第一七〇話 「疑問の先」
昭和16年9月18日頃から、明石艦では幹部を含めて相当数の人事異動が有った。
まず同日付けで航海長である松島稔予備大尉が佐伯防備隊付きとして転出となり、新たな航海長にはこれまで運用長を勤めていた竹村操予備大尉が横滑り式に着任。空いた運用長の椅子には楠戸醇一予備大尉が座る事になった。
続いて9月20日。艦運用の為の乗組員のみならず、工作部の工員さん達も含めて明石艦の医務を掌っていた軍医長、佐藤正久軍医少佐が横須賀鎮守府付きとなり、佐世保海軍工廠医務部員から転出してきた西尾博軍医大尉が新たな軍医長に着任。工作部においても広工廠との間で人員入れ替えが有り、中坂禮吉海軍技師に替わって山口三郎海軍技師が乗艦した。
そしてその5日後、これまで長く明石艦の責任者としての任に邁進し、或いは小松島の吹雪に、或いは宮古島での座礁潜水艦にとその統率力を如何無く発揮してきた伊藤義一特務艦長が交代する事になった。
艦長退艦にあたっては総員が右舷の甲板に一列に並び、舷門を降りていくその背を見送るのが帝国海軍の礼式であり、特に舷門すぐ傍の上甲板付近には副長以下、明石艦幹部の面々の顔が並ぶ。その端っこには忠の姿もあり、挙手の敬礼をしたままの彼の前を伊藤特務艦長はゆっくりとした足取りで歩いて行った。既に挨拶や訓示も終えているならこの場において声を交える様子は無く、航海長や副長の前ですら敬礼したまま通り過ぎていくのみ。振り返る素振りをただの一瞬も見せずに舷梯を降りて行った。
素っ気無いと見えるのは確かであるが、これは決して伊藤特務艦長の退艦における無感情ぶりを示す物では無い。彼は既に明石艦特務艦長としての全ての職務を終え、海軍軍人として部下達に伝える事は全て伝えた。やり残した事は無い。横須賀海軍工廠航海実験部という部署が異動先である事も既に通達されており、明石艦を去り行く中にあってもはや彼にやる事は何一つ無かっただけなのである。敢えて有るとするならば、辞令という命が下った以上は一刻の停滞も無くすぐさま実行に移すという、海軍軍人としての姿勢を口ではなく、背中を通して後輩達に見せてあげる事であろうか。
何も言わずに明石艦を後にしていくという静かで単調な在り方だからこそ、副長以下全ての乗組員も、忠も、そして文字通り人知れず忠の横にて敬礼を送っていた明石も、無言のままに感謝と教授を噛み締める感覚を一様に覚えるのであった。
そこには寂寥感は無い。これによって明石艦が特務艦長を失った訳ではないのだから尚更で、既に後任に当たる福沢常吉大佐は明石艦に到着していた。
『ああー、どうも。新しく特務艦長やります、福沢です。みんな、よろしくお願いします。』
第四代明石艦特務艦長となる福沢大佐は部下相手でも丁寧な話し方に徹する物腰の柔らかな人で、良い意味で武人らしからぬ穏やかな言動を持つお方だった。海兵四一期なので前任の伊藤大佐より海軍軍人としては一年先輩に当たるのだが、人物としての穏やかさが際立つ故か初老という特徴を同じくしながらもなんだか彼の方が若く見える。しかしながらその経歴上では潜水艦勤務をずいぶん長く過ごして来たらしく、潜水艦長を勤めた艦も両手で数えきれないくらいの数まで上るそうで、雪降る北陸の出身というのも手伝ってかどこか我慢強く芯の通った所を相対した人に感じさせる。また前職は艦政本部造兵監督官兼造船監督官という事で工事工作には慣れもある上、潜水艦の艤装委員を何度も経験しているのも併せて、工作艦たる明石艦の艦長さんとしては実に適任そう。
工作部を率いる工作部長の田原機関大佐も意思疎通に困る事が無さそうだと着任早々に展望を明るくし、工作部を案内しながら早速福沢特務艦長と親睦を深める次第であった。
さてこうして人間達の間での新たな出会いが艦内に見られるなら、艦の外、しかもまた艦の命達の間でも同様の機会を得ていた。
日付は9月26日。呉軍港には大和艦に負けず劣らずの巨艦が姿を現した。
『お、来た来た。』
『ひょえー。でっかい空母だな、これまた。』
『さあ、鳳翔さん呼んでこよか。』
ブイに繋がれたとある巡洋艦の甲板から3人の艦魂がそんな声を上げる。その眼前には微速で港内に進み入る一隻の空母の姿が有った。
