第一七一話 「鬼の慟哭/其の一」
昭和16年10月3日。
未だ室積沖に錨を下ろしたままの明石艦から、やや離れた地点で威容を構える陸奥艦の右舷舷門を、数名の士官が登っていく姿が有った。特にその先頭に立つ2名にあっては、顔立ちは中年の物にして襟章に見える金色の刺繍幅は広く、濃紺の一種軍装を背にして映える参謀飾緒も見て取れる。海軍の中でも明らかにお偉いさんに類する方々なのは衆目の一致する所で、その証拠に舷門脇にて兵曹が鳴らす号笛の音色が稜々と海原に響く。衛兵2名が直立不動の敬礼をする間を通って甲板に足を踏み入れ、陸奥艦当直将校、そして連合艦隊司令部の黒島参謀らと彼らは正対した。
「大西参謀長、草加参謀長、ご苦労様です。お待ちしておりました。」
「ああ、黒島君。ご苦労様。」
「はい。では長官室に、ご案内します。」
敬礼を終えた後にそう言葉を交えながら黒島参謀らが迎えたこの2名の参謀は、一航艦参謀長の草加参謀長、そして一一航艦参謀長の大西参謀長である。
本日、九州南端の鹿屋基地から岩国まで空路でやってきたばかりで、秋の潮風に僅かばかりの労の息を混ぜつつも早速陸奥艦長官公室へと歩みを進め始めた。黒島参謀らもそれに続いて甲板を歩き始めるのだが、長官公室に至るまでの道のりで更に声を交える様子は無い。3人ともお互いに機密中の機密たるお話が本日の来艦の趣旨であると承知しているからで、例え陸奥艦乗組員だろうと些かでも耳に入れさせる訳にはいかない故の事だ。
言わずもがな、そのお話とはハワイ作戦。なにせその具体的な研究と立案を担っているのは、この草加、大西両参謀長が属する艦隊であるのだし、ましてや草加参謀長の一航艦は作戦の実施部隊その物なのである。乗組員さんはともかく、現在は陸奥艦に本拠を構えている連合艦隊司令部の面々はとうに承知の事であった。
もっともそのお話というのが進捗という言葉とは逆方向の中身へと至ったのは、黒島参謀は勿論、その上司にして長官室で待ち構えていた山本連合艦隊司令長官にしても大いに驚く所となったのだが。
「・・・大西も草加もそう言うという事は、当然、塚原も南雲も同意見であるね? そうだね?」
「はい。先日の海軍大学校での図上演習も加味した上での意見です。」
「お聞きの事とは思いますが、軍令部の福留第一部長も概ね同意でした。長官、ハワイ作戦はご再考あるべきと思います。」
なんと一航艦、一一航艦とも、海戦劈頭のハワイ作戦は取りやめるべきとの意見具申だった。比島方面の米航空戦力の増強に合わせて空母部隊を南方に投入するべきという考えも有ったし、ハワイ作戦の細部に不確実な箇所が多すぎるという理由もあった。そもそも敵に見つからずハワイまで艦隊が進出できるのかも怪しかったし、艦船に対する燃料の補給も含んだ安定した進撃行動には天候の面の影響もかなり大きい。宇宙から四六時中監視するような態勢でも無い限り、広大な太平洋の半分にまで及ぶ天候を読み切るなんて不可能なお話だった。
大西、草加両参謀長も考えに考え抜いてこの結論に至ったのであり、それぞれの上司の両長官連名の上に成った今回の意見具申は、組織上は下から上がってきた物としても決して軽い物では無い。
山本長官の隣の席で部下の黒島参謀、佐々木参謀と共に耳を澄ましていた宇垣参謀長はその意味を重く受け止めつつ、息を殺して山本長官の横顔に目をやる。難しい決断となるかと少々の心配も滲んだ表情が宇垣参謀長の顔にも浮かんでいたが、そんな彼の上司はしばし続けていた腕組みを解くと即座に決を下した。
否の回答であった。
「うん、言いたい事は解る。だけどね、南方作戦中にガラ空きの東方から米艦隊に本土を攻撃されたら、お前達どうする? 南方の資源が確保できるのなら、東京とか大阪は焦土になってしまっても良いのか?」
やや強い語気で放つ言葉には信念がこもり、はっきりとした滑舌には迷いなんかとうに捨てた決意が現れていた。長机を挟んで相対した大西、草加陵参謀長がつい見せてしまう一瞬のたじろぎを捉えるように、山本長官は続ける。
「とにかく僕が連合艦隊司令長官である限りはね、このハワイ作戦というのは断行する決意であるからね。あのー、両艦隊とも幾多の困難も無理も有ろうがね。ハワイ奇襲、これ絶対やるんだっていう積極的な考えでもってね、準備を進めてもらいたい。」
山本長官の考えは変わらなかった。就任以来一貫して抱いていた航空機によるハワイへの奇襲という腹は微動だにしなかった様で、その不動の在り方を良く知っている、山本長官の側に席を得た佐々木参謀、黒島参謀辺りは人知れず何度も頷いている。
大西参謀長、草加参謀長は互いに気まずい顔を浮かべながらも、それでもすぐに再度の説得を行い始めた。彼らとて所属の司令長官の名代として来ている以上、そうは言われたとて「はい、そうですか。」と応じて戻る、子供の使いの様な真似をする訳が無い。色々な情勢や事情を勘案し、国家の存亡が掛かった重要な一手との責任感と覚悟を堅持して、知恵の限りを尽くして至った結果が作戦取り止めなのだ。特に草加参謀長の抗弁は勢いを失わず、山本長官の確たる考えに大西参謀長がとうとう再度の検討を承諾しても彼だけは中々簡単には翻意しなかった。
「いや、しかしあまりにも投機的過ぎます。意義は解るんですよ。しかし憂慮すべき点が極めて多いです。仮に失敗して空母喪失なんて事になったら、開戦翌日に戦争不可能なんて事になりかねません。」
