする木村大佐。


 そりゃいきなり尻を触ったら誰でも怒るわい。


 そう忠は心の中で呟きながらも、神通相手にこうもひょうきんに立ち振る舞える木村大佐の態度を目の当たりにして、自然と口元を揺るませた。


『あ〜、お前さんは森少尉だね? 霰から聞いとるよ。』


 木村大佐は服のしわを直しながら、今度は忠にその笑みを向けてきた。愉快なお人であるが彼の階級は大佐であり、下級将校である忠が友達感覚で会話をして良い様なお人ではない。故に忠は踵を揃えて気をつけをすると、直立不動の敬礼をして声を返した。


『はい。自分は明石艦乗組砲術士少尉、森忠少尉です。願います。』

『おう、神通艦艦長の木村だ。願います。』


 木村大佐は軽い敬礼をして忠に応えた。

 青木大尉と同じようにヒョコヒョコと動く髭が愛嬌を感じさせるが、彼の敬礼の角度はとても絶妙な角度である。

 狭い艦内でぶつからないようにと海軍の敬礼は一般のそれに比べて腕を立てることが特徴であるが、その角度というのは実際に艦に乗組んで身体で覚える物である。神通が昨日の夜に言っていた通り、海の男として歩んできた彼の経歴を忠はその敬礼から読み取る。

 木村大佐の見事な敬礼に見入っていた忠だったが、木村大佐は敬礼の手を下ろすと同時に、おもむろに忠に近寄って肩を組んできた。やがて驚く彼の耳には、木村大佐のちょっと静かに放つ声が響いてくる。


『おい、ところで、明石ってのはどの()だ?』


 耳元で呟いた木村大佐の声に、忠は右舷に陣取った二水戦の面々に混じっている明石を指差した。忠と木村大佐を他の艦魂達と同様に遠目から眺めていた明石は、突然忠によって指差された事を不思議に思い首をカクンと捻る。そして忠の指先に彼女を見つけた木村大佐は、とんでもない事を言い放った。


『お! あの娘か! 可愛いな!!』

『な、なんですっ─!?』


 忠が言い終える前に、木村大佐は明石がいる二水戦の面々がたむろする右舷に向かって走り出した。事の一部始終を遠巻きながらも見ていた明石と周りの少女達は、走り寄る木村大佐に悲鳴を上げて逃げ出す。


『明石、ちょっとこっちに来なさい!』

『う、うわあああ!』

『きゃ〜! 変態が来た〜!』

『に、逃げろぉ!!』


 一目散に艦首に向かって走り出す艦魂達と、それを追い駆けていく木村大佐。歳相応にという言葉を感じさせないファンキーな彼の言動に、忠は腹を抱えて笑った。


 なんと面白いオッサンではないか。


 そんな言葉を脳裏に浮かべて笑う忠だったが、その頭に竹刀が振り落とされようとしている事に彼は気づかなかった。


『あいてっ!!!』

『笑っとる場合か、この馬鹿が!!!!!』


 木村大佐の突拍子の無い行動を受けて、那珂も霰も神通から手を離してしまったらしい。痛みに苦しむ忠を無視するかのように、二人とも木村大佐と逃げる仲間達が走り去った艦首の方を口を開けたまま呆けた顔で見ていた。完全にその場を乱された事に神通は顔から火が出る程に怒って、その場に立ち尽くしていた那珂と霰のお尻を蹴飛ばして叫ぶ。


『さっさと追わんかあぁ!!!!!』

『『 は、はい〜! 』』


 とりあえずこの騒ぎを治めなければならないと考えた二人は、艦首に向かって走り出した。神通は竹刀を一度床に振り落とすと、二人の後を追って走って行く。


 あ〜あ、なんでこんな事になってしまったんだ。


 すっかり機嫌が悪くなってしまった神通と頭に残る痛みに、忠は俯いて泣きたい衝動を抑えながら呟いた。


『こりゃあ、エライ事になったな・・・。』

『おい、森・・・。』


 顔を上げると走っていった筈の神通が顔を覗きこんでいた。もちろんお怒りの表情なのは言うまでも無い。


『お前、何やってんだ? 走れよ。』

『はぁ・・・?』

『馬鹿者が!』


ドガッ!

『ひぃ!!』


 思いっきり尻を蹴飛ばされた忠もまた、神通から逃げるように走り出した。


 今日は休みの筈だった。いつもの部屋でゴロゴロする日が、今日もある筈だった。ところが今、彼は竹刀を振り回す怖い人に追われ、同時に変態のオッサンの魔の手から必死に逃げているであろう相方を追って走っている。


 ドコで間違ったんだ? なんでこんな事になったんだ?


 そんな思いが巡る忠だったが、立ち止まる事は許されない。いつしか涙目になって走る自分を忠は嘆いた。


『何やってんだ、オレは・・・。』


 その日、再び柔道の訓練が開始されたのは昼を過ぎてからであった。

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