全長は大和艦にも匹敵するほどの長さを持つ極めて大きな艦ながら、同じく大型な空母である赤城艦、加賀艦と比べると喫水線より上の高さはそれ程でもなく、真横から見ると扁平な感じがより一層色濃い形をしている。ちょうど蒼龍艦を一回り大きく拡大したような艦影であった。
さもありなん。本艦は鳳翔艦建造以来、その運用と設計に試行錯誤を繰り返してきた帝国海軍の航空母艦として、ほぼ完成の域に達したと評される艦型の二番艦なのである。大型空母と限定すれば赤城艦、加賀艦以来になる次世代空母とも言え、大和艦と同等の最新鋭軍艦という出自には非常に多くの期待が込められていた。
言うまでも無く、艦の命達にあってもそれは一緒である。
新たな仲間にして期待の新人さん。特に最近の各国海軍では注力されている艦種である航空母艦を分身とする点も興味を引き、本艦の入港と同時に多くの先輩達から彼女は視線を集める事になった。勿論、そこから先はどんな社会でも新人さんには付き物の挨拶回りが始まり、入港から2時間もした頃には巡り巡って自室で看護術のお勉強に勤しんでいた明石の下へもやってきた。
『は、初めまして。この度、一航艦五航戦に正式に配属となりました、瑞鶴といいます。よろしくお願いします、軍医少尉。』
『あ〜、あのおっきな空母の。はい、どもども。軍医少尉の明石ですぅ。』
机に向かっていた明石の横では、10代半ばくらいの顔立ちの少女が深々とお辞儀をしていた。背丈は明石より少し小さいくらいで士官の軍装こそ身に着けているが、袖口や腰回りは服側に過度な余裕があってブカブカも良い所で、入室直後に脱いだ軍帽もやや上向きで被らないと眼庇が鼻にまで降りてきそうな勢い。完全に服に着られている状態である。両耳の後ろ辺りで結って垂らす髪も肩に届くくらいの短さしか無く、顔立ちと共に幼さを色濃く反映した容姿を持っている。
彼女が本日呉へとその姿を現した新鋭空母の命、瑞鶴であった。
対する明石は座ったままでは失礼だと椅子から立ち上がって軽く頭を下げ、新たな後輩艦魂を笑みと持ち前の明るい人当たりで迎えてやった。片や空母の艦魂、片や工作艦の艦魂ではお仕事上でも会話の上でも接点はちょっと薄いかもしれないが、瑞鶴は明石と同じくその分身を呉鎮籍とされているので、言わば同じお家に住む同居人同士の仲みたいな物である。陽炎型の駆逐艦に始まり、大和やこの瑞鶴など、随分と自分よりも若い仲間が最近増えたなとしみじみ思う明石だったが、それは艦魂社会の立ち位置としても自分が中堅層にいよいよ差し掛かって来たんだなという実感にも繋がった。
故に明石は喜びに沸く胸の内を少し抑え、思考の基を感情ではなくお仕事の方にあえて置いた。決して見栄を張るとか良い所を見せて印象を良くしようとかではなく、先輩の海軍艦艇の命として振る舞う事の重要性を、瑞鶴の幼さを目の当たりにして強く意識したからだ。
『まだまだだけど、これでも一応、私は軍医さんだよ。身体の不調とかそういうの有ったら、いつでも来て良いからね。あ、そう言えば、いま呉に来たばかりなんだよね? どうせだから、いま軽い健康診断とかしておく? 呉鎮籍のみんなの診断も私の仕事だし。』
『あ、はい。それは助かります。実は一番に挨拶に行った伊勢さんからも、そう言われてました。』
『お、そうだったんだ。私明日には出港しちゃうところだったから、じゃあちょうどよかったねえ。』
いつまでも新米艦魂ではいられないという考えは以前から抱いていたのだが、いよいよ艦齢面における周りの環境としてもそうなってきた明石。診断の合間にお話もして、呉に来たばっかりな上に並み居る先輩方への挨拶が続いて緊張しっぱなしだった瑞鶴の心をやわらげたりもしながら、怠れない己の役割を噛み締めてのお仕事に励むのだった。
そして翌日。明石艦は久方ぶりにその錨を海中から引き揚げ、併せて艦種旗を降ろす。
聞く所によれば10月1日から佐伯湾や有明湾等の作業地に連合艦隊の大部が集結して一大訓練を実施する予定となっており、第一、及び第二艦隊は元より、かの瑞鶴も合流する事になる第一航空艦隊までもが九州方面に展開。帝国海軍外戦部隊のほぼ全力をもっての猛訓練に励むのだと言う。当然ながら艦艇の進出は相当数に上り、それにともなってちょっとした修理や作業地内での整備補修の必要性が出てくる訳で、明石艦はこれに帯同して工作艦としての能力をフルに発揮してやる訳だ。