「まてまて。草加君、ここは長官の決意に従って作戦準備を実施しよう。長官の肚がこれほど決まってるんだ。もう前に進むしかないよ。後はもう私達の仕事じゃないか。」
一緒に取り止めを上申しにきた筈の大西参謀長が、草加参謀長を逆に説得する側になっている。さすがの草加参謀長も公室内での旗色は悪くなり、たった一人彼だけが反対を主張している状態だった。その口調も段々と歯切れが悪くなり、「いやあ、しかしですねぇ・・・。」の一言を苦しそうに呟く以外に述べる言葉が失われ始めていく。
そしてその間隙を縫うように、大西参謀長と山本長官、そして連合艦隊司令部幕僚の何人かは、お仕事のお話をほぼ切り上げて談笑するにまで至ってる。
「よーし、佐々木もやるか。じゃあ、大西も入れて3人ね。」
「やあ、長官相手にポーカーは腕が鳴りますなあ。例のあのルールですかな?」
「はは、テキサスホールデムね。これ、あと50年もしたら結構流行ると思うけどねえ。」
置いてけぼりを食らった格好の草加参謀長は溜息交じりで席に着いた。方針は作戦決行で決まってしまったんだなと諦め半分で承知し、やや投げやりな気持ちになりながらも山本長官らのポーカーゲームをしばし見つめる。南雲長官や参謀らにありのまま話すか、それにつけても一航艦司令部の反対という空気の中でどうやって準備促進を話したら良いかな、と悶々とした悩みを得て気分は晴れない。山本長官や大西参謀長の様にポーカーで一喜一憂する気分にはなれず、輪から少し外れた位置で難しい顔を浮かべての観戦となっていた。
一方、山本長官は絶えない笑みの中にも、意見を容れられなかった草加参謀長が憂いの表情を浮かべているのをちゃんと認めていた様で、彼だけが責められる形とならぬ様に大西参謀長にも視線を向けたりしながら、実施推進のお願いを再度口にする。
「いやあ、僕がいくらポーカーやブリッジが好きだからと言ってね。そう投機的だ、投機的だって言うなよ。なあ。あのー、君らの言う事にも一理有るんだけどもね、一つさ、僕の言う事もよく研究してくれ。ね。」
大変気さくで優し気な山本長官の語り掛けである。決して頭ごなしに押し付ける真似はしない彼に、大西参謀長は任せとけと言わんばかりに胸を叩いて応じ、もう一方の草加参謀長は釈然としないながらも了解の意を示してみせる。
もう決は出たのだし仕方ない。
前途も明るい訳ではないが、なんとかやってみよう。
苦しみの残る中、そう己に言い聞かせるように胸中で唱えた草加参謀長。
やがて鹿屋への帰路に就くべく大西参謀長は先に陸奥艦を後にする事になり、草加参謀長は山本長官らと一緒に公室にて彼の背を見送った。九州南部の鹿屋基地から一緒に来たこの二人であるが、草加参謀長の帰る先は有明湾にて訓練に励む一航艦旗艦。帰りの時刻にはまだ少し時間が有ったので、彼はその後もしばらく山本長官や宇垣参謀長らとのお話を続け、中でも草加参謀長の属する一航艦の訓練進捗具合が特に話題に上がった。
一航艦は四月に編制されたばかりである上に、最新鋭空母の翔鶴艦、瑞鶴艦で成す五航戦もつい先月ようやく艦隊序列に加えられたばかりだし、搭載する艦載機の更新もつい最近になってようやく終わった所であるなど、習熟を低下させる要因が多い故に山本長官も宇垣参謀長も大変気にしているらしい。戦備作業が始まってはいるものの物資の充足は少々遅れている点は草加参謀長も気にしていたのでこれらの情報を伝え、不備不足が発生しない様にとの認識を皆で共有。山本長官も連合艦隊司令長官というその立場から力を貸すと言ってくれ、この点では草加参謀長も喜ぶべき結果を得られて少しだけ安堵するのだった。
そして僅かばかりの時間も流れていよいよ草加参謀長も陸奥艦を去る刻限を迎えた頃、彼をして戸惑いを禁じえない山本長官の声がまたしても放たれた。帰り支度を終えた草加参謀長が相対するや、彼は軍帽を手に取っておもむろに椅子から立ち上がって口を開く。
「どれ、送ろう。」
「は? あーいやいや。長官自らとはそんな・・・。」
「やーや、良いから良いから。」
山本長官は目下に当たる草加参謀長をわざわざ舷門まで見送りに行くのだと言う。礼式上から来艦時と同じく草加参謀長の送迎を担当しようとしていた黒島参謀もちょっと驚いているのを横目に、遠慮する草加参謀長の背を押すようにして山本長官は歩を進めていく。止めてくださいとも言えぬ草加参謀長はさながら公室から押し出される様な形でその場を後にする事になり、困惑しっぱなしのまま陸奥艦最上甲板の右舷舷梯へと向かった。
どうにも今日は山本長官に困らされる場面が多くて、疲労感も濃い草加参謀長。
ペコペコと何度も頭を下げながら山本長官へ別れの挨拶を告げるが、その最中に彼の肩には前触れなく山本長官の手がポンと乗せられる。釣られるようにして草加参謀長が顔を上げると、そこにはさっきまでポーカーを楽しんでいた際の物とは打って変わった、山本長官の神妙な顔つきが有った。草加参謀長が一瞬驚きを覚えて声を失う中、これまでになく力を込めた声色で彼は言う。
「・・・草加。君の言う事もよく解るんだ。解ってるんだよ。だがしかしね、対米戦なんてするんであるなら、真珠湾攻撃ってのは僕の堅い信念なんだ。だからこれからは反対論を言わず、僕の信念を実現できるよう努力してくれ。このハワイ作戦実施の為なら、君の要望はなんでも必ず実現するよう、僕も努力を惜しまぬからね。何かあったら遠慮せず、僕に言ってくれ。南雲や参謀達には中々言えない事でも、いつ何時であっても構わんからね。」