およそ一か月程にも及んだ呉での一時もこうして終わりを迎え、整備を完了した明石艦は意気揚々と呉軍港を艦尾に小さくしていく。目指す最初の作業地は安芸灘を抜けて周防灘に至るも、呉からはお隣の感覚にも等しい海域。防風林として背を伸ばした松林と砂浜が一面に広がるという自然あふれる景観を持ちつつ、その端っこには海軍の兵器類の増産で多忙を極める光海軍工廠も望めるという、ちょっと風変わりな室積沖へとその軍艦旗を進めたのだった。
もっとも、艦隊集結とは言え各軍港における艦艇整備の為の工事進捗は呉と大差なく、未だ母港で工事を受けている艦艇が結構な数に上る事が、意外なくらいに閑散とした室積沖の光景に現れていた。どうやら第一、及び第二の両艦隊が集まっているようだが、妙高艦を始めとする第五戦隊、明石とは同期の間柄で親しい利根のいる第八戦隊が居なければ、戦艦に至っては一戦隊の陸奥艦のみ。
おかげで挨拶回りは楽であったが、猛訓練と聞いていたのでそれに反比例するかの如き艦隊の姿の侘しさにちょっと驚く明石。まあそれでも工作艦たる自分が作業地進出になったという事は、軍港から離れた位置で相当数の艦艇が活動する予定がある事の証左と言えなくもないし、この辺りには室積沖だけじゃなくて別府湾や佐伯湾、有明湾に宿毛湾等、海軍の作業地は実に多くある。他の艦はそのいずれかに既に進出して錨を下ろしている可能性も十分に考えられるので、さして気にする理由も余り無かった。
なので彼女は早々に仲間達への一通りの挨拶を終えると、その最後としてここしばらくはこの室積沖にて待機していた師匠の分身、朝日艦を訪ねる事にした。
『朝日さん、ご苦労様です!』
『ああ、明石。ご苦労様。貴方がここに来たって事は、もう呉の方ではだいぶ整備補修の工事も終わったって事かしら。』
『う〜ん、どうなんでしょうか。まだ工事未成の艦も残ってたとは思うんですけどぉ。』
『そう・・・。まあ、いいわ。さあ、座りなさいな。』
お世辞にも新品ピカピカとは言えない木の扉を開けた所に、久しぶりに明石は師を目にした。特徴的な琥珀色と円曲線の効いた癖の強い髪が額や首を覆い、長いまつ毛と流麗なラインで構成される奥まった目には透き通る空の如き蒼い瞳。口元には片側の小さなホクロに次いで薄っすらと浮かぶ小じわ。40代半ばの西洋人女性の顔立ちは落ち着きと慈しみ、なによりも美しさが際立って、面と向かうと明石と言えども常々息を飲んでしまう。親しみに背を押されて既に会話こそ始めているが、品が良くて何か人物像に荘厳さを意識してしまえる所は大和とよく似ている。否、それは逆で大和がこの朝日に似ていると言うべきだ。
その上滅多に怒る事も無くて優しさに満ち、愛弟子がやって来るや早速椅子と紅茶を勧めてくれる気遣いには頭も下がる思いである。そのご厚意を無下にはすまいとして明石は応じ、小さな卓を挟んで師と向き合う格好で着座。自慢の紅茶が注がれたティーカップを両手で挟んで温もりを得つつ、お互いの近況報告をし始めた。
『そう、大和のお勉強が順調なのは良い事ね。本当なら長門が直接教えれれば大和も喜ぶんだけど、ふふ、浅間も八雲もあれで張り切ってるのよ。それにしても、天体望遠鏡をねえ。やっぱりあの子、士官とか指揮官とかじゃなくて、学者肌だったみたいね。』
『あは、ですよね。ん〜、でも悪い事じゃないですよね?』
『ふふ、もちろん。むしろ上の立場に立つ者としてなら、教養豊かな方が大事だと私は思うわ。』
独特な朝日の弦楽器を思わせる音色の声を耳にすると、明石はなんでも質問したくなってくる。難しい知識であっても素朴な疑問であっても別なく声に変えれるのは、朝日の心優しい師匠像に頼る所が大きい。柔らかな微笑を崩さず声色も常に穏やかで、その上40余年も艦魂さんをやってるのだから明石の質問に知らないとか解らないなんて言葉を返してくる筈もない。やや過分なくらいに手振りを交えて話す朝日に、安心感にも似た気持ちを抱いて癒しを得ていく。両親どころか姉妹すらいない明石が甘えるのも無理も無かった。
よって笑い声も静かに響くゆったりとした時間をしばし過ごしたこの二人だが、粗方近況を話し終えた頃に朝日は一瞬の内に眼差しを変えた。決して目を鋭くした訳でもないし、眉をしかめてみせた訳でもない。弓なりな形はそのままに瞳の青が鈍く輝いたというか、目を合わせるとどこか明石の眼球もろとも脳髄を射貫く様な、形容しがたい独特の視線を放ち始めたのだ。
『・・・・・・。』
明石もその視線にはすぐに感づいた。
朝日とは同格の長老格である富士、実の姉の敷島にも垣間見たこの視線は、長門や金剛といったお偉方、先輩方でも持ち得ていない。強面で知られる神通にすらも備わっていない物で、朝日らが後輩達とは一線を画す絶対的な経験の差を持っている所から来るものである。それは実際に戦の場に己の舳先を進み入れていたか否か、もっと言えばその手で敵を殺したことが有るか否かに他ならない。一時たりとて微笑と柔らかな物腰を崩さず、誰からも好かれる人柄を持つ朝日だが、かの日露戦役で命の奪い合いをその手で行ったのは、周知にしてまごう事なき事実。そこに繰り広げられた戦の光景がいかに極まった修羅場であったかを、その射貫く様な視線が声無く物語っていた。
ここからは真面目なお話になるんだなと明石が唇を強く結んだのも自然な事で、腰を少し浮かせて着座の姿勢を整えてから、紅茶を溜飲する朝日の様子を注意深くみつめた。
やがてゆっくりとした動作でカップを卓上に置き、緊張の面持ちの教え子に顔を向けた朝日は、頬の横辺りで癖の強い自分の髪を撫でながら声を放った。
『明石。最近の国際状況、新聞とかで読んだりしてる?』
『こ、国際状況、ですかぁ・・・? あ、あのー、アメリカと日本がちょっとモメてるってくらい、は・・・。』
『そう。そういう揉め事が大きくなって戦になる。おそらくは、今月から年末にかけての間。年明けまではたぶん無いでしょう。新年は戦地で迎える事になるかもしれないわ。』
『ええ・・・!?』
突如として朝日は戦争が現実味を帯びており、しかもまたその差し迫りぶりはもう2、3ヵ月の所まで来ているのだと言う。普段の心優しい師匠からこんな言葉を聞くとは夢にも思っていなかった明石なので大いに面食らった格好となるが、本物の戦争を経験した朝日なればこそ、その言を疑う気にはならなかった。残りわずかかもしれないという時期の話も、当てずっぽうなんかではない。日露戦役の4年も前から戦艦としてこの帝国海軍に在籍していた彼女は、30数年前に如何にして戦争が迫り、それに伴ってどのように海軍が備えてきたのかをその碧眼で見てきた。
嘘でも冗談でも誇張でもない。明石が日頃士官室とかに置かれてる新聞を読んだりして得た情報はもちろん、以前に敷島より聞いた戦のお話も容易く朝日の言葉に結び付いた。
ただ、明石は正直なところでは実感が湧かなかった。疑いを抱いたのではない。なるほど、経験者の目から見れば実に符合する箇所もたくさんあるのであろう。士官室でたまに読んでる各種新聞の内容も総合すれば戦争は決して霞んだ将来ではないのかもしれない。
では戦争なる物は始まると何がどうなるのか。
それが明石には全くもって見当もつかないのだ。もちろん近しい命が失われる事態は絶対に嫌ではあるも、それは別に戦争なんかに限らず不慮の事故とか病気が原因であっても変わる事は無い。極言すれば帝国海軍艦艇の仲間達が日々の猛訓練で培ってきた実力でもって、敵国の海軍艦艇と命の奪い合いをするのだろうとは思いつつ、実のところそれ以上も以下も明石の頭の中には何にも浮かんでこない始末であった。
おかげで明石は反応に困った様な、小難しい事を考え込む様なパッとしない顔になってしまう。だがそれを朝日は決して見咎める事は無かった。今の明石と同じくらいの年頃だった頃の彼女もまた、同様な思考と感覚を得ていたからだ。
『・・・そうよね。私もそうだったわ。』
『え、え・・・?』
『本当に戦争なんて事が始まるのかしら? 国同士の諍いやいがみ合いなんてさほど珍しくない。気運が盛り上がってこそいるけど、どうせまたこれまでみたいに外交交渉で落し所を見つけて、終わりになるんじゃないかしら? またそういうのにかこつけて猛訓練なんてオチじゃないかしら? ・・・ふふ。みんなの手前だから口にこそ出さなかったけど、あの頃の私はどこかでそう思ってたわ・・・。』