「山本長官・・・。」
本日三度目に及ぶ実施推進のお願いであったが、その言い方は草加参謀長の憂慮心を上司の立場から支えようとする、山本長官の心遣いが込められている。命令なのは勿論ながらその為のサポートを真剣に約束する声には独特の包容力みたいな物があり、あとは任せたといった感じの投げっぱなしにする様な態度ではない。わざわざ舷門まで見送りに来てくれた事も併せ、悶々としていた草加参謀長の胸の内を察してなんとか前向きな姿勢を得させようと考えてくれた、山本長官なりの優しさがそこに有った。
草加参謀長は素直に感激した。
「・・・よく解りました。全力を尽くして実現するよう努力いたします。」
瞬時に拭われた憂慮に代わって草加参謀長の胸の中を占めたのは、激しく燃える使命感。何が何でも絶対にやってやるんだという気概をここに至って堅くし、山本長官との間に敬礼を終えるや彼は足早に陸奥艦の舷門を降りて行く。こうなったら一刻も早く所属の一航艦へと戻り、より真剣にして実施促進を図らんとする決意がその歩みに現れていた。
事実、草加参謀長はこの翌々日の10月5日午前には有明湾で訓練中の一航艦旗艦、加賀艦へと戻り、南雲長官以下の艦隊司令部幹部に即座にハワイ作戦準備のより一層の推進を提言。「参謀長帰艦、一日も安閑とし得ざる情報もたらさる。」とは、この艦隊司令部の中にいた大石参謀が日誌に記した言葉である。
一部とは言え、やや連合艦隊内でも足並み、思惑が乱れていた中、実施する側の方としてはこうしてハワイ作戦案は完成形へと進む事になる。依然渋っている軍令部も遠からず山本長官が強力に推し進める本作戦を了承する事になるのだった。
決行の二ヵ月前の出来事であった。
さて、そんな連合艦隊上層部のお話とはまだちょっと距離の有る、明石艦。
一応はまだ室積沖で待機しているの物理的な意味での距離は極めて近いのだが、艦隊司令部を宿している訳でもなければ艦の命である明石だって別に偉い立場には無いので、ハワイへの一大奇襲作戦なんかこの時点では明石艦艦上の誰もが知らない状態にある。帯同する第二艦隊もまだ集結を終えていないが、母港から既に進出してきた各艦、戦隊は近隣の海域で各種訓練を行っており、それに付随して出る工作案件をちょっと手伝ったりしている今日この頃であった。
艦魂の明石も今のところはそう忙しい日々を送ってはいないが、師匠の朝日が同じ海域に錨を降ろしているのは貴重な機会。纏まった時間を見つけては朝日艦へと赴き、医術は勿論、多様なお船の知識や苦手な英語のお勉強に勤しんでいる。もともと勉強熱心な性格もあるのだが、今の明石の勉学を支えているのはやはり部下を持つ立場になるという事だ。
例の松栄丸のお手紙も記憶に新しいが、つい先日には現在大阪で艤装工事を受けている山彦丸という名の艦魂からも手紙が送られてきた。八月に特設工作艦として新たに徴傭されたのだそうで、なんとなんと船籍は呉鎮籍になるとの事。生まれも昭和12年との事で明石とは共通点が多くなりそうなので、先輩としての実力や見識をさらに一層磨かねばと彼女は奮起。その様子を優しく見守る朝日も教鞭に熱を入れ、押し迫った戦争の可能性とそれに対する一抹の不安を互いに心に置きつつも、この二人としてはこれまで通りの師弟の日常を過ごしていた。
そして10月8日。
着々と第一、第二両艦隊の所属艦が集まって来る室積沖に、横須賀での各種工事を終えた長門艦がその軍艦旗を進めてきた。同日付で陸奥艦に翻っていた山本長官の将旗は長門艦へと翻るも、それを嫌って逃げてきたかの様に朝日艦へとやってくるのは実に彼女らしい。
「朝日さーん、なーがっとでーす。」
「わ! 長門さん!?」
「あら、来たわね。長門、入りなさい。」
そんなやりとりの直後に朝日の部屋の扉が開かれ、陽気に鼻歌を鳴らしながら長門が現れる。三十路を意識できる大人の女性の顔立ちと、艶と流れも美しい腰まで届く長い黒髪。背丈は明石とほぼ同じな中、日本人女性にしてはやや広い肩幅と腰回り、上衣越しでも解る豊満な胸。そしてなんと言っても経験十分のベテラン艦魂さんにして、連合艦隊旗艦という立場を頂くのが嘘のように思える、砕けた感じの言葉遣い。朝日の一番弟子にして明石が姉と慕ってやまない長門は今日も平常運転の様だ。
「どもども。おーう、明石ぃ。元気そうね〜、森クンも元気?」
「はい! それはもう!」
「そか、何よりだねえ。朝日さん、今到着しました。」
「はい、ご苦労様。まあ、掛けなさい。」
思わず席から立ち上がってはしゃぐ明石の肩に手を乗せて声を交えた後、明石をあやしながら小さく頭を下げて朝日に挨拶をする。朝日も先日述べた差し迫った戦の事はひとまず置いて歓迎するつもりの様で、明石の授業用に卓上で開いていた冊子やノートの類を片付け始める。それと入れ替わりにケトルやカップを卓上に並べて長門の分の紅茶を作り始め、久々となる朝日一家における団欒の一時を迎える事にするのだった。
「やー、そらアタシとしても大和はかまってあげたいんだけど、どうしても横鎮所属だと一緒になれなくてねぇ。」
「でもでも、今月の末頃にはもう公試で海に出るみたいですよ。年明けすぐには、艦隊に合流できるんじゃないですか?」
「そうね。私の見た所、浅間と八雲で術科一般の基礎的な事はだいぶ教えたみたいよ。今になって新鋭の戦艦の子を教えるなんて滅多にない事だから、練習航海もお役御免になったあの二人にとっては良い暇つぶしにもなってたようね。八雲なんかガラにもなく歌まで教えてあげたんだって。」
「あ、あの真面目で静かな八雲さんが・・・。あ〜、末っ子はやっぱ得よね〜。そういうの見れて。」
朝日一家の長女の自覚が有る故なのか、それとも仕事上の面倒事が無く気楽に過ごせる若人の境遇が羨ましいのか。まあ言うまでも無く後者であるのだが、長門は教え子たる大和の境遇に妬みの弁を述べる。もちろんこれに続くのはその能天気でお気楽な所をケラケラと笑う明石に、二言三言を二乗する勢いのお説教でとくとくとたしなめる朝日。平謝りする以外に選択肢が無くなっていつも通りの光景となり、師弟一門水入らずの時間をようやく彼女達は得る事になった。
この日は珍しい事に紅茶に留まらず夕餉まで朝日が用意してくれ、就寝時間も迫る頃まで彼女達はその笑い声と近況を述べ合うのに花を咲かせる。
「うあ〜、出雲さん佐世保来てたのかぁ。アタシも会いたかったんだけどなあ〜。」
「もう上海に戻ったみたいね。手紙には敷島姉さんと随分楽しく過ごせたと書いてあったけど。」
「わ、私も会ってみたかったです。出雲さん、その、上司としては凄い方だってみんな言いますし。」
「おうよ、明石! 日本海軍が世界に誇る秘密兵器よぉ、出雲さんは。」
「ふふふ、あんまり私は真似して欲しくはないけど。」
こうしてその日は暮れて行った。
10月14日。
ようやく終結を終えた第二艦隊の各戦隊は、稜々たるラッパの音色を残していよいよ室積沖を抜錨。本格的な艦隊演習に望むべく、九州東岸の佐伯湾へと移動を開始した。
明石艦もこれに付随して佐伯湾へとその軍艦旗を進める事になり、艦の命の明石もしばしの間の室積沖における憩いの時間と、その中心にあった師匠と長門に別れを告げる。朝日から示された戦への気持ちの持ち方、考え方は一緒にいる中でついに解らずじまいであったが、別れる際に至ってかえってその方が良かったのかもと明石は思った。何でもかんでも朝日に示されるままにしているのは少々甘え過ぎてるような気がするし、当の朝日だってそういう物を体得したのは長い時間をかけ、苦楽混じる色んな経験をし、彼女なりの努力を経た結果なのであって、それをようやく中堅立ち位置に足を踏み入れたばかりの自分が簡単に会得できる訳が無い。一日一日の積み重ねはどんなに足が長くても跨げない。早く追い付く為には人より長い一歩を試みるのではなく、至って普通の歩みの質を有意義な物へと昇華させるのが一番の近道なのだ。
帽子を振りながらそう考えた明石の脳裏に、師匠がいつも言っている言葉が過る。
早い遅い、良い悪いといった評価は二の次、三の次。
大切なのは、そこに至るまでにあった数多くの試行錯誤の、過程と結果。
英国から嫁いで40余年の朝日に比べたら、まだまだ自分の試行錯誤なんて数が足りなさ過ぎる。もっともっとたくさんの試練に挑まねばと心持を改め、明石とその分身は緑が色褪せつつある室積の松林に別れを告げるのだった。
だがこの試練という物が、着いた先の佐伯湾にてとんでもない形で発露する事になった。
「ん〜と、丸にバッテンだから、ここは第四種になったのか。よんしゅ・・・、と。」
それは佐伯湾到着から数日経た、とある日のお昼頃の事。
明石は一人、自身の分身の中を歩いて防水扉、または蓋の確認を行っていた。戦備作業の影響なのか、呉や因島での工事後に明石艦艦内では、数多くある防水扉の中で種別の変更があったのだそうで、他ならぬ自らの分身の事だからと明石はその把握に努めていた次第である。
もしもの時に浸水を防ぐ重要な役割を持つ防水扉の類だが、その扱いは艦毎に第一種から第四種まで厳密に規定されていて、全ての扉を日がな一日中ずっと閉鎖している訳ではない。お百度を踏むという訳でもないが、艦内を移動するに当たって防水扉を前にする都度、いちいちハンドルとかを操作して扉の開閉をやってたらもの凄く時間がかかってしまう。また逆に全部開放してたら当たり前だが艦の保安上、不意な事故とかで浸水した場合、その規模が僅かであっても沈没や転覆へと容易く繋がる事態になってしまいかねない。
故に普段より艦内の防水扉の一つ一つは、それぞれその閉鎖と解放の時期で四種に区別され、扉の裏表には区別に応じた符標まで描かれている。お偉いさんたる士官が使う公室とかは体裁上からこのマークが印されていなかったりもするが、区別自体は勿論ちゃんと適用されていた。
ちなみにノートに書き込んでる明石が前にした第四種の防水扉は、日没前の閉鎖や総員起床後の開放、或いは防水扉閉鎖の命令や合戦準備、警戒航行時に関わらず、基本的には永久閉鎖扱いとされる物である。水兵さんの一部には「開かずの間」とまことしやかに囁かれておどろおどろしい噂のネタにもされたりしてるが、逆にその中の部屋は普段からほとんど人気が無いという事で、艦魂さん達の中にはこの第四種の防水扉の向こうを自室にする者も少なくはない。
と、そんな訳で明石もまた比較的階段とかに近いこのお部屋はなんか自分のスペースとして使えたりするかなと考えを至らせ、一気に飛躍して木具工場辺りで自分好みの家具でも作っちゃおうかなどと変な妄想を一瞬始めるが、ふと耳に届いた段々と大きくなる荒い息遣いと足音がそれを遮った。
「・・・ん?」
「あ、ああ・・・! いた! 明石、明石・・・!!」