やや眉の端を下げて困った様に苦笑を浮かべた朝日。一瞬だけ明石の反応を可笑しそうに捉えるが、すぐに僅かに宙に手をかざして動揺を抑えるよう促す。小さくて静かな動作であるが落ち着けとの意思表示は声に出さずとも明石には解り、それと同時に無意識の内に椅子から浮き上がっていた自分の腰に気付いて再び戻した。
『あ、あのー、なんかあんましピンと来ないって言うか・・・。突然だったので。』
恐る恐るといった感じの声でそう述べた明石の言を、朝日はゆっくりとカップを口に運びながら耳に入れた。落ち着きとはこういう物だと言わんばかりの緩慢な飲み方で、まるで朝日の周りだけ時の流れが遅くなっているかの様だ。
『国家に関わる一大事と言えど、そういう物なのよ。大本営とか政府とかの中ではそうではないのでしょうけど、末端の立場にとってはいつも通りだった変わらない日常が、ある日突然に遮られる。私達船の命ではどうにもできないし、人間達も誰か一人の手ではどうにもできない。気付いた時にはもう誰にも止められなくなってるの。』
やがてカップを卓上に戻した朝日は大きくゆっくりと溜息を吐いた。独特の眼差しだけはそのままにもの悲しさと寂寥感を顔に滲ませたのは、逃れられぬ物にして戦慄極まる戦の在り方を記憶より蘇らせているからに他ならない。すぐ下の実の妹である初瀬を失った過去もそこに有るのだから尚更であった。
そんな師の表情に明石もいかに状況が切迫しているかを垣間見るのだが、では戦に対して自分は何をどうすればよいのかは明確には解らないままである。おまけに変に朝日に同情しては失礼に思えるし、姉妹がいない自分が言ったって言葉に説得力が無いのは考えるまでも無いので、またしても彼女は師匠に対して返答に窮してしまった。
ただ、朝日は眼前の明石が困っているのをすぐに察し、俯いていた顔を上げると口元だけ緩くした小さな笑みを作ってみせた。師として明石と接する中でこれまで常に示してきた道を、今日は示せずにすまないとでも言いたげに。元よりそれを責めるなんて考えはなかった明石は恐れ多くてついつい頭を下げ、その以心伝心ぶりを愛でながら朝日は言った。
『何に備えろとは言えない物ね。結局は普段からの心構えや鍛錬の上にしか誰しも立ってはいないのだから。そういう意味では、敷島姉さんの考え方は間違ってなかったのかもしれないわね。今更だけどなんだかそう思ったわ。』
『あの、なんて言うか、本質と覚悟・・・、みたいなモノですよね? 前に佐世保行った時、私も言われたような・・・。』
『ふふ。ええ、たぶんね。明石、具体的な事を上手く私は言えないんだけど、戦争というのはとにかく、何に対しても容赦や酌量なんて物は無い。自分自身や周りの人々、さっきまで見てたそういう物が瞬時にして亡失するし、それが日常茶飯事になっていくわ。日本がどうなるとか海軍はどう動くかなんて事はいいから、周りや自分が欠けて行くってどういう事か、改めて見つめ直してみてちょうだい。』
『う。は、はいぃ・・・。』
優しく語り掛ける口調が明石の動揺を撫でつけ、不安や迷いを段々と心から引かせていく。それでも己の心を見つ直せという師の言葉はちょっと抽象的過ぎて、何をすれば良いのかやはりピンと来なかった明石。これをお勉強しておけとか、こういう知識を身に着けておけと言われたら楽ではあったのだが、師をしても言葉に変えるのが難しかったのは見ていても解ったのでそれ以上教えを請おうとはしなかった。
とりあえずは戦争が差し迫っている事を明確に意識できた事で良しとし、淹れなおした紅茶の一杯を楽しみながら朝日との会話を10分程も続けた後、朝日への挨拶を終わりとして自身の分身へと彼女は帰るのだった。
言うまでも無い事だが、当の師匠が今のお話を他の誰でもない明石の先代から教わった事なぞ知る由も無かった。
さて、そんな訳で自身の分身である明石艦の甲板へと戻ってきた明石であるが、師の言葉に釈然としないと言うか要領を得ないと言うか、いまいち考えがまとまらない状態なのは相変わらずである。親しい誰かが欠ける事をと言われても、漠然と嫌だとは思うが正直言ってそれ以上でもそれ以下でもない。まさか嫌だ嫌だと念仏の様に唱えればそれが回避できる訳も無し、どう心構えや意識に繋がるのかもよく解っていない。
艦橋を真横に控えた辺りの上甲板を歩きつつ、人差し指を顎に添えた顔を思わずカクンと傾ける。後頭部で一本にまとめられた彼女の髪が潮風に揺られ、巡るその思考の不定形ぶりを示していた。