今にも前のめりに転びそうな走り方で駆け寄ってくるのは、明石と同じ濃紺の士官用軍装に袖を通した女性。足取りに合わせて長めの黒髪も振り乱し、随分と血相を変えているが明石とほぼ同じ20代にようやくなったくらいの顔立ちは隠せておらず、声もまだまだどこかあどけなさ、頼りなさが感じられる。160センチ後半の明石よりも背は少し低く、すぐそこまでやってくるとなんとなく明石の方が先輩にも見えてしまう。
だが当の明石はすぐにその女性の名を口にする事が出来た。同じ第二艦隊の仲間な上に、彼女が明石とは数少ない同期の様な間柄で付き合ってきた仲だったからだ。
「およ? 利根、どうしたの?」
「はあはあ・・・! た、大変なんだ! は、早く来て・・・!」
「わわ・・・! な、なになになに・・・!?」
息も絶え絶えの利根に目を丸くする明石だが、利根はろくに応じもせずに明石の腕を掴むと強引にどこかへ引っ張って行く。まさに驚く間も無い状態で、手にしていた鉛筆やノートをあやうく落としそうになりながらその場を後にした。
一体何がどう大変なのか、というかどこへ連れてかれるのかも分からなくて、利根に聞いてみても焦りも極まる彼女からはまともな解答は返ってこない。工作艦の艦魂である自分をわざわざ呼びに来たという事は、なにか重大な損傷を被った艦艇が出て、それに伴って重傷を負った仲間の手当とか治療とかの要でも発生したのかとも思ったが、そんな大事故なら人間達が真っ先に騒ぐ筈である。しかし現に利根に手を引かれて艦内を駆ける中にあっても、明石艦乗組員の皆々様に騒動の兆しは全く見て取れず、上甲板へと出て佐伯湾を軽く一望してみてもどこにも事故艦艇とかの類は見当たらなかった。
おかげで何が何だかわからない状態のまま、明石は利根にいずこかの艦の上甲板へと連れていかれる。殆ど拉致に等しい恰好であったが、着いた先の艦上に見える構造物には明石をして見慣れた点が多かった。
細長く流線の効いた船体と中心線上に点在する防盾付の単装砲、艦首寄りの位置に構える角ばった箱型の艦橋。そして最も特徴的で明石も印象が強い直立した4本煙突。なんとなく明石の脳裏に浮かび上がった艦名も、マスト上部に見えるヤードの設置具合を見てすぐ確信に変わった。
利根が連れてきたこの場所は、二水戦旗艦の神通艦の上甲板だ。
と同時に、明石は艦尾甲板の方に人だかりが出来ているのに気付く。乗組員さん達の集合でもかかってるのかと思いきや、それぞれのシルエットには女性の身体特有の流線が軍装越しでも見て取れ、髪もそれぞれ軍帽から明らかにはみ出すくらいに長い。背や肩を覆うくらいの者も居れば明石の様に首後ろで束ねたりする者も混じり、坊主頭が基本である人間の海軍軍人さんとは明らかに違う。
どうやら艦魂の仲間達が大挙して集まってるらしいが、帝国海軍艦魂社会随一の嫌われ者たる神通の分身に集まるとは珍しい。二水戦の駆逐艦の艦魂達なら日頃から出入りしてこそいるも、当人の交友関係という物が狭小な故に外部から来訪者なんて極めて希で、ましてや最近は実の妹の那珂をも邪険にしてる始末。あの気性なら部外者来訪と同時に怒鳴り散らして追い返すのも目に見えていた。
だが明石から見える人だかりの面々の殆どは、彼女にちょうど背を向けてる格好ばかりであっても袖を通す軍装が水兵さんから士官まで多種多様。それぞれ背の低い高いも色々で、見慣れた二水戦の駆逐艦の艦魂達とも違う。
恐らくは佐伯湾在泊の艦の命達が大挙して押し寄せた状態らしい。
「う? な、なに? どしたの?」
明石は事態がどうにも飲み込めず目を丸くしたままその場に立ち尽くし、ここに至ってようやく利根が息を切らしながら説明をすべく明石の顔を覗き込んできたが、その刹那、明石らが前にする人だかりの向こうからは悲鳴と怒声、続いて金属ではない何かが激しく鋼鉄に打ち付けられる音が響き渡った。
「ぐあっ・・・!」
まるでカタパルトで射出される水偵の如き勢いで、神通艦最後尾の主砲を真上に臨む隔壁に細い背中が打ち付けられる。
長身痩躯な女性の身体つきに濃紺の士官の軍装が纏われており、彼女を艦の命である極めて端的に示しているも、目にかかるくらい長い前髪、一本に纏めつつもうなじも隠せないくらい短い後ろ髪は共に毛先も不揃いで、女性らしさよりも粗野な野武士を彷彿とさせる。実際に彼女の粗野、次いで粗暴な人柄は日頃より周知の事柄であるのだが、苦悶に歪めた荒い息遣いと今にも崩れ落ちそうな足取りで隔壁にもたれるという今の姿にそんな物は無かった。
そして俯いたまま吐息に合わせて上下するその顔からも、普段の強面は褪せている。鼻筋を伝って落ちる血は、垂れる前髪を伝って落ちる汗と共に足元へと滴り、青く腫れあがった右目は完全に視界が塞がれていた。頬の痣と隣り合う唇からも鮮血が一条、顎に向かって伸び、グラグラと揺れ動く感覚を持つ奥歯が荒い呼吸にさらに煩わしさを与える。
「ぐっ・・・! ハアハア・・・!」
激痛に悶えながら大きく開けた口から鋭利な息を吐き、生まれたての小鹿みたいに今にも崩れ落ちそうな脚を踏ん張ってやっとの事で立ち上がっている彼女は、やがてその傷だらけの顔を持ち上げて片方だけになった眼差しを正面へ向ける。
すると顔が露わになった事で、今来たばかりの明石にもその正体を察する事が出来た。青息吐息の満身創痍に陥っていたのは、誰あろう本艦の艦魂である神通であった。
「じ、じんつ・・・!」
これまで見た事も無いボロボロな姿に思わず名前を口から出しかけた明石であったが、神通の視線が向く方向にそれを上回る程の、言葉に変えれぬ異様な気配を感じて息が瞬間止まった。次いで目をやった刹那、明石の身体は四肢も内臓も、ありとあらゆる細胞全てに電流が走ったかの如き形で激しい恐怖と衝撃に襲われる。色艶豊かな唇も含め、その顔から一挙に血の気が失せて青ざめる程だった。
晴れた青空と佐伯湾の紅葉も混じる緑という、柔らかで鮮やかな色合いが甲板の向こうに広がっている中、神通艦の艦尾旗竿に翻る軍艦旗の方から一際大きな人影が迫ってくる。神通は勿論、周りに集まっている明石らとも向き合う位置にあったので誰にとっても近づいてくる状態であるが、鮮やかな海辺の景色とは似ても似つかぬ殺気と憤怒がその影から溢れ出しているのを誰もが認める事が出来た。
ただ、ちょうど陽光を背負って正面が殆ど日陰となっているこそいるも、影の輪郭付近に見て取れる特徴はその人影の正体を明石に即座に理解させる。明石と比べても頭一つは抜けている長身に、顔の両脇を真っすぐに流れ落ちる長いプラチナブロンド。頬や顎のシルエットが僅かに照らされる以外は真っ黒な顔に、不気味なほどに爛々と輝く蒼い瞳。見る者に尋常ならざる戦慄を植え付ける、この覇気。
やがて抑揚を消して唸るように吐かれた低い声には関西訛りが持つ独特の刺々しさも混じり、身体全体に纏われる恐怖の刃先をより一層研ぎ澄ましていた。
どんな新米艦魂でもその姿を知ってれば、彼女を見間違う事は無い。
現在の帝国海軍艦魂社会において実戦部隊の最年長にして最古参。大正生まれのベテラン格の艦魂達ですら目下に扱える明治生まれの古強者。厳しさと荒々しさを前面に出した、いわゆるドカタ気質の艦魂の頂点に立つ存在であり、あのへそ曲がりの神通が唯一絶対の師匠として仰ぎ見た者。
第二代金剛艦、すなわち金剛型戦艦一番艦の命、金剛であった。
「こんクソガキャ、よおもワシん顔に泥ぬってくれよったで・・・。」
普段から怒鳴る事も多い中で意図的に声量を抑え、旋律もまた緩やかな物でこそあれども、そこにさざ波の様な静かで優し気な感じは微塵も無い。まるで暗闇の中でろうそくの明かりを受けてギラギラと鋭さを浮かび上がらせる、日本刀の刃紋もかくやの雰囲気が満ちている。眉も毛髪も逆立って目尻も吊り上がり、片側の目を見開いて亀裂みたいな唇の隙間より強く噛んだ歯を覗かせるという顔も併せ、金剛が怒髪天を衝く状態にあることは疑いようが無かった。
怒ると怖いとは人柄の評として往々にして耳にする物だが、金剛の場合はそれどころの話では無い。噂として耳にしつつも明石が見たのはこれが初めてで、白人女性特有の肌が何か普段に比べて一層白さを増して瞳に映る。血の気が感じられないというか無機質な白がその顔を染め、青い両目が陽光に負けぬくらいに輝く。不気味にして近寄りがたい、もっと言えば触れる事すら億劫にならざるを得ない危険性が満ち満ちており、いっそ顔を赤くして怒鳴り散らしてた方がまだマシだとすら明石には思えた。
ひえええぇ・・・!
金剛さん、凄く怒ってる・・・!?
あまりの迫力とそれが生む驚愕に、口も目も大きく開きっぱなしの顔を凍り付かせた明石。矛先が傷ついた親友に向けられてる事を察しても声も出ない有様で、思考は当然真っ白。金剛の歩みを止める選択肢なんか頭に過らせる余地も無かった。
周りの仲間達も同様で全員が有る筈の無い睾丸が喉にまで上がってる感覚を覚え、息を殺して神通へと大股で近づいていく金剛を視界に収めるのみ。それだけで金剛の気迫と憤怒に圧倒されてしまっていた。
そして未だおぼつかない足取りで立ち上がる神通もまた、傷だらけの顔に脂汗を滲ませているのを見るに金剛の姿にこれ以上ないくらいの戦慄を抱いているようだ。いつもの横柄で尊大な態度は鳴りを潜め、唇の向こうに僅かに覗く歯を小刻みに鳴らし、両肩が震えているのが傍目からでも明らかだった。
だがその時、なんと神通は金剛に向かって正対するや、口を真一文字に結んで震える両手に拳を作って顔の前辺り掲げた。武技の指南なんてまともに受けた事が無い明石も、すぐにそれが格闘の構え、素手で戦う為の姿勢である事に気付いて再び驚いた。
美保関の一件以来、金剛を師匠と仰いで生きる術を身に着けてきたという神通の過去を、明石は当人の口から教えて貰い、これまで神通と金剛が接する中で維持されてきたお互いの関係性も彼女は何度か目にしてきた。そこには師として敬うのは当然として、厳しさを求めて絶対服従を掟としたこの師弟の姿が常在、堅持されていた。神通が二水戦で発揮する上司像がまさにそうである様に、上位下位の絶対性、普遍性が彼女達一門を語る中で中核に位置する物である筈だった。明石からすれば親友として接してきたが故に、そういうのの権化みたいな人物が、神通その人であると思えていた。
しかしあろう事か、その不可逆を今、神通自身が拳を向ける事で否としている。抗うどころの話では無い。神通は唯一絶対の師匠、ここ最近は顔を合わせれば笑い合う事も多かった、たった一人の親と表現しても過言ではない金剛を相手に、自らの牙を立てんとしているのだ。
「ハアハア・・・! ウオォォオー!」
荒々しい息を飲み込んだ刹那、咆哮を放った神通が耳の辺りに掲げた拳を金剛へ向かって突き出す。大きく踏み出して放った一撃は傷だらけの体から出したとは思えぬほどに凄絶で、神通の叫び声も相まってまるで曇天を一閃する雷の様。咄嗟に思い留まらせようと思った明石が一言も発する間隙をも生まず、その拳はまさに言葉通り一瞬で金剛の顔面へと迫った。
だが、それは神通の利とはなっていなかった。