『う〜ん・・・。どういう事、なのかなぁ?』
ぼそりと呟いて遅い足取りで進む明石。
その眼前を今日もテキパキと各種作業に汗を流す乗組員さん達が横切って行く。その時、ふと彼女は大事なお仕事に精を出す最中にあって彼ら一人一人はどう考えてるんだろうと思った。もっと違う考え方とか意識を持ってるかもしれないし、日頃艦内で行われる訓示や講話で耳にするような、勇壮というか武人らしいというか、そういう捉え方をしているのかもしれない。いずれにせよ、未熟な自分一人の思考を煮詰めた所で埒が明かないと考え、そんな700余名を数える明石艦乗組員の皆様にあって、唯一自分の声に耳を貸すことができる人物に話してみようとの結論に至る。
もちろんそれは相方の忠の事で、乗組員達が夕食を終える頃になると、明石は一人彼の部屋へと勝手に入って本を読んだりしながら待機。と言っても勝手知ったる仲なので遠慮もすっかり無くなってる彼女は上着を脱いで椅子に掛け、靴も脱いで時折足の裏を掻いたりもしながら、折り目も正しくシーツが直されたベッドに部屋の主より先に寝転がるなど、やりたい放題でふんぞり返る始末。これで帰ってくる相方がお菓子を忘れでもしようものなら叱責も問わずの勢いで物を言うのだから、わがままも極まれりと言った所だ。
なんともふてえ奴である。その内に部屋の主が帰って来ても、労いの一言よりも先んじて出たのは要求の一声だ。
『あ、森さん! お菓子ちょーだい!』
『おお、明石。お疲れ様。はいこれ。』
こんな明石にもう忠もすっかり驚かなくなった。覇気のない優男な顔立ちを微塵も変えずに菓子の入った紙袋を渡し、すぐさまキャンディを鷲掴みにして口に運ぶ明石を横に軍帽と上着を脱いでハンガーにかける。
こうまで食い意地旺盛な女性は彼にしても初めてであるが、まあ知り合った頃から変わらない彼女の特徴であるので今更とやかく言う気はない。西洋ではお菓子をくれないと悪戯するぞとの脅し文句を使い、家々から子供達がお菓子を貰って回るお祭りがあるそうだが、それと似たような物だ。逆にお菓子さえあげてれば実害もないのだから、扱いとしては楽なのかもしれない。そう考えればとりたてて明石に苦言を呈する気も起きないし、脱いだ靴を揃えて寄せとかないのも、軍装の上衣を畳みもせず無造作に椅子の背もたれに掛けてるのも特段気にもしなくなった。
よってこれまたいつも通り、崩した感じの楽な姿勢で椅子に腰かけた忠と、勝手にベッドにふんぞり返って菓子まで食らい始める明石という形になって、とくに主題も定めない会話を二人は始めた。お互い素朴な疑問を投げ合う時も有れば、日常口に出さない様にしている愚痴の類も出る事も有るし、今日こんな事があったといった他愛無い話で笑い合う場面もある。気を遣わずざっくばらんに話をできる相手同士、歯に衣着せぬ物言いも触媒を介さない本音もいくらでもそこには出てきた。
だからこそ、明石が日中に師より言われた事をその場で思い出し、忠にありのまま話したのも至極当然の成り行きだった。
もっとも、忠をしてもその答えは明石とあんまり変わらなかった。
『ふ〜ん、難しい事言うんだね。オレも正直、なんかピンとこないなあ。』
のんびりと煙草の煙を舞い上がらせながら、特に悩んだ素振りも見せずに彼は言った。決して明石のお話を真剣に耳に入れてない訳ではなく、経験上からも知識の上からも考える余地が無かったからだ。具体的に何をどうすれば良いのか解らない訳で、思考におけるとっかかりの口さえ見つけれない。
殆ど明石と一緒であったので、彼女は相方の応じ方を見てとってもとりたてて驚きもせず、バリバリとせんべいを食む勢いにも停滞を生じさせなかった。まあそんな物かなと捉えるだけで深堀りしようの無いお話に留まってしまったが、この時、何の脈絡も無く明石はふと物凄く素朴な疑問が浮かんできたので忠に尋ねた。
『・・・森さん、なんで海軍に入ったの?』
『え?』
『だって軍隊だよ? 戦死とかで死んじゃうの、関係ないとか思ってた訳じゃないんでしょ? なんで海軍士官になったの?』
突拍子も無くてちょっと恥ずかしい感じも覚える質問に忠は動揺するが、明石はこれでも至って大真面目に質問したようだ。せんべいに代わって今度は包み紙を剥いだキャラメルを5、6個も片手に掴み、一気に口に放り込んで左右の頬を交互に膨らませながら味わっている。リスとかの齧歯類も彷彿とさせる食べ方は無垢な明石の性格、いや、無垢な食い意地を良く現している物だが、それでも回答を待って忠を見つめる彼女の瞳は爛々と輝き、先刻の質問がおふざけの末に出た訳ではない事を忠に伝えた。
なので彼はちょっと困ったように苦笑しつつ、素直に青森の田舎から江田島へと渡った当時の己の心境を明石に話す事にする。別に隠さなきゃならない事も無ければ、言うのも恥ずかしい何がしかの高尚な理念を一人燃やしてた訳でもない。むしろ極めて単純かつ短い言葉で説明できる物だった。
『・・・かっこ良かったから。田舎暮らし嫌だったし。』
『えー、それだけぇ?』
あまりにも簡単な言葉で答えられ、思わず明石は思考を過った言葉をそのまま吐露。意外性も少し、驚きも少し、ついでに呆れも少し滲んだ彼女の声に、忠も頭を掻いて笑みを歪めた。ただ職業として選んだ分には忠なりの考えも少しは有ったし、なりたくたってなれない人の方が多い海軍士官になるべく相当の努力だって彼はしている。決して憧れだけや逃避の形だけで志した訳ではなかった。
『いやあ、身を立てる上でも生活の心配はなかったんだよ。生徒の身分でも給金出るし。それに一生官吏だから、年とっても不自由しないかと思ったんだ。船乗ってあっちこっち行ってみたいのもあったし。まあ、軍隊だから厳しいってのは覚悟の上だったけど。』
『でも、いつか戦死するかもって思わなかったの?』
『ん〜。正直、そこまで考えては無かったかなぁ。』
頼りない優男の顔立ちの忠に似合う、なんだか柔らかい感じの志望動機に明石はちょっとだけ笑い、次いで師匠のお話に接して得た疑問を口に出してみたのだが、明瞭な答えはやはり返ってこない。そういう面では自分と変わらない立場なんだなと思いながら、今度は死ぬとか生きるとかの哲学じみた物とはちょっと違うお話を明石は振ってみた。
戦争が差し迫っているという今般の状況の事だ。やっとこ艦魂社会の軍医さんとして役目をこなせつつある明石でも気付けている、我らが日本と太洋を挟んで対峙する米国や英国との関係。もちろんながら忠もご存知の様であるが、認識にはそう大きな違いは無い様であった。
『そうだねえ。士官室とか士官次室で聞く話とか、あと新聞とかも読んでるといよいよかなってのは有るなぁ。じゃあどうなるのって言われると、うーんって感じだけど。』
『それって森さんだけ? 上司の砲術長とか士官次室の人達とかはなんて言ってるの?』
とにかく他の人の意見を聞いてみたい明石。あんまり自分と変わらない相方だけに留まらず、他の乗組員の声はどんな風なのかと忠に問う。残念ながら彼女の声を聞けるのは乗組員中彼だけだが、日常でも明石と話す以上に彼は乗組員の誰かとお話している。同じ官軍軍人、同じ職場、同じ人間達の間とは言え、工員さんも合わせると700余名を数える人員の中なれば、また違った考え方も聞けてる事だろうと思った訳だ。
すると忠は別に小さな寝室の中でドアも閉めてる状態だというのに、視線を左右に振って辺りを気にする様な素振りを見せる。困った様な表情も滲んで明石は多少訝しむが、やがて彼は椅子から身を乗り出してベッドの上の明石に顔を近づけると、明らかにさっきまでよりも音量を抑えた声で耳打ちをするように言った。
『ここだけの話・・・。あ、これたぶん、あんまり明石の友達とかにも言わない方がいいぞ。』
『そ、そうなの・・・? うん、それで・・・?』
『次室の近しい奴らだけで話してる中だとさ、アメリカやイギリスを向こうに回してる時点で、正直無理なんじゃないかって声も・・・。』
『無理・・・、って戦争できないって事?』
『戦争したら負けるかもって事さ。できないで済めば良いんだけどね・・・。』
ついつい忠に釣られて明石も小声で応じる中、一部の人間達の間で実しやかに囁かれる悲観的な見方が有るのを彼女は知った。単順に二者択一の答えと見れば、そりゃ勝つ側がいれば負ける側もいる。我らが日本がその負ける方になるのは嫌だとは思うのだが、ここに朝日から言われた言葉を当てはめてみるとちょっと違う考え方が明石には浮かんできた。
『戦争に負けるって、負けるとどうなるの?』
『さ、さあ。どうなるんだろう・・・。』