相手は誰あろう彼女の師にして、武技体技の達人であるあの敷島が半生を捧げて鍛え上げたという、金剛。神通よりも10センチは高い大柄な体躯が僅かに半身になるや否や、交わった二人からは肉越しに骨を打つ鈍い音が辺りに響き渡る。形容し難く耳障りの悪い衝撃音に周囲にいた全員が顔を歪め、反射的に明石も両手で口を覆う中、発射管から飛び出す魚雷の様な勢いで神通の身体が跳ね返された。
「ああ・・・!」
誰となく出た悲鳴の合間に、皆が神通の頬に金剛の拳が刺さっている事を認めて背筋を凍り付かせた。金剛の拳は鈍器と化して肉を圧し骨までめり込んで神通の顔の半分を大きく崩し、それと同時に裂けた口からは艦首に砕かれて甲板上に舞う波飛沫を思わせる様に鮮血が飛び散る。虚しく空を切って勢いを失う神通の拳の影に、青白くほとばしる金剛の碧眼がおぞましさを纏いながら灯っていた。
「がっ・・・!」
文字通りに殴り倒された神通の身体は、勢いをそのままに甲板に打ち付けられる。鳶色のリノリウムに赤い飛沫が散らばり、僅かに遅れてその口からは白く小さな固形物が一つ転がり出てきた。金剛の鉄拳によって砕かれた神通の奥歯である事は明白で、今しがたの一撃が如何に強烈であったかを声無く物語っていた。
普段あれ程部下達に手を上げて怒声を吐き、柔道を主とした武技においても相当の腕前を誇る猛々しい神通が、受け身も取れずに片方の頬を擦り付けるようにして甲板に叩き付けられたのも道理という物で、虚ろな目にも見て取れるその衝撃の凄まじさは彼女の意識を半ば消失させかけていた。
だが金剛の激情ぶりに鎮まる気配はない。再び大股で歩を進めて倒れ込んだまま朦朧とする神通の傍まで来ると、悶える猶予も残さぬ勢いでその腹へ蹴りを強く打ち込んだ。
長身な体躯が持つ長い脚がもたらす威力は拳に劣らぬ、いやそれ以上であり、弾みで神通の身体が甲板から僅かに浮き上がる。口からは再びの鮮血と一緒に、今度は胃液までも吐き出された。
「ガハッ!」
「たわけがぁあ! おどれ誰に喧嘩売ってけつかるんじゃ、オラア!!」
蹴ると同時に雷鳴もかくやの怒声を放った金剛。続けざまに神通の頭を体重をかけて圧し潰す様に踏みつけ、傷だらけの顔に一層の歪みと苦痛を与える。
その微塵の容赦も無い凄惨な暴行に周囲の者達は一様に肩を震わせ、今にも膝から崩れ落ちそうな間隔に陥る。声を上げるどころか吐息すらも押し殺さないと、金剛の狂気がその矛先を自分に向けてくるんじゃないかと思えて、強張った表情のままその暴力を黙ってみている以外の選択肢を持てなくなってしまっていた。
もちろん、こんな修羅場にはほぼ無縁で生きてきた明石だってそんな状態は変わらない。できるなら人混みを押しのけて今すぐにでもこの場から逃げ出したい衝動が躍動しており、膝さえ震えていなければその一歩を進めるのに一切の躊躇も無かっただろう。
だが一つだけ、明石のそんな心の錨鎖となり得る物がそこにある。目の前で金剛のなすがままにいたぶられ、満身創痍の中で悲鳴を上げているのは、10歳近く年齢が離れてるとは言え、自身の分身が就役した頃から親友として常に一緒であった神通という艦魂。そのふてぶてしい態度に困った事も何度も有ったし、そのげんこつを食らって恨めしく思った事も何度も有ったし、機嫌の赴くままの仕置きに呆れた事も何度もあったが、それらと同じくらいに神通の助力や助言、優しさや気遣いに接してきた。決して朝日や忠で代わりが務まる様な物では無かった事を思い起こせば、知らないふりや放っておくなんて芸当ができる訳がない。否、してはならないのだと反射的に胸の内にてもう一人の自分が大声を上げていた。
「や、止めてください!」
刹那、そう叫んだ明石は倒れ込む神通と足蹴にする金剛の間に飛び込むようにして身体を入れ、峻烈さに勢いも激しくなりつつある金剛の制止を試みる。とにかく金剛の視界に割って入り、神通以外の存在を意識させれば暴挙の矛先も鈍ってくれると咄嗟に考えての行動だったが、無意味だった。
金剛はその蒼い瞳を微塵も神通から逸らす事無く、窓のカーテンを開けるように右腕を一薙ぎ。見るからに力も籠らず軽い動作であったが、明石の身体はまるで箒で払われた木の葉みたいに吹き飛ばされ、彼女らを取り囲む人混みの一角へと雪崩れ込んだ。
「わぁあ・・・!?」
「うわっ!」
その場にいた何人かを巻き込んで明石は派手に倒れる。金剛の憤怒にしばし硬直していた周囲もそれがきっかけとなってようやく沈黙から解かれ、慌てて倒れた者達の傍に駆け寄ってくる。
「うお!? お、おい、大丈夫か!?」
「わわ、あ、明石!」
「あ、明石さん、だだ、大丈夫ッスか!?」
俄かに喧騒となった中で明石の傍らに寄ってきたのは彼女をここまで連れてきた利根と、神通の教え子の一人である雪風であった。
たまたま明石が投げ飛ばされた一角に雪風ら二水戦の駆逐艦の艦魂達が集団を作っていた様だが、顔見知りの明石をしてもあまりの修羅場と凍り付いた空気に今までその場に居るのが認知できなかったらしい。明石より年上の艦魂達ですら戦慄と恐怖で声を失い顔面蒼白となっているのだから、10代後半の少女達が大半を占める雪風らでは無理も無い。霞も霰も朝潮も、みんな一様に目の端に涙を浮かべてゴミの様に踏みつけられる上司の姿にオロオロしている。
鼻っ柱が強くて常に反骨精神旺盛な雪風も明石の身体に手を添えて起こすのを手伝いつつも、どうすれば良いか解らず今にも泣きだしそうな顔になっていた。