その分身が本物の戦争に従事した事が無い明石はもとより、20余年も生きてきた忠にあっても実際にそれを体験した事は無い。遠い遠い欧州では忠が子供の頃に大きな戦争があって、当時の日本も一応はその片方の陣営に参加こそしていたが、田んぼの中を鼻を垂らして走り回ってた当時の彼にその戦争はどういった物であったのかを語る知識や見識は皆無である。
大体が明治の建国以来、彼女と彼が祖国と仰ぐ大日本帝国という国家は、日清戦争然り、日露戦争然り、一部の戦線で苦戦はしても対外戦争には負けた事が無い国なのだ。戦争という事業を遂行した挙句、敗戦する側になるという事がどういうことかを、その立場に立って身をもって知った国民なんか誰一人としていない。その枠の中では忠や明石はおろか、明石艦乗組員の皆も含めて変わりはないのだった。
おかげでまたしても明石の疑問には明確な答えが見つからなくなり、なんとも今日は困った事になってしまう。そう大して難しい言葉を用いてない筈なのに、師の与えた言葉はそれだけ難しいだったのかなと今更ながらに明石は考えた。と同時に、それに近づく為に他の者に求めた一部に過ぎない意見を、なぜに忠は仲間内では控える様にさっき言ったのか、気になって再び彼に尋ねてみる。
すると彼は明石にとって非常に納得の行く例題を上げて、その真意を教えてくれた。
『例えばさ、神通と霞や霰達とか。神通もあういう奴だから、物凄く厳しく二水戦の皆を鍛えてるだろ? 勝つ為、やりたい事を成功させる為に一生懸命にさ。』
『うん、いつもの事じゃん。前からそうだよ?』
『そう、毎日毎日そうやってずーっと必死になって取り組んできたのに、実施がいざ目前に迫って結果としては負けるかも、無意味になるかもって言ったら、明石、神通はどうなると思う?』
『そりゃもう、カンカンに怒るよ。今までの努力なんだったんだー、このバカがーって。・・・あ、そう言う事かぁ。』
『そ。オレ等の方も同じだよ。下士官も兵もあんなに訓練積んで怒られたりもして頑張ってきたのに、実は負けると思うからそれ無駄だったね、なんて言えないだろ。士気が落ちる所の話じゃないよ。逆に下から艦長や砲術長に言える訳もないし。』
忠の言を受け、さすがにお菓子を口に運ぶ仕草も止めた明石は何度も頷く。色々と他人の意見を聞いてみたい気持ちは有るも、なるほどこれは下手な事は言えないと認識を改めた。
決して話題に上がった神通のみがその対象ではない。第二艦隊の仲間を見ても皆それぞれが己の役目に励み、戦に備えた訓練や勉強に日頃から一生懸命に当たっている。幸か不幸か海軍艦艇の命として生まれては、それは彼女たちにとって選びようの無い道で当然なのかもしれないが、それ故に殆ど全ての者達が半ば己の使命だと自負を抱いて頑張っている。一番それが理解しやすい神通でも、ほど遠く思える長門でも、戦闘を主としない特務艦艇の明石でも同じだ。そこに実は無駄なんだと一言投下したら誰だって良い顔はしないし、心理的にも以降は自分の立ち位置に元の通りには向き合えないだろう。先輩格の工作艦として医務看護のお勉強をしてる自分がそう言われたと考えたら、明石にも十分に理解できる事だった。
『ぬ〜・・・。こりゃ時間もかかりそうだなぁ。』
ベッドの上で胡坐を掻き、腕組みして明石はそう呟いた。戦争の事、誰かが欠けるという事を他人に尋ねてみても、そう簡単には解らないであろうという展望にちょっと労を覚え、同時に日中に師が口にした「見つめ直せ」の一句を改めて意識。他の誰でもない自分自身で見つけねばならない事なのかとひとまず心に刻み、これから始まるそう多くない時間の中でなんとか答えを見つけてみようという形で考えをまとめる。
何をどうすれば良いのかは解らない事ばかりで、目標も辿る為の具体的な手段も不明という状況は心許無い。身近に接する者が欠けていくにあたり、嫌だなと思う以外に一体どんな事を見つけれるというのか。それはすぐそこまで迫っているらしい戦争において、何にどう作用するというのか。ちょっと思案しただけでも次から次へと疑問が湧き出す始末であったが、邪という文字が一片も無いと誰もが認めるであろう性根の持ち主、朝日の教示である。きっととても大切な事を弟子である自分に示さんとしているのだと信じ、明日からの探求に意欲を新たにする明石であった。