その間にも金剛の暴行は続いて肉を打つ鈍い音と怒号は絶えず、神通の頭部が打ち付けられる箇所の甲板には血飛沫が幾重にも重なって血だまりも出来始めている。もうこれは見てられないと再び制止すべく明石は雪風の手から離れて飛び出し、体当たりの勢いで今度は金剛の腰に両腕でしがみつく。
「止めてください、金剛さん! 止めてください、お願いします・・・!」
遮る程度では話にならない。直接金剛の身体の自由を奪う以外に方策が無いと咄嗟に考えての明石の制止は、怒髪天を衝く中に対象以外の認識を持たせる上では確かに成功であった。
だが、ただそれだけの事だった。
刹那、必死にしがみついて叫び続ける明石の両手からは、それまで伝わっていた激しい動きの感覚がピタッと消え去る。なんとか金剛が思い留まったかと息を切らしながら顔を上げた明石だが、その表情は大きく見開いた目だけを残して写真で切り取ったように硬直した。
見上げた先には気味の悪いくらいに真っ白な顔。左右に裂けた口からは犬歯が殊更目立つ歯を覗かせ、西洋人独特の奥まった両目の影の中にまるで自ら発光しているかのような蒼い瞳。しかし綺麗とか美しさなんてそこにはない。透き通った感も強い色合いで成されたのは、もはや殺気とも狂気とも受け取れない剥き出しの怒り。一瞬でそれが津波の様に明石に圧しかかって完全に肝を握りつぶし、吐息も思考も、時すらも奪い去ってしまった様だった。
蛇に睨まれた蛙、という程度の話では無かった。この時、明石はそれまで耳にしてはなんとなく想像していただけの存在を、その生涯で初めて自身の両目に映す。
鬼だった。まごう事なき鬼がそこにいた。
「・・・ワレェエ、明石ィイ! おどれ上官に何さらすんじゃ、オラァアア!!」
眼前での落雷としか形容できぬ怒声が空気を震えさせるも、既に明石は何の反応を示す事も出来なかった。いつの間にか鷲掴みにされた前髪に痛覚を働かせる間もなく、膝が腹に突き刺されるのも当人は認識できていない。最後に突然視界が大きく揺れて金剛の下から急速に離れていく事に至っては、何がどうなってるのか全く理解できない有様であった。
「ぐあっ・・・!」
再び周囲の者達の一角に吹き飛ばされ、甲板に身体が打ち付けられた拍子に虫の様な悲鳴を上げた明石。一瞬の内に掻いた脂汗に顔を濡らし、乱れた前髪の奥で虚ろな目を金剛の方に戻す頃になって、その四肢には今まで感じた事の無い激痛が駆け巡った。
「あ、あぐぅ・・・!」
指一本動かす、いやただ一度の呼吸すらにも自由を与えぬ痛みに明石は悶える。膝に圧された腹部はハンマーを打ち下ろされたような衝撃がまだ残っていて、横隔膜まで至ったのか呼吸が苦しい。腹部周辺の筋肉が麻痺して上体を起こす事もままならず、意識が朦朧として視界がぐにゃぐにゃと歪んでいるのは頭部にも同じような衝撃が加わったから。自分で見る事は叶わないが、明石の右頬は金剛の鉄拳で青く腫れあがっていた。
わずか二発の殴打にも関わらず明石は完全に再起不能状態である。元々体力自慢な訳ではなかったが、160センチ後半もある明石の体躯は女性にしては大柄な方だし、初めて神通と出会った際は派手な殴り合いだって経験してる。勝てはしないまでも金剛を抑えるくらいはできるかと思っていたのだが、それはとんでもない間違いだった。
同時に、明石はこれまでの生涯で最も深刻な戦慄を覚えている。苦悶に歪んだ表情の中、薄っすらと開けた片目をさっきまで自分が居た場所に流すと、そこにはより一層青と白の色合いと殺気を濃くした金剛の姿が有る。長い金髪も眉も逆立ち、見開いた碧眼と大きく裂けた口から覗くジグザグな歯並びは人喰い鮫の頭部そのままで、人の姿を模していると言えるのは四肢が有る事だけくらいと断じても過言ではない。むしろ角が生えてない鬼と捉えた方がよっぽど正確だった。
ひ、ひぃううぅぅ・・・!
こ、ここ、怖いぃいい・・・!
腰が抜けるという感覚を生まれて初めて味わった明石は心の中で絶叫。顔はみるみる青褪めて肩も震え、思わず失禁しそうになるのを必死に堪える。敷島や神通の比ではない。怒った金剛はもう手に負えない悪鬼、バケモノでしかなかった。
一方、金剛は明石を殴り飛ばして後、その鋭い眼光で突き刺して一切の抵抗を排除したと見たのか、再び神通へと向きを変えると容赦無くその身体を蹴り上げようとする。見れば神通は傷だらけなのは元より呼吸もか細くなって身動きも殆ど無く、意識が有るのかどうかも疑われる状況。人間の特に下級に当たる乗組員の間で行われる私的制裁でもこんな暴行はまず起きない。男同士の喧嘩であってもこれ以上は躊躇うのが普通であろうに、今の金剛には辞める理由にはならないと言うのか。狂気の沙汰としか言い様の無い一撃に、瞬間的に明石含めて皆が顔を背け、目を覆った。
「・・・!」
一同の言葉に変えれぬ悲鳴が漏れる。
だが、張り詰めた緊張と静寂の果てに耳障りの悪い肉を打つ音は響かない。全員が息を飲んで恐る恐る顔を上げ、定まりも不安定な視線を金剛の下へと送る。すると確かに金剛は見に纏う殺気と狂気じみた顔はそのままだが、その長い脚から繰り出される蹴りを止めていた。
否、神通と彼女との間に割って入った者を瞳に映し、意識的に止められていたと言った方が正しい。
「ふぎっ・・・、ぎ・・・!」
倒れた神通の前で両手を左右に広げ、引けた腰とガクガク震える膝で立った小さな身体。尋常ではない恐怖に指一本で倒れそうな姿で、普段は強い鼻っ柱を脂汗が滴り、特徴的な大きな釣り目も強くつぶっての仁王立ち。明石とその周囲の皆も、そして相対した金剛も、すぐにそれが雪風である事に気付いた。